心にうつりゆくよしなしごと / 小嶋基弘建築アトリエ

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私の旅・2024お墓参り《鳥辺野・化野》を巡りて

2024年05月23日 | 旅行記

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

125ccスクーターに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

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京都では、

いにしえからの葬送地、鳥辺野(とりべの)と化野(あだしの)の葬送ルートを歩いてきました。

父方先祖の古い墓石がある現在のお墓が市営清水山墓地にあり、エリアが鳥辺野そのものだからです。

 

大正十五年三月二十五日の曾祖母の葬送で『遺骸を輿に乗せ、花籠車・放鳥車を共に「故小嶋〇〇の棺」

と大書きした弔旗を先頭に立てて葬列をつくり、清水山の小嶋家の墓地に葬った』(正に野辺送り)の記録があり、

昭和十五年十月、明治三十七年生まれのまだ若き祖母の葬送も土葬だったと、伯父が話していました。

 

先祖も通ったかもしれない、かつてこの世とあの世の境だった六道の辻と葬送の地に赴き、

そして現在の墓地に先祖を訪ね、万感の思いを込めて、お墓参りをしてきました。

 

鳥辺野への出発点は、鴨川・旧五条大橋西詰(現在の松原橋)。

つまり、音羽山清水寺への参道起点。この後、スクーターを駐輪場に入れて、歩きはじめる。

昭和30年まで祇園祭の山鉾巡行は松原通りを通っていた! 麩屋町松原も通っていた!

私の生家はその麩屋町松原、私は昭和39年生まれ。

 

60年前の【私の原風景のひとつ】と同じ場所からのスタート。

鴨川と東山の山並みは今も同じで、とてもうれしい。

 

ただし、平安時代と現在の京都市内、かなり違っているとのこと。60年前でさえそうだし。

平安京は現在の寺町通りにあたる東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)が東端。

 

平安京オーバーレイマップ(こちら)を見ると、現在の河原町通りは秀吉の築いた御土居の外がほとんど。

つまり鴨川の河原だった(だから河原町通り)様です。現在の『土手町通り』が御土居の跡だそう。

川幅は今より3倍以上あった様だし、現在の五条から南は氾濫で流域が西へと拡大していった様です。

 

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京都市平安京創生館(京都アスニー:HPはこちら)で、平安時代の京都の地形と、

平安京復元模型の巨大ジオラマ(縮尺1/1000)が見学出来ます(無料)。

 

当時の予想復元地図もインターネット閲覧することが出来ます。

◎古代の京都~ヤマシロオーバーレイマップはこちらで、

◎平安時代と現代を重ね合わせた平安京オーバーレイマップはこちら。 

◎近代京都(明治25年~昭和28年)オーバーレイマップはこちら。 物凄く楽しい!

 

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さて、松原通りを東へ進み、東山区松原通大和大路東入ル二丁目轆轤町81、西福寺。

合掌。

この辺りからが、平安時代、鳥辺野の入り口とされたエリア。

大昔は轆轤(ろくろ)町ではなく髑髏(どくろ)町だったとか。

 

檀林皇后や小野小町の死への尊厳、九相図(Wikipediaによる閲覧注意)。

深く考えさせられますし、釈尊の前世の捨身飼虎が真っ先に頭に浮かびました。

 

界隈にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)。HPはこちら

合掌。

 

閻魔大王の木座像と、この世と冥界を井戸を使って往来し、閻魔大王の裁判の補佐をしていた伝説のある、

小野篁卿(Wikipediaによる説明はこちら)の木立像が安置されたお寺。

◎六道珍皇寺にある井戸:死の六道の井戸⇒冥界への入り口。

◎京都嵯峨にあった福正寺にあった井戸:生の六道の井戸⇒冥界からの出口。

   福正寺は1880年嵯峨薬師寺と合併して廃寺。嵯峨薬師寺は清凉寺境内内塔頭。

 

ここにもある、六道の辻の石碑。

『「六道」とは、仏教でいう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいう。』のだそうです。

 

