岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ひどい!「鳥獣保護員」を前にして講座「岩木山の野鳥」を…NHKギャラリー「岩木山の花々」始まる

2007-07-31 06:25:35 | Weblog
 ひどい話しだ!「鳥獣保護員」を前にして講座「岩木山の野鳥」をすることになってしまった。…
 講座受講者には年配の方々が多い。しかも、家庭に自分よりも年配の「父」なり、「母」を、時には両親や「舅・姑」を抱えている場合もある。本講座の受講者にあっては、初回から参加している者にとりわけその傾向が強かった。
 そのような家庭事情の中で、「受講」するということは、そのために日曜日の「午前から午後早く」まで、家を空けるということになるわけであり、特に、ほぼ寝たきり状態の「父、母、舅、姑」」を抱えていると、楽しいはずの講座が「気が気でない」時間ということになる。もちろん、誰もいない不在状態には出来ないだろうから、自分の兄弟や姉妹やその他の係累、または「介護者」に頼んで来ているのである。
 そのような事情を抱えながらの受講者が多かったである。何とか、これまで「工夫をして出来るだけ受講を続けてきたが、これ以上家に迷惑をかけられない」とか、または「これから私がその役割(介護等)を担うことになる」などいうことで、7月期(7.8.9月期)からは、3人の方が退会した。
 講座を担当する立場からは「定員を満たす受講者」数が望ましいのだが、このような「のっぴきならない事情」であれば、引き留めることは出来ない。何よりも自主参加が基本なので、無論端から「引き留める」ことはしないし、そうしたこともない。
 見慣れ親しんだ顔の「消えた」ことには一抹の寂しさがあったが、その逆もあるから、世の中や人生は楽しいのかも知れない。
 実は新人受講者が1名だけれどもいたのである。3-1で2名の「減」で済んだので、「歯が抜けていく」ような寂しい思いはいくらかは和らげられたように思え、気分も軽くなった。

 ところが、本当に「一寸先は見えない」ものである。新人受講者と名刺の交換をして、それを見た時、(私からは見えないが)私の顔は青ざめ、心臓が激しく動悸し、受け取った右手が小刻みに震えたのである。私は一心に平静さを装うしかなかったのである。
 前のブログに「果たしてどうなるか。不安でいっぱいである。」と書いたが、それがあたってしまったのだ。的中なのだ。恐ろしい。
 何と、その名刺には「青森県鳥獣保護員」とあったのだ。
 私は野鳥に関しては全くの素人である。それこそ「付け焼き刃」の勉強で何とか体裁を繕っている、野鳥についてよく知らない「門外漢」である。私などの「出る幕」ではないのだ。この主題での講座計画をした3ヶ月も前から、担当者の調整をしてきたのだが、人材は確保出来なかったという事情のため、「計画した者」のその責任ということで、私が講座を担当することになったのである。
 漫才に「高座に上がる」なり「止めて帰ろうよ」という人たちがいたが、まさにその気分であった。
 素人の私が「鳥獣保護員」を前にして「岩木山の野鳥たち」について「講話や解説」をするのである。これははっきり言って「漫画」にならない、冷や汗ものの「漫画」であったのだ。1時間半の講座、私は生きた心地がしなかった。
 だが、そこは「自然観察」のプロ(自画自賛というよりは負け惜しみからこう言っておこう)、講義中しっかりとこの人を観察していた。
 とにかくまじめで几帳面な方のようで、真剣にメモはとるし、渡されたプリント資料には、しっかりと目を通すし、鳴き声からの「聞きなし」を書き取るし、おおよそこちらが期待をして作り上げた、プリントや映像、音声などの講座内容を総合的に受け止めて、学習しているように見受けられた。
 私の心臓は「冷や汗的」な動悸から、次第に満足感からの、快いものへと変わっていった。
 その方は「オーバーヘッドプロジェクターで使用した写真も、鳴き声も、それにプリント資料もよく出来ている。大変興味深く学習出来た。」と言ってくれた。これは嬉しかった。案ずるよりも産むが易しということか…。
 
 今日の10時から、NHKギャラリー企画・写真展「岩木山の花々」が始まる。このことについては、本HP管理人の葛西さんにメールで案内画像を送ってあるので、まだのようだが、そのうちに「見やすい」ものが張り出されることになるだろう。また、看板や展示の一部も掲載してもらえるはずである。
 その設定準備を昨日の午前10時から始めて、午後3時まで、約5時間かけて終わった。始まる前から大分疲れ気味だ。展示写真数が多いということもその一因である。この写真数が多いということが予期しない「困った」事情を引き起こしてしまったのだ。これがまた、時間がかかり疲れたことにつながった。
 ギャラリーに設定されている「額縁」を吊すためのフック数は100以上あるのだが、それに引っかけて吊すためのワイヤー線ツールが、その数分ないのである。吊す箇所があるのに「吊せない」という状況に追い込まれてしまったのだ。
 ところが、これまた「案ずるより産むが易し」で何とかなったのだ。…がすごく疲れたのである。
 どうぞ、「岩木山、山の花旅」にお出で下さい。

参議院選挙とその他あれこれ

2007-07-30 07:32:06 | Weblog
 昨日、投票所には6時57分に着いたが、その時すでに20人ほどが並んで、投票所になっている部屋が開けられるのを待っていた。私はその最後尾についたが、その後もどんどんやってくる人がいた。その中に、毎回「この時間」の投票開始直前に投票に来るという人が何人かいて、口々に、または顔見知り同士で言っていた。
「今日は多いなあ。いつもと雰囲気が違う。なんだか政治が動く気配だなあ。そうなるみたいに感ずる。」と…いうような意味のことを言っているのだ。
 私も、こんなに早くから、こんなにたくさんの人が投票所に詰めかけるとは、「参議院選挙に対する関心の高い証拠」だろうと思った。
 投票を終えて、帰る道すがら、「関心が高いということは、国民が今の内閣や政府与党に不満や不信感を持って、嫌気がさして、もうイヤだ。変えないといけない。」と考え、それを「投票」という自主行為に託したのだろうと考えた。
 その結果は、昨晩の開票作業が始まると早々と出てきた。詳細は「新聞」等に任せることにして、ここでは触れない。

 「年金問題」など、国民にとっての「大問題」は山ほどある。
しかし、私が一番許せないことは、安倍さんの、特殊であり、非常に情念的な「価値観」を「数を頼み」に法制化して、国民に押しつけてくることである。これは小泉の手法や思考に似ている。小泉の5年間で日本は、その言動にたぶらかせられて質的に変貌した。
 安倍さんは「戦後レジームからの脱却」や「美しい国」などを唱え、何だか、戦前に逆戻りするような「憲法を変える」とか「教育基本法を変える」とか、まるで身分制度につながるような「格差拡大」を進めてきたが、これは言ってみれば「安部一族」という限られた、特殊な血縁集団の「価値観的な願望」であろう。
 このような動きには「安倍一族」が持ち続けている特権階級的な思い上がりが見え隠れする。
 この思い上がり的な願望を国民に押しつけることが、いかに民主国家にそぐわないことであり、国民からいかに乖離していることであるかに気がついていない。思い上がりや成り上がり者には、自分の行為や主張の非や矛盾が見えない。だから、気づこうともしない。
 そして、自民党などもそれに追随して、ほいほいと持ち上げ、数を頼みにどうにもならない「法律」を、強硬な手段で通してきた。
 不思議なのは、この安倍さんの手法や考え方に、自民党など政府与党は誰一人として「異を唱えなかった」ことだ。
 この「一族」の、平和とは逆方向に動こうとする願望を、何が何でもと、「国民」に押しつけられてはたまったものではない。今回の結果は、その現れだろうと思っている。

 もう一つ見えてきたことがある。それは「数を頼み」にする手法をとる割には、その数が「減って」も、そこに「重大さ」を感じないという矛盾を露呈したことである。実に潔くない。「盗っ人猛々しい」ということわざがあるが、それを感じさせる。何と、まだ総理大臣を続けるというのである。ここにも、国民を見ていない人格がよく現れている。彼の目には「一族」のことしかない。
 森鴎外の小説に「阿部一族」というのがある。簡単にいうと、「肥後藩主細川忠利の臣、阿部弥一右衛門が主君の死に追腹を切った前後の経緯を描き、意地のありかたを問う」内容だが、「安倍総理」では、到底「阿部弥一右衛門」にはなれまい。この小説名が「安倍一族」でなかったことにほっとしている。
 一国の総理たるもの、自己の器をよほど斟酌してかからないといけないものだということを肝に銘ずべきだ。「なりたい」だけで「総理大臣」になってもらっては困るし、そのような人を、総理大臣にしてはいけない。今回の参議院選挙の結果は、そのことを国民の側が、鋭く「告発」したことに相違ないのだ。

 話しは変わる。
 昨日のNHK弘前文化センター講座「岩木山の野鳥」は心配していたが…好評だった。
 阿部会長(安倍ではない)も参加して、私の不足している部分を補足してくれた。特に、独自に編集した「写真と鳴き声」のコラボレーションが好評で、時々、受講者からは「歓声」と「嘆息」が漏れ聞こえた。
 このコラボレーションはやはり、1人でコンピュータを操作することには難があった。画像を2、3枚飛ばしてしまうというアクシデントもあった。

 今日は、10時から明日から始まる「ギャラリーNHK」企画展「岩木山の花々」の準備作業をする。かなりの量なので、幹事のSさんにお手伝いを願い、運んでもらうことにしてある。当然、展示準備の手伝いもしていただく。いつもお世話になり放しである。つくづく思うのである。一人では何も出来ないと。有り難いの一語に尽きる。

NHK弘前文化センター講座「岩木山の野鳥」…うまく出来るか?

