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新説・日本書紀㉚ 飛鳥時代④ 日本国初の大乱 壬申の乱 福永晋三

2024-08-04 05:20:26 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀㉚ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2019年(平成31年)3月30日 土曜日

飛鳥時代④ 日本国初の大乱


天智天皇の中央集権政治

斉明天皇が筑紫君薩夜麻の母であり、皇極天皇が豊君天智天皇の母であることが分かってきた。また、斉明元~7年天智元~7年は実は同年代であり、斉明・天智紀に7年のずれがある重出記事の多い原因でもある。したがって、皇極と斉明は女帝ではあるが、全くの別人となる。

天智の大化改新以来の中央集権化が進み、倭国東朝は勢力を拡大し、外交面では唐・新羅と結び、[663年]8月の白村江戦後に名実ともに倭国の絶対君主となった。

[664年]、「海外国記」によれば、国号を[日本]と改め、「襲国偽僭考」によれば、「中元」と改元した。田川郡に中元寺川が流れている。

同年3月に、唐王朝は、大使の郭務悰や百済佐平禰軍(さへいねぐん)、また捕虜の筑紫君薩野馬ら総勢2千人47隻の船に乗せて大宰府に派遣した。
大使らは大宰府に筑紫都督府を置いた。唐朝の羈縻(きび)政策(異民族内部の行政組織をそのままにして異民族を統御する政策)の一環だ。


※(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P98)
 「書紀」では薩夜麻の帰還は天智10年(671)11月とされている。・・・・・・本来境部連石積の帰還と同じ天智6年(667)だった薩夜麻の帰還も、天智10年(671)に4年間繰り下げられた可能性がある。
※ 倭王薩夜麻も「都督」として送り返された可能性が高い。現に「筑紫都督」の名称が、白村江後の天智6年(667)、「書紀」に初めて現れる。・・・・・・670年頃に造られた大宰府政庁Ⅱ期とは、唐の都督となった倭王の居する、文字通りの「都督の府都府楼」だった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P32)


※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P184)
 「倭国(九州王朝)の天子」薩夜麻667年末に帰国するまで政務を執ることができない状況にあった。そこで、「近江宮」でヤマトの天皇家の天智が、薩夜麻の「代理」として政務を掌った。これは、天皇家一族は白村江に出兵せず、従って損害が少なく、また近江は継体(天皇)の生誕の地(『書紀』に「近江国高嶋郡三尾」とある)とされるように、ヤマトの天皇家の勢力範囲にあったから、自然の成り行きともいえよう。つまり、「天智称制」という形式は、天皇の不在ではなく「倭国(九州王朝)の天子薩夜麻」の不在によるものだった。

 しかし、薩夜麻は「唐の官僚たる都督」として帰国した。唐側から見れば、羈縻政策上「都督」は「倭国王」として統治する地位となるが、倭国側から見ればあくまで「唐の官僚」いわば「代官」だ。これは、倭国内の諸国・諸豪族、重臣らが盟主として推戴してきた「倭国王」とは異質な存在となる。そこで、都督薩夜麻の帰国直後の天智7年(668)正月、「九州王朝の薩夜麻」に代わって、「ヤマトの天皇家の天智」が諸豪族や重臣らによって「倭国の盟主・代表者」に推戴され、「大津近江宮」で即位したのだ。つまり、この時点で「唐の都督たる九州王朝の薩夜麻」と「倭国王たる天皇家の天智(近江朝廷)」という二重権力状態が生じたことになる。


続いて、書紀の10月記事に、「大きに菟道(香春阿曽隈社)に閲す」とあり、天智は唐軍を閲兵している。天智は決して敗戦国の王ではない。

赤村の[琴弾瀧]の伝承に、「天智天皇の一行が訪れて、命婦石川色子(日本)と季氏(唐)が滝の岩上で別れの秘曲を奏でた」とある。おそらく唐の将兵らを日本(豊国)の景勝地でもてなしたのであろう。

[665年]2月、「天智天皇は大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換えた」とある。倭国本朝併合に伴う人事刷新であろう。大皇弟とは大海人皇子(後の天武天皇)を指すが、どうやら筑紫君薩野馬のようである。