この六道の辻から先は、隠亡(おんぼう)によって、風葬の地へ運んで行かれたとのこと。

私の知る由もない、遥かいにしえの先祖もそうして自然に還って行ったのかもしれないと思うと、

お盆前の《精霊迎え六道まいり》、お参りしたいです。

 

ただ、中世迄は六道の辻から先の鳥辺山麓迄どころか、鴨川の河原からして葬送地(水葬)。

 

◎古代・中世の京都の墓 /  五十川伸矢 ー 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ 論文pdfはこちら

◎親鸞と川 ー日本人の河川観ー /  池末啓一 論文pdfはこちら

 

論文中の『嶋田と鴨の河原の髑髏5千五百余頭』って、尋常ではない数。

当時の疫病・感染症死者?それとも常時?

 

嶋田とは古代河川の嶋田川らしく、現在の右京区の南・南区の北西辺りにあったらしい(現在消滅)。

当時の水葬地の様なので、流量を考えると葛野川(現在の桂川)を想像するけど、現在の御室川の古代流路かも。

 

現在の御室川でさえ、明治の治水工事直前の京都地誌で、

『いつもは水が無いのに、強雨が降ると堤を壊す深さ七~八尺の瀑漲河川化して、氾濫が凄かった』らしく、

ひとたび強雨が降れば大きな掃流力(運搬力)を発揮(水葬に適)していたので、古代の嶋田川かも。

 

ちなみに貞観十三年(871年)当時、鴨川と葛野川の合流する辺りの河原を、

『佐比(さい)の河原』と呼んでいたようです。平安京の外、葛野郡と紀伊郡の葬地だったらしい。

『賽(さい)の河原』のサイは、ここからきているらしい。

 

平安京も右京は葛野川(現在は桂川と呼ぶ)が暴れ川として氾濫扇状地を東方に広げていて、

都としての機能は早々に放棄していたらしい(平安京創生館の学芸員さんによる)。

 

さて、歩き続けて、現在は清水坂。

目的が目的なだけに、早朝に訪れてよかった。

静寂がまだ続いている。

 

少なくとも中世までは水葬、風葬≒林葬(野葬)。

 

いずれも訪れた死が、還るというか、生態学的循環というか、動的平衡というか、

自然の大きなバランスの中に吸収されていく様な、尊厳があると思う。

葬送が「利他行」に通じていると思う。現代では死体遺棄で犯罪なのだが。

 

清水寺へ。

父は子供の頃、この広場で野球をしていたそうだ。何と長閑な時代だったのだろう。

画像右下の垣根の内側に、旧子安塔跡の石碑がある。(現・子安塔は奥の院の更に奥にある)

ここで右へ曲がり、更に進み、清水寺境内自転車駐輪場の脇道へ。

 

道が開けると、鳥辺野葬送地の代名詞、大谷本廟(龍谷山本願寺による沿革はこちら)。

合掌。

この辺りを鳥辺山と呼ぶそうです。隣接して延年寺旧跡墓地(鳥辺山墓地)があります。

 

◎近代京都(明治25年~昭和28年)オーバーレイマップ(こちら)では、

明治25年や大正元年で墓地の地図記号⊥(こちら)が。付近には荒地や笹地、広・針葉樹林も。

国土地理院(トップページはこちら)の年代別の空中写真(はこちら)では、

昭和20~25年以降に墓地面積を拡張したようです。

 

そもそも鳥辺野のエリアは、歴史的にはかなりの広範囲。

 

さて、清水坂ルートではないけれど、ここも鳥辺野。音羽川の南側、市営清水山墓地入り口。

父方の先祖のお墓参りへ。谷を越え、道路をくぐり、階段を上り、山中を歩く。

 

清水山墓地からは京都タワーが望めます。

「おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖の皆さま、きたよー!」

蝋燭ではなく、灯台をイメージしたらしい。京町家の瓦屋根の屋並を波に見立てて。

 

市営清水山墓地の出口(裏入り口)。墓地から出て林道を歩くと、裏から清水寺へ行ける。

「おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖の皆さま、またくるねー!」

「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。

 

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途中、京都市平安京創生館(京都アスニー:HPはこちら)にて学習。

 

素晴らしい女性学芸員の方に、平安京の丁寧な解説と当時の衣装の着付けまでしていただきました。

ありがとうございました。私は何回でも勉強に行きたい生涯学習施設です。とても楽しい!

