心にうつりゆくよしなしごと / 小嶋基弘建築アトリエ

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世界の建築から② ギリシャ・ロドス島リンドス

2006年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

”知識ヲ世界ニ求メ”ましょうね~♪

画像は、【Greek Style】Suzanne Slesin(著)、Stafford Cliff(著)、 Daniel Rozensztroch (著)、 Gil De Chabaneix(著)、Clarkson N.Potter,Inc./Publishers刊より。洋書で購入出来ますよ~♪

中央がエーゲ海南東部の12の島々(Dodekanisa)の中心ロドス島(Rodos is.)リンドス(Lindos)です。私はギリシャをまだ訪れたことがなくて、この本や、ギリシャ観光省-ギリシャ政府観光局HPで想いを馳せています。

私が初めてギリシャを明確に意識したのは、今から20年程前、文化学院在学の時でした。当時の講義で、昨年閉幕した【EXPO 2005 AICHI JAPAN  愛・地球博】の長久手日本館をデザインされた彦坂裕氏が講師として、様々な建築・都市・環境etc.について教鞭をふるってくれた時のスライドで知ったのが最初です。

『ヒューマン・スケール』というキーワードで建築・都市・環境etc.を紐解いていく講義内容だったのですが、標準的な現代日本の建築・街並み・都市景観etc.に、えも言われぬ居心地の悪さを当時から皮膚感覚的に感じていた私にとって、彦坂裕氏のいう『ヒューマン・スケール』は、ぼやけていたものに焦点が合ったような、『ハッ!』と指標を見つけたような気がしました。

20世紀になって登場したモータリゼーションの発達は、建築・街並み・都市景観etc.から、どんどん人間的なスケール感覚を奪っていきました。経済効率全能主義下での機能分化の先鋭化と相まって、こと日本では子供が自由に遊べる”原っぱ”すら消失してしまっています。私が子供の頃でもまだ”原っぱ”はたくさんありましたよ。

例えば私の父によると、京都では清水寺の境内で自由に野球をやったり、旧市内 ♪まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき しあやぶったかまつまんごじょう せきだちゃらちゃらうおのたな ろくじょうさんてつとおりすぎ ひっちょうこえればはっくじょう じゅうじょうとうじでとどめさす♪ のすぐ外は、一面の葱畑だったそうです。そう遠くない過去の話です。

20世紀都市の血管・大動脈として道路があり、高機動性高速大量輸送機関である自動車こそが経済至上主義下での最大合理主義であり、よって、都市は自動車をスケール(ものさし)として再開発しなければ豊かになれない、というテーゼで突っ走ってきた戦後の日本。

私はそれを100%否定し拒絶するものではありませんけれども、そのアンチテーゼとして、モータリゼーションから距離を置く、例えばエーゲ海に浮かぶ島の白亜の街並みの人間的なスケール感覚を、20世紀以降は大切にしていかなければならないのではないか、と思っています。豊かさのために。

ありていに申し上げて、私は今の日本の都市を美しいと感じたことは一切ないのですよ。優等生的体裁の良さは感じるのですけれども、イタリアのような魅力からは残念ながら程遠い。ですが、江戸時代から続く旧市街・町並みにはイタリアを訪れていた時に感じていたものと同じような種類の居心地の良さや美を感じるのです。

大変乱暴ですが、もっともっと、多くの日本人が、例えばイタリアの街を訪れるようになれば、日本の街もきっと魅力溢れるものになるのではないか?『奇跡の街、ヴェネツィアを見ないで死んだらダメですよ~ (^0^)凸』

良かれ悪しかれ、戦後日本は、全ての面でアメリカをお手本としたのではないか?住宅にとどまらず、都市景観や街並みについてでさえ、ニューヨークやビバリーヒルズこそが最上級のお手本だったのではないか?そんな思いにかられます。

ビバリーヒルズに住人同士のコミュニティって、あるのでしょうか?六本木ヒルズには? コミュニティが嫌だから”…ヒルズ”に入居したいのでしょうから、この問いは意味ないか。そもそも『富と名声こそが人生の全て』であるとの人生哲学を持った方々の”お城”(竜宮城かな?)なのでしょうし、そういうイメージ戦略を仕掛ける者の青写真を忠実にトレースしている方々の自己顕示ゲームの舞台なのでしょうからね(^-^)v

(^-^)『谷底にあるのにヒルズ名乗るビル』 埼玉 増丘邦千代 作  仲畑流万能川柳/毎日新聞4月12日朝刊・(^-^)印(本日の秀逸作品)より。私は朝から笑ってしまいました (^▽^)

例えばイタリアの広場”Piazza”には、たくさんの陽気で気さくな人達が集い、、FIFAワールドカップ・サッカーや屋外音楽会やストリートパフォーマンスetc.の喜怒哀楽を時を忘れて大勢の仲間と一緒に楽しむことの出来る豊かさがあり、彩り豊かに開催されるバザーや、教会の鐘の音さえ、いつ行ってもそこにいる人々全てが皆主人公になれる都市の中の素敵な”居場所”があるのですよね。映画『ローマの休日』はアメリカで1953年の公開の永遠の名画ですけれども、2006年にローマへ行っても映画と全く同じ街並みですよ!見てみて!

日本の現実は、こと住宅街についていえば、右隣はイギリス風、前は和風、左隣はアメリカ風、裏は地中海風、そのまた隣はスペイン風そのまた隣はコストダウンのおかまいなし分譲、そのまた隣はフランス風、そして自分の家は…、外壁にも屋根にも外構にも、カンバスに全ての絵の具をぶちまけたようなグロテスクな満艦飾…という感じの、全く街並みに秩序や調和が無いこと。それは”多様性”という美辞麗句では決してなく、無秩序、無計画の域のもの。なぜなら地域性、気候風土、街並み、全て無視ですものね。

街並みって、本来は公(public)であって、みんなのものであるはず。でも日本の自由って、そういうことのようです。この無秩序性は、ひとたび例えばヨーロッパ諸国のそれを実際に目にして体験してしまうと、時に苦痛にすら思えてしまうことが多くの人に共通する意見のようなのですが…。アジアでは、乱雑、混沌さえもが秩序や調和とすることがマジョリティなのでしょうか?

日本では住宅街=住宅展示場なのですよね。本来住宅展示場というのはマトリックス(仮想現実)であるはずが、シュミレイテッドリアリティとしての作用を及ぼし、そこを訪れて出てきた人々の多くの脳へ”マネトリックス”であることを良しとする認識作用を促しているかのように思えます。住宅展示場やハウスメーカーのカタログって、欲する者の”夢”をたいへんくすぐるし、実に購買意欲を刺激しますものねぇ。或る意味で、”麻痺”させられて帰ってくる”住宅おとぎの国”でもあるようです。

私は、子育てが終わったら、”おとぎの国”ではないギリシャ、行こう!あ、イタリアも!


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