岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(4)

2007-11-30 04:56:29 | Weblog
(今日の写真はミズキ科アオキ属の常緑低木である「ヒメアオキ(姫青木)」である。果実成熟期が11~12月とされているから「積雪」がないと、今頃、その美しい光沢ある赤い実を森の中の至るところで見られるのである。北海道南部から本州の主として日本海側に分布している。青森県では八甲田山系の一部でも見ることが出来る。
 幹は下から分かれて出て、いくらか匍匐している。葉は光沢があり、厚い質で対生する。先は鋭く尖り、縁に粗いまばらな鋸歯を持っている。4~5月に枝先に多数の「紫褐色」の花が集まってつく。この「色具合」には非常な高貴さが漂う。花弁は4~5枚。雌株に咲く雌花の中央には大きな雌しべが一つ、雄株の雄花には雄しべが4~5本、雄花の方が可憐に見える。樹林帯の薄暗いところで星形の美しい小さな花を咲かせていることが多い。
 「アオキ」に比べ葉は小形で光沢がある。鋸歯も浅くにぶく、「アオキ」よりも小形で全体としても小型だ。これが「ヒメアオキ」の由来である。「アオキ」という名前の由来は「一年中青々としていること」である。若葉の葉柄には微毛がある(アオキは無毛)。枝の先ではやや輪生になる。雌雄異種で枝は青い。)
 
■■私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(4)■■
(承前)
 「トップ」を交代して、東寄りに移動を始める。間もなく目的とする「登山道兼水源管理施設補修道」の上に出た。やはり、どのような「道」でも「藪のない地面」が最下層の積雪を支えている所が、「埋まり方」が多少は少ない。いくらか「トップ」でも「楽」になってきた。
 そのことにいち早く気づき、実感しているのは、さっきまで「トップ」で「苦行難行」のラッセルを続けていた後続するTさんだ。
 そのTさんが言う。「トップと2番手では天国と地獄の違いですね。まるで人工的な階段を上っているのと同じです。」
 その時登っていた場所は、最下層の積雪を支えている所が堅い「登山道兼水源管理施設補修道」の「路面」である。そういう場所での2番手には確かに「階段」を上っているように感じられるだろう。
 しかし、さっきまでの「深雪」「軟雪」「最下層が藪や木の枝」という所では2番手にあっては、とても「階段」とは意識されない。トップとあまり差のない「苦行」を味わうことになる。この場合は、「トップ」が受ける「負荷」を10とすれば2番手は6ぐらいの「負荷」になるだろう。
 だが、5人以上のパーティ行動では、最下層の積雪を支えている所が堅く、膝まで埋まる程度の積雪の場合は、「ワカンラッセル」をする「トップ」の「負荷」を10とすれば2番手は3程度の「負荷」、3番手は2程度の「負荷」、4番手は1程度の「負荷」、ラストの5番手に至っては「負荷」は0である。
 0ということは「自分の重量(自己体重、服装、装備、ザックなど)」を持ち上げて前進・登高するためだけに「エネルギー」を使えばいいということである。
 その意味からも「無雪期」に「自分の重量(自己体重、服装、装備、ザックなど)」を支えるだけで精一杯の登山者や登山客には、冬山での「ワカンラッセル」は出来ない。単独では絶対に「冬山」には入れないということだ。
 ただし、10人以上で「パーティ」を組んで、いつもラストやその一つ前のオーダー位置にいることが許されるならば「冬山」登山も可能だろう。まさに「階段を上る感覚」で登高が出来るからである。しかし、これでは「自助努力」が基本姿勢である「登山行為」ではなくなってしまう。「お助け紐」に繋がれて「運ばれている」ことに過ぎない「登山客」である。
 30年ほど前に、私が所属する山岳会で冬の「剣岳」に登ったことがある。私は仕事の都合で参加できなかったのだが…
 登頂に成功して帰ってきたメンバーに、早速「登頂成功おめでとう。よかったなあ」と「労(ねぎら)いの言葉」をかけたのである。私は「冬剣・登頂成功」の喜びを共有したかったのだ。そして、嬉々とした反応を期待した。
 ところが、メンバーの誰にも「満足な面持ち」や「嬉々とした表情」が見えないのである。無言の時間が流れた後で、ようやくメンバーの一人が口を開いた。
 そして言う…
「三浦さん、剣岳は岩木山に登るよりも数倍楽だったんですよ」。それに続いて別なメンバーが「登山口から山頂まで途切れることのない一本の踏み跡が付けられていました」と言う。また、別なメンバーが、それを承けて「踏み跡はコンクリートで出来た階段のようでした。私たちはその階段を上っただけです」と言う。
 その後は、まるで堰を切ったように数人が…
 「誰かが造った階段を、それに従って登って行ったらそこが頂上だったんです」「数十パーティで250人を越える人が登っているんです」「しかも一列で、脇に逸れる人はいない」「あれだと夏山の経験しかない人でも登れます」「ワカンなど着けて登ったことがない人でも大丈夫でしょう」など「気が抜けてしまいました」「がっかりです」「剣に向けてしてきた訓練は一体何だったのでしょう」「訓練が生かされたとは思いません」「あほくさい話しです」「笑い話にもなりません」「自尊心がすっかり傷つけられてしまいました」などと続けた。
 憧れの「厳冬期の剣岳」に登ったものの、それは「他人が造った道、階段」に従わせられたものに過ぎなかったのである。メンバーは「お助け紐」に繋がれて「運ばれている」ことに過ぎない「登山客」であると「自分たち」をとらえていたのだ。これだと「登山」の実力はつかない。
 そこには「山」を知っているものであればあるほど「満足感や達成感」は存在しない。ただ、どこそこの「山頂」に立ったという実績だけを追い求める「ピークハンター」にとっては「ピーク」だけが大事であり、「ピークに至るプロセスや方法」には意味がないわけだから「満足感や達成感」はあるかも知れない。
 達成感の全くない「山行」は忘れ去られるものだ。その後、この「冬の剣岳」登頂は殆ど語られることはなかったのである。
 私は常々、「登山とはそのプロセスにあり」と思っている。「山頂」とはその「プロセス」の通過点に過ぎない。「プロセス」を無視すれば「ヘリコプター」で山頂に降り立っても、それは「登頂」したことになるのである。

 その日は登れども登れども雪の「積もり方」と「雪質」には殆ど変化がなかった。「水源管理施設」を過ぎた。その施設を取り巻いている鉄製の格子型の柵も殆ど雪に埋もれかかっていた。
 登るに従う変化といえば、それはあくまで、気持ち的なものだけれど、若干「最下層」が堅くなってきたかという程度であった。この雪の状態は、その日引き返した「二子沼分岐の少し下部あたり」まで依然として変わらなかったのである。
 Tさんは「登山とはそのプロセス」であるということを十分理解しただろう。「ワカンラッセル」の実態を実地で体験もした。
 靴の外皮を通して感触される雪質の違いも、積もり方の違いも会得しただろう。時々足をとられて転倒もした。その時は顔を雪に突っ込んだはずだ。そして「雪」の匂いも嗅いだだろう。雪には匂いがあるのである。時には、両手で前にある雪を掻きだして進まねばならないこともあっただろう。
 Tさんは「体で覚える」という言葉があることを改めて知っただろう。そして、それを実感し、すべてを体感し、経験したのである。Tさんは「登り始め」てから「下山」するまで「登山というプロセス」に主体的に「自分を置いた」のだ。

 結局、その日の登山は、日帰りという時間的な制約から「二子沼分岐の少し下部」あたりで時間切れとなった。悔しいけれど、あまりにも深い積雪のため、「ラッセル」は辛く、登高スピードは遅く、「アルバイト」はきつく、距離が稼げなかったのである。予定の半分を越えた辺りまで登って引き返すことになった。時間は13時をかなりまわった頃だった。
 登りの時に、鈴なりのまるで、果樹園のようにたくさんなっていた「ヤマブドウ畑」の下をくぐっていた。私たちは、そこを「潜る」ようにして過ぎた。「登山道」沿いなのにどうして、誰にも採取されないで残っているのだろうと訝しい思いであった。しかし、その「謎」は帰りに直ぐ解けた。
 ブドウ蔓はかなりの高い木の枝に絡まっていたのだ。雪がない時は、ハシゴをかけて登るか、ロープを引っかけて手元に寄せない限り、採取は難しい。雪が積もっていてもその二つの方法で採ることは難しいだろう。
 今、私たちの直ぐ手元に「ブドウ」の房が垂れ下がっているのは、木の枝やブドウ蔓に堆積した雪の所為である。堆積した雪の重みで圧し下げられたのである。
 摘んで食べてみる。果汁は柔らかく凍っていた。口に含んで、解凍してから軽く噛むと、甘酸っぱい漿液が口いっぱいに広がった。Tさんは「採って帰って、今日のお土産にする」と言って、ビニール袋を取り出した。
 私も一緒になって採取した。瞬く間にビニール袋はいっぱいになった。

(この稿は今日で終わる。明日は23日の登山と関連づけて23日に北海道十勝連峰・上ホロカメットク山:標高1920mで起きた表層雪崩とその事故のことについて書く。)

私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(3)

2007-11-29 05:31:36 | Weblog
(今日の写真はアカネ科ツルアリドオシ属の常緑多年草である「ツルアリドオシ(蔓蟻通し・虎刺)」だ。北海道から九州の林内のやや湿った所に生える常緑の多年草である。茎は地を這って分枝する。厚く、光沢のある卵形の葉が対生し、縁には鋸歯がある。
 6~7月かけて、真っ白で四弁の小さな花が茎の先に2個ずつ並んで咲く。時には去年の赤い実をつけたままで花を咲かせている個体もある。まるで「森の手品師」のような花なのだ。
 果実は2個が合着したもので、頂に2花のあとが残り、球形で赤く熟す。今日の写真は残念ながら「実」は一つだ。
 名前の由来は外見が「アリドオシ(アカネ科)」に似ていて、蔓性であることによる。「アリドオシ」とは葉のつけ根にある「トゲ」が「蟻を刺し通す」ほど鋭いことによる。
 例年、この時季の林内には殆ど積雪はない。だから、この「ツルアリドオシ」や「ヒメアオキ」や「ツルシキミ」、それに「マイヅルソウ」などの赤い球形の果実がよく目立つのである。)

私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(3)
(承前)
 標高1060mにある焼け止り小屋まで8時間を要した時は30代前半のK君と一緒であったし、12時間もかかった時は30代の後半で医学部の学生と二人であった。体力的には「自信」があった時期であり、「相棒」は私以上に「強かった」はずである。
 いずれも、大沢を跨ぎ、小屋尾根に取り付くための雪庇を乗っ越す気力も体力も無くなるほどに消耗して、雪庇を攻略するのに、30分以上もかかってしまったものだ。単独だったらその日のうちに、小屋までは絶対に行けなかったはずだ。
 このような長時間ぶっとおしのラッセルだと、体重は3キロから4キロ減ってしまう。私はそのころ少し太めだったから、なおさらだったかも知れない。太めが気になる人はどうだろう。この程度のラッセルをこなすと痩せることは間違いない。
 全身の筋肉を使って登ることは、「全身的」ということでそれだけ「心臓と肺」に大きな負担をかけることになる。その負担の大きさは呼吸回数の多さ、呼吸の深さとなって現われてくる。
 この時心臓や肺を支えるのはこれらを包む筋肉である。ラッセルはその意味からも心臓と肺を強化するのには最適な行動と言える。               

 私は、登りはじめからの「どふどふ」「ぶすぶす」と沈む雪、「罠」や「落とし穴」を仕掛けて待っているような雪、前進するための抜き足が出来ず、しかも、もう一方の足がさらに深く埋まっていくという積雪、さらに最下層にある藪や伏せ木や枝が「ワカン」に絡まり抜けないということなどに…先に述べた「30代に相棒と2人で焼け止り小屋まで8時間から12時間を要した」ことを思い出していた。

 その日の登高目標地点である追子森山頂も焼け止り小屋と、ほぼ同じ「標高」なのである。この登高スピードでは距離は稼げない。まるで蠕動(ぜんどう)運動をするミミズのような動きでしかない。場所によっては腰を越える埋まり方であり、「登山行動」を開始した直後から「全身的な疲労」がTさんを襲っていた。

