ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 9話の6 古代オリエント エジプト~ヒッタイト

2020-04-29 07:08:25 | 新世界史4 古代オリエント

【エジプト】
 その隣のアフリカにいきます。エジプトです。これも紀元前3000年ごろだから、今から5000年前に国家が誕生します。

※ ナカダⅡ文化にはじまる地域統合の進行は、各地に首長を頂く部族国家をうみだし、それらが淘汰されていく過程のなかで、ナカダ、ヒエラコンポリス、ティニス、ブトなどの有力な「原王国」が出現したと考えられる。後の伝承によると、この中からティニスの首長がもっとも有力となり、上エジプト全体を統合する「上エジプト王国」を形成、下エジプトを征服して統一国家を形成したとされる。この統一国家が形成されていく過程の詳細については、近年の考古学調査の成果によって徐々に明らかにされつつあるが、具体的な解明はまだまだ困難である。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P387)

※ マネト(紀元前3世紀初めのエジプト人神官でエジプト史の著者)によれば、統一を実現した第一王朝初代の王はメネスという名で、上下エジプトの境界近くに王都「白い壁(のちのメンフィス)」を建設したとされている。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P388)



【アサシン クリード オリジンズ】古代エジプトへの旅3「生命を育むナイル川」


 王が非常に強い権力を持っていて、その権力の象徴として作ったのがピラミッドです。これにはいろんな噂がありますが、本当のことはわからない。何のためにつくったのか。王の墓と言われますが骨は出てきていない。王の谷とか、死体は別の所からでてきてるんです。墓ではないとすると一体なんなのか、よく分からない。
  これは簡単につくれるのか。日本最大の建設会社でもさじ投げるほどです。こんなでかい石をどうやって運ぶのか、どうやって持ち上げたのか、どうやって積み上げたのか、現代の建設会社でも尻込みする。「こんなものをよくつくったものだ」と。誰がつくったのか、何のためにつくったのか。
 もしかしたらこれは「庶民を養うための古代の公共事業ではなかったのか」という話もあります。

  しかし一般には王の権力の象徴といわれます。王が非常に強い力を持つ。エジプトの王は太陽神の化身です。王にはいろんな言い方があります。神の代理人、これはメソポタミアだった。エジプトは神の化身です。代理人と化身とを比べたらどっちが神に近いと思いますか。化身が神様に近いですね。神の化身とは神が一時的に姿を変えたもので、本当は神なのですから。その神の化身ファラオという王様です。

※ 古代エジプトの宗教は、複数の地方教団の連合と呼べるものであり、・・・・・・この宗教の歴史はおもに、これら反目しあう権力と趨勢の鬩ぎ合いから成り立っていたように見受けられる。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P424)

※ 王は、権威のよりどころとして、神の化身であるというする主張(神王理念)によったのである。しかし、現実においては、王はエジプト統一戦争を共に戦った上エジプト有力首長のなかの第一人者にすぎなかった。初期王朝時代の王たちは、いかにして神の化身である神なる王(神王)の神聖さにふさわしい地位を現実に獲得するかに努力した。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P391)

※ 第一王朝から第二王朝への王朝交代の事情は全く不明であり、第二王朝については第一王朝以上に資料が乏しく、歴史の復元は困難である。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P392)
 


 神はエジプトにもいっぱいいて、古代エジプトは多神教です。多神教は日本人には当たり前です。日本にも神様はいっぱいいる。菩薩様や観音様もいれば、天神様や八幡様もいて、お地蔵様も、大国様も、恵比寿様もいます。日本の神社にはもっともっといろいろな神様がいます。
  しかしこのあと「世の中に一つの神様しかいたらいけない」という考え方が出てくる。日本にはそういう考えとは無縁ですけど、これが一神教になる。ヨーロッパは今でも一神教です。これがキリスト教です。その前身がユダヤ教です。そのことは、あとで詳しく見ていきます。

