木曜 祝日
月曜 10時~4時(昼休み1時間) 5時間労働
火曜 10時~4時(昼休み1時間) 5時間労働
水曜 休日
木曜 10時~4時(昼休み1時間) 5時間労働
金曜 10時~4時(昼休み1時間) 5時間労働
土曜 休日
日曜 休日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
計 20時間
『富の分配』さえ成功すれば、将来の労働時間はこうなる。
物は余っている。
効率化は進んでいる。
事務はパソコンがしてくれる。
単純作業と肉体労働はロボットがしてくれる。
接客さえロボットにより効率化される。
高い知識は要求されるが、労働時間は短縮される。
しかし自由競争社会では、企業間の競争が起こり、労働時間の短縮は起こらない。
そして勝ち残った企業は、ますます低賃金で長時間労働を強いる。
そうならないために政治があるのだが、今の政府はそれでよしとしている。
このままでは『富の分配』に失敗する。
それこそが政治の役割なのに。
木曜 祝日
競争がないと高い水準が保てない、というのは本当だが、
相撲の序の口から始まって、幕内にまでいける力士はほんの一握りである。
郷土出身力士の一人は今場所休場していて、もう後がない。
横綱の強さを保つためには競争が必要だが、
では横綱になれなかった力士はその後どうするのか。
競争社会は、常に強い者を選びそれによってその業界の強さのレベルを維持するが、
多くの力士は横綱になれず、また幕内にも入れず、人知れず業界を去って行く運命にある。
私が言いたいのは、
競争は必要だし、それが社会の高い水準を維持するのに役立っているが、
競争には必ず敗者が存在し、その戦いに敗れた後も生きていかねばならない、ということである。
そして競争で頂点に立つものは一人であり、圧倒的多数は敗者の側にまわるということである。
そのバランスをどう取るか、が政治の役割であり、
その判断を誤った政治は、必ず社会を維持することに失敗する。
そして多くの人を不幸に陥れる。
日本の近代化は、他のアジア諸国に比べると大成功の部類に入る。
特に戦後の高度成長は特大の成功事例である。
しかしそんな大成功がいつまでも続くはずがない。
高度経済成長の延長線上に日本の未来を築くことには無理があるのではないか。
しかし子供の頃に高度経済成長を経験した政治家の中には、この成長がいつまでも続くと思っている人がいる。
確かに社会には競争が必要だが、競争だけに集中していてそれで社会が保てたのは、日本全体が勝ち組に乗っかっていたからであり、社会全体が貧困から脱して人並みの豊かさを手に入れる過程にあったからである。
しかしこれからは競争の中で全員が勝ち組に残ることが無不可能な時代になっていく。
競争のルールの中ではそれは当たり前のことである。
競争とはもともとそういうことだ。
社会を高い水準を維持するために競争が必要だとしても、
これからは競争の中で多くの敗者を生んでいく。
そのことは競争社会の当然の姿である。
日本の高度経済成長のようには行かない。
逆に戦前の日本のような貧しい社会とは違い、十分に豊かになった現在の日本社会の中で、かつてのような高度成長を求めることは、経済の健全性の点である種の危険性をはらんでいる。
食べ物に飢えることもなく、住む家に困ることもなく、着る物がないわけでもない。
家には車があり、電話があり、スマートフォンまであって、遠くに離れた誰とでも気軽に連絡を取ることができる。
新幹線が走り、飛行機が飛び、東京でも大阪でも札幌でもどこにでも一日で行ける。
風呂は蛇口をひねればお湯が出て10分もしないうちに入ることができ、トイレに行けばお尻まで洗ってくれる。乾かしてさえくれる。
腹が減れば自転車でコンビニまで行けばそこでチンしてくれて、温かいご飯が食べられる。
これ以上何が必要だというのだろうか。
うちはそうではないという人がいるかもしれないが、
たとえ自分のお尻を自分で拭く生活をしていたとしても、それでいったい何の不都合があるのだろうか。それで十分ではないか。
お風呂に水を張って、その後ガスを点火しても30分もすればお風呂は沸いている。それで何の不都合があるのか。
昔のように、くみ取り式の便所から汚物を汲み取り、それを畑に蒔いて肥やしにすることもなく、
川から水を汲み、それをお風呂に入れて、その後薪をくべてお風呂を沸かすわけではない。
腰を痛めながら川から水を汲む必要もなく、薪を割る必要もない。
何の不満があるのか。
十分ではないか。
それとも日本人は、一千坪の豪邸に住み、召使いを抱えながら生活しなければ気が済まないのだろうか。
今の社会的課題は社会の最高水準を高めることにあるのではなく、
競争社会の持つ必然性、つまり戦いに敗れた多くの敗者の生活をどう社会的に維持していくか、
そのことが最重要課題になっている。
それはつまり『富の分配』の問題である。
木曜
豊かな社会が貧しくなるときは、豊かな者がまず富を手放すまいと必死になる。
自分の富を絶対に守ろうとする。
その結果、社会が貧しくなるとき、貧しいものから貧しくなる。
