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新説・日本書紀⑱ 神功皇后② 豊浦宮で仲哀死し即位す 福永晋三

2024-08-04 05:50:49 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑱ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)9月15日 土曜日

神功皇后② 豊浦宮で仲哀死し即位す

神功穴門豊浦宮に入る

[356年]9月、神功穴門(あなと)豊浦宮に入った。
豊浦宮は下関市幡生(はたぶ)の生野神社と思われる。
祭神が仲哀・神功・応神であり、古代幡生湾が深い入江となっていて、軍港にふさわしい。神功が多くの軍船を出したとの伝承も残る。
さらに、境内に1500年前と推定される前方後円墳が残されている。

東鯷国の仲哀は、豊浦宮を出て橿日宮(かしひのみや)で「新羅を討て」との神託を得るが、これを信じないで熊襲を攻撃したため、橿日宮で没したとある。

ところが、神功紀では、軍に従った住吉三神が「我が荒魂(あらみたま)をば、穴門の山田邑(むら)に祭れ」と皇后に教えた。
そこで、穴門直(あたい)の祖(おや)践立を神主とし、祠(やしろ)を穴門の山田邑に建てたとある。現在の下関市の住吉神社とされる。
どうやら、橿日宮の記事は、実は豊浦宮の事件のようである。

9月5日、仲哀は群臣に熊襲討伐の軍議をさせる。
深夜、ある神が皇后にかかり教えた。
「熊襲が服従しないのを心配するな。津の向こうに宝の国、新羅がある。私を祭ったら、戦をしないで新羅も熊襲も自然と服従するだろう。その代わりに天皇の船と穴門直践立の献上した水田とをささげよ」と。
天皇は疑い、高い丘に登り、大海を望むが、国も見えない。神にこう言う。
「周囲を見ても海ばかりで国はない。どの神が私をあざむくのか」と。
神が答えた。
「私を信じないならお前は新羅を得られないだろう。ただし、皇后のお腹の子が得るであろう」と。

古事記には、この神との問答の後、仲哀は崩御したとある。
書紀に戻ると、皇后は天皇の喪を秘匿し、天下に知らせず、豊浦宮で殯(もがり)(仮の葬儀)し、无火殯斂をしたとある。
この殯斂地が下関市長府の忌宮神社から500㍍南の日頼寺の境内にある。
東鯷国の仲哀は、豊浦宮に崩じた。

翌10月、皇后は同所に斎宮(いわいのみや)を造らせ、自らが神主となり、群臣を従えて、先にたたった神と問答する。
神の言に従い、神を祭った。事実上の即位であろう。
中国の「宋史日本伝(東大寺の王年代紀)」には「神功天皇」と書かれている。


筑豊の県主神功に帰順

仲哀の不可解な死の後か、筑豊の県主が次々に神功天皇に帰順する。

[357年]1月、筑紫の伊覩(いつ)県主(あがたぬし)の祖五十迹手(いそとて)が、五百枝の賢木(さかき)を抜き取って船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝には八尺瓊(やさかに)を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛け、穴門の引島(彦島)に天皇を迎えて献上した。
「臣がこれらを献上する訳は、天皇に天下を平定していただきたいからです」と申し上げた。
いわば、三種の神器を神功に献上し、帰順したことになる。賢木は榊(さかき)であり、玉串奉奠(たまぐしほうてん)の起源であろう。
伊覩県は魏志倭人伝にいう「伊都(いつ)」であり、古遠賀湾沿岸の国である。筑豊の県主が早くも東鯷国の女王に帰順した。

続いて、(おか)県主(あがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)が、「周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦」に神功を迎え帰順、魚塩(御料の魚や塩をとる区域)の地を献上した。
熊鰐一族は、神代の昔から遠賀の東西(北九州市から岡垣町)の海と海岸部を領有していた一族であろう。熊鰐の御子孫が今も岡垣町にいらっしゃる。
周芳の沙麼の浦は今日まで山口県防府市佐波に当てられてきたが、北九州市八幡東区諏訪に鎮座する枝光八幡宮周辺と考えられる。神功の伝承も豊富だ。
こうして、古遠賀湾沿岸の県主らの帰順によって、神功はいよいよ熊襲征伐を始める。

(本文終)



生野神社にある古代幡生湾想像図

「宋史」の日本伝中の「神功天皇」

 



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