岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

雪上に背丈を出す、これまた暖冬、少雪の所為なのか

2009-01-31 05:34:03 | Weblog
(今日の写真は1月9日に百沢尾根で出会った角榛「ツノハシバミ」(?)の雄花である。(?)マークをつけたのは「定かでない」ということだ。私はそう思っているが間違いかも知れない。雪のない時季に「生えている場所」を確認していたので、恐らくあっているとは思うのだが、「絶対」そうだとは言い切れない。これは「姥石」の近くで撮ったものだ。)

これはカバノキ科の低木で2mほどになる。標高700m辺りまで生えている。樹下に積雪を置いて雌花をつける。雄花は夏から芽を出して長くなって下垂して冬を越す。
 「ツノハシバミ」は北海道、本州、四国、九州に分布している。夏緑広葉樹林やアカマツ林などの「明るい二次林の林床や林縁」や通称「ヤブ山」の日当たりのいい場所に生育している。
 雌花は4月、残雪がところどころにある時季に、葉が出る前に開く。雌花序は、鱗片の間から「濃い紅色の柱頭」だけが出ていて鮮やかだが可憐である。
 それとは対照的なのが雄花や雄花序であり、まったく地味な褐色をしている。
 果実は10月に熟し、「くちばし状」に長く伸びた特徴ある形となり、これが名前の由来にもなっている。
 殻には全体に刺毛が密生しているので、素手で採取すると「チカチカ」と刺さる痛みを感じる。
 世界には約20種あるという。日本には榛(ハシバミ)と角榛(ツノハシバミ)の2種がある。この2種は「日本の特産種」といってもいいそうだ。
 4、50年前には榛が里山でもよく見られたが最近は滅多に見られなくなった。目にすることが出来るのは、かろうじて角榛である。

ツノハシバミの雌花は、まるで「生命をいっぱい貯えているものが示す恥じらいと慎み深さにはにかむ山里の乙女」である。
 その実際はこうなのだ…。花の足許はまだ積雪で覆われれている。小さい花だが生命をいっぱい貯えているものが示す恥じらいと慎み深さにはにかむ山里の乙女と言えるかも知れない。懐かしさと忘れえぬ味を運ぶ昔日に、豊穣の命がびっしりと詰まっているような実、これが未来へと永遠の命をつないでいくのである。

 少年の頃、食べた記憶にはもう一種の「ハシバミ」がある。これはカバノキ科ハシバミ属の落葉低木「榛」である。「オオハシバミ」のことだ。
 残念ながら「岩木山」ではまだ出会っていない。決して「自生」していないわけではないのだ。ただ単純に「出会う」機会がないだけだろう。
 私は小学校の高学年や中学生の頃に、よく「野遊び」に出かけたものだ。
 その行き先は久渡寺山の北東麓や旧陸軍が使用していた「水源地」周辺のヤブ山だった。そこには、高さが2~3mほどで、ほぼ円形で先端が急にとがって、紫色の斑(ふ)が入った葉をつけた雌雄同株の「ハシバミ」が沢山自生していたのである。
 春になると小花が穂状につき、雄花は黄褐色、雌花は紅色だった。ツノハシバミの花に似ている。
 秋が待ち遠しかった。そして、秋になると勇んで出かけたものである。お目当ては「ハシバミ」の実である。ツノハシバミと同じように堅い果実であった。
 だが、ハシバミの堅果は「葉のような総苞(そうほう)」で下部が包まれていた。そして3cmほどと大きく、形も扁平であり、円錐形の小さな栗を思わせるようなツノハシバミの実とは違っていた。

 とにかく食べると美味しかった。この美味しさは今でも、記憶の底に残っていて、いつでも思い出すことが出来るのだ。ハシバミは、ヘーゼルナッツの近縁で堅果は食用となるのだ。
 別名を、葉が「オヒョウ」に似ていることから「オヒョウハシバミ」という。
 これは北海道から本州、九州に分布している。「オヒョウ」はニレ科ニレ属の落葉高木で、日本列島から東北アジアの山地に分布する。北海道に多いと言われている。

 西洋では、「ヘーゼルナッツ」というと童話や物語に出てくる懐かしい素材であり、「ハシバミ」は愛と豊穣のシンボルである。
 ヨーロッパでは「ハシバミ」の枝は「占い棒に適している」と考えられてきたそうだ。そして、「ハシバミ」は「魔法の杖」として昇華したのである。
 ギリシャ神話ではヘルメスがアポロから授かった「ハシバミの杖」で人々の心や体の病を癒やしたのである。医学の象徴が「ハシバミの魔法の杖と2匹の蛇」からなっているのはそのことに因るのである。蛇が絡みついている杖が「ハシバミ」なのだ。
 グリム童話の「灰かぶり」では、この「ハシバミの若枝」が不幸な末娘の運命を変える。
 イソップ童話には「少年とハシバミの実」というのがある。ある欲張りな少年が、ハシバミの実がたくさん入った壷に手を突っ込んで、ハシバミの実をつかめるだけつかんだ。
 しかし、壷から手を抜こうとして途中で手が引っかかり、抜けなくなってしまった。
「どうしよう。手がぬけないよー」困った少年が涙を流しながら泣いていると、側にいた人が言った。
「半分で我慢しなさい。そうすれば、すぐに抜けるよ」

 さて、その昔、私が少年の頃にあれほどあった「ハシバミ」がどうしてなくなってしまったのだろう。
 その理由は簡単だ。それは「ハシバミ」の木がなくなったことだ。ハシバミの生えていた場所があるものに「奪われ」てしまったからである。
 「奪った」ものは「リンゴ」である。かつてのヤブ山や里山は、すっかり「リンゴ園地」となってしまった。私が少年期に通い続けた里山はすべて「リンゴ園地」となってしまった。

 西洋では「ハシバミ」は愛と豊穣のシンボルであり、医学の象徴として「ハシバミの魔法の杖と2匹の蛇」を形取る。
 「愛と豊穣、医学」を示す「ハシバミ」を伐採し尽くして、リンゴ園に変えてしまうことが、どれほど罰当たりなことなのかと考えた人たちが一人もいなかったとすれば、それはやはり、民度として文化や精神風土的に貧しい地域と言わざるを得ない。
 また、「ハシバミ」の人為的な絶滅は「精神風土」の消滅の一形態でもあろう。最近では、住宅地の拡大による里山の減少も、「ハシバミ」絶滅に拍車をかけている。
 「ハシバミ」の花言葉は実にいい。「仲直り・真実・調和・直感・和解・一致」である。これを知ったら「伐採」しつくすことなぞ、私にはとても出来ない。

山頂アタックの日、山頂南陵を一気に攻める… (10) /  写真展「私の岩木山」あれこれ(4)

2009-01-30 05:34:47 | Weblog
(今日の写真は、山頂まであと30mほどのところから、先を登る相棒Tさんを写したものだ。題を付けるとすれば「山頂南陵を一気に攻める…」となるだろうか。
 「山頂アタックの日」という記事は、今朝のブログで終わりとするために、この写真を掲載したのだ。だから、この写真の説明と「登高記」はダブることになる。まあ、これまでも、写真の説明やら解説の中で「登高」に触れてきたわけだから許してもらえるだろう。
 急峻な斜面なのだが、「広角」で写しているので何だか、平坦な雪面を相棒が「じいさま」のように腰を曲げて歩いているように見える。斜面の急峻さは、この「前屈み」の角度に比例していることに気づいて欲しいものだ。)

 種蒔苗代の南端から、私と相棒は、まるで「バカ丁寧」に鳥の海外輪北壁を「へつる」ように辿って「鳳鳴小屋」の前に出た。種蒔苗代の上部の積雪状態が確認されない限り、雪崩を避けるにはこのルートしかないのだ。
 下山時に、種蒔苗代の上部の積雪状態を実際に歩いて「足」で確認して、私たちが採った行動があほくさいものに思えたものだ。
 何と雪が締まり、硬く、殆ど埋まらない「キックステップ」と「ワカン」の爪を使えば「楽に」登れる状態だったのである。
 だが、これは今季の「少ない」積雪がなせることであり、非常に「特殊」なことなのである。しかも、晴れていて見通しが良好であったことにも因るのである。
 いくら視界が良好で見通しが利いても「見る」だけでは「雪の質」も、その積雪の「下層」の状態は分からないものだ。
 登り初めて、この「ルート」を採って「正解」だなあと思ったのである。なぜならば、北壁側面の積雪は柔らかく、しかも、膝下まで埋まるという状態であった。しかも、それは硬い下層の雪面に「上層」のそれが載っているのである。ほぼ直立する「北壁」に対して斜度は40度以上で「上層」の雪が積もっている。
 「上層」の雪は厚さが約25cmで軟雪である。斜度が40度以上となれば、そこをトラバースしながら登る私たちの「行動」そのものが「雪崩」を発生させてしまう可能性があるわけだ。
 「危険」な場所からはより速く抜け出したい。しかし、「衝撃」を与えてはいけない。だから一歩一歩「踏みしめ」ながら「ゆっくり」と登る。ここで、「自分」が滑落したら、お互いが「雪崩」に巻き込まれてしまうからだ。
 ようやく、「鳳鳴小屋」に辿り着いた。晴れたかと思うと、また直ぐに雲に巻かれる。「危険な場所」を通過したので、緊張のあまり「喉」が乾く。小屋の東面に腰を下ろして小休止だ。
 私は「山頂外輪の南面を直接降りて、登ってきた大沢源頭部に出たいなあ」とその時ふと思ったのだ。外輪の岩肌は上方から下方に向かって切れ目が出来る。それが長い年月かけて穿たれて、急峻で大きな溝のようになるのだ。
 その溝に雪が積もり、その雪がそれほど硬くない場合は、「キックステップ」と「ワカンの爪」併用の方法で登下行が可能なことがあるのだ。残雪期にはよくこのようなルートを使い、時間の短縮を図ることがあるのである。
 ただし、今回、そのルートを採ることは「見通しが利いて、風が弱い場合」という絶対条件に叶う範囲でということであった。
 雪の殆ど着いていない「一の御坂」を、相棒は脱兎のように、私はよろめきながら、やっとの思いで登り詰めた。
 そして、山頂と対峙した。風はますます強くなる。そこまでの登ってきた「雪質」から判断して、登山道沿いに登るよりも、真っ直ぐ山頂を目指した方がいいと考えて、先を行く相棒に「登るルート」を指示する。
 私は、近づいている「雲堤」がいつ岩木山全山を「雲」で包み込むか分からないので、「下山時」のルート確認のために「山頂南陵」の登りにかかってから「送り」を挿しながら登っていた。
 厳密ではないがある程度の間隔を保ちながら、しかも見えやすい場所を探しながら、1m長の細竹に赤布の付いた「送り」を「設置」しながら、片手に残りの送りを握りしめ、もう片手には「ピッケル」を握りしめながら登ることは、決して「楽」なことではない。
 無風状態であると、それはいくらかは「楽」だろうが、その日の風は、「風」に向かって動こうとすると、体全体が「ふわり」と浮くほどに強かったのである。まあ、これは厳冬期の岩木山山頂付近での「普通の風」である。
 その私を、置いてけぼりにしながら、山頂南陵を一気に攻める相棒は、すでに頂上に手の届くところにいた。
 山頂にいた時間は数分である。相棒は昨年の2月9日に次いで2度目の厳冬期山頂アッタクに成功したのだ。
 帰路、山頂外輪を直接降りることは止めた。それは私が決めた「絶対条件」に叶わない状況になったからである。

