※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。
【ドイツ】
【三十年戦争】 今度は、中世ではヨーロッパの中心であったドイツです。宗教戦争の本場はここです。ルターはドイツ人であった。この宗教をめぐって血で血を洗う戦いが起こります。これが30年間も続く一番ひどい戦争です。三十年戦争というのが起こる。1618年から1648年まで。この主戦場がドイツです。戦ったのはドイツの中の旧教つまりカトリックと、新教つまりプロテスタントです。
カトリック側の中心は伝統を守ろうとする勢力です。ローマ教会が大好きなドイツ王です。ただドイツ王は正式には神聖ローマ皇帝という。これはドイツの王ですね。この王、引きずり下ろそうぜ、というのが家来の殿様たちです。大名たちです。そういうドイツ領主はプロテスタント側です。
これが外国にそれぞれ応援を求めたから、たんにドイツ内の戦争じゃなくて、国際戦争つまりヨーロッパ全体を巻き込むような戦争になっていっていきます。だからフランスもスウェーデンも加わるんです。そういう大々的な戦争になっていって、いつ果てるとも知れないような、ついには人口の3人に1人が死ぬまで戦うという、すごい戦争になる。
そして決着がはっきりしないまま、とにかくもうやめようよ、というのが1648年です。その地名を取ってウェストファリア条約といいます。ドイツはもうぐちゃぐちゃです。バラバラです。つまり実質的に皇帝が負けたということです。滅ぼされはしないけどももうドイツをまとめる力はありません。逆にお殿様たち、日本でいえば大名が力を持ち出した。
いままではドイツが中心だったがもう力がない。するとフランスが強くなる。イギリスが強くなる。そしてドイツの命令には従わないぞと、イギリスの王様が言う。フランスの王様も言う。それまでは何となくですけど、神聖ローマ皇帝の命令には従わないといけないという合意があったんです。しかしそれがなくなったんです。これが教科書的にいうと主権国家の自立です。つまり近代国家は戦争から出てくる。平和の中から話し合いでできたんじゃない。しかもこのあと戦争はますます激しくなります。主権国家は戦争をする国家です。
【三十年戦争】 今度は、中世ではヨーロッパの中心であったドイツです。宗教戦争の本場はここです。ルターはドイツ人であった。この宗教をめぐって血で血を洗う戦いが起こります。これが30年間も続く一番ひどい戦争です。三十年戦争というのが起こる。1618年から1648年まで。この主戦場がドイツです。戦ったのはドイツの中の旧教つまりカトリックと、新教つまりプロテスタントです。
カトリック側の中心は伝統を守ろうとする勢力です。ローマ教会が大好きなドイツ王です。ただドイツ王は正式には神聖ローマ皇帝という。これはドイツの王ですね。この王、引きずり下ろそうぜ、というのが家来の殿様たちです。大名たちです。そういうドイツ領主はプロテスタント側です。
これが外国にそれぞれ応援を求めたから、たんにドイツ内の戦争じゃなくて、国際戦争つまりヨーロッパ全体を巻き込むような戦争になっていっていきます。だからフランスもスウェーデンも加わるんです。そういう大々的な戦争になっていって、いつ果てるとも知れないような、ついには人口の3人に1人が死ぬまで戦うという、すごい戦争になる。
そして決着がはっきりしないまま、とにかくもうやめようよ、というのが1648年です。その地名を取ってウェストファリア条約といいます。ドイツはもうぐちゃぐちゃです。バラバラです。つまり実質的に皇帝が負けたということです。滅ぼされはしないけどももうドイツをまとめる力はありません。逆にお殿様たち、日本でいえば大名が力を持ち出した。
いままではドイツが中心だったがもう力がない。するとフランスが強くなる。イギリスが強くなる。そしてドイツの命令には従わないぞと、イギリスの王様が言う。フランスの王様も言う。それまでは何となくですけど、神聖ローマ皇帝の命令には従わないといけないという合意があったんです。しかしそれがなくなったんです。これが教科書的にいうと主権国家の自立です。つまり近代国家は戦争から出てくる。平和の中から話し合いでできたんじゃない。しかもこのあと戦争はますます激しくなります。主権国家は戦争をする国家です。
それまではヨーロッパの国々は、神聖ローマ皇帝の命令に従わないといけないという考え方があった。しかし、そんなものくそ食らえだ、あそこはたんにオーストリアを支配している小さな国にすぎないんだ。あと神聖ローマ皇帝はオーストリアを支配するだけです。
あんな大きい国をですか、とか言わないでください。オーストリア人のシャレで、ウィーン空港で「ここにカンガルーはいません」というシャツを売ったという話があります。オーストラリアじゃないですよ。オーストリアです。オーストリアという国があります。ドイツの南に。今は小さな国になってるけど昔は大きかった。今の3倍ぐらいの面積がありました。もともとは神聖ローマ皇帝の本拠地です。ドイツの王様つまり神聖ローマ皇帝はヨーロッパの実権を失ったのです。
ハプスブルク家はドイツの支配権を失い、本拠地オーストリアへ撤退します。以後ハプスブルク帝国は神聖ローマ帝国とは呼ばれず、オーストリア帝国と呼ばれます。
あんな大きい国をですか、とか言わないでください。オーストリア人のシャレで、ウィーン空港で「ここにカンガルーはいません」というシャツを売ったという話があります。オーストラリアじゃないですよ。オーストリアです。オーストリアという国があります。ドイツの南に。今は小さな国になってるけど昔は大きかった。今の3倍ぐらいの面積がありました。もともとは神聖ローマ皇帝の本拠地です。ドイツの王様つまり神聖ローマ皇帝はヨーロッパの実権を失ったのです。
ハプスブルク家はドイツの支配権を失い、本拠地オーストリアへ撤退します。以後ハプスブルク帝国は神聖ローマ帝国とは呼ばれず、オーストリア帝国と呼ばれます。
【イギリス】
【ピューリタン革命】 イギリス革命に行きます。1600年代の世の中は不況です。新大陸からの銀が入ってこなくなって、だんだんと景気が悪くなる。そうなると不安が増大して、今まではそれを宗教で解決していたけれども、宗教同士が戦ってる。そうすると疑心暗鬼になる。何が行われるか。気に入らない人間を魔女としていく。そして裁判にかけて火あぶりにする。こんな蛮行がヨーロッパで盛んになる。一番、魔女刈りで人が殺されたのは、実はこの17世紀です。同時にイギリスで革命が起こっていく。不安と不景気の中で。
不景気の理由は銀の減少です。新大陸からの銀の減少です。そこで革命が起こる。
これがピューリタン革命です。こういう名前でさっき言ったピューリタンが出てくる。ピューリタンとはイギリスのカルヴァン派です。結論をいうと王と戦って、王を殺す。普通は日本だったら百姓一揆で、百姓が負ける。しかしヨーロッパは逆です。本気で腹を立てたら、王が負けていく。そして王だって殺す。
ここから1600年代です。ここはイギリスの内政面で革命が起こるということをやりますが、ここで同時に、こんなイギリスが気にくわないという人は、こんな国捨てて、アメリカに渡って行くぞという人がちらほらできてるんですよ。イギリスからアメリカへの移民です。そういう雰囲気です。しかも国内もヨーロッパ全体も銀が減少して景気が悪い。そういう1600年代です。不況の17世紀といわれます。ここでイギリスにピューリタン革命が起こる。
ピューリタンというのは、宗教改革でカトリックに反対したプロテスタントの一派です。より具体的にいうとルター派ではなくて、第2のルターになるカルヴァン派です。
