【大化の改新】
【東アジア情勢】 次、ではこの聖徳太子、われわれは聖徳太子と習ったから、厩戸王というのも分かっているけど、ついつい聖徳太子といってしまいます。厩戸王の遣隋使の効果が、日本の文化に現れてくるのは、それから20~30年後です。
その間に中国情勢が変わります。隋は短命です。すぐ滅亡して、次の王朝に変わる。それが唐です。618年建国です。小野妹子が隋に派遣されたのが607年ですから、それから10年あまりで隋は滅んでいるわけです。そしてこの唐にも、630年、日本は遣唐使を送ります。
それから20年ばかり経って、遣唐使の留学生たちが帰ってくる。こういう情勢の中で、中国の唐は、非常に王様の権限が強い国家であることが分かってくる。こういう国家を中央集権国家という。そういう情報が入ってきて、日本もそうなろう。日本は天皇よりも蘇我氏が強い。それはおかしいじゃないか、という気運が高まってきた、といわれます。
※【疑問】 遣隋使のタリシヒコが厩戸王ではなく九州王朝の王だったとすれば、大和地方には隋の文化は伝わっていないことになり、隋の中央集権体制を見ならおうとする気運の高まりはありえないことになります。
【乙巳の変】 そこで改革をやっていく人物が現れます。その中心人物が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という。これも読みにくいから、覚えないといけない。皇子という言葉は、天皇の息子にしか使わない。
この時の天皇は女帝で皇極天皇といいますが、中大兄皇子はその皇極天皇の息子です。皇極天皇の夫は舒明天皇です。その二人の間に生まれたのが中大兄皇子です。つまり中大兄皇子は、舒明天皇を父とし、皇極天皇を母とした政界のエース中のエースという立場で登場したことになっています。
※ 630年、中大兄皇子の父とされる舒明天皇の時代、すでに遣唐使が派遣されています。
どうも母親のほうが目立っていて、このときの天皇は母親の皇極天皇です。中大兄皇子はまだ20才前、若々しい青年ですけれども、彼一人じゃまだ経験不足です。ブレインとなる大人がついている。これが、中臣鎌足(かまたり)です。「かたまり」じゃない。「かまたり」です。
そして645年、暗殺事件です。相手は蘇我氏です。蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿を暗殺する。場所はこともあろうに天皇が住んでいる大極殿という一番の宮殿です。木の陰に潜んで、そこの儀式の最中に一気に飛び出してブスッとやる。昔の貴族は、まだこの時代は気が荒いです。こんな劇画的な話が乙巳の変(いっしのへん)です。乙巳は年の数え方で意味はありません。
そして蘇我氏を滅ぼして、新しい人事で天皇を変えていきます。中大兄皇子はこの時の皇極天皇の息子ですけど、なぜか天皇にはすぐにはならない。この人が天皇になるのは、ずっとあとです。
このことが私はずっと不思議です。この天皇である母親とクーデターを起こした息子の関係は不思議です。自分の母親が天皇であるのに、その天皇の前で息子の中大兄皇子がなぜ蘇我入鹿を殺さなければならないか。もっとうまい手があったはずだと思います。この事件は奈良県明日香村に遺跡のある飛鳥板蓋宮でおこったとされていますが、これをそのまま信じることは難しいです。
※【異説】 正義は蘇我入鹿にあって、よこしまな心をもった中大兄皇子や中臣鎌足が権力闘争の末、蘇我入鹿を抹殺し、政治家蘇我入鹿の手柄をすべて横取りした、という可能性が出てくるわけだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P50)
※【異説】 中大兄皇子や中臣鎌足の蘇我入鹿暗殺は、単なる権力闘争の結果であって、本当に改革を推し進めていたのは、むしろ蘇我氏の方であった。そして孝徳天皇は、新蘇我派の天皇で、蘇我入鹿の遺志を引き継いだのではないか。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P52)
【東アジア情勢】 次、ではこの聖徳太子、われわれは聖徳太子と習ったから、厩戸王というのも分かっているけど、ついつい聖徳太子といってしまいます。厩戸王の遣隋使の効果が、日本の文化に現れてくるのは、それから20~30年後です。
その間に中国情勢が変わります。隋は短命です。すぐ滅亡して、次の王朝に変わる。それが唐です。618年建国です。小野妹子が隋に派遣されたのが607年ですから、それから10年あまりで隋は滅んでいるわけです。そしてこの唐にも、630年、日本は遣唐使を送ります。