 

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化野葬送地へ。

 

平安時代、檀林皇后が風葬の地とした帷子辻(かたびらがつじ)があったとされる、

付近といわれる現在の帷子ノ辻(かたびらのつじ)にある、太秦西蜂岡町西地蔵尊。

合掌。

お参りさせていただきました。檀林皇后、素晴らしい方だと私は思います。

 

帷子辻があったとされる地点から、古くからの道らしき道をひた歩き、大覚寺門前交差点へ。

ここは福生寺(ふくしょうじ)跡。平安時代、化野葬送地の六道の辻。

 

現在はかなりの交通の往来があります。

モニュメントがありました。

六道の辻の石碑と、小野篁卿が冥界からこの世に戻る時に使ったとされる井戸(生の六道)。

 

福生寺は今は無いけれど、この井戸だけは残したのかな?、それともモニュメント?

化野葬送地は、この付近がこの世とあの世の境、つまり六道の辻だったのですね。

 

モニュメントには、三途の川らしきものと、橋(鬼谷橋の銘があった)も。

六道の辻から先、葬送地への道は愛宕街道となり、あだしの念仏寺へ続く。

 

階段があだしの念仏寺へ。

道路は愛宕街道。集落は国の重伝建地区に指定されている嵯峨鳥居本集落。

 

あだしの念仏寺(HPはこちら

【あだしの念仏寺HPの沿革より抜粋】

「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、

又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、

極楽浄土に往来する願いなどを意図している。

 

この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、

永遠の別離を悲しんだ所である。

 

境内に奉る多くの石仏・石塔は往古あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。

何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた。

 

明治中期に地元の人々の協力を得て集め、

極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。

賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。

合掌。

「西院の河原」内は観光客も入れます。だけど内での撮影は禁止です、迷惑外国人観光客の方。

 

裏手には竹林があり、見事に美しい。

私は無常を感じます。

 

さて、あだしの念仏寺からの帰路、嵯峨薬師寺(清凉寺(嵯峨釈迦堂)境内塔頭)へ。

合掌。

福正寺は清凉寺境内にある嵯峨薬師寺と1880年に合併して廃寺、今はここが小野篁卿の遺構。

 

小野篁卿、生の六道の石碑。

死の六道、生の六道。今は言葉が出てこない。

 

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さて、父のお墓参り。亀岡への国道9号線の老ノ坂峠へ。

父は祖父・祖母・ご先祖と違う墓地なので、スクーターはたいへん便利🛵。

 

「父さん、きたよー!」

父は私が結婚する前に亡くなった(63歳出直し)ので、妻と3人の子供を知る由も無い。

 

もう少し生きていてくれたらなぁ。というか、もうどこかで出直してる?

どこかで見守ってくれていると信じてるよ。遠方で頻繁にお墓参りに来られないけど。

 

「父さん、またくるねー!」

「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。

 

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母と母方ご先祖のお墓参りへ。京都から奈良県磯城郡田原本町に。

母の分骨と、私が大好きだった祖母、そしてご先祖、

そしてマッチ箱の様な狭い貸家で一緒に暮らした3匹のマルチーズ犬のお墓のある教安寺。

 

最初、「母さん、きたよー!」

お墓参りが母の日だったので、カーネーションの墓花をお供えしたよー。

 

私には、母は間違いなく、どこかで見守ってくれているように思えるのです。

何かにつけ、感じる時がある。

分骨の片方は自宅で、妻が毎日、水をお供えしてくれています。感謝ですね。

 

「母さん、またくるねー!」

「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。

 

次は、大好きだった祖母とご先祖のお墓参り(お墓の画像は撮影していない)。

 

「おばあちゃん、ご先祖さま、きたよー!」

田原本の祖母がいなかったら、私、既に冥界に行っていたかもしれない。

「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。

 

そして3匹のマルチーズ犬、アイコ・パク・ポンのお墓参り。

「アイコ、パク、ポン、来たよー!」

慈愛に満ちた優しい愛情を与えてくれました。母さんのそばで飛び跳ねてる?