 帰路、自動車の中でTさんは「登り始めてからの、あのラッセルには閉口しました。あのような状態がこれからも続くのかと考えたら、登りたくなりました。それに登ったとしてもせいぜい数時間で動けなくなっていたでしょう。」と言った。
 この一言にも、その日の「トップ」に立ってする「ワカンラッセル」の凄さが覗えるだろう。
 私には最初から「目算」があった。それは登り始めの「トップ」はTさんにしてもらうこと。さらに、「トップ」を務める比率はTさんが2で私が1であることだ。
 その理由は「新雪のワカンラッセルの神髄」を体験し、「冬山」登山の、夏山には絶対あり得ない側面を身をもって理解してもらうことにあった。
 登り始めてから私の前で「苦行難行」を繰り返しているTさんを見ながら、「申し訳ないけどもう少し頑張って下さい。トップを交代したら天国が待っていますから。」と密かに願ったものだ。

 私は、このような「積雪」を前にしながらも、その時点では、その日の登高目標である「追子森までは行く」ということを捨ててはいなかった。そして、次のような決心をしていたのだ。
 私には、雪の「積もり方」と「雪質」の方に強い関心があった。それは「雪の積もり方」と「雪質」が雪崩に直結していたからである。
 そして、仮に追子森山頂まで行くにしても、この広い尾根の中央を厳密に辿りながら確実に登る。途中小さな沢があり、登山道沿いに従えば、それを跨ぐことになるが、それはしない。沢を跨ぐということは「短くて急な斜面」を登ることになるということである。この「雪の積もり方」と「雪質」が「登るに従っても変化のない」場合は、そのような場所でも、私たちの動きが雪崩を起こしてしまうことは確実なのである。
 ブナ林とカラマツ林が交互に出てくる横に広く、横になだらかなこの尾根の真ん中を直登する。どんなことがあっても尾根の右岸や左岸には絶対に近寄らない。
 追子森山頂近くになったら「コメツガ」林の中を進み、決して大白沢左岸や赤沢の右岸には立ち入らない。そのような場所では「表層雪崩」が確実に発生するのだ。

 登高距離を出来るだけ短くしたくて、私たちは最初に、既定の「登山道兼水源管理施設補修道」ではなく、「原野」を真っ直ぐに進んでいた。「トップ」のTさんの頑張りで、ようやく「コナラやミズナラ林」の縁に辿り着いた。
 本来の「登山道」沿いに至るには、目の前の「コナラ・ミズナラ林」を突っ切らなければいけない。林内の積雪状態は、林縁とほぼ変わらなかったのだ。

 小休止にして、私はザックから地図を出した。戸数1、2軒の石倉が北西に見える。それを基準にして現在位置を割り出す。どうも既定の「登山道兼水源管理施設補修道」からは左(西)に寄り過ぎたようだ。
 「雪がこのような状態だから、出来るだけ雪の最下層が堅い場所、つまり、道路になっているところの方が登りやすいのだ。だから、道路の方に移動して、それに沿って登ることにする」という意味のことを私はTさんに言った。

 「トップ」はTさんから私に代わった。私は無雪期に、岩木山の登山道を登っている時は、「地図」を出して見ることはない。岩木山の主要5登山道では、「地図に頼らなければ迷う」というようなことはない。
 だが、その日はこの外にもう一度、地図を出して見た。それは「雪崩」に遭遇しない「地形」を確認し、辿るためであった。   (この稿は明日に続く)

私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(2)

2007-11-28 05:57:39 | Weblog
(今日の写真はまた木の実である。モチノキ科モチノキ属の常緑低木の「ツルツゲ(蔓柘植・蔓黄楊)」だ。これは日本の固有種で、本州の中部地方以北から北海道に分布してい
る。亜高山帯の主に針葉樹林内に生え、枝は稜があり、蔓状に這って、20~50cm長になる。葉は長楕円形から披針形で互生し、表面は葉脈がへこみ皺(しわ)が目立つ。縁に浅い鋸歯がある。私には「鮫肌」状にみえるのだが、どうだろう。
 雌雄別株で、6月から8月ごろに、前年の枝の葉腋に小さな白色の花を咲かせる。
 だが、背丈が低く、花も小さいので「登山道」脇に咲いていても、気づかない人は多い。私もその一人だった。最初の出会いからは、直ぐに「目につくように」なったが、それ以前の数十年間は、見過ごしていた。
 最初の出会い時に、「どうして、こんなに美しく清楚な花なのにもっと早くから出会えていなかったのか」とすごく残念な思いにとらわれた。何だか、取り返しのつかない「時間の経過」を悔やんだのである。
 名前の由来であるが、イヌツゲに似て、つる状であることによる。)

■■もはや「単独行」ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(2)■■
 (承前)
 完全装備で「ワカンラッセル」に挑む時のいでたち・姿は、決定的な違いである「通気性があること」除けばまさに「宇宙飛行士」のそれに似ている。不格好な達磨(だるま)ふうで動きに速さがなく、全体としてぶざまである。
 詳述すれば・・防風・防寒のためにオーバーズボンやヤッケを着け、靴に雪が入らないようにスパッツをつける。さらに雪中に深く埋まらないために輪かんを装着し、六十リットルを越えるザックを背負い、手袋の上にオーバーミトンをはき、手にはストックやらピッケルが握られている。・・となり、実に動きづらい格好となる。
 このような格好で、手に持ったストックやピッケルを横ざまにして、前にある雪面を崩したり、押し叩いたり、退けたりしながら自力で前進するための「道」を創っていく。
 時には、ザックを降ろして空身になりこの作業をすることもある。この場合は、またザックを取りに戻らなければいけないから厄介だ。                  

 23日から始まる3連休中に「追子森を登りたい」とTさんに言われていた。25日はNHK弘前文化センターの講座で「木の実・草の実とその花を訪ねる」をテーマに講師をつとめなければいけないので25日は登山予定日から排除した。
 24日は前線の移動で「雨」が降る。となれば23日のほうが、24日よりはまだいいだろうと判断して、23日を登山日としたのである。11月23日である。厳冬期でもなく「真冬」の寒波が来ているわけでもない。
 私のその日の服装・装備は「ワカン」「厳冬期用の登山靴」「ゴアテックス雨具のズボン」「スパッツ」「フリースのインナーズボン」「ウール厚手靴下」「ウールの厚手長袖シャツ」「冬山用の防寒帽」「毛糸の手袋」「速乾性の下着」「1泊2日に見合う服装・装備・食料を詰めたザック」であった。Tさんは「ゴアテックス雨具のズボン」を着けなかったが、大体同じようなものだった。
 幸か不幸か、その日は終日、少なくとも午後3時近くまでは、ほぼ無風状態であり、降雪もなかった。「無風」は体感温度を下げないことでは「幸」であったが「きつい運動からの発汗」という点では「不幸」であった。雨具のズボンを着けていた私には「蒸れ」ということで二重の「不幸」になった。
 「降雪」がなかったことは、それ以上の深い雪の「ラッセル」をしなくてもよかったことや吹雪などで「視界」が遮られない点、雪で手袋などが濡れないことなどでは「幸」であった。しかし、延々と続く「深い雪」は私たちに行動終了まで「ラッセル」という苦行を強いた。
 「ワカン」を着けて「ラッセル」をするということは…
仮に膝ぐらいの積雪でもまったく抵抗のない平地を歩行することに比較すれば、そのアルバイト量は雲泥の差だ。まして、積雪が腰とか、さらに斜面がきつくなると、つまり、その面に向かっては「胸や首」までの深さになる時、登山者は雪の「布団蒸し」に会うことになる。…全身の自由がきかない。このような場所では1時間に10mも進めないということもあるのだ。
 だが、そんな中でも、全身を動かしながら少しずつ登るのである。深く埋まった「ワカン」を抜き出す時に使われる筋肉、抜き出す時に支える片方の足の踏み押えるための筋肉、輪かんを持ち上げ、踏み出し雪を押し固め、自分と荷重を少しでも高い方向に移動させる時に使われる筋肉、前に立ちはだかる雪を広げ、崩して腕と手で押し固めるための上腕全体と胸部の筋肉、崩された雪に突進して前に出ようとする時に使われる胸部から腹部、それに背部にかけての筋肉など、体全体の筋肉を必死になって使うのが、特に単独登山の「ワカンラッセル」である。とにかく、体全部の筋肉をフルに動かすことで作られるエネルギーがこの「ラッセル」作業に吸収されていくのである。                      
しかし、その日の登山にはTさんという頼もしい「相棒」がいた。単独に比べるとスピードは2倍、疲労度とアルバイト量は半減していいはずだった。
 だから、Tさんが「トップ」で行動を開始して間もなく、雪に覆われたアスファルト舗装道路から原野に踏み込んだのである。その時はまだ、今日の目標である「追子森山頂までは行く」ということを考えていた。

 私には次のような体験がある。ともに、過去の11月23日のことではない。12月の下旬か1月の上旬頃のことだ。
 私は、積雪が多くしかも軟雪で、底部がまだ固まっていない時には、標高1060mにある焼止り小屋まで、おおよそ8~12時間もかかったという体験があった。
 私は、このように長時間を費やした体験を2回しているが、ともに「単独行」ではなかった。同行者がいて2人である。しかも年齢的にはまだ若く、体力も一番あったころだと思っている。
 2回とも、「少し楽をしよう」とスキー場尾根を登ったのだが、これが岩木山の逆鱗にふれたらしい。だが後でよく考えてみたら、スキー場開設に批判的な者への仕打ちであったのかと思うようになった。結局は「スキー場」の恩恵はまったく受けなかったのだ。
 あまりの「どか雪」に、百沢スキー場は私たちが登り始めた時はまだ開場していなかったし、もちろん圧雪車がゲレンデの整備などしているわけもない。果たして、駐車場を出たところから腰までのラッセルが始まった。(この稿は明日に続く。)

私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る(1)

2007-11-27 05:17:25 | Weblog
(今日の写真もモチノキ科モチノキ属の常緑低木である「アカミノイヌツゲ」だ。これは北海道と本州中部以北に分布する。常緑であるからもちろん1年中葉をつけている。
 樹高は2mほどで、草地や岩場、湿原のへりなど、どこにでも生えている。八甲田山のものは岩木山のものより樹高があり、しばしば「群生」している。
 枝はよく分岐しながらも、密である。葉は長さが2~3cmで革質、上方に短い鋸歯がある。雌雄異株で白くて小さい花は初夏に咲く。果実は径7mmぐらいで秋に赤く熟して、そのままの状態で冬を過ごして春を迎える。
 この写真は岩木山赤倉尾根の岩場、風の強い場所で、厳冬期に「雪」に埋もれず葉と実を見せる「アカミノイヌツゲ」だ。雪に埋もれず、鋭い岩角と寄り添いながら赤い実と濃緑の葉を見せる「アカミノイヌツゲ」には厳冬の力強い命を見いだした思いだった。
 それまで、ザックに入っていたカメラを取り出して、その「感動」を撮ったものだ。この写真を見る度に「感動」は波のように迫って来る。
 この仲間である「クロソヨゴ」は本州中部(山梨県)以西から四国の太平洋側に分布する。アカミノイヌツゲはクロソヨゴの変種であり、クロソヨゴとほどんと区別がつかないが、アカミノイヌツゲの花柄が若干短く1~1.5cmであることで区別される。
 名前の由来は「赤い実をつける」「柘植(ツゲ)」に似ているが「ツゲ」ではないものという意味からである。)
 
