日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

伝わる言葉。

2015-03-07 20:10:53 | フォイヤーシュタイン
 去年の今頃は、家の者の異動のため不動産屋さん29件も電話をかけ、
「猫が3匹います。」と猫と住める家探しに奔走していました。

 「猫優先のアパートですよ、しかも広いですよ。多頭飼も大丈夫ですよ」という、
すばらしい不動産屋さんと巡り会って喜び、今があります。
アパートは4家族中3家族が猫飼い。
さすが、猫優先のアパートですね。

 何かをわかってもらうために発する言葉。
今日はその難しさを痛感しました。

 フォイヤーシュタインをしに来てくれている子どもと勉強中のできごとです。

 おはじきや大小のビー玉、おもちゃのミニチュアカップ、ガラスのタイルを
お互いに同じ数だけ持っているか、出し合って確認していました。

 私  「おはじき。はい、1個」と出す。
 子ども1個出す。
ここは問題なく、クリアー。
 
 私  「カップ。はい同じもの出して。」とカップを出す。
 子ども「ない。」
 私  「あるよ。」
 子ども「ないよ。」

 この時点で、子どもはカップの色に注目していたように思いました。
私の出したカップは黄色、子どもの手元のカップはオレンジ色でした。

 私 「色は関係ないよ。形が同じかを見て。」

 すると、今度はカップに大きなビー玉を乗せたものを出してきました。

 私   「違うよ。
 子ども 「ないよ。わかんないよ。」
 私   「よく見て、カップだよ。」
 
 カップに大きなビー玉を乗せたまま、どうしたらいいのか、
子どもの顔は困ったような、途方に暮れたような感じでした。

 私の「違うよ。」の意味は、
カップだけだよ、大きいビー玉は余計だよ、という意味でしたが、
子どもにとっては、大きなビー玉もカップも全部ひっくるめて「違うよ」と言われたと思ったのですね。

 その後、「大きなビー玉をカップから出して、カップだけにして」と言い、
カップだけを出させることができました。

 この「違うよ」のすれ違いは子どもにとっては、
必要以上に自分はできないと思わせることになるし、
教える側は、適切な指摘ができていないということになります。

 教える側は、自分の言葉が意図した通りに相手に伝わっているかを、
常に確認し、細心の注意を払わなくてはいけないのだな、ということを思い知らされた
今日のフォイヤーシュタインでした。

  
コメント
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