馬糞風リターンズ

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[茶筅作り体験」余談・・「荼」と「茶」

2011年04月14日 | 雑学
」(ダ)  「」(チャ・サ)
「荼」は「荼毘」などの梵語の音訳以外に使用することは無いようです。
現在は「茶」の異体字の様に使用しているようです。
写真の掛川茶の商品名も「荼三郎」(チャサブロウ)と読ませているそうです。

 日本の古代について考える時、国語学的な分析で案外簡単に固有植物と外来植物を区別できることがある。
日本人が「さくら」と呼んでいた木を、漢字と中国語を知った日本人は中国ではそれが「オウ」と呼び、「桜」と書くことを知った。そこでこの字を「オウ」と読む音読みと、「さくら」と読んでしまう訓読みが成立したのである。 この場合は固有植物である。
 一方、「万葉集」にまったく出てこない菊(キク)のように、 奈良時代以後にはじめて渡来した植物には本来の日本語がなく、したがって訓読みがない。
 「茶」もまた中国音を写した音読み「サ、チャ」しかなく、日本固有の呼び名にもとづく訓読みがないのである。
それは茶が中国の漢字よりあとになって日本に伝わったものであることを示していることになる。

 中国でチャをあらわす漢字として、古くは「」が使われていた。
日本では曼荼羅、荼毘、荼枳尼天という仏教語に使われるが、いずれも梵語に由来する仏教語のダという音に漢字をあてたもので、一般的には使われない。
 中国でこの字は本来はニガナ(苦莱)、すなわち苦みをもっ野菜を意味していたが、その正体については諸説がある。
それがチャをも意味するようになったのだが、苦みをもった餅茶がなんの葉を乾燥させてつくられたかがわからず、発音が近いか同じだった「茶」からつくられたと誤解されたためらしい

 ダとチャが別のものであることがわかり、七三五年に唐の玄宗皇帝が撰した「開元文字音義』(散逸して現存しない)で、横棒の一本少ない「茶」の字がつくられたとされる。したがっ て七六O年頃に書かれた「茶経』より以前の文献にみられる茶は、実は荼と書かれていたのであって、内容から茶のことと判断されたものである。

正倉院文書などの「荼」
もっとも、茶の字がつくられたとしても、しばらくは荼の字が茶の意味でも使われ続けただろう。唐の都長安から遠く離れた日本ではなおさらである。

 そうした時期の正倉院文書に「荼」があらわれるのである。 天平十一年(七三九)八月十一日の「写経司解」がある。
この荼は茶ではないと解釈されるのである。 正倉院文書には、こうした「荼」の用例が31例あるそうです。

 近年発掘されるようになった奈良時代の木簡からも「荼」を書いたものが二点見つかっている。
ひとつは長屋王邸跡、もうひとつは平城京左京二条二坊二条大路濠状遺構から出土したそうです。
2点とも、記載内容などから「荼」とされた品物は「茶」である可能性が高いと考える人もいる。
 将来「茶」の字がはっきり書かれた木簡が発見されることを期待したいが、少なくとも現在 までに発見された木簡の「荼」については、やはり茶とみるべきではないだろう。

 また、音声学の立場から「荼」(ダ)「茶」(チャ・サ)が漢音、呉音に無いことなどから、方言を仮借したのが日本語に定着したとの見解もあります。

 これらは、日本への「茶」の渡来・飲茶史の解明につながります。
更に、漢字と云う外国語を使用して日本語を確立する過程の解明の一助にもなります。