「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
フランスの哲学者であり、作家、文学者、歴史家であるヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)の名言とされています。ヴォルテールの著作や書簡に上記の文章は見当たらないそうです。ヴォルテールは百科全書派の哲学者で典型的な啓蒙思想家と評され、人間の理性を信頼し自由を信奉したとされています。日本でも傾倒する人が多く、著作は数多く刊行されています。岩波文庫から短編小説6篇を収録した「浮世のすがた 他六篇」は比較的読み易いと思います。以前にも書きましたが日本の民主主義は占領軍から与えられたものです。西洋の民主主義は自ら血を流して奪取したものです。その点、日本では借着、お仕着せの民主主義ですから、ともすれば肌合いの違いから無意識に脱ぎ捨てようとする勢力がうろつきます。西洋の一神教とは基本的に異なるアジアモンスーン地帯の精神文化は、西洋の民主主義を受け入れない異質のものです。仏教などは基本的には他力本願、諦観が精神活動の原点です。民主主義とは個の確立が基本です。精神文化の背景が全く異なるシステムを受容し、それを「よし!」とした以上、このシステムを守らなければなりません。血をもって奪取した訳でもなく、お仕着せの民主主義は「壊れ物」でチョッと乱暴に扱うと崩壊してしまいます。
政治がショーアップされたヴァラエティー番組になっています。勢い極端で声の大きな人達が人気を博します。辛口で直言するとんでもない意見が「正論」とされ、これ見よがしに「そこまで言うか」と暴論を得意げにアピールしています。国民の大多数がサラリーマンで、彼らは組織人として集団の和を持って秩序を維持します。「指示待ち族」と化した彼らは個人の意思による行動よりも、組織の強力なリーダーの指示を期待します。「不安な自由」より「安心な不自由」に流れがちです。
憲法の専門家が「違憲」と断定した、これは「違憲」なのです。それ以外に誰が「判定」するのですか?スポーツ競技で判定を下すのは「審判」です。二出川主審に三原監督が抗議して「ルールブック」を見せろと迫った時、二出川は「私がルールブックだ!」と一喝しました。
「集団的自衛権」は「違憲」である。憲法違反を犯すことを国会が取り扱ってどうするの?・・・・・。
「集団的自衛権」がどうしても必要であれば、それを禁止している「憲法」を改めることが必要では。それがIN PLAYのルールです。
今の政権は違法行為を平然と押し通す「違法内閣」です。今のやり方なら「戒厳令」を発令して「現行憲法」を停止したほうがもっと分かり易い。
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