それから20年ばかり経って、遣唐使の留学生たちが帰ってくる。こういう情勢の中で、中国の唐は、非常に王様の権限が強い国家であることが分かってくる。こういう国家を中央集権国家という。そういう情報が入ってきて、日本もそうなろう。日本は天皇よりも蘇我氏が強い。それはおかしいじゃないか、という気運が高まってきた、といわれます。
※【疑問】 遣隋使のタリシヒコが厩戸王ではなく九州王朝の王だったとすれば、大和地方には隋の文化は伝わっていないことになり、隋の中央集権体制を見ならおうとする気運の高まりはありえないことになります。
【乙巳の変】 そこで改革をやっていく人物が現れます。その中心人物が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という。これも読みにくいから、覚えないといけない。皇子という言葉は、天皇の息子にしか使わない。
この時の天皇は女帝で皇極天皇といいますが、中大兄皇子はその皇極天皇の息子です。皇極天皇の夫は舒明天皇です。その二人の間に生まれたのが中大兄皇子です。つまり中大兄皇子は、舒明天皇を父とし、皇極天皇を母とした政界のエース中のエースという立場で登場したことになっています。
※ 630年、中大兄皇子の父とされる舒明天皇の時代、すでに遣唐使が派遣されています。
どうも母親のほうが目立っていて、このときの天皇は母親の皇極天皇です。中大兄皇子はまだ20才前、若々しい青年ですけれども、彼一人じゃまだ経験不足です。ブレインとなる大人がついている。これが、中臣鎌足(かまたり)です。「かたまり」じゃない。「かまたり」です。
そして645年、暗殺事件です。相手は蘇我氏です。蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿を暗殺する。場所はこともあろうに天皇が住んでいる大極殿という一番の宮殿です。木の陰に潜んで、そこの儀式の最中に一気に飛び出してブスッとやる。昔の貴族は、まだこの時代は気が荒いです。こんな劇画的な話が乙巳の変(いっしのへん)です。乙巳は年の数え方で意味はありません。
そして蘇我氏を滅ぼして、新しい人事で天皇を変えていきます。中大兄皇子はこの時の皇極天皇の息子ですけど、なぜか天皇にはすぐにはならない。この人が天皇になるのは、ずっとあとです。
このことが私はずっと不思議です。この天皇である母親とクーデターを起こした息子の関係は不思議です。自分の母親が天皇であるのに、その天皇の前で息子の中大兄皇子がなぜ蘇我入鹿を殺さなければならないか。もっとうまい手があったはずだと思います。この事件は奈良県明日香村に遺跡のある飛鳥板蓋宮でおこったとされていますが、これをそのまま信じることは難しいです。
※【異説】 正義は蘇我入鹿にあって、よこしまな心をもった中大兄皇子や中臣鎌足が権力闘争の末、蘇我入鹿を抹殺し、政治家蘇我入鹿の手柄をすべて横取りした、という可能性が出てくるわけだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P50)
※【異説】 中大兄皇子や中臣鎌足の蘇我入鹿暗殺は、単なる権力闘争の結果であって、本当に改革を推し進めていたのは、むしろ蘇我氏の方であった。そして孝徳天皇は、新蘇我派の天皇で、蘇我入鹿の遺志を引き継いだのではないか。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P52)
ここでは中大兄皇子は皇太子になる。中大兄皇子はすぐには天皇にはならない。次の次の天皇になる。この人が天皇になるのは20年以上あとです。父も母も天皇であるなら、その子である中大兄皇子はすぐに天皇になれるはずです。しかしならない。それは中大兄皇子が天皇の子ではなかったからではないか。中大兄皇子は、まったく別のところから来た人物だったのではないか。中大兄皇子が本当は誰であったか、本当に天皇の息子であったか、疑問です。
※【異説】 蘇我氏の正体。それは、新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の末裔だった。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P242)
