心にうつりゆくよしなしごと / 小嶋基弘建築アトリエ

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日本の建築から① 京都町家

2006年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

”知識ヲ世界ニ求メ”、日本に帰ってくる。それを繰り返すことで日本も世界ももっともっと理解出来るようになる。

グローバル化の中にあっても、決して”マネトリックス”はしないでいたい。私自身でありたいし、私達自身でありたいから。

他人や他国の真似ばかりして、後ろ指差されながら笑われているのが分からないのですか?或る日本の人々へ。

05/05/30に、【私の原風景のひとつ】のタイトルでブログに足跡を残しましたけれども、今回もまた、”私の原風景のひとつ”。それは、ここで暮らした日々が”三つ子の魂百まで”として、私にとって、かけがえのない愛された時間であり、空間であり、私という人間の一部だからです。私には、今でもスーッと、40年程前へ時間を遡る旅をすることが出来るんですね。

あなたが生まれ育った生家はまだありますか?街並みはまだありますか?住宅や街並みというのはネ、タイムマシンに成り得るものなのだと私は思っています。平均寿命26年の住宅と、秩序も調和も魅力も無い街並みの環境で暮らしていて、いったい人の心に何が宿るのでしょう?便利さだけが魅力なのでしょうか…

そして今回、もうひとつ発信しておきたいもの。それは、この住宅建築を設計して施工(木工事)し、統括して”デザイン”したのは、京都の”町大工”であるということ。一級建築士の名義を借りたような”デザイナー”や木造無知の”建築家”が、構造の事を何も知らないで設計というかデザイン(間取りの現実)して、その図面をただ単に大工が実際の形にしたものではありません。

ここで、現在ほとんどの一般人(業界人もそうですけど…)が思い込んでいると思われる図式→【設計者≠大工、大工による設計=野暮】が全てではないことを知って頂きたいのです。

むしろ、京都の町家を知っている者からすると、今何処にでもいる”デザイナー”や”建築家”の遠く及ばない次元で、洗練された美の世界と住まいの文化を大工が創造していることが一目瞭然なのですよ。もちろん、それには審美観の極めて優れた建築主である”旦那衆”の粋なはからいがあってのことなのですけれども。

【…『自分の家を、自分で設計して、自分で墨付けをして、自分で刻んで、そうして建てたい』と考えて、自分で家を建ててしまう人は田舎暮らしの本などには時々紹介されてますが、それでいい家が出来たという話は知りません。…】という認識の方がもしいらっしゃるようでしたら、なおさら是非、京都の町大工の仕事をご覧になって頂きたく存じます。

いや、京都だけではありません。今や極少数だとは思いますが、設計・施工に気概を持って、地域性に配慮し、環境に溶け込み、意匠・強度・耐久性等に真摯な仕事で答えていらっしゃる棟梁が、まだ日本にはいらっしゃるのです。私もそうありたいと、日々研鑽を積んでいます。

さて、画像は、【京都町家 色と光と風のデザイン】吉岡幸雄・著 講談社・刊 定価2310円から。

建築の専門書ではありませんので、難解な専門用語や文章も無くて(私自身のHPについては反省m(_ _ )mしています)、黒田一成さんの写真がご覧の通り、スーッとここの世界へ扉を開いてくれています。ちなみに私が住んでいた町家ではありませんので…

『京都の町の古い佇まいを残す人人にお会いしてみると、やはり、環境というものが人を育てているということを強く感じないわけにはいかない。住まい、あるいは商いをする空間であっても、やはりその土地の自然風土というものがあり、そこに街としての長い歴史が蓄積されて、形成されていくのである。

単に守るということではなく、木と土壁と和紙からなる日本の住まい、そこを私たちが訪れて、それが一、二時間というわずかな時間であっても、心地よくしてくれるのはなにか。いつもそう思うのである。ほのかな心地よい風と光、そしてそこに住んでいる人の心までなごやかにしてくれるのが、京都の町家のような気がするのである。』(本文148ページより抜粋)…帯の裏面より。

画像にあるのは坪庭(つぼにわ)といいます。まるで映画の一風景のようでしょう?町家ごとの差異はもちろんありますけれども、このような住環境に京都の人々は暮らしてきたのです。毎日24時間、一年365日。

