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新説・日本書紀㉙ 飛鳥時代③ 白村江戦前後の倭国両朝 福永晋三

2024-08-04 05:25:54 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀㉙ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2019年(平成31年)3月16日 土曜日

飛鳥時代③ 白村江戦前後の倭国両朝


7世紀中ごろの倭国本朝

日出処天子の薨去後、筑紫君薩夜麻(薩野馬)が跡を継いだようだ。
父に倣って隋・唐とは国交断絶のままであった。

[643年]、前年に即位した百済の義慈王が新羅に大打撃を与えた。
翌年、仇敵の高句麗と和睦し、協同して新羅を侵攻し続けた。新羅王は唐への援軍要請を続け、
唐は[645]年ごろ、高句麗に対し積極策に転じた。
同年、倭国東朝の蘇我氏が滅びると、倭国本朝が百済を支援したようだ。


※(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P66)
 「大化」は九州年号では695年が元年であるところ、「書紀」では645年で「50年のずれ」が見られます。
「書紀」大化の時代は、九州年号では主に「常色」(647~651)期にあたり、九州王朝では、新羅や蝦夷との抗争に備え、全国に「評制」を施行(649年ごろ)し、「七色十三階の冠(647年)」「八省・百官設置(649年)」等の官僚制整備をおこない、「九州王朝を中心とした集権体制」を強化・確立していきました。

 一方、九州年号の大化期(695~700)は九州王朝の末期で、近畿天皇家では、持統・文武が「近畿天皇家を中心とした集権体制」を作るため、「評制から郡制への移行」や「律令制定(大宝律令)」「大宝建元」(いずれも701年)を始めとする「政権移行」に向けた準備・改革を進めている時期でした。
 「書紀」編者は、この(近畿)天皇家の改革記事を、「大化」年号ごと、九州王朝の改革期と重なる孝徳期645~649)の5年間に移しました。そして、九州王朝の制度の「」を、近畿天皇家の制度の「」と書き換えるなどの手法で、「主体(九州王朝と近畿天皇家)」と、「時代」を異にする、「集権体制確立に向けての二つの改革」を「混合・融合」させました。

※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P187)
 都城造営の次の段階は、予定地の地形調査で、「書紀」天武11(682)年にその記事がある。34年前は孝徳大化4(648)年・九州年号「常色」2年だ。・・・
「(伊予三嶋)縁起」は、天武11(682)年の34年前、常色2(648)年に九州王朝の天子が、「新城」則ち難波宮予定地調査のため工匠を派遣し、自らも予定地視察のため、筑紫から瀬戸内を経由し難波に行幸した。その途上伊予に立ち寄ったことを示すものとなろう。

※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P191)
 (難波宮への)移転は、孝徳白雉2(651)年に行われたことが、天武14(685)年記事からわかる。34年前は孝徳白雉2(651年)年・九州年号「常色」5年で、先発隊を9月に派遣し、現地で万全の備えが行われたと考えられる。・・・
(天武14(685)年の)この記事こそ、「書紀」で「伊勢王」とされる「九州王朝の天子」らが筑紫から難波宮にに遷居した記事だと考えられる。・・・・・・ちなみに、新羅は百済との争いで劣勢となり、王子金春秋(武烈王)は、高句麗や倭国に支援を求めたが拒否され、648年に唐に入朝し臣従した。つまり、「唐・新羅の連合が強固になった」わけで、百済と関係の深い九州王朝にとって、唐・新羅の脅威が高まったことを意味する。まさにこの時期に「副都詔」が出され、難波都城造営が実行に移されたことになる。(管理人注 685年の34年前は651年

※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P194)
 「持統の初の吉野行幸(689年)」の34年前、斉明元(655)年には、九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸が始まり、翌斉明2(656)年には吉野宮が造られ、大野城基肄城の築造、羅城の構築が始まる。ここでは九州王朝の天子は「斉明」になぞられており、「倭京」とは飛鳥の諸宮ではなく「筑紫大宰府」で、「斉明」が居した「飛鳥河辺行宮・倭河辺行宮」も、太宰府周辺の大工事中に九州王朝の天子が居した小郡宮だったことになろう。・・・・・・
その後「倭京」たる筑紫大宰府に復帰し、一大防衛施設造営に取り組み「城塞首都大宰府」を構築していった。



