赤毛のアンちゃん

赤毛の柴犬アンちゃんは2014年11月、14年5カ月の生涯を閉じました。『決してリードは放しま宣言』発信中のブログです♪

ふたりでふらり⑲京都・美術館めぐり 【上村松篁展】第三景

2005-01-19 22:09:35 | (4)ふたりでふらり

上村松篁は、母松園の深い理解によって京都市立絵画専門学校に進むと同時に西山翠嶂に師事。以来、帝展、新文展を舞台に、伝統的な写生に根ざしながら近代感覚あふれる花鳥画の世界を展開しました。昭和59年(1984)、75歳で松園につづき親子二代の文化勲章を受章、また京都市名誉市民となっています。

この作品展をごらんの際には、作品の時代を注意されて観ると「おやっ、」と思うことがあるかもしれません。幸いにも点数が限定されていますので、じっくり時間をかけてどうぞ。(写真③)




人間上村松篁―飯島幸永写真集

小学館

このアイテムの詳細を見る



ふたりでふらり⑲京都・美術館めぐり 【上村松篁展】第二景

2005-01-19 21:57:33 | (4)ふたりでふらり

近代日本画壇に多くの花鳥画の名作を残し、今なお多くの人々にファンを持つ上村松篁(うえむらしょうこう)(1902~2001)。
今回の作品展は、上村松篁の初期から晩年にいたる代表的作品約40点を選抜した回顧展です。(写真②)

私は、松篁の母でもある美人画で名高い女流作家上村松園に傾倒していた頃がありました。その研ぎ澄まされた繊細さとやわらかさに日本画の奥深さを認めていたからかもしれません。

■上村松園(うえむらしょうえん)
明治8年(1875)~昭和24年(1949)
京都に生まれる。鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事。1948年、女性として初めての文化勲章を受章。京都の風俗、歴史、謡曲の物語等に取材した気品ある格調高い女性像を描く。
■上村松篁(うえむらしょうこう)
明治35年(1902)~平成13年(2001)
京都に生まれる。母は上村松園。京都市立絵画専門学校に学び、西山翠嶂に師事。1948年、日本画団体「創造美術」の結成に参加。1984年、文化勲章受章。近代的造形、色彩感覚を取り入れた花鳥画で知られる。
■上村淳之(うえむらあつし)
昭和8年(1933)~
上村松篁の長男として京都に生まれる。京都市立美術大学に学ぶ。1995年、日本芸術院賞受賞。東洋独自の絵画表現を模索しながら花鳥画の新しい展開を求めて研鑽を重ねている。日本芸術院会員。京都市立芸術大学名誉教授。創画会会員。(財団法人 松伯美術館 館長)

上村松園画集

光村推古書院

このアイテムの詳細を見る






ふたりでふらり⑲京都・美術館めぐり 【上村松篁展】第一景

2005-01-19 21:30:58 | (4)ふたりでふらり

この日、午後から向ったのは、京都駅に隣接する伊勢丹7階にある美術館「えき」KYOTOを会場に開催されている【上村松篁展】です。(写真①)

上村松篁展開催中
■期間:2005年1月2日(日)~1月23日(日)[会期中無休]
■開館時間:10:00~20:00(最終日は17:00閉館)
 ※入館締切は閉館30分前
■会場:美術館「えき」KYOTO(京都駅ビル内・伊勢丹7階隣接)
■入場料 一般700円、高・大学生500円、小・中学生300円
■主催:京都新聞社/美術館「えき」KYOTO
■協力:財団法人松伯美術館


ふたりでふらり⑲京都・美術館めぐり 【日展 京都展】第六景

2005-01-19 20:58:17 | (4)ふたりでふらり

会場を後に岡崎公園を出ます。琵琶湖疎水沿いに国立近代美術館、勧業館を見ながら三条方面へ京都散歩を楽しみました。陰に入るとさすがに冷たいほど、陽射しのある道を選んでのんびり、ふらりが終わります。
写真⑥は、琵琶湖疎水から見た京都市立美術館です。

■京都市立美術館
・開館時間:9:00~17:00(ただし入場は16:30まで)
・休館日 :月曜日(祝日の場合は開館)及び年末年始
【アクセス】
・地下鉄 :東西線「東山」駅下車徒歩10分

★引き続き、【上村松篁展】をごらんください。

ふたりでふらり⑲京都・美術館めぐり 【日展 京都展】第四景

2005-01-19 07:26:11 | (4)ふたりでふらり

会場の入口に到着しました。美術展のいつもの、どこにでもある光景がこの扉の向こう側に広がっています。長い時代を生きてきた建物の中では、また同じ時代を歩き続けてきた美術展が開催されています。(写真④)

【日展の歴史】
江戸時代の長い鎖国の後、国を開いて外国との交流を始めると、欧米諸国の文化の高さは日本の人々を驚かせました。欧米の国々に肩を並べるために、我が国は産業の育成に努めなくてはいけないのと同時に芸術文化のレベルアップの必要性も強く感じていたのです。
明治33年、当時オーストリア公使だった牧野伸顕は海外の文化事情に肌で触れ、ウィーンを訪れた文部官僚に公設展覧会を開催することの大切さを情熱的に語っています。フランスでは、ルイ14世時代の1667年からサロンで開かれていた鑑賞会が公設展に発展しており、それがフランスの芸術面の高さに大きく貢献していました。
「我が国も公設の展覧会を開き、文明国として世界に誇れるような芸術文化を育成しようではないか」牧野は日本の美術の水準をもっと高めたいという夢を抱いていました。
この夢が実現するのが明治39年です。文部大臣になった牧野はかねてより念願の公設展開催を決め、明治40年に第1回文部省美術展覧会(略して文展)が盛大に開催されたのです。
この文展を礎とし、以来、時代の流れに沿って「帝展」「新文展」「日展」と名称を変えつつ、常に日本の美術界をリードし続けてきた日展は96年の長きに渡る歴史を刻んできました。
最初は日本画と西洋画、彫刻の3部制で始まりましたが、昭和2年の第8回帝展から美術工芸分野を加え、昭和23年の第4回日展からは書が参加して、文字通りの総合美術展となったのです。
昭和33年からは、民間団体として社団法人日展を設立して第1回日展を開催し、さらに昭和44年に改組が行われて今日にいたっています。

★今回の日展の概要は今夜に続きます。