「日本はもと小国だったが、倭国を併合したのである。その結果、公地公民制・班田収授の法が筑紫・火国にまで及んだ。

[670年]、[庚午年籍]が作られた。日本はついに唐の属国と化す。



大海人皇子独立を志す

[671年]9月、天智は病床に伏す。10月19日、大海人は仏道修行に入りたいと願い、20日に吉野宮(中津市山国町)に、入った。ある人は「虎に翼を着けて放てり」といった。この時にすでに謀反を計画していたようだ。

12月3日に、天智は近江宮(糸田町大宮神社)に崩御し、[大友皇子]が皇位を継いだと書紀は記す。


※(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P100) 天智即位については近江朝内部は勿論、近畿天皇家内部においても、支持するか否か大いに意見が分かれたことだろう。ここで注目されるのは、天智は称制即位の前に多数の嬪を娶っていた。特に遠智娘(をちのいらつめ)は後に天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女(うののひめみこ)を産んでおり、姪娘(めひのいらつめ)は後に元明天皇となる阿倍皇女を産んでいる。それにもかかわらず、(天智)7年1月の即位翌月に「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」を正式に「皇后」としていることだ。
 そして天武は天智没後「倭姫王」に即位を勧めている。つまり天智即位と倭姫王を娶るのは「一体」の行為であり、かつ倭姫王は皇位を継承する十分な資格を有することになろう。古田(武彦)氏は「倭」は筑紫を意味するとされ、これを受け西村秀己氏は、「倭姫王」は古人大兄の娘とされるが、本来は九州王朝の血族(皇女=倭姫)ではないかとする。そうであれば彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより天智の皇位継承上の「障害」である「血統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれるのだ。
 ちなみにこれほどの地位にありながら、その後の「倭姫王」の消息は記されず、生没年も不詳とされる。その一方、九州の伝承では『開聞古事縁起』等で「大宮姫」という人物が665年に天智の妃となり、その後都(近江)を追われ天武天皇壬申年(672薩摩開聞岳に帰ったとされる。(650年生まれで708年に59歳で没)。『書紀』の「倭姫王」が「大宮姫」なら、夫天智の没後、壬申の乱時には「実家」たる九州王朝の薩夜麻の下に帰国した、あるいは「救出された」ことになろう。
 「倭姫王」が天智の妃である内は、薩夜麻側はあえて近江朝に手出しをしなかったが、「倭姫王」とは別腹(母は伊賀采女宅子娘)の大友が即位したことをうけ、近畿天皇家内部の権力闘争も利用して天武を支援し、遠慮なく近江朝を滅ぼしたのだ。

※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)
 『書紀』には672年5月に唐の郭務悰らが甲冑・弓矢の提供を受けたとあり、「壬申の乱」はその翌月(6月)に起きています。ここから壬申の乱当時、筑紫には唐の軍が駐留していたことがわかかるのです。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P19)
 郭務悰二千人の部隊は謀略的性格をもった「政治工作隊」である。「壬申の乱」はまさに彼らの謀略によるものだった。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P63)
 郭務悰は唐人韓人計二千人政治工作隊をひきいて、(671年)12月3日天智天皇崩御の直前筑紫に乗り込んできたのである。だが、彼らは7月に日本から帰った李守真から天皇不予の報を得て、万一を見こんでやってきたに違いない。あるいはこの連中が前記『扶桑略記』のしるすように、大津に近い長良の山中に天皇を狩猟に誘って弑殺した可能性もある。


※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P185)
 天智の死後、大友皇子と皇位を争った大海人皇子が支援を求めてきた。・・・・・・そして、壬申の乱直前の672年5月記事から、郭務悰は九州にいたことがわかるから、天武は九州に行ったことになる。・・・・・・『書紀』で天武が近江から逃れたのは奈良吉野のように書かれているが、九州佐賀には吉野ヶ里に代表される「吉野」があった。実際に天武が行ったのは佐賀吉野であり、その目的は「」と「都督薩夜麻」の支援を得るためだったと考えられる。この支援を背景に諸豪族を糾合した天武は、近江朝を倒し、「ヤマトの天皇家(『旧唐書』にいう「日本国」)の天皇」に即位し、一方の九州王朝の薩夜麻は、都督であるとともに羈縻政策にもとづく「倭国王」に復位した。これで白村江の敗戦で一時断絶しかかった九州王朝は、継続したことになる。