特徴はお金大好きで、仕事も大好き、金稼ぐのも大好きという人たちです。それが自分が救われた証拠だという宗派です。これ漢字で清教徒という。なぜ清らかなキリスト教徒という言われるか。とにかくで几帳面で、時間に厳しく、綺麗好き、家の中も掃除を1日2回3回、まだ足りずに暇さえあれば磨いている。ドアのノブまで一所懸命磨いていないと気が済まない。他宗派の人が、皮肉交じりに清教徒と呼んだ。本当はお金が大好きです。この人たちが時の王様に歯向かう。
王様はジェームズ1世。息子は次の王でチャールズ1世。彼らは神聖ローマ帝国がほぼガタガタになったあと・・・これはドイツなんですが・・・国の主権は王にある、神様がそう決めたんだ、という王権神授説というのを唱えて、いばり出すんです。
すでに1200年代からイギリスの特徴としては議会があった。これは王様に文句を言う組織です。それを王は、俺は神様から主権をもらってるんだ、黙っていろという。ナンデやと、議会は腹を立てる。いつからそんなになったのか。王は300年も前から議会の伝統を守ってきた。それを守れよ。それを最初はちょっと丁重にお願いした。これが権利の請願です。1628年です。お願いです。守ってください。権利というのは、貴族の権利、その貴族の権利を、話し合って王に言うのが議会なんです。
するとチャールズ1世は、しゃらくせー、おまえたちは解散だ、もう来るな、と言った。そこからです。議会が反発して徹底的にやる。じゃあ、やってやろうじゃないかと。
ほぼ同時に、海をわたってすぐのオランダ、ここは小さい国ですが、当時景気がよかった唯一の国なんです。オスマン帝国からもらった珍しい花、チューリップの球根にお金をつぎ込む人ができて一株100万、200万になる。これが1637年のチューリップバブルです。たんなるチューリップの球根が、100万円、200万円になる。しかしこんなことは、いつまでも続かない。ピークをつけたら、さっと一気に落ちる。これがバブルです。400年経った21世紀の今でも、人間は学習能力ないですね。同じことを、もっと大規模に世界規模でやってる。そんなことの始まりはここからです。
イギリスの王は議会の反発に懲りて1640年、そんならわかった、議会だけは開いてやろう。でも開いたところがやっぱり意見があわないんです。ますます議会と王が対立して、ここからピューリタン革命が起こっていく。革命というのは血が流れる、と思ってください。日本流にいうと内乱です。
イギリス人が王党派つまり王を支持する人と、議会を支持する人に真っ二つに分かれていく。一方ではイギリスを見捨ててアメリカに渡っていく人もいる。そういうなかで、ぐちゃぐちゃになって、こういう戦争が7年、8年続くんです。
ふつう日本だったら百姓一揆は農民が負けるんです。ヨーロッパはそうじゃない。王が殺されていく。逆に議会側が勝利する。勝利するということは、以後気をつけろよ、そんなあまいものじゃない。王が処刑される。1649年、チャールズ1世処刑です。これがヨーロッパです。
この後しばらくはイギリスは王様がいない国になります。議会派の軍隊を率いていた中心人物が中心になって・・・王にはならないけど・・・政治を行う。この人がクロムウェルです。宗教はピューリタンです。決まりにうるさい、時間にうるさい、非常に厳格な政治を行う。決まり通りしないと気が済まない。実績も上げ、戦さにも強いけれど、人気は今ひとつです。この人がピューリタン的な独裁政治をする。
政権を握るとクロムウェルは下級階級を弾圧し始めます。特に下層階級で急進的な共和制を主張した水平派と呼ばれる人々を危険視し、大勢を処刑しました。一方クロムウェルは、政権運営のために、台頭するブルジョワ中産階級の経済力が必要と考え、中産階級を擁護する政治を行います。王政を倒す革命のエネルギーを下級階級に求め、革命が成功すると彼らを切り捨て、政権運営能力を中産階級に求め彼らと手を組みました。
【英蘭戦争】 ただこの間にも戦いは強い。唯一景気がよかったオランダと戦って、1回、2回、3回ともイギリスが勝つ。ここでオランダとイギリスの関係が逆転する。100年前のエリザベス1世の時はスペインだった。その次はこのオランダです。このピューリタン革命のあとに強いイギリスになっていく。この3回にわたる戦い英蘭戦争です。
海の航路、大西洋貿易航路を、イギリスがオランダから奪う。奪うと同時に、平和な国になっていくかというととんでもない。アフリカから奴隷を連れてきて、売り払っていく。この中心になっていくのがイギリスなんです。それで奴隷貿易が活発化する。奴隷三角貿易というのは、イギリス・アフリカ・アメリカ、この三角形です。奴隷が取り引きされていく。このピークがこの頃、1650年頃です。
※第2段階 イギリスの第2段階の収奪は、17世紀後半以降の黒人奴隷貿易です。黒人をカリブ海の西インド諸島に搬送し、砂糖プランテーションで強制労働させて、砂糖をイギリスに持ち帰る三角貿易を行います。
イギリスは17~18世紀、スペインやフランスという競合者と戦争し、彼らに勝利することで奴隷貿易を独占し、莫大な利益を上げていきます。当時、奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを受けていたとされます。この犯罪的な人身売買ビジネスが、イギリスにとって極めて有望な高収益事業であったことは間違いありません。
18世紀前半から産業革命が始まると、綿需要が高まり、綿花栽培のプランテーションが西インド諸島につくられます。綿花は砂糖に並んで「白い積み荷」となります。17~18世紀のイギリスは砂糖や綿花を生産した黒人奴隷の労働力とその搾取のうえに成立していました。
1790年代に産業革命が本格化すると、西インド諸島のプランテーションだけでは原綿生産が間に合わ間に合わず、アメリカ合衆国南部一帯にも大規模な綿花プランテーションが形成され、黒人奴隷が使われました。
18世紀後半に至るまで1000万~1500万人の奴隷たちがアフリカから連行されたため、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇しました。
人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年、奴隷貿易禁止法を制定します。しかし、それでも19世紀半ばまで奴隷貿易は続きます。この頃、イギリスはインドの植民地化を着々と進め、インド産の原綿を収奪しました。(宇山卓栄 経済)
それで1655年、その頃イギリスはジャマイカ、カリブ海に浮かぶ島です。そのジャマイカにアフリカの黒人奴隷を連れてくる。オリンピックの短距離走で世界最速の男フセイン・ボルトはここの出身だった。彼も黒人です。
そこで何を作るか。ちょうどヨーロッパで中国のお茶が流行りだした頃です。それに砂糖を入れたくてたまらないわけです。それでサトウキビをつくる。誰が耕すか。イギリス人は鞭を持っているだけ。働くのは当然、アメリカからの奴隷です。
変な話があって、なぜイギリス人はお茶に砂糖を入れたかったのか。もともと豊かなのは中国です。売らなくても中国は成り立ってるんだけれども、そこに来たイギリス人がどうしてもお茶が欲しいと言うものだから、仕方なく中国人は売ってやった。だから不要な余ったお茶しか売ってないんです。まずいお茶だった。だからイギリス人は砂糖を入れたくなる。上級なお茶、我々が飲んでいるような日本茶なんか、砂糖を入れようという発想を日本人はしない。あれは上等なお茶だからです。まずいお茶には砂糖を入れる。しかしこれが紅茶になって明治以降に日本に伝わって、イギリス流の紅茶はさすがおいしいとか誰かが言い始めた。もともと低俗なお茶です。そこらへんけっこう勘違いしている人が多い。
【金匠手形】 もう一つ変なことが起こるんですけれども、この時代は金(きん)を預かる商売がある。物騒で泥棒がいっぱいいて、金を家の箪笥の引き出しに入れていたら、泥棒が土足で踏みにじって取られてしまう。不安で仕方がないから、金を扱う業者に預ける。これを預かった人たちが、預かった証拠に預かり証を切るんです。
