ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない日本史」 3話の4 古代 壬申の乱

2020-10-29 06:54:10 | 新日本史1 古代2

【壬申の乱】 その近江に都を引っ越した天智天皇ですが、671年に彼が死ぬととたんに乱が起こります。672年壬申の乱です。天智天皇の子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)の対立です。大半の有力豪族は大友皇子側につきましたが、勝ったのは大海人皇子でした。

※【異説】 前にも言ったように、663年の白村江の戦いで日本が新羅に敗れたあと、新羅は日本に攻めてこなかったことになっていますが、そうではなく、新羅はすぐに日本に攻めてきて日本を占領した、とする説があります。占領したからこそ新羅軍によって朝鮮式山城がつくられたとするものです。
史実としては、その後、新羅は朝鮮半島に生き残っていた百済の王族たちの軍を破り、百済軍は日本に逃れます。そして勝った新羅は676年に朝鮮半島を統一します。
この説では、その朝鮮半島統一と同じように日本に進駐した新羅の王族たちは、新羅が占領した九州の王国と、それ以前からあった百済系の大和の王国とを合わせて、統一された新日本国を建国したとされます。これが672年の「壬申の乱」の真実だというものです。そしてその新日本国の王になった新羅の王が、壬申の乱に勝利して翌年673年に即位した天武天皇だというわけです。つまり兄の天智天皇は従来からの百済系の天皇であり、弟の天武天皇はそれとは別の新しい新羅系の天皇になるわけです。のちにつくられる日本書紀ではこの二人は兄弟だとされていますが、本当はそうではなく、新しい新羅の王が日本の天皇になったわけです。そう考えると、戦争した日本と新羅との国交が、このあとすぐに回復していることもうなずけます。
天武天皇は新羅の文武王のことではないかと言われます。文武王とは、新羅のヒ曇の乱で、ヒ曇を殺した新羅王子の金春秋(のちの武烈王、日本の乙巳の変の中大兄皇子に比定される)の息子です。つまり新羅の王族の親子関係が、日本の天皇の兄弟関係に変更されて、新羅の歴史が日本の歴史として記述されているとも考えられるわけです。(倭と日本建国史 鹿島曻 新国民社 P298前後参照)

※【新羅の文武王】 文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月21日)は、新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。 (ウィキペディアより)

※【唐の郭務悰】 郭務悰(かく むそう、生没年不詳)は、中国代の官吏。白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国(日本)を訪問している。
『海外国記』では、664年(天智天皇3年)の4月に郭務悰ら30人、百済の佐平である禰軍ら100人あまりが対馬に到着し、倭国側からは大山中の采女通・僧侶の智弁らが遣わされたとある。郭務悰はこの時劉仁願からの「牒書(ちょうしょ)」を携えていたことも記されている。また、彼の役職は「上柱国」とも記されている。
翌665年、劉徳高らが倭国に派遣された際にも郭務悰と禰軍は同行し、この時の一行は合計254人からなる大使節団であり、7月28日に対馬に到着し、9月20日に筑紫に入り、22日に表函(ふみひつ)を進上している。
671年11月2日に唐国の遣使郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1,400人を載せた、船47隻の大船団が比知島に現れ、対馬国司は大宰府に急変を伝えている。やがて筑紫に着き駐留して軍兵と思われる2000人での駐留状態になり深刻な問題となった。
しばらくして671年12月3日天智天皇が崩御し、その知らせは翌年、阿曇稲敷を通じて郭務悰らに伝達された。その後も駐留し続けた。
交渉の末に唐使らに大量の甲胄弓矢と絁(ふときぬ)1,673匹、布2,852端、綿666斤の贈物をすることで672年5月30日帰国させた 。(ウィキペディアより)

