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よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

4日目

2012-05-21 | 



もっとも高い地点にあると思われる展望台



上の展望台から程遠くない場所にて
雨が降って霧がかかり見通しがワルイのですが、その分なんだか幻想的かもしれません。

ところで、十和田湖について、ネット上の記述が以下にありました。↓

http://www.fish-jfrca.jp/04/pdf/lake/towada/_2.pdf

これによりますと、『十和田湖は、青森県十和田湖町と秋田県小坂町にまたがる※1二重式陥没カルデラ湖で、水域面積※2は59.8km2、流域面積※3は67km2、湖面標高は海抜400mである。十和田湖の北部、西部及び南部は、比高200~600mの急峻なカルデラ内壁で囲まれているが、東部は比較的緩傾斜である。』 

とのことで、展望台付近では標高1000mほどあるのでしょう。たっぷり雪が残っているのも頷けるというものです。


3日目

2012-05-19 | 
十和田湖を見渡す展望台に着いたときは晴天でしたが、みるみる曇り・・・
しかも寒い!







夜はいっそう冷えるだろうな~と思ったらキャンプどころじゃありません。
宿にお世話になることに・・・



そもそも誰もいません。 この宿ですら今夜は一人。

春の小径

2012-05-18 | 



2日目、新潟の街を過ぎ、山形県酒田市の土門拳記念館へ。すると八重の桜がきれいに咲いていました。
お天気もいうことなしの心地よさ、さすが5月です。
と、思ったのもここまでで、翌日からは雨。 まさに「行きはヨイヨイ」 (^^;



ところで、1日目は角田浜キャンプ場、2日目は象潟海岸キャンプ場にて泊まったのですが、どちらも誰~れもいませんでした。
連休明けの平日とあっては当然かもしれませんが、そもそもキャンプ場自体、使われている様子が希薄です。
北海道のきれいに整備されたキャンプ場とは、事情が随分と違っているようです。


日本海 沿って北上 十和田湖へ

2012-05-17 | 



GWも明けりゃぁ五月晴れ~
と呑気な気分で出かけたカブの旅



初日、新潟の街の少し手前、角田浜までは撮るものも無くひた走り、いきなり2日目からの写真です。

上:新潟の笹川流れ
下:山形県酒田市の「土門拳記念館」




それにしても、今年の5月は天気がイマイチ過ぎですね。雨に降られて寒いやら、風に吹かれて怖いやら、大変でした。

でも、楽しかった (^^)


御願神事 (竹割り祭り) 3

2012-02-14 | 

若い人たちの威勢のいい姿はいいものです。

御願神事始まりの頃の7世紀に戻り、そこから更に遡ること100年ばかり、古墳時代と呼ばれる頃のこと、朝鮮半島の一部に任那(みまな)という国があったとのことです。(いまだにwikipedia内をうろついています・・・(^^; 

任那は、『ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治機関や、軍事的影響力および経済的利権の存在について認める様々な見解がある』 そうですが、何れにしても日本が影響を及ぼしていたと思われます。
当時の朝鮮には、加えて満州にまで及ぶ地域を治めていた高句麗と西側の百済及び東側に新羅が存在していました。 

高句麗は、韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』に続く『朱蒙(チュモン)』(韓国で50%を超える驚異の視聴率を記録した壮大なスケールの歴史エンターテインメントとのこと)が始祖の国だそうです。この基になっているのは1145年に完成した歴史書「三国史記」だそうですが、さらにその基になったという資料が存在しておらず、中国の資料に登場する3世紀以前の部分については疑わしい内容だそうです。
そもそも三国史記によれば「主人公の朱蒙が卵から生まれた」そうなので、ファンタジーそのものといっていいのでしょう。

また高句麗人は、民族的に言語体系などから満州にいた扶余と同じとされています。そうしたことから、「高句麗は古代中国にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗は中国の一部であり自国の地方政権で中国史の一部だ」と中国側が主張しています。それに対して韓国側も「当時の中国に一貫して中央政府と呼べる統一王朝が存立していない」などと反論し韓国史であるとしているそうです。(話が噛合っていないようですが・・・)

