荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

ちょっと涼しい根津神社

2024年09月12日 | 散文

表参道を行きます。

人を見る事が無いのだけど、居るようなんです。商売も続けているようなんです。

ちょっと涼しいです。

いつもキラキラの楼門を撮るのですが、しっとりと落ち着いた風情があります。

舞殿と楼門。

舞台からの楼門。

舞殿脇からの楼門。

舞台からの唐門。

唐門からの楼門。

 

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猛残暑の「羽二重団子」

2024年09月11日 | 散文

白い暖簾が眩しくないと思ったら、曇り空です。でも蒸し暑いです。

団子の由来です。夏目漱石も森鴎外も正岡子規も食べた団子です。

正岡子規の句碑です。「芋坂も団子も月のゆかりかな」

右へ行けば芋坂です。

この先が上野のお山です。戊辰戦争で敗れた彰義隊は芋坂を逃げ、武具を羽二重団子の敷地内に投げ捨てて、王子街道を落ちて行ったそうです。

羽二重団子の前の路は王子街道です。

蒸し暑いです。店頭の幟暖簾が誘います。

 

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深川資料館通り「えこのみせ」

2024年09月11日 | 散文

残暑が照りつけるお昼前です。私が座っている向こう側で撮影が行われています。界隈はよく散歩番組などの撮影が行われてます。

「えこのみせ」です。

元は着物店だったのでしょうが、現在は雑貨屋です。

店の前の歩道も活用して、観光客相手に商品を並べています。「深川資料館通り」は古い店が多く並んでいます。

私は開店を待ちながら、いつも向かい側から眺めていますが、けっこう売れています。

開店待ちで道路を渡って写真を撮っていたら、店が開きました。女将さんが呼んでくれます。

もうすぐ深川資料館通りでは恒例の「かかし祭り」が始まります。もう何点か通りに飾られていますが、各賞が決定してからが楽しいです。

 

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押尾川部屋の風景

2024年09月10日 | 散文

「下町人情キラキラ橘商店街」の外れに相撲部屋が在ります。

九月場所のポスターが貼られています。

清潔な玄関前です。

見上げます。「相撲部屋がある賃貸住宅」です。

壁面に横綱の絵です。

部屋前からの景色です。ゴトゴトと東武亀戸線が走ります。背後にはスカイツリーです。

典型的な下町風景です。

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中村部屋と音羽山部屋

2024年09月10日 | 散文

大相撲九月場所が始まっています。2階の窓から顔を出しているのは中村部屋の若者です。下にはスー女が群がっています。

親方は元関脇嘉風です。関取は十両に友風と嘉陽が居ます。国技館に一番近い部屋です。

ここは元「陸奥部屋」でした。玄関前が変わりました。

<郵便ポスト型の郵便受けが無くなりました。廃業当時の陸奥部屋です。>

ここには元大関霧島が所属していました。モンゴル出身の前関脇霧馬山です。横綱の鶴竜も居ました。彼らは何処へ行ったのでしょうか? やって来たのは花街で有名な向島です。立派なビルが完成していました。

勝手口の名前は前回訪問時のままです。

花街の真ん中で、スカイツリーを見上げる場所です。

色合いもシックで、親方の良いセンスを感じさせます。

「音羽山部屋」の師匠は元横綱鶴竜です。部屋付き親方には、元前大関霧島で前陸奥親方が居ます。唯一の関取に前大関・現関脇霧島が居ます(同名のしこ名を継承したらややこしいです)。その他の力士も丸ごと、元陸奥部屋のメンバーが移籍して来ました。

立派な看板です。看板が無ければ高級マンションの佇まいです。

現関脇霧島には使命があります。ジンクスに曰く、「モンゴル出身大関は全員横綱になる」です。順に、朝青龍、白鵬、鶴竜、照ノ富士です。全員なっています。

これはプレッシャーですね。

 

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今年も白い曼珠沙華咲く

2024年09月08日 | 散文

いつもの場所で今年も咲きました。

例年どおり9月の初めです。赤い曼珠沙華はまだ芽吹いていません。これも例年どおりです。

今日も猛残暑ですが、ちゃんと植物は季節の推移を知っています。

一群の白い曼珠沙華。

清々しい景色です。

 

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大相撲九月場所が始まる。

2024年09月08日 | 散文

相撲部屋に張り出されている九月場所のポスターです。このポスターは通常優勝候補を掲載しますが、照ノ富士が休場を発表しました。じゃあ東西の両大関が中心にならないとカッコ悪いです。

