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新説・日本書紀⑰ 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に進軍 福永晋三

2024-08-04 05:52:39 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑰ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)9月1日 土曜日

神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に進軍

正体不明の仲哀天皇

台与と成務の2代にわたって封建制(天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織。中国周代に行われた)から
郡県制(中国の地方行政制度。春秋戦国から秦代にかけて、全国を郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任して行政を執行させた)に移行したようだと記した。
これと対応するのが「先代旧事本紀」の国造本紀の記事である。

神武から景行までは39国造であったのが、成務の時に63国造が任命され、国造が増えた。
当然、筑豊を中心とした豊国内に全ての国造が任命されたとは考えにくい。
倭国の領土が拡大したようだ。
新領地の国造に任命されたのが筑紫物部氏のようである。
物部氏の東遷を考えてよいだろう。

例えば、尾張国造は「天火明(あまのほあかり)命の13世孫の小止与(おとよ)命を国造に定められた」とある。また、珠流河(するが)(駿河)国造は「物部連の祖大新川命の子の片堅石命を国造に定められた」とある。
この両者を含めて63国造が任命された。
これらと並行して、前方後円墳が東に広がっていく。起点は、豊国ではなかろうか。

倭国拡大の最中、14代仲哀天皇が即位する。
書紀には「日本武尊の第二子」とあるから、本来は筑豊の王であろう。

※(管理人注) 346年に、百済馬韓地方を統一。356年に、新羅辰韓地方を統一します。

古事記によれば、成務が[355年]3月に没しているので、355年の即位か。
さらに、「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇(すめらみこと)(仲哀)、穴門(関門海峡周辺)の豊浦(とゆら)宮と筑紫の詞志比(かしひ)宮(香椎宮)に坐(ま)して、天の下治(し)らしめしき」とあり、近畿地方で天下を治めたとは書いていない。

ところが、書紀では「角鹿(つぬが)(敦賀市)に行幸し、笥飯(けひ)(気比)宮にあった時、熊襲が反乱し朝貢しなくなったので穴門に行幸した」とある。

つまり、豊国の仲哀と東鯷国(とうていこく)の仲哀が存在したことになる。
記紀を読み比べると、仲哀は複数の場所で死に、複数の墓に葬られている。まことに不可解な天皇だ。
また、古事記の仲哀記はその大部分が神功皇后の記事で埋められている。
仲哀は「訶志比宮で熊曽国を討とうとし、琴を弾いて神託を得ようとするが、琴の音が絶えて崩御した」とあり、以後、神功が熊襲を退治する。


神功皇后気比から穴門へ

書紀の仲哀紀に妙な逸話がある。

仲哀が父を慕い、諸国に白鳥を献上せよと命じた。
越国(福井県か)が4羽を献上しようと菟道(うじ)河(香春町金辺川)のほとりに宿った。
仲哀の異母弟蒲見別王(かまみわけのみこ)が「白鳥であっても焼いたら黒鳥になるだろう」と言い放ち、白鳥を強奪した。仲哀は憎み、軍を派遣して誅殺した。

豊国の仲哀の話とすれば、豊国に皇位継承の争いが起こったようだ。

この記事の翌年(356年)、神功皇后角鹿を発つ。


※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P80)
 『日本書紀』では神功皇后は、開化天皇の曾孫で(14代の)仲哀(天皇)の皇后、則ち当然ながらヤマトの天皇家の祖とされている。・・・・・・
『書紀』の年紀では紀元200年269年の間に、「摂政」として筑後や熊襲国ほかを平定し、さらに高句麗・百済・新羅の「三韓を征伐」し、応神(天皇)を筑紫で産み、摂政69年(269)に崩御したと記す。

※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P85)
 『書紀』神功紀のハイライトは、俗に「三韓征伐」と呼ばれる朝鮮半島遠征譚だ。しかし、「三韓(高句麗・新羅・百済)」との戦闘や交渉・交流は、両国の歴史から三世紀ではありえず、早くとも四世紀中葉の出来事なのだ。・・・・・・神功紀の半島関連記事は、次のとおり『三国史記』等との比較から、「二連(120年)繰り上げ」られていることがわかっている。
①肖古王薨去記事は『書紀』では255年とされているが、『三国史記』では375年となっている。・・・・・・
②また、貴須王薨去・枕流王即位記事も120年繰り上がっている。・・・・・・
つまり、「神功皇后紀」では「実年と合った卑弥呼・壱與記事」と、「二運(120年)繰り上げ、干支を合わせた半島記事」が混在する構成となっている。従って『書紀』で神功皇后は、実年で紀元200年ごろから389年ごろ(崩御年の269+120=389)まで執政していたことになる。