富んだところから貧しいところに富が移転されればいいが、そうはならずに、少ない富のとこからますます富が少なくなる。
こうやって貧困が拡大する。まず底辺層から。
企業幹部の給料が上がっていく中で、平社員の給料が下げられる。
平社員の給料が下げられる中で、企業利益が最大になる。
正規雇用が減らされる中で、非正規雇用が増大し、貧困層が拡大する。
逆進性を持つ消費税がますます上げられ、総体として、豊かな者の税負担は軽くなり、貧しい者の税負担が重くなる。
逆に所得税の累進課税率は縮小される。
それと同時に過去最高益を出している企業からの法人税は引き下げられる。
国家はお金がないというが、お金持ちや企業からは税金を取ろうとはしない。
それでいて国家はお金がないという理由で年金支給を減らす。
このように社会が貧困化していくときは、貧困層がますます貧困化していく。
富裕層はその痛みを分け合わない。富裕層は以前と変わらぬ豊かな生活を維持する。
そればかりが、巨大な利益を上げ肥え太った大企業が、今度は逆に巨額の負債を抱えた場合、政府がその損失を補填することにより、その大企業は潰れることがない。
つまり企業の負債を我々国民が肩代わりすることになる。
こうやって我々国民の富はますます吸い取られることになる。
一株一票の株式会社と違い、一人一票の民主主義は、選挙によってそういう事態を防ぐはずだった。
多数の人が貧乏になれば、そういう政治は国民から支持されなくなり、政権交代が起こるはずだった。
ところがそうなっていない。
理由は野党の低迷と、若者の保守化だそうである。
これは本当なんだろうか。
役所は選挙結果の再検を認めない。
民主主義の肝である選挙の公平性はいったいどこで担保されているのだろうか。
情報公開といいながら、民主主義の根幹部分の情報公開は決してなされない。
民主主義がどこで担保されるか、
その確認作業さえできない世の中になっている。
共謀罪が成立し、自由にものが言えない世の中で、
首相のお友達が不正に獣医学部を認可されても、誰も文句を言わず、こんなものかとあきらめている。
憲法を改正せずに、戦争法案が成立しても、相変わらず政権は維持されている。
貧富の格差が拡大する世の中に次には、こういう世の中が待っている。
こういう世の中は活力を失い、長い時間をかけて崩壊過程を進んでいくだろう。
崩壊した他の多くの文明がそうであるように、日本もまたそういう崩壊過程を歩んでいくのかもしれない。
昔見た映画『ボレロ』の冒頭は、こう始まる。
『世の中に新しいことは一つもない。しかし、あたかもはじめて起こったかのような悲惨さで、同じ悲劇が繰り返される。』
崩壊の中に住む人間には、その崩壊がわからない。
人間は建設に向かうときは強いが、崩壊するときは弱い。
水曜
文明が滅ぶ主要因は、古来変わらず、人口問題と環境問題に大別される。
現代文明の新たな問題はそれに加えて、貨幣問題が未解決なことだろう。
貨幣により流通が活発化し、分業が進む。
確かに貨幣は大きな可能性を秘めている。
しかしその一方でこれほど邪悪な面を持っているものもない。
貨幣は流通範囲を拡大し、広域取引を可能にし、国家を拡大させ、統治を可能にさせる。
しかしその一方で、その分配方法は恣意的である。
お金はお金のあるところに集まる。
お金のシステムを知っているものは、少なく働いて多くのお金を手にすることができる。
お金のシステムを知らないものは、額に汗して働いて、一日に糧を得るのに汲々としている。
どんなに庶民が貧しくても、お金はあるところにはある。
現代文明の脅威は核兵器ばかりではない。
お金をどこで誰がどういうふうに作り、それをどう分配するか、それが決まっていない。
決まっていてもうまくいっていない。
お金とお金の交換方法すら恣意的である。
今のお金が紙幣であることは、お金を支配するものが最大の富と権力を手にすることを意味している。
さらに今のお金が紙幣ですらないことを考えると、その威力は増すばかりである。
火曜
頭が良くて、論理的で、理解能力が高く、寡黙で、騙されやすい人を権力は好む。
科学者はこうやって権力に利用されてきた。
正直で、嘘が嫌いで、思ったことを言い、金に執着しない人は騙されにくい。
こういう人は潰されてきた。
だがそれが時として大きなうねりとなることがある。
そのメカニズムはいまだわからない。
お笑いタレントが嘘を言うとなぜか本当らしく聞こえる。
たぶん言った本人が嘘を信じているからだろう。
きれいで頭の良さそうなお姉さんが、ニュースを読み上げるとなぜか本当らしく聞こえる。
それもたぶん言った本人がニュースを信じているからだろう。
月曜
環境破壊が社会を崩壊させることはみんなが知っているが、
環境というと自然環境ばかりが取りざたされる。
自然環境も我々を当たり前のように取り巻く環境の一部には違いないが、もう一つ我々現代人を当たり前のように取り巻くものに貨幣環境がある。
我々の生活は貨幣なしでは一瞬たりともまわらない。
貨幣は我々を取り巻く空気のようなものである。
