1)神との血のつながり
 中国で見たように、日本にも祖先崇拝はもともとありました。つまり神と人との「血のつながり」がありました。 そこがヨーロッパとの大きな違いであったのです。 西洋の神(God)は先に見たように、人と神との血のつながりが切れたものでしたが、日本人はその違いにもかかわらず、それを日本語と同じ「神」と翻訳しています。それは翻訳である以上仕方のないことですが、その内容まで同一だと思い込むと、文化の相互理解の妨げになります。

 7世紀後半の天武天皇は、確かに国家仏教の興隆に努めましたが、それと同時に伊勢神宮の祭祀にも力を入れています。今まで触れてきたように、仏教(寺院)と神道(神社)は違うのです。それを同時に行うのです。この時期は、天皇の神格化が同時に行われた時期でもあります。 天皇という言葉の発生も、聖徳太子の時期なのか天武天皇の時期なのか論争がありましたが、ほぼ天武天皇の時期だと決着がついているようです。

 では伊勢神宮に祭られている神はと言うと、これが天皇家の祖先神、つまり皇祖神である天照大神なのです。 このように天皇と神との血のつながりが日本には残っています。 また各部族の氏神も氏族との血のつながりを残したまま維持されていきます。そして朝廷は各部族の氏神を天皇家との血縁的な関係に組み入れていくことによって、領土を統一していきます。それと同時に、家臣になった部族の氏神を大切に祭っていくのです。

 例えば出雲大社の壮大な社殿は平安時代にも維持されていました。ここに祭られているのは大国主命であって、ここは国譲りの神話でも有名なように、朝廷と対立した強大な王権があった地域だと思われます。 それにもかかわらず朝廷は対立した神でも打ち捨てずに、壮大な社殿を維持したのでした。出雲大社の社殿は今でも立派なものですが、平安時代の社殿は今よりもっと大きく高かったといわれています。

 日本には2つの宗教観があって、仏教では「人は遙か彼方に存在する浄土や彼岸に生まれ変わる」と言われています。 しかし、これに対して柳田国男は「日本人は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわない」、常に我々の近くに存在している、そういうことを「先祖の話」の中でしています。 例えば、「草場の陰で泣いている」という言い方は、このような霊魂観を示すわけです。こちらの方が仏教より古いのです。いわば神道流の死生観が根底にあるのです。

 
2)死のケガレ
 柳田国男のいうような観念をもつ日本人にとって、人間の霊魂は、恐いもの、ケガレとして恐れられてきました。 死は最大のケガレであって、アラタマ(荒魂)の跳梁に対して、それから逃れるためには禊ぎ(みそぎ)や祓え(はらえ)がありましたが、それだけではあまりにも心細かったのです。

 禊ぎの風習は日本にだけ限られるものではなく、インドにもあります。インドでは聖なる川であるガンジス川で沐浴をします。 日本での禊ぎは、若い人だけが行うわけではありません。古くは老いも若きも行っていました。お祓いなどは今でも多くの人が一度は経験することだと思います。

 こういう日本の風土の中に紀元6世紀にインドから仏教が伝わってくるのです(直接的には朝鮮からですが)。それは最初、氏族仏教として受け入れられました。 しかし、有力な氏族たちがその新しい宗教である仏教をどのように利用したのかといえば、やはり歴代の先祖の祭祀に利用したのです。 つまり鎮魂儀礼として身のまわりにいる霊を鎮めるものとして仏教を受容したのです。日本初の仏教文化といわれる7世紀の飛鳥文化とはこのようなものです。

 これが受け継がれて8世紀の奈良時代には国家仏教になるのですが、この国家仏教の特色は「鎮護国家」の思想にあります。 ここでもやはり国家による怨霊鎮めである「鎮魂」が中心となるのであって、疫病鎮めなどに利用されます。当時疫病は怨霊の仕業と考えられていたからです。 奈良時代は有力な藤原氏の四人の兄弟が次々に天然痘で死んでいった時代であり、また反乱を起こした藤原広嗣の怨霊が恐れられていた時代でもあります。

 平安遷都の理由もこれに似たものであって、桓武天皇の弟である早良親王の怨霊を恐れて、桓武天皇は平安遷都を断行していくのです。どうもこの早良親王の暗殺に桓武天皇も一枚かんでいたようなのです。