          ※ 写真展「私の岩木山」あれこれ(4) ※

(承前)
 写真展に訪れた青森在住の人の続きである。私は「開いた口がふさがらない思いがした。議論をしても無駄だ」と前回書いた。
 しかし、どうも腹の虫がおさまらない。その一つは『「岩木山を考える会」は「岩木山の自然破壊とその変貌」を食い止める活動をしていない。それをしないで、こんな写真展を開いている』というようなことである。
 二つめは「この写真展に出展されている作品は、どれも、写真展に飾られるような技術的なレベルにはない。このようなものを展示しては社会に対して失礼だ」というニュアンスを含んでいることである。

 本会は1994年に「スカイラインと併行してゴンドラを建設して一大スキー場を造る」という構想と「弘前市」と「ひろさきリゾート会社」が進める「弥生スキー場」建設に反対して、創設されたのである。
 このまま「許しておいて」は「岩木山はズタズタにされてしまう」という強い危機感のもと、有志が設立したのである。
 だから、岩木山の自然をズタズタにする有形・無形の行為や動きに対しては、はっきり反対行動をとってきた。本会は「である」存在では決してない。「する」存在なのである。
 何をしてきたかは、また現在、何をしているかは、このホームページ宇アブログにアクセスしてくれている方々には十分、理解されているだろう。
 ただ単に、口先だけの「理論」を振りかざしている組織ではない。あくまでも現場主義に徹している組織でもある。いきおい、その活動は「岩木山自然の諸相」に関わることになり、多面的であり、多種であり、人的な行為にまで及んでいる。
(明日に続く)

雲が織りなす真昼の薄暮 / 写真展「私の岩木山」あれこれ(3)

2009-01-29 05:18:10 | Weblog
(今日の写真は大沢の左岸の岩陵、山頂外輪山につらなる場所である。昨日の写真よりは低いところから写したものだ。
 この写真を今朝掲示した理由について書こう…。
 山の天気、特に「冬山の天気(気象)は変わりやすい」ということの説明のために掲示した写真である。
 それと、薄い雲に覆われた白い世界というものの「幻想的な風景」を知って貰いたいという気持ちもあるからだ。この程度の「薄い雲」までが撮影可能な明るさである。これ以上に白さを増すと「撮影」は不可能だ。「ホワイトアウト」という言葉は何回でも出てくるが、その世界を撮った写真が1枚もないのはその所為である。
 この幻想的な世界も一瞬にして消える。消えた結果は2つしかない。厳格な二者択一を迫るのだ。それは「晴れ」か「白い闇」かである。その意味からも「冬山」登山は厳しいものなのだ。
 さっきまでは「どこまでも見通せる快晴」だった。しかし、一瞬にして雲が湧き上がり、白い闇に包まれる。そうかと思っていると、また晴れる。この繰り返しが冬山の天気なのだ。しかも、この繰り返し続いている時は、日本海から低気圧が近づいているのである。
 果たしてその日も、山頂近くの高みから日本海方向を見たら、すでに、厚い「雲堤(うんてい)」が海岸線上を覆い尽くしていた。天気は崩れる。この薄雲は、その雲堤から湧きだして、岩木山の標高1400m以上の所に流れ込んでは覆い尽くそうとしているのだった。
 薄雲が「消えては湧く」という繰り返しの間隔が「長い」うちに山頂に達して、早めに下山することが私たちには要求されていたのだ。
 だから、「幻想的な風景」に魅入ってはいられない。雲堤が山頂付近まで駆け上がって覆い尽くすと、その後は「ホワイトアウト」の世界になり、西高東低の気圧配置に変わると「吹雪」となり、「ホワイトアウト」は完璧な白の闇に変わる。
 そうなると、まさに視界はゼロ。自分がどこにいるのかも分からなくなる。昨日の続きではないけれど、冬山における「白」とは「明るさ」の象徴とはなり得ない。それは、「真闇」の象徴である。
 この写真から「ホワイトアウト」の恐怖を類推してほしいものだ。雪の白さと雲の白さが一致して、同梱してしまう時のことを、イメージしてほしい。
 だが、どのような「ホワイトアウト」の世界でも「黒」は目立つのである。距離にも因るが「黒い岩肌」は「ホワイトアウト」の中では、十分標識の役割を果たすこともある。
 だが、気象的に異常な今季のような、極端に積雪の少ない冬でもない限り「岩肌」を見せるような岩陵は岩木山にはない。
 この薄雲がすーと晴れると、抜けるような青空に変わる。しかもその色は濃さを増している「青鈍色(あおにびいろ)」だ。
 この青鈍色の空は「春」残雪期の5月頃にピークに達して、梅雨入りの頃には、次第に濃さが消えて、普通の「青」に変わり、天も高くなっていく。
 今季の青空はすでに青鈍色、これは例年ならば4月ごろに見える「空の色」だ。今年の天候は3ヶ月前倒しして進んでいるというのか。
 昨日、28日の「暖かさ」は何なのだろう。防寒コートを着て、手袋をつけて外を歩く機会があった。汗ばむのである。私の気温計は正午過ぎに「外気温」11℃を示していた。春だ。すでに5月の気温ではないか。
 私たちは異常気象の中にいる。暖房のない室内では、陽光が射し込むこともあり「気温」が22℃まで上がった。時は「大寒」なのである。)
 

        ※ 写真展「私の岩木山」あれこれ(3)※

 写真展には様々な人が来場する。それでいいと思ってはいる。しかし、次に紹介するタイプの人への対応は疲れるし、「不毛」の感は免れない。
 その人の言ったことを次に、かなり、はしょって述べてみたい。
 …私は弘前生まれの昭和一桁代の人間だ。若くして青森市に職を得て、それ以来ずっと青森市で暮らしている。青森からも岩木山は見えるが、岩木山が懐かしく毎年1回以上は岩木山を訪ねている。
 ところが、岩木山は年々荒れ果てていく。開発による自然破壊だ。故郷の岩木山が壊されていくことに反対して、誰も岩木山を守ろうとしない。「岩木山を考える会」は「岩木山のそのままの自然を残そう」などと言っているが、その実は「岩木山の自然を守る」ことをしていない。
 私は写真を写すことが趣味である。山の花はすべて「八甲田山」に行って写している。岩木山は荒らされていて、写すに足る花がないからだ。写真を趣味にしている者からすると、この写真展「私の岩木山」に出展してある写真はすべて、「写真展」に出展するレベルにはない。しかも、展示されてある写真はすべて「ブレ」ている。このような「技術的」や「構成的」に未熟な写真を見せられてはたまったものではない。こんなの写真展ではない。…

 私は開いた口がふさがらない思いがした。議論をしても無駄だとも思った。しかし、写真展「私の岩木山」の主題と目的については、はっきりと言った。また腹の底で「そんなに岩木山の破壊が許し難いのなら、あなた自身、自ら自然を守る行動をしてみろ、言っていることはすべて、他力本願と自慢話ではないか」と。
 何とその人、最後に「写真で一番ブレているのが三浦章男のものだ。彼が出版した岩木山・花の山旅に載っている写真もそうだ。」と言ったのだ。
 その点に関しては私も認めているので「そうですね」とは答えたのである。あの人は目の前にいて話している者が「三浦章男」であるということを知っていたのであろうか。

ブログ継続の弁 / 今日の写真「鳥の海爆裂火口北壁」

2009-01-28 05:20:41 | Weblog
 昨日のショックから立ち直った。「ブログを見てびっくりしました。いかにメンテナンスとはいえ、書いてる内容が飛んでしまってはたまりませんね。お察しいたします。しかし、直接ブログに書いているとは知りませんでした。やはり基本は軽いエディターか何かで下書きをして、それをコピーするというのが安全上確かな方法だと思いますよ。ここでやめるのは、なんとももったいない。是非継続されることを期待します」という励ましのメールがTさんからあった。
 また、ブログのコメントにもMさんからの「励まし」の書き込みもあった。勇気を与えてくれたTさん、Mさん、本当にありがとう。それに毎日読んでいるというSさん、一方的に「止める」と怒鳴ってしまって、申し訳ないことをしました。
「便利なものは不便だ(原稿欄に直接入力出来ることは合理的で便利だ。別なところに書いて、それを貼り付けることは二度手間ではないか。しかし、残滓一つなく消し去ってしまうという「電子的」な処理は取り戻し不可能という点では不便だということ)」という憤りを温存しながらも、そして、Gooブログを「愚ブログ」と打擲しながらも、自分の愚かさも反省した。気を取り直して書き始めたが、やはり消失してしまった内容とは「違う」のである。昨日の原稿に比べると倍以上に長くなってしまった。だから、※ 写真展「私の岩木山」あれこれ(3)※は明日の掲載としたい。