我々の大気が汚染されていると同じように、我々が無意識に使っている貨幣環境も汚染されている。
自然環境破壊の最大の貢献国が中国だとすれば、
貨幣環境破壊の最大の貢献国はアメリカである。
中国がPM2.5を垂れ流しているように、
アメリカもドルを垂れ流している。
PM2.5が西風にのって日本を汚染するように、
アメリカの垂れ流すドルが日本の円を汚染している。
ドルは世界中を駆け巡り全世界の汚染を広げているが、その最大の被害国は日本である。
自然環境の破壊については、科学者はそのメカニズムを周到に計算しているが、
貨幣環境の破壊については、世の経済学者は周到に計算してはいない。
逆にそのことを避けて通ることがノーベル経済学書受賞の近道になっているようなところさえある。
『ドルに触れるな』、それが経済学のルールなのか。
通貨こそ、社会環境をどのようにでも変えていく最強のツールであるのに。
文明が崩壊するにはさまざまな要因があるが、
矛盾を先延ばしし、見えるものに片目をつぶり、あたかもその矛盾がないもののように偽装して、社会的対策を講じない文明、そういう文明はすべからく崩壊している。
それが崩壊した文明の共通点である。
日曜
生物学の立場で、人間を扱えば『種の保存』の立場で考える。
ところが近代の人権思想の立場で、人間を考えれば『個の尊厳』が重視される。
個は種のために奉仕する存在なのか。
逆に種は個のために奉仕する存在なのか。
西洋流の『個性』の発見とは何だったのだろうか。
生命の存続は、遺伝子の維持のためにあるという説もある。
ドーキンスの『利己的な遺伝子』だ。
ダーウィンの弱肉強食の進化論も突き詰めるとそうなる。
しかし人は『利己』的でもあり、同時に『利他』的でもある。
このことを包括的に説明することは難しい。
それをうまく説明した人はまだいないのではないか。
必ず全体か部分かという問題に突き当たる。
どこかに問題があるのだろう。
土曜
世の中が何でできているかを一言でいうとすれば、それは思想だ。
宗教も思想の一種であるが、宗教を否定するのも思想である。
社会制度も人間の思想により成り立っている。
科学もそうである。
恋愛も結婚も家族も一種の思想である。
父親というのも一種の思想である。
死は現実であるが、死後の世界は思想である。
安定した生活は一定の思想の中で営まれるが、
その生活を変化させていくのもまた思想である。
人間社会のあらゆるものは、思想でできている。
ただ本物の思想と偽物の思想がある。
それは論理性と信憑性、そして耐久性の違いだろう。
土曜
民族が征服されて帝国ができ、その帝国が統一されて世界帝国になっていくとき、
その時、民族の言語はどうなるのだろうか。
言語は思想を形成し、その思想によってまた言語は発展していく。
言語は思想を内包している。
言語は文化を内包している。
その文化によって人は自らのアイデンティティーを形成する。
このアイデンティティーがあるから人はその社会のルールを守ることができる。
アイデンティティーが崩れるときにはルールも崩壊する。
ルール崩壊の極みは、『人を殺してはならない』ルールの崩壊である。
『死にたい』という人がいて、『殺してやる』という人が出てくる。
SNSでそういう人がたやすく結びつく。
多くの人が『殺人』に誘われる。
殺人の垣根は思いのほか低くなっている。
アイデンティティーが崩壊した人はその誘いを断る理由がなくなっていく。
国家が消滅して世界帝国ができるときに起きるのは、そういう事態ではなかろうか。
世界帝国にもルールはあるだろうが、そういう強制されたルールに人は自ら従うことができるだろうか。
このことは人生の中で最も難しいことである。
価値観の形成といって難しければ、『生きがい』といってもよい。
『生きがい』のない社会の中で人は生きていけるか。
答えはノーである。
生きるべきか死ぬべきか、人はそういうことで思い悩む。
死ぬべきだと思う人が出てきたとしても、そのことを他人は禁止できない。
同じように、社会が存続するべきかそうでないか、そういうことで思い悩む人が出てきたとしても、
社会は存続するべきではないと思うことを、他人は禁止できない。
このことが人間にとって一番難しいことなのである。
一神教世界の人は、コロンブス以来世界が一神教のルールで回り出したことを良いことに、世界帝国に対して抵抗がないような言葉を発し続けているが、
それ以外の地域で多神教の世界に住んでいる人たちにとっては、一神教世界による世界帝国はとてつもなくハードルが高い。
ハードルが高すぎると社会よりも先に人間が壊れる。
意味がない、そう思うと人間は何でもやれる。
そういう生き物なのだ。
死んでよいと思う人間は、他人を殺してはいけないルールがわからない。
自分が殺されたくないから、他人も殺してはならないのだとすれば、
自分が殺されてよいのであれば、他人も殺してよいからだ。
歯止めがかからなくなる。
文化とは、土着性の強いものである。
それを構成するのは人間活動のすべてである。
たんに思想だけではない。
