古代ブログ 85 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 47 山神社と蜆塚遺跡<再録>
「遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡
2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史
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浜松市の縄文時代と言えば蜆塚遺跡、蜆塚遺跡と言えば縄文時代、という風に浜松市民の頭の中には、縄文時代=蜆塚遺跡という等号ができていると思います。
その有名な蜆塚遺跡のすぐ南側、つまり蜆塚遺跡と浜松市博物館の間に、小さな神社があることはあまり知られていないと思います。
博物館の駐車場へ車を入れてすぐ北へ歩くか、それとも蜆塚遺跡の駐車場へ車を入れてすぐ南へ歩くかすると、その「山神社」が見えてきます。
祭神は大山ずみ命(おおやまずみのみこと)。
1982年に静岡県神社庁浜松支部が編集発行した『浜松市神社名鑑』(p54)では「当社は、その起源がが詳かではないが、往古より蜆塚遺跡の」と書いてあります。「往古」とはいつなのでしょうか。
山神社の祭神のオオヤマヅミ神は、佐々木高明さんの『日本文化の基層を探る』(NHKブックス)にあるように日本土着のおそらく南方系の海人の神です。オオヤマヅミの娘がコノハナノサクヤヒメです。佐々木さんは「南島系の海人の系統というのは」「本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開し」(p179)と書いています。
佐々木氏は年代を特定していませんが、伊豆諸島に少なくとも縄文時代から海人が展開しているのです。
蜆塚遺跡の住民をオオヤマヅミ神を信仰する南方系の漁民(海人)と推測することは空想でしょうか。縄文時代の「往古」から蜆塚の集落の横に山神社があったと考えるのは空想でしょうか。今後の具体的課題としたいと思います。
なお、山神社は東向きであり、当然太陽信仰の神社だと推測されます。
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谷川健一さんは『青銅の神の足跡』(集英社、1979年)で「古い地名、伝承、氏族、神社。この四つを組み合わせることで、文献記録ではたどれない古代に遡行することができると考える。もとよりそこには考古学の助けが必要であるが。」と書いています。私は、これに共感するとともに「遺跡・古墳」も組み合わせて考えたいと思います。
なお、蜆塚遺跡のなかの南端部分に「蜆塚古墳」があることも付記しておきます。」
「遠州の遺跡・寺社・地名 再訪編 蜆塚遺跡横の「山神社」
2014年06月12日 16時46分02秒 | 遠州古代史
「遠州の遺跡・寺社・地名」のシリーズナンバーは初訪問したところだけにつけていますので、再訪編はナンバーをつけません。
遺跡と古墳と神社の関係では、初期に気付いた例の1つです。
2009年には、まだ山神社の方向が、宗源院・西来院・普済寺・曳馬城の方向を向いていることには気付いていません。」
「遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線
2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史
神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。
浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。
その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。
地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。
そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。
つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。
家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。
これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。」