※ 『書紀』には672年5月に唐の郭務悰らが甲冑・弓矢の提供を受けたとあり、「壬申の乱」はその翌月(6月)に起きています。ここから壬申の乱当時、筑紫には唐の軍が駐留していたことがわかかるのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※ 翌668年、唐と新羅の連合軍は1ヶ月の攻防の末に高句麗を倒した。朝鮮半島の一連の戦闘に決着がつき、唐の朝鮮半島支配が成功したかに見えた。高句麗を滅ぼすと、唐は旧高句麗領を支配。
669年、(は)47隻からなる大船団で、旧百済領から2000人もの大使節団を倭国に派遣する。使節団のミッションははっきりしないが、唐軍への支援要請だったとする説もある。・・・・・・
ところが、予期せざることが起こった。唐軍と新羅の間に、亀裂が広がっていたのである。・・・・・・
668年頃、唐は倭国を討伐するためと称して軍船の修理を行うが、新羅はそれが自国に向けられるものと判断した。そこで新羅唐に背を向け倭国と連携して戦う道を選択することになる。
668年、新羅は久方ぶりに倭国に使節を派遣し、倭国もそれに応えた。
670年になると、新羅は高句麗の旧将の唐の安東都護府に対する攻撃を助け、大軍を動かしてかつての百済の地に駐屯していた15万人の唐軍を追い払った
675年、安東都護府を出た20万人の唐軍を新羅軍が迎撃し、壊滅状態に陥れる。
翌年、は海から新羅を攻めるが、失敗に終わった。
その結果唐は、678年、朝鮮半島の支配の拠点(安東都護府)を遼東半島に後退させ、朝鮮半島から撤退した。こうした経緯で、倭国は唐の侵攻を辛くも回避できたのである。
679年から690年の間の11年間に6回、新羅使が倭国を訪れたことを「日本書紀」は記している。8世紀にも、22回にわたり新羅の使節が倭国に派遣された。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P50)

※ 郭務悰二千人の部隊は謀略的性格をもった「政治工作隊」である。「壬申の乱」はまさに彼らの謀略によるものだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P19)

※ 郭務悰は唐人韓人計二千人政治工作隊をひきいて、(671年)12月3日天智天皇崩御の直前筑紫に乗り込んできたのである。だが、彼らは7月に日本から帰った李守真から天皇不予の報を得て、万一を見こんでやってきたに違いない。あるいはこの連中が前記『扶桑略記』のしるすように、大津に近い長良の山中に天皇を狩猟に誘って弑殺した可能性もある。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P63)

※【異説】 天智の死後、大友皇子と皇位を争った大海人皇子が支援を求めてきた。・・・・・・そして、壬申の乱直前の672年5月記事から、郭務悰は九州にいたことがわかるから、天武は九州に行ったことになる。・・・・・・『書紀』で天武が近江から逃れたのは奈良吉野のように書かれているが、九州佐賀には吉野ヶ里に代表される「吉野」があった。実際に天武が行ったのは佐賀吉野であり、その目的は「」と「都督薩夜麻」の支援を得るためだったと考えられる。この支援を背景に諸豪族を糾合した天武は、近江朝を倒し、「ヤマトの天皇家(『旧唐書』にいう「日本国」)の天皇」に即位し、一方の九州王朝の薩夜麻は、都督であるとともに羈縻政策にもとづく「倭国王」に復位した。これで白村江の敗戦で一時断絶しかかった九州王朝は、継続したことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P185)

※ (672年)5月20日に至って近江朝廷から郭務悰に・・・・・・莫大な賜物があって、彼は5月30日に筑紫を出発、帰国の途についたと(日本書紀の)「壬申紀」はいう。その後わずか3週間を経た6月24日に大海人皇子は吉野を進発して美濃に向い、ここに壬申の大乱は切って落とされた。しかし郭務悰ははたして5月30日に日本を去っていたであろうか?
 『扶桑略記』によると大唐大使郭務悰はその翌年673年)に朝廷から・・・・・・『書紀』記載と同じ大量の賜物を賜った。そして2月27日天武天皇の即位が行われた。郭務悰はどうやら弘文元年(672年)5月30日には出発せず、その翌年天武即位を見とどけてから帰国した可能性が大きい。・・・・・・
 それ(日本書紀の壬申紀)は天武天皇の即位を正当化するためのものだった。しかし、それはたんに天武天皇の「正閏」問題だけでなく、さらに大きな任務として、この内乱に唐が一枚かんでいることを飽くまで隠蔽する必要があった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P65)

※ 唐側は重ねて懲庸を加え、あわせて日本が二度と再び半島に進出するようなことがないよう日本にたいして徹底的な打撃を加えておくために、唐と新羅は力を合わせて、かねて噂されていた天智・天武の不和につけこんで、天智朝を倒し、傀儡王朝を立てて、その国政を支配せんとしたのだった。唐羅連合体の中心人物たる郭務悰はかねてその機をうかがっていたが、天智健在の間はついに歯が立たず、天皇崩御に及んで、筑紫にいた彼は筑紫大宰栗隈王と連絡をとりつつリモート・コントロールを行い、やがて機いたれりとして、その子美濃王を遣して吉野と通諜し、6月24日の吉野進発となったのである。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P68)