 

「ありがとう。また会いにくるよー!」

「俺、60歳になったよ。家族共々これからもよろしくおねがいします。」

 

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埼玉への帰路、父の兄弟の長男夫婦のお墓参りへ。

私の伯父と伯母。私の親の離婚で、小学4年生の私を引き取ってくれたかもしれなかったご夫婦。

お二人とも苦労人。だけど現在の子、孫達のあたたかい家庭の土台を築いた努力人。

 

「おじいちゃん、おばあちゃん、きたよー!」

「私、還暦を迎えることが出来ました。いつもあたたかく迎え入れてくれて、ほんとうにありがとう。

 これからも家族共々、よろしくおねがいします。またくるからねー」。

 

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父の兄弟の弟である、叔父のお墓参りにも行きました。

京都・奈良への墓参にさきがけてお参りをしました。

叔父も苦労人。でも、明るい性格でポジティブ。とても思いやりのあるあたたかい人でした。

 

離婚で父親がいなかった私は、20歳前後から30歳前後までしょっちゅう叔父の家へ

泊りに行っていました。あたたかった、叔父の家庭。その頃の私は捨てられた犬みたいでしたから。

 

叔父の家庭が無条件に受け入れて包容してくれたお蔭で、私、立ち直れました。時間はかかったけど。

私には、私を救ってくれた人達が、本当にたくさんいます。ありがとう。感謝してもしきれない。

 

叔父にももう少し生きていてほしかった。父と同じで、私の結婚前に出直し(亡くなる)しました。

妻と3人の子供を連れて、叔父に会いに行きたかった。

 

「おじさん、きたよー!」

「私、還暦になりました。いつもあたたかく迎え入れてくれて、ほんとうにありがとう。

 これからも家族共々、よろしくおねがいします。またくるからねー」。

 

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還暦を健康で迎えることが出来、今回の旅でこころに残るとても良いお墓参りができました。

ご先祖の皆さま、ほんとうにありがとうございます。家族共々これからもよろしくお願いします。

 

さて、私も旅の冥界から戻らなくては。

 

 

 

 

 

 

 

 


私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて⑤

2024年05月22日 | 旅行記

私はライダーです。現在は125ccの原付2種スクーターに乗っています。

 

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

それに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

道中、歴史的町並みの保存・整備・活用を行っている

《重要伝統的建造物群保存地区》(Wikipediaによる説明はこちら)を訪ね、

歩き、見て感じ、観じ、豊穣のひとときを過ごしていました。

 

【全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)】ホームページはこちら

長いので『重伝建』とか『伝建地区』と言う人が多いようです。

 

今回の旅で訪れた重伝建地区。

北国街道海野宿(長野県東御市)→旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

→旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)→越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

→越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)→白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

郡上八幡重伝建地区(岐阜県郡上市)→美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)→東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)→若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

小浜市小浜西組(福井県小浜市)→南丹市美山町北(京都府南丹市)→京都市産寧坂地区(京都市東山区)

京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)→宇陀市松山(奈良県宇陀市)→旧東海道・関宿(三重県亀山市)

名古屋市有松(名古屋市緑区)→焼津市花沢(静岡県焼津市)→早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)。22の歴史的町街並み。

 

《白川郷・五箇山の合掌造り集落》は、世界文化遺産(文化庁によるHPはこちら)。

 

 

今回は【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を巡りて④】の続編。

 

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宇陀市松山(奈良県宇陀市)

 

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旧東海道・関宿(三重県亀山市)

今回2024年(アドレス125🛵)と、2022年(アドレスV125G🛵)に訪れた時の画像。

 

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名古屋市有松(名古屋市緑区)

 

 

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焼津市花沢(静岡県焼津市)

 

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早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

