前回の「タラバガニ・・・・・語源の話。」のつづきです。
倭人の誰もが見向きもしなかったタラバガニを大金を産むヒット商品にした又十藤野網走支店総支配人高田源蔵という人は希代の詳細の持ち主であったようです。
タラバガニを商品化して5年後、高田源蔵は再び大ヒット商品を生み出します。タラバガニ同様当時誰もが見向きもしなかった「帆立貝」の貝柱を作りだし、又十藤野をして北海道随一の海の豪商としての基礎を作らしめたのでした。
帆立貝の貝柱については過去に高田屋嘉兵衛が商品化する計画があったそうです。現地のアイヌの人からの聞き取りによると下記のような経緯があったそうです。
安政年間に「カヘサマ」(高田屋嘉兵衛のこと)が択捉と国後に漁場を作り、アイヌ人を大変親切にし大切に使ってくれたので、それまで冬になって食べ物がなくなり、餓死する者すら出たのに、カヘサマは我々に米を食べさせてくれたし、酒や煙草も与えそれまでの和人と違って、働けば正当な賃金払ってくれた他に漁法も教えてくれた神様のような人だった。このカヘサマが海岸に沢山打ち寄せている帆立貝を拾い、その大きな貝柱をとって海水で煮て乾燥させ、来年からお前達にもっと楽な生活をさせてやるから安心せよ:…」と言って、その貝柱を大きな箱に詰めて、十一月に内地に帰る時にもって帰られた。みんなはカヘサマの言葉を信じて、春のくるのを待っていたが、不幸にも国後島古釜布の港に人ったとき、待ち構えていたロシヤの軍艦に、前年起きたゴロウニン事件の身代りとして、力ムチャツヵヘ連行されてしまって、貝柱製造の夢は空しく流れてしまった。
高田屋はその後、闕所および所払いの処分となり、高田屋は没落してしまいます。が、子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど、明治時代に昆布業界で活躍しましたが往時の隆盛の比ではありませんでした。
永い空自の歳月が流れ、高田屋嘉兵衛と奇しくも同姓の源蔵の手によって、漁業としては日本で最初の帆立漁が始まり、前に乾燥タラバ蟹を扱った香港の貿易商の協力により、膨大な生産量が香港に輸出され、又十藤野はそれによって飛躍的な大発展を遂げ、源蔵もまた藤野の大幹部となりました。 又十藤野の高田源蔵はタラバガニ、帆立貝という大ヒット商品を開発し、又十藤野大躍進に貢献しましたが、高田源蔵の功績はそれに止まらずタラバガニ、ホタテの利益など問題ににならない巨大な利益を生む商品を開発します。
明治政府は西南戦争で莫大な火薬を消費したため、手持ちが殆ど無に等しい状態になってしまった。当時の日本では火薬の主要原料の一つである塩化カルシュームを作る技術が無かったので、高値を承知でイギリスから輸入せざるを得ない状態でした。これをいち早くキャッチした中国貿易商は、香港でその技術を覚え、源蔵に教えその原産の昆布が国後島にあると知りこれを乾燥させて燃やし、その灰を蒸留して塩化カルシュームを採取し、これを政府にイギリスの価格の半値で買ってもらった。
これはそれまで源蔵の作り出した物より更に巨大な利益を又十藤野にもたらした。こうして高田源蔵の名は近江商人の間では勿論、北海道では誰一人知らぬ者もないほどの有名人になっていた。(つづく)
倭人の誰もが見向きもしなかったタラバガニを大金を産むヒット商品にした又十藤野網走支店総支配人高田源蔵という人は希代の詳細の持ち主であったようです。
タラバガニを商品化して5年後、高田源蔵は再び大ヒット商品を生み出します。タラバガニ同様当時誰もが見向きもしなかった「帆立貝」の貝柱を作りだし、又十藤野をして北海道随一の海の豪商としての基礎を作らしめたのでした。
高田屋嘉兵衛像(函館市)
帆立貝の貝柱については過去に高田屋嘉兵衛が商品化する計画があったそうです。現地のアイヌの人からの聞き取りによると下記のような経緯があったそうです。
安政年間に「カヘサマ」(高田屋嘉兵衛のこと)が択捉と国後に漁場を作り、アイヌ人を大変親切にし大切に使ってくれたので、それまで冬になって食べ物がなくなり、餓死する者すら出たのに、カヘサマは我々に米を食べさせてくれたし、酒や煙草も与えそれまでの和人と違って、働けば正当な賃金払ってくれた他に漁法も教えてくれた神様のような人だった。このカヘサマが海岸に沢山打ち寄せている帆立貝を拾い、その大きな貝柱をとって海水で煮て乾燥させ、来年からお前達にもっと楽な生活をさせてやるから安心せよ:…」と言って、その貝柱を大きな箱に詰めて、十一月に内地に帰る時にもって帰られた。みんなはカヘサマの言葉を信じて、春のくるのを待っていたが、不幸にも国後島古釜布の港に人ったとき、待ち構えていたロシヤの軍艦に、前年起きたゴロウニン事件の身代りとして、力ムチャツヵヘ連行されてしまって、貝柱製造の夢は空しく流れてしまった。
高田屋はその後、闕所および所払いの処分となり、高田屋は没落してしまいます。が、子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど、明治時代に昆布業界で活躍しましたが往時の隆盛の比ではありませんでした。
永い空自の歳月が流れ、高田屋嘉兵衛と奇しくも同姓の源蔵の手によって、漁業としては日本で最初の帆立漁が始まり、前に乾燥タラバ蟹を扱った香港の貿易商の協力により、膨大な生産量が香港に輸出され、又十藤野はそれによって飛躍的な大発展を遂げ、源蔵もまた藤野の大幹部となりました。 又十藤野の高田源蔵はタラバガニ、帆立貝という大ヒット商品を開発し、又十藤野大躍進に貢献しましたが、高田源蔵の功績はそれに止まらずタラバガニ、ホタテの利益など問題ににならない巨大な利益を生む商品を開発します。
明治政府は西南戦争で莫大な火薬を消費したため、手持ちが殆ど無に等しい状態になってしまった。当時の日本では火薬の主要原料の一つである塩化カルシュームを作る技術が無かったので、高値を承知でイギリスから輸入せざるを得ない状態でした。これをいち早くキャッチした中国貿易商は、香港でその技術を覚え、源蔵に教えその原産の昆布が国後島にあると知りこれを乾燥させて燃やし、その灰を蒸留して塩化カルシュームを採取し、これを政府にイギリスの価格の半値で買ってもらった。
これはそれまで源蔵の作り出した物より更に巨大な利益を又十藤野にもたらした。こうして高田源蔵の名は近江商人の間では勿論、北海道では誰一人知らぬ者もないほどの有名人になっていた。(つづく)
まずは驚きました。この事を何処の何でお知りになられたのか、邸が現存する網走でも知る人を探すのは、かなり難しいです。
網走に来られることがありましたらご連絡下さい。高田邸をご案内させて頂きます。
いもだんご村
前々回北海道に1週間行った時は網走駅前のホテルに泊まりました。今週末から帯広に行きます。今回は十勝を周遊します。又の機会に網走に見行きます。そのときは案内頂きます様・・。
この鉱山の採掘権持ち主の子孫も網走に住んでいた事が有りいろいろ情報交換しました。
高田邸と藤野邸もご案内しますのでお寄りください。