※【異説】 蘇我氏が滅亡したとされる645年の乙巳の変は、新羅の出来事であるヒ曇の乱の書き換えとする説があります。蘇我氏自体が創作された可能性もあります。蘇我氏や厩戸王を登場させることによって、外来文化である仏教や律令の受け入れや、中央集権体制が早くから行われていたことにする意図があったのではないでしょうか。蘇我氏は新羅の重臣をモデルにした架空の一族ではないかとする説もあります。
しかし一旦、架空の人物を歴史上に登場させると、その子孫はどうなっているかという疑問が生じ、そこから歴史のウソが見抜かれてしまいますから、それを防ぐために、架空の人物は早めに滅亡させておく必要があります。だから蘇我氏は歴史上は跡が残らないように悪者にして滅ぼされ、それと同じように厩戸王(聖徳太子)の一族も蘇我氏によって滅亡させられることになった、とも考えられます。蘇我馬子、蝦夷、入鹿という三代の名前も、あえて悪い名前をつけられているように思います。
※【異説】 この大化改新には、
1.この話は実在しない架空の話だとする説、
2.647年に新羅でおこったヒ曇の乱(ヒドンのらん、ヒは田+比の字)を、日本の歴史としてアレンジしたものだとする説、があります。いずれにしてもそのまま日本の歴史として信じるのは難しいことです。
ヒ曇の乱とは新羅で起こった事件です。647年、新羅の女王である善徳女王(女帝皇極天皇に比定)のときに、女王の甥の金春秋(中大兄皇子に比定)が、重臣で義兄(妻の兄)の金庾信(中臣鎌足に比定)とはかって、対立する重臣のヒ曇(ヒドン、蘇我入鹿に比定)を殺した事件です。確かに時期も人間構成も似ています。(倭と日本建国史 鹿島曻 新国民社 P255あたり参考)
ではその相棒、中臣鎌足はどうなるかというと、ずっと偉い貴族になっていくんだけれども、名前を変えます。中臣から藤原に変える。この藤原氏が何百年も、というか現代まで生き残っていくんです。この藤原氏は、次の奈良時代、その次の平安時代と、ナンバーワン貴族にまで上りつめていく。ただし天皇にはならない。中大兄皇子も私には疑問の多い人ですが、それと同様にこの中臣鎌足も、本当は誰なのか、よくわからない人です。
※【異説】 少なくとも、「日本書紀」編纂の中心に藤原不比等が座っていたとするならば、「日本書紀」が単純な「天皇家のための歴史書」だったかどうか、じつに怪しいといわざるを得ない。・・・・・・「日本書紀」の神話とは、「天皇の正統性」を主張するのが最大の目的ではなく、「藤原氏の正統性・正当性」を主張する、という「裏」の動機・目的こそが大切だったことに気づかされる。・・・・・・「日本書紀」は藤原氏の政敵・蘇我氏をとことん悪く書いている。藤原不比等の父・中臣鎌足は蘇我氏の横暴を憎み、天皇家の行く末を憂い、蘇我入鹿暗殺というクーデターを起こしたと記している。・・・・・・藤原氏が心血を注いだのは、いかに蘇我氏の正体を抹殺するかにあったはずで、そのいい例が、蘇我氏の祖の名を「日本書紀」が無視している点である。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P98)
※(筆者注) 九州王朝説では、中臣鎌足から藤原不比等へと続く藤原氏について、ほとんど触れていない。藤原氏は奈良時代以降、絶大な権力を築き上げた。日本の歴史から九州王朝を消し、万世一系の天皇が支配する国にしたのは藤原氏である。藤原氏とはいったい何者だったのか、そのことが十分に解明されていない。
※【異説】 ひょっとして、ヤマト朝廷がヤマト建国来、王家が出雲神を重視し、丁重に祀る一方で、「日本書紀」の中で出雲神が「天神の敵」「天皇家のライバル」として描かれたのは、「出雲=蘇我氏」だったからではないか? 出雲神と蘇我氏の命運は驚くほどよく似ている。天神の敵で天神の強要によって国を譲り渡した出雲神は、「日本書紀」編纂の中心にいた藤原氏に政権を譲り渡し、大悪人と「日本書紀」の中で罵られた蘇我氏とそっくりではないか。つまり、出雲神が蘇我氏の祖であったからこそ、「日本書紀」は「出雲」の正体を抹殺し、悪のイメージを植え付けたのではなかったか。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P117)
※【新羅の金春秋】 金春秋はのちの新羅の武烈王(ぶれつおう、602年? - 661年)。武烈王は新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)。王妃は金庾信の妹に当たる。
この時代の新羅は、唐からの遠征を撃退したことで勢いに乗る高句麗と、伽耶地方を80年ぶりに新羅から奪回した百済からの圧迫により疲弊していた。窮した新羅は隣国の支援を求めて、王族の金春秋を高句麗、日本に派遣したが、どちらも成果を挙げることはできなかった。