ここでは自然と敵対するというか、高気密住宅の様な『自然とは克服しなければならない対象』では一切ありません。自然を大らかにやんわり受け入れて、四季と寄り添いながら日々の暮らしをいとなんできたのですね。”何か”を感じないで育たない方がおかしいと思えるような、美しい空間を内包しているのです。

 

そこでもう一冊。

画像は、【数寄町家 文化研究】 上田篤・野口美智子(編)/鹿島出版会 絶版から。

こちらは専門書でして、私が文化学院在学中に勉強したものです。保管が乱雑極まりなくて、ありゃりゃ、何か薬品でカバーが汚れてしまっていますね。

専門書なので、一般の方にはたいへん読みにくいと思いますけれども、京都の町家を勉強するのであれば、面白いです。その空間の文化的背景や成立過程等に踏み込めなければ、ただ単に”マネトリックス”になってしまいますしね。本質に迫れない以上、空間に時間軸を旅する魅力は宿らないでしょう?

 この表紙の裏、背?っていうのでしたっけ?から。

【京都は文化の都市といわれる。そこにあるものは、一本一草にいたるまで、日本文化の佇まいを残している。だが、京都が日本文化の宝庫のようにかんがえられるためには、それらをいれる具体的な容れ物がなければならない。その役割をはたしたのが、町家の奥のコザシキであった。

京都は、西陣・室町をはじめとする商工業の町であるが、ここでは、昔から、いつまでも家業にいそしんでいるのをよしとしない風潮がある。俗言にも「銀持(かねもち)、分限者(ぶげんしゃ)、能衆(よいしゅう)」という三階級があり、京都の文化をささえてきたのは、じつはこれら分限者や能衆であった。

これらの旦那衆の芸時などを通じて、町家の奥のコザシキは、色町のザシキや歌舞練場、そして南座の晴舞台にまでも、文化的につながっていたのである。つまり、日本の町家とは、たんに商人の住居や商いの場にとどまらず、ひとつの社会の文化をささえる装置として機能してきたものなのである。

そのような視点にたって、本書では、日本における数寄の空間の歴史的変遷を探り、露地、壁、窓、にじり口、床、茶花など、数寄の空間を代表するエレメントについて分析している。さらに、京都の町家と会津喜多方の蔵座敷における数寄の空間について、それぞれ事例調査結果を報告し、さいごに、文化空間としての現代住居のあり方を展望している。】

…『百聞は一見にしかず』ですね。京都では、【京都町家 色と光と風のデザイン】で紹介されている町家の一般見学も行っていると思いますので、興味ある方は是非ご覧あれ。本当に素敵で、びっくりしますよ~♪

”知識ヲ世界ニ求メ”の”世界”って、実は”自分以外のこと”なのでしょうね。やみくもに海外に行かなくても、日本国内でも、本当に素晴らしい”世界”ってありますでしょう。

今日は子供との遊びで、ヘトヘトに疲れきりました。明日、杉の未乾燥材の墨付けと工作で重くて重くて”へばる”ので、もう休みます。気が重いなぁ~(;_;)


世界の建築から② ギリシャ・ロドス島リンドス

2006年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

”知識ヲ世界ニ求メ”ましょうね~♪

画像は、【Greek Style】Suzanne Slesin(著)、Stafford Cliff(著)、 Daniel Rozensztroch (著)、 Gil De Chabaneix(著)、Clarkson N.Potter,Inc./Publishers刊より。洋書で購入出来ますよ~♪

中央がエーゲ海南東部の12の島々(Dodekanisa)の中心ロドス島(Rodos is.)リンドス(Lindos)です。私はギリシャをまだ訪れたことがなくて、この本や、ギリシャ観光省-ギリシャ政府観光局HPで想いを馳せています。

私が初めてギリシャを明確に意識したのは、今から20年程前、文化学院在学の時でした。当時の講義で、昨年閉幕した【EXPO 2005 AICHI JAPAN  愛・地球博】の長久手日本館をデザインされた彦坂裕氏が講師として、様々な建築・都市・環境etc.について教鞭をふるってくれた時のスライドで知ったのが最初です。