国技館前です。

力士幟は番付順に並べます。照ノ富士の幟がありません。こんな状況ですが、例によって優勝者の予想をします。

東西の大関が当然候補となりますが、ここのところ豊昇龍の調子がイマイチです。豊昇龍は一段落とします。

先ず、大の里を挙げます。優勝して大関昇進を狙っていると思います。国技館前で、ファンに揉みくちゃになっていました。人気もあります。看板力士が欲しい相撲協会です。

この部屋の阿炎が、体調を戻しているんじゃなかろうか?

センスの良い玄関周りです。前親方だった寺尾が遺しました。

王鵬が居る大嶽部屋です。

明日の場所初めの前です。忙しそうです。いつも閉じている玄関が開いています。多くの部屋がそうです。

部屋の至宝である大鵬の孫王鵬が、前頭二枚目まで上がって来ました。昔「俺は男前だから『前頭二枚目』なんだよ」とジョークを飛ばした力士が居ました。王鵬はハンサムでは無いけど、ハンサムだった大鵬に似ています。今場所は新三役のチャンスです。

この名門部屋の御嶽海は二度の優勝経験があります。でも、私にはもう優勝候補では無くなっています。

部屋の佇まいが寂しく見えます。

この部屋も珍しく玄関が開いています。部屋頭の正代も、平幕の中位どころで安定してしまいましたね。

照ノ富士の伊勢ヶ濱部屋です。初日前日の今日、国技館で行事が行われて、力士が集まって賑わっていました。でも、この部屋は稽古していました。よく稽古する部屋との評判です。

熱海富士の背中です。

大きな身体が逞ましいです。大の里に対抗するのは彼しか居ないと思います。

優勝予想の結論は、琴櫻と大の里と熱海富士の三すくみ。それを追うのは、大榮翔と平戸海と阿炎だと思います。

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九月場所前日の国技館前

2024年09月07日 | 散文

幟が勢揃いしました。

明日から九月場所とは言え、猛残暑の東京です。

チケット売り切れの切符売り場にスケジュールが出ています。

ファンが小走りで移動しました。

何かあるなと追いかけたら、大の里が揉みくちゃになっていました。人気者です。紋付袴姿なので、国技館で行事があったのだと思います。

もと大関琴風だと思います。大の里騒ぎを見ていました。

力士がファンとカメラに収まっています。

浅黒くて彫りの深い顔は一眼で外国人です。インバウンドの人達にも人気です。

国技館のすぐ近くの名門春日野部屋です。場所前日で、国技館で行事があるなど忙しそうです。玄関が開いています。

栃ノ心が引退したので人気力士が居ません。従ってファンの訪問もありません。栃ノ心は気さくな性格でもあって、ファンの受けが良かったです。

大相撲は国技・格闘技であると共に興行です。興行には人気者が必要ですね。

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昼間営業再開のお知らせがあって、

2024年09月07日 | 散文

行きつけの蕎麦屋から昼間の営業を再開するとのお知らせがありました。女将さん周辺に色々あって、5月の連休明けから夜の営業に限定していたものです。私もほぼ同時期から色々ある身ですが、体調を整えて当然訪問します。電車にしようかと思いましたが、自転車に乗れる状態(日々体調が変ります)でした。

けっこう人気店です。再開を知ってか知らずか、行列が復活しました。この暑さなので、簾の下で並んでいます。

約4ヶ月ぶりのお昼の営業です。我が家から直行で約1時間の距離です。途中に浅草や上野が在ります。散策しながらやって来て、ここでお昼を食べて、谷根千や本郷や下町を散策しながら家に帰る生活を20数年来続けてきました。

20年間毎週通える店に出逢えたことは幸せだと思います。

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「東砂三丁目第二児童遊園」は火除け地?

2024年09月06日 | 散文

残暑の東砂町の路地を散策していました。ここは持ち主が手入れしない空き地だと思いました。草も木も伸び放題です。

いや、管理はしているようです。

なんとなんと、児童遊園(公園とは違う?)です。

水飲み場が有ります。

でも遊具が見当たりません。中央には小高い丘が在ります。

手入れしていないので梅の実が育っています。公の土地の物だから取ってはいけないとは思いますが、、、誰か採っても良いのではないか?もったいないじゃないか。

こちらの実は何だろう?「山法師」の実のようですが、私が知っている山法師より大きい実です。山法師の実はジャムにして食べると聞いています。私は生で食べたことがあります。少し甘みがあります。でも、大きいので違うのかなあ? 手出ししません。

全然手入れしていません。これで「児童遊園」か?