気候・風土・生産活動・社会構造・親子関係・夫婦関係それらすべての総体が文化である。
それらすべてを一つにまとめることは不可能である。
多くの脱落者を生み、多くの脱落する社会を生む、多くの文化の崩壊をもたらす。
人々はそこで自らのアイデンティティーを失っていく。
そうなったときが悲劇である。
想像を超えたことが起こる。
アメリカでは銃乱射事件がしょっちゅう起こっている。
日本でも不気味な人殺し事件が起こっている。
『死にたい人』が見ず知らずでつながり、9人を殺した事件。
日本は今アイデンティティーの崩壊過程にあるのかもしれない。
世界帝国がこういう人の発生を救ってくれるとは思えない。
日曜
毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171105/k00/00m/030/081000c
カタルーニャ スペイン国旗見かけず 前州首相の故郷ルポ
毎日新聞2017年11月4日 20時34分(最終更新 11月4日 23時38分)
スペイン北東部カタルーニャ自治州の独立問題は、州政府と中央政府の激しい対立の解決の糸口を見いだすことができず、州の自治権停止という事態に至った。
カタルーニャの人々が独立を求める根底には何があるのか。
独立派をリードしてきたプチデモン前州首相の生家があり、独立派が多く住むジローナ県内の小村を訪ねた。
【アメール(スペイン北東部)で賀有勇】
州都バルセロナから北東約100キロのジローナ。
そこから車で40分ほど山道を走らせると、緑豊かな丘陵地帯に褐色屋根の古い町並みが見えてくる。
人口約2200人のアメール村だ。
住民投票のバルセロナの独立賛成票は87%だったが投票率は39%。
一方、アメールは96%が賛成票で投票率は84%に上った。
村内で反対派住民を見つけるのは至難の業だ。
「高い税金を納めているのに鉄道などのインフラ整備が遅れている」。
アベル・ブランクさん(38)が言うように、自分たちの税金を原資に他州に投資が集まっているという不満が渦巻き、不満は高所得になるに従って高くなる。
スペイン財務省の統計によると、2014年に自治州が中央に納めた税金と中央から受けた投資額の比較では、カタルーニャは投資が約98億ユーロ(約1兆3000億円)少なかった。
だが、必ずしもカタルーニャが搾取されているとは言えない。
首都のあるマドリード州は中央に納めた税金に比べ投資が192億ユーロも少なかった。
そしてこうした実態を知っているカタルーニャ住民は少なくない。
では、独立を渇望する原動力は何なのか。
話を聞くと、最後には「アイデンティティー」に行き着く。
独立機運の高まりのきっかけの一つは、10年にスペイン憲法裁判所が、カタルーニャ語の優位性などを定めた州の自治憲章の一部を違憲と判断したことだった。
村ではカタルーニャ独立のシンボル旗がいくつも掲げられているが、スペイン国旗を見ることはない。
レストランのメニューもカタルーニャ語表記のみだ。
地元の長老、ジョルディ・ビダスさん(98)は、一帯が内戦時代の1939年に占領され、カタルーニャ語の使用が禁じられたフランコ独裁時代を振り返りながら、こう語った。
「今だってスペイン語を学ばされる。度合いの強さはあるが、誰かの管理下にあるということはフランコ時代と変わらない。カタルーニャの文化、風習、言語を大切にしてきた。それを守りたいだけだ」
プチデモン氏の叔父、ジョセップ・プチデモンさん(88)に話を聞くことができた。
「カタルーニャ人は勤勉だ。スペインの支配下に入り、フランコ政権に弾圧されても、涙を流した翌日には働いた」。
豊かさの背景をこう説明しながら
「カタルーニャ人の内なる魂を外から染めることはできない。カタルーニャはスペインの地域ではなく、国なのだ」と語気を強めた。
一方、村で出会った反対派、タクシードライバーのルベン・コルテスさん(45)は
「中央政府は好きではないが、独立することで現状が良くなることはない」との意見だ。
12月21日の州議会選について、声を潜めながら
「反対派がボイコットした住民投票と違い、次の選挙はカタルーニャの将来を占う、かつてない重要な選択になる」と語った。
土曜
私にとってのきっかけは、小泉政治だった。
それまでノンポリだった私が、はっきりと『これはおかしい』と思い始めたのは、小泉政治からだった。
しかし今から思うと遅きに失した。
もっと早く気づくべきだった。
何がおかしかったのか。
『変な力学が働いている』、という感覚。
この感覚だけははっきりと覚えている。
『これは悪質な政治だ』
『今までとは違う』
みんなそうだろうと思っていたが、
世間では、逆に小泉人気が高まっているという報道がされていた。
もしそれが本当だとすると、政治にズブの素人だった私だけがなぜ小泉政治に異様な違和感をもったのか。
なぜあのとき多くの人は小泉政治を受け入れたのか。
私が感じた異様な異常さからすると、それは理解できないことだった。
私以外にも、小泉政治に対する批判の声は上がった。
私にとっては当然のことだったが、しかしその批判はついに多数派にはならなかった。
