岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

プロセスを切り取る登山と通行人的な登山

2007-07-15 05:59:44 | Weblog
 登山における「岩登り」とは、登山全行程に見られる一プロセスである。時には、この「プロセス」を全く体験しなくても登山行為は完結する。多くの登山客や登山者は、この「プロセス」とは縁のない「登山」をしている。
 ところで、人生でもっとも多感な若い時期を、自然から切り離された無味乾燥で生き物が存在しない人工壁で過ごすことは、この人の将来を考えると「何と可哀想なことだろう」と私には思える。
 この人たちは確かに身の軽さからの身体的な運動の「バランス」は抜群だろう。アクロバット的な身のこなしが出来るのだ。
 確かに「クライマー」にとって、それは大事なことである。ただ、評価として「センスやバランスがいい」と言うことはおかしい。時としてこの「センスやバランスがいい」という評価はその人の「人格的な評価」にまで波及する。多分にそれは、山岳会内部における「岩登り」偏重主義者たちがリーダーシップをとりたい時の方便として「粉飾」されるものである。
 長い人生的な意味において「人工壁的な岩登りのセンスのよさ」などは大した問題ではない。
 それよりも成人・大人となった時の「自然と人間」という指針的な意味においてバランス感覚に、偏りが生ずる恐れのあることのほうが遙かに問題だろう。
 そしてただ、これだけに終わっている者にとっては「山」という自然は希薄なものであろうし、到底、「山岳自然の保護」思想などとも縁がないことになるだろう。
 「岩登り」に傾倒していた、とある山岳会の会長が、「岩登り」が出来ない者は「登山者」とはいえないというニュアンスと「岩登り」が出来る者を一段技術的に上位にある者という意味を込めて、盛んに「センスがいい」といっていたことを思い出す。ただ、私は、その人から一度も「センス」がいいと言われたことはなかった。

 「異常気象だ、温暖化だ」とテレビ、新聞、そして、私たちも時には口に出す。
 しかし、言われ出してから40数年にもなるというのに、その対策がとられているかというとそうではない。
 その原因が、樹木の伐採と二酸化炭素の増大だということがはっきりしているのに、二酸化炭素を吐き出す自動車の数は減らないどころか増えているし、炭酸同化作用で酸素を作り出す樹木や草原は減る一方である。また、化石燃料の消費も止まることを知らない。
 自動車で遠い登山口までという山行は、今や当たり前になっているだろう。
 ただ単なる時代の流れに身を任せる通過者になってはいけない。それは未来世代にツケを残すだけの者である。
 そして、私たちは通りすがりの登山者にはなるまい。「通行人その一」という役割しか担わない「通行人的な登山者」にはなるまい。
 この道は次に誰かがとおる道だ。この山は次に誰かが登る山だ。私が得た感動を次の人たちも得ることが出来るようにを常に意識して登ろう。
 自分たちだけが、腹一杯食べて未来の人に何も残さず、将来は「もっとよくなるぞ」では勝手に過ぎる。
 これでは登ってしまえば、「はい、それまでよ。」という登山者と同じだろう。「日本百名山」病に取り憑かれた登山客や登山者の多くには、この傾向が見られる。飽食と消費に明け暮れる日常を「山」に持ち込んではいけない。
 「山」では節制ある生活をして、その延長線上に里での日常生活があるのだと私は最近考えるようになった。
 時代の通過者は単なる通行人的な登山者、つまり、山の単なる通過者はやはり「時代の単なる通過者」である。