小雨の中、定例の月曜ハイキングがありました。天気が良ければ芦屋川駅 ⇒ 高座ノ滝 ⇒ ロックガーデン ⇒ 風吹岩(昼食) ⇒保久良神社 ⇒ 保久良・岡本梅林 ⇒ 喫茶 ⇒ 岡本駅という可なりハードな行程のようでした。小雨と云うことで岡本駅 ⇒岡本梅林公園 ⇒保久良神社と云う短縮バージョンになりました。当ブログにとってはこの小雨はラッキーで、予てより一度訊ねてみたいと思っていた保久良神社に限られたので喜んで参加しました。
岡本は大正時代までは梅の名所として有名だったそうです。古謡には「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗 丹波」と謳わるほどで、江戸時代の「摂津名所図会」に紹介されています。その岡本の梅も昭和13年の阪神大水害で大半を喪失し、昭和20年の神戸大空襲で焼失、その後の宅地化でほとんどの梅を失ってしまいました。阪神淡路大震災後、震災復興を願って岡本を往時の「梅の岡本」にと梅林を復活させているそうです。
日本でもウメ輪紋病が発生し、昨年は東京青梅梅林が全て伐採されたりするニュースがありました。昨日は伊丹市緑ヶ丘の梅林を今月中に伐採されることが発表されました。池田市、川西市、伊丹市、宝塚市などにもウメ輪紋病が発生しているようですが、未だ神戸市のほうには及んでいないようです。
◎ 延喜式内・保久良神社:鎮座地:神戸市東灘区本山北畑町ザクゲ原(摂津国菟原郡)六甲山系金鳥山(425m)の中腹180m、通称保久良山の平坦地に鎮座。南面は断崖状に切れ込み、眼下は芦屋・西宮など甲南の高級住宅街、それに続いて大阪湾(茅淳=チヌの海)が開け、大阪、泉州から紀州の山並みまで一望でき、西は神戸港、摩耶埠頭から須磨浦までが見通せるそうです。祭神:現在は主祭神須佐之男=スサノウ、相殿に大歳御祖神、大国主命、椎根津彦命=シイネツヒコミコトが祀られています。しかし、当社の元々の祭神は椎根津彦命であったと考えるのが妥当です。その論拠を書き始めると単行本1冊になるほど長々となってしまいますので、唯でさえ長々とくどいとのご批判がある当ブログなので割愛します。社名:ホクラと称する式内社は和泉国(和泉市三林町)にある穂椋神社と当社の二社だけです。「ホクラ」の解釈には諸説がありますが、代表的なものとして3ツの説を紹介しておきます。①、神功皇后が三韓征伐の帰途、戦利武器を収納した「矛倉=ホコクラ」が訛って「ホクラ」となった。②、社頭にある灯明台即ち「火倉=ホクラ」③、当社の境内からは古代祭祀の遺物が多数出土しており、古代においてそれらの祭祀用具を収納した「秀庫=ホクラ」が由来であるとする説。
①に付いては神功皇后伝承自体が実証できない物語であり論拠にはなり得ないと考えます。②、③に付いては建物跡の遺構が検出されていない弱点があります。
当ブログが浅慮するに、冒頭にも紹介したように当社境内には多数の磐境、磐座が存在することから「クラ」は磐座の「クラ」即ち「秀座=ホクラ」から来ているのではなかろうかと推察しています。
一度は訊ねてみたいと思っていた保久良神社を参拝でき大満足しました。そして、古代史にのめりこんでいた頃を思い出し、ブログを書きながら「あれも」「これも」書きたいと夢中になりますが、今日はここまでに止めます。ただ、如何してもストレスになりますから、次回1度だけ邪馬台国の時代「倭国大乱」と保久良神社、高地性集落、烽火及び河内国について書きたいと思います。お付き合いのほどを・・・。
岡本は大正時代までは梅の名所として有名だったそうです。古謡には「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗 丹波」と謳わるほどで、江戸時代の「摂津名所図会」に紹介されています。その岡本の梅も昭和13年の阪神大水害で大半を喪失し、昭和20年の神戸大空襲で焼失、その後の宅地化でほとんどの梅を失ってしまいました。阪神淡路大震災後、震災復興を願って岡本を往時の「梅の岡本」にと梅林を復活させているそうです。
保久良神社梅林
日本でもウメ輪紋病が発生し、昨年は東京青梅梅林が全て伐採されたりするニュースがありました。昨日は伊丹市緑ヶ丘の梅林を今月中に伐採されることが発表されました。池田市、川西市、伊丹市、宝塚市などにもウメ輪紋病が発生しているようですが、未だ神戸市のほうには及んでいないようです。
保久良神社境内は樹林が繁り、巨岩があちらこちらに散在しています。磐境、磐座
◎ 延喜式内・保久良神社:鎮座地:神戸市東灘区本山北畑町ザクゲ原(摂津国菟原郡)六甲山系金鳥山(425m)の中腹180m、通称保久良山の平坦地に鎮座。南面は断崖状に切れ込み、眼下は芦屋・西宮など甲南の高級住宅街、それに続いて大阪湾(茅淳=チヌの海)が開け、大阪、泉州から紀州の山並みまで一望でき、西は神戸港、摩耶埠頭から須磨浦までが見通せるそうです。祭神:現在は主祭神須佐之男=スサノウ、相殿に大歳御祖神、大国主命、椎根津彦命=シイネツヒコミコトが祀られています。しかし、当社の元々の祭神は椎根津彦命であったと考えるのが妥当です。その論拠を書き始めると単行本1冊になるほど長々となってしまいますので、唯でさえ長々とくどいとのご批判がある当ブログなので割愛します。社名:ホクラと称する式内社は和泉国(和泉市三林町)にある穂椋神社と当社の二社だけです。「ホクラ」の解釈には諸説がありますが、代表的なものとして3ツの説を紹介しておきます。①、神功皇后が三韓征伐の帰途、戦利武器を収納した「矛倉=ホコクラ」が訛って「ホクラ」となった。②、社頭にある灯明台即ち「火倉=ホクラ」③、当社の境内からは古代祭祀の遺物が多数出土しており、古代においてそれらの祭祀用具を収納した「秀庫=ホクラ」が由来であるとする説。
①に付いては神功皇后伝承自体が実証できない物語であり論拠にはなり得ないと考えます。②、③に付いては建物跡の遺構が検出されていない弱点があります。
当ブログが浅慮するに、冒頭にも紹介したように当社境内には多数の磐境、磐座が存在することから「クラ」は磐座の「クラ」即ち「秀座=ホクラ」から来ているのではなかろうかと推察しています。
一度は訊ねてみたいと思っていた保久良神社を参拝でき大満足しました。そして、古代史にのめりこんでいた頃を思い出し、ブログを書きながら「あれも」「これも」書きたいと夢中になりますが、今日はここまでに止めます。ただ、如何してもストレスになりますから、次回1度だけ邪馬台国の時代「倭国大乱」と保久良神社、高地性集落、烽火及び河内国について書きたいと思います。お付き合いのほどを・・・。