私にとってはそのことが目を疑うようなことだった。
世間の多数派の人たちは、私と何が違ったのだろうか。
私にとってはこれほどはっきりした『悪質な政治』はなかったが、世間はそうは感じていないようだった。
竹中平蔵が登場してその違和感は確信に変わった。
しかし私にとっては驚くべき事態が、周囲の人にとってはそれほどでもないことだった。
べつに自分の感覚を人に押しつけるつもりはないし、
自分の意見と違う人がいることは当然のことだが、
私にとって意外だったのは、当然多くの人がそうだろうと思っていたことが、まったくそうではなかったことだ。
私は自分の感覚が人と違うことを知った。
しかしそれはなぜなのか。
凡人で過ごしてきた私が、どこで人と違ってしまったのか。
今もそれはよくわからない。
私の中では、小泉政治に覚えた違和感が、今の安倍政権でも続いている。
どうしようもないな、この違和感。
11年07月04日旧復興省大臣の暴言
ウィキペディア より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%BE%8D_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
松本龍
松本 龍(まつもと りゅう、1951年5月17日 - )は、日本の元政治家、解放運動家。民主党に所属していた。
福岡県福岡市出身。実家は養祖父の代からの福岡のゼネコンの松本組で、弟が社長である[1]。自身も顧問を務める。
祖父の松本治一郎は、全国を率いて活動し、国家権力の弾圧も受けたが、解散命令にも屈せず、「解放の父」と呼ばれた[2]。
福岡市立馬出小学校から福岡市立福岡中学校・福岡県立福岡高等学校に進む。高校時代は新聞部長を務め、「とにかく時間にうるさいことで有名だった」といわれる[3]。3年浪人して[4]中央大学に入学、法学部政治学科を卒業。弟2人と妹1人[5]おり、父英一は優秀であった次男に国会議員の後を継がせようと考えていたが、1972年10月1日、当時大学1年生であった次男が銀座の路上で心不全を起こして急死したため、長男である龍が父の後を継ぐことになった[6]。
大学卒業後は実家の松本組に入社し、父の補佐、不動産の管理、営業などを担当していたが[7]、30歳の頃、自ら副業として保険の代理店を始めた[8]。傍ら、1980年、父松本英一(参議院議員)の秘書として政治の現場に入る。
政界にて[編集]
1990年の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して初当選し、以後7回連続当選(現在は福岡1区)。
1996年に社会民主党を離党して旧民主党結党に参加した。日韓議員連盟常任幹事である。国鉄労働組合のJR採用差別闘争に連帯している[9]。
2008年度の国会議員の所得公開で国会議員で圧倒的トップの8億4366万円の所得を得ていたことが伝えられている[10]。
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【私のコメント】
『私は九州の人間ですけん』
バカ言うな。九州の人間はそういう言い方はしない。
昔のことだが、いまだに忘れられない。
火曜
数は農耕社会で貯蔵されたものを記述するためのものだった。
そしてそれを管理するためのものだった。
ふつうは「無い」ものを記述する必要はない。
ところがインド人は「無い」ものを記述した。
これが「ゼロ」の発見である。
「無い」はずのものが「在る」のである。
これは仏教の「空」の発見に由来するといわれる。
般若心経の「色即是空、空即是色」の「空」である。
「色は即ち是れ空であり、空は即ち是れ色である」
(存在はすなわち不存在であり、不存在はすなわち存在である)
(存在は無であり、無は存在である)
(目に見える色は色そのものではなく、色そのものではないものが目に見えている色である)
古代インド人は認識の向こうに在るものを見ていた。
つまり見えないものが「在る」ことを知っていた。
存在は隠れている。
そのことを人間に気づかせた。
それをはっきりと記述したのが「0」である。
これにより、世の中には隠れた「存在」があることに多くの人が気づいた。
「0」は認識の限界を示す魔界への入り口でもあった。
一が十あれば、それが人間の認識の限界で、それ以上は指が足りなくなる。
それを示すのが「0」であった。
そこで魔界が一つ誕生する。魔界を「0」とすれば、それが一つだから1を付けて「10」になる。
「0」は限界を表す魔界の入り口である。
それ以上は人間の目には見えないもの、認識できないものである。
目の前の指の数を超えるものは認識が難しいからだ。
しかしインド人は、人間の目に見えないことでも大事なものがあることに気づいていた。
だからそれを記述しようとした。
だからそれを抽象的に「10」と表現し、一つの抽象物の単位とした。
ここにあるのは目に見えないものを表現する技術である。
存在を抽象化し、概念化するという意味でこれは一つの芸術である。