(今日の写真は昨日のものと同じである。鳥の海噴火口北壁の全容である。左端の尖った岩には名前はない。右に見える双耳峰のような岩陵全体を「御倉岩」とか「大倉石」と呼んでいるらしい。
 その手前の右に駆け上っている岩陵は種蒔苗代と呼ばれている爆裂火口が造りだした外輪山の裾野だ。この頂部は中央火口丘「岩木山山頂」の外輪岩陵につながっている。
 言ってみれば、この辺りはかつて激しい噴火や造山活動があった場所で、「火山の成り立ちとその終焉と現在の姿」をそのまま見せてくれる場所なのである。
 だから、この辺りまできたら、夏場には「時間」を割いて、ゆっくりと観察し「岩木山の成り立ち」過程に思いを馳せて貰いたいものだ。
 ただ、残念ながら、この大沢源頭部を通る「百沢登山道」は急峻なので、「この辺り」に来ると、大概の登山者は「疲れ果てて」いて、身体的に「観察」をする余裕を失していることが多い。
 「スカイライン」と「リフト」でやって来る「疲れを知らない」登山客の嬌声が一の御坂から聞こえては来るが、種蒔苗代脇を登る、百沢から登って来た「登山者」たちの声はまず聞こえない。
 私は勝手に次のように規定している。「大きな声を出したりぺちゃくちゃ喋りながら歩くのが登山客、黙々と歩き登るのが登山者である」と。
 今季は降雪が少ないので「岩陵」も所々に、その「地肌」を見せてくれる。この黒い岩肌が、この写真にメリハリをつけているのだ。
 真っ白なだけだと単調である。尖塔や鋭い岩の裂け目もすべて雪に覆われてしまうと「岩陵」というイメージは消える。これも、そうなると「寝そべる白いカバ」にしか見えない。「尖」と「鋭」がなくなってしまうからだ。
 「白い歯」には清潔感を見る。これは「白」という色彩に「清潔」というイメージを持つからである。歯磨きの宣伝はこれが主流だ。洗剤の宣伝にも「白」が活躍する。これも清潔というイメージだが、加えて「明るさ」と「純」を、そして「白」とは縁がないであろう「柔らかさ」までを主張する。
 清潔、純粋、聡明、知性、爽快感などを演出したい者はこぞって「白」に拘り、白いシャツなどで決め込む。これらは皆「白至上主義」だ。アメリカの「白人至上主義、黒人排斥運動」団体KKKに紛うかも知れない。
 「色彩」からすると「白」は寒色である。冷たく冷徹というイメージの色だ。それがどうして、「清潔」「純粋」「聡明」「知性」「爽快感」などということにつながっていくのか私には不思議でならない。「黒」は暖色の雄である。
 この写真は「黒い」部分があることによって「岩陵の存在」を明らかにしているのだ。
「黒」は大事だ。囲碁もオセロゲームも「白い石」だけでは「勝負」にならない。アメリカも黒人がいる。その中からオバマ大統領が生まれた。これでアメリカという国も「メリハリある」国になるだろうと、いくらかは期待している。
 「白黒つける」ことは、よくない。偏在する決着の付け方は間違いだ。様々な色彩によって自然は成り立っている。人間社会も同じなのである。「特定の色」だけを珍重する風潮を早めに捨て去ろう。
 「白黒」にだけ拘っていては、先に進まない。写真下部全体に見られる雪上の筋を「風紋」という。風によって造られる模様のことである。この模様の造られ方や形から、常時吹き付ける「風向」が分かるのである。
 岩木山はその西面で、季節風の吹き出しを受ける。西面の大きな沢は「赤沢」だ。その赤沢を風は怒濤のように駈け登る。その一部は一気に、山頂まで駈け上がって東に抜ける。そして、その一部は山頂と山頂外輪の「耳成岩」の間を抜けて、大黒沢方向に疾走する。さらに、その一部は「鳥の海噴火口」を目がけて突っ込んでくる。
 そして、大沢の源頭部であるこの場所になだれ込むのである。「噴火口」で対流した風は、さらにエネルギーを増して、伴った雪を大沢中部に「吹き留める」のだ。だから、この場所は例年、積雪は少なく、雪面も氷化している。
 この「風紋」はそんなことを教えてくれるのだ。「西高東低」という安定した冬型の気圧配置であれば、視界不能のホワイトアウトの中でも、大沢を「風」に向かって登って来ると、この場所に達することが出来るのだ。だけれど、そのような日には「登らない」方がいい。

(追記)8時30分過ぎにKさんから電話があった。実は「昨日の記事」を見て、本気で「ブログ」を止めてしまうのか心配していたというのだ。
 そして、今朝開いてみたら、また「しっかり」と書かれていたので安心したという内容のことを話してくれた。
 営業で利益を上げるために出版される雑誌ではない。そのようなものであれば採算性がなければ一方的に廃刊してしまうが、私のブログは「営利追求」のものではない。たとえ、1人でも読者がいる限り「続ける」ことが大事なのである。
 そのようなことをKさんは教えてくれたのだ。ありがとう。

山頂アタックの日 (9) / 写真展「私の岩木山」あれこれ(3)

2009-01-27 05:45:37 | Weblog
(今日の写真)

 書き終えて、投稿ボタンをクリックしたら、「ただいまメンテナンスのため機能を停止しております。9時30分ごろまでお待ち下さい。」という画面が出た。
 9時30分が過ぎたので「投稿」画面に戻ったら「原稿欄」は(今日の写真)という文字だけ。
 それにタイトルの「山頂アタックの日 (9) / 写真展「私の岩木山」あれこれ(3)」だけ。2300字ほどの本文はきれいに消えていた。二度と同じ文章は書けないものだ。それを知っているから喪失感は大きい。よし、思い返して書こうかという気分にはなれない。だから今日はもう書かない。全く別なことならば書けるだろう。

 何ということだ。全身の力が抜けた。虚脱状態。もう「Goo」ブログは止める。こんな愚ブログ、無料とはいえあんまりだ。「愚かなブログ」グーブログ。
 読者の皆さん。さようなら…。

 因み、今朝書いた内容の概略を1行で…
 「写真」について、「白だけだとつまらない岩陵の写真、黒い岩陵がメリハリをつける」
 写真展「私の岩木山」あれこれは岩木山を考える会は岩木山の自然を守ることをしていない・展示されてある写真はすべてブレている。こんなの写真展ではないと言った人のこと。
 Tさんとの山行、雪質のこと、ルートのこと、風のことなどについて。

 以上を2300字ほどの文を約2時間30分かけて書き上げたのに、勝手に「メンテナンス」といって「消して」しまう手はないだろう。あんまりだ。もういい。
 さようなら。さようなら。さようなら。

思い起こせばこの2年間の間に「書いた原稿」がワンクリックで消失したことがたびたびあった。それに耐えながら続けてきた。毎日書いてきた。来月22日で丸2年になるというのに、この仕打ちはあんまりだ。どこにこの思いをぶつければいいのだ。

さようなら。皮肉なものだ。投稿日時はそのままだ。さようなら! 

山頂アタックの日 (8 ) /  写真展「私の岩木山」あれこれ

2009-01-26 05:49:50 | Weblog
(今日の写真は標高1300m地点、夏場であれば錫杖清水のある辺りの大沢上部からさらに上部を写したものだ。
 左が鳥海山の斜面であり、右側が山頂外輪壁の岩陵だ。というわけで、夏場はこの辺りでも「標高」が上がるのに従って「谷」が浅くなってくる。浅くなってはきても「V字谷」であることに変わりはないのだ。
 だが、この辺りは「いつの冬」でもこのような「浅い」谷へと変身してしまうのである。
 「V字谷」から「U字谷」に変遷し、さらに積雪が増えると本当に浅い「U字谷」となる。しかし、「平ら」になり、さらに底辺が盛り上がって「逆U字の山」になることは絶対にないのである。
 何故ならば、ここは「岩木山の西面」が受けた季節風の「通り道」となっており、「鳥の海」噴火口から吹き上がってきた「強風」が雪を蹴散らしてしまうからである。つまり、吹雪の場合は雪が積もらないし、積もった雪も風で下流に運ばれてしまうのである。
 この写真、名付けて「自然の造化・放物線」である。この穏やかで優しい「線」、どこにも「突起物」はないし、ひこみもない。凹凸の一つもない。これは雪面と青い空が織りなす「雪際」と「雪の端」の競演である。
 何人かの数学教員から「数学」の授業を受けた。私は経済的な理由で高校の「編入」と「中途退学」を繰り返した。卒業した高校は5校目であった。
 だから、それこそ何人かの教員から「数学」を学び、この「放物線」に出会った。そして、面白いことに気がついた。それは「放物線」の描き方に「巧い」と「拙い」があるということだ。
 目の前になだらかに広がって弧を描く「放物線」は、私が教わったどの教員が描くものより「巧く」すばらしいものだった。
 やはり、「自然」は人を越えるものだ。人は自然に抱かれることはあっても、決して「乗り越えよう」などと考えてはいけない。)
 

    ※十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (8) ※

 相棒Tさんは直ぐに追いついてきた。トップを交代する。雪面に出ている低木に沿って登っていく。低木の姿が消えた辺りで、「大沢」の底部を目がけて「斜め」の降りる。
 この辺りになると「沢両岸」の急斜面からの「新雪表層雪崩」を心配する必要は全くない。低温と風が強いので雪面が氷化していて硬いからだ。ただし、春先には「全層雪崩」が発生する場所でもある。
 それに、斜めに降りる理由は、せっかく登った「高さ」を「低め」たくないからである。
 大沢の中央底部に降りた。雪がいくらか多く、埋まり方も深くなる。そこをひたすら、相棒のTさん先導で「ゆっくり」と登って行く。
 そろそろ、「鳥の海」噴火口外輪壁に立つ「尖塔」のような「岩」が見えてきてもいいのになあ、と思いながら行くのだが、なかなかそれが見えてこないのだ。
 夏場だと、先ず「尖塔」のてっぺんが見えだして、登るのに従い、全体が見え出して、横長の外輪壁全体が見えてくるのだ。
 ところがその日は、登れども登れども「見えない」のだった。行く手には今日の写真の「放物線」が広がるだけなのだった。
 何故見えてこないのか。「尖塔」は夏と同じように定位置にある。移動したり沈んだりするのであれば、それは「岩木山の怪異」でしかない。
 それでは、見えない理由は「位置変化」でしない。つまり、こうだ…。
 「強風」によって降雪は吹き飛ばされ「積もらない」と書いたが厳密には「積もる」し「谷を埋めて」いるのである。ただ、昨年、今年と季節風の吹き出しは弱くと積雪も少ない。だが、確実に「谷」を雪は埋めて、眼前の雪面は「雪のない位置」よりも高くなっている。その高まりが私たちの行く手を阻んで「見えないよう」にしているのである。
 ただ、これは「一様の降雪量」「積雪量」であれば、全体的に高い位置になるので、夏場と同じように見えるはずなのである。
 「見えて来ない」理由、つまり、「登れども登れども、目前に広がるなだらかな放物線」が続くのは「大沢上部」に雪が吹き溜まっていない、雪が少ないことに因るのだ。
 厳冬期の岩木山、それは毎年違う姿を見せてくれる。同じ「様相」は一度もない。一日の中でも、分単位で変化している。だから、この時季に登る人は、その微妙な変化を見抜き、それに対応出来る人でなければならない。(明日に続く。)
 

     ※ 写真展「私の岩木山」あれこれ(2) ※

    ☆本会への入会者が5名あったこと☆

 本会の会員数は現在、350名を越えている。年齢構成は圧倒的に60歳以上が多い。
だから、お亡くなりになったりして、1年に3~4名の自然退会者がいる。
 それでも、ここ数年、実質的な会員数は350名から360名の間で推移している。
そして、毎年、この写真展の時に4~5名の入会者があるのだ。ただこの時だけに入会者が集中するのかといえば、そうではない。
 事務局に電話で問い合わせがあり、入会したり、メールでの入会申し込みもある。あるいは、本会員に「入会したい」と言ったりする人もいる。
 「数は力なり」というが、私は、その「方法と形式」に「多数決の横暴」を見ているから「数は力なり」をあえて信じないことにしている。
 それに、ほぼ「一人事務局」状態である現実は、これ以上の会員増加には「事務的」に対応出来ないので、「会員数拡大」に積極的に取り組んではいない。だから、積極的に入会を勧めたり誘ったりはしない。あくまでも、自主的に入会してくる人たちを待つ姿勢だ。
 「何名拡大」などという「拡大主義(?)」は数値目標が一人歩きして、組織の自己目的化につながる恐れがあるだろう。本会は「自己目的化」のために存在している会ではない。
 今回の会場にも、会の活動を示す「ポスター」を1枚だけ掲示して「入会」を促しただけである。それでも、5名の方が入会してくれたのである。(明日に続く。)
 (今日は、このブログ書きが遅れてしまった。書き始めて、外をみたら、「除雪ブルドーザー」が家の玄関前に1m以上の高さで「雪」を積み上げていっていたのだ。これだと、出入りすることが出来ないではないか。
 ブログ書きを止めて「雪かき」作業の開始となった。「雪かき」のために「ブログ書き」が遅くなってしまったのだ。
 道路脇の別な場所に「雪を寄せて積み上げる」ところがあるのに、どうして「我が家の玄関」前に置くのだ。ついでに、他の家の玄関先を見たら「積み上げ」は殆どない。これはどういうことだ。証拠写真は撮ったぞ。) 