唐は高句麗への遠征を繰り返した。
[657年]、朝鮮半島の情勢を察知した薩夜麻は、父の築いた「寧楽京(大宰府)」を唐・新羅から防御するため、南北の水城を含め全長51㌔に及ぶ「羅城」を築いた。


※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P19)
 大宰府の防衛施設と考えられる「大水城」は白村江敗戦の翌年、 天智3年(664)に、「大野城基肄城」は天智4年(665)に、それぞれ築造されたと「日本書紀」に記されている。・・・・・・こうした「大宰府の防衛施設群」が、白村江直後の1~2年間でできたのではないことは考古学が証明している。まず、大野城城門の木柱の伐採年代は、年輪年代法で648年とされ(九州国立博物館が年輪年代法で648年と発表。西日本新聞2012年11月23日)、水城敷粗朶(しきそだ)(築堤の際に小さい枝葉を敷き込んだもの)は、九州歴史資料館による炭素同位体年代測定法で240年660年頃という結果が報告されており、これらの施設は白村江「敗戦後」ではなく、「戦前」に大宰府を防衛するために築造されたものと考えられよう。そもそも、天智3年には郭務悰等が、4年には唐より朝散大夫沂洲司馬上柱国劉徳高等254人の使節が筑紫に到着している。戦勝国唐の使節の「眼前」で、戦争準備であることが明白な「巨大工事」を行うことが可能だったとは到底思えない。


※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P24)
 「書紀」編者は、実際は斉明2年(656年)の九州王朝(倭国)による大野城・基肄城築城記事を、天智4年(665年)に「9年繰り下げ」、近畿天皇家の天智の事績としたことになる。


[660年]、ついに唐・新羅連合軍は百済に侵攻し、百済の義慈王は降展、百済が滅亡した。
この時に薩夜麻も唐の捕虜となったようだ。
倭国本朝の天皇は百済復興を画し、百済の王子[扶余豊章]を帰国させ、救援軍を派遣した。
[663年]の白村江(白馬江)の戦いに400艘の「御笠軍団」(太宰府市から銅印が出土)を派兵するが、焼かれて全滅した。



7世紀中ごろの倭国東朝

乙巳の変後、6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子に皇位を譲る。
7月に即位した孝徳天皇は大化元(645)年と改元し、翌2年正月に「改新之詔」を発布した。
いわゆる「大化の改新」だ。
この詔は、公地公民制や班田収授の法を基軸としたものだが、当時の行政区画の「評」でなく、書紀に「郡」と記されているため、改新之詔全体が後世の偽作と疑われている。

が、中大兄は大化の改新に協力しながらも、諸豪族の恨みが増すと、それを孝徳天皇に転嫁し、
自らは白雉4(653)年に、臣下の大半を引き連れて倭飛鳥河辺行宮(香春町阿曽隈社か)に遷った。
孝徳天皇は気を落とし、翌年、病気になって崩御した。

[655年]、中大兄が即位、天智天皇である。
天智は百済との国交を絶ち、すでに白雉4、5年に遣唐使を派遣、唐・新羅と密約を交わしていた。
斉明・天智紀にいう「二元外交(唐・新羅と百済・高句麗との外交)」はなかったと考えられる。

[656年]、後飛鳥岡本宮(赤村光明八幡神社)に遷る。
香春町の宮原盆地に石造りの地下水路を造った。
斉明紀に「狂心の渠」とそしられた土木工事の跡であり、今も現役だ。
天智は吉野宮(中津市山国町吉野の若八幡社)も造営した。
山国川の岸から本殿に直接上がる、相当長い石段が今もある。

[661年]、新羅の僧[道行]が[草薙の剣]を奪い、雨風に遭って、鞍手町中山の八剱神社の地に剣を放って帰ったとの伝承が書紀と八剱神社とに共通する。
書紀は、同年正月に天智天皇が即位したとする。
前年、筑紫君薩夜麻が唐の捕虜となった。