  なぜエジプト人はミイラを作ったのか。古代エジプトのミイラです。あの世で復活するためには体が必要だったからです。体がなければ復活できません。ミイラは、死後の世界を想定していないとできないものです。そのミイラを復活させるための、死後の世界を支配するオシリスという神様もまた別にいます。

※ (エジプトでは)死は永遠の暗闇を想像させ、それは耐えがたいほどの宿命であった。彼らはそれを克服するためにあれやこれやと模索する。遺体をミイラにして保存し、副葬品をそなえ、もろもろの冥界復活の手続きがととのえられた。この冥界復活の手続きというのが名高い「死者の書」に記された呪文集である。(多神教と一神教 本村凌二 岩波新書 P55)
 
 


 エジプトの太陽神は王に権力を授ける神様となっていますが、その他にもいろんな神様がいます。だから多神教なんです。
 エジプト人の、復活を願う死生観は、キリスト教の「最後の審判」の考え方に影響を与えています。キリスト教では「最後の審判」で許されたものは復活して生き返るんです。つまり彼らは死後に復活して生き返りたい人々なんです。
 これを前に言ったインド人と比べたらどうでしょうか。まったく逆ですよね。インド人は、永遠に続く輪廻から脱出して、生き返ることなくどうしたら完全にになれるかを考えた。そのためにいろいろな修行をしたのです。「つまらないヤツほど生き返る」のです。「完全に生きなければ完全に死ねない。完全に生きて完全に死ぬこと」を理想とした。つまり絶対に生き返らないことを望んだのです。こういう死後に対する考え方の違いが、多くの文化の違いを生んでいきます。

 日本人はどうなんでしょうか。仏教の影響を受けて「無」の思想に近づいているようにも見えますが、死んだ人が「草場のかげて泣いている」とも言うように、死んでもこの世にとどまりたがっているようにも見えます。これが日本古来の考え方のような気もします。日本人の宗教観は簡単に見えて、かなり複雑です。
 これを「日本人は無宗教だ」の一言で片付けてしまうと、とんでもない間違いを犯すことになります。

 文字も独自のエジプト文字ができます。さっきのメソポタミアの楔形文字とはまた違います。象形文字といいます。横文字でいうとヒエログリフという文字です。
「文字ぐらい、何かを書けばいいじゃないか」と簡単に思うかもしれませんが、そう思うときには、いつの間にか紙の存在が前提になっています。しかし実はこの紙がないのです。
 メソポタミアでは紙がないから粘土に書いた。エジプトでも紙がないからパピルスに書いた。パピルスという葦みたいなものの表面の皮をタテヨコに織ったものです。これがパピルスが英語のペーパーの語源です。しかし今、我々が何気なく使っている紙に比べると非常に素材は悪い。だからあまり保存できずに残ってない。文字は何に書くかれるかというのがもう一つの課題です。
 紙の使用が早いのが中国です。中国の方が進んでいます。紙はまだ他の地域にはありません。エジプトではパピルスが、その紙の代わりだったということです。




【アメンホテップ4世】 紀元前3000年からエジプトの王権が始まって、紀元前14世紀半ばになると、アメンホテップ4世(位 前1379~62)という王様がでてきます。
 この人の名前に注意です。アメンと言う言葉がある。これは神様の名前です。もともとこの王は「アメン神がこそ一番の神だ」と言っていた。しかしアメンを祭る神主さんたちがだんだんと強くなって、王と対立しだします。 


※ アメン神の加護は、遠征の勝利と史上空前の大帝国の建設をもたらした。アメン神は勝利を約束し、神旗として軍隊に同行し、勝利へと導いた。王たちは、この神の恩恵に対する感謝のしるしを、はっきりと眼にみえる形で、それも恩恵と感謝の大きさにふさわしく表明する必要を感じた。トトメス1世から大規模にはじまるカルナック神殿への戦利品をはじめとする折にふれてのさまざまな寄進と増改築は、そのための最良の手段と考えられた。・・・・・・こうして急速に増大した宗教的権威と経済力を背景に、「アメン大司祭」に率いられたアメン神官団は、国政に対する発言力を強めていった。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P472)
 