中央の丘に上がってみます。ここまで来るのに伸び切った草を掻き分けかき分け、大変です。白いスニーカーの先が緑に染まりました。

頂上です。ちょっと期待したけど、何にも有りません。不思議と昆虫が居ないのが不気味です。バッタ一匹居ません。

周囲を見回します。やって来た入り口です。

時計は正確に動いていますが、木の枝も伸び放題です。何だろう?どうなっているんだろう?こんなに手入れしていない公園は初めて見ました。 これでは子供は立ち寄らないだろうに、、大人も。

あれっ⁉︎ あそこに公園が在ります。ちゃんと管理されて、遊具も有ります??

路地を抜けたら、また公園が在りました。ちゃんと手入れされた普通の公園です。そうか! 公園を造ったものの、少子化で利用者が減って、管理が大変なのであそこを「廃園」にしたんだ!と考えました。

やって来た「第二児童遊園」の方を見ます。下町らしく家屋が密集しています。再開発で建て替えたんだろうな。建て替わる前は「木密度」が高い住宅密集地だったんだろうな。と思いました。

あっ! ひょっとして、あの第二児童遊園は、「火除け地」ではなかろうか?木造建築物が密集した町で火が出た時に、延焼しないように設けた空き地ではなかろうか?たぶんそうだと思います。そしてこの集落の何処かに「第一児童遊園」が在ると思います。・・・こんな散策でした。

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東砂町に「明治座」が在った!

2024年09月05日 | 散文

東砂町を散策していました。えっ⁈ 「明治座」⁇ あの? 「明治座」のロゴも一緒です。稽古場か?

ちょっと戻ります。間違いありません「明治座」です。営業所なのか? 歌舞伎のチケットを売っているのだろうか?

道路の向かい側は「第二砂町中学校」です。

東側は荒川の土手です。こんな所に歌舞伎?

「明治座」だよねえ?

敷地内を覗きます。軽トラが停まっています。

あの荷台の絵を時々見ます。明治座の幕の内弁当です。ここで作って、中央区の明治座で販売しているんですね。

前面道路を西に行きます。

元八幡交番です。背後に大きな木が有ります。

そこは「富賀岡八幡宮」です。「元八幡」と呼ばれて、由緒正しい神社です。

東京三大祭りの「深川祭り」を催行する「富岡八幡宮」が有名です。あの神社はここから現在地に移転したんです。よって「元八幡」なんです。こんな散策でした。

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太郎兵衛の墓と藤の湯

2024年09月05日 | 散文

不整脈だけでなく、頚椎と腰椎の治療にも通っています。今日は天気が良いので自転車で行きました。その帰りにちょっと散策をしました。東砂町の住宅街です。家と家の間に、フェンスに囲まれた石碑のような物が有りました。

残暑の濃い影が邪魔をして、字が良く見えません。フェンスを開けて石碑の前に立ちました。

「開拓之祖 太郎兵衛之墓」と書いてあります。石碑かと思ったら墓石です。「開拓之祖」と有ります。界隈は「砂村何某」が開拓し「砂村」と呼ばれ、村が大きくなったのでやがて「砂町」となったと聞いています。砂村何某の兄は神奈川県の久里浜を開拓したとも聞いています。砂村一家は、開拓技術を持った幕府の役人かな?と思っています。その他にも界隈を開拓した人が居たんですね。しかも苗字を持たないので農民だったと思います。

裏を覗きます。昭和22年に再建されたものらしいです。そういう由来ですか?