例えば、ズボンを買うときにはスソを曲げてくださいといって、いったんそこに預けるでしょう。その時に1週間後に来てください、と引換券をもらう。これはスボンと同じ価値がある。この引換券が、お金と同じ価値を持って流通し始めるんですよ。これが銀行券つまり今の紙幣の始まりです。1万円札は正式には日本銀行券です。銀行が発行したものです。もともとは金の引換証です。これちょっとブラックなところがあって、資本主義の隠れた伏線ですね。
※ イギリスで銀行が誕生するには1つのドラマがあった。1640年、従来、ロンドンの商人たちは、金貨や銀貨などの貴金属を当時造幣所があったロンドン塔に預けていた。ところが議会と対立して財政難に陥った国王チャールズ1世が13万ポンドにむおよぶ貴金属を差し押さえてしまう。王は4万ポンドの貸し付けを条件に貴金属を返還したものの、貸し付け分は返済されなかった。
政府への信頼をなくしたロンドン商人は、長い間シティで両替業を行っていたゴールドスミス(金匠・金細工師)に貨幣を預けるようになる。ゴールドスミスは、貨幣を預かり、ベネチア銀行にならって預金証書を発行した。やがて預金証書を、同じ額の「金匠手形」という補助券に分割する。一種の紙幣である。便利な「金匠手形」はお金よりも広汎に流通したという。
ゴールドスミスは、預金者が請求すればお金を返済したが、沢山のお金が手元に残されているのが常だった。そこでゴールドスミスは、手元に残されたお金を短期で貸し付けたり、手形の割引をしたりするようになった。ゴールドスミスが保管するお金が、預金と貸し付けの保証として作用するようになったのである。(宮崎正勝 お金の世界史)
話を戻すと、それでイギリスではお茶と砂糖をミックスして紅茶を飲み始める。これが爆発的な流行を生む。
【名誉革命】 そして王がいない政治が20年近く続いていく。そして1688年に2回目の革命が起こるんです。これを名誉革命という。この説明をします。
ピューリタンというのは、宗教改革でカトリックに反対したプロテスタントの一派です。より具体的にいうとルター派ではなくて、第2のルターになるカルヴァン派です。
特徴はお金大好きで、仕事も大好き、金稼ぐのも大好きという人たちです。それが自分が救われた証拠だという宗派です。これ漢字で清教徒という。なぜ清らかなキリスト教徒という言われるか。とにかくで几帳面で、時間に厳しく、綺麗好き、家の中も掃除を1日2回3回、まだ足りずに暇さえあれば磨いている。ドアのノブまで一所懸命磨いていないと気が済まない。他宗派の人が、皮肉交じりに清教徒と呼んだ。本当はお金が大好きです。この人たちが時の王様に歯向かう。
王様はジェームズ1世。息子は次の王でチャールズ1世。彼らは神聖ローマ帝国がほぼガタガタになったあと・・・これはドイツなんですが・・・国の主権は王にある、神様がそう決めたんだ、という王権神授説というのを唱えて、いばり出すんです。
すでに1200年代からイギリスの特徴としては議会があった。これは王様に文句を言う組織です。それを王は、俺は神様から主権をもらってるんだ、黙っていろという。ナンデやと、議会は腹を立てる。いつからそんなになったのか。王は300年も前から議会の伝統を守ってきた。それを守れよ。それを最初はちょっと丁重にお願いした。これが権利の請願です。1628年です。お願いです。守ってください。権利というのは、貴族の権利、その貴族の権利を、話し合って王に言うのが議会なんです。
するとチャールズ1世は、しゃらくせー、おまえたちは解散だ、もう来るな、と言った。そこからです。議会が反発して徹底的にやる。じゃあ、やってやろうじゃないかと。
ほぼ同時に、海をわたってすぐのオランダ、ここは小さい国ですが、当時景気がよかった唯一の国なんです。オスマン帝国からもらった珍しい花、チューリップの球根にお金をつぎ込む人ができて一株100万、200万になる。これが1637年のチューリップバブルです。たんなるチューリップの球根が、100万円、200万円になる。しかしこんなことは、いつまでも続かない。ピークをつけたら、さっと一気に落ちる。これがバブルです。400年経った21世紀の今でも、人間は学習能力ないですね。同じことを、もっと大規模に世界規模でやってる。そんなことの始まりはここからです。
イギリスの王は議会の反発に懲りて1640年、そんならわかった、議会だけは開いてやろう。でも開いたところがやっぱり意見があわないんです。ますます議会と王が対立して、ここからピューリタン革命が起こっていく。革命というのは血が流れる、と思ってください。日本流にいうと内乱です。
イギリス人が王党派つまり王を支持する人と、議会を支持する人に真っ二つに分かれていく。一方ではイギリスを見捨ててアメリカに渡っていく人もいる。そういうなかで、ぐちゃぐちゃになって、こういう戦争が7年、8年続くんです。
ふつう日本だったら百姓一揆は農民が負けるんです。ヨーロッパはそうじゃない。王が殺されていく。逆に議会側が勝利する。勝利するということは、以後気をつけろよ、そんなあまいものじゃない。王が処刑される。1649年、チャールズ1世処刑です。これがヨーロッパです。
この後しばらくはイギリスは王様がいない国になります。議会派の軍隊を率いていた中心人物が中心になって・・・王にはならないけど・・・政治を行う。この人がクロムウェルです。宗教はピューリタンです。決まりにうるさい、時間にうるさい、非常に厳格な政治を行う。決まり通りしないと気が済まない。実績も上げ、戦さにも強いけれど、人気は今ひとつです。この人がピューリタン的な独裁政治をする。
政権を握るとクロムウェルは下級階級を弾圧し始めます。特に下層階級で急進的な共和制を主張した水平派と呼ばれる人々を危険視し、大勢を処刑しました。一方クロムウェルは、政権運営のために、台頭するブルジョワ中産階級の経済力が必要と考え、中産階級を擁護する政治を行います。王政を倒す革命のエネルギーを下級階級に求め、革命が成功すると彼らを切り捨て、政権運営能力を中産階級に求め彼らと手を組みました。
【英蘭戦争】 ただこの間にも戦いは強い。唯一景気がよかったオランダと戦って、1回、2回、3回ともイギリスが勝つ。ここでオランダとイギリスの関係が逆転する。100年前のエリザベス1世の時はスペインだった。その次はこのオランダです。このピューリタン革命のあとに強いイギリスになっていく。この3回にわたる戦い英蘭戦争です。
海の航路、大西洋貿易航路を、イギリスがオランダから奪う。奪うと同時に、平和な国になっていくかというととんでもない。アフリカから奴隷を連れてきて、売り払っていく。この中心になっていくのがイギリスなんです。それで奴隷貿易が活発化する。奴隷三角貿易というのは、イギリス・アフリカ・アメリカ、この三角形です。奴隷が取り引きされていく。このピークがこの頃、1650年頃です。
※第2段階 イギリスの第2段階の収奪は、17世紀後半以降の黒人奴隷貿易です。黒人をカリブ海の西インド諸島に搬送し、砂糖プランテーションで強制労働させて、砂糖をイギリスに持ち帰る三角貿易を行います。
イギリスは17~18世紀、スペインやフランスという競合者と戦争し、彼らに勝利することで奴隷貿易を独占し、莫大な利益を上げていきます。当時、奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを受けていたとされます。この犯罪的な人身売買ビジネスが、イギリスにとって極めて有望な高収益事業であったことは間違いありません。
18世紀前半から産業革命が始まると、綿需要が高まり、綿花栽培のプランテーションが西インド諸島につくられます。綿花は砂糖に並んで「白い積み荷」となります。17~18世紀のイギリスは砂糖や綿花を生産した黒人奴隷の労働力とその搾取のうえに成立していました。
