岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

飛鳥さん製作の「岩木山の花」写真展の看板 / 弘前・紀伊國屋書店「岩木山・花の山旅」ベスト3入り

2008-08-31 05:41:31 | Weblog
(今日の写真はNHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花」写真展の、飛鳥さんが製作した「立て看板」だ。飛鳥さんってすごい人だろう。促成でもこのくらいのものが出来てしまうのである。材料費はたったの200円だという。)

 ■飛鳥さん製作の「岩木山の花」写真展の看板、その効果は覿面「てきめん」だった■

 もし、今回の写真展がNHK弘前ギャラリーの企画展でなく、私が個人で開催する「写真展」で、NHK弘前ギャラリーをとおして看板製作を依頼すると10.000円かかるのである。その場合は最初から飛鳥さんに頼んでいたと思うが、今回は昨日のブログに書いた理由から、私が飛鳥さんに依頼して、製作した以上は費用は自分持ちだと考えていた。これで、NHK弘前ギャラリーは看板に関しての支出はゼロということになった。それでもいい。どうしても「立て看板」は必要だったのだ。
 私は無理をおして、飛鳥さんに製作を依頼した。2日目から「看板」を出すことが出来たことへの感謝も含めて、私は飛鳥さんに「外部発注の半額である5.000円」を支払おうとした。
 ところが、飛鳥さんは材料費だけでいいと言うのだ。「それでは私の気持ちが収まらない」と言うと、飛鳥さんは、その5.000円を私に押し返して、これでを「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を1冊買いたいと言う。ちなみに、飛鳥さんは既に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」1冊を購入していたのである。
 「そう言わないで受け取って欲しい」と言っても飛鳥さんは固辞する。そこで、やむを得ず5.000円を受け取って「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を1冊渡して、おつり2.200円を支払ったのである。
 私にとっては「立て看板」は出来たし、「本」は売れたし、飛鳥さんは材料費と僅かばかりの手間賃を得たことになったのだ。何とすばらしい折衷案、解決法だろう。

 看板の効果は覿面「てきめん」であった。その人の名はWさん、在府町在住だという。語るところによるとこうである。
 …花についての質問があって「緑の相談所」に出かけたのだそうだ。ところが、「緑の相談所」では適当な回答が得られず、すごすごとNHKギャラリーの前を歩いていたそうだ。ふと見たら「岩木山の花」写真展という看板{今日の写真}が目に入った。ここでなら、きっと望ましい回答が得られると思い、入場したそうだ。そして、写真を1枚ずつ見ていったら、質問対象の花を見つけたというのである。
 私は入ってきた時から、この真剣に写真に見入る人のことが気になっていた。だから、それとはなしに観察をしていた。
 その人は写真を見終わってから、今度は陸奥新報「岩木山の花々」の切り抜きファイルを丁寧に読み出したのである。会場にやって来てから、「ファイル」を読み終えるまで大凡、1時間半。
 それから、受付にやって来て、「私のところでは陸奥新報を取っていないものですから」と言いながら「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を購入してくれたのである。
 もしも、この飛鳥さん製作の立て看板がなければ、このような出会いはなかっただろう。まったくもって不思議な、まるで「作り話し」のような奇縁である。

