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新「授業でいえない日本史」 3話の3 古代 白村江の戦い

2020-10-29 06:54:20 | 新日本史1 古代2
【改新政治の動向】
【斉明天皇】
654年に孝徳天皇が死にます。
すると、中大兄皇子は次にまた自分の母親を再度、天皇にします。乙巳の変の時の皇極天皇ですが、皇極天皇が名前を変えて斉明天皇として再度即位します。これを重祚といっています。
斉明天皇は、660年に、唐・新羅の連合軍により百済が滅亡すると、百済を救援するため自ら筑紫つまり福岡県の朝倉に赴きますが、661年にこの地の朝倉宮で没します。この宮がどこなのかはまだ分かっていません。このことが古事記や日本書紀で語られる神功皇后の三韓征伐説話のモデルになったのではないかといわれます。 

※ 古田武彦氏は『壬申大乱』で、「書紀」に記す持統天皇の持統3年(689)から11年(697)にかけての、のべ31回の吉野行幸は、斉明元年(655)から天智2年(663)までの、九州王朝(倭国)の天子による佐賀なる軍事基地・吉野への閲兵・行幸記事が「34年繰り下げ」られたものだとされている。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P25)

※(660年の日本書紀の)記事は、百済の危機という状況のもと、九州王朝(倭国)はこのころに大宰府の防衛ラインを築造・完成させ、兵士らを配置したことを示すものだろう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P27)

※ 『海東諸国紀』(申叔舟著 1471年)では、斉明7年(661年・九州年号「白鳳元年」)に白鳳改元近江遷都の記事があります。・・・・・・「白鳳」は『書紀』に見えない「倭国年号(九州年号)」で、その改元と近江遷都が同時なら、遷都は倭国(九州王朝)の事績となります。そして、斉明6年(660年)に唐・新羅連合による攻撃で・・・・・・百済は滅亡しており、唐・新羅連合がその余勢を駆って、百済の同盟国であった倭国の本拠「筑紫」に侵入してくることは十分に予想できます。その場合、近江なら、筑紫の防衛線を突破されても、次は瀬戸内海での水軍による抵抗、さらに難波宮を防波堤にした抵抗と、「三段構え」の防衛戦が構築できます。従って「飛鳥から近江」と違い、倭国の「筑紫から近江への遷都」は対唐・新羅戦への備えとして大きな意味を持つのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P35)

※ 朝鮮半島と東アジア海域への進出を何としても実現したかった唐は、3度の遠征に失敗した隋から学び、東の新羅と提携して高句麗を挟撃した。
新羅は656年の使節の派遣を最後に、百済に近い倭国との関係を断つ。他方で高句麗は百済と連合し、659年、機先を制して新羅への攻撃に踏み切った。高句麗と百済の同盟軍が30余城を陥落させると、新羅は唐に支援を求め、両陣営の全面衝突が始まる。
唐の第三代、高宗は、高句麗との同盟を理由に、660年、百済への攻撃を開始。将軍、蘇定方が率いる13万人の唐軍と5万人の新羅軍が百済に侵攻して義慈王を降伏させ、百済を滅ぼした
百済の王族、貴族、民衆の多くが唐に連行され、多数が海を渡って倭国に亡命した。
その後、唐が主力軍を高句麗攻撃に回すと、百済では遺民の鬼室福信(生没年不詳)が百済の復興を目指して挙兵。義慈王が30年前に倭国に人質として送っていた王子、余豊璋(生没年不詳)の護送を求めた。
倭国では女帝の斉明天皇を先頭に百済救援の準備が進められたものの、女帝が2ヶ月後に筑紫で病没。中大兄王子が陣頭指揮にあたった。その間に、唐軍は本格的な高句麗攻撃を開始する。
662年、倭国は5000人の兵とともに船170隻で百済の王子、余豊璋に最高位の織冠位を与えを送り返す。同年、余豊璋は百済の王位についた。しかし、百済を復興しようとする勢力の内部で抗争が起こり、余豊璋が鬼室福信を殺害。それを機に、唐と新羅の連合軍が百済復興の拠点、周留城の攻撃に踏み切った。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P49)