 するとこの王は「別の新しい神を作ろう」と考えた。そして「この新しい神しか信仰できないことにしよう」、こういうことを歴史上最初に考えたのがこの王です。これが一神教の発想です。そのただ1つの神がアトン神です。

※ ヘブライ人の宗教的伝統と族長の部族神とのあいだには断絶があり、前者はむしろ紀元前14世紀前半のエジプトのイクナートン王の宗教改革に発するアマルナ時代に行きつく。(世界の歴史4 オリエント世界の発展 小川英雄執筆 中央公論社 P63)

※ エジプトの例でも分かるように、一神教というのは最初は多神教であったのが、1つの神が特別に尊崇されるようになり、それと同時に他の神様が整理されていくという形で作られていく
 「古代ユダヤ教」を著したM・ウェーバーも、最初の頃はイスラエルの民がさまざまな神様を拝んでいたことを旧約聖書の記述の中から指摘している。(イスラム原論 小室直樹 集英社 P205)

※ 第18王朝のもと、オン(ヘリオポリス)の太陽神の祭司たちの影響のもとで、さらにおそらくはアジアからの刺激によって強化されて、特定の地域や特定の民族との結びつきにはもはやこだわらない普遍的なアートン神の理念が突出してくる。若いアメンホーテプ4世はアートン教を国教にまで高め、この若い王によって普遍的な神は唯一神とされる。この若い王は徹底した厳格さでもってあらゆる魔術的思考の誘惑に対抗し、エジプト民衆にとって特別に大切であった死後の生命という幻想を切り捨てる。これは人類史上における最初にしてもっとも純粋な一神教の例である。この宗教が成立した歴史学的ならびに心理学的な諸条件をさらにふかく洞察することは、はかりしれない価値を持つだろうと思われる。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P104)
 


 「アトン以外に神はない、この神だけ信じろ」と言う。さらにアメンホテップという自分の名前がイヤになって、名前を変えます。新しい名前がイクナアトンです。名前にアトンが入っています。アメンからアトンに祭る神を変えた。そして「アトンだけ信じろ。それ以外は神様を認めない」という。これが一神教の発想です。

※ エジプト人たちは相互に矛盾する色々な伝承、神話があっても気にしなかった。全国各地に散らばった宗教的中心地には、それぞれの神話体系があり、神々があったらしい。 ただ一人それに挑んで、日輪のアトン神以外を認めずに、一神教宗教革命を起こしたのが第18王朝のイクナートンである。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P45)

※ ファラオとしてのノウハウを持たないまま王になったイクナートンの業績は、いささかおかしなものだ。外交は失敗し、すでに触れた即位3年目のセド祭もおかしなものだし、急な遷都アトン以外の禁教、遷都後の文書に残る高官たちへのいささか大仰な褒賞などは、ギクシャクした彼の統治を示すものだろう。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P68)

※(●筆者注) このイクナートンの像は、異形である。性別を感じさせない。男とも女とも感じさせない不思議で不気味な像である。人を不安にさせるものがある。

※ (イクナートンのアマルナ美術の)最大の特徴は、アメンヘテプ4世の「醜悪」な肉体的特徴の写実主義的な人体表現が、美の規範とされていることである。異常に長い後頭部、吊り上がった眼、分厚い唇、そげた頬、長い顎、細い首、くびれた腰、大きくあくらんだ腹、太い大腿部、細長い手足など、特徴的な容貌と女性的ともいえる体型が、巨像や浮き彫りに表現され、多かれ少なかれ、他の人物像にも適用されている。彫刻師バクの碑文は、この新しい美術が王の指導の下につくりだされたと記している。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫 中央公論社 P482)