『ヒューマン・スケール』というキーワードで建築・都市・環境etc.を紐解いていく講義内容だったのですが、標準的な現代日本の建築・街並み・都市景観etc.に、えも言われぬ居心地の悪さを当時から皮膚感覚的に感じていた私にとって、彦坂裕氏のいう『ヒューマン・スケール』は、ぼやけていたものに焦点が合ったような、『ハッ!』と指標を見つけたような気がしました。

20世紀になって登場したモータリゼーションの発達は、建築・街並み・都市景観etc.から、どんどん人間的なスケール感覚を奪っていきました。経済効率全能主義下での機能分化の先鋭化と相まって、こと日本では子供が自由に遊べる”原っぱ”すら消失してしまっています。私が子供の頃でもまだ”原っぱ”はたくさんありましたよ。

例えば私の父によると、京都では清水寺の境内で自由に野球をやったり、旧市内 ♪まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき しあやぶったかまつまんごじょう せきだちゃらちゃらうおのたな ろくじょうさんてつとおりすぎ ひっちょうこえればはっくじょう じゅうじょうとうじでとどめさす♪ のすぐ外は、一面の葱畑だったそうです。そう遠くない過去の話です。

20世紀都市の血管・大動脈として道路があり、高機動性高速大量輸送機関である自動車こそが経済至上主義下での最大合理主義であり、よって、都市は自動車をスケール(ものさし)として再開発しなければ豊かになれない、というテーゼで突っ走ってきた戦後の日本。

私はそれを100%否定し拒絶するものではありませんけれども、そのアンチテーゼとして、モータリゼーションから距離を置く、例えばエーゲ海に浮かぶ島の白亜の街並みの人間的なスケール感覚を、20世紀以降は大切にしていかなければならないのではないか、と思っています。豊かさのために。

ありていに申し上げて、私は今の日本の都市を美しいと感じたことは一切ないのですよ。優等生的体裁の良さは感じるのですけれども、イタリアのような魅力からは残念ながら程遠い。ですが、江戸時代から続く旧市街・町並みにはイタリアを訪れていた時に感じていたものと同じような種類の居心地の良さや美を感じるのです。

大変乱暴ですが、もっともっと、多くの日本人が、例えばイタリアの街を訪れるようになれば、日本の街もきっと魅力溢れるものになるのではないか?『奇跡の街、ヴェネツィアを見ないで死んだらダメですよ~ (^0^)凸』

良かれ悪しかれ、戦後日本は、全ての面でアメリカをお手本としたのではないか?住宅にとどまらず、都市景観や街並みについてでさえ、ニューヨークやビバリーヒルズこそが最上級のお手本だったのではないか?そんな思いにかられます。

ビバリーヒルズに住人同士のコミュニティって、あるのでしょうか?六本木ヒルズには? コミュニティが嫌だから”…ヒルズ”に入居したいのでしょうから、この問いは意味ないか。そもそも『富と名声こそが人生の全て』であるとの人生哲学を持った方々の”お城”(竜宮城かな?)なのでしょうし、そういうイメージ戦略を仕掛ける者の青写真を忠実にトレースしている方々の自己顕示ゲームの舞台なのでしょうからね(^-^)v

(^-^)『谷底にあるのにヒルズ名乗るビル』 埼玉 増丘邦千代 作  仲畑流万能川柳/毎日新聞4月12日朝刊・(^-^)印(本日の秀逸作品)より。私は朝から笑ってしまいました (^▽^)

例えばイタリアの広場”Piazza”には、たくさんの陽気で気さくな人達が集い、、FIFAワールドカップ・サッカーや屋外音楽会やストリートパフォーマンスetc.の喜怒哀楽を時を忘れて大勢の仲間と一緒に楽しむことの出来る豊かさがあり、彩り豊かに開催されるバザーや、教会の鐘の音さえ、いつ行ってもそこにいる人々全てが皆主人公になれる都市の中の素敵な”居場所”があるのですよね。映画『ローマの休日』はアメリカで1953年の公開の永遠の名画ですけれども、2006年にローマへ行っても映画と全く同じ街並みですよ!見てみて!

