よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

加賀市の歴史2

2012-04-25 | 


(今朝の中央公園:八重の桜がきれいです)

 

さて、本書を読んでも歴史が苦手なのには変わりがありません。 いくら読んでも言葉や数字を憶えられなくて、イメージが湧かず右から左へと抜けていくのです。 

じゃぁその頃の状況をイメージできれば多少なりとも克服できるのか・・・どうか分かりませんが、とりあえず、その足がかりとして人口を見てみることに。

しかし、本を見ても具体的な数字は載っていません。 しょうがないのでネットを調べると紀元400年ころの日本の人口は 150万人 とありました。 また600年頃には300万人となっています。 で、1975年の人口が11000万人ですから、その比率を加賀市の人口にあてると、紀元400年頃は74000×150÷11000≒1000(人)。600年頃には倍増して2000人というわけです。 人口密度にすると3.3人/平方km ・・・って、ちょっと少ないような? この人数で、江沼の豪族と謳われ、前方後円墳を造り・・・なんてのは、どうもです。

で、よく読んでみれば 「大化改新(645年)を経て律令国家ができてからのち、北陸は越前・越中・越後の三つの国に分けられた。加賀国という行政区分はまだされておらず、奈良時代においても、この地域は、越前国に含まれており、手取側以南の地はすべて江沼郡と称されていた。すなわち、いまの加賀市、江沼郡、小松市、能美郡の地はみな越前国江沼郡であって、越前の武生にあった国府にいる、中央政府から派遣された国司によって管理されていた。」 ということから、現在の加賀市の人口を基にしたのでは足りないわけで、金沢以南の人口(90万人くらいか?)を基に計算し直すと、90万人×150÷11000≒12,000 となります。 おお、この人数なら当地の暮らしやすそうな場所の幾つかに分散していたとしても、大きな集落には1000人とか それ以上の規模で村とか町のようなものが形成されていたとしても不思議ではないかもしれません。 で、1家族10人程度であれば、100家族が暮らす村になるわけで、これは現在でもありうる大きさですね。

では、その人たちは、どういう場所に暮らしていたのでしょうか・・・


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