そこには概念の構造化が見られる。
「0」は認識の限界を示す表示である。
その認識の限界が十である。
だから「10」が十集まったときにどうするか。
それが次の認識の限界を示すのである。
だから「10」に次の「0」を付け足すことになる。つまり「100」である。
ここで注意しなければならないことは、
「10」が十集まったことを新たな一つの魔界と見て、「110」とはしなかったことである。
「10」そのものが限界なのであるから、一つの「0」なのである。だから「100」となる。
「0」はここで数学的には十の集まりを意味するが、
認識論的にはあくまでも認識の限界を示す記号である。
人間の認識の限界が十であることを前提として、
「0」はあくまでも認識の限界を示している。
ここで「0」には二重の意味が発生している。
さらに「100」という数字は、十を認識の限界として、その認識の限界が2度繰り返されたことを示している。
つまり「100」という数字は、十という認識の限界が2度繰り返されていることを示す。
こうやって人は認識できないものを、認識の限界を超えて無限に表現していったのである。
ここには、認識の限界を理解することで、認識の限界を超えていくという一種の逆説がある。
人は認識できないものでさえ表現しようとしてきた。
人は「一京」という数を認識できないにもかかわらず、それを数字で表現することができる。
人間の意識は認識を超えている。
このことが何を意味するかは不明である。
金曜
性交が秘め事になるとは、人間の進化にとって最も大事なことが隠れたところで行われるということです。
隠れたところ、人目につかないところで行われるようになります。誰にもわからずに。
それがメスにとっては優秀な子供を産み、子供を育てるための非常に有効な手段だからです。
しかしそれは日常ではお目にかかれない行為になります。つまり非日常になります。
そのことがヒトの知性におよぼす影響はどんなものでしょうか。
ヒトの子供は見たこともない性交というものを想像しなければならなくなります。誰も教えません。
ヒトのメスが性交を隠すようになると、その中心的器官である陰部までが隠すべき器官になります。
こうなるとますます子供のオスにとっては、性交は想像しがたいものになります。
見たこともないものを想像する必要に迫られたとき、多くの場合に見られることは、それに類する何らかの知り得たものに喩(たと)えることです。
喩える能力が必要になるわけです。
これは人間の持つ抽象能力の発芽ではないでしょうか。見たこともないものを想像しなければならないのですから。
見たこともないもの、表現しにくいもの、それを表現する能力、人間にはそういう活動がいっぱいありますが、その一つが宗教であり、芸術と呼ばれる活動でしょう。
しかしそれには同時に恐れが伴っています。
なぜならヒトのオスは、その性行為に対して発情期でもないときに勃起する能力を求められるからです。ヒトの性行動の変化の速さに対して、ヒトの肉体的変化は追いつくことができず、それを補うためにヒトは精神面の変化をつくる必要に迫られます。
人間特有のエロスの発生はこうして誕生したのではないでしょうか。
しかしそれが不十分で、精神というもともと不安定なものの上に立脚しているため、ヒトのオスは性交時に勃起できるかどうかという不安を常に抱くことになります。
その不安が人間の持つエロスのさまざまな趣向性や多様性を生んでいきます。
精神作用によるエロスによって、人の性交は実際以上に美化されます。
性器の非日常状態である勃起状態を作り出さねばならないオスにとっては、その必要度はメス以上のものがあるでしょう。
メスは美化され、メスの体は美化されます。メスの性器はオスにとって崇高なものになります。
心理学者のユングが『アニマ』と呼んだオスによるメスの理想像が作られるようになります。このアニマ像が、オスにとって生まれたときから一番身近なメスである母親に近づくというのは頷けることです。なにせ性交の実態は隠されていて見たこともないのですから、一番身近なものに喩えてそれを作り上げるしかないからです。
ヒトのオスの多くがマザーコンプレックスを抱えているのはこのことが影響しています。
この精神作用は、いろいろなコンプレックス、つまり複合概念を生んでいきます。
見たこともないもの、この世に存在しないものも生んでいきます。
『神』とか『あの世』というものも見たことないものです。しかしそれはお互いに接触のない伝統社会に必ず発生したものです。
ヒトの空想上の産物は限りのないものです。『天国』と『地獄』、『悪魔』『鬼』『幽霊』『美』『善』『悪』『エロス』などなど。
オスの持つエロス作用は、神のなかに女神は発生させても、男神が見当たらないことを見ても明らかでしょう。メスは神にまで美化され、昇華されるのです。
芸術のなかで、恋愛は大きな比重を占めています。
メスのほうも、オスのそういう理想を壊さないほうがいいことを知っているようです。オスがそうしたいのなら、きっとそのほうがいいのだろうという知恵です。でも本音では吹き出しているのかもしれません。