1790年代に産業革命が本格化すると、西インド諸島のプランテーションだけでは原綿生産が間に合わ間に合わず、アメリカ合衆国南部一帯にも大規模な綿花プランテーションが形成され、黒人奴隷が使われました。
18世紀後半に至るまで1000万~1500万人の奴隷たちがアフリカから連行されたため、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇しました。
人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年、奴隷貿易禁止法を制定します。しかし、それでも19世紀半ばまで奴隷貿易は続きます。この頃、イギリスはインドの植民地化を着々と進め、インド産の原綿を収奪しました。(宇山卓栄 経済)
それで1655年、その頃イギリスはジャマイカ、カリブ海に浮かぶ島です。そのジャマイカにアフリカの黒人奴隷を連れてくる。オリンピックの短距離走で世界最速の男フセイン・ボルトはここの出身だった。彼も黒人です。
そこで何を作るか。ちょうどヨーロッパで中国のお茶が流行りだした頃です。それに砂糖を入れたくてたまらないわけです。それでサトウキビをつくる。誰が耕すか。イギリス人は鞭を持っているだけ。働くのは当然、アメリカからの奴隷です。
変な話があって、なぜイギリス人はお茶に砂糖を入れたかったのか。もともと豊かなのは中国です。売らなくても中国は成り立ってるんだけれども、そこに来たイギリス人がどうしてもお茶が欲しいと言うものだから、仕方なく中国人は売ってやった。だから不要な余ったお茶しか売ってないんです。まずいお茶だった。だからイギリス人は砂糖を入れたくなる。上級なお茶、我々が飲んでいるような日本茶なんか、砂糖を入れようという発想を日本人はしない。あれは上等なお茶だからです。まずいお茶には砂糖を入れる。しかしこれが紅茶になって明治以降に日本に伝わって、イギリス流の紅茶はさすがおいしいとか誰かが言い始めた。もともと低俗なお茶です。そこらへんけっこう勘違いしている人が多い。
【金匠手形】 もう一つ変なことが起こるんですけれども、この時代は金(きん)を預かる商売がある。物騒で泥棒がいっぱいいて、金を家の箪笥の引き出しに入れていたら、泥棒が土足で踏みにじって取られてしまう。不安で仕方がないから、金を扱う業者に預ける。これを預かった人たちが、預かった証拠に預かり証を切るんです。
例えば、ズボンを買うときにはスソを曲げてくださいといって、いったんそこに預けるでしょう。その時に1週間後に来てください、と引換券をもらう。これはスボンと同じ価値がある。この引換券が、お金と同じ価値を持って流通し始めるんですよ。これが銀行券つまり今の紙幣の始まりです。1万円札は正式には日本銀行券です。銀行が発行したものです。もともとは金の引換証です。これちょっとブラックなところがあって、資本主義の隠れた伏線ですね。
※ イギリスで銀行が誕生するには1つのドラマがあった。1640年、従来、ロンドンの商人たちは、金貨や銀貨などの貴金属を当時造幣所があったロンドン塔に預けていた。ところが議会と対立して財政難に陥った国王チャールズ1世が13万ポンドにむおよぶ貴金属を差し押さえてしまう。王は4万ポンドの貸し付けを条件に貴金属を返還したものの、貸し付け分は返済されなかった。
政府への信頼をなくしたロンドン商人は、長い間シティで両替業を行っていたゴールドスミス(金匠・金細工師)に貨幣を預けるようになる。ゴールドスミスは、貨幣を預かり、ベネチア銀行にならって預金証書を発行した。やがて預金証書を、同じ額の「金匠手形」という補助券に分割する。一種の紙幣である。便利な「金匠手形」はお金よりも広汎に流通したという。
ゴールドスミスは、預金者が請求すればお金を返済したが、沢山のお金が手元に残されているのが常だった。そこでゴールドスミスは、手元に残されたお金を短期で貸し付けたり、手形の割引をしたりするようになった。ゴールドスミスが保管するお金が、預金と貸し付けの保証として作用するようになったのである。(宮崎正勝 お金の世界史)
話を戻すと、それでイギリスではお茶と砂糖をミックスして紅茶を飲み始める。これが爆発的な流行を生む。
【名誉革命】 そして王がいない政治が20年近く続いていく。そして1688年に2回目の革命が起こるんです。これを名誉革命という。この説明をします。
ピューリタン革命後、イギリス人は考えた。今までずっと王がいてイヤだったけど、王がいないのも何かと不便だな。代わりのクロムウェルもちょっとねえ。王様はやっぱりいた方がいいんじゃないか。それで処刑されたチャールズ1世の弟がまた王になる。これがチャールズ2世です。こうやって王が復活するんです。これを王政復古という。1660年です。
議会政をとなえる中産階級と王政をとなえる上流階級の両者の折衷案である立憲君主主義の考え方が誕生します。
この王の治世下で、オランダとの戦争に勝ちます。オランダはアメリカに植民地を持っていた。そこにニューアムステルダムという都市をつくっている。それをイギリスが奪って名前まで変える。ニューアムステルダムというのはオランダの都市じゃないか。イギリスの名前にしよう。イギリスにヨーク地方という毛織物の産地がある。ここは景気がいいんですね。ここの名前をつける。これが今の世界最大の都市、アメリカのニューヨークになる。新しいヨーク地方という意味です。これが1664年です。
一方で不況の中、多くの貧しいイギリス人がアメリカに渡っている。新天地を求めて。
いろいろな伝染病も入ってくる。船に乗ったり、シルクロードの行き来があると、ヨーロッパになかったような風土病が伝わったりする。最大のものがペストです。
戦争はするわ、王様は殺すわ、奴隷貿易はするわ、伝染病は流行るわ、小氷期で気温は下がるわ、大変な時代です。
政治に戻ると、、王政復古したチャールズ2世が、また自分のいいようにしだすんです。議会のいうことを聞かない。それでまた議会と対立する。それでまた同じことが起こるのかというと、議会の中にも王がいないとまずいという考え方も半分出てくる。王様は必要だという考えのグループ、これをトーリー党という。王様のいうトーリー、そんな感じです。それに対して、王は要らない、議会で決めればいいじゃないか、これをホイッグ党という。これが今の日本にもある政党の始まりです。
考え方を同じにする人たちが政治的グループを作っていく。そして議会で話し合うんです。この政党同士が話し合って話がまとまる。王はやはり追放しよう。1688年、チャールズ2世の弟で新しい王になっていたジェームズ2世を追放する。
実は追放される前に、これは命が危ないと思ったジェームズ2世は、夜の夜中に、テムズ川というロンドンを流れる川に船を浮かべて、自分ですたこらさっさと逃げていく。
ではこれで王はいなくなったのかというと、イギリス人がやることは、ちょっと中途半端というか、今度はジェームズ2世の娘を王にする。娘は結婚してオランダの王に嫁いでいた。その娘夫婦を二人で共同で王にするんです。これがメアリー2世とウィリアム3世です。変な形ですね。けっきょく王になったのはオランダの王です。オランダの王を招いて、新しいイギリスの王とする。
オランダは英蘭戦争でイギリスに敗北し、復讐感情を持っていました。そのオランダに対しイギリスは破格の誠意を示します。1688年、名誉革命でジェームズ2世が追放され、オランダから総督ウィレムと妻メアリーを国王として招きます。オランダのトップをイギリス国王として迎え、オランダと一体化していきます。
この時に、オランダの王の取り巻き連中が一緒にイギリスについて来る。オランダは商業の国だから商売人が多い。その中にけっこうユダヤ人がいるんです。そのユダヤ人がイギリスで何を始めるかというと・・・ユダヤ人は金貸し業が多い・・・金融業つまり銀行業に入っていく。これが10年後に何をつくるか。それがもう一つの伏線になります。