2007-07-29 07:45:40 | Weblog
 今日の表記の講座は、私1人で担当する。前から何回も言っているが、私には「専門」などというものはない。単なる、「登山者」の1人に過ぎない。しかも、主に、「岩木山」をそのフィールドとしている「狭くて、低い」登山者である。
 私のことを「高度で、技術的にもハイグレードと自認し、しかも日本国内の山々を、もちろん百名山を含めて登り終え、時には海外の山にまで足を延ばしている」登山者(いや、失礼)登山家たちは、「低くて、狭い」登山者と呼んでいるようだ。
 つまり、「標高1625mという低山の岩木山にしかて登らず、周囲60kmに満たない狭い岩木山の中でうごめいていて、岩木山しか知らない」登山者だというのだ。
 いや~、ありがたい。そのとおりである。鋭くもあり、正しい観察である。
慧眼恐れ入るところであるが、最後の「岩木山しか知らない」という評価は、私に対しては買いかぶりだし、岩木山に対しては失礼なことだろう。
 
 岩木山とは私ごときが「何でも知るほどに、知り尽くすことが出来るような」浅くて薄い山ではない。その懐は深く、何百回登ってもその全容に触れることは出来ない。仮に、「岩木山とは何か」と問われて、なんと答えることが出来るか。答える百人には百様の答えがあるはずである。それはその深さと広さを示すものだろう。
 大きく分けると、岩木山には「自然的な側面」といわゆる人間との関わりである「人文・社会的な側面」がある。
 登山という行為も、何となく登っているのであれば「自然的な側面」のきわめて一部分との関わりで終わってしまう。それはあくまで「点」に過ぎない。若い頃の私はそうだった。自然のまっただ中に身を置きながら「自然を見よう」とはしなかった。
 たとえば、道すがら「聴こえる」野鳥の声を「聞く」ことはしなかった。その声は単なる「音」であり、「鳴き声や音色」ではなかった。私の「聴覚」器官である「耳」が何となく、勝手に「集音器」の役割をしていたに過ぎない。これだと、「自然的な側面」のきわめて一部分との関わりさえも放棄していることになる。
 このような岩木山との関わり方の中で、どうして「岩木山を知る」ことになろう。私にとっては、「岩木山とは知らないことだらけの山」なのである。そういう事実をもってとらえ直すと、それは「岩木山にとっては失礼なこと」になるはずだろう。

 今日の講座を私が担当することも、「岩木山と野鳥たち」に対して失礼なことの一つである。受講者に対しても失礼にあたることだが、失礼の度合いは「岩木山と野鳥たち」に対する方が強い。
 それは、野鳥についてよく知らない「門外漢」が担当することにある。
本会には「野鳥の会」のメンバーがかなりいる。私などが「出る幕」ではないのだが、こと講座に至っては、「受講者」を前にして解説したり、講話をしたりするには人様々で「得手不得手」がある。
いきおい、「何でもやりますが、その講座を担当することだけは勘弁して下さい。」
ということになるのだ。
 講座案内の計画をした3ヶ月も前から調整をしてきたのだが、人材は確保できないままで経過した。しかし、案内をしてしまった以上、しかも、受講希望者が定員程度に達している現況からも、無責任な「放棄」は出来ない。
 そのような訳で、「言い出しっぺ」というか「計画した者」というか、その責任というのか、私が今日の講座を担当することになった。
  
 10時30分から1時間半の講座である。
プリント資料として、岩木山で確認されている野鳥のリストに解説を付けたものをA4版4ページを作った。種類は92種である。野鳥について理解する上で必要な基本的な「用語」も付け加えた。
 オーバーヘッドプロジェクターで使用する写真も本会で蒐集してあるファイルから60種選んで、アイウエオ順に並べ、スライドショウ表示が出来るようにした。
 併せて、その順番に「鳴き声」も聞くことが出来るように編集した。これにはずいぶんと苦労したし、時間もかけた。本番でどうなるか。話しをしながら、コンピュターを「操作」することは、難しい。お手伝いがほしいところだ。
 さすが、「門外漢」のすることはやたらに、その量だけが「多く」なるものだ。
確固とした「基準」がないからである。
 果たしてどうなるか。不安でいっぱいである。

 さっき、参議院選挙の投票に行ってきた。投票開始と同時にと思い出かけたのだが、すでに20人ほどが並んでいた。毎回この時間に投票に来るという人が言っていた。
「今日は多い。いつもと違うみたいだ。」と…。

Computerを自作(聞こえはいいが単なる組み立て)する…時には人身御供となるかも?

2007-07-28 07:08:57 | Weblog
  先日のブログで「…だが、この「P5K Deluxe」でも大問題が起きてしまったのである。」と書いた。「P5K Deluxe」とはComputerの部品(なぜかパーツと言っている)のマザーボードのメーカー製品名である。
 8GBという「メモリー」をただの「ゴミ」にしないために、あえて購入した代物である。メモリーの相性問題はすんなりとクリアしたのだが、そのマザーボードのBios Updateを、メーカーが指示している方法で、「Windouws Vista」上で実行したら、「起動不能」となってしまったのである。これを「Bios Update」の失敗という。結果的には「失敗」に違いないが、「メーカーが指示」する方法で「した」失敗であるからには「メーカー」もその責任をとるべきだろう。
 Windows Vistaパソコンも使う必要があったので、新品の同一品である「P5K Deluxe」をもう1枚購入する羽目になってしまった。大損害である。
 これまで「自作」を続けながら感じてきたことの中に、メモリーの「相性問題」を含めて、「自作」には「人身御供」的な要素がつきまとうということがあった。特に私のように「理論的」に弱く、破れた板塀の補修に、その箇所に板をあてがってから「切って」はり付けるような輩(やから)にあっては、この傾向が強い。別な言い方をすれば、「無駄」な金を使っているということになる。
 今回の件もメーカーや代理店の対応は…
『P5K Deluxe/WiFi-APのBIOS更新で、CMOSクリア後画面表示が全くされなくなってしまい、CMOSクリアを行ってもPOSTしないのであれば、お客様の元で復旧させる事は出来ません。弊社にてお預りいたしましてメーカーにて修理対応となります。お手数ですがご購入頂いた販売店様にお持ち頂き、修理のお手続きをご依頼下さいますようお願いいたします。
 なお、BIOSの書き込みに伴う動作不良は保証対象外であるため、【有償】でのご対応となります。』であるのだ…。
 私はBIOSの更新を、きわめて一般的な方法で、しかもメーカーが指示している方法「Windows上でのASUS Updateを使ってのUpdate」でしたのだから、私には「非」がないと思っているが、結局は「有償」なのである。
 私の場合は、「Windows Vista」上で、この方法を使い、Updateしようとしたのだが、その途中で「失敗した」というような意味の表示が出て、それきり「起動」不能になってしまったのである。
 最新の「部品」の不具合はメーカーですら気づかないことがあるものだ。そういう場合でも、このような対応をするから、まさに「人身御供」であると言えるのだ。