壬申(672)年6月24日、大海人は東国(平尾台周辺)に向けて徒歩で吉野宮を出た。壬申の乱の始まりである。

近江朝は大海人の東国入りに驚き、大海人に味方し反乱に加わる恐れのある者に使いを出し、近江朝につかない場合は殺せと命じた。筑紫大宰の栗隈王は「大宰府は対外防御の城だ。内乱に兵は動かせぬ」と強く拒否した。この栗隈王はあるいは大海人の実の弟かも知れない。

近江軍と大海人軍は一進一退の攻防を繰り返したが、7月4日、大海人軍は「上道(みやこ町[犀川][大坂]から赤村小柳への道)に当たって、箸陵(赤村内田の前方後円墳)の下で戦い、近江軍に大勝」した。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P65)
 (672年)5月20日に至って近江朝廷から郭務悰に・・・・・・莫大な賜物があって、彼は5月30日に筑紫を出発、帰国の途についたと(日本書紀の)「壬申紀」はいう。その後わずか3週間を経た6月24日に大海人皇子は吉野を進発して美濃に向い、ここに壬申の大乱は切って落とされた。しかし郭務悰ははたして5月30日に日本を去っていたであろうか?

 『扶桑略記』によると大唐大使郭務悰はその翌年673年)に朝廷から・・・・・・『書紀』記載と同じ大量の賜物を賜った。そして2月27日天武天皇の即位が行われた。郭務悰はどうやら弘文元年(672年)5月30日には出発せず、その翌年天武即位を見とどけてから帰国した可能性が大きい。・・・・・・
 それ(日本書紀の壬申紀)は天武天皇の即位を正当化するためのものだった。しかし、それはたんに天武天皇の「正閏」問題だけでなく、さらに大きな任務として、この内乱に唐が一枚かんでいることを飽くまで隠蔽する必要があった。

※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P68)
 唐側は重ねて懲庸を加え、あわせて日本が二度と再び半島に進出するようなことがないよう日本にたいして徹底的な打撃を加えておくために、唐と新羅は力を合わせて、かねて噂されていた天智・天武の不和につけこんで、天智朝を倒し、傀儡王朝を立てて、その国政を支配せんとしたのだった。唐羅連合体の中心人物たる郭務悰はかねてその機をうかがっていたが、天智健在の間はついに歯が立たず、天皇崩御に及んで、筑紫にいた彼は筑紫大宰栗隈王と連絡をとりつつリモート・コントロールを行い、やがて機いたれりとして、その子美濃王を遣して吉野と通諜し、6月24日の吉野進発となったのである。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P78)
 このようにして唐羅連合はついに計画通りにカイライ政権天武朝の樹立に成功した。



7月23日、「大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(小竹町山崎)に隠れて、自ら縊れぬ」。

9月15日、[岡本宮]に遷り、その冬に飛鳥浄御原宮(赤村大原)に遷った。

[673年]2月に即位。天武天皇である。唐からの独立を得た天武も、

※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P79)
 天武朝には左右大臣も、太政大臣もなかった。それを人々は天武天皇の「親政」としてうけとっているが、とんでもない。これは天皇親政の左右の腕をもぎとったものだった。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)
 天武朝における中央集権の「復権」は、唐側からすれば「間接統治」の強化だった。


※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)
 天武朝の大きな特色は、神道および仏教関係の行事が盛大なことである。白鳳元年即位後まもなく大来皇女を斎宮(いつきのみや)として、伊勢大廟の尊崇が行われたのもこの朝がはじまりだった。・・・・・・政治から分離された天武帝宗教祭祀に専念するほかに仕事がなかった。じつは政治を奪われて「祭祀的君主」にまつり上げられたのだった。