 ■弘前・紀伊國屋書店「カラーガイド 岩木山・花の山旅」ベストセラー第3位にランクされているという■

 昨日は土曜日であった。弘前弘前文化センター支社長の山本さんは非番らしく、私が9時半頃にギャラリーに着いた時には事務室にはいなかった。それ以後も、午後の2時過ぎまでは顔を見せることはなかった。
 ところが、2時半頃、ひょっこりと写真展会場に姿を見せたのである。そして、私にニコニコしながら…
『さっき、紀伊國屋書店に行ったら、入り口真っ正面のところにある週間ベストセラーを示す表示板に1位、2位が中央の書店発行の本でしたが、第3位に先生の「カラーガイド 岩木山・花の山旅」がランクされていましたよ。』…と教えてくれたのであった。
 私は先ずびっくりした。そして「あっ、そうですか。ありがとうございます。」という言葉が口を衝いて出たのだ。
 「ありがとうございます」には二つの意味があった。
 一つは多くの方々が関心を寄せて購入してくれていることに対してであり、二つは、山本支社長が非番・休日を利用して紀伊國屋書店に出かけていたのに、わざわざ、そのことを教えるために写真展会場までやって来てくれたことに対してであった。
 そして、この「ありがとうございます」は次第に嬉しさに変わっていった。昼過ぎからずっと会場に詰めていた飛鳥さんや2時頃やって来た阿部会長たちも、そのことを聞きつけて、拍手までしてくれたのだ。これも嬉しいことだった。

 発売の最初は「物珍しさ」も手伝って「購入」する人も多いのだろう。今度はその中身を見たり読んだりした人たちの評価が伝聞や伝搬して「購入者」が増えていくことを期待したいと思う。
 一方で、この事実を北方新社の編集者、Nさんには早く知らせなければいけないと考えたのである。

NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花」写真展

2008-08-30 05:51:17 | Weblog
(今日の写真はNHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花」写真展の様子である。昨日の写真との違いを見て欲しいと思う。)
 花に対する「随想的な文章」の貼り付けがなくハガキ大の解説票だけの貼り付けとなったので、上下2段の構成で写真を掲示出来るようになった。そのために、展示してある写真の数も増えている。黒い額縁はA4サイズである。白い木目の額縁は6つ切りサイズ、褐色の額縁はワイド4つ切りサイズのものである。合計120枚になっている。
 昨日、午後の4時半を過ぎた頃に古い山仲間であるKさんがやって来た。「やあ、久しぶり」と久闊を叙した後で彼は「うあ、岩木山にこんなに花あるんだが」と言った。
 Kさんと私は弘前勤労者山岳会の中で「たった2人」の「創設」会員である。会員番号はKさんが1番で、私が2番である。会員番号が3番以降は「会の創設」には関わっていない。
 Kさんが「うあ、岩木山にこんなに花あるんだが」と言ったのはもちろん、半ば冗談である。だが、言外に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」で438種もの花を紹介してあるということに対する驚きを含んでいたことは否めない事実である。
 ひととおり、私の解説を聞きながら「見た」あとでも、なかなか帰らず、普段はあまり喋らない寡黙な男が、いつになく「昔」の山行に思いをはせながら「現在の弘前勤労者山岳会」の「あり方」について「苦言」のようなことを語った。
 Kさんが会場を後にしたのは「会場使用規定」で定められている17時を30分も過ぎてからだった。
  
 一昨日の会場の設営準備で「画竜点睛を欠く」ことがあった。98%は出来たが、残り2%に不備ややり残しがあった。
 それは、「解説票」の不足であり、「解説票」の間違い「誤記載・誤表記」であった。これだけでなく、その逆もあった。「解説票」があるのに「展示写真」の準備が出来ていないというものだった。これらにはA4サイズや6つ切りサイズの額縁は使い切っていたので、褐色の額縁であるワイド4つ切りサイズを使用した。
 さらに、中央と壁脇のテーブル上に置く「読み物」の用意である。これらは、その一つが、陸奥新報に2年10ヶ月連載して、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の基礎にもなっている「癒やしの山に安らぎを求めて・岩木山の花々」のファイルブック3冊と、昨年東奥日報に連載した「厳冬の岩木山」と「岩木山・花の山旅」のファイルブック、加えて、NHK弘前文化センター講座「岩木山の花」48回分のテキストと資料集のファイルである。
 その他に、展示物として「岩木山概念図」なども用意したのだ。