その前に政治的なことを言うと、議会はこの新しい王に対して、議会の権利をちゃんと認めなさい、王にしてやるから認めなさい、という。これを認めないといったところから名誉革命が始まった。わかった、認めよう。これで確定です。これを権利の章典といいます。1689年です。
何を認めるかというのは、この章典にいろいろ書いてある。しかし一番大事なことは何かというと税金です。税金を勝手に取らない、勝手に上げない、ということです。消費税、来年上がりますね。安倍首相がそう言っている。課税権は議会にある。王が課税したいという時には、必ず議会に相談してその了解をもらいなさい。議会がダメと言ったらダメです。
決定権は王にはないのです。でも一番お金がいるのは戦争です。イギリスはこのあとずっと戦争していきます。戦争するにはお金がいる。税金を取りたいけど取れない。どうするかという問題です。
結論をいうと、銀行から借りるんです。銀行から借金して戦争していく。それで勝っていくんです。銀行がそのお金を貸す。だから新しい王様は銀行に頭が上がらない。
【財政革命】 それが財政革命です。お金がないから借金したいんです。この借金の方法が、今まで他の国と違って、借用書を発行して、これを100万円で買ってくれよ。これが世界初の国債です。
日本は現在1000兆円もの国債を発行してます。日本も借金大国です。ナンバーワンはその2倍、2000兆円を借金しているアメリカです。その次が日本です。国債での借金はここから始まります。
借金して何するか。フランスとの戦争です。これを1688年からのファルツ継承戦争といいます。名誉革命と同時に始まっています。その戦争を続けるために銀行が欠かせなくなります。
【イングランド銀行】 しかしその借金に応じる国民がいないんですよ。だから何をつくるか。それがイングランド銀行です。1694年です。名誉革命から6年後です。イギリスは忙しい。王が殺され、2回革命が起こって、革命が終わったらすぐにフランスと戦争して、借金するために銀行をつくるんです。
しかしこの資金源は国王の手持ち資金ではありません。民間の金融業者たちの資金を集めたものです。ということはこの銀行は民間銀行に過ぎません。この民間銀行から、王様はお金を借ります。
この頃、お金が何になりはじめていたか。紙幣になりはじめていた。紙のお金でよかったら銀行はいくらでもお金を刷れる。これは、ここ数年やたらと一万円札を刷っている今の日本銀行と同じです。紙でよかったらいくらでもお金を刷れる。戦争したいからお金を貸せと言うと、良いですよ、何枚要りますか、いくらでも刷りますよ、それでお金を貸すんです。何か変な話です。こうやってイングランド銀行がイギリス国債を買うんです。そしてその代金をイギリス政府に払います。これを国債を引き受けるという言い方をします。
イギリスが戦争に強かったのはこういう変なお金の発行の仕方を発明して、紙のお金がいくらでもあるからです。そのお金で武器弾薬をいくらでも買うことができるんです。
フランスはその点、そういうことをしないから戦争には弱い。ある意味きまじめです。お金は金貨じゃないとダメだというルールを守っている。でもフランスにはその金貨がないんです。
しかしイギリスの紙幣はいくらでも刷れます。王様が銀行に紙幣の発行を認めさえすれば紙がお金になります。このスタイルが世界中に広まって、今のお金になっています。それはここから始まります。
しかし目的は戦争に使うためです。これが通貨発行権ですよ。紙のお金を自由に発行する権利を銀行が持つようになった。それを王が認めた。これがのちの中央銀行になります。日本でいえば日本銀行です。イングランド銀行はこういう形で、世界初の本格的中央銀行になります。
だからイギリスにはガッポリ、紙のお金がある。銀行から借金して紙のお金をもらう。借金したお金だろうが、お金に変わりはないんだから、武器、弾薬、戦争に必要なものは何でもガバガバ買える。フランスの何倍も買える。兵隊の給料だって払える。だからイギリスが強いんです。その銀行業の中心にオランダから来た金貸し業のユダヤ人がいるんです。
こんなことをするんだったら、イギリス政府が直接紙幣を発行すればいいという考え方もあります。これが銀行券ではなくて、政府紙幣です。しかしこれをやられると銀行家の商売はあがったりです。銀行券と政府紙幣の違いは何か。政府紙幣はいくら発行しても利息は発生しません。しかし銀行券には利息が発生します。中央銀行が政府にお金を貸しているからです。ではその利息は誰が払うか。政府が国民から徴収した税金の中から払うんです。つまりこれは国民が中央銀行に税金を払うここと同じことです。
紙幣を刷るだけで国民の税金が手に入る。このぼろい儲けを銀行家たちは決して手放そうとしません。逆にいうと、政府紙幣を発行しようとする政治家は銀行家たちにとっては敵なんです。
【奴隷貿易】 ここからちょっと変な話なんですけど、これと同時進行でイギリスに不満をもつイギリス人はアメリカに乗りだしていく。イギリスの西に、大西洋を越えたところにアメリカがあるから、大西洋をまたいで貿易をしていく。過去にはスペインもやってた。オランダもやってた。ただ1600年代の中心はイギリスです。奴隷貿易の中心もスペインからイギリスに移っていく。そこで奴隷貿易をやる。
アフリカの現地の人たちを・・・これは今でいう拉致ですよ・・・勝手に捕まえて来て、船に乗せて奴隷として売り飛ばしていくんです。
そこでイギリス人が経営する・・・砂糖が欲しいでしょ・・・サトウキビの農場で働かされる。紅茶を飲むために。紅茶ぐらいで、とバカにしないでください。この砂糖で稼ぐんです。
もともとアメリカに住んでいた原住民たちは、重労働でバタバタ死んでいく。そこに伝染病も加わって死んでいく。その労働力不足の補充にアフリカから奴隷貿易で黒人奴隷を連れてくる。そしてアメリカに売る。これが利益莫大です。犬猫どころじゃない、高級ロボットどころじゃない。言葉が分かって、言われたとおり、指示どおりに働いてくれる機械だから、奴隷というのは法外の値段で売れます。これでイギリスはガッポリ儲けた。そのピークが1650年ぐらいです。さっき終わった2回のイギリス革命の中間ごろです。イギリス革命と同時にこういった事が起こっています。
そのアメリカで作られたサトウキビからできた砂糖を購入し、砂糖入り紅茶を飲む生活スタイルがまず確立する。紅茶はお茶です。しかも低品質のボロ茶です。
社会的に重要なのは、そういうあこぎな商売人たちがお金をガッポリ稼ぎ、お金を貯めだしたということです。こういう貯まったお金のことを経済的に資本という。この資本が次の1700年代にイギリス産業革命の資金源になる。
もともとは何の金か。奴隷を売った金です。つまり産業革命の富の源は奴隷貿易の利益です。
【キャラコ貿易】 もう一つあります。イギリスはインドを植民地にしていた。このインドではヨーロッパでは取れない植物繊維があった。
ヨーロッパ人は毛糸を着ている。毛糸は洗うと縮むから洗えない。だから臭い生活をしてる。しかしインド人は・・・これはキャラコとインドでは言ってるんだけど・・・綿織物を着ている。着ているものが違うんです。洗えるじゃないか。綺麗じゃないか。清潔じゃないか。着心地がいい、これ欲しいな。
イギリスは奴隷貿易で儲けている。ある程度お金を持ち出した。高いインド産キャラコが買えるようになる。するとこのキャラコが熱狂的に流行する。
そうなると、今まで着ていた毛織物が売れなくなって、毛織物業者がバタバタと倒産していく。だから1700年代には一旦インドからの綿織物は禁止される。国内産業を保護するためです。