山頂アタックの日 (7) / 「シンポジウム・岩木山の生きものを立体的重層的に理解する」を開催

2009-01-25 05:49:03 | Weblog
(今日の写真は標高1200m地点の大沢右岸から山頂の外輪壁岩陵を写したものだ。
 年によっては、この樹木の中で背の高いものは梢の、しかも先端を出しているものもあるが、いつもの年ならば、このブナやダケカンバの低木はすっかり、「積雪の下」である。
 だが、この写真に見るように、右端のブナなどは雪上に3m以上も、その姿を出している。つまり、今季は例年に比べると、3m以上積雪が少ないということなのである。
 驚くほどの「少なさ」である。この、低木の列は標高1300m付近の森林限界である。しかも、その最上端まで「見えて続いて」いるのだった。
 私たちは、この低木の樹列に沿って登高を続けたのだ。何故ならば、私はこの「時季」、低木が顔を出している場所で「表層雪崩」に遭ったことも、その「雪崩」を見たこともなかったので、これに「沿って」いる限り、「雪崩はない」と判断したからである。
 この低木の「樹列」は、視界が利かない吹雪などの時でも、「ルートの設定と確認」のためには、大いに役立つものだ。
 その日は、晴れていて見通し100%だったので「標識的な存在」としての役割はなかったが、「雪崩」に関しては大いに役立つものだった。
 これだけ晴れて見通しが利くと、何もわざわざ「夏道」ルートを行く必要はない。対岸に見える山頂外輪壁を直登して行くと時間短縮で山頂に行けるのだ。しかし、やはり、新雪雪崩が怖いので、遠回りの既定ルートを辿ったのである。
 山頂はこの外輪壁の上部奥の高みにあるので、「ここ」からは見えない。)
 

     ※十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (7) ※

 デジタルカメラのこと…
(承前)

 電池(バッテリー)類は、低温に弱い。これは手動巻き上げ式カメラでも、露出操作などは「ボタン型」の電池に依存している場合は同じように弱点だった。
 ましてや、「全自動の電池式カメラ」であれば、総合的に低温に対する脆弱性を明らかに示したものだ。
 最近の私は「デジタルカメラ」しか持ち歩かないが、「年末年始岩木山登山」を34年間続けていたころは、「フィルム式の自動式」と「フィルム式手動巻き上げ式」の2台のカメラを持ち歩いていた。「フィルムカメラ」から「デジタルカメラ」に換えてからも、しばらくは「フィルム式手動巻き上げ式」カメラをザックの底に忍ばせていたものである。
 もちろん、「予備の電池」は必ず持ったし、必ず、新しい電池と交換してから登山に向かったものである。
 電動、(または一部電動)カメラは、突然シャッターが切れなくなる。しかも、「絶対写したい被写体に出会う時」にそうなることが多いのであった。
 吹雪の中での「電池交換」は至難の業である。先ず、電池交換は出来ない。そのような時には「手動」のカメラを出して使うのである。
 「デジタルカメラ」を含めた電動カメラの電池は必ず、登山行動の前に「新品」に換えることが鉄則だ。
 また、冬場で一泊するような場合は、カメラを抱いて寝るか、電池を懐に容れて低温に曝さない工夫が必要なのである。
 今回、私の相棒はその「工夫」をしていなかった。ビニールの袋に入れたままのカメラを雪洞内の雪の上に一晩中置いていたように私には思えた。
 電池は新しいものではなく、「カメラ」を暖かくすることもしなければ、「電池切れ」は即であり、当然だ。
 相棒は役に立たない、ただの「物」となったカメラを持って「登る」と言う。予備の電池は「デポ」地点に置いてきたとも言う。
 いい天気だ。周りすべてが、すばらしい被写体の乱立だ。撮りたいだろう。しかし、時間は大幅に遅れている。
 電池をとりに戻って、登り返していたら、またまた遅れることになる。それは許されない。
 許されないという判断は「山頂まで行く」という目的があるからである。私はひとまず、この「目的」を「…出来れば山頂に行く」に変えた。
 そして、相棒に「電池をとりに戻ること」を勧めた。相棒はザックを置いて雪洞のデポ地点に下り、戻って行った。残された私は、一人でひたすら「上」を目指して登って続けた。
 相棒の体力は私より確かにある。私の踏み跡を辿ってくると直ぐに追いつくだろう。(明日に続く)


 ※「シンポジウム・岩木山の生きものを立体的重層的に理解する」を開催 ※

 岩木山を考える会では本格的で、かつ新趣向のシンポジウムの開催を予定している。今日はその概略をお知らせする。
 会員各位及びこのブログをお読みいただいている人は今から日程の調整をして、是非会場に足を運んでいただきたいものだ。また、この「シンポジウム」の開催を多くの人たちに案内していただけると幸いである。

 『シンポジウム:岩木山の生き物を立体的、重層型にとらえる』のお知らせ

 これまでに岩木山の生き物をこのように立体的、重層的かつ多面的に、とらえようとしたシンポジウムはあっただろうか…少なくとも本会では10数回シンポジウムを開いているが…なかったし、他で開催した「シンポジウム」でもこのような趣向のものはなかったと記憶している。

   開 催 日 時:  3月7日(土)午後2時~5時
   開 催 会 場:  弘前文化センター中会議室(2F)

  第1部:基調講演

 ◆岩木山に棲む小哺乳類 -モグラ・イタチの仲間を中心に-

  弘前大学農学生命科学部教授       小原良孝氏

  第2部:岩木山に生きる動物たち
 
 ●岩木山系の湧水と水生生物 
                     東 信行氏(本会会員)
    
 ●岩木山の猛禽類            
                     飛鳥和弘氏(本会会員)    

 ●岩木山に分布を広げた猿        
                     笹森耕二氏(本会会員)

 小原先生の基調講演を中心に三氏の研究を述べていただき、四者の研究と意見が、それぞれ、うまく補完し合い、そこに「立体的かつ重層的で総合的な岩木山の生きものの関係(つながり)」が見えてくるようにコーデネイトする。

 なお、会場からの質問・意見は大歓迎である。コーデネイターは本会会長の阿部東を予定している。
 「私の岩木山」の「生きものとそのつながり」の実態に目を向けてほしいものだ。

 登山道を歩いていても、お目にかかれない 小さな動物たちの生態や岩木山の自然の中に生きる動物たちのつながりに思いをはせて、それらを立体的重層的にとらえてみてはいかがだろう?
 …岩木山の動物世界、その全容に迫る。岩木山の「伏流水」である「湧き水」、岩木地区一町田の芹田に棲む生きものから身近に感ずる多くのほ乳類や野鳥も登場する。乞うご期待である…。

2008年度写真展立て看板 / 十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (6)

2009-01-24 05:47:43 | Weblog
(今日の写真は第16回写真展「私の岩木山」の立て看板である。本会幹事飛鳥和弘さんの力作である。毎回、飛鳥さんの手作りの立て看板を掲げて、道行く人にアピールをし、来場される方々を心から歓迎している。
 私が事務局を担当してからは毎年、記録の意味をかねて「撮影」してファイルに保存をしている。
 その変遷を尋ねてみると、今年のものは、非常に色彩が鮮やかである。その上、色具合が優しく暖かい。時は「大寒」に入っているが、このNHK弘前放送局ギャラリーの玄関と本会には、一足早く「春」がやって来たようである。
 これは、縦長の「立て看板」であるから、もちろん、上端から見るものだ。それにならって、その色彩を辿ってみよう。
 一番上の白さを含んだ青、これは冷気と清澄さを含んだ冬をイメージしているものではないだろうか。
 次の淡い黄色は「残雪」の上に出した梢に「先ず咲く」マンサクの花の黄色、それに「残雪」を眼下にうけて、黄金に輝く「アブラチャン」、加えて、雪解け直ぐに咲き出す「キバナノアマナ」や「ナニワズ」の花の色のイメージかも知れない。
 次の淡い緑、これは「ブナ」など樹木の淡い「新緑」の輝きに違いない。この時季から森や山は「命」の宝庫になるのだ。
 次の淡いピンクは林縁や林床、高原、岩陵帯など、山岳が持つ「自然」の中で次々と開花していく花々の象徴だろう。開花してしまえば「濃色」の花でも、咲き出しは、おおむね淡い色をしているものだ。
 下から2番目の緑、これは深い「夏緑」だ。きっとそうだ。断定してもいい。山全体が、森や林が一番活き活きとした時季である。この時季の緑は本当に眼に優しいのである。
 さて、最下段の赤みがかった「橙」はどのような世界だろう。上端から色によって季節の推移を辿ってくると、もう言うまでもない。
 この色は「燃える秋」である。紅葉彩る秋である。山頂から足早に駈け下ってくる錦秋である。
 …どうだろう。ただ、何となく色を塗っているのではない。主題があり、系統性があり、確乎たる色彩感覚に裏打ちされた美的センスがあるのだ。
 私はこのように「観た」のだが…これまで、飛鳥さんが作ってくれた「立て看板」は、本会の写真展のものだけではなかった。
 実はNHK弘前放送局ギャラリーが企画した私の写真展「岩木山の花々」の時のものも、彼の作品だった。NHK弘前放送局ギャラリーが企画する催事の立て看板は、NHK弘前放送局が発注して準備をするのだ。ところが、その時、手違いから発注を係が忘れていて、初日は「立て看板」がないままの状態だった。注文しても1週間はかかるというのだ。開催期間5日間、「展示会」が終わってしまう。
 私は飛鳥さんに泣きついた。何と、翌日には立派な「立て看板」がギャラリー入り口に、今日の写真のように「設置」されて、来場者を迎えたのであった。
 写真展は明日の16時まで。)

 
         ※ 写真展「私の岩木山」あれこれ ※

 昨日、2時過ぎに会場をあとにした。会場にはその時点で、飛鳥さんの他に、阿部会長、T幹事、S幹事がいたので、安心して帰宅することが出来た。
 実はその前の晩に、展示写真の「見出票」の入力と印刷に手間取った上に、「岩木山概念図」の印刷と3月7日に開催する「シンポジウム・岩木山の生きものたち」のパンフレット素原稿に手を入れ完成させる作業をしていたので、就寝時間が「午前」になっていた。それに、この「ブログ」書きのために4時過ぎに起床したものだから、実際の睡眠時間は3時間強であったのだ。
 早く帰ったのは、「眠くて仮眠をとる」ためではなかった。写真展に時間がとられて、25日10時30分から開講する「津軽富士・岩木山」の準備が出来ていなかったのだ。そのための「時間」が欲しくての帰宅となったのである。
 帰ってから、ずっとその作業をし続けたことは言うまでもない。
 