※【異説】 その時(白村江の戦い)には、九州王朝と、いわいる近畿天皇家側、近畿分王朝と言ってもいいのですが、これは必ずしも、正面きった対立関係ではなかったようです。その証拠には、今ご指摘になったような朝倉宮に斉明天皇が入ったということを見ましても、当然、朝倉宮は九州王朝の磐井の本拠、筑紫野君らの本拠ですから。そこに入ったのですから、両者は協力して、唐・新羅の連合軍にあたるという、少なくとも建前はそういう体制であったようです。
 ところが、これも結論から申しますが、どうも近畿天皇家側は、斉明・天智側は本気で戦う気持ちは無かったようです。と言いますのは、それを示します文献上の証拠は、「風土記」にございます。・・・・・・今の岡山県ですが、そこに邇磨(にま)の郷という箇所、そこだけが残っています。それは、斉明天皇の時、白村江の戦いがあるというので、軍勢が集められた。二万人が集まった。ところが、少し待っておれというので待たされていた。そのうちに朝倉宮で斉明天皇が亡くなられた。そこで、その後、中大兄皇子が、もう軍勢を解散していいと、こういうことで、結局解散してしまったので、白村江には行かなかったと。・・・・・・要するに、白村江の時には、近畿天皇家側は戦う意志を持っていないわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P226)

※【異説】 額田王の歌と言われている「万葉八番歌」の「熟田津」の比定地は、伊予国内ではなく有明海の佐賀県諸富町新北(にぎた)であった。また、作者も女性の額田王(ぬかたのおおきみ)ではなく男性の額田王(ぬかたのおう)であった。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P122)
(筆者注) 佐賀県諸富町の三重集落には「新北(にきた)神社」がある。そこには、秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めた徐福上陸の伝承がある。また、その徐福によると言われるご神木のビャクシンの樹がある。また付近には世界遺産「三重津海軍所跡」(幕末)がある。
 


【天智天皇】 若かった中大兄皇子も、もう40才ちかくです。斉明天皇が亡くなって、そこでやっと天皇になるかというと、なかなか即位儀礼をあげず、天皇になりません。しかし実質的には天皇の仕事をしていったことになってますので、天智天皇といいます。これを称制といっています。
そしてそのまま斉明天皇の百済救援事業を継続します。日本が朝鮮半島まで百済救援軍を派遣します。その戦いが663年白村江の戦いです。白村江(はくそんこう)は、日本ではないです。朝鮮の川の名前で、錦江といいます。鹿児島湾のことを地元では錦江湾といいますが、それと何か関係があるのでしょうか。ちなみに韓国の首都ソウルを流れる川は漢江です。

攻めて行ったのはいいけれども負ける。相手が悪かった。相手は新羅で、そのうしろに中国の唐がついています。
なぜそんな無謀な戦いをしたか。日本は、新羅のライバルであった百済と友好関係にあったから、それを助けに行くためです。仏教も百済から伝えられたものです。その百済を救援に行ったのです。


※ 周留城は唐軍に下り、敗れた余豊璋高句麗に亡命。百済は完全に滅び去った。倭国軍は、亡命を望む百済の将兵を船に乗せて帰国。
665年、400人の百済貴族の近江移住が認められ、
666年には、2000人以上の百済人が東国に移住した。
667年には、それまで百済に従属していた黄海の耽羅(べきら)(現在の済州島)が倭国に使節を派遣する。倭国は亡国の危機が迫っているとの危機感を強め、唐・新羅連合軍の海からの進撃に対する備えを固めた。玄海灘が戦争の海に変わったのである。
664年、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(ノロシ台)を配置し、防御の拠点を大宰府に置いて、海岸線に沿って大堤と堀からなる水城(1.2キロ以上の濠)が築かれた。・・・・・・大宰府の北の尾根筋や谷間に、6.5キロにわたり土塁、石垣を巡らした百済の様式の山城、大野城も築かれている。
667年になると、都が内陸部の琵琶湖南西岸に遷された。翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位。予想される唐軍の侵攻ルートに沿って、関門海峡に臨む長門に城を設け、さらに高安城(奈良県)、屋嶋城(香川県)、金田城(対馬)などの朝鮮式山城を築いた。百済から亡命した技術者が山城の建設を指導したのであろうと推測されている。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P50)

※朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のようにあります。

「660年、百済の先代の武王の従子(甥)、(鬼室)福信はかつて将帥の経歴がある。この時に僧の道琛とともに周留城(旧韓山城)に拠って叛き、かつて倭国に人質となって行っていた故王子の扶余(豊璋)を迎えて王にした」 

※【異説】 ここでの中大兄皇子は、実在の人物ではなく、日本に来ていた百済王子の豊璋がモデルだとも言われます。つまり中大兄皇子は、乙巳の変では新羅王子の金春秋をモデルとし、白村江の戦いでは百済王子の豊璋をモデルとして合成された人物だとされます。

※【異説】 中臣鎌足の逐電の時期と豊璋の百済行きの時期が、ぴったり重なってしまうのである。いったいこれは何を意味しているのだろう。よもや二人は同一人物ではあるまいか。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P43)

※【異説】 興味深いのは、日本に人質として来日していた百済王子・豊璋で、この人物の姿が、中臣鎌足の登場と逐電のタイミングと重なってくるのだ。すなわち、豊璋が来日したあとに中臣鎌足が歴史に登場し、しかも、豊璋が百済に召喚されると中臣鎌足も姿をくらまし、さらに白村江の戦いのあと豊璋は行方不明になるが、中臣鎌足は、なに食わぬ顔で中大兄皇子の前にもどってくる。中臣鎌足、百済王子・豊璋、両者を同一と考えなければ説明のつかないことばかりだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P54)

※【異説】 中臣鎌足(百済王子・豊璋)の目的は、あくまで百済遠征であり、中大兄皇子はうまく利用されたのだろう。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P58)

※【百済の豊璋】 扶余豊璋(ふよほうしょう)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。
豊璋は日本と百済の主従関係を担保する人質ではあるものの、待遇は決して悪くはなかった。
660年、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。
662年5月、斉明天皇は豊璋に安曇比羅夫らが率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。いわゆる白村江の戦いである。
豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
豊璋の弟については、豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。白村江の戦いの後、百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。(ウィキペディアより)

※【異説】 九州王朝は、「天子対天子」の立場ですから、ついに白村江の戦いに突入したわけです。ところが、・・・・・・分家でありますから、近畿天皇家側は、いわば「応援」という形をとったのです。しかし、先ほどの備中の「風土記」が示しますように、また近畿天皇家の誰も主だった者が死んでいない事実が、何よりも雄弁に語りますように、実質上は「降りて」いたのです。だから、倭国側の大敗戦、「筑紫君」が捕虜になると、これは、ある意味では、近畿側にとってはチャンス到来といいますか、予想どおりの展開が出てきたわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P229)



しかし負けた。負けて「ごめんね」では終わらないです。敵を攻めて負けたら、今度は仕返しが来るんです。これが怖くて仕方がないから、九州の大宰府を今の場所の山懐に引っ越して(もともとは高宮にあったといわれます)、その大宰府の入り口に、敵が入ってこないような土塁をつくっていく。これが水城です。664年、水城をつくります。新しい大宰府の役所になったところが今の都府楼跡です。学問の神様で有名な太宰府天満宮ができるのはもうちょっとあとです。