 ■■もはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根をTさんと登る(1)■■

 他人はこれまで、私のことを「単独行(一人で登山をすること)」の「三浦」と呼ぶことが多かった。実際、私の登山はいつも一人であることが多かった。だから、「単独行の三浦」と呼ばれても違和感や異論はなかった。
 だが、最近は「単独行の三浦」と呼ばれることにすごい抵抗を感じている。もう「単独行の三浦」とは呼ばないで欲しいというのが本音である。
 今年、単独で「岩木山」や他の山に登ったのは何回であろう。数えても指を折る必要はない。1、2、3と数えてくると終わってしまうのである。因みに10月は3回、11月は2回岩木山に登った。2ヶ月で5回だが、単独行は10月に1回だけである。残りの4回はすべて同行者たちがいた。この4回中の3回の同行者がTさんであった。11月23日の登山もやはり、Tさんが同行した。「単独行の三浦」とは今や昔の話しとなった。

 11月23日は私が岩木山とつきあい始めるずっと以前から、国民の「祝日」である。秋の恵みに感謝する新嘗(にいなめ)祭であり、「勤労感謝の日」でもある。私は40数年前から岩木山とつきあっている。だから、毎年11月23日には岩木山に登ってきた。おそらく、1年も欠かしたことはないだろう。
ところが、今回の松代登山道尾根の登山は、その数十年に渡る「11月23日」登山での体験とは明らかに違っていた。その違いは「異常」なほどに多くて深い「新雪」であったということである。私はこのような雪をこの時季に「体験」したことはない。
 その日は一応目標として「追子森」山頂までは行こうと考えていた。
 登山口近くの標高は600mほどである。樹高が2m近くまでになるヒメモチが雪面すれすれに、「実を突出」させていた。優に1.5mを越えている積雪なのだ。まだ、11月23日だというのにである。本格的な「雪」の季節にはまだ早い。それなのに、大変な「積雪」であった。
「ワカン」を装着しての出発となった。登山口から林内の登山道沿いまでの道は、かなりのカーブをなしている。少しでも「時間と距離」を縮めたいと考えて、林内の登山道を目指して、直進をした。ところが、これが、失敗であった。
 雪はここ数日降り続いていた。「どか雪」と呼んでもいいだろう。それが、地表の藪(ブッシュ)や「倒木や伏せ木」の上に積もって、「柔らかく」「そのまま」の状態で覆っている。
 雪が一定の間隔、つまり、一日おきとか二日おきとかに降ってくれると、前に降り積もった下層の雪が、上層の雪の重みで圧せられて固まる。だから、「ワカン」を付けた足は上層と中層の軟雪部分で埋まるが最下層の堅い雪層で「停止」する。つまり、深く埋まらず、しかも堅い雪層の反発力で、「抜き足」が軽くなるのである。
 しかし、その日の「雪」はそうではなかったから、ただただ「どふどふ」「ぶすぶす」と沈むのだ。それは、雪面からは見えない「罠」や「落とし穴」にはまるのと同じだ。
 前進するために抜き足をして足を運ばなければいけないのだ、最下層が柔らかいので、片足を抜きにかかると、もう一方の足がさらに深く埋まっていくという状態が続くのである。しかも、締まっていない藪や伏せ木や枝が「ワカン」に絡まり抜けないということになる。まるで、「くくり罠」に足をとられたウサギのような塩梅である。これではスピードは上がらないし、距離は稼げない。動きというよりは「蠢き(うごめき)」でしかない。
 場所によっては腰を越える埋まり方だ。結局、その日の登山は、あまりにも深い積雪のため、「ラッセル」に難儀をして、登高スピードは遅く、「アルバイト」はきつく、距離は稼げなかった。日帰りという時間的な制約もあって予定の半分近くまで登って引き返して来た。

 「ワカン(輪かん)」を使っての登山は楽ではない。単独行の時、全装備でラッセルすることはなおさら厳しい。まして、膝以上に埋まる深雪になるとそれは苦痛に近い。
 それは独特な全身運動であることに加えて、時間に距離が比例しないことによる。  冬山、積雪期であるが雪の締まっていないめり込み、埋まり込みのある山でのラッセルは特別ハードな登山行動である。降雪時期の早い遅い、量の多寡(たか)にもよるが、厳冬期直前の「年末年始」の時期がまさにこれにあたっている。
 スキーであっても埋まり込みが深くなり、膝を越え、股を越えてくると辛いものだ。まして、腰まで達するようになれば行動は不能に陥る。それでも、この辛さは「ワカン」を使うそれに比べると問題にならないほど軽微である。
 ところで、「ワカン」登行では行動不能ということは先ずない。時間がかかり、遅々とした登りにはなるが、行動は続けることが出来るものだ。
 しかし、冬山においての「輪かんラッセル」は特別にハードな登山行動であることに変わりはない。

※注:輪かんじき (輪樏) のこと。ワカンとも呼ばれる。かんじき (樏・橇)は、主に雪上や氷上での走行性をよくするために、靴などの下に着用する・縄文時代から日本人は使っていたと伝えられている。  (この稿は明日に続く)

「東北自然保護の集い」の歴史・経過/オーバヘッドプロジェクター使用の講演は?

2007-11-26 06:58:43 | Weblog
(今日の写真はモチノキ科モチノキ属で、北海道南西部から本州の山陰地方に至る日本海側に分布する常緑低木の「ヒメモチ(姫黐)」である。
 これは10月31日に赤倉登山道の標高1400mほどの場所で撮影したものである。普通、多雪地帯のブナ林の林床に生育し、「尾根筋」などに多いとされているが、岩木山では特に松代登山道口近くの平地でも見られる。また、長平登山道や赤倉登山道の標高の高い1300mよりも上にも生育している。
「ヒメモチ」の名前の由来は、釣り竿の先端などに付けて小鳥を捕らえる「鳥もち」に関係がある。この「鳥もち」は「モチノキ」の葉から食べる餅のように、粘着性のあるものを作り、それによって作ったことで「モチノキ」という名前がついたといわれている。その「モチノキ」より小さいので「ヒメモチ」と呼ばれているのだ。
 樹高は2m近くで株立ちしている。23日に松代登山道沿いに登ったが、その下山時、登山道口で雪上に、「実を突出」させているものを発見した。
 11月23日のことだ。本格的な「雪」の季節にはまだ早い。それなのに、大変な「積雪」であった。あまりにも深い積雪のため、「ラッセル」に難儀をして、登高スピードは遅く、「アルバイト」はきつく、距離は稼げなかった。日帰りという時間的な制約もあって予定の半分近くまで登って引き返して来た。そして、登山口の近くでこの「ヒメモチ」に会ったのだ。
 「ヒメモチ」は、第一に「雪の深さ」を教えてくれた。登山口で2m近いということを語っている。第二は、この辺り、つまり「松代」周辺は、かつて「ブナ林であった」ということである。
 「ヒメモチ」を見て、なるほどと「きついラッセル」を改めて納得し、この辺りがかつてはブナ林であったということを再確認したのである。
 この「ヒメモチ」の長さ5~10cmの「葉」にはおもしろい「性質」がある。それは、葉の形が、光が強い場所に生育すると細長く、そうでない場所では幅広くなる傾向があるということだ。また、雌花には退化した4本のおしべがあるというから、これもおもしろいことだ。写真に見える実の直径は1cm程度である。
※ 注 「ラッセル:降り積もった雪をかき分けながら進むこと。浅い雪の場合はそれほどの体力消耗はないが、腰を越える(腰まで埋まる)積雪の場合は、消耗が激しい。」「アルバイト:ある身体的運動に費やされる運動量、または労働量のこと」

 明日は11月23日に実施した松代口からの「登山」について、北海道大雪山系で起こった雪崩事故についても関連させながら書くことにする。)


        ■■ 「東北自然保護の集い」の歴史・経過 ■■

 今日は、「秋田県自然保護団体連合」代表理事奥村清明さんが「東北自然保護の集い」の歴史・経過と今後の思いについても述べられているので、それを紹介したい。

 『東北自然保護の集いは、第1回が1980年、山形県の月山山麓で開かれた。当時はブナ林が急速に東北の各県から、姿を消されていた時期で、参加者の表情はけわしかった。 秋田県での集いは、第4回目として1983年の秋に、鶴の湯温泉で開かれた。
 「白神山地のブナ原生林を守る会」がその2月に設立されている。運動の渦中にあって、参加者は全身に緊張感を漂わせていた。秋田県での2回目は、1987年11月、秋田市の全逓会館で開かれた。白神山地のプナ林を守る運動の転機となった「異議意見書運動」が大詰めを迎え、その1週間前には、青森県知事が「異議意見書」は無視できないと発言していた。
 参加者の目の色が違っていた。白神の問題だけではなく、山形や福島では、大規模林道反対運動、宮城では舟形山のブナ保護運動、岩手では葛根田のブナ林保護運動と、どの県でもブナ林を守るために、みんな燃えていたのである。日本がバブル景気で国民の感覚がマヒしていた時代である。
 あれから20年が経った。東北では、自然破壊と開発がセットになった大プロジェクトは表向きは姿を消したが、われわれを取り巻く環境は、形を変えて深刻さを増している。
 これまでわれわれが取り組んできた運動の成果を、一掃してしまいかねない、地球温暖化の急進と、原子力発電の恐怖、遺伝子工学による生態系の破壊である。一人一人ではどうしようもないような大きな問題であるが、同時に一人一人の心掛けひとつで決まってくるような問題でもある。
 わたしも、「原子力資料情報室」「グリーンピー-ス」「核燃訴訟原告団」「高尾山天狗裁判原告団」「日本オオカミ協会」「エントロピー学会」「日本クマネットワーク」などなどに参加している。
 「東北自然保護の集い」の原点は、東北人の故郷の森ブナを守ることだった。この課題はこれからも続く。規模は小さくてもいいから原点に帰った運動を継続的にしていったほうがいいのではないかと、帰りの車中で考えてきた次第である。みなさんのご意見をぜひ伺いたいと思っている。 (奥村清明)』

      ■■オーバヘッドプロジェクター使用の講演は?■■

 「最近の学会や各種シンポジウムなどでは、発表者はほとんどTV型のスタイルでおこなう。つまり、パソコンで正面に画面を出し、それを次々に繰り出して、説明を付け加えるというものである。
 見ている人はその場では分かったつもりでも、後から考えると、一過性だからなにも具体的な数字や概念が残らない。こういう場所では、部屋を暗くするから、メモもできない。講演者は楽だが、聞いている人は膨大な情報を選択するヒマがない。」

 上述したことは、オーバヘッドプロジェクター使用の講演や学習会、授業などに対する批判である。
 私も講演したり、学習会の講師をつとめる時に、「ノート型コンピュータ」と「オーバヘッドプロジェクター」を使用する。使い勝手と操作性の習熟、さらに「明るく映る」ことを考えて、輝度が2200ANSIルーメンという私用の「オーバヘッドプロジェクター」も数年前に購入して、それを講演や学習会のある度に「持参」している。
 上記の批判は的確である。「一過性・具体的な数字や概念が残らない・講演者は楽だ・聞いている人は膨大な情報を選択するヒマがない」ということは当を得ている。何だか、鋭い刃物をぐさりと刺された感じがした。
「気をつけなければいけない」と反省しきりである。便利さにあぐらをかいて、楽に済ませることに慣れてしまってはいけない。
 講演などの回数が多い人にとっては、コンピュータにファイルを入れてさえおけば、何処でも簡単に出来るので重宝だろう。だが、この価値観だけだと「視聴者や観客、学習者の理解」に対する視点が大幅に欠如していることになる。講演者や講師の自己満足に終わっている場合があるかも知れない。
 私は、この「指摘」された事柄に気づいていた。だから、2つの「機器」を使うようになるのと併行して、自作の「プリントや小冊子」資料を準備してきた。
 90分の講演や学習会で配布する「プリント」は平均して3~4ページである。「具体的な数字や概念」を視聴者に理解してもらうためである。見ただけでは理解されないこともある。「文字」として「文章化」されたものを「読む」行為によって「読解」と「理解」が併行深化されることを考えてのことである。
 だから、いくら「ノート型コンピュータ」と「オーバヘッドプロジェクター」を使用しても、事前の準備を含めると、私にとっては「講演や学習会」は決して楽なものではない。

「第28回東北自然保護の集い」の報告(3)

2007-11-25 06:15:13 | Weblog
(今日の写真は「第28回東北自然保護の集い」2日目第1分科会の様子である。)