 それは「Windows Vista上でASUS Updateを使ってUpdateを行う」と不具合が発生するということである。(ただし、これは私がボードのP5K Deluxeを使っての体験であるから、すべてに当てはまるかどうかは分からない。)このようなことはメーカーや代理店のWeb「サポート」ページにまったく掲載がない。あれば、私のように一瞬にして新品の「マザーボード」を壊すような「無知なる者」も存在しなかっただろうし、無駄なことをしなくて済んだのである。
 Windows VistaでBIOSファイルをダウンロードすると、ROMが1.024MBとして取り込まれることがある。私の場合はこのケースであった。この1.024MBのROMをASUS Update機能でアツプデイトしたところ、途中で「失敗」という表示が出て、その後「起動」不能となってしまった。
 なお、Windows Xp Pro 64Bit Editionを使い、BIOSファイルをダウンロードすると、正しく2.0MBのROM が取り込める。
 VistaがインストールされたP5KでAsus Update機能を使いBiosをアップデイトされるにはROMが正しい容量で取り込まれているかどうかを確認の上でする必要があると思われる。
 また、このASUS Update機能以外の EZ Flash2、 afudosの方法でUpdateする場合はROMは、2MB(2048KB/2097152B)のファイルサイズとなり、フロッピーディスクに収まらない。EZ Flash2の場合は、FAT形式でフォーマットしたUSBメモリやハードデスクにBIOSのファイルを保存して読み込ませる方法しかない。
 このことについてもメーカーや代理店のWeb「サポート」ページにまったく掲載がないのである。
 私はUSBメモリーを持っていないので、外付けハードデスクをFAT32ファイル形式にフォーマットしてそれに保存したものを使い、ようやく高い買い物「2枚目のP5K Deluxe」のBios Updateが出来たのである。どうもメーカー側はフロッピーデスクなど、古代の遺物のように感じているのではないか。
 しかも、Windows Vistaでは、フフロッピーデスクに取り込める場合もあるから厄介である。1.024MBのROMとしてである。
 POST画面からAlt +F2でEZ Flashに入り、このフロッピーデスクを挿入したが、フロッピーデスクに取り込んだBIOS ROMを「"The file size dose not match existing BIOS size!"」という表示が出て、読み込めずアップデートは出来ないのである。そこで止めたから「2枚目のP5K Deluxe」も壊さずにすんだのだ。
 フロッピーデスクはまだ大事なものだと思うが…。
いずれにしても、このようなことについて『メーカーや代理店のWeb「サポート」ページにまったく掲載がない』ことは、単なる「ど忘れ」であろうか。私のように「理論に疎い」初心者にとっては、メーカーが『「Computerを自作(組み立てる)」するものとしては「常識」事項であるから、掲載しない』というよりは、自社に不都合なことは公開しないという意識的な「ど忘れ」と思えてならない。考えすぎだろうか。
 それにしても高い買い物であった。現在、メーカー送りのものは、修理もされずシリアルナンバーの違う全くの別な「新品」が「修理代3.150円」で返送されてきた。おかしな話しだ。

北原白秋が詠う「たんぽぽ」は…

2007-07-27 04:42:59 | Weblog
 昨日「エゾタンポポ」のことを書いている時に、北原白秋の詩に「たんぽぽ」というのがあることを思い出していた。そして、あの「たんぽぽ」は在来種の何なのだろうとか、それとも、西洋タンポポであろうかなどと考えていた。
 これは私自身の「変容と変質」振りを如実に示すものである。それに気づいて驚き、しかもまた、「実につまらないこと」に関心がいく自分にあきれ果ててしまった。
 今朝は「このこと」について書いてみたい。

『 「たんぽぽ」北原白秋
〈わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。〉

 あかき血しほはたんぽぽの/ゆめの逕(こみち)にしたたるや、君がかなしき釣臺はひとり入日にゆられゆく…
 あかき血しほはたんぽぽの/黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、君がかなしき傷口に春のにほひも沁み入らむ…
 あかき血しほはたんぽぽの/晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、ふはふはと飛ぶたんぽぽの圓い穗の毛に、そよかぜに…
 あかき血しほはたんぽぽに、/けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、絶えて聲なき釣臺のかげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。
 あかき血しほはたんぽぽの/野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。半ばくづれし、なほ小さき、おもひおもひのそのゆめに。
 あかき血しほはたんぽぽの/かげのしめりにちりてゆく、君がかなしき傷口に蟲の鳴く音(ね)も消え入らむ…
 あかき血しほはたんぽぽの/けふのなごりにしたたるや、君がかなしき釣臺はひとり入日にゆられゆく… 』

私が白秋のこの詩に最初に出会ったのは、確か大学の1年か2年生の頃だと思う。
まず、前書きの「わが友は自刄したり」を目にして「ぎょっと」した。
しかし、一連二連と読み進んでいくうちに涙がこみ上げてきた。先に進まず、もう一度最初に戻って声を出して読んだ。涙声が私の朗読をかき消した。
 「赤い血潮、黄色の花やつぼみ、それに赤い入り日」が鮮烈な印象の中で、心底から悲しかった。悲しみが色を帯びて鮮やかに私の心を突くのだった。
白秋の友、中島鎭夫は、割腹したか手首を切ったかどうかして、とにかく血まみれになって自刃した。
 当時の私にとって死は怖かった。恐怖以外の何者でもなかった。この年になってもやはり、「死」は恐怖である。だが、中島はその恐怖を敢然と打ち克ってそれに臨み、潔く果てた。それは昇華である。美しく果てた昇華である。赤い血潮、黄色のたんぽぽ咲く野辺の春、その中で悲しくも、力強くしかも、孤高にである。
 私には、中島は強いと思った。勇気があると思った。純粋で心美しい青年に思えた。
「赤と黄色という鮮やかで艶やかな色彩」に包まれて死んでいくことは、まさに極楽黄土のまっただ中にいるのではないかと思った。そして、野に咲く「たんぽぽ」のように強靱だとも思えた。

 だが、何だ、今の私は、実につまらない老人だ。このような「感動」がない。知識や種別などにだけ関心がある人間、心の襞(ひだ)や感性などには無頓着な人間なりさがってしまっているではないか。
 何のために齢(よわい)六十六になるまで生きてきたのか。
 感動もない、あのタンポポはセイヨウタンポポだろうか、在来集だろうか、そんなことどうでもいいだろう。

 それに比べると、この詩に込められた白秋の友情と優しさ、友のむごい最期から目を逸らさないで、じっとそれを冷静に見つめていることは、愛情と優しさ以外の何ものでもない。じっと悲しみに耐えている白秋の心情が、痛いほど分かる。死なせてなるものか、たんぽぽのような強い生命力を持って、この「春という命の季節」に生き返ってほしいという願いに、白秋のいじらしさに、また泣けてくる、もはや、号泣である。
 遺骸は戸板か何かに載せられて、たんぽぽの咲いている野道を家まで運ばれる。その途中、遺骸からは赤い血潮がしたたり落ちて、野辺に咲くたんぽぽを赤く染めていく。
 白秋はその亡骸と一緒に野道を「無念や悲しみ、寂寥感、悔恨の情」に耐えながら、じっと、目を据えて歩き続けるのである。その情景がまぶたの奥ではっきりと見える。
 いつの間にか私は白秋になっていた。白秋は堪えて泣かない。だが、どこかで泣いている白秋がいる。その泣いている白秋に代わって私は泣いた。

 白秋も強い。耐えることは美しい。その中で、友中島の結末を見届けている。この冷静さは、冷徹と言えるほどの観察は何なのだ。若い介添人、あるいは悲しみに耐える介錯人は、決して涙を見せない。涙を押し殺している冷徹さ、潔くもあり美しい。

 だが、それに引き替え、今の私は「現実妥協」の老獪さだけを身につけた老人に過ぎない。もし、この詩を読んでこの「たんぽぽ」は在来種か西洋タンポポだろうかというような関心や疑念だけが思考を占めていることが、植物学など、いわゆる「科学する」ことであるとすれば、それは何という人間の「感性」という領域の欠けた世界ではないか。実につまらないことであろう。

私は挑戦した。もう一度声を上げて読んでみた。泣けた。胸が詰まってきた。涙が頬を伝わった。ああ、まだ、私には「若い血」が少しではあるが息づいているようだ。

エゾタンポポ見あたらず、「在来種古来に馳せる懐かしさ」

2007-07-26 06:22:46 | Weblog
 先日、岩木山の百沢登山道を登った。ある目的があったからで、その目的が達成されると「山頂」には行かないと最初から決めていた。
 それに、私は「夏場」の山頂は嫌いだ。特に次のような「日」が嫌いである。
土曜日、日曜日、祝日で天気がよく、スカイライン・リフトが運行している日で、それを利用した登山客の集団が山頂にいる場合や、または、スカイラインやリフトを利用しない登山者が多数登っている時である。
 つまり、何ということはない。「山頂に大勢の人がいる時」また「いるとの推測が可能な時」は山頂に行きたくないということなのだ。
 近頃はどこの山に行って、人、人、人である。これだと、登る前から疲れてしまい、「ヒトヒト」になってしまう。
 21日に行った高田大岳は、その点「ヒトヒト」になるほどの疲れはなかった。なぜならば、「誰にも会わなかった」からである。「人」に会うために「山」に行くわけではない。

 前置きが長くなった。本題に入ろう。その目的は、雪どけが終わった大沢に咲くミチノクコザクラの生育範囲とキク科の多年草である蝦夷蒲公英(エゾタンポポ)の生育の確認であった。
ミチノクコザクラはその生育場所を広げている。彼女たちは、その「可憐」さゆえに「弱々しい」印象を与えるが、実は結構、強靱で崩落地や表土の剥離された場所にいち早く移動して根付く植物なのである。サクラソウ科の植物は総じて生命力が旺盛である。大沢のミチノクコザクラは99年の底雪崩(全層雪崩)以来、その生育範囲を下部に拡大している。現在は、焼止り小屋の上部100m付近の右岸辺りまで広がってきている。
 ……恐れていたことが現実となった。それは蝦夷蒲公英(エゾタンポポ)を「いつもの場所」で確認出来なかったことである。
 日本には在来種のタンポポが二十種ほど自生している。総苞片に角状の突起があり関東に多いカントウタンポポ、北海道や本州中部まで分布し花が大きいエゾタンポポ、関西から西に分布して白花のカンサイタンポポなどがある。
 しかし、明治の初めに持ち込まれたヨーロッパ原産のセイヨウタンポポが勢力をどんどん拡大している。
 もはや、弘前の周辺ではエゾタンポポは見られず、すべてがセイヨウタンポポとなっている。その中で、唯一「岩木山の百沢登山道沿い」に数株のエゾタンポポを確認していたのだ。そして、それを確認するために毎年何度も足を運んでいるのである。私は、その毎年出会うエゾタンポポを「懐かしい古(いにしえ)を伝える在来の孤高」と心密かに呼んでいた。その「孤高」の輝きが見あたらないのである。