 昨日、私が帰宅するまでに「東奥日報」と「陸奥新報」の取材があった。ちょうど2社がダブっての取材となったので「東奥日報」には私が応対し、「陸奥新報」には飛鳥さんが応対した。
 また、2社に対しては3月7日開催のシンポジウムの内容、主題、形式と総合的、立体的な重層構成による「岩木山のいきもの」に関する理解が得られるように構築されるものであることなどを会長と私が応対する中で話した。
 また、「開催お知らせ記事」の他に、この「シンポジウム」の特徴、規模・内容などについて「会長談話」「会長の寄稿」などの形で事前に掲載してくれるように依頼した。
 これとは別に、近々両社を会長と2人で尋ねてお願いすることにしてある。

 帰宅する間際には「読売新聞」から「取材」に行きたいとの電話もあった。これは飛鳥さんにお願いした。

     ※十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (6) ※

 デジタルカメラのこと…

 相棒を先頭にして私たち「ワカン」組は頂上に向かった動き出した。計画より遅れること45分である。
 遅れを取り戻したいという思いが強まるものの、概してこういう時に、その思いを阻むようなことが起きるものだ。
 2人とも「快晴」をいいことにカメラを首に提げていた。早速、鳥海尾根の純白な山際を写して悦に入っていた私だ。
 だが、相棒は「おかしいな」を連発している。シャッターが切れないらしい。私には「ピン」と来た。これまでの経験がそれを教えてくれたのだ。
 「電池切れ」である。里の家の中の、しかも暖房がついている部屋で、「電池」の確認をしても、「まだ十分」の表示が出る。だが、それを信じてはいけない。
 「昨日から朝まで」でどこで暮らしたかを考慮しないといけないのだ。泊まったところは標高1100mの雪穴である。標高100mにつき気温は0.6℃下がる。だから、里が0℃だと雪洞の場所はマイナス6.6℃である。
 朝は晴れていたから里でも氷点下4℃~5℃であったろう。そうすると、そこは氷点下11~12℃ということになる。
 電池は低温でどんどん消耗する。「里」の部屋ではOK表示でも「この高さの野外」では「Non」なのだ。(明日に続く)

十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (5) / 今日から写真展「私の岩木山」が始まる

2009-01-23 05:34:05 | Weblog
(今日の写真は焼け止まり小屋を200mほど登って来た低木ブナの疎林地帯から対岸尾根を撮ったものだ。写し撮られた場所は「後長根沢」の源頭部である。
 先ず、第一の崖があって、そこを「おおまぶ」と呼んでいる。その一部が黒々とした岩肌をさらしている。雪が少ない所為である。
 この下部にはさらに急峻な「垂直」に近い岩崖が続いている。冬場は雪崩の巣となる。そして、春先には崖の下部に大量の「雪崩」堆積物(デブリ)を残しているのだ。そこの雪質は硬く、まるで「氷河」のような感じすら与えてくれるのである。
 だが、18日の朝にはそのような荒々しさを微塵も感じさせないで、穏やかに陽光の中に佇んでいた。岩木山だけが快晴の中に「いた」のである。
 強風、吹雪、視界ゼロのホワイトアウトなど、むしろ、これらが冬山登山の常識であるが…を何回も経験している者にとっては、この「異常」といえる「山の晴れと凪」は不気味なものだった。しかし、心のどこかには「わくわくする」躍動感も潜んでいたのである。)

     ※ 十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック(5)※

 私たちは「雪洞」の前を「デポ」地点にした。計画では「焼け止り小屋」に、必要でないものを「デポ」していくことになっていたが、天気は晴れ、降雪もなく「外」に出して置いても、「雪に埋もれて紛失」ということはあり得ないので、そのようにしたのである。他に、もう1つ、理由があった。それは「出発時間」が遅れているということであった。
 8時出発なのだが、すでに8時30分を過ぎていた。「小屋」まで移動して、階上の入り口から中に運び入れるにはまたまた時間がかかる。そんなことをしていたら9時になってしまう。それは許されない。
 そういう訳で「雪洞の前」がデポ地点になったのである。
 「デポ」していくものの内訳は「シェラフ、マット、火器、食器類」などの他に「スキーとストック」である。
 「あれ、どうしてスキーを使わないのだろう」と思う人もいるだろうから、そのことについて書こう。
 昨日の登りで疲れ、その疲れは回復していない。その「身体事情」を考えると、「負荷」の少ない「スキー登高」をすべきである。しかも、「つぼ足」での「埋まり方」は50cm以上もある。「ワカン」でも、多いところは30cmはあるだろう。登りに従い、標高が上がると雪は氷化して硬くなり、埋まり方も浅くなるが、これは相当のアルバイトを強いられることになるのである。それを承知していて、どうして「ワカン」を使うのだろう。

 私たちがこれから登ろうとしている「大沢右岸尾根」は「雪崩」の頻発地帯である。昨日までの3日間、岩木山では降雪が続いていた。これは昨日の登りで実体験済みであった。「大沢右岸尾根」では雪崩は起こりうる。
 「ワカン」使用は、何よりも「雪崩」を発生させない、「雪崩」に巻き込まれないためである。このことに関しては、スキーの持つ「デメリット」は「ワカン」のそれを遙かにしのぐ。スキーは「ワカン」に比べると「速い、軽い、楽だ」というメリットを持っている。だが、「雪崩」に関してはそれが逆に「デメリット」になる。
 スキーを避けた理由はそこの先ずあった。もう1つ、それは私の「脚力の衰え」に因る。最近、大腿筋が衰えている。スキーで下山滑降する時にもっとも使う筋肉がこれだ。これが萎え衰えていると「制動」が効かない。どうなるか。転倒は目に見えている。変な形での転倒は骨折や捻挫につながる。打ち所が悪ければ「地獄の釜」に真っ逆さまだ。
 私が「骨折」したら、相棒は「相棒」であることを嘆くであろう。そんな思いをかけてはいけない。「シェラフ」に詰め込んでスキー橇で下山などを相棒にさせてはいけないという思いがあった。それが「スキー」を断念させたのである。
 恐らく、「相棒」はスキー登高をしたかったに違いないのだ。(明日に続く。)


       ※今日から写真展「私の岩木山」が始まる※
 
 昨日の「写真展」設営には、これまで以上の参加者、お手伝い人が集まった。まさに、「始まる前から盛況」の観であった。
 出展者の中には、5名の一般の方がいた。この方々の出展総数は20点である。私の見る限りでは、いずれも「すばらしい」作品である。一般の方での初出展者は3名である。
 会員でも初めての出展者もいた。これも嬉しいことである。この写真展「私の岩木山」を開催してからすでに16回目。出展者も入れ替わっているが、特に、ここ数年「毎回出展する」人が固定化してきている。「固定化」することは、これはこれで「必要」なことである。ただ、出展する側に「マンネリ化」しない心意気と工夫が求められるだろう。
 一般参加のKさんはここ数年、毎回出展しているが、彼の作品には「こだわり」と「心意気」、それに工夫の跡が滲んでいる。つまり、「私の岩木山」を愛して、「私に岩木山」に拘っているのだ。そこには、「マンネリ化」は微塵もない。
 これは、会員の出展者も見習うべきだろう。私を含めて、会員出展者の作品には「マンネリ化」傾向があることは否めない事実である。
 会員には会報で、数ヶ月も前から「開催」日時を知らせてある。「私の岩木山」に出会い、「私の岩木山」を発見して撮影したら、直ぐに「写真」にしてしまうことを希望したい。その中から主題を決めて「選択」しておく。そのようにしていたら「マンネリ化」からの脱却も図れるだろう。

 出展総数は70である。例年どおりの「数」になった。これで会場は作品で埋まる。この数を知って会員のKTさんは「自分のものは出展しなくても大丈夫」といって持ち帰ったようだ。私は別な作業をしていて、それを引き留める機会がなかった。残念なことである。
 もう1つ、残念なことがあった。「私の岩木山」というテーマとまったく関連性のない作品が1枚持ち込まれたことだ。受付の段階で「テーマ」との関連性を話し、正式には断るべきだったのだが、会場に「搬入」されてしまっていた。
 これでは、不本意だが、「展示」する以外ないのである。こちらの「手落ち」であるからだ。だが、この方は会員なので会報等で「テーマ」は十分把握していたであろうにと考えると、こちら側の手落ちとだけにすることは憚れることでもある。

 今日から25日まで、NHK弘前放送局ギャラリーで開催している。
 

十数年ぶりの雪洞一泊、そして、山頂アタック (4)

2009-01-22 05:40:53 | Weblog
(雪洞での一夜が明けた。…
 今日の写真は南に偏って昇る優しい太陽だ。18日の朝に標高1100mの「雪洞」サイトから撮ったものだ。
 太陽は県境の山並みより僅かに高い程度だ。少なくとも、私たちがいる標高よりも低いところにあり、まだ、「眼下に眺められる」太陽である。
 それにしても、何という円やかで優しい太陽だろう。雪洞内の燈火、「ローソク」の灯りを思い出させるような優しい微光にすべてが包まれている。そして、すべてが、静かに移ろう。
 優しい微光を浴びて、低木ブナも目覚めたかも知れない。例年ならばこの「ブナ」も梢の一部しか積雪の上に出していない。今季の少雪によって「ブナ」もほぼ全身で微光を浴びているのだ。
 白い雪面も微妙な淡い臙脂色に染まっている。だがこれも、一瞬だ。間もなく白一色の世界に変わる。上空を雲が西から東に流れていく。好天の兆しだ。
 「里」の家庭では、朝餉の支度が始まっているだろう。静かな朝から、騒然とした日中に向かって「里」が動き出す時でもある。
 18日の「日の出」は6時57分だった。「日の出」から遅れること約20分後の7時18分に写した太陽だ。)


     ※ 十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック(4)※

(承前)・相棒Tさんとの雪洞造り・

 「冬至」からほぼ、1ヶ月、「日の出」は早くなり、「日の入り」は遅くなった。特に「日の入り」は16時過ぎとなっている。これは、「冬山を登る者」にとっては嬉しいことである。何故ならば、それだけすべての、明るいうちの「行動」時間が長くなるからである。
 「日の出」も本当に早くなった。「日の出」の瞬間を撮影しようと一応「日の出」時間を確認してはいたのだ。だが、4時に小用のために起き出した時に、そのまま起床してしまおうと考えたものの、傍で「熟睡している」相棒を起こしてしまうのも可哀想だと思い、もう一度「シェラフ」に潜り込んだのである。
 それが災いだった。それから2時間30分、私自身も「熟睡」したらしいのだ。起床したのは6時30分を過ぎていた。これは「山行計画」の「起床6時」を大幅に遅れたことでもある。
 私には「自分で計画したことを自分の手で壊したこと」が許されないように思えた。そこで、起床後直ちに「撤収と収納」作業に入ったのだ。
 「シェラフ」やその他の衣類や「マット」などを収納袋に詰めて、ザックに入れる。靴を履き、スパッツを着ける。
 雪洞の中にあるものは火器とコッヘル類、それに食料だけとなった。そして、その慌ただしい作業に集中する中で、私は「日の出」時間とその「日の出を撮影する」ということを忘れてしまっていた。