 第二日目は、3つの分科会(「野生動植物との共生を考える」「環境と教育」「公共事業を考える」)のうち、第1分科会でも、これも時間不足で90分の時間は岩手の5人のレポートで終わってしまい、各県からの報告もできなかった。
岩手からは、課題を緊急度に応じて4ランクにわけて報告された。Aランクから課題を列記すると、① 六ヵ所村からの放射能排出 ② 雫石町での貴重種生育地開発 ③ 緑資源機構による大規模林道開発 ④ 梁川ダム建設⑤津付ダム建設⑥野生動物との軋蝶 ⑦ 早池峰のトイレ問題 ⑧ 岩手県版レッドデータブックの改正 ⑨ イヌワシの繁殖率の低下 ⑩子供たちの理科離れ ⑪ 里山・里地の適切な利用と再生 ⑫ 限界集落 ⑬ 財政逼迫による環境関連予算の削減。などである。

 なお、本会からは阿部会長が「環境と教育」分科会に、三浦事務局長が「公共事業を考える」分科会に、他の8名は「野生動植物との共生を考える」分科会に参加した。
「公共事業を考える」分科会では「岩木山の赤倉沢堰堤敷設に関する問題点」として「堰堤の実効性と無駄、敷設工事の自然破壊、堰堤工事後の自然破壊」を説明した。
 この「赤倉沢堰堤」については「敷設・建設の目的」「実効性」「工事計画」「工事計画と完成した実物」「工事にともなう自然破壊」「工事後の自然の変異」等の整合性や矛盾について、林野庁に「開示請求」をして、私たちが調査した結果と照合しながら、経費を含めた問題点を再確認した上で、矛盾や無駄、破壊が計画段階から予期されていた、あるいは未必の故意的なことがあれば「訴訟」に持ち込む必要があるだろう。
 「自然保護」運動の選択肢の中に、今後は「訴訟」ということを据えていくことが求められている。

 第2日目の最後に、「東北自然保護の集い」もあと2年で30周年をむかえる、いろいろ問題はあるが、どうすべきかの問題提起があった。あまり発言がなかったのは意味深長である。
 自然保護や環境保護をめぐる問題は、今後ますます深刻化していくと予想される。取り組むべき問題をザッとあげても、原発、森林保護、植林、環境教育、生態系保護、遺伝子工学、地球温暖化、野生動物保護などなど枚挙にいとまがない。もちろんこれらの問題はすべて絡み合っているから、その問題への取り組みは自分たちの問題の解決にもプラスに作用していく。上にあげた問題への取り組みをする組織は、問題ごとに全国的に結成されており、活発に活動している。その組織に加わって活動するのがベストである。
最後に、「東北自然保護の集い」名で、青森県と岩手県、それに北海道を含む東北各県の知事あてに、「六ヵ所村」からの放射能排出に除去装置を付加する誓願要請をすることを採択した。

(お断り:以上の報告は「秋田県自然保護団体連合」代表理事奥村清明さんがまとめ、連絡報に掲載したものをベースにして、三浦が一部削除・加筆したものです。奥村さん有り難うございました。)


■先日、上述した「第28回東北自然保護の集い」事務局から「大会」で決定した各県知事にあてた要望書が送られてきた。27日付で各県知事に送られる。それを次に掲げる。■

  2007年11月27日
青森県知事 三村申吾
岩手県知事 達曽拓也
宮城県知事 村井嘉浩
秋田県知事 寺田典城
山形県知事 斎藤 弘
福島県知事 佐藤雄平
北海道知事  高橋はるみ

           第28回東北自然保護の集い岩手大会
                           会長  永田 京子
                要 望 書

日頃より、市民の健康な生活と、その環境作りにご尽力されている貴殿に敬意を表します。
 さて、さる11月10、11日の2日間、岩手県花巻市において東北6県の25団体の代表ほか延べ1 3 3名が集まり、「第28回東北自然保護の集い岩手大会」が開催されした。この集いの中で、六ケ所村の核燃料再処理工場からの放射能排出について検討したところ、*海洋生態系は未知の分野が多く、見切り発車ではなく、慎重な行動が必要。*生命は海から生まれ出でた、その母体をいたずらに汚すべきではない。*東北地方に暮らしながら自然環境を守って来た、ここで放射能によって海と大地を壊されたくない。などの意見が出されました。
 これらを受けて、以下の2項目について要望を行うことになりました。
 お忙しいところ恐縮ですが、熟慮の上、文書にてのご返答を12月20日までにお願いいたします。

○要望

1、 青森県六ケ所村の核燃料再処理工場から、海や空に放出する放射性物質は、原子力発電所なみに抑えるよう関係機関に求めること。
2、 青森県六ケ所村の核燃再処理工場からの放射性物質は、放射能除去装置で放射能を取り除いたのちに放出するよう関係機関に求めること。
                                以上。

 賛同団体/岩木山を考える会、秋田県自然保護連合、白神NGO、カタクリの会、早池峰の自然を考える会、早池峰クマタカ研究会、和賀川水系の自然を考える会、花巻のブナ原生林に守られる市民の会、早池峰にゴミは似合わない実行委員会、いわて野生動物保護ネットワーク、遠野エコネット、船形山のブナを守る会、仙台のブナと水・自然を考える会、神室山系の自然を守る会、鳥海山の自然を守る会、出羽三山の自然を守る会、高山の自然を守る会、博士山のブナ林を守る会、三陸の海を放射能から守る会
                        (この稿は明日に続く。)

「第28回東北自然保護の集い」の報告「三陸の海と放射能汚染」(2)

2007-11-24 06:45:48 | Weblog
(今日の写真は「第28回東北自然保護の集い」1日目開会式の様子である。
お詫び:この報告はもっと早くすべきであった。原稿は既に書いていたのだが、「弘前公園有料化」についてのシリーズが先になってしまい、遅くなってしまった。
 なお、この報告は今月12日のブログを承けての続きである。関連性があるので、関心のある方は、是非12日のものを読んでから、これに目を通してほしい。)

 第一日目は、記念講演として1.「三陸の海と放射能汚染」というタイトルで、三陸の海を放射能から守る岩手の会事務局長の、永田文夫さん、2.「日本の天然林の現状」というタイトルで京都大学名誉教授の、河野昭一さんが、それぞれ60分ずつ講演した。

            1.「三陸の海と放射能汚染」

 「東北自然保護の集い」で、「三陸の海と放射能汚染」という反原発の運動が紹介されたのは初めてであり、画期的なことである。東北では、秋田、岩手、山形に原発がない。
  2006年版の理科年表によれば、世界の地震分布地図では、日本は全国が真っ黒になっている。つまり地震の巣のうえで、日本人は暮らしていることになる。その日本に、現在55基の原発がある。
 この7月破壊された柏崎刈羽原発は「豆腐の上の原発」、静岡の浜岡原発は「なまずの上の原発」、青森の六ケ所村の核処理施設と原発は「積み木細工の上の原発」なのだそうである。
 その六ケ所村の核処理施設から、太平洋の沖合3km、水深44mで、放射能を大量に含んだ排水が放出され、それが海流に乗って、三陸海岸に押し寄せてきているそうである。海草から通常の10倍のプルトニウムが最近検出されたとか、乳児死亡率が高いとか、オドロオドロしい事実が話された。このまま放置すれば、三陸の豊かな漁業資源はどうなるのか、政治家は事実を隠して、蓋をしている以上、市民が動きださないと事態は動かないことになる。
 当面、「放射能海洋放出規制法」の制定を求める運動を進める必要があるという、永田さんの話であった。
 それにしても、国際的な核の監視組織のIAEAでさえ、1986年の旧ソ連でのチェルノブイリ原発事故による人体への影響は、小児甲状腺ガンだけだと、他の多くのガンの発生との因果関係を拒否している。1989年、「ガイア仮説」で有名になったイギリスの科学者、ジェームス・ラプロックはいまや、原発こそ地球を救うとわめいているし、IPCCの中心的科学者、ステーブン・H・シュナイダーも原発推進論者として名高い。CO2などいくら努力しても、減少できないのは自明だから、いまに、原発建設の大合唱が世界的に、起こりそうである。「エントロピーの法則」通り、世界は、いよいよ「化石文明」の終焉を迎えている。

               2.「日本の天然林の現状」

 次の講演は河野昭一さんの「日本の天然林はいま」だった。パソコンの調子が悪く、集中できなかったが、日本の森が置かれている危機的状況はよく理解できた。日本には、1950年、森林の38%にあたる985万ha(日本の森林は約2600ha)の原生林があったが、52年後の2002年には、77%278万haに急減した。その中核となっている天然林を、いま林野庁は各地で伐採している。
 下北半島のヒバやブナ、北海道のブナ、秋田のスギ、他に各地のカツラ、ヒノキなどである。これらの材木は高価に売れるからに過ぎない。先日の森林管理局の現地検討会では、天然秋田スギでいえば、130万立方mの天然スギのうち、毎年3000立方m、10年で3万立方m伐採する予定だという。全国一背の高い秋田・水沢の天然スギは、高さ58mで、体積は40立方mメートルだから、毎年75本、10年で750本伐採という計算になる。
 この伐採は、民間業者に作業させるから、そのズサンな作業は森の生態系を致命的に傷める結果を招くと、河野さんは説明する。
 森の土壌層は「埋土種子集団」としてかけがえのないものだが、それをねこそぎにして、木を引きずっていく。河野さんは、ソーニング、つまり、切ってもいい場所と、そのままにしておく場所をしっかり決めることや、林床を決して傷めないことを、強く主張していた。要は、一時の金のために、かけがえのない日本の宝である天然木は伐採しないことにつきる。

 ■各県からの報告■

 講演の後、東北6県の各団体から、取り組みの報告があった。各県ともプリントを用意して配付していたが、なにしろ時間が5分と言われては、どうにもならない。
1年に1度集まる意味がこれではなくなってしまう。消化不良もひどかった。
 青森県「岩木山を考える会」から「岩木山に不法に蒔かれたコマクサについて」の報告があった。秋田駒ヶ岳からだれかが意図的に持ち込んだらしい。岩木山の固有の生態系を攬乱する危険が強い。県と協力して、07年9月、抜き取りを実施。8年以上のものも含め、110本ちかくを抜き取ったという。
 宮城県の「仙台のブナ林と水・自然を守る会」からは、[スギ人工林における林床広葉樹育成の試み」というプリントが配付され、説明があった。将来はスギと広葉樹の混交林を目指し、後白髪山南西斜面、標高800mの30年生のスギ林で実施している。笹刈りなどの作業は並のエネルギーではできない。ようやく成果がまたれるところである。
 福島からは、尾瀬国立公園が分離して設立されたこと、それに伴う観光客の激増や地元の思惑などの説明があった。大規模林道促進の動きもあること、ナラ枯れが会津まで来たことなど。
 山形からは、「出羽三山の自然を守る会」から「これでは山形県からクマが絶滅する、2006年に676頭を捕殺」というショッキングなタイトルのプリントが配付され、説明があった。
山形県では棲息数推定1500頭のうち、半数のクマが殺されたことになる。
 こうした問題は共通の議論になりうるので、時間がほしかったが、時間不足ではどうにもならない。

■「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」について■

 昨年、2006年に「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」が全国の自然保護団体に郵送された。宛て先は政府、代表世話人は河野昭一さんだった。
国有林の天然林は林野庁の管轄になっているから、その保全を要求するのは林野庁にすればスッキリする。なぜ環境省なのかもわからないし、入山禁止・規制措置撤廃など関係のない事項も羅列している。
 まず、岩木山を考える会からは「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」の署名用紙に記載されていることに関する質疑」が文書として、次のようなことが出された。
                    
・請願書の「一 誓願の趣旨」中の『…現在一部の山域で実施されているような「入山禁止・規制措置」は即刻撤廃し、誰もが登山や釣りをとおして身近に自然と親しむことができる、封印されることのない、開かけれた国有林保護政策が実施されることも重ねて強く要望します。』
・請願書の「二 誓願事項」中の『三、地元生活者による山菜採塔の伝統的権利を保障し、誰もが自然にふれあうことの出来る、国民に開かれた国有林保護政策を実施していただくこと。』については…

