心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに №989

2013-11-30 20:07:15 | Weblog
古代エジプトのトートの教え
拝火教の教えはシャンバラから来た大師匠が、ツァラトゥストラの肉体を借りて人々に教えを説いた(№984)といいます。
またエメラルド・タブレットを書いたというトート(№970)は、死を克服した不死の人だったと、
『エメラルド・タブレット』(霞が関書房 発行)にありますが、
『神智学大要 第5巻太陽系』には、次のように書いてあります。
『…紀元前約4万年頃エジプトではアトランティスの一帝国が支配をしていた。
同地はすでに非常に高度の文明に達し、巨大なる神殿を有し、非常にきらびやかな儀式を行い、複雑な宗教上の教えを持っていた。
エジプト人はサイキックであると同時に非常に宗教的でもあった。
彼等は絢爛たる宗教行列や現実感が脈打つ儀式を行い、オシリス神―エジプト神話、冥界の王―の死を悼み
その再帰を祈る時など、全会衆が烈しい情感にわれを忘れるほどであった。
大師匠はこの人々にテフティ(Tehuti)、あるいはトス(Thosh、後にギリシアではヘルメスという)としてやって来た。
彼の教えは内なる光の教えであった。
「世に来るすべての人々を照らす光」という「ヨハネ伝」の中の聖句は彼の教えの遥か後代における木魂(こだま)である。
「吾は彼の光なり」と言い、「その光にてこそ吾はあるなり」と人々に繰り返させた。
「彼の光こそ真(まこと)の人間なり。
……光は到る処に秘められてあり。岩の悉く(ことごとく)石の悉くの中にあり。
……光こそ人々の生命なり。
数々の輝かしき儀式はあれど、僧侶の為(な)すべきところ数々あれど、僧侶として同胞救済の道は数々あれど、
光こそは他の何物にもましてあらゆる人々に最も近し、彼の心臓(ハート)の中にこそあれ。
故如何(いかん)となれば、あらゆる人にとりて実在はいかなる儀式にもまして近くにあり、
己(おの)が裡(うち)に帰りさえすればよく、其処に光を見るべければなり。
これこそはあらゆる儀式の目指すもの。
さればとて儀式を排すべしと云うには非ず、故如何となれば吾は毀(こぼ)つ為(ため)には非ず成就せんが為に来たりしが故なり。
人真に知らば儀式を超え、オシリスに至り、光すなわち、すべてが発しすべてが帰する光、アムン・ラー(Amun-Ra)に至るべし」。
また曰く、「オシリスは天にあり、されどまたオシリスはあらゆる人々のハートにあり。
ハートの裡なるオシリスにして天に在るオシリスを知らんか人は神と成り、嘗てズタズタに切り裂かれたる教えは再び全一とならん」。
王たるファラオーに彼は次のモットーを与えた。「光を求めよ」。
王が国民一人ひとりのハートの中に光を見た時のみ王としての正しい統治ができるからである。
国民に対しては、「汝は光なり、その光なり、その光をして輝き出でしめよ」というモットーを与えた。
このモットーは宮殿の塔門、家々の扉、貴金属や土で造られた塔門のモデルに刻まれた。
またもう一つのよく用いられたモットーは、「光に従え」で、それが後には「王に従え」となり、
西方に拡まって中世の円卓(アーサー王と部下の騎士達)のモットーとなった。
人々は死者が出ると、「彼は光の許に行った」といった。』
№990につづく



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