このところ暑い日々になっているが、昨日梅雨明けと言うことになった様だが、最近の天候は昔の様に雨がしとしとと降る感じではなくなり、雨が降る時にはダッーと降るが、収まる時にはいつの間にか収まっている感じになっている。
今日も暑くなったことには変わりはない。
いつもの時と違ってなんか暑いだけという感じになって来た。
というのも梅雨明けというだけでも違ったイメージだからである。
今日も昨日と同様に特に予定はないから自宅にいることに変わりはないが、明日の高大での1学期の〆となるパワーポイントでの発表会の日に向けてレジメを作成していく。
2学期から始まるホームページビルダーを使った授業に向けてしばらく前からコピーをしていたが、全部で70枚あるうちの40枚を明日1学期最終日に渡すことにしているが、レジメに配布資料の内訳などを記していく。
それらをプリントの原紙として印刷し、明日授業が始まる前に事務所で印刷する予定にしている。
他は特に予定はないのでいつもの様にメールとカレンダーをチェックした後、ニュースを見た後、YouTubeを見ることになる。今日はあの中国が今後何をしようとしてるのかを考えてほしいということもあって、こんな記事を見かけたので紹介したい。
「華夷世界観」隠さぬ傲慢中国、尾を振る韓国の事大主義…日清戦争前夜と酷似する日中関係、心においてアジア東方の悪友を謝絶する
2014.7.19
慶應義塾大学の創立者で、時事新報(=産経新聞の前身)を創刊した福沢諭吉。(その銅像は慶応三田キャンパス内にある:東京都港区三田)
「我は心において亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶するものなり」(明治18=1885年3月6日、「時事新報」社説)。
筆者も今はこの心境に近い。韓国のホテルが自衛隊創設記念のレセプションを直前になって拒否、中国は米サンフランシスコで抗日戦争記念館を計画するなど、相も変わらず続く反日ぶりには、すでに「心において」謝絶、と構えて対策を練っていいだろう。
隣国が中韓である不幸
ことに7月初めの、習近平国家主席、朴槿恵大統領を韓国に訪問す、の首脳会談の図を見ていると、「脱亜論」として有名なこの文章が現代の文脈でよみがえってくる。福沢諭吉によるとされるこの「脱亜論」にいわく、「ここに不幸なるは、近隣に国あり、一を支那といい、一を朝鮮という」である。
なにしろ現代において帝国主義的野心を隠さない中国と、それに尾を振る韓国の、笑みを交わし合ってのそろい踏みの図。ことに、起こる以前に哀れをもよおすのは韓国だ。日本に対しては上から下まで罵詈雑言(ばりぞうごん)、中国指導者に対しては媚(こ)びるかのごとく三顧(さんこ)の礼をもってする。国家としての主体性はどこにもない。
この中韓と日本の関係は、1世紀以上も前の日清戦争前夜と似ている。日清開戦から講和、三国干渉と難局に外相として当たった陸奥宗光は、回想記「蹇蹇録(けんけんろく)」に次のように書いた。朝鮮半島は争いや内輪もめの中心であって、事件がしばしば起こるのは、「まったくその独立国たるの責守をまっとうするの要素において欠くるあるによると確信せり」。朝鮮が独立国としての責任を果たそうとしないから、争いが起こるのだと。
戦争になるなどとあおるつもりはない。しかし現在も近いことが起こっているとは、冷静に見ておきたい。米国の抑止力に頼りながら、自由主義とはまるで価値観が異なる中国に媚を売っているのが韓国なのだ。気色の悪い二股ぶりといわずして、なんと言おう。
さすが中国、伝統の謀略「遠交近攻」…哀れむべきは朝鮮の「事大主義」
韓国を取り込む中国
今回、北朝鮮より先に韓国を訪問するという異例の行動に出た習近平は、韓国を完全に取り込みにかかっているといってよい。訪問直前、習金平は韓国の新聞に歯の浮くような美辞麗句を並べた原稿を寄せる念の入れようだった。良い隣人への良い感情を抱いて訪問します、などと。あの表情、あの唇のリップサービスも気色が悪いが、以前書いたようにこれが中国の謀略の伝統なのだ。上っ面は笑って腹の内で権謀術数をめぐらすということだ。
今回、中韓自由貿易協定(FTA)の年内妥結が合意された。経済で中国への依存度を高めさせ、相手国を勢力圏に取り込んでいくのも、中国の古典的なやり方の1つ。米戦略国際問題研究所(CSIS)上級アドバイザーのエドワード・ルトワック氏は、古代中国の「蛮夷(ばんい)操作」の考え方が現代にも残っていることを指摘している。経済的に依存した状態に誘導すること、価値観や行動規範を教化することにより、相手を勢力圏に置いてしまうのである。韓国は既にこの謀略に、からめとられtげいる。
中韓首脳の共同声明では、日本の歴史問題は正面から取り上げられなかった。しかし、付帯文書はしっかりと、慰安婦問題で中韓が共同研究することが盛り込まれている。反日をわめき散らす韓国は、覇権を狙う中国にとって実に使いやすいカードとなる。
21世紀でも「東夷・西戎・北狄・南蛮」支那思考、追随する朝鮮思考の哀れ
哀れむべき朝鮮の事大主義