そしてピューリタン革命から100年ぐらい経って、イギリスに産業革命が起こると・・・それ以前には綿織物を作る技術はイギリスは持ってなかったけど・・・100年後に技術が進歩すると、国産化できるようになる。つまりイギリスで綿織物がつくれるようになる。これを今度はインドに輸出して儲ける。こういう先の流れがあります。
戦争はするわ、王様は殺すわ、奴隷貿易はするわ、伝染病は流行るわ、小氷期で気温は下がるわ、大変な時代です。
政治に戻ると、、王政復古したチャールズ2世が、また自分のいいようにしだすんです。議会のいうことを聞かない。それでまた議会と対立する。それでまた同じことが起こるのかというと、議会の中にも王がいないとまずいという考え方も半分出てくる。王様は必要だという考えのグループ、これをトーリー党という。王様のいうトーリー、そんな感じです。それに対して、王は要らない、議会で決めればいいじゃないか、これをホイッグ党という。これが今の日本にもある政党の始まりです。
考え方を同じにする人たちが政治的グループを作っていく。そして議会で話し合うんです。この政党同士が話し合って話がまとまる。王はやはり追放しよう。1688年、チャールズ2世の弟で新しい王になっていたジェームズ2世を追放する。
実は追放される前に、これは命が危ないと思ったジェームズ2世は、夜の夜中に、テムズ川というロンドンを流れる川に船を浮かべて、自分ですたこらさっさと逃げていく。
ではこれで王はいなくなったのかというと、イギリス人がやることは、ちょっと中途半端というか、今度はジェームズ2世の娘を王にする。娘は結婚してオランダの王に嫁いでいた。その娘夫婦を二人で共同で王にするんです。これがメアリー2世とウィリアム3世です。変な形ですね。けっきょく王になったのはオランダの王です。オランダの王を招いて、新しいイギリスの王とする。
オランダは英蘭戦争でイギリスに敗北し、復讐感情を持っていました。そのオランダに対しイギリスは破格の誠意を示します。1688年、名誉革命でジェームズ2世が追放され、オランダから総督ウィレムと妻メアリーを国王として招きます。オランダのトップをイギリス国王として迎え、オランダと一体化していきます。
この時に、オランダの王の取り巻き連中が一緒にイギリスについて来る。オランダは商業の国だから商売人が多い。その中にけっこうユダヤ人がいるんです。そのユダヤ人がイギリスで何を始めるかというと・・・ユダヤ人は金貸し業が多い・・・金融業つまり銀行業に入っていく。これが10年後に何をつくるか。それがもう一つの伏線になります。
その前に政治的なことを言うと、議会はこの新しい王に対して、議会の権利をちゃんと認めなさい、王にしてやるから認めなさい、という。これを認めないといったところから名誉革命が始まった。わかった、認めよう。これで確定です。これを権利の章典といいます。1689年です。
何を認めるかというのは、この章典にいろいろ書いてある。しかし一番大事なことは何かというと税金です。税金を勝手に取らない、勝手に上げない、ということです。消費税、来年上がりますね。安倍首相がそう言っている。課税権は議会にある。王が課税したいという時には、必ず議会に相談してその了解をもらいなさい。議会がダメと言ったらダメです。
決定権は王にはないのです。でも一番お金がいるのは戦争です。イギリスはこのあとずっと戦争していきます。戦争するにはお金がいる。税金を取りたいけど取れない。どうするかという問題です。
結論をいうと、銀行から借りるんです。銀行から借金して戦争していく。それで勝っていくんです。銀行がそのお金を貸す。だから新しい王様は銀行に頭が上がらない。
【財政革命】 それが財政革命です。お金がないから借金したいんです。この借金の方法が、今まで他の国と違って、借用書を発行して、これを100万円で買ってくれよ。これが世界初の国債です。
日本は現在1000兆円もの国債を発行してます。日本も借金大国です。ナンバーワンはその2倍、2000兆円を借金しているアメリカです。その次が日本です。国債での借金はここから始まります。
借金して何するか。フランスとの戦争です。これを1688年からのファルツ継承戦争といいます。名誉革命と同時に始まっています。その戦争を続けるために銀行が欠かせなくなります。
【イングランド銀行】 しかしその借金に応じる国民がいないんですよ。だから何をつくるか。それがイングランド銀行です。1694年です。名誉革命から6年後です。イギリスは忙しい。王が殺され、2回革命が起こって、革命が終わったらすぐにフランスと戦争して、借金するために銀行をつくるんです。
しかしこの資金源は国王の手持ち資金ではありません。民間の金融業者たちの資金を集めたものです。ということはこの銀行は民間銀行に過ぎません。この民間銀行から、王様はお金を借ります。
この頃、お金が何になりはじめていたか。紙幣になりはじめていた。紙のお金でよかったら銀行はいくらでもお金を刷れる。これは、ここ数年やたらと一万円札を刷っている今の日本銀行と同じです。紙でよかったらいくらでもお金を刷れる。戦争したいからお金を貸せと言うと、良いですよ、何枚要りますか、いくらでも刷りますよ、それでお金を貸すんです。何か変な話です。こうやってイングランド銀行がイギリス国債を買うんです。そしてその代金をイギリス政府に払います。これを国債を引き受けるという言い方をします。
イギリスが戦争に強かったのはこういう変なお金の発行の仕方を発明して、紙のお金がいくらでもあるからです。そのお金で武器弾薬をいくらでも買うことができるんです。
フランスはその点、そういうことをしないから戦争には弱い。ある意味きまじめです。お金は金貨じゃないとダメだというルールを守っている。でもフランスにはその金貨がないんです。
しかしイギリスの紙幣はいくらでも刷れます。王様が銀行に紙幣の発行を認めさえすれば紙がお金になります。このスタイルが世界中に広まって、今のお金になっています。それはここから始まります。
しかし目的は戦争に使うためです。これが通貨発行権ですよ。紙のお金を自由に発行する権利を銀行が持つようになった。それを王が認めた。これがのちの中央銀行になります。日本でいえば日本銀行です。イングランド銀行はこういう形で、世界初の本格的中央銀行になります。
だからイギリスにはガッポリ、紙のお金がある。銀行から借金して紙のお金をもらう。借金したお金だろうが、お金に変わりはないんだから、武器、弾薬、戦争に必要なものは何でもガバガバ買える。フランスの何倍も買える。兵隊の給料だって払える。だからイギリスが強いんです。その銀行業の中心にオランダから来た金貸し業のユダヤ人がいるんです。
こんなことをするんだったら、イギリス政府が直接紙幣を発行すればいいという考え方もあります。これが銀行券ではなくて、政府紙幣です。しかしこれをやられると銀行家の商売はあがったりです。銀行券と政府紙幣の違いは何か。政府紙幣はいくら発行しても利息は発生しません。しかし銀行券には利息が発生します。中央銀行が政府にお金を貸しているからです。ではその利息は誰が払うか。政府が国民から徴収した税金の中から払うんです。つまりこれは国民が中央銀行に税金を払うここと同じことです。
紙幣を刷るだけで国民の税金が手に入る。このぼろい儲けを銀行家たちは決して手放そうとしません。逆にいうと、政府紙幣を発行しようとする政治家は銀行家たちにとっては敵なんです。
【奴隷貿易】 ここからちょっと変な話なんですけど、これと同時進行でイギリスに不満をもつイギリス人はアメリカに乗りだしていく。イギリスの西に、大西洋を越えたところにアメリカがあるから、大西洋をまたいで貿易をしていく。過去にはスペインもやってた。オランダもやってた。ただ1600年代の中心はイギリスです。奴隷貿易の中心もスペインからイギリスに移っていく。そこで奴隷貿易をやる。
アフリカの現地の人たちを・・・これは今でいう拉致ですよ・・・勝手に捕まえて来て、船に乗せて奴隷として売り飛ばしていくんです。