 

 

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甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)

                                                                                       

 

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エンジンを切り、ヘルメットも脱ぎ、スクーターを押し乍ら、静かに街並みを歩く。何度も。

私の遊学。文字通り『遊びながらの学び』。

 

感性が澄んでいく。心地いいなぁ、ずーっと居たいなぁ、と思う。

良いものです。自然環境と共生した、自然素材によるヒューマンスケールの街並みでの滞在。

感覚を錯乱させるノイズが殆ど無く、やわらかく抱かれる。こころが癒され、なごみ、ほっこりします。

 

いにしえの日本人が作って来た日本の美しい街並み、景観。

現在や未来の街並み作りに是非活かして欲しいと、私は切に願っています。

 

【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて①②③④⑤】完。

 

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【旅の記録】

日程  :2024年5月6日~2024年5月15日(10日間) 

走行  :2035.3km スズキ・アドレス125スクーター 燃費概算58km/L

     全行程一般道路 自動車専用道路(高速道路等)走行不可

燃料費 :ガソリン代5591円

 


私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて④

2024年05月20日 | 旅行記

私はライダーです。現在は125ccの原付2種スクーターに乗っています。

 

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

それに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

道中、歴史的町並みの保存・整備・活用を行っている

《重要伝統的建造物群保存地区》(Wikipediaによる説明はこちら)を訪ね、

歩き、見て感じ、観じ、豊穣のひとときを過ごしていました。

 

【全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)】ホームページはこちら

長いので『重伝建』とか『伝建地区』と言う人が多いようです。

 

今回の旅で訪れた重伝建地区。

北国街道海野宿(長野県東御市)→旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

→旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)→越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

→越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)→白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

郡上八幡重伝建地区(岐阜県郡上市)→美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)→東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)→若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

小浜市小浜西組(福井県小浜市)→南丹市美山町北(京都府南丹市)→京都市産寧坂地区(京都市東山区)

京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)→宇陀市松山(奈良県宇陀市)→旧東海道・関宿(三重県亀山市)

名古屋市有松(名古屋市緑区)→焼津市花沢(静岡県焼津市)→早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)。22の歴史的町街並み。

 

《白川郷・五箇山の合掌造り集落》は、世界文化遺産(文化庁によるHPはこちら)。

 

 

今回は【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を巡りて③】の続編。

 

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若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

 

 

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小浜市小浜西組(福井県小浜市)

 

 

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南丹市美山町北(京都府南丹市)

 

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京都市産寧坂地区(京都市東山区)

 

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京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)

 

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エンジンを切り、ヘルメットも脱ぎ、スクーターを押し乍ら、静かに街並みを歩く。何度も。

私の遊学。文字通り『遊びながらの学び』。

 

感性が澄んでいく。心地いいなぁ、ずーっと居たいなぁ、と思う。

良いものです。自然環境と共生した、自然素材によるヒューマンスケールの街並みでの滞在。

感覚を錯乱させるノイズが殆ど無く、やわらかく抱かれる。こころが癒され、なごみ、ほっこりします。

 

いにしえの日本人が作って来た日本の美しい街並み、景観。

現在や未来の街並み作りに是非活かして欲しいと、私は切に願っています。

 

【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて⑤】へ続く。

 


私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて③

2024年05月19日 | 旅行記

私はライダーです。現在は125ccの原付2種スクーターに乗っています。

 

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

それに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

道中、歴史的町並みの保存・整備・活用を行っている

《重要伝統的建造物群保存地区》(Wikipediaによる説明はこちら)を訪ね、

歩き、見て感じ、観じ、豊穣のひとときを過ごしていました。

 

【全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)】ホームページはこちら

長いので『重伝建』とか『伝建地区』と言う人が多いようです。

 

今回の旅で訪れた重伝建地区。

北国街道海野宿(長野県東御市)→旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

→旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)→越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

→越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)→白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

郡上八幡重伝建地区(岐阜県郡上市)→美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)→東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)→若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

小浜市小浜西組(福井県小浜市)→南丹市美山町北(京都府南丹市)→京都市産寧坂地区(京都市東山区)