想像は想像を呼びます。
想像には限りがありません。
想像力は、創造力につながっています。
それは芸術を超えたあらゆる分野に及んでいきます。
人は見たこともないものをモデル化して、その謎を解き明かしていきます。
アインシュタインが相対性理論をつくり出していく過程も、セックスという秘め事を想像する精神作用と根は同じではないでしょうか。
見たこともないものを何かに喩え、それをモデル化していく精神作用です。
『大事なものは目に見えない』と星の王子様のサンテグ・ジュペリは言いました。
『秘さざれば、美なるべからず』とは能の世阿弥の言葉です。
同じことを言っているのではないでしょうか。
女性は理想化されてアニマとなり、さらに神格化されて女神となります。
神の発生もこの精神作用の一つでしょう。
神の論理を探し続けていくと、アインシュタインは相対性理論にたどり着きました。
アインシュタインの相対性理論が現実なら、神も現実です。
神がいるのなら見せて見ろ、そういう人がいますが、そんなものではありません。
見えないものを見る力のことを言っているのですから。
ヒトは見えないものを想像し、やがて実際にセックスを行っていくのです。
想像したものが正しかったかどうか、セックスで実証されるわけです。
何を想像してもいいわけではありません。
人間が想像したものは現実の世界で試されるのです。
ヒトはそういうことを繰り返しやってきました。
大事なことは目に見えないのです。
セックスがその最初でした。
ヒトの存続にとって一番大事なセックスが見えない社会にヒトは生きているのです。
ここから生まれる精神作用の広がりは計り知れないほどです。
特にオスはその精神作用によって自らの性的興奮を作り上げなければなりません。
発情期という生物に備わったルールを無視して、性的興奮を作り上げなければならないのです。
非常に個人的な作業が必要になります。しかしこれはたんなる遊びではありません。自分が子孫を残せるかどうか、種の存続をかけた戦いなのです。
この非常に難しい精神作用のなかで、オスは青年期を過ごさねばなりません。
それはさまざまな広がりをもち、セックスに関わりのない精神作用をも誘発します。
芸術とはそうしたところから生まれるのではないでしょうか。
ラスコー洞窟の壁画を描いた芸術家は、間違いなくセックスという秘め事をしていたと私は思うのです。
種の存続をかけて彼は必死でその壁画を描いたのです。
その迫力が我々現代人を驚愕させるのです。
我々から見れば原始的に思える獣を追う生活のなかで、彼はすでに我々と同じ苦しみのなかにいたのです。
木曜
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セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) |
ジャレドダイアモンド | |
草思社 |
文庫化時に、改題されて今は下のようになっています。同じ本です。書店で手に取るのが恥ずかしいからという理由からだそうです。
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文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) |
ジャレド・ダイアモンド | |
草思社 |
内容は至ってまじめで、残念ながらエロ本のたぐいではありません。
著者は、次の本でピューリッツァー賞をうけた生物学者です。
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文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫) |
ジャレド・ダイアモンド | |
草思社 |
発想は歴史的です。人間の進化を種としてとらえ、社会としてとらえています。
社会の進化は文明論になります。
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文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫) |
ジャレド・ダイアモンド | |
草思社 |
ヒトの性の奇妙さとしていくつかの点を上げていますが、私が興味を持ったのは次の三点です。(我々が当たり前と思っていることは、動物界ではかなり異常なことです)
1.ヒトは隠れて性交する。
2.しょっちゅう性交する。
3.女性の排卵は隠されており、男にとっても女にとっても、排卵日前後の受胎可能な短い時期を検知するのは困難である。
これがなぜかということです。繁殖のためには非常に効率の悪い性行動です。
いくつかポイントを列記してみます。
『体内受精を行う動物のオスは、メスと同じようには自分が親であることを確信できない』
『ヒトは、子供を片親だけで育てるのが難しい、あるいは不可能な動物だ』
