よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

不思議

2010-12-12 | 


「進化の運命」という本を借りてきた。
内容は進化の収斂現象を基に生命は知性に辿りつくというもの。 で、収斂の数多事例だけではなく、地球の誕生から銀河の果てまで話しがおよび、それはもう壮大なお話しでとっても面白い。なかでも感覚器官や知性についてのクダリでは、我々が視覚を主に使って外界を認識しているのに対し、可視光線が届かない世界に住む生き物たちは、聴覚・触覚・電気などでモノを見ているということや、蟻は群れ全体が一つの巨大な複眼として機能する集団的知性の持ち主などなど。思いもよらない不思議で奇妙で魅力的な世界に溢れているんですね。 ところで、その収斂というのは、外見だけじゃなくて例えば頭足類と我々の眼球が構造的に似通っているだけじゃなく組成的にも同じ蛋白質を用いているとのこと。そこから、ある機能を持たせようとすると手段は限られているので、飛躍するようだが宇宙人がいたとしても我々人間と似通ったものになるんじゃなかろうかと云っている。ただし宇宙人がいるかどうかは別として・・・
その一節を載せると・・・s・j・グールドが力説したのは、生命史のテープを再生すると、そこにはまったく異なった生物圏が現れるだろうということだ。人間に少しでも似た存在などかけらも見られない。だから、銀河を超えたはるかなかなたの別の生物圏は、地球上のどんなものとも似ても似つかないものだという考えが強化される。たそがれの干潟を横切ってズルズルと進むものはいたとしても、音楽や笑い声などは望むべくもないのだと。しかし、進化について私たちが知っていることは、まさにこれと正反対のことを示唆している。すなわち、収斂はあまねく見られ、生命に制約があるために、さまざまな生物学的な特質は、必然的にとは言わないまでも、かなりの確立で出現すると考えられるのだ。ホモ・サピエンスに相当するものは遠くの惑星には出現し得ないという議論は的をはずしている。問題となるのは、私たちが正確にどの道筋をたどって進化してきたのかではなく、進化のさまざまな可能性が積み重なることで私たちの人間性が結実したのではないかということだ・・・