※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P32)
 『旧唐書』『冊府元亀』には、白村江戦で「倭国酋長」が捕囚となり、高宗に謁見、封禅の儀(天下を平定した感謝を天に捧げる儀式)に参加し、唐の臣下となったと書かれています。・・・・・・『旧唐書』の「倭」とは倭国(九州王朝)を言いますから、その「酋長」が囚われていたことになります。そして、『書紀』では「筑紫君薩夜麻」が唐に抑留されていたと書かれているのです。また、捕囚となった敗戦国の東夷の王(酋長)たちは、皆唐に臣従し、「羈縻(きび)政策」により唐の任命した「都督」として「都督府」に送り帰されています



661年3月、都を近江大津宮(糸田町大宮神社)に遷す。
『海東諸国紀』(李氏朝鮮の史書)によれば、「斉明七年辛西、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」とある。

同年、糸田町の金村権現に残された台板(12世紀)の拓本に「天智天皇7年秋8月、右大臣金連公によって(同町泌泉が)造営された」とあり、書紀にいう「須弥山と漏刻(水時計)」が造営されたようだ。

[663年]、白村江の戦いに600艘の「遠賀軍団」を派兵するが、唐・新羅と密約を結んでいた天智の軍団は、傍観を決め込み、無傷で[遠賀]に戻った。

※(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P226)
 その時(白村江の戦い)には、九州王朝と、いわいる近畿天皇家側、近畿分王朝と言ってもいいのですが、これは必ずしも、正面きった対立関係ではなかったようです。その証拠には、今ご指摘になったような朝倉宮に斉明天皇が入ったということを見ましても、当然、朝倉宮は九州王朝の磐井の本拠、筑紫野君らの本拠ですから。そこに入ったのですから、両者は協力して、唐・新羅の連合軍にあたるという、少なくとも建前はそういう体制であったようです。
 ところが、これも結論から申しますが、どうも近畿天皇家側は、斉明・天智側は本気で戦う気持ちは無かったようです。と言いますのは、それを示します文献上の証拠は、「風土記」にございます。・・・・・・今の岡山県ですが、そこに邇磨(にま)の郷という箇所、そこだけが残っています。それは、斉明天皇の時、白村江の戦いがあるというので、軍勢が集められた。二万人が集まった。ところが、少し待っておれというので待たされていた。そのうちに朝倉宮で斉明天皇が亡くなられた。そこで、その後、中大兄皇子が、もう軍勢を解散していいと、こういうことで、結局解散してしまったので、白村江には行かなかったと。・・・・・・要するに、白村江の時には、近畿天皇家側は戦う意志を持っていないわけです。

※(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P229)
 九州王朝は、「天子対天子」の立場ですから、ついに白村江の戦いに突入したわけです。ところが、・・・・・・分家でありますから、近畿天皇家側は、いわば「応援」という形をとったのです。しかし、先ほどの備中の「風土記」が示しますように、また近畿天皇家の誰も主だった者が死んでいない事実が、何よりも雄弁に語りますように、実質上は「降りて」いたのです。だから、倭国側の大敗戦、「筑紫君」が捕虜になると、これは、ある意味では、近畿側にとってはチャンス到来といいますか、予想どおりの展開が出てきたわけです。


[670年]、『三国史記』新羅本紀に「倭国、更めて日本と号す」とあり、『旧唐書』に、「日本はもと小国、倭国を併せたり」とある。

(本文終)



新羅慶州の瞻星台(須弥山説有り)と糸田町の泌泉を合成したコラージュ(筆者と大北卓二氏による共同作成)。隣の四角の池が漏刻跡と考えられる

[上宮聖徳皇]または法王大王(日出処天子)は、法興6(596)年に「伊予の新北津(鞍手町)の石湯(宮若市千石キャンプ場にあった温泉)」に高麗の僧慧慈らとともに湯浴みに来たと「風土記逸文」にある。
この石湯は天武13(685)年10月14日の白鳳地震(南海トラフ大地震)により「伊予の温泉、埋もれて出でず」となる。決して、通説に云う道後温泉ではない。



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