ちなみにダザイフを、「大」宰府と書くか「太」宰府と書くかですが、もともとは「大」宰府ですが、誰かがまちがって「太」宰府と書いたところ、みんな「太宰府」と書くようになったようです。たぶん鎌倉時代には今の「太」宰府になったようです。今は「太」宰府市ですが、この時は「大」宰府です。まあそんなことは歴史の本流には関係ないですが。
さらに太宰府を防備するために、守るためにお城を築く。大宰府の北の裏山は大野山という。そこにお城をつくる。これが大野城です。今でも福岡県「大野城市」として名前が残っています。
それから向かいの佐賀側には基山という山がある。そこには基肄城(きいじょう)を造る。これは佐賀の鳥栖側です。これはともに日本の建築ではなくて、同じ型のお城が朝鮮にあることから、朝鮮の技術で造った朝鮮式山城です。


※【異説】 大宰府の防衛施設と考えられる「大水城」は白村江敗戦の翌年、 天智3年(664)に、「大野城基肄城」は天智4年(665)に、それぞれ築造されたと「日本書紀」に記されている。・・・・・・こうした「大宰府の防衛施設群」が、白村江直後の1~2年間でできたのではないことは考古学が証明している。まず、大野城城門の木柱の伐採年代は、年輪年代法で648年とされ(九州国立博物館が年輪年代法で648年と発表。西日本新聞2012年11月23日)、水城敷粗朶(しきそだ)(築堤の際に小さい枝葉を敷き込んだもの)は、九州歴史資料館による炭素同位体年代測定法で240年660年頃という結果が報告されており、これらの施設は白村江「敗戦後」ではなく、「戦前」に大宰府を防衛するために築造されたものと考えられよう。そもそも、天智3年には郭務悰等が、4年には唐より朝散大夫沂洲司馬上柱国劉徳高等254人の使節が筑紫に到着している。戦勝国唐の使節の「眼前」で、戦争準備であることが明白な「巨大工事」を行うことが可能だったとは到底思えない。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P19)

※【異説】 「書紀」編者は、実際は斉明2年(656年)の九州王朝(倭国)による大野城・基肄城築城記事を、天智4年(665年)に「9年繰り下げ」、近畿天皇家の天智の事績としたことになる。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P24)

※ 平成11年に発見された太宰府市の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、大宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339メートル)、北の大野城(四王寺山、410メートル)、南の基肄城(基山、404メートル)です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P36)


【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています


結果的に敵は攻めて来なかったとされていますが、このような可能性が十分にあるのは、この600年後モンゴルの大軍が日本を攻めてきたとき、どこに攻めてきたかを考えれば分かることです。

さらにその北部九州の警備をする兵士が、防人(さきもり)です。敵来襲の知らせのための烽火(とぶひ)を設置します。
私は以前、水城や大野城や基肄城にも行ってそこに立ってみましたが、この砦は日本人の発想にしては大規模すぎる、日本人離れしている、と思いました。日本人がなぜ朝鮮式山城をつくるのか。敵を防ぐための施設というけど、本当に敵は攻めてこなかったのか。敵が攻めてきて敵に占領されたから、敵がその駐屯地として朝鮮式山城をつくったのではないか。白村江で負けた日本軍が防御のために朝鮮式山城をつくったとするより、勝った朝鮮の新羅軍が九州北部を占領するために朝鮮式山城をつくったと考えるほうが実態に合うような気がします。

先に磐井の乱のところで西日本各地に残る神籠石のことを言いましたが、この神籠石も朝鮮式山城だったことが分かっています。この神籠石は、6世紀の磐井の乱のころつくられたとする説と、この7世紀の白村江の戦いのころにつくられたとする説があります。その両方だった可能性もありますが、白村江の戦いの頃だとする説が有力です。朝鮮軍が日本に入ってきて支配しないと、このような大規模な朝鮮式山城はできないのではないでしょうか。

※【九州王朝の薩夜麻】
※【異説】 『旧唐書』『冊府元亀』には、白村江戦で「倭国酋長」が捕囚となり、高宗に謁見、封禅の儀(天下を平定した感謝を天に捧げる儀式)に参加し、唐の臣下となったと書かれています。・・・・・・『旧唐書』の「倭」とは倭国(九州王朝)を言いますから、その「酋長」が囚われていたことになります。そして、『書紀』では「筑紫君薩夜麻」が唐に抑留されていたと書かれているのです。また、捕囚となった敗戦国の東夷の王(酋長)たちは、皆唐に臣従し、「羈縻(きび)政策」により唐の任命した「都督」として「都督府」に送り帰されています。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P32)