 何年前だろう。彼女たちとの最初の出会いは…。その出会いを次のように書き留めてある。『遅い出発だった。悪いことは重なるもの。その上バスにも遅れてしまった。バスに代えて自転車で登山口までやって来ての登りとなった。登山にはできるだけ早めに下山することが望まれる。早立ちが常識なのだ。だから、脇き目を振りながらも、かなり急いでいた。標高千メートルを越えるあたりまで登って来た。
 熔岩性の黒々とした岩肌が眼前に迫って来る。その下部には、白く輝く緑の小宇宙、別世界があった。エゾノヨツバムグラが群れていた。
 顎に流れ落ちる汗を拭く間もなく、出発だ。また土の道に変わった。
 尾根を横切る傾斜のない登山道の向こうに黄色い花が目にとまる。在来種のエゾタンポポがぽつりぽつりと丈を短くして咲いている。
 ある図鑑では帰化植物のセイヨウタンポポの例として、岩木山山麓の林檎園に咲き誇る写真を掲示している。そこまで、セイヨウタンポポは岩木山山麓のみならず「タンポポ界」を席巻し、我が国を乗っ取る勢いである。
 在来種はこれに追い立てられ細々と命をつないでいる。孤高を保ち今、風に全身を震わせて咲くこの一輪も追い立てられてこの高みまで登って来たのかと思うといじらしい。「在来種古来に馳せる懐かしさ」であり、まるでアマゾンの密林で少数民族の原住民に出会ったような感慨を覚えるのだ。
 エゾタンポポは中部地方から北海道にかけてよく見られるものと各種図鑑では言うが、最近はめったに出会えない。』
 それが、確認出来なかったのである。その代わりにセイヨウタンポポがどんどんと標高の「高い」ところに登ってきていた。在来種が岩木山から、西洋の彼女たちに「駆逐」されるのは、時間の問題なのかも知れない。
ついでだから、在来種とセイヨウタンポポの見分け方について触れておこう。
 頭花を支える緑の部分(総苞片)を見て、それがまくれていればセイヨウタンポポであり、まくれていなければ在来種である。
 良寛の作と伝えられる和歌に「鉢之子に菫たんぽぽこきまぜて三世(さんぜ)の仏にたてまつりてむ」(訳:鉢や椀に摘んだすみれやたんぽぽをごちゃ混ぜに入れて、前世、現世、来世の仏様にさしあげることができよう。 ◇鉢の子 托鉢に持ち歩く鉢や椀。)というのがあるが、現代はまさに、「和歌」の中でしか在来種の「タンポポ」に出会うことが出来なくなっている。
 日本人は本当に大切な民族に共通する「原風景」を、または「原風景」の一部を失っているのである。在来種の喪失は、日本文化の喪失を明示するものであろう。
 タンポポの花ことばは「別離」である。人里から在来種が消え去るという「人との別離」なのだろうか…。この花ことばの奇妙な符合を考えると在来種にとっては何と皮肉な運命であろう。
 それを地でいく在来種の減少は、日本文化が薄れていく風潮や岩木山への信仰心が育まれなくなってきている風潮に似ている。 寂しいことだ。 

二十四節気の大暑を過ぎたら「暑く」なった・たまにはComputerの話しを…

2007-07-25 06:39:07 | Weblog
 つい先日、二十四節気の大暑だった。それが過ぎたら猛烈な暑さになった。
青森市では32.1℃まで上がり、昨日は真夏日となったと報じられていた。「海」の影響で、弘前よりはいつも「低い」気温を示す青森市でさえこの状態である。
 温暖化、異常気象と言われても季節は、昔から経験した私たちの営みに、同じような「節気」を与えてくれる。何故かしら、ほっとする。
 この「大暑」は一応、暑さの「ピーク」らしく、8月の10日あたりは、早くも「立秋」となる。季節は巡る。今朝だって窓から入ってくる「気」は「冷」を携えている。朝夕は涼しい。すっかりと秋の気配だ。

 たまには、コンピュターのことについて書いてみたい。それはメモリーの相性ということである。
 最近、Intelから新しいチップセットであるP3シリーズが出て、それを使ったマザーボードが販売され出した。私は今まで、Intelの「975X Express」チップセットを使ったマザーボードでIntel社製の「D975XBX」を組み込んだ自作Computerを使っていた。
 ところが、メモリを8MBにしたら、起動しないのである。あれこれと調べてみたら、何と、これがいわれている「メモリの相性問題」というやつだったのである。
 最新のDDR3メモリが販売され出したからだろうか、DDR2のメモリは、ずいぶんと安くなってきた。安さ率は1GBのものよりも2GBの方が高い。つまり、安いということで、バッファロー社製のメモリを購入して「わくわく」しながら、差し替えたら、ギャ~ン「起動不能」。ボードのBiosを最新にしたり、初期設定にしたり、メモリーに関する「F&Q」事項すべてに挑戦したりしたが、まったく改善されなかったのである。
 早速、Intel社とバッファロー社に問い合わせたが、ああでもない、こうでもないと「埒があかない」。とどのつまりは、「お互いの相性が悪いのです。」ということらしいのである。
 私は、これまでいろいろな種類のメモリーを使ってきたが、この「相性問題」に出くわしたことはなかった。通販などで保証している「相性保証」(メモリーはそのボードに差して、使用してみるまで使用が可か不可か分からない。使用不可の場合は返品可能を保証するということ)など、縁がないこととたかをくくっていた。
 だが、現実に「相性問題」だ出てしまった。安さに釣られて「購入」したメモリーには、この「相性保証」がない。使えないメモリーは、ただの「ゴミやもの」に過ぎない。食えない、眺めても美しくはない、飾り物にもならない。救いは薄くて、小さいものだから、「邪魔」にはならないということだけだろう。
 結局は、それまで使っていたサムスン社製の1GB X4 に戻さざるを得なかった。
だが、悔しい。この「8GBのメモリーを何としても使いたい」という思いが心の底で煮えたぎってやまない。
 ASUS(マザーボードだけでなくいろいろなものを製造している台湾の世界的なComputerメーカー)社製のマザーボードには、殆どこの「相性問題」はないと、自作マニアの中では言われている。
 そこで、最新チップセットのP3使用のマザーボードP5K Deluxe/WiFi-APでの使用について、国内の代理店に問い合わせ、「今持っている飾りにもならないゴミメモリー」が使えるかどうかを確認した。「OK」とのことである。
 …だが、この「P5K Deluxe/WiFi-AP」でも大問題が起きてしまったのである。このことについては暇な時にまた書くことにしよう。

 昨日に続けて、「岩木山の花々」写真展の解説を…今朝は「クサボタン(草牡丹)」である。これから秋にかけて咲き出す花だ。
   
  キンポウゲ科センニンソウ属の落葉低木

 外白内紫のツートーンカラーでカールする釣鐘花

 岩手山の麓、焼け走り登山道を登っていた時という遠い記憶の底に…この花があった。その時は、花には無関心、「花」を見る目を持っていなかった若い時期である。当然、岩木山でも、この花に季節のたびごとに出会っているのだが、見えなかったのだ。
 「目」はものを見る器官であるが、すべてが見えるものではない。すべてを見ようとしたら「一生」目を開けていなければならない。もちろん、眠ることも出来ない。これでは、人生でなく死である。だから、人は器用にも「心の窓」で目をコントロールしている。これが、関心のない物や事は「見えず」「記憶」しないという結果をもたらすのである。
 この花には百沢・岩木荘の近くで出会った。葉が牡丹の葉に似ている。茎の先や葉腋からの花序に、釣鐘形の花を多数つけるている。しかも、外側は白で内側が淡紫色だ。外白内紫のツートーンカラーでカールする釣鐘花、クサボタンである。
 夏の終わりから秋にかけて、どこの山でも草の茂った場所や道の法面に、この青紫の花が混じっているに気づく。ほんの小さな花でも、関心があると「目に入って残像」が記憶の底に定着するものだ。 萼片には細毛が密生していて、織物のようにやわらかそな風合い。触りたくなってしまう。花の後もおもしろい。センニンソウ属の名の由来である銀髪のような種子が風になびくのである。