 人が一人で誰にも見とられずに死んだり、孤独な死、または不幸な死というのは、古来から最も恐れられた死にかたであって、そのような人の霊魂は適切な祭祀を行わなければ人に祟ると信じられていました。だからそのような怨霊を神として祭る必要が出てきたのです。 今から思えば、そんな霊魂はお寺さんにお任せすればいいではないかと思うのかもしれませんが、この当時の村々にお寺はなく、お墓というのは村はずれのさびしい共同墓地であったのです。 そういうところで祖先を祀っても、その子孫はどうも不安でたまらない。どうも安心できない。そういう怨霊を恐れる気持ちがずっと流れていました

 しかし日本の怨霊はある意味、人間的な心を持つのであって、人々が誠意を込めて霊をなぐさめれば、ちゃんと鎮まってくれる性質を持っていました。 こういう鎮まった怨霊を「御霊」といって、人々はとても大切にしました。 そこから平安時代には御霊会といって、早良親王や政治的な敗者などの怨霊を慰める行事が生まれてきたのです。 京都の北野天神や祇園社(八坂神社)のお祭りは、元来この御霊信仰から生まれたものです。現在でも日本の夏祭りの代表といえば京都八坂神社の祇園祭です。これは怨霊鎮めの祭りなのです。 ですから日本の夏祭りというのは、春祭りの豊作祈願や秋祭りの収穫祭と違い、系統を異にする祭りです。

 このような怨霊の代表として最も恐れられたのが菅原道真です。 彼は都から福岡の大宰府(ちなみに今の表記は太宰府と書きます)に左遷され、903年にそこで無念に死んでしまうのですが、のちに彼は雷として祟るという信仰が生まれます。 これが天神信仰なのですが、天神という地名は日本各地にある地名で、そのことによっていかにこの怨霊が恐れられていたかということが分かります。 菅原道真の怨霊を描いたのが「北野天神縁起絵巻」ですが、描かれたのは鎌倉時代であって、すでに道真の死後数百年が経っていますが、それにもかかわらずこういう絵が描かれていたということは、道真の怨霊が数百年の時を経ても強く恐れられていたことがわかります。 京都の北野天神はその菅原道真を祀る神社ですし、菅原道真が左遷された福岡の太宰府天満宮は現在は学問の神様として有名ですが、歴史的には決して学問の神として成立したのではありません。怨霊を鎮めるためのものだったのです。

 また、9世紀の応天門の変の犠牲者である伴善男も怨霊化した人物であって、死後約200年たった院政期に「伴大納言絵巻」が描かれています。  また平家物語も、もともとは滅亡した平氏に対する鎮魂歌です。鎮魂の歌というのは日本に限られたことではなく、英語ではこれをレクイエムといいます。 平家が怨霊として恐れられていたことは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本で結婚した妻や民間から採取した「耳なし芳一」の話に記されています。これは平氏への鎮魂歌、つまり琵琶法師たちが歌い続けてきたレクイエムなのです。

 そこから不幸な死に方をした者ほど大切に祀らなければならない、という強い信仰も生まれてきます。 日本人の判官(ほうがん)びいきもそういうところから出てきます。判官びいきの判官というのは将軍源頼朝の弟の源義経を指すのですが、彼も非業の最期を遂げたあと非常に恐れられた人物であって、多くの伝説を生んでいます。中にはモンゴルに渡ってチンギスハンになったという伝説さえあります。 また平安時代に反乱を起こして死んだ平将門は現在でも、東京丸の内のオフィスビル街の地価何千万円するビル街の一等地に首塚が設けられていて、今も丁重な祭祀が続けられています。

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                東京都千代田区の将門の首塚

 日本にはこのような怨霊思想を生む下地があります。それは古くから受け継がれてきたアニミズムの思想が連綿と続いていることにあると思います。 


3)アニミズム
 アニミズムというのはすべてのものに心を認めるという考え方であって、西洋ではこのアニマ(心)を持つ生き物がアニマルとなったことからみても、このようなアニミズムは広く世界的に見られるものです。 日本人の霊魂観もそうであって、魂は人だけに宿るのではなくて、山や川、草や木など、すべてに霊が宿るという考え方があります。 宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」を見るとそこに登場するシシ神の描写などは非常にアニミズム的な色彩の強いものです。

 実はこのような感覚は今でもあるのであって、例えば幼い少女が大切にしていたお人形さんに自然に話しかけることはよくあることです。 それを見て大人が、「お人形さんに話しかけてわかるわけないじゃないか、バカじゃないか」などといえば、子どもの心は絶対に育ちません。子どもは人形の中に心を見いだすことによって人の心の存在に気づくのです。 逆に人形を単に物だとみて、切り刻んで喜ぶ子どもや、人形の頭を引き抜いて楽しむ子どもがいれば、それこそ恐いことです。

