心にうつりゆくよしなしごと / 小嶋基弘建築アトリエ

山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし

豊かな住まいについて④

2010年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

私の宝物の紹介。



Img_0003_3


豊かな住まいについて】で紹介した京都・麩屋町の家、私が生まれた家の平面図です。
昭和63年頃、確か父と東福寺の伯母にヒアリングをしながら、私がフリーハンドで描きました。

京町家の表屋造りがよく分かる平面形式ですね。犬矢来、通り庭、玄関庭、光庭、箱階段、井戸、防火用水、ミセノマ、玄関座敷、中座敷、ダイドコ、中庭、離れ座敷、縁側、屋根瓦などなど。現在、書店で購入出来る京町家の写真集そのままです。

通り庭玄関口には、私の『基弘用ウバ車。おじいちゃんが河原町通りの市電や京阪の線路脇マデ連れていってくれた』の文字があります。中庭には当初、築山があったのですね。

大黒柱も見られます。玄関座敷の右手の3尺(京間の3尺なので、現在にすると3尺1寸5分≒95.5センチ)部分は当初庭だったのを、戦時中ここに防空壕を掘っていたんですね。

大黒柱から京間で9尺程離れたX方向右手には独立柱があります。父同様今はもう亡くなってしまった、愛嬌のある大好きだった叔父が、私と一緒に飲み乍ら、「子供の頃あの独立柱になあ、わるさをした時によく縛りつけられたんだよ~(^―^)」と言っていたっけ。

ちなみに三枚目の画像は、この図面が折り込み広告の裏面を使って描かれていることをブログ上で記録する為に載せました。

大切なのは、心の中にしまっておけるものなのだなあ、と。決して持ち去られる事の出来ないかけがえのないモノ。金銭に換算出来る”資産”では決してないはず。

住宅建築に造詣の深い人でなければ、
あるいは、”ピアニッシモ”の美しさに観ずることの出来る人でなければ、
この平面図という”記号”(=それはオーケストラスコアのパート譜といえるでしょう)から美しい音色を引き出す事は出来ないと思いますが、
あえて。(断面関係の図面が無いから、プロといえどもよく理解出来ないと思いますが)

過去に【私の原風景のひとつ】、【風をよむ】、【日本の建築から① 京都町家】、【屋並み・街並み】、【坪庭のすすめ】、【融通無碍】と、私はしたためてきました。

こうして今思うに、
現在の日本の住宅の諸問題の根源、ひいては人間関係の社会問題の底流には、”人間”を育てる器である住宅に、”畏敬の念”を体現するものが無くなってしまった事、またその精神性を無くそうとしてきた事があるのではないか?と。

つまり、
”ありがとう”という感謝の気持ちを実は本心の部分で抱けなくなってしまった人間が、果たしてやさしさであるとか思いやりであるとか、慈しみであるとかいたわりの気持ちを大切にすることなんて出来るの?って。こころに宿るの?って。

例えば畏敬の念を体現する代表格である大黒柱、その大黒柱を父親と見立てたり神の宿る柱として見立てて建てた住宅を、平均寿命26年で平然と壊します?

住宅を金儲けの手段、資産運用でしか捉える事の出来ない人間にとっては、
豊かな住まいは56億7000万年経っても叶えられないモノでしょ?
そこに精神性は宿らないのだから。

或る工務店の社長さんが私に言いました。『今の住宅は、快適住宅ならぬ快楽住宅だ』と。
だから、パラドクスとして、行為に結果として付随するはずの快楽そのものを目的として得ようと努力すればするほどかえって快楽を得るのは難しくなる、という逆説。

日本の住宅にはかつて、”畏敬の念”を体現するものがありました。

大黒柱、えびす柱(地域で呼称は異なる)のみならず、一般の柱にしても表わしにすることで間取りで重要な柱を父親や母親に見立てることをしてきたのだし、♪柱の傷はおととしの~♪もその範疇でしょう。

それに天照大神を祀る神棚をはじめとして、八百万の神々を祀る神棚、玄関(元来『”玄”妙に入る”関”所』ですからね、玄関の語源は)、等々がしつらえてありました。

住まい手はその大きな存在に毎日接し、かかさずあるいは何気なくであろうと、感謝といえるかは認識してはいないのだろうけれども、年齢を重ねて時が経ったとき、その偉大な存在によってかけがえのないモノを与えて頂いたという謙虚なこころの平安を得られるのではないのか…

それが真の豊かさなのではないのか?
(物理的快楽住宅を求めようとするお客さんには、豊かさは宿らないのではないのか?)

構造の観点からいえば、住宅程度の構造に尺角(30、3センチ×30、3センチ)の大黒柱の構造強度は必要ありません。

けれども、住宅は”人間”を育てる器である以上、屋台骨を支えている太くて長くて頑丈そうな大黒柱は、父性の象徴として、子供に見せ続けて育児をした方が絶対にいいはずです。

『この大きくて太くて長い柱は大黒柱って言って、お父さんなんですよ。お父さんは、この柱のように毎日頑張って家族を支えてくれて、一所懸命にお仕事してるのよ』

と、”重く”ならないようにお母さんとの語らいの中で育つ子と、畏敬の念を体現するものの何も無い住宅で育つ子とは、違うのが当然なのだと思うのです。

無論、住宅が全てではありませんから、畏敬の念を抱かせる大きな世界の存在、
生命の尊さを教えてあげられる賢明な親であれば、住宅はまた違った観点から捉えることが出来るはずですが。

必要なのは信仰心であるとか、宗教心であるとか、声高に語る崇高なものなのではなくて、
ただただ『ありがとう』という素直なこころ。そうなのではないでしょうか。
たとえば。

作詞・作曲 井上揚水・奥田民生

ありがとう ありがとう 感謝しよう

微笑んでくれて どうも ありがとう
プレゼントくれて どうも ありがとう
楽しんでくれて どうも ありがとう

手を振ってくれて いつも ありがとう
気づかってくれて 本当に ありがとう
つながってくれて 毎度 ありがとう

強い人 弱い人
男の人 女の人
目立つ人 地味な人
みんな みんな ありがとう Yeah!

ありがとう ありがとう 感謝して

連れてってくれて たまに ありがとう
重なってくれて 実に ありがとう
弾き飛んでくれて 今日は ありがとう

付き合ってくれて どうも ありがとう
うまく誤魔化してくれて どうも ありがとう
笑いとばしてくれて どうも ありがとう

近い人 遠い人
やさしい人 つめたい人
好きな人 イヤな人
みんな みんな ありがとう Yeah!

ありがとう ありがとう 感謝して
感謝しよう ありがとう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今回の【豊かな住まいについて④】は、決して技術者・技能者サイドからの職能放棄宣言ではありませんので。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

にほんブログ村 住まいブログへ にほんブログ村 デザインブログ 建築デザインへ にほんブログ村 住まいブログ 伝統工法住宅へ