対日本の場合、646年に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり、翌647年(大化3年)に高向玄理は金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質という身分で暫く日本に留まった。
対日本の場合、646年に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり、翌647年(大化3年)に高向玄理は金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質という身分で暫く日本に留まった。
翌648年、今度は唐に派遣された金春秋は、対高句麗で思惑の一致する(唐の)太宗の厚遇を受けた。
652年、金春秋が即位すると、唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせて楽浪郡王を増封された。
659年、百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。新羅からの再三の懇願に応え、660年3月、唐は水陸13万の兵を百済に送り、金春秋も唐軍の総管として5万の兵でこれを迎え、百済を滅ぼした。
661年、唐の高句麗出兵に参加した金春秋は、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。(ウィキペディアより抜粋)
【孝徳天皇】 この時の新しい天皇には中大兄皇子の母方の叔父にあたる孝徳天皇を立てます。そして初の年号を制定します。この日本初の年号が大化です。「大化けする」という意味です。大化けして何をするかというと、翌年646年正月に「改新の詔」をだして、私有地を廃してすべてを天皇のものとする公地公民制を目指したということになっています。
これはすべての土地を国家が一元的に管理するということで、いわば古代の社会主義国家体制のようなものですが、こんなことが本当にできたのかどうか、古くから疑問があります。こんなことができたなんてとても信じられない、と思うほうが歴史の真実に近づけるような気がします。ある教科書にも、「日本書紀」が伝える「改新の詔」の文章には潤色(じゅんしょく)がある、と書いてあります。
講演番号61 ひた隠しにされる年号・九州年号 ~熊襲が制定したわが国最初の年号群~ 講師:内倉武久
※【異説】 この改新詔は九州王朝の天子による令であって、建評の詔であったと考えるべきです。・・・・・・本稿では「7世紀中期以前の近畿地方の王者の領地領民を九州王朝側に召し上げる話」となります。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 服部静尚 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P244)
※【異説】 九州王朝は唐・新羅の脅威に対抗するため、九州年号常色・白雉期の、649年頃全国に評制を敷き、652年に難波遷都を行ったが、その先例は端政年間の多利思北孤によるこうした難波・河内進出と東方経営、集権体制の整備といった対隋防衛施策だったのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P73)
※【異説】 「大化」は九州年号では695年が元年であるところ、「書紀」では645年で「50年のずれ」が見られます。「書紀」大化の時代は、九州年号では主に「常色」(647~651)期にあたり、九州王朝では、新羅や蝦夷との抗争に備え、全国に「評制」を施行(649年ごろ)し、「七色十三階の冠(647年)」「八省・百官設置(649年)」等の官僚制整備をおこない、「九州王朝を中心とした集権体制」を強化・確立していきました。
一方、九州年号の大化期(695~700)は九州王朝の末期で、近畿天皇家では、持統・文武が「近畿天皇家を中心とした集権体制」を作るため、「評制から郡制への移行」や「律令制定(大宝律令)」「大宝建元」(いずれも701年)を始めとする「政権移行」に向けた準備・改革を進めている時期でした。