 この他にも、例えば鎌倉・室町時代には貨幣経済が発達して定期市が発生し、それを三斎市・六斎市というのですが、三斎・六斎の「三」「六」はそれぞれ三のつく日、六のつく日を意味しますが、三斎・六斎の「」は祀るという意味であって、その日は神が天から下界に降りて来る日なのです。

 つまり市で取り引きされる物は、単なる物として存在するのではなくて、その所有者の魂を呑み込んだものとして存在しているのです。だから神様が降りてくる日にそこでお払いをして、いったん以前の所有者の霊魂を取り除く必要があるわけです。 この事を現在でも笑えないのは例えば、中古車を買いにいって極端に安い車があると、それは事故車ではないかと疑って、誰も買いたがらないのと似ています。 よく考えれば事故を起こしたのは運転者の責任であって車自体とは関係ないのですが、それを買うと前の持ち主の霊が自分にも乗り移るような気がして、どうも買う気にならないわけです。

 また死者の形見分けの風習はこれとは逆の意味で、自分と親しい死者の心が生前使用していた物に乗り移り、それを分け与えてもらうと我々を守ってくれるという信仰です。

 それは現在にも続く感覚で、日本人に今も染み付いている感覚だと思います。ですから三斎市や六斎市では元の持ち主との縁を断つために、いったん神に捧げて神のものとし、そこで初めて誰のものでもなくなるわけです。物を交換するには、そういうことをする必要があったのです。 そして物と霊魂との縁が切れたところで初めて交換が成立します。ですから市での交換の本質は、まず神との交換であったのです。

 このような例は、鎌倉時代の永仁の徳政令にも見られるもので、これは購入した土地を無償で元の持ち主に返還しなさいという幕府の法令ですが、このような徳政令が鎌倉時代から室町時代にかけて頻発されるのは、土地も元の所有者の魂を呑み込んだものとして存在しているわけですから、貸し借りや売り買いは仮の姿に過ぎず、いずれは元の持ち主に返さなければならない、そういう観念が流れていたからです。

 ですから、現在のような「所有者は所有物についての全支配権を持つ」というのは近代資本主義に特有の所有権であって、それは近代以降の歴史的な産物にすぎないとも言えるのです。
 

4)鎮魂
 ところがこのような霊魂を実体的にとらえる霊魂観に対し仏教はどう考えるかといえば、 「諸行無常」、常なるものはない、つまり常なる実体はない、 「諸法無我」、自分という実体はない、 縁起」、縁あって起こる、すべては関係性の中で起こる、つまり実体はない、(今でいう縁起が悪いの縁起とはかなり違った意味です) また「」、色即是空・空即是色の空ですが、この世の全てのものに実体はない、 つまり霊魂はない、そんな霊魂などというものを考えたらだめなんだ、 そういう思想が仏教の根底にある思想だったのです。

 だから物に魂が宿るという日本の思想は、このような仏教思想とは非常に根深い対立をはらんでいました。 無我というのは何もないことですから、そこに魂だけがあるのはおかしいことになってしまいます。 そこに矛盾がありました。

 ところが民間の仏教者である各地をまわる平安時代後期の聖(ひじり)という念仏行者たちは、「そんな怨霊はいない」とは言いません。庶民の考え方を否定しませんでした。 そして丁重に庶民の先祖の供養を行ったのです。つまり霊魂を祀るのです。そういう活動の中で貴族の宗教にすぎなかった仏教が次第に庶民に浸透していきます。


5)密教
 そういうことを可能にしたのが平安密教であって、密教は仏教思想と日本のアニミズムとの矛盾を解消していきます。 日本のアニミズムを論理的に正当化したのが密教です。 平安時代初期の密教は、仏教のもつ「実体否定性」をまた「否定」します。二重否定を行うのです。つまり霊魂という実体はあるとするわけです。死者の霊魂はあると認めたのです。 それが平安初期の宗教家である最澄と空海の共通点です。

 最澄はすべての人は仏性を持つ、「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)ということを強調します。 衆生の一人ひとりに仏性が宿るというわけです。 このことによって「諸法無我」つまり実体はないという思想が、「諸法実相」つまり実体はある、ということになって仏を実体化し、さらに魂を実体化していくことに成功していくのです。

 しかしこのことは奈良時代の南都六宗(これを密教に対して顕教といいますが)とは相反するのです。だから奈良仏教と京都の平安仏教は仲が悪くなります。 しかしそこに空海という助っ人がやってきて、彼は本格的に密教を中国で学び、それを日本に導入していきます。 よく人は最澄と空海が後に対立したことを強調したりしますが、そのことよりも最澄と空海の共通点を強調することのほうが大事なのです。