ある地方紙からの掲載依頼とNHK弘前文化センター講座について

2007-07-24 05:31:02 | Weblog
 2ヶ月ほど前に、「何か連載出来るものはありませんか」という内容の簡単な電話が某地方紙の編集部長からあった。
 「はあ、そうですか。色々とご配慮していただきありがとうございます。」という意味の返答を、これまた、短くして、電話を切った。
 ところが、数日前にまた、電話が来た。
 「連載をお願いしたいので、その内容等について、それとなく心づもりをしておいて下さい。出来れば直接顔を出して下さい。少し打ち合わせもしたいのです。」
…というわけで、昨日行ってきた。
 どのようなものを、掲載するのか、どの程度の回数でシリーズとするのか、1回の文章(スペース)量はいかほどかなどについては、まだこのブログでは紹介出来ない。新聞社にとっての、この手の「新企画」は程度の差こそあれ、どうも「企業秘密」に当たるらしい。
 とにかくここでは、何にか私の「連載」が某地方紙で近々始まるらしいということを言っておこう。

 ついでに、NHK弘前文化センターに支社長を訪ねた。講座「津軽富士・岩木山」の10月期開講に関わることで話しがあったからである。
 この講座は、NHK弘前文化センターの強い要望を承けて始めたものだ。7月期(7~9月)で30回目を迎える。
 NHK弘前文化センターでは出来るだけ「継続」してもらいたい意向なのだが、本会としては、いささか「息切れ」の状態なのだ。
 受講生数は、ほぼ定員を充足しているし、みんな岩木山に深い関心と興味を持っている。みんな明るく「真面目」な人たちで、野外観察を含めた受講を楽しんでいる。
 そのような、すばらしい「関係」と「事情」を考慮すると、出来るだけ継続したいと私も思うのである。だがだ。何しろ、「スタッフ」不足である。「岩木山を総合的にとらえる内容」を掲げているのだから、主題(テーマ)は沢山あるのだ。この主題(テーマ)だけでもまだ開講出来なくている項目が、岩木山の歴史、地質、遺跡、気象など20程度ある。
 主題(テーマ)があるのに「開講」出来ないということは明らかに、担当する「スタッフ」がいないということである。
 私は3ヶ月ごとに支社長から請求される「講座」カリキュラムの提出期には、キリキリと胃に痛みを感ずるのだ。
 「するべきこと」があるのに、それを「する人がいない」という空しさともどかしさ、その「するべきこと」がまったく出来ない、まったくその知識もなく、勉強も学習も出来ない私自身に対する憤り、そして、何とか続けなければいけないという焦りに苛まれるのである。
 悩んでいてもしようがない。受講を希望している人たちがいる以上は続けるしかない。いつ「閉講」するかわかりませんよ、と受講生に、その事情を明らかにしながら、とりあえず来年の3月までは続けようと考えている。来年の3月で「36回目」を迎える。まるまる3年間継続したということになる。そこで、「けり」をつけよう。
 …というような、話しをして帰ってきた。
そして、立案した開講主題は次のようなものである。

  07年10月「晩秋の岩木山・樹木とその葉の観察と学習」(野外観察)
    11月「岩木山の自然・木の実、草の実」
    12月「岩木山の自然・雪形を中心にして」 
  08年 1月「岩木山の簡単な生い立ち」
     2月「岩木山の現場から、素朴な疑問・質問」
     3月「山麓の雪上を散策する・アニマルトラッキング」(野外観察)

 まあ、何とかなるだろう…。
  

「ギャラリーNHK」企画展「岩木山の花々」と高田大岳登山(フロク)

2007-07-23 06:59:45 | Weblog
 「岩木山の花々」写真展の準備がほぼ完了した。もう少し早く終えることが出来るはずだった。ところが、NHKからの追加依頼があったのだ。会場2階のホールにも期間中展示したいので、いくらか写真を「多め」に用意してほしいということである。
 今回展示する写真のA4版と6切りは、すべて自分でプリントしたものである。私が使っているプリンターはエプソンのPM-4000PXで、用紙は顔料専用のフォトマット紙である。これは光沢感がない。つや消しされた落ち着いた質感と風合いが私の好みにあったので、使っている。
 写し手も、印刷するのも、文章を書くのも、その他の会場貼付物を作るのも、会場のレイアウトをするのも、期間中会場を管理し、受付をして、来場者に説明・解説をするのも、来場者の質問に答えるのもすべて、自分でしなければいけない。写真も「手作り」だから、枚数が増えるとそれだけ、手間暇がかかり、忙しくなる。
 とか何とか言っていても、準備は99%完了した。

 そんな中、土曜日21日に、八甲田山系の高田大岳に登ってきた。谷地温泉からのピストンだった。本当は谷地温泉から高田大岳を越えて、小岳から酸ヶ湯温泉に下山したかったのだが、「自動車(足)」の都合でピストン登山となった。
 とにかく、20数年ぶりの高田大岳だった。青森県高体連山岳競技の会場ルートの一つだったので、毎年生徒と一緒に登った山である。懐かしかった。白い小花のイソツツジも歓迎してくれた。感想は沢山あるが、それは次の機会に書くことにしよう。
 ただ、一つすごく感激したことと、その裏返しであるが、大いに気になったことがある。
 それは、「登山道は昔のままで人工的な整備はまったくされていなかった」ことである。実に嬉しい。ぬかるみがあり、藪こぎがあり、枝にザックをとられ、石や岩角、それに木の根に足をとられながらの登りである。
 下りは藪で「足を置く」場所が見えず、転倒を防ぐために、枝や笹だけを手がかりとして全身を支え、慎重にという訳である。これが「本当の登山」というものだと思い本当に嬉しかった。このような場所ではストックはただただ「邪魔」なものである。それを証明するようにストックの落とし物(ひょっとして邪魔なので置いていった?)があった。他に、開栓していない清涼飲料500mmプラボトル一本も見つけた。こんなことになるので「整備」を叫ぶのかも知れない。私はゴミ拾いだ。両方とも腐らない「異物」なので持ち帰った。
 その上、下山時には「雨」の洗礼まで受けるという、さらに嬉しい「破目」になった。
 そして、思ったのだ…。
 「南八甲田山の登山道よりも自然度が高いなあ。(歩きやすさを求める登山者の思考では、「荒れている」となる)。それなのに、どうして、南八甲田山の登山道整備を主張する登山者や山岳団体が高田大岳の登山道の整備を主張しないのだろう。」と。自然にははっきりとした摂理がある。登山という自然を相手にする行為を愛する者たちも、それ故に、自分たちも「自然に対等な摂理を持って物事をとらえなければいけない。」だろう。自分たちの「勝手」や「自己矛盾」は許されない。

 八甲田山のことを書いたついでに、今朝は写真展の一枚、キンコウカを紹介しよう。
 あの、毛無岱湿原に咲くキンコウカである。岩木山にはキンコウカは生えていないと思っている人は多いだろう。ところが、ちゃんと咲いているのだ。

キンコウカ(金光花・金黄花)
         ユリ科キンコウカ属の多年草

垂水に洗われ、禊ぎをして一途に祈る敬虔な小花たち

 友人のTさんと「キンコウカというと、あの八甲田・毛無岱にたくさん咲いていて、黄金色に染めているあれでしょう。残念ながら岩木山では見たことがないので、ないものと思っています。」「実は、私は見ているんですよ。」…という会話をした。
 その後、咲き始める季節を待って二人で出かけたのである。ある沢を詰めて行くと、それほど高さも斜度もない道の法面を思わせる草付きに出た。見上げるとそこには確かに、「黄色の細い花びらが太陽に反射して、金色に輝く」という花名を与えられた、垂水に洗われ、禊ぎをして一途に祈る敬虔な小花たちのキンコウカが生えていた。キンコウカという名前は、その上花の色が黄金色をしているので名付けられたと言われている。
 これは北海道、本州中部地方以北の湿地や岩場に見られるものだから、岩木山で見られても別に不思議ではない。
 星形の花自体は小さいが、毛無岱ではしばしば大群落をつくり、黄色のカーペットを敷いたようになるので、遠目にもその存在を確認できるが、目の前に生えているものは写真からも分かるようにかすかに水が流れる滝状の岩盤に張りつくようにして咲いているのである。
 あまりの違いに一瞬呆然としたが、間違いなく、それはキンコウカであった。私のメモ帳「岩木山の花々」にはまた一つ花名が増えた。

NHK弘前支局「ギャラリーNHK」企画展「岩木山の花々」

2007-07-22 07:38:51 | Weblog
 開催まであと1週間になった。前回の「厳冬の岩木山」、3月に本会が開催した「岩木山の野鳥たち」写真展の時から、ある試みをしている。
 それは、「写真」と「文章」のコラボレーションである。この方法・スタイルは「写真展」という範疇からははずれているだろう。そのような意味での「批判」を許容しながらも、このスタイルを今回はあえて、「拡大・強化」してある。
 展示「写真」の下に、以下に示すB5版の文章を貼付してある。
「写真」だけ見る人にとっては、煩わしく単なる「夾雑物」でしかないかも知れない。そのような人は写真だけ見ればいいのである。
 それでは、なぜこのような展示形態をとるのだろうか。その理由は次の文にある。これは、陸奥新報に「岩木山の花々」シリーズを掲載していた時に寄せられた読者からの手紙だ。(文末や表現の一部は変えてあるし、削除したところもある。)

