荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

淨閑寺(投げ込み寺)

2015年10月19日 | 散文
山谷です。

再開発の計画がある中、日雇い労働者達が行く当てが無いのか、屯したり寝転んだりして時を過ごしています。

すぐ近くに「見返り柳」が植わった「吉原大門」の跡地(現在交差点)があります。

信号表示に「吉原大門」の名が残されています。

吉原大門の前面道路を北に向かって進むと、「淨閑寺」に行き当たります。
僅か、7~800mの距離です。

瀞閑寺は別名「投げ込み寺」と呼ばれて来ました。

墓地には「今の世の若き人々われにな問ひそ今の世とまた来る時代の藝術を。・・・」で始まる永井荷風の碑があって、その奥に「筆塚」があります。



その筆塚の奥には、「ひまわり地蔵尊」があります。
優しい顔のお地蔵様です。

「主旨
 山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとり淋しく人生を終わる人が数多くいます。
山谷老友会は、孤独の壁を越えて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なしには、真の生活の安らぎがないことから、ひまわり地蔵尊の建立を思い立ちました。
ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇い労働者のシンボルといえます。
この地蔵尊は、倉田辰彦氏をはじめ、多くの方々のご好意と浄財が寄せられて実現したものです。
昭和57年12月11日建立開眼」(説明板より)

不景気な今日、山谷の労働者の境遇は、昔よりもっと厳しいものかも知れません。
もう一度、お地蔵様の優しいお顔に手を合わせました。

筆塚の前には、背丈より遥かに高い「新吉原総霊塔」があります。
これが「投げ込み寺」の由来です。

故郷を捨てて吉原で死んだ遊女は引き取り手がありません。
遊郭はここ淨閑寺に、その死体を「投げ込んだ」のです。
本当はそんな乱暴なものではなく、「持ち込んだ」のでしょう。
そして、ここで供養する仕組みができていたものと思います。

何度も来ていますが、初めて総霊塔の正面に座って手を合わせました。

ふと、菩薩様の頭の上のスペースに、何か置かれているのが目に入りました。

身震いしました。
おそらく、吉原で亡くなって、ここに「投げ込まれた」人の遺品です。

吉原の風俗店で働く女性の中には、身元が分からない、引き取り手が居ない人がいるのでしょう。
「投げ込み寺」は、今も昔と同じ機能を果たしていました。
総霊塔には、白い骨壺が沢山納められていました。

総霊塔には「生まれては苦界 死しては淨閑寺」の句が刻まれています。




コメント
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