※ このようにして唐羅連合はついに計画通りにカイライ政権天武朝の樹立に成功した。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P78)

※【大海人皇子】
※筆者注 かつて九州王朝の天子であったアマタリシヒコの「アマ」と、大海人皇子(オオアマノオウジ)の「アマ」は似ている。

※【異説】 大海人皇子は近畿の天智(天皇)とは何の関わりもない九州王朝の皇子だったのです。・・・・・・「紀」にいう天智・天武の母親であるとされた斉明天皇は近畿の天皇ではなく九州王朝の「天子」であるならば、天武は近畿天皇家の天智とは兄弟ではなかったのです。・・・・・・天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」の称号から九州王朝の人となります。・・・・・・次代の整合性を加味して、消去法で見るならば、斉明(天皇)こそが天武(天皇)の「」になります。つまり、天武は「天子・斉明」の息子ではなく「弟」、すなわち「大皇弟」だったのです。それでは、天武の父母は、となると今のところ不明とせざるを得ません。(古代に真実を求めて 第17集 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2014.8月 P225)

※【異説】 (白村江の戦いに)「紀」では近畿天皇家も参戦したことになっていますが、実際は参戦していなかったのです。それに対して文武天皇以降の近畿王朝の事実上の開祖である天武(天皇)は九州王朝・倭国の皇子であったにもかかわらず、唐に対する忠誠を第一に考えて、実際に敵対した九州王朝を「なかった」ことにして抹殺したのです。・・・・・・
 九州王朝倭国の首都大宰府を中心とした博多湾岸の北部九州でした。ここは、日本列島の端に位置し、中国や朝鮮半島に最も近いため、文化・経済面においては最先進地域で王朝の発展につながったものの、「白村江の戦い」で散々の目に遭ったことから、対外戦争を考慮すれば近いがゆえに不適格と思ったのではないでしょうか。それに対して、近畿地方ならば日本列島の中央に位置しているため国家統治のためにも良しとした、と考えます。これもまた、九州王朝を抹殺する根拠の一つと考えることができます。(古代に真実を求めて 第17集 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2014.8月 P228)

※【吉野とは】
※【異説】 古田(武彦)氏は、(壬申の)乱に際し天武が近江から逃れたとする「吉野」は、奈良吉野ではなく「佐賀なる吉野」であり、「壬申の乱」の性格は、唐より帰国した九州王朝の薩夜麻と、九州に駐留するの支援を受けた天武とによる近江朝の打倒であって、筑紫から東国まで全土を巻き込む大乱であるとされた。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P90)

※【異説】 古田武彦氏はこの「吉野」とは吉野ヶ里(佐賀県神埼郡吉野ヶ里)で有名な「佐賀吉野」だとします。佐賀平野を流れる嘉瀬川の上流は吉野山(佐賀県三瀬村藤原字吉野山)で、川沿いに「吉野(兵庫町)」地名があり、そこには「宮」地名も残っています。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※【異説】 『書紀』では、この「吉野宮」は「奈良の吉野」のように描かれていますが、吉野宮の候補地(宮滝付近)の主要な建物遺跡は聖武天皇時代のもので、天武・持統朝では二間×六間と二間×四間の掘立柱建物が東西に二軒あるのみ。とても天武が家臣や家族を率いて壬申の乱前に籠れる場所ではありません。そもそも奈良吉野は深い山中にあり、ここに逃れても「虎に翼」どころか「袋のネズミ」のような状況になるはずです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※【異説】 天武は、壬申の乱を始めるにあたり九州に逃れ、唐と薩夜麻側の支援をうけて近江朝を滅ぼした。・・・・・・壬申の勝利で天武は我が国の実質上の最高実力者となったが、名分上では依然として九州王朝の「臣下」であった。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P101)