京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)→宇陀市松山(奈良県宇陀市)→旧東海道・関宿(三重県亀山市)

名古屋市有松(名古屋市緑区)→焼津市花沢(静岡県焼津市)→早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)。22の歴史的町街並み。

 

《白川郷・五箇山の合掌造り集落》は、世界文化遺産(文化庁によるHPはこちら)。

 

 

今回は【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて②】の続編。

 

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郡上市郡上八幡北町(岐阜県郡上市)

 

 

 

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美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

 

 

 

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彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)

 

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東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

 

 

 

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近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)

 

 

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エンジンを切り、ヘルメットも脱ぎ、スクーターを押し乍ら、静かに街並みを歩く。何度も。

私の遊学。文字通り『遊びながらの学び』。

 

感性が澄んでいく。心地いいなぁ、ずーっと居たいなぁ、と思う。

良いものです。自然環境と共生した、自然素材によるヒューマンスケールの街並みでの滞在。

感覚を錯乱させるノイズが殆ど無く、やわらかく抱かれる。こころが癒され、なごみ、ほっこりします。

 

いにしえの日本人が作って来た日本の美しい街並み、景観。

現在や未来の街並み作りに是非活かして欲しいと、私は切に願っています。

 

【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて④】へ続く。

 

 


私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて②

2024年05月18日 | 旅行記

私はライダーです。現在は125ccの原付2種スクーターに乗っています。

 

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

それに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

道中、歴史的町並みの保存・整備・活用を行っている

《重要伝統的建造物群保存地区》(Wikipediaによる説明はこちら)を訪ね、

歩き、見て感じ、観じ、豊穣のひとときを過ごしていました。

 

【全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)】ホームページはこちら

長いので『重伝建』とか『伝建地区』と言う人が多いようです。

 

今回の旅で訪れた重伝建地区。

北国街道海野宿(長野県東御市)→旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

→旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)→越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

→越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)→白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

郡上八幡重伝建地区(岐阜県郡上市)→美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)→東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)→若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

小浜市小浜西組(福井県小浜市)→南丹市美山町北(京都府南丹市)→京都市産寧坂地区(京都市東山区)

京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)→宇陀市松山(奈良県宇陀市)→旧東海道・関宿(三重県亀山市)

名古屋市有松(名古屋市緑区)→焼津市花沢(静岡県焼津市)→早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)。22の歴史的町街並み。

 

《白川郷・五箇山の合掌造り集落》は、世界文化遺産(文化庁によるHPはこちら)。

 

 

今回は【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて①】の続編。

 

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旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

 

        

 

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旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)

 

 

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越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

 

 

 

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越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)

 

 

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白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

 

 

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エンジンを切り、ヘルメットも脱ぎ、スクーターを押し乍ら、静かに街並みを歩く。何度も。

私の遊学。文字通り『遊びながらの学び』。

 

感性が澄んでいく。心地いいなぁ、ずーっと居たいなぁ、と思う。

良いものです。自然環境と共生した、自然素材によるヒューマンスケールの街並みでの滞在。

感覚を錯乱させるノイズが殆ど無く、やわらかく抱かれる。こころが癒され、なごみ、ほっこりします。

 

いにしえの日本人が作って来た日本の美しい街並み、景観。

現在や未来の街並み作りに是非活かして欲しいと、私は切に願っています。

 

【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて③】へ続く。

 

 


私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて①

2024年05月17日 | 旅行記

私はライダーです。現在は125ccの原付2種スクーターに乗っています。

 

令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、

それに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。

還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。

 

過去記事【ソロ・バイクツーリング、私の旅】のその後、2024年編。

 

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気を付けて行ってきまーす( 'ᴗ' )و

妻におにぎりを作って貰って出発!