1. この部分に関しては天然林を環境省に移管するという誓願の趣旨から逸脱しているのではないか。
2. 無制限に入山を認めるべきだという意図がありありで、これだと簡単に商業主義と結びつき、自然を保護するという趣旨がないがしろにされるおそれがある。天然林を守れという時、入山を規制する地域が出てくるのは当然であり、すべて規制を撤廃するということは恣意的な側面を懸念させるものではないか。
 この「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」の署名用紙に記載されている文章については、4月に行われた本会の総会時に以上のような意見が出た。 その意見・要望に従い、会長名で誓願署名運動の主管に問い合わせたが、いまだに何の応答もない。』
 その報告後、まるで堰を切ったかのように、東北の他5団体から、この請願書の趣旨に対するクレームが続出した。これまで出なかったことが不思議なくらいであり、出たのは当然であろう。
 本会からの問い合わせにもまったく言及してくれなかったことは「遺憾」なことであろう。河野先生は参加されていたが、中心になっている所管団体からの参加が全くなかったこともおかしい話しである。        (この稿は明日に続く)

「弘前公園有料化」様々な視点で議論するべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる(その7)

2007-11-23 04:30:49 | Weblog
(今日の写真は公園地内でこれまでよく見られた蝶の一種である「オオチャバネセセリ」である。停まっている花、アザミも園地内ではあまり見られなくなり、少なくなった。
 かつては公園内で20種以上の蝶が確認されていたというが、最近は殆ど見られなくなってしまった。
 これは幼虫の食草等がなくなってしまったからである。園地内の竹藪は、剥離され南内門付近と遊園地売店裏にわずかに残るのみだ。
 「竹藪剥離」という整備を続けていけば「笹」を食草とするこの「オオチャバネセセリ」も「公園」からいなくなることは明らかである。)

■「弘前公園有料化」継続を議会で承認する前にするべきことがたくさんある■白紙に戻し、多くの視点で議論をすべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる■

            ● その他の視点について -3- ●


9)市側の視点を「観光客」から「住んでいる市民」に戻すという視点。

市民よりも観光客を重視するということ自体がおかしいだろう。公園は基本的に市民のものである。「弘前公園」は「生活道路」まである「市民公園」なのだ。

10)「公園有料化」が見込みや推測通りに進んでいるのか、どうなのかを総括し、どこに問題があるのかを明らかにするという視点。

 これまで、具体的な総括も発表もない。

11)できるだけ多くの市民(出来れば全有権者)の意見を直接集約した上で、公開の審議を行って決定するという視点。

 多くの市民の関心がなぜ「無料」でないのかにあるはずなのに、それを引き出させて書き込む欄はない。非常に片手落ちで恣意的なものである。アンケートを多くの市民に書いてもらう工夫をしたのか、職員一人一人が毎戸訪問をして意見の集約に当たるぐらいのことをしてみたらどうだ。何にも変わっていない。役所の机に座って「来るものを待つ」姿勢では旧態そのままではないか。
「有料化反対」とか「無料にせよ」という選択肢も書き込む欄もない。強いて探すとアンケート用紙の末尾の欄(四角い空白部分)がある。そこに「有料化反対」「無料にせよ」とはっきり書くしかない。
 多くの市民の意見を訊くのであれば、市民全員に「アンケート用紙」を配布して「全回収」を意図すべきであるのに、アンケートの提出は市民の任意として、用紙も市役所受付や各種出先の窓口に「置く」という安直な方途をとった。
 これだと回収された「数」は少ない。少なくてもいいのである。回答はアンケートを採る側の意図に誘導された項目で満ちているのだから、すべて「有料化継続」というまとめ方になるのである。
 市はこの結果を期待し、望んでいたのだから「数」は問題でないのである。少なくて作業が楽だっただろう。その上、本当は少数の市民からのもであるのに、「有料化継続」賛成の市民が90数パーセントであると発表出来るし、「アンケート」なども実施し開かれた「市政」であるということを公表出来るなどメリットはあったのである。しかし、これは仮面をはがすと「市民に対する欺き」である。

12)以上述べた「様々な視点」や他の観点からの「視点」で、多くの市民が議論をした上でもう一度「有料化の是非」を審議し、公開・開示するという視点。

 アンケートの結果を見ると、以下のような問題点が指摘できる。
第1に、調査結果の有効性や信憑性は、その対象や方法によって確定されるが、その意味では、この調査は検討する対象にならないほどレベルの低いものであると言える。
第2に、調査項目は恣意的であり、誘導質問である。特に問6以降の有料区域、有料期間、有料時間、入園料、無料対象者の項目において、選択項目に「無料」を設定しなかったことは重大である。そのため、集計してみると、「その他」を選んだものの中で「無料を望む」という回答が15%前後あったために、急遽アフターコードとして「無料」の回答項目を付け加えたという報告書ができあがっている。最初から「無料」の項目があったならば、この結果は全く違ったものとなったに違いない。
このようなアンケート調査票は、はじめから「有料化を前提」として、その枠を拡大しようとする意図によって作られたものである。

 公園緑地課課長補佐氏に確認したところ、『「有料見直し」には「無料」の選択肢がなかったので、このアンケートにもそれが反映されていた』と言明している。

まったく市側と多数の市議会議員の姿勢(市政でもいいが市井とは言い難い)は、市民を無礼(なめ)たものである。
 「なめる」の本来の語は「嘗める」であり、それは「味わう」であり「尽くす」という語義であった。だから、本来の市側(議員や職員)と市民の関係は「市が市民を嘗める」つまり「市が市民の真意を知り尽くす」ことにあるはずなのである。
 だが、現在の市側(議員や職員)は「市民を嘗める」ではなく、市民を「頭から馬鹿にしてかかる。みくびる。」という意味の「無礼る」に変質している。
 これは「市井」の感覚を大事にして「市民に奉仕する」いう「公務員」の基本原則を喪失していることの証に他ならないし、市議会議員にあっては「市民の負託に応える」という「本務」から逸脱であること疑いがない。

(この稿は今回で一応終了する。だが「公園有料化」に関係することがあればこれからも順次掲載していく。「公園有料化」は市民にとっては重大な関心事であるからだ。)

「弘前公園有料化」様々な視点で議論するべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる(その6)

2007-11-22 06:07:47 | Weblog
(今日の写真は今年5月末に公園内で咲いていたシソ科オドリコソウ属の多年草「オドリコソウ(踊り子草)」だ。これは、沖縄を除く日本各地の山野の半日陰に群生する。花期は5月~6月。高さは50~60cmだ。
 白または淡紅紫色の花をつける。東日本には白花が多く、西日本ではピンクの花が多いといわれている。茎の断面はシソ科の植物の特徴である四角形である。
名前の由来は「花の形が笠をかぶった踊り子の姿を思わせること」からである。津軽地方では、この花の蜜を子供たちが吸うことから「チチバナ」と呼ぶこともある。若葉はおひたしにして食べることができる。
 別名としては「踊花(おどりばな)」「虚無僧花(こむそうばな)」などがある。その姿形からの連想だろうが、命名はその国の、その国民の民族性や文化を色よく反映しているものだろう。
 「虚無僧」というものは仏教を支持している他の国にも存在するのだろうか。ないと思う。「ものまね」と西欧から蔑視されながらも、多様で多質な文化を柔軟に絡ませながら古来から日本民族は生きてきた。「虚無僧」はまさに「ものまね・模倣」を越えた日本民族が独自に創り出した「文化」である。
 「オドリコソウ」を「虚無僧花」と呼んだ私たち日本民族の祖先・先人の独創的な豊かさ、それから生み出されてきた多様性に満ちた独自の文化、それを継承してきた歴史に私たちは誇りを持とうではないか。「弘前公園」にも多様な価値があるのである。
 ところが、最近は政治と経済がらみで、一方向の文化と一つの価値だけが求められ、多様性と個性は軽んじられている。
 このような柔軟性のない国民や民族の文化や言語は固定して貧しいものになってしまうだろう。 文化が「一つ」の価値に集約・収斂されていくことは豊かな表現を認めなくなることである。
 これと同じように「弘前公園」が持つ自然遺産を含めた豊かな要素や価値を「城址・都市公園」というものにだけ固定しては、「弘前公園」が持つ「豊かさ」は開花しない。

 このように日本人に親しまれてきた「オドリコソウ」を主題にした俳句と短歌を紹介しよう。

・梢からはやす蛙やをどり花 (小林一茶)
『踊子草の茎頂に蛙がいる。まるでそれは下で踊っている踊子たちをはやし立てているかのようだ。』蛙を擬人化しているところがユーモア的で一茶のいいところか。
・袖振って蝶もならふや踊草 (民 古)
『踊子草にやって来る蝶たちもその花に倣って袖を振り踊るようなしぐさをを見せるのである。どちらも美しい。』作者の双方に対する愛情表現が何とも微笑ましい。
・薫風の喝采に舞うオドリコソウ (三浦 奨)
『初夏の明るく優しい風が奏でる喝采を受けながら狂おしく踊っているのは踊子草たちであるよ。』
   
・秋に起き長き雪下のオドリコソウ満を持してや今輪舞する  (三浦 奨)

『 花を咲かせ実をつけたあと休眠状態に入るのがオドリコソウだ。そして秋には目覚めるのだが、春までの長い間、冷たい雪の下でじっとしている。しかし、それは咲くために栄養と力を蓄えているのである。今は初夏である。満を持して歓喜あふれるように輪舞しているではないか。元気な踊り子たちが…。』とでも解釈できそうだ。
 この短歌は「オドリコソウは秋に休眠から目ざめ冬にはフレッシュな葉を展開している」ことを承けてのものである。)


■「弘前公園有料化」継続を議会で承認する前にするべきことがたくさんある■白紙に戻し、多くの視点で議論をすべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる■

            ● その他の視点について -2- ●

5)本年4月、弘前市公園緑地課が実施した「弘前公園有料見直しアンケート」の見直しをするという視点。

 「有料化反対」というアンケート項目を記載せず、しかも回収アンケート数が147であれば、この実効性はきわめて薄い。
 アンケート調査は市内の公共施設内に5カ所のアイディアポスト、9カ所のアンケート箱を設け、弘前市民であるなしを問わずに市民から投函してもらうという方法で行われたが、対象者の偏りがあると同時に、同じ人が何回も投票すること自体チェックができないものであった。
 実際4出張所では回答がゼロであり、性別、年代別、職業別の割合を見ても偏ったものであった。とりわけ、1月4日から2月28日までという長期間にわたったものであったにもかかわらず、有効回答が147しかなかった(アイディアポスト49、アンケート箱57、Eメール41)。これでは真剣に意見を集めて分析しようとしたものとは思われない。

6)「弘前公園有料化」が、わずか2回の「有識者」のみの審議会で決定され「市民の合意を得た」上での実施ではなかったことであるから審議会の決定の見直しをするという視点。

 実効性の薄い資料からの審議・決定は絵空事に等しい。「弘前公園有料化」が、わずか2回の「有識者」のみの審議会で決定され市民に審議過程が公表されなかったことや、年間有料入園者は36万9千人で、889万9千円の収益があるとしていた有料入園者数や収益の推計には全く根拠がないことなどから、「市民の合意を得た」上での実施ではなかったことは明らかである。

7)また、弘前市は今年の桜祭り中に実施された「弘前公園有料見直しアンケート」の見直しをするという視点。

 弘前公園有料見直しについての「市民懇談会」が開催され、その場で、桜まつり期間に観光客を対象に実施したアンケート結果を公表した。
 それによると、アンケートの対象は「観光客」で、実数も255人、その内の203人が市外の居住者、言い換えると市民は52人しか含まれていないということである。この結果をもって最も影響を受ける市民に対する「有料見直し」の材料とするのであれば、全くの「市民無視」といわざるを得ない。
 新聞報道では、アンケート調査の対象を「観光客」と明記していたが、市の広報やホームページでは「さくらまつり期間の来園者で、弘前公園有料制に関心があり、回答していただける全ての方が対象です。」とあり、非常に曖昧で、「広く市民の意見を聞く手法」として都市公園審議会に報告していたものとはおよそ違った方向付けで為されたものであるとも言える。