墓石の背後は、左右の民家と同じ奥行きの墓所です。これって、開拓したのは江戸時代でしょうから、左右の民家は、墓の隣に家を建てたという事ですね。

前面路地の東側を見ます。すぐに荒川の土手に行き当たる立地です。

西側は、あのマンションを始め、多くのマンションが建っている地区です。すぐそこに三叉路が在ります。

左には町内会館と消防団の器具置場です。街の中央部です。

 

右側には、銭湯「藤の湯」です。

残暑の木漏れ日に佇んでいます。

隣は豆腐屋です。下町の中心部です。

当然、銭湯に付き物のコインランドリーも併設しています。

振り返ります。あの、木が茂った先が墓です。

さて、「藤の湯」と久しぶりの出逢いです。丁度10年前に「江東28湯」を訪ねて以来です。世間ではずいぶん銭湯が無くなっています。その全ての銭湯を再訪したくなりました。どうなっているのだろう?確かめたいです。

「江東28湯」で巡った「藤の湯」はこちら

 

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真白いキノコ

2024年09月04日 | 散文

寝てばかりではダメだとの罪悪感があって、通院に際して回り道をして帰っていました。そうしたら真白いキノコが生えていました。

こちらにも。

そしてこちらにも。

たぶん初めて見ると思います。綺麗です。毒キノコだろうか?

当然名前を知りません。

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UR住宅団地脇の都電線路跡

2024年08月30日 | 散文

さて、城東高校脇の都電線路跡を南に行ってみます。

路地を跨いで続きます。

藤棚を潜ります。その先はモッコウバラのアーチです。

遊歩道の真ん中に島が在ります。停留場の跡だと思います。

新大橋通りに来ました。線路跡は更にその先に続いています。

その角が工事中です。かつては「ダイエー」でした。集合住宅になるようです。

都電線路跡の緑道公園を行きます。

東京都のマンホールです。通常とはデザインが違います。都電関係だろうか?

線路跡は続きます。

説明板が有ります。緑道公園の清掃は、地元民が行なっているんですね。

停留場跡を行きます。

明治通りに出ました。緑道公園はここで終わりです。

都電は明治通りを左に、各所を巡って日本橋に繋がっていました。

ここはURの大きな団地です。看板の絵は、都電の車輪です。

下町にこんなのが残されています。

さて、お知らせです。

6月の帰省前から体調不良が続いています。頑張って、習慣と惰性と根性で散策を続けてきましたが、先日よりによって通院先で倒れて、諦めの境地に至りました。自転車で倒れたら危険です。しんどいので歩く気にはなりません。

毎日の外出が出来なくなりかつ遠くへ行けなくなって、体調の良い日に近場を散策をして撮り溜めた写真で従来どおり2回/日の投稿を続けてきました。同じような記事が続く、あるいはタイムリー性のずれた記事だとお思いの方も居らっしゃったことと思います。

やがて撮り溜めも乏しくなり、1回/日の投稿を試みたりしましたが、毎日の投稿を継続するのはここいらが限界です。ブログを辞めるつもりは無いので、暫く休む或いは不定期に投稿することとなります。皆様の記事には訪問させて頂きます。

残暑厳しきおり、どうか皆様ご自愛くださいませ。

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竪川専用橋と竪川人道橋の歴史(都電跡)

2024年08月29日 | 散文

下町にこんな説明板が有ります。

読みながら話を進めます。 「かつてこの場所には、路面電車が走るための『竪川専用橋』が水神森〜大島間の開通に合わせ、大正十年一月より架設されていた。 当初の運営は大正二年十月に設立された城東電気軌道(株)で、昭和十七年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和二十四年には区内全域が開通した。」説明板の裏にあるモニュメントです。2系統がここを走っていたようです。

「『チンチン電車』と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和三十年代の高度成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果、昭和四十七年、区内全線が廃止された。」

 「そして、昭和五十年、この橋は歩行者専用橋として改修され『竪川人道橋』と呼ばれるようになり、同五十四年、橋の南北の軌道敷は緑道公園に生まれ変わった。」首都高小松川線の高架下です。

高架下は、埋め立てられた元「竪川」です。

「以来、この橋は平成7年の景観整備工事にて都電をモチーフとして修景され、地域の歴史を伝えるモニュメンタルな橋として地域に親しまれてきたが、老朽化が進んできたこともあり、竪川河川敷公園の大規模改修に合わせ一体整備されることとなり、平成23年には撤去され、現在の姿となっている。」

そこにあるのは、当時の(埋め立てられる前の)竪川を横断する都電の姿です。

「なお、モニュメントのレールの一部は『25系統』の亀戸九丁目で使われていたものを再使用しており、車両は当時の写真等を参考にオブジェとしてデザインされたものである。」

現在都電の線路は緑道公園となって、住民に愛されています。

その隣は、「城東高校」です。都立ながら2回甲子園に出場した野球部があります。地元民が応援している「下町の星」です。

この後、散策が続きます。

 

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