※【異説】 倭王薩夜麻も「都督」として送り返された可能性が高い。現に「筑紫都督」の名称が、白村江後の天智6年(667)、「書紀」に初めて現れる。・・・・・・670年頃に造られた大宰府政庁Ⅱ期とは、唐の都督となった倭王の居する、文字通りの「都督の府都府楼」だった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P32)

※【異説】 「書紀」では薩夜麻の帰還は天智10年(671)11月とされている。・・・・・・本来境部連石積の帰還と同じ天智6年(667)だった薩夜麻の帰還も、天智10年(671)に4年間繰り下げられた可能性がある。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P98)

※【異説】 (670年)、今までの「倭国」、この「倭国」というのは九州王朝です。・・・・・・この「倭国」を廃止して、この大和中心の「日本国」と名称を変える通知を行ったようです。何でわかるかというと、朝鮮半島の「三国史記」、それの新羅の文武王の10年、西暦で670年、その年に、「倭国」を「日本国」と改む、『倭国を更えて日本国と号す』、という記事があります。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P229) 



その後、負けた側の天智天皇は、飛鳥の都にいるのが恐くなって、667年、都を琵琶湖の近くに引っ越します。これを近江大津宮と言います。それほど攻められる恐れがあったのだと思います。敵は日本に攻めてこなかったとされていますが、敵が九州に乗り込んできた、と考えるほうがリアル感が増します。
天智天皇はこの都に遷都したあと、翌年の668年にやっと正式に即位します。遅すぎる即位です。そしてその3年後の671年には亡くなります。

※【異説】 九州王朝の天子たる薩夜麻が唐に抑留されている間は、当然「天子不在」であり、天智6年(667)11月に帰国したなら「称制終了」も頷首できるのだ。つまり、「天子の不在」とは近畿天皇家の天皇の不在ではなく、「九州王朝の天子・薩夜麻の不在」であり、彼の帰国と「復位」により「天子不在」状況が「解消」したことになる。そして抑留中の薩夜麻にかわり近江朝を事実上運営していたのが天智であれば、その間は「天智称制」ということになろう。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P100)

※【異説】 「倭国(九州王朝)の天子」薩夜麻667年末に帰国するまで政務を執ることができない状況にあった。そこで、「近江宮」でヤマトの天皇家の天智が、薩夜麻の「代理」として政務を掌った。これは、天皇家一族は白村江に出兵せず、従って損害が少なく、また近江は継体(天皇)の生誕の地(『書紀』に「近江国高嶋郡三尾」とある)とされるように、ヤマトの天皇家の勢力範囲にあったから、自然の成り行きともいえよう。つまり、「天智称制」という形式は、天皇の不在ではなく「倭国(九州王朝)の天子薩夜麻」の不在によるものだった。
 しかし、薩夜麻は「唐の官僚たる都督」として帰国した。唐側から見れば、羈縻政策上「都督」は「倭国王」として統治する地位となるが、倭国側から見ればあくまで「唐の官僚」いわば「代官」だ。これは、倭国内の諸国・諸豪族、重臣らが盟主として推戴してきた「倭国王」とは異質な存在となる。そこで、都督薩夜麻の帰国直後の天智7年(668)正月、「九州王朝の薩夜麻」に代わって、「ヤマトの天皇家の天智」が諸豪族や重臣らによって「倭国の盟主・代表者」に推戴され、「大津近江宮」で即位したのだ。つまり、この時点で「唐の都督たる九州王朝の薩夜麻」と「倭国王たる天皇家の天智(近江朝廷)」という二重権力状態が生じたことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P184)