※ アケナテン王(イクナアトン)はアテン神の子であり、したがって、王だけが父なる神の命令を受けとって、正しく理解し、実行することができた。すなわち、王はいわばアテンの「預言者」であり、王だけがアテン神を礼拝し、祭祀を行う資格をもっていたのである。伝統的な王権観においても、神性をもつ王だけが神に対する祭祀を執行する資格をもっていたが、現実には神官に代行させていたのに対して、アテン信仰では、この祭祀観を忠実に実行しようとしたのである。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P491)
(●筆者注) イクナートンは「神の子」ではあっても、神そのものではない。「神の子」という表現はのちのキリスト教にでてくるが、ここではイクナートンは神の言葉を預かる「預言者」、つまり人間にすぎない。それまでの神王ではなく、神官王になったのである。イクナートンは、神官団と対抗するため自ら神官王になることで、神官団と対抗しようとした。これはメソポタミア地域と同じである。王は神ではなく、神の僕となったのである。エジプトでも神と王が分離したのである。
 


 この一神教の政治は成功したのか。そうではありません。
 アメンホテップ4世の息子が、次の王様になります。この王は墓から黄金のマスクが出てきて、ものすごく有名になったツタンカアメンです。でも彼の黄金のマスクのことを言いたいのではありません。
 ツタンカアメンという名前に注意して下さい。アメンがあります。もとのアメン神に戻っているわけです。アトン神が消えてアメン神が復活しています。アトン神が消えて、これで史上初の一神教の試みは失敗したことがわかります。

  しかし、ここで世界最初の一神教的発想が登場したということが大事です。これを見ていたのが、当時エジプトに奴隷として住んでいたユダヤ人です。



【インド=ヨーロッパ語族】 また今のイラクあたり、メソポタミアに行きます。メソポタミアに新たに侵入しはじめたのがヒッタイトです。彼らは白人です。ヨーロッパ人と同じです。この民族を語族でいうと、インド=ヨーロッパ語族といいます。
 インド語とヨーロッパ語というのは全然違うみたいですけど、言葉としては親戚です。インド=ヨーロッパ語族の分布帯というのはヨーロッパからインドへと長い帯を引いて続いています。
 インドに侵入したアーリア人もインド=ヨーロッパ語族です。インド=ヨーロッパ語族の分布の帯は、こうやって民族が動いた後です。

  彼らはもともとは、インド北西部の中央アジアつまりアジア大陸の真ん中あたりに住んでいたようですが、何らかの事情で移動し始めて、西に行けばヨーロッパ、東に行けばインド、南に南下すればこのオリエントに、いろんなところに移動しています。
 いま話しているのはオリエント地域です。オリエントとは、ヨーロッパ人から見て東の方、「日の登る場所」という意味です。今の中東地域です。



【ヒッタイト】 インド=ヨーロッパ語族がこの地域で初めて王国を築いたのが、さっきで言ったヒッタイトです。国の名前もヒッタイト王国です。前1700年頃から、前1190年まで存続します。

※ 古代オリエント世界に登場する最高の印欧語族であるヒッタイトの故郷は不明である。・・・・・・ヒッタイト王国成立の経緯については資料が少なく、詳細はわかっていない。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P307)


  彼らが建国したのは今のトルコです。トルコの場所は、黒海から突き出しているところ、出べそのように天狗の鼻のように出ている。そこに建国した国です。そしてギリシアのすぐ東です。別名はアナトリア地方です。その都がハットゥシャシュです。トルコの首都アンカラより東に約150キロのボアズカレ(旧・ボアズキョイ)近郊、海抜1000mほどの丘陵地帯にある遺跡です。


世界遺産「ハットウシャシュ遺跡」ヒッタイト帝国(トルコ).mpg



 彼らヒッタイトはケンカがめっぽう強かった。それは、当時まだ普及していなかったを使って、それで武器をつくれたからです。
 一気に人の3倍ぐらい強くなった。鉄の刀を馬に乗りながら振り回す。相手は怖くて怖くて仕方がない。馬にチャリオットというリヤカーみたいな車を引かして、そのリヤカーの上から刀を振り回す。もう「危ない危ない」。