 4時に外に出た時は晴れていた。風は殆どなく、鳥海山の稜線上には「半分以上欠けた月」が出ていた。月は白かった。それはまるで、岩木山全体の真っ白な雪面を「映じて」いるかのように見えたのだ。
 私はいつも登山する場合は「気象情報」を参考にして「自分で天気予報」をする。その「予報」どおりの天気になっていた。「よしいいぞ。今日は楽しい山行になるぞ」と呟いて雪洞に戻ったのである。

 「ガスコンロ」に火をつける。雪洞の内壁の雪を掻き取り、それを「コッヘル」に入れて「ガスコンロ」に掛ける。先ずは「飲料水」を作る。その飲料水を使って各自が「朝食」を作る。作った「朝食」を食べながら、併行して「飲料水」をまた作る。お湯を沸かして「お茶」をつくり、「サーモス (THERMOS) 魔法瓶」に容れる。
 このようなプロセスの中で、突然私は思い出したのだ。「日の出」のことを…。
そして、写したのが日の出から21分後の、この太陽なのである。

 …雪洞の「天井」は殆ど「沈降」していなかった。しかし、側壁は幾分、奥まったように見えた。前述したが「フォースト・ビバーク」の場合は、天井も下がってきて「口」を塞ぐほどになっていることもある。
 「あらかじめ計画された雪洞」であってもそのことが全くないわけではない。
そこで、「雪洞造り」で注意したことは、第一に「雪洞」の「屋根部分」になるところに「掘り出した雪」を積み上げて、それをスコップとスキーを使って上から叩いて固めたことである。雪は互いに「くっついて凝固する性質」があるから、隙間をなくしてやると「硬く」なるのである。
 その補強でも「沈降」と「崩落」の心配はあるのだ。そこで、第二に、より「屋根や天井」部分に厚みを出すために「入り口」を深いところにする必要があった。
「ビバーク・プラッツ」の沢中央部分の積雪は約3mであった。
 緩やか「雪庇」の厚みは2m程度である。そこで、その部分を垂直に1m以上の直方の穴を掘る。出た雪は「屋根部分」の補強に使う。その穴「溝」を「雪庇」の底部まで掘り進んで、そこを「雪洞」の入り口にするのだ。これで「雪洞の屋根と天井」部分は約3mの厚さになり、しかも固められている。崩落はないだろう。
 さらに「雪洞」内部の高さも1m程度にする。「空間」が広いと「圧力」に弱い。加えて、4本のストックを斜交(はすか)い状に差し込んで「補強」した。「バランスは1mgの重さで崩れる」を私はいつも大事にしている。

 これらの注意が奏功したのだろう。朝を迎えた「雪洞」は、ほぼ「造営」した時の形態をそのまま保っていたのである。
 相棒Tさんとの「雪洞」造りの作業もスムーズに進んだ。スコップを2つ背負って来た意味はここにあったのだ。
 作業手順を指示した後、私は掘り出された「雪塊」を運び出しては積み上げたり、周りに捨てることに専念した。時々、掘られた横穴に潜り込んで、大きさや幅、高さ具合を確認して、次の作業の指示を与えた。
 相棒Tさんは「イメージ」の再現に必死だった。そして、ほぼ「イメージ」どおりの「横穴式」雪洞が出来上がっていったのである。
 私と相棒の「イメージ」の共有、そして、その「イメージ」の構築がかみ合っているのだ。それは作業の、あるいは作業工程の「コンビネーション」のよさにもなっていた。「掘り出す」相棒、それを掻き出し積み上げ、捨てる私。
 私はふと、思った。この相棒Tさんとはひょっとして「若い頃からの仲間」ではないのかと。だが、事実は、一緒に年に数回、同行し始めたのは3年前からである。

 この「雪洞」造りに要した時間は、1時間足らずであった。速い。これもすべて、「コンビネーション」の良さがなせる業であるだろう。(明日に続く。)

十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック (3) / 第16回写真展「私の岩木山」の開催について

2009-01-21 05:37:39 | Weblog
(今日の写真は雪洞の内部と、そこでのローソクとその明かりである。内部の側壁面に立方体的に積雪を穿って造ったものだ。
 2人が向き合って座れて、シェラフを敷いて「眠ること」が出来るスペースを照らすものとしては、この「ちびた」ローソク1本で十分である。何しろ、上面、側面すべてが「雪」であるから、その反射で明るいのである。
 それにしても、この「暖かくほのぼのとした」明るさは一体何なのだろう。私は軽量小型で、最近流行っている「LED」を光源としたヘッドランプを使っているが、これは四囲雪面という「雪洞内部」では明る過ぎる。
 それだけではない。明るさに暖かみがない。妙に白く、雪面に反射してそれは冷たい感じがするし、「反射」光が強過ぎる。
 眩しいのだ。優しくないのだ。都会の夜を彩る「イルミネーション」がまさにこの類だろう。
 ローソクの明かりは「眼」に優しい。「エジソン」が造った白熱電球も眼に優しかった。それは冬日のような柔らかさと円やかさを持っていた。
 だが、そのような電球はこれから製造中止であるという。次第に人間は「自然の優しい光」を失っていくのだろう。)

      ※ 十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック(3)※

(承前)・雪洞造り・

 全くおかしな話しだ。直ぐ傍に「風と寒さ」を避けながら安心して一晩十分休むことの出来る「焼け止り小屋」があるのに、どうして、手間暇かけて「雪洞」を造らなければいけないのか。
 「一泊」という冬装備の全重量は半端ではない。私などはその「重い」装備を背負って、ここまで来るのにすっかり、疲れ果てていた。すんなりと「小屋」に落ち着いて休みたかった。
 それなのに、これからしようとしていることは「雪洞」造りという重労働である。雪に穴を掘り、その雪を積み上げて、出てくる雪を運び出すという作業は決して楽なものではない。
 「フォースト・ビバーク」のためのものであれば、それを造り、それに頼らないと「凍死」するという必然性があるから、有無を言わず「造る」ことになるのだが、今回は「焼け止り小屋」を使えば、「雪洞」がなくても命を危険にさらすということはないのである。
 合理的な思考ですれば、この「雪洞造り」という行為は全く「無駄な労力の消費」に過ぎない。翌日の「頂上アタック」のことを考えると、体力を出来るだけ消耗させないで、温存することを考えるべきなのである。
 つまり、このまま、「焼け止り小屋」に入って、夕食を摂り、就寝し、疲れをとることがベストなのだ。
 私たちは実に非合理的な「行動」をこれからしようとしていたのである。だが、人生がすべて「合理化」されたらどうなるか。「感性」とは合理だけでは測り知ることが出来ないものだ。

 計画されていた「ビバーク・プラッツ」(?)は決まった。今季は積雪が少ないので「焼け止り小屋」の南面にある小さな沢は埋まっていない。南から東に向かって、季節風によって押し出された雪庇は、ただの吹き溜まりであり、沢中央に対して滑らかな半放物線を描いていた。
 私はその放物線の下端から掘り進めて、「雪洞」を造ろうと考えた。
 相棒のTさんは雪洞作りも雪洞泊も初めての体験である。それでも、ネットなどで事前に学習はしてきたと話してはいた。
 そこで、雪洞というもののイメージ作りから始めて、雪洞作りの手順、雪の性質、縦穴から横穴へと掘り進めることなどを話した。
 さんはところどころで、小さな質問を挟みながら私の話しを聞いていた。作業手順や形態のイメージは十分出来たようだ。

 「フォースト・ビバーク」の場合は、浅い沢の側面に出来ている大きくなく、崩落の心配がない「雪庇」のほぼ底面から、浅い縦穴を掘ってから、直ぐに「横穴」を掘り始める。そして、1人が横になれるスペースが確保されると、それで「完成」となる。柔らかい「圧雪」であると30分もかからないで出来てしまう。だが、雪が柔らかいので体温で積雪が解けて「沈降」する場合がある。朝にそこから出ようとすると「入り口」が横長にひしゃげて狭くなっているし、天井も下がってきて「口」を塞ぐほどになっていることもある。もう「生き埋め」寸前というわけだ。「助かるための雪洞」で「生き埋め」となり、「死んだ」では、これはすばらしいブラックユーモアだ。
 
 私たちが造った雪洞だって、「生き埋め」という事態にならないという保障はどこにもないのである。だから、設営作業に当たってはそのことに十分気をつけたのだ。(字数が2800字を越えた。400字詰め原稿用紙で7枚分である。これ以上書けないので明日に続く。) 

 〓〓 今月の23日(金)から25日(日)まで第16回写真展「私の岩木山」が始まる。出展の希望者は明日22日16時に、NHK弘前放送局ギャラリーに搬入して下さい。毎回すばらしい「私の岩木山」と出会えます。どうか、是非、鑑賞してほしいと思います 〓〓

 さて、今年度の写真展「私の岩木山」を次の要項に従い開催いたします。この写真展開催の主旨は「津軽の人は各自、自分の岩木山を原風景として持っている。その”私の岩木山”という思いが込められている写真を展示して、あなたの岩木山を私のものに、私の岩木山をあなたのものに共有しあおう」なのです。一人一人の「私の岩木山」であればすべて、出展の条件と資格を満たしていることになります。
 ふるって参加・出展をお願いします。会員でない方の出展も可能です。写真の質的、技術的なものは一切問いません。「私の岩木山」という思いが込められている写真であればすべて対象になります。
 どうか、ふるって参加・出展をお願いします。会員でない方の出展も可能です。ここ数年、会員でない方の出展が増えています。
  会員でない方で、出展を希望する方は、事務局まで、電話で早めにお問い合わせください。事情があって問い合わせの出来ない方は下記の注意事項にそった形で「搬入」して下さい。1人3点以内とします。
 多くの市民の方々、会員の方々の写真出展と写真展にお出で下さることを切に願っています。
                     岩木山を考える会会長  阿部東

            写真展「私の岩木山」

        ・開催日:2009年1月23(金)~25(日)日

        ・開催時間:10:00時から17時(25日は16時で終了)

        ・開催場所:NHK弘前放送局ギャラリー
              (下白銀町弘前市文化センター向かい)

            ★ 注 意 事 項 ★

・写真の搬入は22日の16時にNHK弘前放送局ギャラリーまで、それ以前は受け付けられません。
・写真には「氏名」「題名」「撮影年月」「コメント」を別紙で添えて下さい。
・写真サイズは最小で6切りです。出来ればA4版を希望します。

焼け止り小屋と鳳鳴小屋に関する情報 / 十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック (2)

2009-01-20 05:36:44 | Weblog
      ★★焼け止り小屋と鳳鳴小屋に関する情報★★

 これから、冬季間に岩木山に登り「」の両小屋を休憩のために使用する、または宿泊しようと計画する人は次のことに留意してほしい。ただし、この情報は1月18日現在のことであるから、積雪の変化でこの情報どおりでないことがある。

 ★焼け止り小屋★

 休憩・宿泊は可能である。ただし、「階下」の入り口からの「出入り」は出来ない。「階上」の小さな入り口を使うことになる。
 明かり窓等はすべて雪に埋もれているので、内部は暗い。入る時はヘッドランプ着用が望ましい。内部に降りていく「鉄ばしご」は滑るので特に注意が必要だ。
 これから、積雪が増えると「階上」の「入り口」も雪に埋もれる。「入り口」の前に立てかけてある「鉄製のスコップ」で雪を掘り出してから入ることになるが、この「スコップ」は決して「雪に埋まらないように」厳重に使用者は管理しなければならない。
 何故ならば、このスコップがないと、その後に小屋を利用する者で「スコップ」等を持参していない者は「入る」ことが出来なくなるからである。

