馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

利根の川風袂に入れて・・・・天保水滸伝の世界1

2012年09月15日 | 雑学
明治25年に発行された侠客見立て番付「近世侠客有名鏡」です。言わば侠客・ヤクザのオールスター一覧表のようなものです。侠客の元祖・幡随院長兵衛などは1600年代の人物、花川戸の助六は歌舞伎の主人公で創作された架空の人物と必ずしも同時代の侠客・ヤクザのランキングでは無いようですが、概ね幕末維新の頃の「金看板」が網羅されています。番付を見て気付くのは「西京・会津の小鉄」ほか2~3を除いて全て関八州とその近隣に限られています。広沢虎造「石松代参」の有名な三十石船「寿司喰いねぇ」で、石松の啖呵に「ヤクザてぇと、何たって関東ヨ。・・・・・・関内八か国関外六か国に次郎長ほど豪い親分があるか!」とあるように、如何も「ヤクザの本場」は関東であったようです。
 ヤクザ・オールスター一覧を一瞥すると、国定忠治、黒駒の勝蔵、大前田英五郎、清水湊長次郎などはお馴染でそれぞれ一家を成した金看板の親分衆です。野州・日光ノ圓蔵、上州・板割ノ浅太良は国定忠治の子分。「赤城の山も今宵が限り・・・」の名場面に登場します。
面白いのは甲斐・祐天仙之助と言う男です。幕末の策士・清川八郎が進言して編成された新徴組(後の新撰組)で祐天仙之助は隊長格で参加しています。武州の近藤勇、土方歳三、沖田総司などは食い詰め浪人同様の一隊士でしかありませんでした。祐天仙之助も国定忠治にしても黒駒の勝蔵、・・・・など博徒の群れが維新戦争で活躍したにも拘らず、維新後「博徒狩り」で多くのヤクザが悲運の最期を遂げています。世渡り上手な清水次郎長は、時の有力者(勝海舟など)との親交があったために微罪で許されたのは珍しい部類に入ります。

 天保水滸伝の主役たちには、名前の横に|を引いておきました。銚子の五郎蔵は飯岡助五郎の親分格、岩瀬ノ繁蔵は笹川ノ繁蔵のこと、勢力富五郎は笹川ノ繁蔵の子分。飯岡助五郎勢と笹川ノ繁蔵一派の勢力争いが天保水滸伝の筋立てです。

 今回、銚子の円福寺で「銚子の五郎蔵」の墓に行きましたが、宿泊した旅館・大新のおばあちゃんの話では「銚子の五郎蔵」は義侠心の強い事業家でもあり警察権を持った銚子の偉人との説明がありました。

銚子の五郎蔵:1793年(寛政 5) ~ 1858年(安政 5)12月 4日
 本名・木村勝五郎。東総地域を縄張りとする侠客であった一方、九十九里・飯岡・銚子一帯の漁業権を支配する網元で、銚子陣屋から十手・捕縄を預けられていた。1833年(天保4)頃の天保の大飢饉の時、飢餓者や無宿人が多数出たが、九十九里浜の地引網と干鰯に目を付け、それらの人を従事させて困窮から救った。また、利根川を使って高瀬船で海産物を運搬する時の複雑な流通経路を廃止するなどした他、喧嘩・口論を嫌い、神仏への信仰が篤く、経済人としての人柄も口伝や古文書などによって伝えられている。圓福寺の本堂に、青銅製の一斗入りの大茶釜とかまどがあり、飯岡の助五郎と五郎蔵の献納の銘が鋳出されている。五郎蔵の名は後に浪曲で有名な「天保水滸伝」でた著名となる。

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