8)後に、弘前公園有料見直しについての「市民懇談会」が開催されたが、その「市民懇談会」の議論や諮問の見直しをするという視点。

実効性と方法性に偏りがあり、その真意を測り知ることは難しいし、とうてい市民の総意を受けたものとは思えない。

「弘前公園有料化」様々な視点で議論するべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる(その5)

2007-11-21 06:26:36 | Weblog
(今日の写真は今年の初夏に公園内で出会ったシソ科カキドオシ属の多年草「カキドオシ(垣通・籬通)」である。これは全国に分布し、畑の畦や林縁、果樹園、堤防などに生育する。茎は立ち上がって、葉腋(葉のわき)にうす紫色の花を咲かせる。その後、茎は伸び上がって蔓状になる。
 この「蔓状の茎が地面を這って伸び、垣(垣根)の下を通り抜けて侵入して来る」ようになることをもって「カキドオシ」という名前をあてたと言われている。また、別名を「カントリソウ(疳取り草)」といい、子どもの疳の虫を取るのに使われたという。
 花の形は、田んぼの堰や畦でよく見られる「ムラサキサギゴケ(紫鷺苔)」や「トキワハゼ(常盤櫨)」に似ているが、これらはゴマノハグサ科である。だが、カキドオシや公園で見られる「オドリコソウ」はシソ科に属すのである。
 「カキドオシ」は別に珍しい花ではない。愛すべき「雑草」であり、全草を「お茶」として飲用すると「健康」にいいということで、日本人に昔から親しまれてきた在来種の植物である。
 最近、空き地や道ばた、または名のある庭や公園にまで、ヨーロッパや北アメリカ原産で「外来種」の「コウリンタンポポ」や「ブタナ」がよく目立つようになってきている。
 そのような時世にあっても、「弘前公園」には、この昔々から日本に生えていた在来種の「カキドオシ」などが細々と「日本の種」を守りながら息づいているのだ。このようなけなげな植物は「雑草」として駆除すべきではない。駆除するような「公園の整備」は即刻、止めなければいけない。)

■「弘前公園有料化」継続を議会で承認する前にするべきことがたくさんある■白紙に戻し、多くの視点で議論をすべきだ・12月議会で承認することは拙速に過ぎる■

          ● 議論するべきその他の視点について -1- ●

1)藤森元市長の発言に込められた本意を理解し、継承するべきだという視点

 昭和45(1970)年ころ、「東北新幹線を津軽平野回りとするよう秋田県と共闘態勢をとる」と語っていた当時の藤森睿弘前市長は、その「東北新幹線」に関わることで「弘前公園有料化」を持ち出した当時の社会党議員に対して、「全国に一つくらい、無料で開放する公園があってもいいだろう。」と議場でやんわりとかわしたそうである。
 「東北新幹線」を津軽平野まわりとして弘前で多くの観光客に下車してもらい「弘前」のよさを満喫してもらう。快く「満喫してもらいたい」がゆえにこそ、観光のメインである「弘前公園」は「無料」で「開放」したいというのが藤森市長の真意ではなかったのか。
 この真意と「全国に一つくらい、無料で開放する公園があってもいいだろう。」という「もてなし」の意味を込めたこの藤森市長の信念に賛同している市民は多いのである。賛同するだけでなく、多くの市民は「無料開放の出来ることに誇り」を感じているのだ。
 だからこそ、その後、金澤市政が、提案するまでこの「公園有料化」は出てこなかったのだ。
 現市議会でも、この「藤森元市長の発言」などは当然議論されるべきことだろうと考えるのだが、議論されたことがあるのだろうか。
 議論の視点・論点が「整備費用のため」という一極、一元的で、これといった提案もなく「賛成多数」で決まってしまうこと自体がおかしいことではないのか。何とか他の無駄を省いて、それを最小で最少の「公園整備」に向けるという努力はないものか。

2)都市公園的な要素だけの追求では、これまで以上の集客は考えられないという視点

 都会からやって来る観光客は、無顔貌、無個性で画一化された都市公園の構造や建築様式には飽きてしまっている。弘前まで「都市公園」を楽しむために来る者はいない。これは次の視点と深く関わってくるだろう。

3)「観光客の誘致」と弘前公園有料化とはどう関わっていくのかという視点。

 市長の言う「新しいまち」に「旧岩木町を加えた」という意味が込められているならば、合併前から「弘前公園有料化」に対する反対や批判は岩木町でも根強かったということを知ってもらいたいのである。それは「我が町の象徴、我が町にある岩木山を、つまり他町の山を弘前市は公園の本丸から見せてお金を取っている。許されない。入場料の半額を我が町に還付してもらわねばならない。」という町民のセリフからも読み取ることが出来るだろう。
 また、市長の言う「観光客の誘致」と弘前公園有料化とはどう関わっていくのだろうか。
「観光客の誘致」と「弘前公園有料化」が結びついている構想ならば、その前に、郷土精神を原点として、「市民感情や原風景・精神形成としての景観、信仰の対象としての岩木山と弘前公園との関係」を歴史的、情緒的、信仰的な見地から検討していく必要があるだろう。
「弘前公園有料化」について審議する「弘前公園市民懇談会」を立ち上げたようだが、「郷土精神を原点として」という観点での審議は当然してもらわねばならない。また、その人選には「広く市民から」という手法・配慮がなされたのかも明確にすべきだろう。
 いずれにせよ、「有料化」という結論が「先にありき」では大多数の市民は納得しない。
 相馬市長は、選挙戦で公約した「市政の理想」を忘れてはならない。忘れているようだと市民の期待は一転し、不満から批判へと変わる。相馬市長への期待は大きく多かったゆえに、その反動もまた多大・強大になることは明白である。

4)市議、市職員も「弘前公園」についての学習をしなければいけないという視点。

 市会議員は弘前市民にとって「弘前公園」はどのような存在であったのか、その歴史的背景と自然環境をまず、勉強してほしい。「弘前公園」が持つ「背景としての歴史性と自然的な遺産、および本丸から手を合わせて岩木山を拝むという市民感情」と有料化がどう結びついているかを理解しながら、「学習」してほしい。市職員も同じである。
 「弘前公園」が持つ「自然豊かな里山、生態系がしっかりと確立されていた緑の里山」である「自然的な遺産」という視点で弘前公園を捉えていなかったとすれば、市民にとって、これくらい不毛な「行政」はないと言える。
 弘前市が行った公園有料化見直しのアンケートの質問項目には、「有料化」を継続していくという立場でのものがつらなっている。この点でも「不毛」は顕著であろう。
 この「不毛」を生み出しているものは、前金澤市政を支えてきたものであり、ヒラメのように金澤市政に従って、無批判に行政を施行してきたものたちなのである。

「弘前公園有料化」という囲いを作る前に様々な視点で議論するべきだ(その4)

2007-11-20 05:52:31 | Weblog
(今日の写真は今年の5月に公園内で出会ったバラ科ヘビイチゴ属の多年草「ヤブヘビイチゴ(藪蛇苺)」である。本州、四国、九州に分布して、半日陰の林内のすこし湿った場所に生える。草丈5~10cmで、地面を這って葉腋からランナー(枝)を出して増える。花の後には真っ赤で「美味しそう」な果実をつけるが、これには「毒性」はないが「味」もない。もちろん「甘味」もない。
 ヘビイチゴ属には、この「ヤブヘビイチゴ」と「ヘビイチゴ」の2種しかない。「ヘビイチゴ」はこれよりもすべてが「小さい」と考えればいい。田んぼの畦などに多く見られるものだ。
 花名の謂われは「人が食べないので蛇が食べる」という意味であり、「ヤブヘビイチゴ」は「半日陰のやや湿った藪(ヤブ)に生えるヘビイチゴ」という意味である。
 この「ヤブヘビイチゴ」が生えているということは「弘前公園」にはまだ、里山的な自然や林床が、わずかではあるが現存しているということである。まだ、本来の自然を回復するのには間に合いそうだ。自然の治癒力に期待して、無駄な整備はもう止めようではないか。)


          ☆ 2. 弘前公園は自然的遺産である ☆

「公園維持にカネがかかるので有料にする」というが、ならば自然を破壊するような無駄な整備は止めよ。 

(2)弘前公園から、消えてしまった多くのラショウモンカズラなど植物や蝶たち、それに澄んだ水を取り戻すという視点  

 首都圏在住の人たちから「青森県の津軽地方、特に弘前市を中心に緑が多くて、自然がいっぱいでいいですね。」とよく言われる。見た目には都会よりも「緑」は多いのであろう。ところが、こと「里山」となると首都圏近隣の自治体の方が、はるかに多い。
 弘前市には「里山」が、殆ど存在しない。秋には団栗(どんぐり)をつけるミズナラやコナラ、春にはきれいな花を咲かせるクロモジやマンサクなどが育っている雑木林、林縁には竹が繁茂して春先にはウグイスが鳴き交わすという「里山」が弘前にはないのである。本当に寂しいことだ。
 昨年の「東北自然保護の集い」で「弘前には里山がない」と言ったら、仙台市から参加した人に、「えっ!本当ですか。」と半ばあきれ顔で言われ、すごく恥ずかしい気持ちになったものだ。

 弘前市周辺の「緑」は、大半が全国一という生産量を誇る「りんご園の緑」である。特に岩木山を中心とする「津軽地方の緑」はそれであり、毒性が強く益虫までも殺してしまうという「農薬」の使用も全国で一番多いといわれている。
 津軽地方からは「りんご園の開発」によっていわゆる「里山」がほぼ消滅してしまった。唯一残っている「里山的な自然」は岩木山麓だけである。
 しかし、その貴重な山麓もりんご園や畑の開墾、スキー場、ゴルフ場、ゴミ処分場、または人工物の建設で消滅しかかっている。
 そのような状態の中で、唯一、弘前旧市街地地区に残っていた貴重な「里山」が弘前公園地なのである。だが、弘前公園の「緑」は、東京の名だたる公園等の緑よりもはるかに少ないのである。
 首都圏のみならず、仙台、名古屋、大阪、福岡等の大都市で、「都市の自然を護れ」ということは、ほぼ直裁的に「里山をまもれ」であり、行政自体が積極的に取り組んでいるという報告は多い。ところが、弘前市は造園的な方向に走り、弘前公園本来の自然史や植生を無視した過剰な整備を年々続けてきた。里山の風情を失い、緑が減少したのはその整備が招いた結果である。
 その中で、公園内から、笹藪に咲くラショウモンカズラはまったく影を潜めてしまった。もうこれ以上の整備は止めにしよう。そうすれば「整備に金がかかるので、入場料を徴収しなければいけない」という主張は意味を失う。
 入場有料化という「囲い」をやめて、しばらく「ほったらかし」て、公園の自然の回復につとめ「自然のままの公園」として、開放しようではないか。
 都市公園の構造や建築様式を見慣れている都会からやって来る観光客は、無顔貌、無個性で画一化された都市公園には飽きてしまっているのだ。

 「松の梢ではオオタカが鳴き、草むらや竹藪から子連れのタヌキが出てきて、ちょろちょろ、よちよちと目の前を歩いている」という光景に出会える場所が弘前公園となるように、公園の自然的な遺産の回復に腐心すべきだろう。
 弘前公園に行くと、野生のオオタカやタヌキなどに出会えて、「里山」の風情とお城を実感出来る。タヌキの親子などとの出会いは微笑ましいことである。これらの集客効果は抜群だろう。
 弘前公園の自然遺産を昔の「里山」に戻そう。そのためには過剰な整備を止めよう。 公園整備は「自然植生」を中心に行おう。下草を刈りとらない。藪を剥ぎ取らない。別種の植物を植えない。人が歩きやすいだけの固められた道にしない。自動車の乗り入れはさせない。歩道も拡幅しない。
 公園の「自然的な遺産」が自己治癒と回復していくことに、行政が手助けをしていくことにすれば、これまでの「整備費用」は大幅に浮くだろう。入場料は必要でなくなるはずだ。
 かつては水の天然の浄化作用と景観としての自然の姿が公園にあったのだ。しかし、現在は正常な淡水とはいえず、濁った水となってしまった。
 また、人の手による自然の変異は昆虫の種類と数を減らし、ケブカヒラタカミキリなどの発生を促している。これは松の生木の樹皮を食うが、その数はおびただしく脱出孔から樹脂が染み出しているのを見ると害をなしている可能性があり、幹の明るい面を這い回るので、脱出孔も道路側に多く、松の巨木が道路に傾斜する一因をなしているはずだ。
 一時、道路に対して支柱をしていた松の巨木数本がなくなったことはその証しかも知れない。弘前公園は桜を守るという名目で、多くの先住の「命」を抹殺してきた。そのため、逆に大切な桜や松が害虫の攻撃にさらされているという現実に気づくべきだ。
皇居の森にならい、整備をやめながら自然の回復につとめ、入場無料で自然観察会の出来る「自然あふれる里山公園」として楽しんでもらってはどうだろう。