※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P89)
 天武帝が、いつまでもただの祭祀的君主として「黒い手」の下であまんじているはずがない。・・・・・・そんなことを『書紀』が書くはずがない。しかしいろいろの関係から、当時の「黒い手」のGHQは、孝徳天皇によって建てられた「難波宮」にあったと考えられる。

※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P93)
 それ(天武朝の仏教政策)は端的にいって法華経、勝鬘華経、維摩経などの六朝風の純粋な個人的修練の世界から、金光明経、仁王経など唐朝的ないしは政治的な国家統制的仏教への切り替えだった。

※(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P110)
 藤原京の薬師寺は、伽藍配置の上からみて、わが国最初の唐系の官寺だったことはさきに記した。唐が「ポスト壬申」の対日政策として、天武朝以来、おおいに仏教の興隆につとめたことはいうまでもない。しかしそれと同時に難波の鴻臚館のほかに、大和におけるCIAの政治拠点として、純唐系の薬師寺が必要だったのだ。その初期の住職なども全然不明で、寺院としてよりも、むしろ政治色が強い。後に記すとおり、天平20年に異常の事態によって、突如聖武帝が退位してこの寺に幽閉されたことは、明らかにこの傾向を示している。


[686年]6月、「草薙劒に祟られ、病床につき」、病が癒えず、9月9日に崩御した。


※(最初の神アメノミナカヌシ 戸矢学 河出書房新社 2023.8月 P96)
 天武が「皇位の簒奪者」であるという主張の中で、本書のテーマに関わっているものに関しては反論しておかなければならない。草薙剣が天武に祟った、という「日本書紀」の記録によって、三種の神器のことが「祟った」のだから、天武天皇は正当な皇位継承者ではないという意味であるとするのが、これまでの多くの論の主旨である。しかし、この論理は明らかに自己矛盾を来たしている。

まず第一に、「日本書紀」は天武天皇の勅命によって編纂されたもので、天武政権の正当化が最大の目的の一つであるはずだからである。他のすべての天皇は一巻、もしくはそれ以下の分量でしかないのに、ひとり天武天皇のみは二巻を費やしてその偉業を詳細に伝えている。その最後のくだりに記されている「祟り」のエピソードが、それまでの記述を根底から覆すような意味のものであるはずがないではないか。これは逆に「正当」であることの「駄目押し」でなければならない。つまりこの記事が示唆することは、この時の剣は天皇に祟るものである、したがってこの剣を依り代とする神は天皇家に祟りなす神である、ということを主張しているという意味になるだろう。
第二に、三種の神器を制定したのは天武天皇自身である。しかも、践祚大嘗祭を制定したのも天武帝である。したがって、天武天皇自身が、宝剣の意義を誰よりも熟知していたはずである。
この二つの理由だけでも、宝剣の祟りには別の意味があったことは容易に推測できる。もしも宝剣の祟りが天武帝の正当性を糺すものであるならば、「日本書紀」に記されるはずもない。この事実は、巷の邪推を覆すもので、むしろ逆であることを示唆している。つまり、天武帝の血統の正当なるがゆえに、それに祟る宝剣の正体を示唆しているだろう宝剣は天皇家に祟りなす怨念の依り代である。「日本書紀」にはそう記されているのだ。


※(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P25)
 古田武彦氏は『壬申大乱』で、「書紀」に記す持統天皇の持統3年(689)から11年(697)にかけての、のべ31回の吉野行幸は、斉明元年(655)から天智2年(663)までの、九州王朝(倭国)の天子による佐賀なる軍事基地・吉野への閲兵・行幸記事が「34年繰り下げ」られたものだとされている。



2019年5月1日、「剣(草薙剣)璽等承継の儀」が執り行われる。
=おわり





百済佐平禰軍(678年没)の墓誌銘。「日本」とある

大原の雪景色。
吾が里に 大雪ふれり 大原の 古りにし里に ふらまくは後(万葉集103天武天皇)

織幡神社境内にある武内宿祢(天智)の沓塚

完:新説・日本書紀 福永晋三と往く




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