※【異説】 近畿天皇家は、白村江直前に斉明天皇の崩御を口実に筑紫から撤退し、被害を最小限にとどめ、その後672年の壬申の乱に勝利し、近畿・東国の覇権を握った天武天皇は、事実上倭国で実力ナンバーワンの存在になっていった。これに対し、九州王朝(倭国)は、敗戦の痛手に加え、筑紫大地震(678)の未曾有の被害などもあり、衰退の一途をたどり、遂に701年の大宝建元・律令制定が示すように近畿天皇家(大和朝廷)にとってかわられた。その後、大和朝廷は、則天武后から703年「日本国」として承認され、名実ともに我が国の支配者となった。以後、「大宰府」は大和朝廷の任命した大宰帥や筑紫総領の駐在する、大和朝廷が九州を統治するための地方行政機関としてのみ存在することとなる。九州王朝(倭国)が唐に備えて営々と築いた「城塞首都太宰府」の城塞は、ついに本来の機能を発揮することなく、空しく朽ち果てることとなったのだ。そして720年の「日本書紀」の編纂にあたり、白村江以前に九州王朝が行った大土木工事や、佐賀吉野への閲兵等の事績を、あるものは斉明天皇の事績とし、またあるものは九州王朝(倭国)の史書から「九州年号を入れ替え」るという手法で繰り下げ、白村江以降の天智天皇や持統天皇の事績とした。これにより、7世紀段階での我が国の支配者は九州王朝(倭国)ではなく、近畿天皇家であったという歴史を「創作」したのだ。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P32)

※【大宰府】
※【異説】 観世音寺創建年の白鳳十年(670)の頃に、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて間違いないようです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P106)



【天武天皇】 大海人皇子は飛鳥に戻り、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇になります。反乱を起こして天皇になった天武天皇ですが、いざ天皇になってみると、それまでの有力豪族は敗れた大友皇子側についてますから一気に没落してしまって、彼に対抗できるほどの有力豪族は誰もいないわけです。これで一気に天皇の権威が上がります。それまでの大王(おおきみ)の称号をやめて、天皇の称号をもちいたのはこの頃からだといわれます。

※ 天武朝には左右大臣も、太政大臣もなかった。それを人々は天武天皇の「親政」としてうけとっているが、とんでもない。これは天皇親政の左右の腕をもぎとったものだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P79)

※ 天武朝における中央集権の「復権」は、唐側からすれば「間接統治」の強化だった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)



天武天皇が本当に天智天皇の弟だったのか疑問視する向きもあります。額田王(ぬかたのおおきみ)という万葉集の女流歌人がいますが、この人は最初、大海人皇子に嫁ぎました。しかし彼女を見た兄の天智天皇が横恋慕し、彼女を寵愛したといわれます。これが本当だとすれば、兄が弟の嫁さんを奪ったことになります。何か不自然さがつきまといます。


※ 余談ですが、天武天皇が猟をしているときに、額田王が送った歌が「万葉集」にあります。
「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」
これは通常、次のような意味だとされます。
「東の空が赤らむ紫野や標野(禁区)をあなたが行きながら、私に袖を振って名残を惜しむのを野守は見ていないでしょうか」と。
しかしこれを朝鮮語の裏読みで解釈すると、まったく違った意味になるといいます。
「あかい股が紫色のホトを行きます。標野を行くのです。野守は見ていないでしょうね。貴方が私の股をひろげるのを」
すごいですね。「袖振る」(之袖布流)が朝鮮語では「ガサボルヨ」と発音し、「あなたが私の股を広げる」という意味になるのだそうです。(本当は恐ろしい万葉集 小林恵子 祥伝社参考)

※【私見】 この額田王という女性、並の女ではないようです。たぶん神に仕える巫女か、聖なる王との聖なる性交の役割を担わされた聖女だったのではないでしょうか。聖なる女性を手に入れることは、ふつう王の証しです。
たぶんこういう女性が楼閣の3階に閉じ込められて、神がかったりすると、卑弥呼になったのでしょう。

※【私見】 正確にいうと、王朝が変わったのではなく、ここで王朝が乗っ取られたんだと思います。乗っ取った場合、先王(天智天皇)と次王(天武天皇)のあいだには血縁関係が偽装されます。



そして新しい天武天皇は、日本の歴史をつくる作業に入ります。これが「帝紀」「旧辞」といわれるものです。これが奈良時代に編纂された「古事記」「日本書紀」の元ネタになります。

このような国家による歴史の編纂には、自分を正当化するための歴史の改竄や、統治の起源を時代的にさかのぼらせて支配の正統性を高めるための変更が必ずなされます。ですからこれらの史書は真実の歴史を読むというよりも、どの部分をどういう政治的効果を狙って変更したかを考えながら読むべきです。