どちらの歴史だろうとかまいませんが、高句麗は唐と新羅によって滅ぼされているので、いまの韓国、そして李氏朝鮮、高麗の前身である新羅が朝鮮を統一した基であるなら、高句麗が朝鮮民族の歴史ではないとしても、何ら問題はないように思うのですが、そこに拘るのは、さすが韓国らしい・・・というかなんというか。

ともかく、高句麗が建てられたという紀元前1世紀頃は、中国が前漢時代であり、朝鮮半島が、原三国時代と呼ばれる時代であって、弁韓、馬韓、辰韓と呼ばれる地域があり、加えて中国の行政機関であった「楽浪郡」がありました。そして、弁韓は任那に、馬韓は百済に、辰韓は新羅へと、国としての体制を整えつつある時期だったということで、そこに高句麗が入り込める余地は無かったように思われます。

さて、中国の紀元前1世紀までの歴史を遡りながら見ていくと、唐→隋→南北朝時代→五胡十六国時代・東晋→西晋→三国時代→後漢→新→前漢・・・と目まぐるしく支配者が代わっています。
逆に時代を下れば北宋→南宋・金→元→明→清というように代わり、また領土もその時々によって大きくなったり小さくなったりして、支配する民族が入れ替わり立ち代りしているのです。しかし一貫しているのは中華思想です。直接統治するか、冊封体制に組入れて従属させるか、方法が違ったとしても地続きで影響を及ぼせる範囲は我がものであるというのが中国です。

というわけで、朝鮮は中国に文化も遺伝的な面でも大きな影響を受けていると言えそうです。 それでも韓国や北朝鮮では独自の民族であるとして檀君朝鮮というのが紀元前2333年からあったとするところなど、これまた朝鮮らしいのかもしれません・・・。紀元前2333年といえば、 考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である殷(いん)よりも7世紀も前のことであり、いくらなんでも、それはないかな・・・と。

話が随分と逸れました。任那に話を戻すには長くなりましたので、次回に改めたいと思います。 それにしても・・・wikipediaの中をさまよいながら、日本、朝鮮、中国の歴史というものが、おぼろげに見えてきたような気がしているところです。


御願神事 (竹割り祭り) 2

2012-02-11 | 

地元の祭りなのに”旅”のカテゴリーに入れるのはどうかと思いますが・・・祭りを介してはるか昔に思いを馳せる旅とでもいいましょうか。歴史の勉強をサボっていたので、改めて眺めてみるのもいい機会かと・・・

飛鳥時代からおおよそ600年後、日本最大の危機がやってきます・・・

李氏朝鮮は、高麗の武将である李成桂が1388年に明に対抗すべく出兵を命じられたところ、クーデターを起こし政権を建てたものだそうです。そして明、清の冊封体制の下にいたわけです。

その高麗もまた新羅の武将である王建が王族を倒し建てたものです。 中国の唐が廃れ宗の時代になると、国境を接しなくなり影響は小さくなったようです。 しかし後半になるとモンゴル帝国が勃興して、元の支配を受けるようになります。 そのとき起こったのが、中世日本最大の危機、『元寇 』 です。

元は日本に対し冊封体制に組入れるべく使者を出します。しかし仲介した高麗の策略か、日本の対応がマズかったせいか、元を怒らせてしまうわけです。 なお、元寇の直前に高麗内で「三別抄の乱」という内乱があり、反政府勢力が日本に救援を要求しているので、日本側としても混乱していたようです。

こうして対馬、壱岐を攻めたあと、九州へと攻めてくるのですが・・・
子供の頃に習ったのは 「二度とも台風が来て蒙古をやっつけた、目出度し目出度し・・・」と記憶しています。
しかし実態としては熾烈な戦いがあったようです。 特に一回目の文永の役では台風は来ておらず、自力で追い返したようです。二回目は台風が来たようですが、戦闘による勝利といった方がよさそうです。 そもそも地の利は日本側にあるし、戦力も騎乗から矢を射られるわけで、元が大軍だったとしても、日本の方が有利だったのだと思います。