『毎回楽しみに「岩木山の花々」を見て、味わっている。…私のように山登りの得意でない者にとって、このシリーズは花々と一緒に登っている気分にさせてくれるので、大変嬉しいものだ。スカイラインやリフトを利用して登る範囲は限られているし、しかもあの範囲は極端に花が少ない。四十回目ごろから山頂付近の花が多く紹介されているように思うが、これらのほとんどはリフト利用の範囲では見ることが出来ないものばかりだ。また、スカイライン利用だと麓から標高に沿って咲いている花を見ることが出来ない。それをこのシリーズは登りや下りるのにあわせて紹介してくれているから、とてもわかりやすく、実際に歩いている気分にさせられる。
 私はこれからも、実際には登れないし歩けないが、このシリーズの花と一緒に岩木山を歩きたいと考えている。』

『 私は仕事柄、歩き登ることには余り縁がない。だが、時々ふらりと一人で山に出かけてしまうことがある。そして、決まって、膝の痛みに悩まされるのである。そんなことの繰り返しから、山登りも遠のくし、花を愛でるという機会も少なくなっていた時「岩木山の花々」に出くわした。私の住まいからの岩木山は遠望でしかない。そこからは花は見えない。これまでに登った白神岳や八甲田山でちらちらと見た花が岩木山にも生えていることを知ったが、回を重ねるごとにそれはずいぶんとあるものだという驚きに変わっていった。ふもとから頂上へ、そして春、夏、秋と場所、高さ、季節の違いを考えるともっと沢山あるのかも知れない。なんだか最近はこのシリーズで山の花の勉強をしてみたい気分であり、それを実行している。このシリーズに伴われて山登りをしても、私の膝は絶対に痛まないから嬉しいのである。このシリーズに登場する花たちとこれからも楽しい登山を続けたい。』
 このような手紙を寄せてくれた人たちにとっては、単なる「写真」の展示だけでは、「歩きながら、登りながら花に出会う」という感慨を持つことが出来ないのである。そのような人たちを含めた来場者すべての方々に「山登りをしながら花を愛でる」ための機会にしてもらいたくて、この「コラボレーション」をあえて、実施するのである。

 展示写真の下に貼付されているものは、大体次のような形式と内容になっている。野紺菊を例にとれば…

花名:「ノコンギク(野紺菊)」科名属名:「キク科シオン属の多年草」

   キャプション:  孤高が生み出し、秋日に広がる高貴な野趣

本文:天高く、ひつじ雲を頭上に遊ばせている色あせた山頂を眺めながら、ゆっくりと登り始め、ようやく尾根道へ続く沢筋に入った。この辺りはまだ緑が多い。道はしの藪中で抜きん出て咲いている白い花が目についた。枝の先端に粟粒状の白い小さな花をつけているオトコエシである。傍に寄って高いその茎頂を追うと開けた上流に視界が広がり、遠くに先ほど見た色あせた山頂が見えた。ふと、「男郎花あの稜線が大菩薩」(古沢太穂)という一句を思い出した。
 私の歩みはノコンギクの前で直立不動で停止し、「御前」にひれ伏しながらじっと対峙していた。出会ったのは既に標高千メートルを越えている焼止り小屋の手前だった。これはノコンギクにまちがいないのだが、「深山」という冠を載せてあげたくなったのだ。それほどに高貴に見えたのである。素朴は時として俗衣を纏うこともあるが、この花にはそれを全く感じることが出来ない。これは「普通のノコンギク」ではない。里から遙かに遠い高山・深山で孤高を保ち、高貴な野趣を醸し出しているこの花を「ミヤマコンギク」と呼びたいと正直思った。高貴さには孤独とそれを進めた孤高が常につきまとうものではなかろうか。社会性や協調性、それに組織性を強調するあまり、現代人は孤独を恐怖し、孤高を知ろうとしない。彼女との語らいはいつまでも続き、私の足はなかなか前に進めないでいた。
野菊といわれるものの大部分がこの菊であると言われている。里で見られ、よく分岐した茎頂に咲く淡紫色の小花は、素朴で野趣に溢れていて可愛いものだ。」
 この文の中で、私が一番言いたい部分は「キャプション」である。

岩木山のコマクサ調査報告

2007-07-21 05:55:41 | Weblog
 18日、継続3年目となるコマクサの生育調査を青森県自然保護課と合同でした。保護課員は主査1人と技師1人、本会からは会長ほか事務局長、他幹事2名が参加した。
 第1回目は岩木町、県林政課からの参加もあったが、今年は「2団体」ということである。

 ★コマクサは「元気」に育ち、増えていた★

 花の数・そのほかについて:
 昨年は7個の花しかつけなかったが、今年は30個に増えていた。ただし、花の大きさは「小振り」となっている。それに比例して花柄も細く、短くなっている。

 株について:
 全体としては、1株であるが、その面積がこれまでより直径で12cm広がっている。さらに、小さいが「株立ち」が一本見られる。

 その他について:
 今年、実生から芽を出したと思われる一葉の新芽が、周囲の「礫岩」の下に多数見られ、しかも、昨年までの新しい葉芽は50以上に増えて、その場所を拡大させている。実生からの「新芽」である一葉のものは、周囲の「礫岩」の下にもっと多数あるものと思われる。

 今後どうするか:
 結論は、「現場」では出来なかった。ただ、自然生態学的には「持ち込まれたり、種がまかれて育った」ものであれば、抜いて処理をすることが「正論」であることを確認した。「抜き取り処理」については、八甲田山の「コマクサ」問題がまだ、継続中で「抜き取り処理」までいっていないので、それとの整合性も考えなければいけないだろうとの意見や考え方が提示された。
 「処理」の如何を含めて、これからの対応は自然保護課としても慎重に進めるということであるらしい。

 科学的な「冷静」な目をすてて、人間的な情感で、目の前で「美しく、かわいげ」に咲くコマクサを見ていると、「おまえには罪はないんだよね」と思えてくる。
 改めて、持ち込んで「植栽」したか、「種」を蒔いた人の軽薄でしかも「罪深い」行動をうらめしく思った。そして、そっと「このまま、自然淘汰されていく」ことを願ったりした。
 そういう感情は抱くが、本会の基本姿勢は、まず、このコマクサのDNAを調べ、どこの山のものか、国内のものか、外国産の園芸種かなどについて詳しく調べるということである。
 ついで、その「他山のもの」「外国産の園芸種」であるコマクサが今後どのような生育を岩木山で続けていくのかを、さらに年数を増やして継続調査していくことである。
 そのためには「現場」が、登山客等によって荒らされないようにすることが非常に大事になるのである。

NHK弘前ギャラリー企画・写真展「岩木山の花々」・私のスタンス「写っているもの」を大切にしたい

2007-07-20 06:49:23 | Weblog
 昨日に引きつづいてお知らせ:     
     ◎NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花々」写真展◎
                         撮影者:三浦章男
「あるがままに観る」という観察に徹し、あくまでも「道すがら出会う千載一遇・一期一会を大切にする」という自然観察を重視し、「登山者の視点」を保持しながら写した写真…。それは「花」と登る「山旅」である。…花を愛でながら、岩木山を自在に歩き、登ることが出来る写真展、写真を見ているうちに、あなたはいつの間にか「登山者」になっているだろう。


 日時:7月31日から8月10日(午前10時から午後5時まで)
 場所:NHK弘前ギャラリー(弘前市下白銀町、市文化センター向かい)
 展示内容:展示写真数112枚(A4 70枚・ワイド4ツ切り7枚・6切り35枚)。

   ☆ 私が「花の写真」を撮る時のスタンス(心がまえと姿勢)…☆

 私は岩木山に登ることが好きだ。春夏秋冬、岩木山に通っている。これまでの岩木山詣では千回は越えているだろう。
 花にも惹かれるが、真冬の岩木山も山頂部から山麓までとても魅力的だ。真冬、厳冬の岩木山の写真は、今年の1月にNHK弘前ギャラリーで2週間に渡って企画展として展示公開した。多くの市民が見に来てくれたし、主催者NHK弘前の話しだと、きわめて「好評」とのことだった。「お世辞や社交辞令」のニュアンスを抜いても、総じてはよかったらしい。
 その後、東奥日報紙が14日間という短期であるが、シリーズとして掲載してくれた。これも直接間接問わず、反響が大きかったようだ。
 特に、故郷「津軽」を出て、異郷の大都会で暮らして、「東奥日報」紙を購読している人、または、大都会に出て行った子供の、弘前を中心とした津軽地方一円に住んでいる親が、その子供に連載の「厳冬の岩木山」を切り抜いて送って、それを見た人などからは「懐かしさを越えて、ふるさとの山、岩木山の真の姿に触れて感激した」という内容の手紙やハガキが送られてきた。これには私も感激した。
 山とは「そこに行かなければ真実の姿には出会えない」ものだ。