2年前のお盆時期に同様のお墓参りツーリングをした際は、直射日光対策で白装束。

今回は日較差対策で、アウターに防水・防風・透湿素材のライダーウェアで旅に出た。

 

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道中、歴史的町並みの保存・整備・活用を行っている

《重要伝統的建造物群保存地区》(Wikipediaによる説明はこちら)を訪ね、

歩き、見て感じ、観じ、豊穣のひとときを過ごしていました。

 

【全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)】ホームページはこちら

長いので『重伝建』とか『伝建地区』と言う人が多いようです。

 

今回の旅で訪れた重伝建地区。

北国街道海野宿(長野県東御市)→旧中山道・奈良井宿長野県塩尻市

→旧中山道・妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)→越中五箇山・相倉集落(富山県南砺市)

→越中五箇山・菅沼集落(富山県南砺市)→白川郷( 岐阜県大野郡白川村)

郡上八幡重伝建地区(岐阜県郡上市)→美濃市美濃町(岐阜県美濃市)

彦根市河原町芹町(滋賀県彦根市)→東近江市五個荘金堂(滋賀県東近江市)

近江八幡市八幡(滋賀県近江八幡市)→若狭街道(鯖街道)・熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)

小浜市小浜西組(福井県小浜市)→南丹市美山町北(京都府南丹市)→京都市産寧坂地区(京都市東山区)

京都市嵯峨鳥居本(京都市右京区)→宇陀市松山(奈良県宇陀市)→旧東海道・関宿(三重県亀山市)

名古屋市有松(名古屋市緑区)→焼津市花沢(静岡県焼津市)→早川町赤沢(山梨県南巨摩郡)

甲州市塩山下小田原上条(山梨県甲州市)。22の歴史的町街並み。

 

《白川郷・五箇山の合掌造り集落》は、世界文化遺産(文化庁によるHPはこちら)。

 

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海野宿へは旧中山道ルートではなく、国道299→国道462を行く🛵。

志賀坂峠にて。埼玉県からトンネルを抜け、群馬県へ。

 

520人の死者を出した1985年8月12日の《日本航空123便墜落事故》の

慰霊の園(墜落事故の慰霊塔と納骨堂)のある群馬県多野郡上野村にて、旧黒澤家住宅を訪れた。

 

群馬県多野郡上野村による旧黒澤家住宅の説明はこちら

 

十石峠を越える。群馬県から長野県へ🛵。

十石峠はWikipedia(の説明はこちら)によると、『かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、

信州佐久盆地から一日十石の米を運び込んでいた道であることからこの名がつけられたとされる』らしい。

 

十石峠を下り佐久盆地に出て、雄大な風景の中を走り、旧中山道の宿場町だった望月宿へ。

佐久市観光協会の散策マップpdfはこちら。旅籠「大和屋」の真山家住宅は国の重要文化財。説明はこちら

 

そして夕刻少し前に、ついに重伝建地区の北国街道海野宿(うんのじゅく・長野県東御市)へ。

 

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エンジンを切り、ヘルメットも脱ぎ、スクーターを押し乍ら、静かに街並みを歩く。何度も。

私の遊学。文字通り『遊びながらの学び』。

 

感性が澄んでいく。心地いいなぁ、ずーっと居たいなぁ、と思う。

良いものです。自然環境と共生した、自然素材によるヒューマンスケールの街並みでの滞在。

感覚を錯乱させるノイズが殆ど無く、やわらかく抱かれる。こころが癒され、なごみ、ほっこりします。

 

いにしえの日本人が作って来た日本の美しい街並み、景観。

現在や未来の街並み作りに是非活かして欲しいと、私は切に願っています。

 

【私の旅・2024お墓参り《重要伝統的建造物群保存地区》を廻りて②】へ続く。

 

 


ソロ・バイクツーリング、私の旅

2014年12月14日 | 旅行記

私は現在50歳ですが、17歳からライダーでして、今も現役です。

20代の若い頃の写真なのだけれど、今回記事はバイクに跨ってテント生活をしながら、日本中を旅してきた記録のほんの一部。

 

むき出しの自然に身を置く旅によって、間違いなく私は感性を研ぎ澄ませてきたように思います。

雨にも濡れず、暑さ寒さも感じず、風を感じることも、ほのかな自然の息吹も香りも嗅ぎ分けることの出来ないドライブでは、私は感動を得ることはなかったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天を屋根にいただいて、大地をすみかとする旅の日々。