「弘前公園有料化」という囲いを作る前に様々な視点で議論するべきだ(その3)

2007-11-19 06:45:41 | Weblog
(今日の写真も弘前公園内で撮ったスミレ科スミレ属の多年草の「ツボスミレ(坪菫・壺菫・別名は如意菫(ニョイスミレ)」である。小さくてあまり目立たない花だが、津軽地方には結構あるように思われる。私は市内の「山観」や茂森の「春日神社」境内で見ている。いずれも市内市街地では「小高い」場所である。
 夏目漱石の俳句に…
 「・菫程な小さき人に生れたし」というのがあるが、このスミレをみて吟じたのかなあ想像すると楽しい。  
 句意は『菫はほんとうに小さくてかわいい花である。そんな小さくてかわいい花のような人として生まれたかったものだ。「な」は強意の助詞。』とでもなろうか。
 この「ツボスミレ」を見ながら、夏目漱石の心を動かすほどの小さい「花」が「弘前公園」に、今でもあることに、少なからず、感動したものだ。
 「公園の整備」だけに注力すると、いずれこの「ツボスミレ」も雑草として除去されてしまうかも知れない。そうならないことを願うばかりである。)

          ☆ 2. 弘前公園は自然的遺産である ☆

「公園維持にカネがかかるので有料にする」というが、ならば自然を破壊するような無駄な整備は止めよ。 

    (1)弘前公園をオオタカの棲む森、「里山」に戻すという視点

 弘前公園は昔、鷹ヶ丘と呼ばれる自然の丘陵(里山)だった。
茂森町の「山観」と同じように高台に位置していて、かつては鷹が生息するうっそうとした森だった。
 鷲鷹類は生態系の頂点にいるものである。そこでは鷹狩がされていたそうだ。その名残を示す「鷹匠町」という町が公園のすぐ下にある。鷹が生息し、鷹狩りが出来るということはそれだけ自然生態系が正常で、しっかりした自然度100パーセントの場所であった。
 そこはタヌキ、オコジョやイタチ、アナグマ、ヒミズやモグラ、ホンドリスが生息していた場所である。
 しかし、現在、鷹は生息していない。これは明らかに、自然生態系が壊されてきたことの証明であろう。猛禽類の餌となる小動物が生息していない環境には猛禽類は生息出来ないのである。鷹が生息出来ない弘前公園、ここに鷹ヶ丘という地名はその意味を失ったのである。
 「公園の整備」という時、平川市の「白岩公園」や弘前市の「座頭石」などに、その典型を見ることが出来る。それは「下草をきれいに刈りとってしまう」ことや「竹藪などの剥ぎ取り」などである。これをするとその藪を生活の場にしている昆虫を含めた小動物は、生活の場を失うのだ。死んでしまうのである。
 「弥生地区自然体験型拠点施設」建設計画の中にも、「整備して昆虫等の観察をする」というあほらしい一項があったが、整備したら昆虫はいなくなるのである。
 この程度の、あほらしく、事実誤認としか言いようのないことしか考えられない「弘前市」なのかと思えば、市民としては情けないこと限りがない。

 弘前公園もご多分に漏れず、しかも主に「ソメイヨシノ」という一種の保護と育成のもとに、道の拡幅と路面の固定化、草地・竹藪の剥ぎ取り、樹木の伐採、建造物建設などをしているのである。
 これらは、あくまでも観光客の見た目に呼応するものであって、整備の主眼は「集客」であり、公園の「自然生態系」を保護するという視点はまったく欠如しているものである。
 過剰な整備であり、しかも片手落ちで間違った整備をして、そのために費用がかかるので「入場料」を取らねばならいのだという弘前市の姿勢はおかしい。

 ところが、その一方で、弘前市の鳥「市鳥」選定ということが考えられているそうだ。そこでは「オオタカ」を指定したいという動きがあるといわれている。
 現在、弘前公園の森に「オオタカ」はいない。「かつてはいた」というのでは、絵に描いた餅に等しいではないか。
 公園の自然を取り戻すと、彼らの餌は「回復」する。となれば彼らはきっと公園に戻ってくる。松の梢にとまり、眼光鋭く鳴き交わすオオタカの姿を、いつも見ることが出来る公園、この方が格段に「集客」効果がありそうに思えるがどうだろう。

 有料化(を推進するため)のアンケートを市民からとる前に、公園の自然史と植生から、本来の自然を取り戻すことの手だてを速やかに実行しないと、歴史的な「天守閣」だけを持つ人工の都市公園になってしまうだろう。また、12月議会で「有料化」を承認してしまうならば、その速度は一層早まることは疑いがない。

「弘前公園有料化」という囲いを作る前に様々な視点で議論するべきだ(その2)

2007-11-18 06:14:29 | Weblog
(今日の写真は弘前公園の杉の大橋を渡り、南内門をくぐり、左に曲がって西壕の方に降りて行く途中の右側、つまり城址の南端下部にある流水わきに咲いていたアブラナ科タネツケバナ属の二年草である「オオバタネツケバナ(大葉種漬け花)」である。北海道から九州の山地の渓流沿いなどに生え、高さは20~40cmだ。
 数年前の7月である。岩木山の沢沿いを少し登ったり、下ったりしていた。
 その年は積雪が多く、沢の水は澄んでいたが融雪水を加えてかなり多い上に冷たくもあった。その冷たい水しぶきをシャワーのように浴びながら全身を濡らしている白い小花が目についた。それが「オオバタネツケバナ」であった。「オオバタネツケバナ」は山地の渓流沿いなどに生える植物なのである。ここにも、弘前公園が自然的に見て、「里山」であることの証拠があるのだ。
 稲の種籾(たねもみ)を水に漬けるころに、白花を一面につけることから、タネツケバナの名がついたのである。
 また、果実が熟すと種子を覆っていた皮が反転して、勢いよく種子を四方に飛ばすことから、繁殖力の強さを馬に見立てて、「種付け馬」が転訛して、タネツケバナになったとも言われている。別名はテイレギ(葶藶)、コメナズナ、タガラシなどがある。
 タネツケバナの仲間ははるか昔に稲作の伝播に伴って日本に入って来たと言われている。史前帰化植物かと思えば何となく愛おしい。昔から野菜として利用してきたのだから一層愛おしい。 
 また、日本人にはよく親しまれた植物で俳句にも多く詠まれている。

・種漬花の花の首まで雨後の水      (内山 宏)
・ていれぎの下葉浅黄に秋の風      (正岡子規)

 子規の句は『ていれぎの下葉も浅黄色になってきた。ああ、すっかり季節は秋になってきているのだなあ。風も何となく冷たいよ。』とでも解釈されようか。
「テイレギ」は全体に辛子油を含み辛味があって浸し物や刺身の「つま」に用いてもいいそうだ。愛媛県の松山市附近ではこれを「葶藶(ていれぎ)」と呼び、近くの高井産のものは「高井の葶藶」と呼ばれ、その地の名物となっているという。子規にはなつかしい故郷の味なのだ。)

        ☆ 1. 弘前公園は歴史的遺産である ☆

(2)風水説から読み解くと「弘前公園天守閣や本丸」は町並みから区切られ「隔絶」された場所ではないという視点

 弘前公園は歴史的・文化遺産であると同時に、自然的遺産でもある。有料化の議論には、この視点が必要である。だが、どうも、「都市公園」的な視点が中心にあり過ぎて、しかも「観光開発」と「集客」という方向に傾斜し過ぎているように思える。

 まず、歴史的・文化的遺産という面で、「風水」(山川・水流などの様子を考え合せて、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及。風水説。岩波・広辞苑から)に関して見てみよう。

 天守閣が立つ弘前公園は、風水をうつしとっている。風水では東北の方向が鬼門なので、天守閣周辺の堀は西、南、北の方角で「角」になっている。それに対して、東の方角だけは「角」がなく五角形のような「角」があまり目立たない構造になっている。
 これを「鬼門くずし」と言うそうだ。更にその東北には鬼門くずしの神社が祭られている。「有料化の是非」と「有料化による隔絶化」を考える時、次のことが非常に重要になってくるだろう。
 「鬼門くずし」のさらに、東北には「茶畑町」(現在は野田地区「コープあおもり」周辺)がある。事実、この場所では茶が栽培されていたのである。
 その昔、「茶」(ちゃ)が転訛して「邪」(じゃ)と読まれていた。そして、「茶を摘む」は「邪を摘む」に転じ、「邪悪なものを摘み取ってしまう」という意味を持っていたのである。
 この「風水説」からも「弘前公園天守閣や本丸」は町並みから区切られ「隔絶」された場所ではないことは明らかである。

 弘前市の旧市街は「弘前公園天守閣や本丸」を含んだ「同一区画」と捉えられるものだ。ここに立脚して考えると、精神的にも物理的都市構成性からも「有料化」という「鬼門」で区切られるものではない。
 有料化を撤廃して、自由に出入りが出来るようにしておかないと「邪を摘み取る」ことが出来なくなって、「弘前公園天守閣や本丸」に災いが起きるかも知れない。
 有料化していなかった時に戻して、以前同様を維持して開放すべきである。

             ●●●お 知 ら せ●●●

☆「公園有料化」に関する情報の報告と今後の在り方などを考えるための集会を今日開催します ☆
      多くの方々に、参加してもらいたいと思っています。

   ■日 時: 11月18日(日)午後1時30分~■

   ■会 場: 津軽保健生協本部会議室(弘前市野田:コープあおもり2階)■

    これをお読みの方はよろしくお願いします。会員、一般を問いません。

「弘前公園有料化」という囲いを作る前に様々な視点で議論するべきだ(その1)

2007-11-17 05:50:34 | Weblog
(今日の写真は公園内で咲くモクレン門モクレン綱スミレ目スミレ科スミレ属の多年草「立坪菫(タチツボスミレ)」である。スミレは木蓮の仲間なのである。
 津軽地方では全国的にスミレと呼ばれる「ノジスミレ」は少なく、「ツボスミレ(別名:ニョイスミレ)」やこの「タチツボスミレ」が多い。
 名前の由来には諸説あるが、大工などが木工の際に使用する道具である「墨入れ」がなまったものであるという。墨入れは、糸に墨を吸わせてピンと張り、板などに糸を打ち付けて鋸などで加工する際の直線を描く道具である。
 この墨壷と糸巻きを組み合わせたような形が、花を横から満たす型にそっくりであるというわけなのだ。他に、古代の武具の隅入旗とスミレの花とが大変よく似ている からとの説もある。

 芭蕉の俳句に「山路来てなにやらゆかし菫草」というのがあるが、「梅の咲いている山越えの道でふと何か小さい草花の咲いているのに気づいた。何となく心惹かれることよ。」が句意である。ここで詠じられている菫草は「タチツボスミレ」だろうと言われている。
「タチツボスミレ」は「山路」に咲く花なのである。弘前公園は「山路」を持つ場所、里山なのだ。
 春の花は多い。その多い中でもスミレは梅などに、目立つ顔としての立場を奪われているが「春の花は何たってスミレだ。」という存在感をどこでも示している。その意気込みみたいなものを芭蕉は感じ取ったのかも知れない。)

