日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

子どもは子ども。

2016-07-24 20:17:05 | 日記
 近ごろ、めずらしく、アロマのお仕事を自主的にしています。
といっても、あれこれ、ブレンドオイルを作るために、本で調べたり、
精油の匂いをくんくんと嗅いだりしています。

 私は、アロマについて学んだのがナードと言う協会なので、
その流れでプラナロムというところの精油を使っていますが、
鹿児島でも手軽に買えるので、生活の木というメーカーのものも使っています。

 そして、先日、ラ・フロリーナというメーカーの精油をいただいたところ、
香りがいつものものより好ましく感じました。

 同じ植物の精油でも、採れた年で香りに若干、違いが出ます。
それを考えると、メーカーによって違うのもあり得ることです。

 メーカー変えると、ブレンドする香りも違う、かも。
うーん、楽し、悩まし、です。

 あるとき、母と話していたら、亡くなった父が私について、
「立派に反抗もして、やることは事後承諾。でも、たくさん、楽しませてもらったねぇ。
よか子じゃった、といえるねぇ。」とそんなことを言ったそうです。

 私としては、反抗、したかな?事後承諾?だったっけ?
よか子、そーでしょーそーでしょー、といった感じですが、
へぇ、そんなこと、おとーさん、いったんだ〜と、母と話したことでした。

 親が子どもにこうあって欲しい、と思ったり期待するのは、たぶん、愛情からくる当たり前のことで、
子どもがその期待に応えたい!と思ったり、
知るか、うざいわ!私の人生に口出すな!と思ったりするのも、
どちらも自然のことのように思います。

 ところが、発達凸凹の子どもさんについては、
なんだか、ものすごい天賦の才を発揮することを期待されていたり、
できないことも受け入れる、よくいえばナチュラルな、悪くいうと、親の方向性が全く見えない感じで、
両極端に針が振れていると感じることがしばしばあります。

 私は小さい頃、サイレンが鳴ればワーワー泣き叫ぶし、
知らない場所に行くのは散歩に行くのを拒む犬のようだったし、
知らない子どもと上手に遊べないので、母の後ろにピタッと座っているような子どもでした。

 今みたいに、発達の遅れが…とかなんとか、いわれる時代ではなかったので、
なんだか、色々、繊細に泣いたり、固まったりする子だねーと、
ただ、そんな子として特別扱いもなく、ただ、ただ、そんな子として存在していたと思います。

 発達に凸凹がある、ない、に関わらず、
子どもは、ただ、子どもとして存在できるといいのになぁ、
近ごろ、そういうことを考えることがあります。

 まだ、色々なことができない者としてみられるでもなく、
大人よりも素晴らしい存在だとたたえられるでもなく、
子どもは子どもという存在で存在する。

 子どもは子ども、大人は大人。
そんなの、近ごろでは、流行らんのかもなぁ〜。
 
コメント
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