※【異説】 大和朝廷は九州王朝の制度を利用し、王朝交代直後の諸制度は九州王朝の影響を色濃く受けていると考えられる。たとえば、・・・・・・「日本書紀」に九州王朝史書の盗用が行われていることから、大和朝廷は九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうとしたことが判明しており、これらのことから大和朝廷は九州王朝に自らの姿を似せて体制作りを試みたと考えられるのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P49)

※【私見】 ということは、卑弥呼が九州王朝の支配者だとしたら、大和政権は『九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうと』して、伊勢神宮に卑弥呼に擬したアマテラスを創出した、と考えることもできます。こうなると卑弥呼と天皇家は血筋的にはつながってなくても、宗教的にはつながっていることになります。

※【異説】 ここでの歴史書の編纂は新羅から入ってきた王族によって進められ、そのことを隠すために、国家の起源が実際よりもずっと古いものとされたのではないかという説があります。朝鮮半島の新羅で起こったことを、日本で起こったこととする繋ぎ合わせが行われたのではないかというものです。

 どうも蘇我氏が登場してからの話は虚構が多いように感じます。大伴氏は奈良時代以降もときどき登場しますが、蘇我氏はほとんど登場しません。蘇我氏の話はどこかウソっぽいのです。崇峻天皇暗殺や、そのあとの推古女帝の話、それにからむ厩戸王(聖徳太子)の話には、どこか足が地に着かない作り話の匂いがあります。



彼が天皇になるや日本の歴史の編纂に取り組ませたことも、何か別の目的があったのではという気もします。

のちの日本書紀では天智天皇が兄で、天武天皇が弟だということになっていますが、まるで王朝が変わったかのように政治の変化が起こります。
この間、日本と唐・新羅との対立は続いているはずです。にもかかわらず、日本は663年の白村江の戦いが終わるとすぐ665年、667年、669年と2年ごとに中国に遣唐使をおくっています。しかもその遣唐使船は北路、つまり新羅の沿岸をとおるコースを取っています。
そしてケンカしていたはずの新羅とはいつの間にか国交が回復しています。
大化の改新から、天智天皇、天武天皇の時代にかけては、不思議なことだらけです。
天武天皇は天皇権威の高揚に努めますが、その時に重視したことが伊勢神宮の祭祀です。仏教ではありません。伊勢神宮が、現在のように皇室の祖先である天照大神を祭る神社として崇敬の対象とされたのが明らかなのは、この天武天皇の頃からです。伊勢神宮は20年に一度建て直されますが、その式年遷宮を決めたのも、この天武天皇です。それ以来、この儀式が1300年以上も続いていることはすごいことです。
ここでも、仏教一辺倒ではなく、神社の祭祀が機能しています。

※ 天武朝の大きな特色は、神道および仏教関係の行事が盛大なことである。白鳳元年即位後まもなく大来皇女を斎宮(いつきのみや)として、伊勢大廟の尊崇が行われたのもこの朝がはじまりだった。・・・・・・政治から分離された天武帝宗教祭祀に専念するほかに仕事がなかった。じつは政治を奪われて「祭祀的君主」にまつり上げられたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)

※ 天武帝が、いつまでもただの祭祀的君主として「黒い手」の下であまんじているはずがない。・・・・・・そんなことを『書紀』が書くはずがない。しかしいろいろの関係から、当時の「黒い手」のGHQは、孝徳天皇によって建てられた「難波宮」にあったと考えられる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P89)


※ それ(天武朝の仏教政策)は端的にいって法華経、勝鬘華経、維摩経などの六朝風の純粋な個人的修練の世界から、金光明経、仁王経など唐朝的ないしは政治的な国家統制的仏教への切り替えだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P93)




〇 この時代に薬師寺がつくられ始めました。


※ 藤原京の薬師寺は、伽藍配置の上からみて、わが国最初の唐系の官寺だったことはさきに記した。唐が「ポスト壬申」の対日政策として、天武朝以来、おおいに仏教の興隆につとめたことはいうまでもない。しかしそれと同時に難波の鴻臚館のほかに、大和におけるCIAの政治拠点として、純唐系の薬師寺が必要だったのだ。その初期の住職なども全然不明で、寺院としてよりも、むしろ政治色が強い。後に記すとおり、天平20年に異常の事態によって、突如聖武帝が退位してこの寺に幽閉されたことは、明らかにこの傾向を示している。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P110)


コメントを投稿