 私には「植物が専門」などという仰々しいものはない。大学の卒業論文は「平安古典に見られる女子教育思想」という文系的で、高校で38年間国語を教えてきた教員に過ぎない。だから、植物的な理系とはまったく無縁。まして、山に関係のある地質・地形・気象・天体や生物学の植物・植生、動物、昆虫などとは少しも関わりのない人間である。
 このように、「植物的な専門性・知識」がまったくないので、春夏秋冬をとおして花や風景を含めて目に見えるものを「あるがままに観る」という観察に徹した。だから、写っているものは「被写体」だけとは限らない。「動き」もあるから、「ぶれ」があるのは当然である。「写す」ということよりも「写っていることやもの」そのままを大切にしたいのである。
 加えて、あくまでも「道すがら出会う千載一遇・一期一会を大切にする」という自然観察を重視する「登山者の視点」を保持するようにしてきた。だから、私は「通行人的な登山者」にはなれなかったのだ。
 その上で、私の「感性表現を構築する」という手法をとり、それを文章化してきたのである。それが陸奥新報紙に約3年半掲載された「岩木山の花々、癒しの山に安らぎを求めて」シリーズである。
 このシリーズ掲載中に、『「岩木山の花々」を見て「紙上登山」をしている。いつまでもこの登山をしたいので、これからも写真があるのなら続けてほしいし、出版してほしい。切り抜きを忘れたり、ファイルも大きくて収納が難しいので、一冊にまとめてくれると大変嬉しい。』という感想と要望を多数頂いた。
 私の「登山者の視点」で写真を撮り、文章を書いていることを読者はしっかりと理解してくれていたのである。だが、不本意ながら「出版」の要望にはいまだ応えられないでいる。とにかく、早めに、出来るだけ近い将来に発行するという「意志」があることだけは確実である。

 私は「岩木山を考える会」主催の『写真展・私の岩木山』にここ数年来出展している。また写真展と言えるかどうかははなはだ疑問だが「まねごと」みたいなものを、依頼されて、あちこちで「岩木山の花」を中心に十回近く開いている。
 その「私の岩木山」写真展で、アンケート項目に「一番興味深かった写真は何か」というのがあった。そして、答の一番多かったものが「岩木山の花」だったのである。嬉しかったことよりも、市民の岩木山の花に対する愛着の強さに感銘したものである。
 
(NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花々」写真展に関することが長くなってしまったので、「岩木山のコマクサ調査」についての報告は明日にします。)

岩木山湯段地区「ミズバショウ沼」周辺の刈り払い・岩木山の花々写真展

2007-07-19 07:03:16 | Weblog
 今朝は報告とお知らせを書きたい。
報告:
 岩木山湯段地区にある農村公園「ミズバショウ沼」周辺の刈り払い
今月12日に本会メンバーが蝶の「ゴマシジミ」の保護のために、その生息地であるミズバショウ沼周辺の刈り払いをした。つまり、ゴマシジミの幼虫が食べる「草」である「ワレモコウ(ナガボノシロワレモコウ)」の成長を助けるための刈り払いなのである。
 岩木山山麓から「絶滅」した蝶は数だけでなく、その種類も多い。
近年に絶滅したと考えれるのは…
 オオルシシジミ、チャマダダラセセリ、オオウラギンヒョウモンである。
また、絶滅しているか、しつつある(急速に減少しているもの)は…
 シジミチョウ類のウラミスジシジミ、ウラナミアカシジミ、ミズイロオナガシジミ、ゴマシジミ、ウラゴマダラシジミ、オオゴマシジミ、ヒメシロチョウ、スジボソヤマキチョウ、ミヤマカラスジシジミなどである。
 岩木山の周囲で恐らく過去30年位の間に、これほど多数の蝶が絶滅にされされている。このような例は恐らく日本国内でもない。それも都会の近くなら考えられるが、田舎の「国定公園内の自然」において見られる現象なのである。つまり、これほどに「彼女」たちの生きていく自然環境が壊されてしまったということである。
 その自然生態系を壊してしまう主な理由は、「コナラを中心とする雑木林の伐採」「山麓原野の畑地開墾や施設等建設による原野の減少」「無計画な遊歩道敷設とそれにともなう生態系を無視した整備・刈り払い」などである。百沢と岳温泉の間から「ゴマシジミ」が姿を消した一因となっていることは「遊歩道」周囲の念入りな「刈り払い」であろう。蝶たちの「食草」を残すという「とら刈り」に徹すべきなのだ。

 行政が業者に依頼したり、または、地元住民が自主的に「刈り払い」をすることがある。しかし、それは、ただ単純に、その場に生えている草や小木をきれいに「刈り払う」ことで、「自然生態系」に配慮した「刈り払い」ではない。
 それは、「見た目」がきれいであること、「すべてを刈り取る」ことが重視され、まるで「庭」の芝生を刈り取る行為や頭髪に喩えると「一厘がり」にすることに似ている。これだと「除草」である。「除草剤」を撒く行為に似ている。
これらは、登山道の刈り払い、遊歩道の刈り払いなどでも見られることである。
 本会では、「自然生態系」に配慮した「刈り払い」を主張して、この「ミズバショウ沼」周辺の「刈り払い」を、また、百沢登山道の刈り払いを他の団体と共同で数年前から始めている。

 当日の「作業の注意点」は、次のようなことである。
・ゴマシジミの食草である「ワレモコウ」は刈り取らない。・「ワレモコウ」の成長を阻害する「葦・蘆」の類、「イネ科の草」などを中心に刈り取る。・現在、花を着けている「ノハナショウブ」などは刈らない。・これから遅い夏や秋にかけて咲く「ツルニンジン」などは刈らない。
 メンバーの一人が「動力刈り払い機」を持参したので、鎌を使った「手刈り」作業よりは効率が良く、例年よりも広い面積の刈り払いが出来た。ただ、残念なのは参加者が「少ない」ということである。来年は「会員」という枠を外して、ボランテアとして「市民」の参加なども計画に入れる必要があるかも知れない。

お知らせ:
 NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花々」写真展が次の日程と内容で開催される。これは、NHK弘前ギャラリーから依頼されたものであり、「ねぶたまつり」期間中に弘前を訪れる観光客に「津軽のよさ」を「発信する」という「狙い」から、津軽の象徴とされる「岩木山」に咲く「花々」を紹介する形で「もてなす」という意図を持っている。

     ◎NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花々」写真展◎
                          撮影者:三浦章男
日時:7月31日から8月10日(午前10時から午後5時まで)

場所:NHK弘前ギャラリー(弘前市下白銀町、市文化センター向かい)

展示内容:展示写真数112枚(A4 70枚・ワイド4ツ切り7枚・6切り35枚)。
 岩木山で撮影した花はこれまで470種以上におよぶ。すべて、登りながら歩きながら「手持ちのカメラ」で撮影したものであり、一切「三脚」などは使用していない。その中から「高山帯に咲く花(草本、木本問わず)を中心に、あまり目につかない花、珍しいと思われる花、数の激減している花」などを厳選し、その写真をそろえている。決して、「図鑑的な写真」や「芸術性のある写真」、「撮影技術に優れた写真」でないことを断っておきたい。
            (明日は「岩木山のコマクサ調査」について報告する)

長部日出雄は 「岩木山」を「わが心の羅針盤」と言う…(その2)

2007-07-18 06:55:28 | Weblog
(承前)
 遠景を眺望している人に比べると、私たちのように山の懐に飛び込んで行くことの出来る者は、何と幸せなことだろう。手で足で登り、体全体で「山」を実感出来る。山の置かれた実状をつぶさに視覚で、触覚で、聴覚で把握することが出来るからだ。
 山から離れているということは、そこから時間的、空間的な距離を持つことであって、山を共有し、山と同時に存在しているとは言えないのではないか。
 弘前から岩木山を眺めても、鰺ヶ沢スキー場の拡張ゲレンデで伐られてしまった「岩抱き13本ブナ」は見えないし、(今では現場に行っても、その跡を探すことですら難しいが…)その歴史的な重みを持つ悲しみを感ずることは出来ないはずだ。私はこのことを「見ることの横着さ」だと言ってきた。