※(日本の歴史 1 神話から歴史へ 井上光貞 中公文庫 1973年 P353)
 日本書紀の編者は、その記事(百済記)を利用するときに、わざとその干支を二運、つまり120年もさかのぼらせている。・・・・・・日本書紀の編者のこのようなからくりは、記紀の紀年の問題を学問的に研究した那珂通世いらい定説となっていることである。


※(管理人注) 『日本書紀』では、神功皇后39年を魏の景初3年(239年)のこととして、『魏志倭人伝』の「倭の女王」(卑弥呼)の魏への朝貢の記事を紹介している。卑弥呼の魏への朝貢は、朝鮮半島の記事と同様、まるで外国のことを紹介しているかのようであり、自国のこととして書かれていない。

※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P88)
 (大善寺玉垂宮の)由緒書では玉垂命の没年は仁徳78年(390)とされ、『書紀』の神功(皇后)の没年389年と近似し、また、次代の応神元年(390)と一致する。・・・・・・

 また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように、玉垂命は女性で、いわば女王とされていることも神功皇后と同じなのだ。
 結局、神功(皇后)の事績とされる「三韓征伐」は、本当は三潴遷都を行った玉垂命の事績となろう。
 こうしたことから、筑後の玉垂命もまた神功(皇后)に擬せられており、「4世紀後半、高良玉垂命は、百済と盟約し新羅と激闘を繰り広げた。そして、戦禍の危険を避け博多湾岸より三潴に遷都した。百済王はこれを祝し、半島七ヶ国平定に因んだ「七支刀」を送った。『書紀』はこれを神功皇后、則ちヤマト天皇家の事績に取り込んだ」
と考えられる。そして、その玉垂命の活躍が九州北部に神功皇后伝承や信仰となって今に伝えられているのだ。


卑弥呼の時代に都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が移った地である。神功は東鯷国を発した。

※(管理人注) 『古事記』の応神天皇の「天の日矛(あめのひぼこ)」の記述に、新羅の「天の日矛」から神功皇后にいたる系譜がある。神功皇后は「天の日矛」の子孫である。

皇后は、円山川をさかのぼり、但馬国一の宮「粟鹿(あわか)神社」の所で[船越]し、加古川水系を下り、
瀬戸内海に出た。加古川河口の住吉一族を味方に引き入れた。
岡山県牛窓で「大牛に化けた新羅の沈輪(ちんりん)を、老翁と化した住吉明神が角を持って投げ飛ばした」と風土記逸文にある。「牛転(まろ)び」が転訛して「牛窓」になったそうだ。
山口県下関市の忌宮神社でも新羅の塵輪(じんりん)を退け、皇后は豊浦津(忌宮神社)に停泊し、「如意玉を得た」とある。如意玉とは、下関市長府沖の満珠島・干珠島を指し、ここを占拠したようだ。

神功皇后の征西、すなわち豊国征伐が幕を開ける。
(本文終)



大日本帝国時代の一円札に描かれた神功皇后




新説 日本書紀「第18回(1/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(テキスト⑰、仲哀天皇紀)(令和4年6月3日) 福永晋三


新説 日本書紀「第18回(2/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(仲哀紀、気比神宮、角鹿神社、常宮神社)(令和4年6月3日) 福永晋三


新説 日本書紀「第18回(3/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(紀伊國の德勒津宮、倭国と東鯷国、神功の出自)(令和4年6月3日) 福永晋三


新説 日本書紀「第18回(4/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(神功の出自、御上神社・天之御影命、質疑応答)(令和4年6月3日) 福永晋三


新説 日本書紀「第18回(5/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(御上神社、彌伽宜神社 (大森神社))(令和4年6月3日) 福永晋三


新説 日本書紀「第18回(6/6) 神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に征西」(神功は天皇、神功皇后の征西)(令和4年6月3日) 福永晋三






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