 ★鳳鳴小屋★

 昨年同様、入り口前面は雪に覆われている。内部も「引き戸」の隙間から「雪」
が張り込んで「引き戸」の「引き戸」のレールを圧している。しかも、「レール」周りは凍結しているようで「引き戸」は動かない。つまり、「開かない」のである。これだと、使用不能である。
 今季、「鳳鳴小屋」を利用しようと考えている人は、利用・使用を「諦めた」方がいいだろう。
 ただし、「引き戸」を破って入ることは出来るが、次に利用する人のことを考えて、出来る範囲での「修復」が求められる。それが出来ない人は、最初から「鳳鳴小屋」使用を断念した計画で登山をすべきである。

 ☆☆ 雪崩に関する情報 ☆☆

(これは百沢尾根登山ルートに限定されるものである。岩木山全山には該当しないので注意してほしい。しかも、あくまでも主観性の強いものだから、参考程度として扱って貰いたい。)
 
 総体的に「積雪量」は非常に少なく、例年の半分以下である。その上、季節風の吹き出しが弱いので「沢筋に出来る雪庇」が殆どない状態である。このままだと、「雪庇崩落」を起因とする「雪崩」の発生は少ないだろう。
 硬い雪層の上に「新雪」が15cmから30cmほど積もっている状態なので、今後この上にさらに、新雪が積もると「表層」雪崩が起きやすい条件となる。
 昨年の4月に全層雪崩が発生した場所は樹木の剥離があったので、凹凸のない斜面となっており、西風にあおられて新雪は殆ど貯まっておらず、「滑らかな硬い表雪」となっている。
 また、鳥海山の大沢寄りの斜面も同質の「表雪」となっている。このような状態に降雪があり、その表面を「新雪」が覆うと「表層雪崩」になるのである。
 降雪後に登山をする者は、この「場所」では特に気をつけて貰いたい。
 また、1986年1月2日、岩木山岳会の4名が雪崩で死亡した「種蒔苗代」の上部も「硬い」雪となっている。私はこの雪崩発生の前日に、この場所を登り、下山している。ただし、そのルート取りは、遭難した彼らとは微妙に違っていた。
 ここも「新雪」が積もると「表層」雪崩となる場所である。ただし、18日現在では「雪庇」の張り出しは殆どなく、新雪による「雪庇崩落」からの雪崩発生はないだろう。しかし、これから「新雪」が貯まると雪崩は発生する場所であることには変わりはない。
 私と今回同行したTさんは「登りのルート」として、鳥ノ海噴火口外輪の北側の縁に沿う形で採った。外輪には殆ど積雪はない。上部からの積雪崩落がない。これは、雪崩を引き起こす要因の1つを排除出来るということである。
 気をつけることは、「種蒔苗代」に向かって急激に落ち込んでいる斜面を自分たちが「滑落」しないということだけである。滑落したら、それが「雪崩」の発生要因となってしまうからである。
 1986年1月1日、私は登りも下山時にもこの「ルート」を採ったのである。
 今回は下山時には、雪庇とその張り出しがないので、「雪質」を確かめながら「種蒔苗代」に向かって真っ直ぐに降りたのである。
 山頂から降りてきて、岩木山岳会の4人が雪崩に巻き込まれた辺りで、私は心の中で合掌した。そして、相棒のTさんに「この辺りで4人が雪崩で死んだのだ」ということを語ったのだ。  

      ※十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック (2)※
(承前)・雪洞造り・

(今日の写真は切り出した雪塊を、シャベルで積み上げて、それから本格的な「雪穴」工事に取りかかろうとしている私である。その後、垂直に深く掘り下げていくのだ。その上で「横穴」を造る作業になる。
 今回の「雪洞」は「フォースト・ビバーク」のためのものではない。最初から「雪洞を造って、そこに一泊する」として計画されたものである。そのために、小型スコップを2本背負ってきた。作業効率を上げて、作成時間を短縮するためである。)
 単独山行時の私は、あまり「スコップ」を持ち歩かない。ただし、複数名での山行時には、「スコップ」は有効な道具になる。「雪洞」を造るためだけではない。それは雪崩に流され、埋まったものを「掘り出す」ことに最大の威力を発揮する。
 単独で雪崩に埋まっても、上半身が出ているならば「スコップ」は使えるが、全身が雪中に埋まっていては使えないからである。
 単独で「フォースト・ビバーク」用の雪洞「これはまさに雪穴である」を造る場合は「コッヘル」をスコップ代わりにして使用する。
 居住性などは二の次であり、風雪を一晩避けるためだけのものであるから、コッヘルで前向きになって、股下から後ろに犬のように雪を掻き出すのだ。この格好は獣そのものである。
 自然に入ったら「自然に同化」することが大切なのだ。「都会的な感覚」を捨てきれない「人」は山に行くべきではない。
 もし、この時「コッヘル」がない時には、手でやるわけだから人科人属というタヌキやウサギ同様の動物になっているのである。

 計画された「雪洞」造りだから、当然「ビバーク・プラッツ」はあらかじめ、第一、第二、第三ぐらいは想定しておいた。
 その根拠の中心には「何かことある時」は「焼け止り小屋」に直ぐ避難出来る場所であることを置いた。
 もう一つは沢筋か別の場所の「吹き溜まり」を利用することであった。これは雪洞を造り易いからである。
 その2つの根拠に、一番合致したのが昨日と今日の写真が示す場所である。そして、想定した第一の場所でもある。第二の場所は夏道が大沢に入って行く辺りの雪庇の底部であり、第三は「焼け止り小屋」の東面に出来る吹き溜まりであった。
                 (字数がオーバー状態なので明日に続く。)

十数年ぶりの雪洞一泊、そして山頂アタック

2009-01-19 05:47:28 | Weblog
(今日の写真は雪洞である。雪洞といっても「ピン」とこない人が多いだろう。簡単に言ってみれば「雪穴」である。
 野ウサギやアナグマ、それにタヌキなどは、木の根っこや木の虚(うろ)、吹き溜まりが変形して出来る穴やほこらなど、つまり、自然が造りだしてくれた「雪穴」を利用している。

 人間の場合はどうか。人間は前述した動物よりも遙かに大型である。日本では北海道に生息するヒグマの次に大きい動物が「人科人属」である人間だ。
 大型動物と小型動物の関係は、大まかな「分類」をすると、「食うものと食われる」、つまり、「捕食するものと捕食されるもの」という「関係」である。
 だから、小型動物は大型動物に「脅威」を抱きながら生活している。これが、自然の姿である。だから、私たち人間というのは、彼らにとっては「脅威」の対象的な存在でしかないのだ。
 昨日、下山途中2カ所で血に染まった動物の解体現場に遭遇した。一カ所は焼け止まり小屋から距離にして500mほど下ったところであり、もう一カ所は姥石から800mほど下方である。
 私たちの存在自体が「脅威」であるのに、鉄砲を撃ちたいとか凶器「鉄砲」で撃ち殺すことを「楽しみ」、皮を剥いで、それを食して「楽しむ」輩がいるのである。これでは「動物たち」には「やすまる」時間がないではないか。
 この行為が「生業(なりわい)」として、狩猟期間や狩猟許可地域内で、実行されている場合ならば、必要最低限の範囲で許されることはあるだろう。しかし、「楽しみ」の満足のために他の命を奪うということは、本来的には決して許されることではないと考えたいものだ。
 因みに、狩猟期間は、この撃ち殺された動物が野ウサギならば来月の15日までは狩猟法で許可されている。ただし、山ドリなどは1月15日で、来年の11月15日までは狩猟が出来ないことになっている。
 脇道にそれてしまった。雪洞の話しに戻る。人間は大型動物であるが故に、天然の雪穴を利用することが、本当に難しい。野ウサギやタヌキが潜り込める「穴」には入れないのだ。
 いきおい、自分たちが潜り込める穴を造ることになる。これを大仰にも「雪洞」などと呼ぶわけだ。「穴」でいいではないか。「雪穴」結構である。人間というものは、どうも、「対象表現」にまで「格好」をつけたがるものらしい。いや、「雪洞」という名称は「一般的」でないから、これは登山者たちの「手前味噌」的な「いい気になっている」表現の表れかも知れない。私は日常的には「雪洞」と呼んでいない。単に「穴」であり、「土中に掘られた穴」との違いをはっきりさせるために「雪穴」と言っている。
 これまで、私は雪山で「雪穴」に一泊したことは何回もある。この「雪洞」の使い方は主に2つある。
 1つは「山行計画」の段階から「テント」による「幕営」や「小屋泊まり」を排除して「雪洞」を造ってそこに一泊するというものだ。だから、「テント一式」は背負っていかない。それ分背負う重量は軽くなる。
 しかし、「スコップ」など「穴」を掘るための「道具」を背負わなければいけない。今回は、この方法による「雪洞」一泊なのであった。これは、複数名でパーティを組んでいく場合には有効な手段である。だが、本来単独山行が中心である私は、この方法による「雪洞一泊」での経験は多くはない。
 今回は、「相棒」のTさんんからの「雪洞に泊まりたい」という強い要望を受けて「雪洞一泊」登山を実施したのである。

 もう1つの方法は、まさに「ビバーク」するためである。「ビバーク」とは「強制露営」または「一時泊」という意味の英語、またはフランス語の「bivouac」だ。山小屋やテントを使用しないで「夜を明かす」ことを指す。
 予期しなかった「ビバーク」を「フォースト・ビバーク」と呼び、私の「雪穴」泊は大半がこれだ。「ビバーク」する場所を「ビバーク・プラッツ」という。
 この写真から「ビバーク・プラッツ」を当て推量してイメージしてほしいものだ。
 日帰り山行でも、「冬山」の場合は、その日のうちに帰れなくなることがある。午後の3時を回ると吹雪の時は「暗く」なる。そのような暗い中を行動することは危険であり、それに「徒労」である。行動したからといって山麓に立ち戻る確実性は薄い。
 そのような時には早めに「ビバーク・プラッツ」を選定して「雪穴」を掘って潜り込むに限る。冬季に岩木山に登る時は、いつもこの「ビバーク」を念頭に置いて、装備や食料をザックの中に詰め込んでいる。夏山では不要なものだ。だから必然的に「夏山」よりもザックは重くなる。
 その必需品は、「携帯マット」「羽毛服の上下」「羽毛の靴下」「シェラフカバー」「オーバーミトン」、それに食料と火器、燃料などである。数年前までは、これにアマチュア無線の携帯トランシーバーを持っていた。これは現在の携帯電話の役割を果たしてくれた。
 家人には「アマチュア無線の操作」資格を持つものはいないが、資格がなくても「受信」は可能なので「ビバーク」するという連絡と、「ビバーク」位置を必ず連絡したものだ。これは岩木山だから出来ることだった。
 電波の飛びが「私の家」に向けて悪いと考えられる場所の場合は、何人かのアマチュア無線の知り合いを呼び出して「我が家」に連絡を依頼した。迷惑な話だろうが特に板柳町のKさんは毎回快く応じてくれたものだ。(明日に続く) 