『人間のように排卵がほとんど確認できないという種は、動物の世界ではごく少数派なのだ』
『ほとんどいつでもセックスしているという点でも、ヒトは変わっている。それというのも排卵が隠蔽されているからにほかならない』
『さまざまな動物のメスが排卵がわからないのを利用してオスの父性を撹乱している』
『ゴリラのメスは、よくハーレムを乗っ取ろうとすオスのゴリラに赤ん坊を殺される。実際、ゴリラの赤ん坊の死因の三分の一以上は、この子殺しによる』
『人類学者たちがかなり前から認めているように、多くの伝統社会では、子殺しが普通に行われていた』
『メスの排卵がわからず、いつでも性的に受け入れ可能だとしたら、彼女はその点をいかして多くのオスと交尾ができる。たとえ連れ合いのオスが見ていないときにこっそりやらなければいけないとしても。そうするとそのオスが赤ん坊を殺すことは避けられる。それは自分の子かもしれないからである』
『女は排卵の隠蔽を進化させ、いつでも男を受け入れることが可能になると、今度はそれを利用して、優秀な男を選び、誘惑したり脅したりしながら男を家にとどまらせ、自分の産んだ子にたくさんの保護や世話を与えさせた。』
『生物界では、性の異性間闘争は実にふつうのことである』
ここから導かれるのは、
体内受精は、メスにとって非常な負担を強いる反面、母性の確かさを増大させ、
反対に、オスにとっては、負担を軽減させる反面、父性の確かさを減少させるということです。
つまり、ヒトの出産と育児は、メスに非常な負担をかけるように進化したのです。
それがなぜなのかはまた別の問題として保留されています。
だから、子供を片親だけで育てるのが難しいメスにとって、育児にいかに多くオスを引き込むことができるか、それが課題になります。それが人類共通の課題だったのです。自分の子供が他のオスに殺されないことを含めて。
メスの排卵の隠蔽は、多くのオスと性交するためです。
そして隠れて性交するのは、そのことを他のオスに知られないためです。(著者は明言していませんが論理的にそうなります)
そしていつも女は、パートナーのオスとだけ性交したと振る舞うことによって、相手のオスの父性を確保してやることに成功したのです。
そうでないと、この子はオレの子供ではないのではないか、という疑念をオスに与えてしまうからです。そうなればメスにとっても子供にとっても身の破滅です。
排卵の隠蔽が、いつでもどこでも誰とでもメスが性交できるようにするためという点では、AV女優の方々は素直なのかもしれませんが、
性交が秘め事でなくなっている点が、人類の進化の点からはそのメスにとって大きなリスクを与えています。
隠れて性交を行うことは、オスにとってより、メスにとってのほうが格段に利益をもたらします。
メスは自分の性交を見せないことにより、オスに自分の種を宿すメスという確かさを与えることができるからです。
女にとって自分の子供ではない子供を育てることが難しいように、男にとっても自分の子供ではない子供を育てることは難しいのです。
女は子供を産みさえすれば100%自分の子供ですが、男は自分が性交した相手から生まれた子供が100%自分の子供であることはできません。
この疑念が問題なのです。
AVビデオは確かにオスの需要によって生まれているものですが、そのことはメスの出産と育児とは全く関係のないところから発生する需要であり、
オスがなぜそういうものを見たがるかというのはまた別の脳生理学的な問題です。
メスがいつでも性交可能になると、オスもそれに対応していつでも性交可能にならなければなりません。オスはそういう能力を身につけなければならなくなるのです。
そしてそれはオスの場合、肉体的な変化というよりも、多分に精神的な変化によって身につけられていったのではないか、ということを著者は匂わせています。
男のエロスの世界はそういうところから誕生したのではないでしょうか。
『昼は淑女のように、夜は娼婦のように』とは男の理想とされますが、女性はどう思っているでしょう。
『バカいわないでよ、私ゃ子育てで忙しい』というところでしょうか。
進化論的には、すべてはそのためですから。
でもウソでもいいから『昼は淑女のように、夜は娼婦のように』振る舞ってくれないと、男は立たない、というのも本当ではないでしょうか。
女は男を立てる世話までしなければならない、大変です。
男は男で、
『娯楽のためのセックスが重要な要因となり、言語や芸術や書字を発展させたのではないか』と著者のジャレド・ダイヤモンドはいっています。
男はこうやって自分の手の内を見せます。
でも女は見せません。見せてはならないものをもっているからです。
女は謎ですな。
女を知らずして、人生を語るなかれ、というところでしょうか。
でもいくら女に聞いても女は答えてくれません。女自身それを意識していないのですから。
しかし性がオープン化され、男と女が同質化していくと、そのことが与える社会的変化は、今までの人間の進化上の論理とかなり違ったものになることが予想されます。
女が産まなくなるか、男が立たなくなる社会、そうならなければいいのですが。