※【異説】 白村江の敗戦で半島に出兵した倭国の水軍は壊滅しており、残された主要な軍事力は、戦場から離れた東国の兵力となる。つまり、薩夜麻には白村江を生き延びたわずかな九州の兵しかなく、最大の頼みは駐留していた唐の勢力ということになろう。その唐にしても少数の駐留軍で東国の「天智の近江朝」を制圧するのは困難で、羈縻政策には反するが、当面天智の執政を認めざるをえなかった。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P185)

※ 天智即位については近江朝内部は勿論、近畿天皇家内部においても、支持するか否か大いに意見が分かれたことだろう。ここで注目されるのは、天智は称制即位の前に多数の嬪を娶っていた。特に遠智娘(をちのいらつめ)は後に天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女(うののひめみこ)を産んでおり、姪娘(めひのいらつめ)は後に元明天皇となる阿倍皇女を産んでいる。それにもかかわらず、(天智)7年1月の即位翌月に「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」を正式に「皇后」としていることだ。
 そして天武は天智没後「倭姫王」に即位を勧めている。つまり天智即位と倭姫王を娶るのは「一体」の行為であり、かつ倭姫王は皇位を継承する十分な資格を有することになろう。古田(武彦)氏は「倭」は筑紫を意味するとされ、これを受け西村秀己氏は、「倭姫王」は古人大兄の娘とされるが、本来は九州王朝の血族(皇女=倭姫)ではないかとする。そうであれば彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより天智の皇位継承上の「障害」である「血統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれるのだ。
 ちなみにこれほどの地位にありながら、その後の「倭姫王」の消息は記されず、生没年も不詳とされる。その一方、九州の伝承では『開聞古事縁起』等で「大宮姫」という人物が665年に天智の妃となり、その後都(近江)を追われ天武天皇壬申年(672薩摩開聞岳に帰ったとされる。(650年生まれで708年に59歳で没)。『書紀』の「倭姫王」が「大宮姫」なら、夫天智の没後、壬申の乱時には「実家」たる九州王朝の薩夜麻の下に帰国した、あるいは「救出された」ことになろう。
 「倭姫王」が天智の妃である内は、薩夜麻側はあえて近江朝に手出しをしなかったが、「倭姫王」とは別腹(母は伊賀采女宅子娘)の大友が即位したことをうけ、近畿天皇家内部の権力闘争も利用して天武を支援し、遠慮なく近江朝を滅ぼしたのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P100)



死の1年前の670年には、庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍をつくります。これが日本初の全国的戸籍です。これは当初は農民を徴兵するのが目的でした。
ところで近江大津宮の近江というのも変な名前ですね。なんで近江と書いて「おうみ」というのしょうか。「おうみ」というのはもともと淡海(あわうみ)つまり湖のことです。都で知られた湖に2つあって、1つは琵琶湖、もう1つは静岡の浜名湖があります。都人は、琵琶湖のことを「近つあわうみ」、浜名湖のことを「遠つあわうみ」と呼んで区別しましたが、そのうちに琵琶湖には近江という漢字をあて、「近つあわうみ」と言いました。もう一方の浜名湖には遠江という字をあて、「遠つあわうみ」と言うようになりました。
しかし都に近い琵琶湖のことはだんだんと、たんに「あわうみ」とだけ呼ぶようになり、さらに訛って「おうみ」となりました。一方の浜名湖のほうは、遠江と書いて「とおつあわうみ」と言っていましたが、やがてそれが訛って「とおつおうみ」となり、さらに「とおとおみ」となって現在に至っています。近江は現在の琵琶湖のある滋賀県の旧国名になり、遠江は浜名湖のある静岡県の旧国名になります。
近江も、遠江も、知らないと普通は読めない字です。面倒くさいと思うよりも、漢字で日本語を記そうとした人たちの苦労を察してください。
その近江大津宮をつくったのは、琵琶湖は大きい湖で、この湖に乗り出せば、敵から逃れることができるからです。900年後に織田信長が琵琶湖のほとりに安土城を築いたのも同じ理由からです。


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