午後3時の太陽 / NHK講座「岩木山の花を尋ねる」が始まった

2009-01-18 05:49:28 | Weblog
(今日の写真は1月9日に百沢尾根を登った時に写したものだ。撮った意図は「太陽の高度」である。しかも、午後3時という時の太陽の高度である。手前に見える雑木林は大体標高300mほどである。その高さまで太陽はすでに降りてきている。間もなく、恐らく、あと30分もしないで、山陰に沈む気配だ。太陽高度が低いと、「影」は長くなる。そして、太陽の光も弱いものになってしまう。
 白い雪面を角度30度以下の斜めの陽光が照らしているが、もはや、反射する余力もない。その上、熱くもない。着ている衣類は紺色だ。だが、それですら、熱を吸えないほどに弱々しい。
 真冬の太陽は虚弱だ。哀れさすら漂う。雪面の長い影も、短くなることなく、雪面に同化して、萎えてしまう。そこには、夕日の赤みもなければ、雪面をうごめく彩りもない。夏の太陽は、時には憎らしくなることがある。真上から焼き付けてすべてを焦がさんばかりだ。あの強靱さはどこに行ったのだろう。
 白い色は反射をして周りを明るくする。だが、それを期待することはもはや出来ない。
 訪れる薄暮は、ただ時間だけを流しながら、夕暮れを待ち、夕闇の中に沈んでいく。
 後は、月の出を待つだけである。東の空には真昼から月が出ていた。日が沈むと天界の主は月に代わる。今度は東から月が長い影を雪面に走らせるのだ。)

   〓 NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねる」が始まる 〓 

(承前)
「ヤドリギ」の続き…短歌(和歌)
 俳句の世界で少ないものは「短歌」の世界でも多くはないようだ。ヤドリギを歌題とした短歌を見つけることは出来なかった。
 やっと、万葉集にそれを見つけた。ただし、「ヤドリギ」ではなく別名というか古名というか「ほよ」というものである。

・あしひきの山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ
(万葉集 大伴家持 巻十八 四一六三)

 いにしえ人の素朴なヤドリギに託した思いが率直に述べられているいい歌だと思うが、どうだろう。「山の木の梢に寄生している宿り木、神迎えのための挿頭(かざし)にしたのは、千年の長寿を祝ってのことであるよ。」とでも訳せるだろう。
 宿り木は万葉の時代には「長寿」を祝うものだったのである。

花言葉は「困難を克服する・征服・忍耐強い」であるが、これまたその根拠が何であるのか、頭を悩ます。
 特に、「征服」に至ってはどう解釈すればいいのだろう。ひょっとしたら、「寄生した樹木を征服してしまう」とでも考えたのだろうか。ヤドリギはそんな馬鹿ではない。寄生した木を殺してしまうと己も命を絶つことを承知している。


    ●蔓梅擬き「ツルウメモドキ」

 これはニシキギ科ツルウメモドキ属の落葉性の蔓性植物だ。落葉性の「蔓性植物」で、日本全国、朝鮮・中国に分布する。
 ツルウメモドキの花は目立たなく、非常に小さい上に藪に隠れるようにして咲いている。雌雄異株で、雌花の花弁は淡緑色で長さ約2cm。
 雌しべの柱頭は3つに分かれ、下部は花盤となって、周辺に退化した雄しべがある。 雄花は雌花に比べて大きく、花弁の長さは4ミリ。5本の雄しべがあり、中心に退化した雌しべがある。
 これらは、マクロレンズで接写しないとよく分からないことである。
 果実は淡い緑黄色で直径7~8ミリだが、割れると緋色と黄色の絶妙なコントラストで美しい。 
 赤い実と黄色の「仮種皮」のコントラストが美しいので、生け花の材料として重宝され、秋から冬の花材やリースに有用である。「仮種皮(かしゅひ)」については、このブログでも2008年5月30日に「イチイ」で説明をすでにしてあるのでそちらを参考にしてほしい。
 若い時は地中から数mもまっすぐな茎を伸ばす。だから、この段階では蔓性植物とは思えない。しかし、伸びた茎が上の枝などに達すると、茎は細く柔軟になって、枝に巻きつき始める。この段階から蔓性植物の特徴を見せるのである。
 このような戦略を取ると、森林の中でも繁茂出来るのである。
 しかし、実際にはツルウメモドキは植林に被害を与えるようなことはごく少ない。巻きつき始めた段階で、それからあまり伸びないからである。

 名前の由来は「葉の形や若枝がウメに似ていること」によるとされている。

 津軽では「ヤマガキ」と呼ぶ。私は長いことそう覚えていた。だが、この呼び方は津軽地方特有のものであるらしい。緑から黄色を帯びてくる頃の果実は「柿」を思い起こさせないわけではない。
 実が割れて中から赤い顔を覗かせると、もはや「柿」には見えない。三つに裂けた黄色の部分が果皮で赤橙色の部分は種皮である。

 この花言葉も、その根拠は実に「意味不明」である。「真実・強運・大器晩成」だそうだが、これらの「根拠」を知っている人がいたら教わりたいものである。

「ヤマガキ」とは「ツルウメモドキ」のことなりや / NHK講座「岩木山の花を尋ねる」が始まった

2009-01-17 05:35:17 | Weblog
(今日の写真は私が写したものではない。「ヤマガキ」と呼ばれるその所以を写し撮っている最高の写真ではないかと思い、HP「サンデ-毎日の紀行」から拝借したものだ。これは「ツルウメモドキ」の果実である。
 詳しくは次項の『NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねる」が始まる』で述べるが、正式名称の「ツルウメモドキ」よりは「ヤマガキ」の方がずっといいだろう。「ツルウメモドキ」の名前の由来は「葉の形や若枝がウメに似ていること」によるとされている。
 この名前の由来に至るまでには、かなりの「伏線」を辿らなければいけない。このような「名前」に直裁性はない。
 「ヤマガキ」というと、これはそのものずばりで、何という直裁性だろう。非常に分かりやすい。「山の木になる柿に似た果実」という意味だ。実際、実になりかけた頃の「緑色の実」は柿になりかけた柿の実そっくりだし、今日の写真のように淡い黄色に色づいた実もこれまた「柿の実」を彷彿させる。本当に「山に生える柿」なのである。
 それに引き替え、本名である「ツルウメモドキ」はどうだろう。「ツル」は蔓である。蔓性植物であると言わんがために「ツル」をつけたのだ。ところが、これが案外、曲者で上部は枝状になり、巻き付くことが少ない。だから、蔓性には見えないことが多い。
 もともと「ウメモドキ」という樹木が存在する。「ウメモドキ」は「実」が梅に似ているという訳ではない。枝や葉が「梅」に似ているというのだ。「モドキ」は「擬き」と書く。つまり、「偽物」である。「ウメモドキ」は梅の偽物で、その偽物に似ていて蔓性だから「蔓性でウメモドキに似ている木」ということになったのである。何ともはや、ややっこしいのだ。
 これに比べると「ヤマガキ」は名前の由来がすっきりしている。この違いは何から生じたのだろう。それは、連想する「元」の違いに因るのである。正式名「ツルウメモドキ」は「枝と葉」からの連想であり、「ヤマガキ」は単刀直入に生えている場所と果実からの連想である。
 私は、その連想の素朴性から「ヤマガキ」に軍配を挙げたいのだ。別に私が「津軽」の人間であるという贔屓(ひいき)眼からではない。私は総じて「素朴」なものが好きなのである。本当に、「ツルウメモドキの実」は柿に似ている。
 ただ、この「ヤマガキ」を認めるには難点がある。生えている場所が「山」とは限らないことだ。)
 
   〓 NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねる」が始まる 〓
 
(承前)

 「マンサクの続き」…短歌には…鳥海昭子の二首を挙げよう。
 二首とも歌意・歌題は平易だから説明の必要はないだろう。

特に最初の歌は「マンサクの咲き出す状態とその時季」がそのまま歌われているので、この短歌を覚えておくと「マンサク」の生態の説明が直ぐに出来てしまうというものだ。

・除雪せし側の枝から咲きはじめマンサクの幹まだ雪のなか

 ・冬晴れのベニマンサクは小さくて少女みたいな真剣な花
    
 花言葉もあった。「霊感・ひらめき・直感・神秘」などだが、花名の由来からすれば「霊感」や「神秘」の由来は想像出来るが、残りのものは「何故、どうして」と頭を抱え込んでしまうのである。

     ●赤実の宿り木「アカミノヤドリギ」
           ヤドリギ科ヤドリギ属の寄生性の常緑樹。

 「ヤドリギ」は古来から、西洋、東洋を問わず、人々から愛されてきた植物である。その根拠は「他の木々が葉を落としてしまっても、常緑であり、その時季に実をつけながら花を咲かせる」ということにあったのだ。
 花名の由来は「他の木に寄生すること」から宿り木という。別名を「寄生(ほや、ほよ)」という。

俳句には…

「ヤドリギとは俳句の題材に最適」と思うのだが『ポケット俳句歳時記』(平凡社)には載っていない。常緑ということは「季節」がないということだろうか。そうであれば、「常夏」のハワイでは、作られる俳句は「季題」が全部夏となってしまってもいい。そう考えると、何だか楽しくなってくる。
 だけれど、やはりあるものだ。

・宿り木に緑を任せ冬木立   (有島扇水)

 だが、これはやはり、季語は「ヤドリギ」ではない。「冬木立」である。「ヤドリギ」は俳句の世界では首座になれないのである。
 私にとってこれは許し難いものである。

 故ならば、冬枯れの岩木山の森を歩くと…
「マリモに紛うこんもりとした黄緑のかたまりを浮かべてくれた。ミニチュアの森、空間に浮かぶ植え込み、それがヤドリギだ。
 秋から冬にかけて森は葉を落とし、死んでしまったようになる。ところが、ヤドリギだけは生き生きと緑の葉や赤い実をつけている。それを見て人々が葉や実の中には木々の生命が凝縮しているのだ。しかも、黄緑色の小さな花をつけたヤドリギは、寒空の中で黄金色に輝く理想的な未来の目的地に外ならないのだ。
 ヨーロッパでは、森の中で、人々が聖なる木として崇めたのは、単なる巨木ではなくヤドリギが寄生している木であった。
 秋から冬にかけて、森の木々は葉を全部落とし、死んでしまったようになる。ところがヤドリギだけは生き生きと緑の葉や赤い実をつけている。人々は葉や実の中には木々の生命が凝縮していると考えていた。
 冬の終わりになると、聖なる巨木に登り、ヤドリギの枝を切り取った。この枝には解毒作用や子供を授ける力があると人々は考えていたのである。
 一方、ヤドリギは東洋や日本でも古くから縁起のいい木とされていて、漢方では枝や葉を婦人病薬にしていたという事実もある。
 ヨーロッパでは今でも「クリスマス」の飾りに、異教の民が、森の命として崇めたヤドリギの枝、葉、それに実を使うそうである。」等々を思うからである。(明日に続く。)