 

山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし すなほに咲いて 白い花なり

種田山頭火

 

私にはこのような旅しか出来ませんでした。ですが、旅の日々は真に心の底から楽しく、愉しく、感動の毎日でした。

 

今も、子育てという大きな責任を果たしてリタイアした後、60代、70代、80代 (90代はいくらなんでも無理かな(^_^;)) になっても生涯現役ライダーとして、野山を駆け巡る旅をしたいと思っています。もちろん、徒歩旅も

 


思えば遠くへ来たもんだ

2007年01月08日 | 旅行記

20070107091714 七日正月。

我が家では、邪気を祓うといわれる七草粥を朝食で頂きました。そして、家族の無病息災をお祈りしました。

凧上げも家族でしたのですが、あまりの強風でクラッシュ!(;_;)

皆様のご家庭ではいかがお過ごしでしょうか。

さて、八日は成人の日。私は23年前に成人式を迎えました。私にとってそれは単なる通過点に過ぎませんでしたけれど…

今振り返ってみても、私は私なりの道を捜し求めては迷い、三歩進んでは二歩下がる様な生き方に身を置いて、”旅” をしてきた様に思います。様々な事があったけれど、それでも斜に構えるような事はせずに、一生懸命に上と前を向いて歩き続けてきました。

人間の成長には、やはり何らかの節目があり、転機、ターニングポイントというようなものがあります。それは子供の成長をよ~っく観察していると理解出来ます。(私の場合はスパイラルポイント?だった様に思っているのですが)

例えば、私が歩いてきた道…

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私は、20歳の時ではなくて、30歳の時に自分の人生を最も深く見つめていた様に思います。

論語・爲政第二 『子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩 』 も意識していました。

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人には、その人でなければならない生き方 ”も” あるわけです。

荘子・内篇・人間世篇第四の ”樗礫散木” あるいは ”樗礫之材” ですね。

『匠石之斉、至於曲轅、見櫟社樹。其大、蔽数千牛、絜之百囲。其高、臨山十仞、而後有枝。其可以為舟者旁十数。観者如市、匠伯不顧、遂行不輟。
弟子厭観之、走及匠石曰「自吾執斧斤以随夫子、未嘗見材如此其美也。先生不肯観、行不輟何邪。」
曰「已矣、勿言之矣。散木也、以為舟則沈、以為棺槨則速腐、以為器則速毀、以為門戸則液L、以為柱則蠹。是不材之木也、無所可用、故能若是之寿也。」
匠石帰。
櫟社見夢曰「汝将悪乎比予哉。若将比予於文木邪。夫柤梨橘柚果M之属、実熟則剥、剥則辱。大枝折、小枝泄。此以其能苦其生者也。故不終其天年而中道夭。自N撃於世俗者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣。幾死、乃今得之為予大用。使予也而有用、且得有此大也邪。且也、若与予也、皆物也、奈何哉其相物也。而幾死之散人、又悪知散木。」
匠石覚而診其夢。弟子曰「趣取無用、則為社、何邪。」
曰「密。若無言。彼亦直寄焉。以為不知己者詬厲也。」
「不為社者、且幾有翦乎。且也彼其所保与衆異、而以義誉之、不亦遠乎。」 』

……

私は、自分の息子と娘の命名に、荘子の世界観を一番意識して、名付けました。「名は体を表す」といいますが、まったくもって、その通りになってくれているようで、親としての重責を果たしているような気がします。お蔭様で、心の底から楽しませて貰って、子育てをさせて貰っている次第ではありますが…(^-^)v

よくいわれる様に 「世間のレールに乗る事」 は人生です。でも、自分の人生を捜し求めてレールを外れた旅に出てみることも、人生です。私は ”旅行” ではなくて、 ”旅” をしている人が大好きです。

そういう訳で、今年も私は、私の歩幅・ペースで、歩いて行く ”旅” を続けてまいります。