 人間とは総じて、魂の広がりと深まりを自主的に開拓したり掘削(くっさく)することは苦手なものである。だから、実態から離れたところに自分を置いていては、魂も心も知らないうちに狭小化していくものだろう。
 これを真実や正義、美意識などを人生の至上の価値であるとして生きている人たちは、人間の弱点として受け取るに違いない。 長部も時間的、空間的な距離を持って岩木山を見ているから、この弱点を持った人間に過ぎないのかというと、いささか違う。
 また、長部は言う。『…イエスは教えた。ー自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。…カントは述べた。ー人間にとって普遍的な原理になることを、あなたが望むような基準に則って行為せよ。…孔子は説いた。ー自分にしてほしくないことは、他人にもしてはならない。つまるところ、自分自身とおなじように、他者を大切にしなさい、ということだ。』と。
イエスの言う「人」、カントの言う「あなたが望むような基準」、孔子の言う「他人」、そして、最後に長部が言う「他者」と何だろうか。私はそのことを考えた。だが、読解力に欠ける私には一読しただけでは解らなかった。三度目の途中で、やっと長部の意図に接近出来ているのではと思い、読了してようやく、長部の思考の原点に辿り着けたと思った。
 それは、長部は『「人」・「望むような基準」・「他人」・「他者」とは岩木山なのである。そして、自己実現の根元である自分も、やはり岩木山なのである。』と言っているのだということであった。
 私は、「自分自身と同じように岩木山を大切にしなければいけない」と言外にはっきりと述べていることに遅ればせながら気がついた。岩木山は「自己実現に必要な不変・不動の目標」なのである。恥ずかしいけれど、私は長部の魂をやっと理解出来たのである。

 長部は最後の最後にまた、「…津軽の人は恵まれている。パソコンに向かう一方で、つねに不変にして不動の目標ー岩木山を、朝な夕なに眺められるからだ。」と言う。
 長部の頭には、弘前公園の「本丸」で岩木山に向かって(岩木山と対峙して)手をあわせる市民の姿があった。長部本人も若い時から何回もその行為をしていたのかも知れない。あの帰省していた苦しい時期にも、そのために本丸に何回も足を運んだのかも知れない。
 自分の居宅または居宅付近から見える岩木山に手を合わせる行為と、お城の本丸に登り、そこで「お山」に向かって合掌する行為では、その主体者にとっては、明らかに「信仰的な昂揚」と「深まり」に異質の違いがあるのだ。
 「本丸」は特別な場所だ。個々の市民が、自主的に、自然発生的に長い歳月をかけて作り上げてきた、だれもが自由に登れる「癒しの場」である。その場所を「ある日、突然」、殆ど議論もないままに「入場有料制」にして、多くの市民の魂を「締め出して」しまった。
 弘前出身のルポライター鎌田慧は、「精神に囲いを作るものだ」と言って有料化には反対をしている。長部はどうだろう。どう言っているかは確認をしていないが、この文章からは明らかに「反対」であることが見て取れる。この2人を仮に、弘前出身の「文化人」と呼ぼう。文化人が反対するような行政を堂々と実施する弘前市政はそれだけ、文化行政が「貧しい」ということだ。貧しいのは市の財政だけではなかった。ここ数十年、市は「観光資源」を育てず、しかもその資源を切り売りしてきた。あげ句の果てに「公園入場」に際しては「金を徴収する」とした。
 「公園入場有料化」アンケートでは「有料化」を推し進める視点だけの項目を掲げ、「桜まつり」期間中には外部からの「観光客」を対象したアンケートを実施して、「有料化賛成」は90%を越えたなどと発表している。そこには、本来の「市民」はいない。本来の市民を公園から閉め出すための囲い込みの論理が、この手法に現れているのだから、何と正直で「姑息」なことだろう。
 「本丸」にあがることで「金」をとる行為や岩木山の自然を壊してスキー場を造る行為は「スケールメリット」という「経済優先」の思想を重視していることの現れである。この公園入場有料化に賛成する市民やそれを推進する市行政や市議会議員は、長部の「岩木わが心の羅針盤」をどのように読むのだろう。おそらく「見ることの横着さ」で足りず、胡座をかいているだけということだろう。
 それにしても人間というものは、現実を直視出来ない限り、実態をまったく理解できないものであることを長部日出雄をして教えられた。なんとも寂しい限りである。
 この「公園入場有料化」が定着してしまうと、弘前市は旧岩木町から手に入れた「岩木山」にも「入山料」という制度を導入することになるかも知れない。    
『未知の航路を進むのに、不変にして不動の目標は、決して欠かせない。その点、津軽の人びとは幸いである。不変にして不動の目標として、岩木山が存在するからだ。』と長部の言う、その岩木山に「登る」のに入山料を支払わねばならないとは…。どちらも、市民の郷土精神や魂に「課金」していることだ。

長部日出雄は 「岩木山」を「わが心の羅針盤」と言う…(その1)

2007-07-17 05:20:53 | Weblog
 人間は、長い人生の中で「落ち込む」時があるものだ。これは当たり前のことで、人生には「紆余曲折」が付きものである。苦しい時、先が見えない時、何も手につかなくなる時、何も書けなくなる時がある。しかし、それは表面的には「何も出来ない」状況下にあるが、内面では、まるでマグマのように、どろどろとした何かが「燃えたぎり、噴き溜まって」いる状態でもある。ただ、人によって、症状は様々であり、全身にそれが現れたり、現したり、またぐっと軽度で「悩んだりしていない」ように見えたり、見せたりする場合もある。人は、それを「スランプ」などと呼ぶが、そんな軽い音韻を伴うようなものではない。

 弘前出身の作家・長部日出雄にもそのような時期があったようだ。その時、彼は弘前に帰っていた。そんな時に戻って来られる「場所」のある人は幸せである。「ふるさと」と呼べたり、「ふるさと」と思えるところを持てる人は幸せである。
 その時期に、数回とある酒場で、彼と会ったことがある。最初はすごく「柔和な」導入で始まるのだが、少し酒が入ってくると、彼の本心が見えてくる。…というよりは、彼は「本音」をぶっつけて来る。彼はウソがつけない。その正直な本心で対峙する時の彼は、恐ろしくもあり怖かった。ものすごいエネルギー、執拗な思考、滾ることがない知識で自分をぶつけてくる。私が受け取った彼に対する「恐怖」というのはこのようなものだったが、むしろそれは「畏怖」に近いものだった。
 その頃、私は二、三の作品を書いていた。地方紙の応募小説に入選したり、「文学界」新人賞の予選を通過したりしていた時期である。
 そのことを知って、彼は怒髪天をつく表情で言った。「二足のわらじを履いている奴に何が出来るか。どっちかにしろ。腹をくくってかかれ。」と…。
 私はその時、田舎の高校教員であった。彼には「教員」をしながら「ものを書く」ということが許せなかったのだ。もう後ろに引けない瀬戸際に身をおいて、つまり、「一所懸命」になって物事に取り組んでいる彼には、二股かけているその「不純」さが許せなかったのだ。
 その時を境に、私は「小説」を書くことを止めた。「潔い決断」と思うだろうが、そんなものではない。それは、単に自分の「能力と覚悟の無さ」を自覚したからである。それから、約20年「平凡な教員」に徹して退職を迎えた。
 彼が私に言ったことは、一方で「彼自身の覚悟」でもあった。私に「怒髪」で迫ったことは、そっくり彼自身が彼に対して言っていたことなのだ。そのことは、その後の長部の活躍を見ていればよくわかることだ。

 その長部が、岩木山のことを、ある地方紙に「岩木わが心の羅針盤」と題して書いていた。

『…いずれにしても、未知の航路を進むのに、不変にして不動の目標は、決して欠かせない。その点、津軽の人びとは幸いである。不変にして不動の目標として、岩木山が存在するからだ。
…むろん岩木山はそれ自体、無数の植物や動物ー生きとし生けるものの命を育み、養う生き物であるから…時々刻々、変化をつづけている。けれど、津軽人の心のよりどころとしては、常に不変であり、不動であった。
…そしてまた、岩木山は…山肌を見る人間の意識下に、共通して普遍的な実感として在ったはずだ。…岩木山は…昔から…住む人びとの崇拝と尊敬、憧憬と親愛、信頼と信仰の対象で、精神的な意味では生きる力の源泉だった。いわば津軽の宗教であったといってもよい。
…津軽の人びとは、岩木山を、先祖の魂が眠る一種の霊廟(れいびょう)のようにも感じてきたようにおもわれる。』
長い引用になったが、これらは言うまでもなく、津軽に住んで岩木山を毎日眺めている者の実感であろうし、地域の伝承文化としての岩木山に関係するごく普通の認識であり、知識的な理解事項であるだろう。私もまさに、これらと同じ事実や意味のことを拙著の中で繰り返し書いてきた。
だが、最近の岩木山事情を見るにつけ、そうは言えないかも知れないなあと思うことがある。
 冬の夜空を連日焦がさんばかりに照らしている山腹から山麓のきらびやかな明かりは、津軽人の心から長部が言うようなことを消し去りつつあるかも知れないし、子供たちの心にはただ単に、「スキー場のある山」というイメージしか育んでいないのかも知れない。
 ところで、長部がとらえ、描く岩木山は、いくら雄大で立派であろうとも、それは時間的にも距離的にも遠景であり、眺望である。若いころ岩木山に登ったことがあったかも知れないが、今の岩木山に踏み込んで実態を見ているわけではない。
 一般的に、人間は現実を直視しない限り、実態が理解できないものであると言われている。
 そこで、「いみじくも作家・長部日出雄をして、このことを学んだ。」などと言うことになる。だが、こう言うことは早計である上に、間違いである。浅知恵者の浅読みという誹(そし)りをまともに受けるかも知れない。(続く)