日本の現実は、こと住宅街についていえば、右隣はイギリス風、前は和風、左隣はアメリカ風、裏は地中海風、そのまた隣はスペイン風そのまた隣はコストダウンのおかまいなし分譲、そのまた隣はフランス風、そして自分の家は…、外壁にも屋根にも外構にも、カンバスに全ての絵の具をぶちまけたようなグロテスクな満艦飾…という感じの、全く街並みに秩序や調和が無いこと。それは”多様性”という美辞麗句では決してなく、無秩序、無計画の域のもの。なぜなら地域性、気候風土、街並み、全て無視ですものね。

街並みって、本来は公(public)であって、みんなのものであるはず。でも日本の自由って、そういうことのようです。この無秩序性は、ひとたび例えばヨーロッパ諸国のそれを実際に目にして体験してしまうと、時に苦痛にすら思えてしまうことが多くの人に共通する意見のようなのですが…。アジアでは、乱雑、混沌さえもが秩序や調和とすることがマジョリティなのでしょうか?

日本では住宅街=住宅展示場なのですよね。本来住宅展示場というのはマトリックス(仮想現実)であるはずが、シュミレイテッドリアリティとしての作用を及ぼし、そこを訪れて出てきた人々の多くの脳へ”マネトリックス”であることを良しとする認識作用を促しているかのように思えます。住宅展示場やハウスメーカーのカタログって、欲する者の”夢”をたいへんくすぐるし、実に購買意欲を刺激しますものねぇ。或る意味で、”麻痺”させられて帰ってくる”住宅おとぎの国”でもあるようです。

私は、子育てが終わったら、”おとぎの国”ではないギリシャ、行こう!あ、イタリアも!


世界の建築から① カンピドリオ広場

2006年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

『大工の手仕事』というタイトルでHPを作成している私ではありますが、大工もネ、”五箇条のご誓文”での”知識ヲ世界ニ求メ…”にちなんで、世界の建築を知った方が良いと思いますヨ。

私の場合、建築デザイン(何度も繰り返しますけど、何も奇抜な意匠を指して”デザイン”なのではなくて、構造もデザイン、空気の流れ方もデザインなのですよ)が本来の専攻なのですが、世間一般ではどうも”木組み=宮大工”のイメージがあるようでして、私が設計した場合、どうも”コテコテの入母屋建築”を建てられそうな印象を持たれているようです。

(私は入母屋造りは本来仏様の住まいの為の建築様式であって、人間の住まいにはよほど注意しないと、採用しない方が良いのではないか…と考えているのですけれど。)

私の表現が足りないのでしょうね。

どうも、京都の数寄町家をご体験されていらっしゃらない方からすると、パンフレット等での私の表現は具体像がイメージしにくいようです。

いつか、ブログでもご紹介したいと思いますが、京都の数寄町家の洗練さは、私が学習してきた建築のなかでも(もちろんまだまだ私も勉強途上ではありますが、決して不真面目に学習を怠ってきたということは無かったと自信を持って言えます。それは現在建てられている住宅、ハウスメーカーのものも含めて)、大変優れているものだと確信しています。

これほどまでに、土地・地域性を考慮し、空間の造形に美への昇華を込めた住まいは、例えいかなるテクノロジーを駆使出来るようになった現代に於いても、そう比肩しうるものは皆無であると思っています。

と、前置き?が大変長くなりましたけれども、”知識ヲ世界ニ求メ”まして、今回ご覧頂きたいのはイタリア・ローマにあります、カンピドリオ広場(Piazza del Campidoglio)、その夜景です。

Piazza_del_campidoglio_1

設計は”あの”ミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日)。素晴らしいですね。ちなみに英語の「Capitol」は、古代ローマの「カンピドリオ(ラテン語:Capitolinus Mons)」から由来しているそうです。

イタリアって、とっても魅力的で、大好きなんですよね。ひょっと、路地を曲がるとミケランジェロやダビンチが現代にもこうして脈々と息づいているなんて、素敵だと思いませんか?

