馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

歴史の教科書が代わっているそうです。

2017年04月27日 | 歴史
受験勉強で「大化の改新645(ムシゴ)匹」「1192(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」覚えた歴史が今の教科書では通用しないんだそうです。645年のクーデターを「乙巳(いっし)の変」と云い、646年改新の詔に基づく一連の政治的改革を「大化の改新」とするそうです。また「鎌倉幕府の成立」は1185年と書き換えられているそうです。そうすると受験生は「1185(イイハコ)つくろう鎌倉幕府」と暗記するのだそうです。当ブログなどが習った「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足らが 蘇我入鹿を暗殺、曽我氏宗家を滅ぼし天皇中心の中央集権国家作りを行った、と云うものでした。それが今、乙巳の変と大化の改新を区別して教えるのは何故なんだろうと思うのです。ごくごく簡単に言うと中大兄皇子の入鹿暗殺には、その後起こる一連の国づくりを見通し確固たる信念・ビジョンをもってクーデターの挙に出たのではなく単純な勢力争いを暴力で決着させた単発の事件と捉えるようになったからだそうです。また鎌倉幕府成立の時期については、頼朝による武家政権の確立をどの時点と見做すかと云うことです。我々が馴染んだ1192年は源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられた年ですが、武家政権の実質確立は「頼朝が鎌倉入りして南関東を支配したときから」と見ると1180年と言えるでしょうし「頼朝政権の東国支配を朝廷が追認、公文所・問注所などの統治機構が整う」時とすれば1183年に、「全国に守護・地頭を設置し、頼朝は貴族社会における武門の頂点となった」時であれば1185年となるのだそうです。これらは歴史事実をどう認識するかと云うことで、事実が代わった訳ではありません。
源頼朝と言へば頼朝の肖像画が有名ですが、研究が進み頼朝ではなく足利尊氏の弟・直義との説が有力になっています。
足利尊氏像も研究の結果、尊氏を描いたものではなく高師直など諸説があり、人物を特定できない単に騎馬武者像とされているようです。

聖徳太子像も最近では「別人」ではないかとの説が有力となっているそうです。最近の教科書では「伝・聖徳太子」と説明したものも多いそうです。当ブログは「別人」というよりも奈良時代の絵師が聖徳太子を想像して描いたのではないかと思っています。
最近話題になった小中学校の歴史教科書の聖徳太子表記です。小学校では「聖徳太子(厩戸王〈うまやどのおう〉)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記することになったそうです。これは「聖徳太子は存在しなかった」という学説が大きくなってきたからだそうです。「聖徳太子はいなかった」などと云う単行本もあります。ネットでは10万件以上もヒットするそうです。
 最近本を読むことが芽っきり少なくなって当ブログは中々自分なりの考えがまとまらないのですが、そんな中で最近読んだ本で非常に説得力のある一文がありました。
聖徳太子の大きな事績である「憲法十七条」の十二条「国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓」。ここで出てくる「国司」と云う言葉・制度は、聖徳太子の時代には存在しない後の律令時代の用語だそうです。仮に大正時代の文章とされるものの中に「第一次世界大戦」などと云う表現があればこれは明らかに偽書と断定できます。理由は「第一次世界大戦」と云う言葉は「第二次世界大戦」が起こってから生まれた表現であるからです。でも当ブログは多くの聖徳太子の事績、伝承は創作が多いとは思いますが、聖徳太子なる人物そのものの存在を否定するのには賛成しかねています。



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