歴史に詳しい人には言わずもがなだが、中国には中国こそが世界の中心であり周辺は野蛮な夷族(いぞく)であるという、華夷(かい)秩序の世界観がある。日本は古代において、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との国書を中国に送り対等外交の姿勢を示した。華夷秩序の外にあることをはっきり表したといってよい。
これに対し朝鮮は、中国に貢物を捧げる朝貢国として存続してきた。大国に事(つか)える事大主義の伝統が抜きがたくある。日本が近代化に懸命に汗を流している頃も、官僚らは惰眠をむさぼり、経済も軍事力も衰亡していた。その朝鮮を国家として独立させ、西洋の進出に備えようというのが日本の姿勢だった。
「脱亜論」に先立つ明治15(1882)年3月11日、諭吉はやはり「時事日報」の社説「朝鮮の交際を論ず」でこう書いている。
「かの国勢果して未開ならば、これを誘うてこれを導くべし。かの人民果たして頑陋(がんろう)ならば、これにさとしてこれに説くべし」。
明治人は優しすぎた、と言わねばなるまい。
諭吉は朝鮮の開化党を支援し、朝鮮に清国との属国関係を断ち切らせて独立させようとした。しかし朝鮮にはその属国関係を重んじる守旧派も根強くあった。なんと中国に事(つか)える事大党というものがあったのだ。
1884(明治17)年、開化党が起こしたクーデター(甲申事変)は、守旧派が清に援軍を求めて結局、失敗に終わった。卯吉も腹に据えかねたのだろう、「脱亜論」はそういう状況の中で書かれた。朝鮮のフラフラした態度は続き、1894(明治27)年、甲午農民戦争が発生。朝鮮は清に要請し、日清戦争のきっかけとなる。
悪「友」とみなす必要もなし
今後も中韓は、歴史問題をはじめ日本にさまざまな無礼を働いてくるだろう。再び「脱亜論」にいわく。
「(支那と朝鮮は)一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際においては心理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残酷不廉恥を極め、なお傲然(ごうぜん)として自省の念なき者のごとし」
「支那朝鮮に接するの方法は、特別の会釈に及ばず…」
「支那朝鮮に接するの法も、隣国なるがゆえにとて特別の会釈に及ばず…悪友を親しむ者は、共に悪名を免かるべからず」
そして「心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」との結論に至るのである。
もはや悪「友」などと見なす必要もあるまい。不廉恥を極め自省の念なき者は、そのようなものとして処していけばよい。
(大阪正論室長)
ということで、お分かりいただいたであろうか。
さて、このブログは日記なので綴って行きたい。
夕方からは西隣区小学校火曜ダンス教室があるのでバス停に行き、西隣区へと20分程走る。
いつものバスの時刻のひとつ後に来るバスに乗ることにしたが、これも早く来過ぎるとカギ当番の人に迷惑だからと後のバスにのることにしたからである。
今日はレッスンの後に懇親会が行なわれるということで1時間だけレッスンをすることになっているということもあって、最近は行って来た男女の新人の為と言うこともあってジルバだけ行なう。
先月の終わりに見学にやって来た40代半ばの男性は自分でもどんくさいので皆さんに迷惑をかけるかも知れないけどと、言ってた通り本当にどんくさい。
大抵の人ならジルバのレッスンをステップを教えられたら、少なくともその日のうちにはマスターできると思うが、今日で7月になってから4回目であるにも拘らずいまだにおぼつかない足取りである。
そんなことはさておき、しばらくジルバを踊った後、場所を変えて移動したが、殆んどの人が自転車で来ているが、私とK氏は先生の車に乗せて貰うことになった。
懇親会の会場は全国各地にある「さと」である。
最近しばしば利用しているマクドナルドの過ぎ近くにあるので歩いても10分程だが、先生の車に乗せて貰って到着した頃には他のメンバーは既に店の中に入っていた。
店には部屋だけ確保してあったということだが最終参加人数をレッスンの時に確認したということもあって到着してから頼んだということでしばらく料理なしで飲み物だけで乾杯し、回りの人達と会話することになった。
長く待たされるということで各テーブルに枝豆を注文して料理が出来上がるまでの繋ぎとする。
私が座ったテーブルにはいつもの男の先生と時々訪れる女の先生、それに会長とこの会の主といってもいい女性Yさんのそうそうたるメンバーが同席した。
会話は各テーブルで弾んでいるが、他のテーブルには酒豪が集まっているところもある。
1時間以上も経った頃、酒豪たちのテーブルにいた女性(アルコールが飲めない)が私たちのテーブルに来たということもあってその席に行く。
そして盆踊りの話になって今盆踊りのレッスンをやっているので来ないかと言うことになって明日の夕方に参加することになった。
2時間後に解散となって、先生が女の先生を送って行く途中と言うこともあり同乗させて貰うことになって自宅最寄りのバス停で下ろして貰い帰宅する。