1)儒教の「孝」
 宗教の点で、中国社会は西洋流の考え方とはかなり違った社会です。その中心に儒教があります。 儒教の特徴は、親孝行の「」の観念を中心とする点です。中国は家族道徳を社会秩序の基本とした社会で、そこから儒教が生まれるのですが、儒教の根底には「祖先崇拝」があります。 つまり日本と同じ祖先崇拝の感覚は中国にもあるということです。祖先崇拝というのは前にも言ったように、古代ゲルマン社会にも古代ヴァイキンク社会にもあるものであり、古代社会に広く共通して見られるものです。

 ところが西洋ではそれが徐々に薄れていったのに対し、東洋社会では今でもそれが根強く残っています。

 中国人はまず生きている親に対する「」を尽くすことから始めて、単にそれが生前だけのことではなく、死んだ親に対する「孝」というものにまで発展させていきます。 そうして祖先の魂を呼び戻す行為は子孫だけに許された役割だと考えられていくのですが、このことは単に親に対する親孝行だけではなくて、いずれ自分も子孫に祭られるという観念につながり、やがてそれは自分の死に対する恐怖や不安を解消することにもつながっていきます。 そこに儒教のもつ強い宗教性があるのであって、儒教は単なる学問ではないということがいえます。

 自分の子孫によって自分の霊がこの世に呼びもどされることが儒教の第1条件だとすれば、祖先の霊の呼び戻し、つまり「招魂」を行う第2の条件は、その魂降ろしをする技術者、つまり巫祝(ふしゅく)の存在です。 儒教の祖である孔子は「」と呼ばれる巫祝、これが儒教集団ですが、そういう集団に属していたと言われます。特に母がその系統の出身であったといわれます。
 
2)天皇家の血筋の尊重
 このような巫祝(ふしゅく)はシャマンの一種であって、それは日本にもあるものです。

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              シャマンの一例 オロチョン族のシャマン

 それが中国の史書「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述にみられます。 「鬼道につかえ、よく衆を惑わす。男弟あり、佐けて国を治む」という記述です。 このように卑弥呼には、霊的存在と直接交流するシャマンの性格があります。 だから女王といっても、卑弥呼の実際の役割は巫女や神官ともとれるのであって、政治の実権は弟が握っていました。

 その後日本は女系天皇にはなりません。紀元5世紀には中国の史書「宋書倭国伝」に「倭の五王」という五人の男の王が日本に現れます。「倭」とは日本のことです。「讃・珍・済・興・武」という日本の五人の王であり、雄略天皇などの日本のこの時代の天皇に比定されるのですが、そこではすでに親子兄弟の血縁関係が成立し、日本の王権は男子による世襲制になっていて、現在に至るまでそれは受け継がれています。 そのことを考えると日本には祖先崇拝の下地があってそれが政治ルールへと発展していったことが読み取れます。

 このような政治ルールは中世・近世社会にも及ぶものであり、それは天皇と将軍の関係にも見てとることができます。 俗に武家社会のリーダーを将軍と言っていますが、正式には「征夷大将軍」のことであり、征夷大将軍は決して日本の政治的トップではありません。 将軍は鎌倉将軍・室町将軍・徳川将軍と続きますが、彼らはともに夷敵を討伐する天皇の家臣の立場であるにすぎず(だから「征夷」という呼び名がつくのですが)、決して自ら天皇にはなろうとはしません。

 最初の鎌倉将軍である源頼朝の血筋は、清和天皇の末裔である清和源氏に属します。 源氏系図をたどると、清和天皇から源頼朝への系譜をたどることができます。つまり天皇家から見れば将軍家は分家にあたるのです。 また室町将軍家(足利氏)も、清和源氏の嫡流源義家(将軍源頼朝の4代前の祖先)からの分家です。 確かに徳川将軍になると、三河の松平郷の出身であり、清和源氏とはいえないのですが、家康は一時自分の系図を清和源氏に偽造することに凝っています。 このことは逆に言うと、それだけ血統に権威があったということであり、日本の政治ルールでは血統の信仰を上回るだけの政治的正当性が出てこなかったということです。天皇家を覆す試みがなかったわけではないですが、それらはすべて失敗していきます。

 一つの例として平安時代の平将門は天皇と張り合って、自ら新皇と称しますが、天皇の権威とは比較になりませんでした。 もう一つは足利時代の三代将軍足利義満は公武にわたって力をおよぼし、次には足利天皇を擁立しようとしたという説があり、それが成功するかに見えた直前、急死してしまいます。どうも一服盛られたのではないかという話もあります。 こういうことを考えると、日本の将軍というのは将軍になるのがやっとで、天皇になることなど思いもつかないのが実態であったと思われます。

 ですからペリーがやってきて黒船ショックがあると、最終的には大方は天皇方についてしまうのです。 それは一種の日本の宗教感情であって、それが政治感情と結びついています。明治維新は決して朝廷が軍事的に強かったからではありません。 政治を理解するためには宗教理解が必要であることのよい例だと思います。 明治維新の説明には政治理解だけでは限界があるのです。例えば尊皇攘夷というキーワードを説明する際にも、宗教的文化的な面から、天皇家と結び付けないとうまく理解できないのです。
 
