ご近所にも1頭いるんですが、威風堂々の姿には似つかないやさしい性格の大型日本犬『秋田犬』が激減の一途をたどっているという記事を目にしました。ご近所の秋田犬は、わが家の柴犬・アンちゃんを友だちだと勝手に思ってる老犬なんですが、飼い主さんははやっぱりお年寄りで散歩のときなどは、なかなかの大仕事のようです。このあたりにも激減の一因はあるようです。空前のペットブームで小型の室内犬(洋犬が人気)が増加している陰で、この話は少し寂しい気がします。
秋田犬ピンチ、室内犬人気に押され減る一方
日本犬唯一の大型犬で、忠犬ハチ公で知られる天然記念物「秋田犬(いぬ)」が激減している。小型犬のペットブームに押され、ハチ公の古里・秋田県大館市に本部がある社団法人・秋田犬保存会の会員数も減少の一途をたどっている。
保存会は1927年、闘犬ブームで洋犬などとの交配が進み、純血の秋田犬が減ったことから設立され、純血を証明する犬籍登録を一手に引き受けている。
保存会によると、ピーク時の72年に4万2000頭を超えた秋田犬の出生登録数は、2004年11月末時点で20分の1の2065頭に激減。犬籍登録には会員資格が必要だが、全国に48支部、海外に米・ロサンゼルス支部と台湾支部がある会の会員も、約1万4000人から2675人に減っている。
会員には高齢者が多く、成犬で体重30キロにもなる犬の散歩は力仕事。保存会の松川擴(ひろし)事務局長(70)は「秋田犬は飼い主に忠実で一度飼うと親しみがわくが、愛犬家の間では室内で飼える小型の洋犬の人気が高まり、逆風になった」と話す。
保存会は毎年11月、東京・渋谷で開かれる「ふるさと渋谷フェスティバル」で秋田犬パレードを実施。大館市で2月に開かれる伝統行事「大館アメッコ市」でも、約20頭のパレードのほか、一般の人が秋田犬と触れ合えるコーナーを設けている。松川事務局長は「若い人が仲間に入りやすいよう全国にPRしていきたい」と話している。
◆秋田犬=1931年、日本犬として初めて天然記念物の指定を受けた。1630年代、秋田県大館地方の藩主が闘犬を奨励し、日本古来のマタギ猟に使われた犬と土着犬などとの交配で誕生したとされる。忠犬ハチ公は、飼い主だった東京帝国大教授の上野英三郎博士の急逝後も、東京・渋谷駅の改札口前で帰らぬ主人を待ち続ける姿が反響を呼んだ。
(読売新聞) - 1月25日8時10分更新
■忠犬ハチ公
忠犬ハチ公は、牡の秋田犬で、大正12年11月、大館市大子内(おおしない)の斎藤義一宅で、父:大子内号、母:胡麻号の間に生まれました。
ちょうどそのころ、東京帝国大学農学部教授・上野英三郎博士が、純系の日本犬を捜していました。それを聞いた博士の教え子の世間瀬千代松氏は、部下・栗田礼蔵氏の知り合いの斉藤宅から子犬をもらうことを思い付いたのです。大正13年1月14日、こうして生後50日前後の幼犬が上野博士のもとへ送られました。幼犬は、博士と共に食事をするほど可愛がられ、「ハチ」と名付けられました。
やがてハチは立派な秋田犬に成長し、博士の送り迎えもするようになり、ハチと博士の間に強い絆が結ばれました。
しかし、大正14年5月21日、いつものようにハチに送られて出勤した博士は大学の教授会において講演中、脳溢血に倒れ急逝。通夜・葬儀の間、ハチは食事を与えても口にせず、その状態はしばらく続いたといいいます。
博士の没後、浅草に引っ越した後も、夜、8キロ離れた渋谷方面に走って行くハチの姿がたびたび見られました。そんな状況が1年も続いたため、ハチの心情を想って顔なじみの代々木の植木職人・小林菊三郎宅に預けられることになりました。
しかし、夕食を終えると小林宅から700m~800mの上野邸あたりをうろつき、その後渋谷駅の改札口前にじっと座ります。暑い日も、雨の日も、雪の日もハチは改札口前に座り続けました。
ハチは、人間や仔犬に対しては決して牙を向けたり吠えたりしませんでしたが、一度だけ、ほかの犬に咬みつかれたことがあり、それ以降左耳が垂れてしまいました。
このようなハチの姿に、いつしか多くの人々が同情を寄せるようになり、次第に弱りはじめたハチを気遣い渋谷駅の職員も面倒を見るようになりました。
昭和10年、ハチは海外にも紹介されたり、映画になったりと有名になっていましたが、フィラリアにより3月5日、容態が急変、その3日後の3月8日、ハチは駅から離れ、孤独に13年(人間にすると90歳)の一生を終えました。
ハチは、青山墓地の上野博士とともに眠っています。
★詳しくは秋田県大館市HPでごらんください。
http://www.city.odate.akita.jp/sightseeing/hachi.htm
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