ところで、弓道の写真を撮っていて思ったのが、弓の長さが半端じゃないってことです。中国の弓をネットで見ると随分と小さくて玩具のように思えるほどです。それで元寇との戦いを描いたものを見ると騎乗の武士が持つ弓は、元軍の持つ弓の1.5倍の長さです。 弓が長いということは矢の長さが同じ場合、弦を引いたときの曲げ量が小さくなるので、その分へたりにくいだろうし精度も高かったと思われます。当然、射程距離を大きくすることも出来るというもので、これは大きかったはずです。 

こういう開発力が勝利の要因だったのかもです。
それに元軍とは違った格好良さ、このデザイン力もいいじゃないですか。

NHKで「平清盛」やってますが、元寇は清盛逝去(1181年) の後90年ほど経った鎌倉幕府の時代ですね。


御願神事 (竹割り祭り) 

2012-02-11 | 

御願神事を紹介するHPによれば 『天武天皇白鳳五年(677年)、の宝祚窮国家安泰御立願により・・・』、とのことであり、その由来は随分と昔に遡ります。677年といえば飛鳥時代の頃です。なんとまぁ歴史のある祭りでしょうか・・・

677年といえば、その10年ほど前の朝鮮にて白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)がありました。

wikipediaによれば、『663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦 』とのことです。当時の朝鮮は高句麗、百済、新羅の三国に分かれており、そのときを境として高句麗も滅ぼされて新羅が朝鮮半島を統一することになったそうです。

倭国というのは日本のことですが、その後、唐・新羅との対立が深まり危機感の高まりから国号を「日本」と定め新たな体制が整った時期だそうです。
で、奈良、平安時代へと続くことになります。

そういう時代の ここ北陸、いったいどういう景色が広がっていたんでしょうか?


飛騨 高山

2011-12-02 | 


いつもと違うところへ行くというのは、それだけで楽しいものですね。
道中、カメラ歴の長いO氏のsony α77 を触らせてもらいながらカメラ談義。



で、α77の詳細をsonyのHPで見ると、E-5比で画素数2倍、連写性能2倍強、それにGPS機能、パノラマ撮影 etcがあって・・・
これじゃまるでolympus E-5 が鉄人28号だとしたら、α77はガンダムかトランスフォーマー・・・



olympus自体、企業の存続が危ぶまれる体たらくで、ブランドイメージがた落ちだし、製品構成にも魅力が乏しくて、価格comを見る限り売れているようにも思えなくて、 このままじゃホントに オリンパスのカメラが生き残れるのか心配になってきて、他ブランドへ食指が・・・
それでも、レンズを含めた防塵防滴仕様を謳うFTシステムと同等以上のものが現れるまでは使い続けるかな・・・?

飛騨 古川2

2011-11-30 | 




古い町並みが残る観光地は沢山あって、人が集まってるところは交通の便が良くて知名度があって・・・と、いくつかの条件が揃っているからなんでしょうが、我が大聖寺(加賀市)といえば、古九谷発祥の地だし、百名山の著者「深田久弥」氏の出身地で、それぞれにまつわる美術館や記念館など、観光客を意識した見所が用意されています。 それと昭和やそれ以前の町家も残っていて、一つ一つはそれなりに楽しめるはずです。 でも、どれも町のあちらこちらに点在していて、ぶらりと立ち寄って歩いて周るにはムリがありそうです。 密度を高め1、2時間を楽に楽しめる街ができたらいいかもしれません。

飛騨 古川

2011-11-29 | 


恒例になった写真クラブの飛騨旅行
いつもの通り、古川の町にてお蕎麦をいただいた後に街を散策しつつ一枚二枚



写真を撮るよりも、蕎麦と飛騨牛で舌鼓・・・ってのが目的にみたいな・・・

それはそうと、晴天の週末ということで観光客多数。特別スゴイというものが有るわけでもないのですが、古い町並みが連なり、ほっとする雰囲気でもって旅の気分にしてくれます。