        ☆ 1.弘前公園は歴史的遺産である ☆

(1)囲いのない郷土精神形成の「本丸から見る岩木山」という風景を取り戻すという視点

 岩木山は有形だが、津軽の人にとっては無形の象徴なのである。みんなが共有できる象徴なのである。その「無形の象徴を含む風景を見ること」に対して課金し、対価を求めることが「弘前公園有料化」である。
 だれもが、これまでは金銭的な束縛のない中で自由に「本丸に上がり、岩木山に向かい合掌して岩木山を拝む」という信仰的な行為は、弘前市民にとっては廃藩置県以来の長い長い歴史的な慣習であり、無形の文化でもある。
 このような歴史的な慣習・文化をいったい誰が、勝手に一方的に、まるで「拝観料を取るような決まり」にしてしまうのか。

 弘前市出身のジャーナリストであり、高名なルポライターである鎌田慧は、朝日新聞2004年10月31日発行「環境ルネサンス」に「故郷の風景 カネにかえるな」という題で次のように書いている。

『高校の同窓生に呼ばれて、久しぶりに故郷の青森に帰った。自然保護に取り組むグループの創立十周年を記念する集会である。「わたしの岩木山」というテーマ与えられたのは、このグループが岩木山のスキー場開発に反対してきたからだ。
 山に対座し、眉をあげて内省するという文化は、日本だけのものではないが、いまでも「お山参詣」として登山の風習を遺す津軽では、それぞれに岩木山への想いがある。
 わたしは弘前公園の本丸から眺める岩木山にもっとも馴染みがある。自宅が公園に近かったので、高校生のころなどは、毎日のようにここから山を眺めていた。西の空の一郭の佇立する山は、季節によって近くなったり遠くなったりした。
 太宰治がはじめて本丸から岩木山を眺望したとき、足許の水草に覆われた濠のひろがりを、「隠沼」(こもりぬま)といい、眼下の民家のつながりを、「夢の町」といった。
 太宰が師と仰ぐ「私小説の神様」こと葛西善蔵は、酔っぱらって本丸にあがり、岩木山に向かって唾を吐きかけ、「あたりに山がひとつもないから、高くみえるだけだ、自惚れちゃいけないぜ」と毒づいた、と葛西に師事していた石坂洋次郎が書いている。
 講演が始まる前に、本丸にあがってみようと、追手門までいった。と、市の高札があって、本丸への入場は「大人三〇〇円」とある。公園の中には生活道路があるのでおかねはとれない。だからといって、いちばん景色のいいところだけを有料にするというのは姑息というものである。
 わたしは手ひどく裏切られた気がして、棒立ちになっていた。
 環境権や日照権や景観権があるように、眺望権というものもあるはずだ。これまで、市民がこころのふるさととしていた風景を、だれかが勝手に囲いをつくって出入りを禁じ、カネを要求するなどできないはずだ。
 それは故郷を売る行為でもある。カネ、カネ、カネ。郷土の精神を形成してきた風景までカネにかえようとする貧しさが悲しい。』
 その時、鎌田は『弘前公園本丸への入場料を無料化するのも「岩木山を考える会」の活動の一つであるという指摘・提言した。そして、岩木山から多くのことを考えさせられているのである。私たちは岩木山から多くを学ぶのである。』とも言ったのである。

 「入場料」をとればそれを支払った人には、その代価として多くの現実的な要求権が付与される。弘前市はその要求に従わなければいけなくなるということを知っているのだろうか。
 たとえば、「この枝が危険だ」と言えば切らなければいけなくなる。「水たまりがある」といえば整地しなければいけなくなる。
 「ここにはこの木を植えろ。この花を、あの花を植えろ。」といわれるとそれに応えるようにしなければいけない。「花壇を造れ」と言われるとそれに応える。「何々がよく見えないので高い建造物を造れ。」「噴水を設置しろ。」「雪洞の灯りや石灯籠を増やせ。」「もっと長い期間、桜を楽しめるようにソメイヨシノ以外の桜を増やせ。」等々ときりがなくなるであろうことを承知しているのか。
 しっかりした「定見」と本来の「弘前公園」の存在意義とその価値を認識し、それに固執し頑なに守るべきだろう。
 古来から悠久不変の歴史的な弘前公園が、その要求に応えることでどんどんと変貌し、ついにはどこにでもある個性のない無顔貌な都市「公園」になってしまうかも知れないのだぞ。
 公園を、悠久の、あるがままで保存・保守していくには雑多な要求は不要である。何よりも「不動で永遠性ある弘前公園の基本的な姿」を弘前市が持たねばならない。
弘前市にはそれがない。これは市民にとっては不幸なことだ。
 市民の精神的な風土からは「弘前公園は弘前市街地区と隔絶しては存在していないし、市民が住んでいるところと密接につながっている」のである。それを「有料化」という囲いで区切ることは、公園と市民の精神的な風土との断絶を意味する。出入り自由にしておくことによって市民による公園の自主管理が初めて可能になるであろう。
      
          ●●●お 知 ら せ●●●

   日本山岳会のホームページに私が撮した岩木山の写真が6枚掲載

 見たい人は、日本山岳会のホームページ http://www.jac.or.jp/にアクセスして下さい。
 そのままでも見られますが、左欄の「支部の山を紹介」青森県支部 岩木山をクリックすると説明文と写真が見られます。

弘前公園有料制見直し、12月議会で承認か。だが議員諸君!その前にすることがたくさんあるぞ

2007-11-16 05:52:38 | Weblog
(今日の写真は公園内の川沿いに咲いていたキンポウゲ科キンポウゲ属の多年草「キンポウゲ(金鳳花)・別名をウマノアシガタという」である。これも少なくなった。  この川は堅田方面に流れて、加藤川に注いでいる。いわば、撫牛子や大久保、百田の北西側と清野袋の南東側の田んぼを潤してきた農業用水である。
 「キンポウゲ」はその昔は、田んぼの畦や堰の堤にたくさん咲いていた花だ。今では何処の田んぼでも見られなくなってしまった。
 しかし、今でも公園のここ、「堅田」と呼ばれる田んぼに連なる公園内の用水堰の岸辺に咲くのだ。今は「堅田地区」も住宅地になってしまったところが多い。
 田んぼから咲く場所を奪われた「キンポウゲ」が公園地内で、ひっそりと自らの生命を保っていたわけである。弘前公園とはこのように、すでに「あったところから消えた」植物までを育むほどの自然を残している場所もあるのだ。
 だが、これまでのように不見識で、一極的な「整備」を進めて行けば、早晩これら「キンポウゲ」も消滅するだろう。)


☆ 弘前公園有料制見直し、12月議会で承認か。だが、その前にすることが、たくさんある・白紙に戻し、多くの視点で議論をすべきだ ☆

弘前市や弘前市議会は、どのようなカテゴリーをもって「弘前公園」をとらえているのだろう。
 「弘前公園」は3つのカテゴリーとしての内容と要素を持っている。1つは「史跡公園」であり、2つは「自然公園」であり、3つは「都市公園」である。
 ただし、津軽の人にとっては、もう一つのカテゴリーを加えなければいけない。
 その4つとして、それは岩木山と対峙し、重ね合ったところの市民感情としての「ふるさと」であり、市民の「原風景」であるということである。
 「故郷や原風景」というものは、行政や大企業が勝手に改変して変貌させてはならいことが原則である。特に行政は、これらの「無常」性を極力抑えて、永遠性を保持するように努めることが求められるのではないか。
 これまでは、それに応えて、行政が勝手に改変してこなかったから、それは伝統的な意味合いをもって継承されてきたのだろう。
 だが、今は違う。「弘前公園」のみならず、市内のいたるところで「改変」と「消滅」が見られ、「故郷や原風景」と呼ばれるものが少なくなっている。

 弘前市や弘前市議会は「弘前公園」をどのカテゴリーの公園にしようとしているのだろうか。それがよく見えない。見えるのは「整備費捻出のため」ということとそれに呼応した「入場料徴収」ということだけである。その上、「弘前公園」をどのカテゴリーの公園にしようとしているのかについての説明が、まったくない。
 弘前市は「弘前公園」がこれまで市民から「どのように受け止められ、どのように受け入れられてきたのか」についてはまったく不問だ。その裏返しで、今後市民にとってどのような意味を持つ公園にしていこうとするのか、その定見がない。
 「史跡公園」なのか、「都市公園」なのか、それとも「自然公園」なのか、または、この3つの総合体なのか、それぞれ2つずつの組み合わせなのか。それが見えない。
 市民には、市民なりの「公園」観がある。
 それをどのように集約したのか。まさか、あの2回のアンケートだけとは言わせないぞ。市民からの回答は、1回目が147人、2回目が60人からのものに過ぎないではないか。これだと「集約」という意味を持たない実数であり、その意味では虚数に等しい。

2003年12月8日付けの朝日新聞(青森県版)には…

『弘前公園の有料化・白紙に戻し活用議論を…
 「(1)もうけ話の根拠があいまいなまま(2)もっと吟味が必要という周囲の忠告を無視して突っ走り(3)揚げ句の果て、予想が大外れで減益」…となれば、まともな民間企業なら担当者は更迭、事業は即中止で、承認した社長も株主らの責任追及を免れまい。役所だって同じ。結果責任は厳しく問われないといけない。

 弘前市が市民の反対を押し切って、今年始めた弘前公園の実質通年有料化は、「増益」のもくろみがはずれて1200万円余の減益となった。公園の管理費を賄うために「受益者負担」で増収を図る、という有料化の論拠が根底から崩れてしまった。
 ただ、これは驚くに値しない。増益の積算があいまいなことは最初から分かっていた。市がさくらまつり以外の有料入園者を24万人(実績11万人)と見込んだ根拠は、隣接する「ねぷた村」に来た人の7割が 公園へ足を運び、さらにその7割が有料区域の本丸に入るという試算に基づく。
 ところが、「7割」を裏付ける客観的データは何―つない。過大な数字だと議会で追及された市側は「あくまでも推計」としか答えられなかった。この不透明な政策決定の突っかい棒が、金沢隆市長の有力後援者が仕切る都市公園管理審議会と、市提案の議案をスムーズに通すことに腐心している市議会与党である。
 審議会や議会の中には全域有料化すべきだという意見すらある。弘前公園は史跡であると同時に都市公園法に基づく公園で、本来は誰もが入園料なしに入ることのできる自然空間である。「受益者負担」を持ち出す前に、市民公園の歩みを振り返る必要がある。

 まずは、観光とは別の視点で公園の利一活用を市民ととことん議論すること。市の担当者は「公園をグレードアップしたい」と増益に向けた誘客策を語っているが、有料化を白紙に戻すのが筋だ。それが市民を欺いた公の責任の取り方である。(早坂敏文)』
…とある。

 「弘前公園有料化」の経緯と事実はまさにこの早坂記者が書いたとおりなのである。
このように「有料化の論拠が根底から崩れてしまった。」とマスコミが指摘していたにもかかわらず、弘前市はその後、4年以上もこの問題に真剣に取り組んできたという形跡はない。
 しかも、金澤市政を批判して当選した相馬市長が、この「轍(わだち)」を踏むとはまったくおかしいことだ。これでは相馬市長が「新しいまちに新しい風を」というスローガンを掲げたことの真意は一体何だったのかと頭を抱えてしまう。
 『スローガンとは「公約」である』と市民の多くは理解していることを忘れたわけではないだろう。

 ●●● お 知 ら せ ●●●

 HP管理人の葛西さんが「岩木山のコマクサ」問題に関する記事と写真をPDFファイルで掲載してくれた。本会ホームページの左の欄の◆新着更新Blogをクリックして下さい。
 すると、その下段に…http://www.iwakisan.jp/genba/iwakisan_komakusa2007.pdf という表記があるので、それをクリックすると【岩木山を考える会 岩木山の「コマクサ」問題を考える】というPDF「画像と解説文」10ページが表記されます。皆さん、トライしてみて下さい。
 ただし、Adobe Readerがインストールされていないと表記されません。まだインストールされていない方はAdobe ReaderのHPからダウンロードして下さい。(葛西さんお忙しいところ有り難うございました。)