 この二人によって日本のアニミズムが容認され、はじめて仏教が日本で日本の風土に合うように変容されていきました。 日本の神も仏教により正当化されたのです。そのことによって神仏習合が正当化されていったのです。

 そこから神はもともと仏であるという本地垂迹説が誕生していきます。 この論理によって、例えば日本の中心の神である天照大神は、密教の中心仏である大日如来の化身である、という考え方が成立し、それはその他のいろいろな神と仏も同じように結び付けていきました。

 さらにもともと日本には神像はなかったのですが、「僧形八幡神像」のように、神の像も彫られていくようになります。

 6)浄土教
 さらに仏教はそこにもう一つの要素を加えていきます。それが浄土教です。その中心仏は阿弥陀仏であって、その仏様が来世での守り神になります。 平安時代当時は、現世では救われないという考え方が広まり、それは都の荒廃や、末法思想(この世はだんだん悪くなり生きるに値しないという仏教思想)の流行などが影響していたのですが、そうであるならばせめて死後の成仏だけは確保したい、こういった切実な願いが人々の間に広まっていきました。 餓鬼草子のような都の悲惨な状況を描いた絵巻が描かれていきますが、これはたんに想像だけで描かれたものではなくて、そこに描かれたような悲惨な光景が都にあふれていたためだと思われます。

 あの世で仏に守ってもらうという意識が、阿弥陀仏の加護を求める意識を強めていきます。 そして10世紀の国風時代になると次のような来迎図が描かれます。これが今も日本人の持つお迎えの観念になっていきます。人は阿弥陀様に導かれて極楽浄土に行けるようになったのです。

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               「高野山聖衆来迎図」 平安時代

 11世紀には全国各地に阿弥陀堂がたてられます。その代表が東北の中尊寺金色堂です。ここに奥州藤原氏三代の遺体がミイラ化して安置されていることも大事ですが、その三体のミイラを守っているご本尊が、あの世の仏、阿弥陀仏だということがより重要だと思います。

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               中尊寺金色堂 岩手県


7)村の守護神
 今まで仏様を中心に見てきましたが、日本には神様と仏様の二つの神様があるわけですから、両方とも辿っていく必要があります。 仏の世界が極楽浄土であるのに対して、神様はというと現世での守り神となっていきます。これが村々の鎮守の神となっていくのですが、日本はもともと氏族社会であって、氏族の祖先神であったものが、中世になると地域の守護神、これは産土神(うぶすなしん)と呼ばれますが、そういう地域の守護神になって村々の守り神になっていきます。 こういう形で神に守護された村が発生し、それが惣村と呼ばれる今の日本の農村の原型となるのです。このように日本の農村の原型は南北朝時代、室町時代に始めてその姿を表します。          


 その村での中心となるのが鎮守の社の祭礼です。 その運営組織が宮座といわれるものであって、それは祭りの日に村の者がお宮の拝殿に集合し祭礼を行い、それが終わるとお神酒をいただき食事をともにします。これは余談ですが、土産(みやげ)はもともとは宮餉(みやげ)であり、このような宮座で振る舞われるご馳走を指したのだと思われます。人々はそれを家に持ち帰ったのでしょう。このような風習は現在でも地方に残っています。 もともと村は他人の集まりでしたが、このような活動によって互いに気心の通じ合う異姓集団の形成に成功していくのです。


8)葬式仏教
 そのような宮座は個人の集まりではなく、家の代表たちの集まりです。 村の成立はそれを構成する「家」の成立を促していきます。 現在、俗にいう葬式仏教は、このような家の成立が背景にあるのであって、庶民の間に家が形成されるのは、惣村の成立にともなう14世紀から15世紀にかけてだと言われます。

 こういうと明治まで庶民には苗字がなかったという反論がありますが、苗字はなくても、百姓や町人の社会には屋号が成立していました。 ですから、すでに家は成立していたと見ることができますし、そのことを前に述べた江戸初期の久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」の家族の姿にも見てとることができます。 このようにして成立した家の原理は、家によって「命の継続性」を維持しようとするところにあります。

 それは従来からあった祖先崇拝をより強化するために、家を確立しようとするものであって、このことと結びついて仏教が家の宗教となっていきます。 つまり祖先崇拝仏教という二つのものによって、庶民の来世での救済が約束されるようになるのです。 それを媒介するのが家であって、家の一員として祭られ続けるという期待がそこに込められるようになります。

