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新説・日本書紀⑯ 成務天皇 筑豊の大乱後、復興に務める 福永晋三

2024-08-04 05:54:26 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑯ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)8月18日 土曜日

成務天皇 筑豊の大乱後、復興に務める

記紀から消された女王

13代成務天皇は、書紀によれば、[311年]に即位したことになる。[景行]は[310年]に没したとある。
晋書によれば、台与は[266年]に13歳での即位と考えられるから、約半世紀の在位期間の記事がない。台与は享年57であったか。
景行の陵が「倭国の山辺道上陵」とあるから、これが台与の陵であろう。直方市山部の鞍手高周辺を探索中である。

台与の生前の最大の業績は、魏志倭人伝に「国中遂に定まる」とあるように、倭国大乱と卑弥呼の死後の乱と合せて120年におよぶ乱を鎮め、倭国に再び平和を取り戻したことに尽きる。


※(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P185)
 (3世紀後半のトヨの活動ののち)ヤマトの地で、天変地異が相次ぎ、疫病が蔓延し人口の半分以上が死に果てるという惨状に見舞われ、トヨの祟りにほかならない、ということになった。このことは「日本書紀」や「古事記」には、崇神天皇の時代の事件であったといい、「日本書紀」は大物主神の仕業とも、また「古事記」は、「出雲神の祟り」としている。

※(管理人注) トヨ=豊、という名前。豊国の豊であるところも気になる。
卑弥呼は「日の巫女」という一般名詞とも解せるが、トヨは固有名詞の響きがある。しかしそれは現代人の感覚であって、あるいはまたこれも豊国の「豊」という一般名詞かもしれない。豊という国の名を個人名にしたものか。とすればトヨの祟りは、豊国の祟りということにならないだろうか。



国外では、晋書の266年の倭女王の遣使以降、倭国の情報は途切れるが、韓半島の「三国史記」新羅本紀に若干の記事が残されている。

[287年]、倭人が一礼部を襲撃し、火を放って焼き、一千人を捕虜として去った。
[292年]、倭兵が沙道城を攻め落とした。
[294年]、倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。
[300年]、倭国に使者を送った。
[312年]、倭国王が使者を遣わし、皇子のために婚姻の要請をした。

台与の在位中は、倭兵が新羅を攻撃ばかりしている。
300年に新羅から使者が来た後、和平の方針に転じたようだ。
312年の倭国王がおそらく成務天皇であろう。

では、台与は邪馬台国内ではどのような治世を行ったのであろうか。景行・成務の治世から推測する。


封建制から郡県制に移行

景行の子が80人もいた。
国乳別皇子は水沼(みぬま)別(旧三潴郡)の始祖、
豊戸別皇子は火国(ひのくに)別(佐賀県か)の始祖となった。
日本武尊と稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務)と五百城入彦(いほきいりひこ)皇子以外の70余の子は、「皆国郡に封じて、各々その国に行かせた」とあり、
漢書の百余国、後漢書・魏志倭人伝の三十国と、倭国(邪馬台国)は長らく「封建制」の国家組織であったことが分かる。通説の「邪馬台国連合」などはなかったのである。
しかも、「今、諸国の(わけ)と言っているのは、別王(わけのみこ)の子孫である」との説明がある。
景行の和名も大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)天皇であり、決して本家とか嫡流の大王ではない。

台与の後に即位したと思われる成務天皇は、倭国の長年の封建制を廃したようだ。
書紀によれば、次のように記してある。
「人民は、うごめく虫のように粗野な心を改めない。国や郡に長官が無く、県や邑に官吏がいないからだ」と言い、
「国や郡に造長を立て、県や邑に稲置を置いた。盾や矛を下賜して身分の表徴とした。山や川を境とし国や県を分けた。東西南北の道に沿って、邑や里を定めた」とある。
郡県制」の始まりである。倭国は中央集権の体制に切り替えたようだ。

「鞍手郡誌」には書紀にない、驚嘆すべき具体例が書かれている。
筑紫国造に田道(たみち)命が封ぜられ、鞍手地方に物部印岐美(いきみ)ノ連が「稲置」に封ぜられた。宮若市宮田生見の地である。「和名抄」に伊無美(いなみ)とあり、古い地名だが、生見はイキミとも読める。
また、福智山山頂に「国割石」が残り、犬鳴山は「稲置山」が転訛したものと記している。

「成務は、古事記によれば、近淡海(ちかつおうみ)(古遠賀湾)の志賀の高穴穂(たかあなほ)宮(直方市頓野の近津神社)で天下を治めたとある。筑豊の大乱後の復興に務めた天皇であろう。
(本文終)


直方市頓野の近津神社。拝殿の手前左の石碑に成務天皇の名前がある





新説 日本書紀「第17回(1/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(「村名小字名調書」)(令和4年5月20日) 福永晋三


新説 日本書紀「第17回(2/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(「伊都」→「一」に置き換えられている)(令和4年5月20日) 福永晋三


新説 日本書紀「第17回(3/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(「伊都」→「一」に置き換えられている②)(令和4年5月20日) 福永晋三


新説 日本書紀「第17回(4/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(テキスト⑯ 成務天皇、『鞍手郡誌』)(令和4年5月20日) 福永晋三


新説 日本書紀「第17回(5/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(『鞍手郡誌』、『成務天皇記』)(令和4年5月20日) 福永晋三


新説 日本書紀「第17回(6/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(、『成務天皇記』、『成務天皇紀』)(令和4年5月20日) 福永晋三













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