 昔の日本人が「ヤーヤー我こそは」と言って、古式ゆかしく戦っていたような時代から比べれば、荒い、荒い。ルールもへったくれもありません。日本人はちゃんと礼儀正しく、名前を名乗って、親父や祖父の名前まで名乗って、それから「相手はオレでいいか」という了解のもとで、「それではやりましょう」といって命を賭けて戦った。それと比べたら仁義なき戦いです。これによって戦争方法が大きく変化した。これが紀元前1700年頃のオリエント世界です。
 そのヒッタイトの他にも、ここら辺の地中海沿岸にはいろんな民族が、あっちこっちから押し寄せてきます。

 前13世紀頃には、メソポタミア北部ではミタンニ王国、メソポタミア南部のバビロニアではカッシート王国という国が存続します。彼らは民族系統不明です。カッシートはバビロン第三王朝としてバビロンを制圧します。このように1つの都市が何度も何度も別の王朝によって築かれます。一つの古代都市遺跡が一つの王朝だけのものではない、ということはよくあることです。

※ 古代の文書の中では、ハンムラビの王朝、「海の国」の王朝のつぎに記してあるので、このカッシート族の王朝は、バビロン第3王朝とよばれている。・・・・・・このカッシート族の第3王朝はバビロンに都を置いた。・・・・・・カッシート族の社会は、いまだに、原始社会のおわりごろにみられた社会制度、つまりし氏族制ていどの段階からぬけきれないでいた。かれらは士族ごとに、納税免除の広大な荘園を営んでいて、王権のことなどはあまり関心がなかった。・・・・・・いってみればカッシート族というのは、戦いに強いというだけがとりえの、社会的にも文化的にも、洗練されていない粗野な民族である。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P104)


※ カッシート王朝がいつからバビロニア支配を始めたのかはわからない。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P276)

※ カッシート王朝は前12世紀前半に数回にわたってエラムの攻撃を受けて滅亡した。バビロンの主神であるマルドゥクの像もエラムに持ち去られた。またこのとき、ハムラビ法典碑や多くの境界石も奪われた。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P283)

※ ミタンニ王国の建国の経緯は、首都ワシュカニが未発見であるために、よくわかっていない。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P299)



 前13世紀頃には、ヒッタイトミタンニカッシートそれにエジプトを加えてこの4つが、お互い覇を競い合います。

※ 前1200年ごろヒッタイトは滅亡したと考えられるが、その主な要因は西方からの大規模な民族移動の一波による襲撃であったと推定されている。それは「海の民」と総称される人びとである。
 その実態はまだよくわかっていないが、前13世紀末から前11世紀初頭にかけて東地中海全域を混乱させ、多くの都市国家を壊滅させた。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P299)



▼前13世紀頃のオリエント


 しかしこれを統一するのは四つの国のいずれでもなく、ミタンニに支配されていたアッシリアです。これはティグリス川上流の国です。これは後で言います。



【フェニキア人】 今のパレスチナ一帯、「世界のヘソ」と私が呼んでいる今のイスラエルあたり、ここは地域でいえばパレスティナ、国でいえばイスラエル、このあたりにはいろんな民族が押し寄せて来ます。
 彼らの一つをフェニキア人といいます。どうも海で活動している海賊みたいな人々だったらしい。

 ただこの人たちは海賊と同時に商人でもあったらしく、頭が良かった。そして文字を作った。これがアルファベットです。アルファベットって何ですか。英語の時間に使っているabcのことです。abの代わりに、aはα(アルファ)と書く、Bはβ(ベータ)と書く。つまりαとβから始まる。だからabcのことをアルファベットといいます。これがヨーロッパ文字の原形になります。
我々がabcを勉強しなければならないのは、彼らがabcというアルファベットをつくったからです。

続く。


コメントを投稿