日本のように、すぐ壊して新しいものに作り変えるような風潮では、決してイタリアのような文化先進国に追いつけないばかりか、魅力ある都市や街、建築には永遠に成り得ないでしょうね。何しろ『スクラップ&ビルド』で、住宅の平均寿命が26年なのですから。

日本も一日でも早く、住宅や町並み、都市景観を経済政策一辺倒から文化政策へとシフトしてくれることを、願って止みません。

イタリアのような文化先進国に行って見て観て体験してみて下さい。もう泣きたくなる位、感動で『フォー!』ですから(笑)  (^-^)v


京都中川・北山杉資料館

2006年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

私には、赤ちゃんの頃から彼女の実の息子同様に私に愛情を掛けて来てくれた叔母が、今も京都にいます。

ちゃきちゃきでハイカラで、たいへんおしゃれなその叔母は、とってもチャーミングで行動的。

私はそんな叔母が大好きなんですよね。

私の生い立ちのアルバムには、確か『大丸さん』(京都では何故か”さん”付けで名称を言うことが多くて、大丸デパートのことを『だいまるさん』と言うのですよ)だと思うのですが、屋上で私を『う~んっ(^3^)/』と抱っこしてくれているセピア色になったモノクロ写真が貼ってあります。私の宝物のひとつなんですよね~♪

ここへは、その叔母に案内して貰って、父親がまだ生きていた頃に訪れたのが最初。叔母の行動半径の広さは感心モノで、ここのどなたかと付き合いがあるらしく、京都中川・北山の情緒と精進料理でもてなしてくれたのがつい昨日のよう。

空気が澄んで、山も水も空も透き通るようなひんやりとしたたたずまいです。京都は30分もクルマで走ると澄んだ自然に分け入れるところが良いんですよね。

今、私の仕事で扱いも多い”磨き丸太”の総本山?がここですね。京都はやはり、文化的土壌が東京とは異なります。有機物をいとおしく大切にしているというか、八百万の神に今も畏敬の念を抱き続けながら、日々の暮らしを送っているというか…

 

さて、ひとえに”磨き丸太”といっても、いろいろあるのですよね。

 

これ、杉です。杉の産地は数多いけれど、台杉を生産しているのはここだけかな。

大変手間をかけて育てているんですよね。詳しくは、こちらのホームページ【京都北山 ~北山杉のふるさと中川~】をご覧になってみて下さい。

 

ところで、この資料館には目の玉が飛び出るような(◎_◎)一本の木が幾つもあります。皆さんも、もし京都中川へ行かれることがありましたら、ぜひ一度ご覧になってみて下さい。

 

木造建築界の”大間のクロマグロ”とでも申しますか、いやはや、天然モノはやっぱり凄いわ!

でもネ、”ホンモノ”を見て体験してこそ人間の感性は研ぎ澄まされて磨かれていく訳ですから、感性を磨く為にはネ、”ホンモノ”を見なければダメですよ~。コストの為にはシックハウスの元凶であるホンモノを真似たニセモノの工業化建材を否定することは出来ませんけれども、人間の感性までも贋物漬けされているのに慣れてしまうと、…ネ。

ただここで、価格の高低ばかりに目を奪われることは大変に品の無いことです。

もちろん今回紹介した”天然絞り丸太”は例外中の例外として、汎用の磨き丸太といえども、だいたい一本3000円前後で購入出来る現在主流の4寸角杉柱(12センチ×12センチ×3メートルで節がたくさんある等級)のような価格では購入出来ません。ですけれども、”磨き丸太”や”面皮丸太”は現在でもさまざまなグレードを揃えて、空間に繊細な意匠を醸し出す銘木として、木造建築になくてはならない存在だといえます。

私は、個人的には木割りの細い繊細な感じのする意匠が好みなものですから、柱には小径の小さい面皮丸太が好きですね。磨き丸太・絞り丸太は濫用?は避けたいところです。それにしても、美しいですよ。部屋がとても格調の高いものになって、静謐な雰囲気に満ちたものになります。

モデュロールがヒューマンスケールであることに細心の注意を払い、細部をおろそかにすることなく設計を心掛ければ、素敵な空間になるでしょうね。間違っても現在主流の、建材の工業化モデュールに合わせた設計手法による、例えば天井高ひとつにしても、それ単体だけを見てただ乱暴に高いだけのものを設計するような手法では、居心地の良い空間にはならないでしょう。

大工の世界では、丸太が上手に扱えるというのは、腕の良さを物語っていることと同義語なのですが、設計についても同じことが言えるのではないでしょうか。