そこでイギリス人が経営する・・・砂糖が欲しいでしょ・・・サトウキビの農場で働かされる。紅茶を飲むために。紅茶ぐらいで、とバカにしないでください。この砂糖で稼ぐんです。
もともとアメリカに住んでいた原住民たちは、重労働でバタバタ死んでいく。そこに伝染病も加わって死んでいく。その労働力不足の補充にアフリカから奴隷貿易で黒人奴隷を連れてくる。そしてアメリカに売る。これが利益莫大です。犬猫どころじゃない、高級ロボットどころじゃない。言葉が分かって、言われたとおり、指示どおりに働いてくれる機械だから、奴隷というのは法外の値段で売れます。これでイギリスはガッポリ儲けた。そのピークが1650年ぐらいです。さっき終わった2回のイギリス革命の中間ごろです。イギリス革命と同時にこういった事が起こっています。
そのアメリカで作られたサトウキビからできた砂糖を購入し、砂糖入り紅茶を飲む生活スタイルがまず確立する。紅茶はお茶です。しかも低品質のボロ茶です。
社会的に重要なのは、そういうあこぎな商売人たちがお金をガッポリ稼ぎ、お金を貯めだしたということです。こういう貯まったお金のことを経済的に資本という。この資本が次の1700年代にイギリス産業革命の資金源になる。
もともとは何の金か。奴隷を売った金です。つまり産業革命の富の源は奴隷貿易の利益です。
【キャラコ貿易】 もう一つあります。イギリスはインドを植民地にしていた。このインドではヨーロッパでは取れない植物繊維があった。
ヨーロッパ人は毛糸を着ている。毛糸は洗うと縮むから洗えない。だから臭い生活をしてる。しかしインド人は・・・これはキャラコとインドでは言ってるんだけど・・・綿織物を着ている。着ているものが違うんです。洗えるじゃないか。綺麗じゃないか。清潔じゃないか。着心地がいい、これ欲しいな。
イギリスは奴隷貿易で儲けている。ある程度お金を持ち出した。高いインド産キャラコが買えるようになる。するとこのキャラコが熱狂的に流行する。
そうなると、今まで着ていた毛織物が売れなくなって、毛織物業者がバタバタと倒産していく。だから1700年代には一旦インドからの綿織物は禁止される。国内産業を保護するためです。
そしてピューリタン革命から100年ぐらい経って、イギリスに産業革命が起こると・・・それ以前には綿織物を作る技術はイギリスは持ってなかったけど・・・100年後に技術が進歩すると、国産化できるようになる。つまりイギリスで綿織物がつくれるようになる。これを今度はインドに輸出して儲ける。こういう先の流れがあります。
▼18世紀中頃の世界貿易
産業革命は18世紀、1700年代半ばです。そのころイギリスはインドを征服して、植民地にしていく。それで何をするかというと・・・ヨーロッパでは綿花はイギリスでは寒すぎて作れない・・・だからインドでその原料になる綿花を強制的に作らせる。これが綿織物の原料です。その原料をインドからイギリスに持ってきて、それを糸にして、さらに綿布にしていく。そして売る。またがっぽり儲ける。
このためにインドは、このあと約200年かけて、イギリスの中心的な植民地になっていく。インドが本当に独立国になったのは今からたった70年前です。日本が原爆を落とされた後です。それまではずっとイギリスの植民地です。インド人がなぜ英語がしゃべれるのか。イギリスの植民地だったからです。
こういうふうにイギリスが壊したところはアフリカとインドです。その影響は、アフリカは20歳前後の働き盛りの男たちが奴隷にされて、アメリカに連れて行かれるから働き手がいなくなる。それで社会が貧しくなって、社会そのものがボロボロに破壊されていくんです。
アフリカには、それまでマリ王国とかソンガイ王国とか、ちゃんと国があった。それがなぜ未開の土地になったかというと、こういう理由で破壊されたからです。未開ではなかったのです。
それと同時に、アメリカでもインディアンが迫害されていく。さらにその土地をめぐってイギリスとフランスは植民地合戦でずっと戦う。そして最終的にはイギリスが勝つ。イギリスが勝って、以前から住んでいた先住民をさらに追い込み、人の住まないような西の方にどんどん追い払われていく。先に住んでいたのはインディアンなのにです。
イギリスは、イギリス革命が起こったあとも、まずフランスと、次にはスペインとずっと戦争していきます。ヨーロッパでは数え切れないほど戦争がある。戦争につぐ戦争です。たまに平和がある。日本は平和が基本でたまに戦争がある。まったく逆なんです。
1701年から1713年のスペイン継承戦争でスペインとも闘って、そのスペイン植民地で、イギリスが奴隷貿易の独占販売権(アシエント)を握る。イギリスからしか奴隷が買えなくなる。
【南海泡沫会社事件】 これで儲けたイギリスは・・・もう1700年代です・・・ピュータン革命から100年が過ぎました。
※ 17世紀末、イギリスは新大陸の植民地争奪戦争を本格化させ、イギリスと激しく戦いました。戦費調達で財政状況が悪化し、膨大な赤字国債の発行が続きました。政府は国債の利払いや償還に追われ、デフォルトの危機に直面していました。この危機を乗り切るため、ある陰謀が画策されます。(宇山卓栄 経済)
※ イギリスは1711年、南海会社という特権会社を設立します。イギリスは新大陸の植民地争奪戦(スペイン継承戦争とアン女王戦争)を有利に戦い、1713年にユトレヒト条約が結ばれると、イギリスはスペイン領西インドの奴隷貿易独占権(アシエント)を獲得し、南海会社にそれを与えました。(宇山卓栄 経済)
※ 1718年、イギリスはスペインとの間で四カ国同盟戦争を開始し、スペインとの奴隷貿易ができなくなり、アシエントは事実上、失効します。
焦った政府は計画を練り直し、新たに南海会社に対し、宝くじの発行を認める特別措置をとります。この手法は大当たりし、宝くじは一般市民に飛ぶように売れ、南海会社は莫大な収益を得ます。
一定の信用を得たところで、政府が国債と南海会社の株券との引き換えを提起します.提起というのは建前上のことで、半ば強制でした。政府は財政難で、国債の償還ができないため、南海会社の株券と国債を引き換えて欲しいと申し出たのです。事実上のデフォルト宣言でした。
もちろん国債保有者は政府を批判しましたが、デフォルトで国債の紙くずになり、何も得られないより、南海会社の株券を取得する方が良いと考え、政府の半強制的な提起に従いました。
当時、宝くじ事業で成功していた南海株の値上がりが見込まれており、損をしたくなければ早急に国債と株券の交換に応じなければならない状況でした。国債保有者は南海株との交換に押し寄せ、それが株買いと同じ効果となり、1720年、南海株は値上がりし始めました。(宇山卓栄 経済)
1720年です。またバブルが起こるんです。イギリスはアメリカとの奴隷貿易で儲けています。今度は奴隷会社をアメリカに作る。この会社の名前をなぜか、アメリカ会社ではなくて南海会社という。アメリカにつくったイギリスの奴隷貿易会社です。
この時の会社は株式会社に近くなっている。株を発行します。そうするとお金を持ってるイギリス人たちが、この株は上がるぞと勝手に予測して、株を買おう、俺も買おう、これでバブルになる。この会社は儲けてないのに。それだけで株価がグーッと何十倍も上がってピークをつけたら、ストーンと落ちる。1720年です。これを南海泡沫会社事件といいます。
※ イギリス政府は南海会社を使ってバブルを仕掛け、財政の窮地から出しましたが、そのツケはバブルに踊った一般市民が払う羽目になりました。結果として、詐欺的な手法で、国家が国民の富を収奪したことになります。(宇山卓栄 経済)