 つまり一方では子孫からの祭祀があり、そこに阿弥陀仏の加護が加わることによって、庶民は阿弥陀仏の慈悲を得るためにお寺の壇家になり、そしてお寺の中に墓をつくることを許されていきます。(それ以前、お寺にお墓はありませんでした。) それが現在のお寺の姿になります。地方のお寺は、江戸幕府の寺請制度のような権力によるものではなくて、それ以前から自然発生的に成立したものです。 民間寺院の8割がすでに江戸初期の寺請制度以前に成立したと言われています。 そうなるまでには仏教は霊魂を否定せず、誰でも救う宗教になろうとする長い年月がありました。つまり鎌倉時代の親鸞の悪人正機説から脈々と流れている思想が長い年月を経て、日本古来のアニミズムと矛盾しなくなっていく過程があるのです。これが日本の大乗仏教なのです。

 江戸幕府はそれを政治的に利用しただけであって、そうした中で寺請制度を作っていったのです。 そしてこのことによっていわゆる葬式仏教が成立していきます。 ですから我々が、家の座敷の仏壇を拝むときには、奥にある仏様を拝みながらも、同時にその手前にあるご先祖様の「位牌」を拝む気持ちが同時にあるのです。

 ただし一部には説明のつかないこともあるのであって、例えば一周忌の法要などがそうなのですが、輪廻という仏教の世界では人が死んで四十九日を経て新たな生命をえます。その法要を行わないと死んだ人の霊魂は本当の浄土に行けずにこの世をさまよい続けるという信仰があります。 この四十九日の期間が中陰と呼ばれるのですが、中陰の期間を過ぎれば本来は菩提を弔う必要はありません。 しかし日本人はそれでも三十三回忌までは行い、弔い上げをします。 そこにはすっきりした理論的な解答はないのですが、ふだん我々はそのことを意識しないで済むほど神仏習合に馴染んでいると考えた方がいいのです。

 そういう例外を除けば、寺請制度というのは日本人の宗教感覚に合致したもので、そうでなければ寺請制度の強制力が失われた明治以降になっても、なおこの制度が存続していることの理由が見つからないのです。 さらに葬式仏教の成立と同時に、江戸時代に庶民文化が隆盛し、庶民が元気になることとは決して無関係ではありません。
 

9)仏教と神道・儒教の併存
 以上のことから日本仏教は、外見は「輪廻転生」の仏教の衣をまといながら、その中身は「招魂再生」の神道または儒教、これが融合したものであるということが言えると思います。 これを簡単にいうと「神儒仏」の習合ということになり、それは確かにそうなのですが、それをよく品詞分解して理解する必要があります。 そしてこの神儒仏の融合によって、庶民救済が実現していくわけです。つまり自然宗教の祖先崇拝や鎮魂思想に、仏教的色彩を施し庶民を救済したのが葬式仏教であるということができます。

 では仏教の実体否定の考え方はどうなったのかというと、それは宗教としてではなく「無の思想」のような哲学として根付いていったものと思われます。 仏教は外見は確かに葬式仏教になりますが、 その中には哲学として「無の思想」に見られるような「無念無想」、 小林秀雄流に言えば「無私の精神」、 また夏目漱石が最後にたどりついた「則天去私」、 西田幾多郎流に言えば「絶対無の場所」、 そういう形で日本文化の高みに位置しているものだと思われます。

 このような文化も突然発生したのではなくて、 室町時代の東山期にみられる竜安寺の石庭 

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                 竜安寺 石庭

また同時代の高い芸術性を持つ雪舟の水墨画

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                秋冬山水図 雪舟

また桃山時代の千利休の侘び茶の精神、 さらに元禄期の松尾芭蕉の「侘び・さび」の世界、 そういったものに脈々と流れているものだと思われます。 また豊臣秀吉の辞世の句、「浪速のことも 夢のまた夢」という思いや、 織田信長が好んで歌ったといわれる敦盛の「人間五十年、下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり」という歌にもそのことは表れています。

 無我というのは自我を消滅させて自分を無にし、周りの世界と自分が一体となったところに真の世界があるというものです。 関係性の中で自己をとらえること、自分に執着しない美徳をもたらすこと、つまりそれは仏教の「縁起」の思想を受け継いでいるのであって、自分だけではなく周りの者も大事にするという慈悲の精神が同時に生まれていきます。 近代の明治になっても、このことは描かれているのであって狩野芳涯の「悲母観音」という絵には慈悲の念が表現されています。

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                「悲母観音」 狩野芳崖 1888年