「書紀」編者は、この(近畿)天皇家の改革記事を、「大化」年号ごと、九州王朝の改革期と重なる孝徳期(645~649)の5年間に移しました。そして、九州王朝の制度の「評」を、近畿天皇家の制度の「郡」と書き換えるなどの手法で、「主体(九州王朝と近畿天皇家)」と、「時代」を異にする、「集権体制確立に向けての二つの改革」を「混合・融合」させました。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P66)
※【異説】 古田武彦氏は、「(日本)書紀」には九州王朝の史書からの「盗用」がみられるとされ、持統3年(689)から11年(697)にかけての31回の「持統吉野行幸記事」は、本来「34年前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸である」こと、つまり行幸記事が「34年繰り下げ」られていることを例としてあげられた。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P185)
※【異説】 (九州王朝では)649年頃、全国に新たな地方統治制度である「評制」が敷かれたことが分かっている。・・・・・・「評制」は中央政権が、地方の豪族を評監等に任命し中央政権の統制下に置くものだ。・・・・・・その役所は「地理的」に全国統治に適した場所に整備する必要があり、九州は遥か東国を統治するには不適切だった。そこで、統治領域の中央に位置し、かつ筑紫からの海運の便も良い難波に造都を計画したと考えられよう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P187)
※【異説】 都城造営の次の段階は、予定地の地形調査で、「書紀」天武11年(682)にその記事がある。34年前は孝徳大化4年(648)・九州年号「常色」2年だ。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P187)
※【異説】 「(伊予三嶋)縁起」は、天武11年(682)の34年前、常色2年(648)に九州王朝の天子が、「新城」則ち難波宮予定地調査のため工匠を派遣し、自らも予定地視察のため、筑紫から瀬戸内を経由し難波に行幸した。その途上伊予に立ち寄ったことを示すものとなろう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P188)
※【異説】 (難波宮への)移転は、孝徳白雉2年(651)に行われたことが、天武14年(685)記事からわかる。34年前は孝徳白雉2年(651)・九州年号「常色」5年で、先発隊を9月に派遣し、現地で万全の備えが行われたと考えられる。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P191)
※【異説】 (天武14年(685)の)この記事こそ、「書紀」で「伊勢王」とされる「九州王朝の天子」らが筑紫から難波宮にに遷居した記事だと考えられる。・・・・・・ちなみに、新羅は百済との争いで劣勢となり、王子金春秋(武烈王)は、高句麗や倭国に支援を求めたが拒否され、648年に唐に入朝し臣従した。つまり、「唐・新羅の連合が強固になった」わけで、百済と関係の深い九州王朝にとって、唐・新羅の脅威が高まったことを意味する。まさにこの時期に「副都詔」が出され、難波都城造営が実行に移されたことになる。(筆者注 685年の34年前は651年)(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P192)
※【異説】 「持統の初の吉野行幸(689)」の34年前、斉明元年(655)には、九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸が始まり、翌斉明2年(656)には吉野宮が造られ、大野城や基肄城の築造、羅城の構築が始まる。ここでは九州王朝の天子は「斉明」になぞられており、「倭京」とは飛鳥の諸宮ではなく「筑紫大宰府」で、「斉明」が居した「飛鳥河辺行宮・倭河辺行宮」も、太宰府周辺の大工事中に九州王朝の天子が居した小郡宮だったことになろう。・・・・・・その後「倭京」たる筑紫大宰府に復帰し、一大防衛施設造営に取り組み「城塞首都大宰府」を構築していった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P194)
しかも時代は、次に見るように、それどころではないような混乱した時代に向かっていきます。
続く。
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