3)中国の宗族
 話を中国に戻しますと、中国は今でも男系による血縁集団が強固です。 これが「宗族」といわれるものです。 宗族は祖先を同じくする親族の組織であって、長男が相続し祖先の祭祀を行う集団です。この集団は非常に強固であって、人間の属性として一生変えることはできません。そしてこの宗族を表すのが姓ですから、この姓を変えるのは決して許されません。ですから中国人の姓は不変です。女性もそうです。そこに血縁集団の強さが表れています。 ですから中国人は夫婦別姓ですが、その夫婦別姓の裏には血縁集団の強さがあるということです。

 日本でも最近夫婦別姓論があり、それを血縁集団の強さと結びつけて考える人は非常に少なく、逆に西洋流の個人主義と結びつけて考える人が多かったのです。そのことを私は非常に残念に思っていました。夫婦別姓が西洋流の個人主義から発生したのでないことだけは確かなことです。

 実は日本にもこのような夫婦別姓の時代はありました。源頼朝の妻の北条政子は結婚しても北条政子であり、室町幕府8代将軍の足利義政の妻は結婚しても日野富子であり続けます。 このことは現代の個人尊重の夫婦別姓論とは無関係のことで、むしろ氏族社会の強固さが根底にあったため、結婚によって自分の氏族の名前を変更することはなかった、そう理解すべきことなのです。

 中国の宗族は現在では中国中に散らばっていることもあって、決して地域集団ではありません。 地域集団であれば日本のように、「遠い親戚より近くの他人」となりますが、血縁集団では「近くの他人よりも遠い親戚」なのです。 この血縁集団がどれくらい強固なものかといえば、例えば見ず知らずの中国人が、アメリカで社長と皿洗いの立場で出会った場合、それまで見ず知らずで立場も違う二人が、同じ宗族だと知った途端に、家族を挙げての付き合いに豹変するのです。それほど強固なものです。

 日本の家集団は、確かにその中に血縁ルールを含んでいますが、血縁ルールのみで成り立っているものではありません。異姓の養子をとることも可能ですし、結婚すれば姓の変更も可能です。 このような「家」が生まれるのは平安時代以降の武士社会に見られるものであって、そこでは「家の子・郎党」という組織づくりが行われています。「家の子」は血のつながりを持つ者ですが、「郎党」は血のつながりのない者をも含みます。これは日本の家族制度の柔軟性を示すものだと思います。 

4)中国の封建制
 今、宗族に触れたのは中国の政治体制である封建制が宗族と深いつながりを持つためです。 紀元前11世紀の周王朝の時代に封建制が現れますが、それは王は諸侯を任命し土地を与えるものですが、その王と諸侯の関係は単なる主従関係ではなくて、「血のつながり」をもった本家と分家の関係になっています。 そういう血のつながりのもとに周王朝は国を治めていくのです。 この「血のつながり」の強さが先に述べたギリシア植民との違いであって、ギリシアでは本国と切り離された植民が行われただけで、それぞれ独立したポリスが乱立していくのに対し、中国は一つの国家として領土を広げ領域国家として発展していくのです。
 
5)天の思想
 ただ紀元前5世紀の戦国時代になると、「血のつながり」のほかに「天命」を受けた天子と称する者が出てきます。 これは最初は周代からみられますが、戦国時代になると多くの成りあがりの王が現れてきますが、彼らは周の王室のようには血統を誇れないのです。 そこで血統以上の論理が必要になるわけです。例えば「戦国の七雄」に見られるように「斉・礎・秦・燕・韓・魏・趙」が乱立する群雄割拠のなかで、まだその真ん中には「周」の王室が存在しているのですが、彼らは周の王室の権威に負けないような新たな理論を作る必要に迫られるのです。

 それが王たるの「」という考え方であって、この徳が誰によって与えられるのかといえば、それが「天命」によって与えられるとするのです。 つまりこのことによって血統原理を上回るものとして、「天命」という強い原理が発生します。

 中国では王が変わることを「易姓革命」といいますが、それは読んで字のごとく、「天命が革まることによって、王の姓が易わる」ことです。 つまり血統を上回る新たな天の正義という論理によって王朝が交代することです。 ですから革命というのは、「血統」という原理から「」という原理に原理が変わることを意味します。 

6)中国の皇帝
 その「天命」という発想の延長線上に「皇帝」という言葉も現れてきます。 この言葉を最初に使用したのは秦の始皇帝です。 皇帝というのは「ひかり輝く神」の意味です。皇帝の「皇」の文字は「王」の上に「白」く輝くと書かれています。また皇帝の帝は神を祀るときのテーブルの形です。 つまり皇帝とは「天のお墨付きをもらった人」であって、大きな権力を天から保障された人です。

 しかしこのことによって中国の血統の原理は否定されたのではなくて、中国の皇位は世襲されていきます。 中国では血統は尊重すべきものとして維持されて、王権の世襲も維持されていきますが、この原理が行き詰まったときに「天命」という原理が発動されます。このように二つのルールが共存しているのです。

 西洋のエンペラーには血統原理が弱いことはすでに見たとおりですが、ローマ帝国以降の西洋の歴史は、フランク王国になると確かに世襲制になるにしても、そこでは血統原理が常に選挙原理に脅かされる歴史を持っています。 ヨーロッパの近代革命は、王権が消滅し議会政治になることですが、それは血統原理が消滅し、選挙原理が勝利することです。 このように西洋では原理が変わるのです。だから「革命」なのです。