※ それ以降、イギリス国債は議会により、その発行や償還がコントロールされ、意志決定の透明性を確保していきます。また、議会は予算の審議を行い、国債を管理しました。他の国の債券は王政によりコントロールされ、その意思決定が恣意的で不透明であり、投資家にとってリスクは大きかったのですが、イギリスの政治は議会により開かれ、外部からも動向が見えやすく、投資家に判断材料を多く提供しました。
イギリスは投資家の信用を得て、国債市場を発展させ、全ヨーロッパの富裕層から投資金を集めました。ヨーロッパの国々の中でもイギリスの国債の人気が圧倒的に高く、イギリスにマネーが大量に流れ込みました。イギリスは豊富な資金・資本を新たな市場開拓へと振り向けるべく、積極的に海外進出をし、世界各地を植民地経済に編成していきます。(宇山卓栄 経済)
だからここからあとは、株式会社は危険だぞ、ということになって、このあと120年間ぐらいは株式会社は禁止されます。もともと株式会社は危険でブラックな会社だったんです。
※ 1720年に泡沫会社禁止条例が制定され、7名以上の出資者からなる株式会社は、議会の承認、あるいは国王の勅許が必要とされることになった。事実上1825年に同条例が廃止されるまで、イギリスでは株式会社の設立が不可能になる。イギリスの産業革命は、株式会社の設立が不可能な状態の下で始まるのである。(宮崎正勝 お金の世界史)
そのほとぼりが冷めた約150年後に・・・南北戦争後ですが・・・また株式会社をつくり出すのがアメリカです。アメリカで株式会社が流行り出すんです。
【ミシシッピーバブル】 似たようなことは、フランスでもほぼ同時に起こっています。フランスは・・・アメリカにミシシッピー川というアメリカ最大の長い川がある・・・その名前を取ってミシシッピー会社をつくります。アメリカに広大な開発農場を作るぞ、という会社です。するとイギリスと同じように、株が暴騰して、暴騰してピークをつけたら、ストーンと落ちる。そして会社が破産する。そういう非常に景気の波の激しい、不安定な社会が発生し始めた。実はこちらが1年早い。1719年です。
※ フランス王室はミシシッピ株式会社という特許会社と紙幣発行権を持つバンク・ロワイヤル(王立銀行)をテコに、「ミシシッピ計画」を立てます。その手法はイギリスの南海会社と同じく、負債と資本の交換でした。1719年、特許会社のミシシッピ会社が作られます。この会社は新大陸の開発を一手に任され、ミシシッピ川河口のニュー・オーリンズの開発などを請け負っていました。ミシシッピ会社は、開発が成功していることを誇張して宣伝し、会社の信用を高めます。そしてこのミシシッピ会社株とジャンク化していた国債を半ば強制的に交換させます。(宇山卓栄 経済)
※ フランス王室にとってローのリフレ政策は意味のあるものでした。たとえバブルで一般市民が破産しようとも、王室財政は債務から逃れ、一息つくことができたからです。貨幣増刷、金融緩和などのリフレ政策が、政府の財政を救済することを目的として展開されるとき、それは結果的に、国家が国民の富を収奪する行為となります。
イギリスは南海会社計画で、フランスはミシシッピ計画で、それぞれ当面の財政危機を乗り切ることができ、新大陸やインドなどでの植民地争奪戦を1744年から再開します。両者の戦いは最終的にイギリスが勝利し、1763年、パリ条約が締結されます。(宇山卓栄 経済)
【政党政治】 ではまたイギリス内の政治の流れです。名誉革命の時に初めて政党の原型みたいなものができた。トーリー党です。今も続いています。名前を変えていますが、これが保守党です。今もこれがイギリスの政権与党です。
次にホイッグ党です。これはのちの自由党になる。でも今はないです。保守党はあるけど自由党は消滅しました。でも当時はこのトーリー党とホイッグ党の二大政党制です。
イギリスの政治は議会で、例えば100人で二つの政党が議席を争ったら、51人が議席を取ったら勝ちです。賛成多数で。100人しか国会議員がいないうちの51人取ったら賛成多数で決定です。51人をどっちが取るか、これが勝負の分かれ目です。内閣総理大臣は王様が任命するんじゃなくて議会で選ぶ。多数決で選ぶから、半自動的に勝った政党から首相が選ばれることになる。これを責任内閣制という。
今の日本はこれですね。日本の首相は、天皇陛下が任命しているんですか。衆議院で自由民主党が半分以上の議席を持っているから、議会で内閣総理大臣に選ばれている。これはイギリス流です。日本の政治はイギリス流です。アメリカのような大統領制ではありません。
このスタイルが始まって、初めて政党政治のリーダーとして首相になる人物が1721年のウォルポールという人です。だからこの人は、何も悪いことしていなくても、選挙で負けた、議席が2人減って49人になった。敵が51人になったとたんに、では辞めましょうと言って、辞めるんです。選挙で負けたら議会の信任を失ったことになるからクビです。今の日本もそうです。ここまでがイギリスです。
【フランス】
【ルイ14世】 次は海を渡ってフランスです。また200年戻ります。イギリスは1700年代までいったけど、1500年代の終わりに戻ります。
ルターの宗教改革が1517年だった。中心はドイツだったけれども、フランスもやっぱり宗教戦争が起こる。
フランスの宗教戦争をユグノー戦争といいます。ユグノーというのはカルヴァン派です。1562年から98年、40年近く続く。40年間戦争するというのは、日本での感覚ではなかなか理解できない。やっと終わらせたのがアンリ4世という王様で、それを終わらせたのが、1598年のナントの勅令です。勅というのは王様のことです。王様の命令です。
何を王様は決めたか。新教を禁止しない。信仰の自由でいい。ユグノー、どうぞ信仰してください。これで手を打とう。だからもう戦争やめよう。それでいったん丸く収まった。しかし次に何をするか。やはりイギリスとの戦争です。
戦争大好きなのは、ルイ13世もやるんですけど、本格的にやるのは次のルイ14世です。この人は、1643年から約70年間ずっと王様です。子供のときからの王様です。20歳過ぎたら戦争ばっかり。この時代のイギリスではピューリタン革命が起こっています。
イギリスとの違いは、フランスでも貴族が反乱を起こす。1648年のフロンドの乱といいます。イギリスのピューリタン革命とほぼ同じ時期です。イギリスは貴族の反乱に負けて王が殺されました。しかしフランスは王が強いから、貴族を殺した。王が生き残った。それで逆に王権が強くなる。イギリスは王の権利が弱くて、議会の権利が強くなった。この違いです。王は絶対なんだという王権神授説で貴族を抑える。「朕は国家なり」という。朕は王様の一人称です。俺が国家だ、オレが決める、つべこべ言うな。ぶっ殺すぞ。そして戦争大好きです。
戦争にはお金がかかる。お金を稼ぐ大臣をつける。コルベールという。やはりアメリカ大陸との貿易です。だからフランスもアメリカが欲しい。イギリスもアメリカが欲しい。ヨーロッパでイギリスとフランスが戦争するたびに、同時にイギリスとフランスは植民地合戦しています。
※ フランス絶対王政の産業振興策は、王政が事業そのものに出資し、官製工場を各地で経営し、利潤の大半を王政が徴収するという統制的な経済を展開していました。イギリスが民間資本の蓄積により、経営を拡張していく方針をとることと大きく異なっていました。(宇山卓栄)
強く見せるためには、身を飾らないといけない。派手な豪邸をつくらないといけない。だから別荘をつくる。これがベルサイユ宮殿です。戦争の傍らで宮殿をつくる。お金がかかることばかりです。メインは戦争です。左うちわでベルサイユ宮殿でお茶飲んでいるような王様ではない。でもこの時代の・・・日本は江戸時代ですが・・・日本のお殿様は小さな庵を好む。派手さを戒めています。この違いは何なのでしょうか。
これで終わります。ではまた。
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