 当然、「荷物」は多くなった。徒歩で運べる量を遙かに越えていた。幸い娘に手空きの時間があるということで自動車で送ってもらった。これで、「画竜点睛を欠く」ことはないと意気揚々として、翌朝(昨日の朝)、開場の10時よりも30分ほど早めに、NHK放送会館に着いて「驚いた」のである。
 何と、NHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花」写真展を告げる案内「看板」が出ていないのである。会場の入り口で、こともあろうに「画竜点睛」に欠けていたのだ。
 まだ、開場までの時間があるから「設置」していないのだろうと考えて、気を鎮めていたら、職員のAさんが「看板どうしますか」と言ってきた。
 これは「看板が用意されているならば設置しますよ」ということだった。「さあ、どうなんでしょうか。NHKの企画展ですからNHKで既に用意してあるはずですが。」「それじゃ、私が確認してきます。」
 …それから、しばらくして係の人が「看板はない」ということを告げに来たのだった。係の人は、今年替わった人である。3年交替で「新人」が採用されるらしい。まだ、仕事とその流れに馴れていないようだ。
 現実的に「ない看板」のことをあれこれと言っても埒があかない。問題は「看板」のないまま、「会期」を全うするか。または、急遽「看板」を作製するかである。NHKでは今すぐの発注は出来ないという。
 私は、これまでの経験から「看板」を見て来場する人が結構いることを知っていた。だから、急遽「看板」を作製することを選んだ。
 これには、ある期待があった。それは本会が毎年開催している「私の岩木山」写真展の看板を作製している人に対してである。その人は、一昨日の設営準備の中心でもあった飛鳥さんなのだ。
 私は「携帯電話」を持たない。NHK弘前文化センターからも、NHK弘前放送会館からも公衆電話が撤去されて久しい。電話をすることが出来ないし、飛鳥さんの電話番号が最近変更になっていることも知っていた。だがその番号は私の家にある「コンピュータ」に入っている。
 会場に詰めているのは私一人である。ということは「私は終日この場所に監禁されている」ことなのだ。だから、自宅に行って番号を確認して、「看板作製」の依頼電話をすることも出来ない。
 思いあまって「電話帳」で古い番号を確認して、手書きのファックス送信用紙に「看板のサイズ」や「記載事項」を書いて、NHKから送信してもらった。しかし、当然である。番号が変更されたのだから着信するはずはない。
 飛鳥さんにファックスをしたのは帰宅後の18時過ぎである。折り返し電話がきた。無理な、しかも唐突な依頼なのに、飛鳥さんは快く引き受けてくれたのである。明日の10時前には、準備をして届けるというのだ。本当に頭が下がるのである。
 本当に善意のみんなに支えられて何事も成り立っているのである。有り難うございます。

今日から開催「岩木山の花」写真展、展示設営と会場造りに4時間

2008-08-29 05:29:30 | Weblog
 (今日の写真は昨年開催した「岩木山の花々」写真展の展示風景である。)
今年は写真の下に文章の貼付はない。カタカナ書きと漢字表記による「花名」、「科名と属名」「キャプション」「花名の由来」だけの書かれた解説票「ハガキ大」を貼付してある。
 昨年はその「写真の下に掲げられた文章」を丁寧に読みながら、「写真」を鑑賞して2時間以上もかけた来場者が何名もいたように記憶している。
 今年は、それを割愛したので、比較的短時間で鑑賞出来るのではないかと考えている。
 さて、昨日の展示場の設営のことだが、昨日のブログに書いた竹谷さん、斉藤さんの他に、本会幹事の飛鳥さん、工藤さんがお手伝いに来てくれた。驚くくらい嬉しかった。本当に有り難うございました。
 工藤さんには私の自宅から会場まで数十枚の額縁を運んでもらった。先日から約束していた竹谷さんにも額縁数十枚とコンピュータやモニターなどを運んでもらった。
 工藤さんと飛鳥さんは、昨日と一昨日の「ブログ」で…、

…『今日の10時から、展示と設営作業が始まる。約120点と数が多いので手間がかかる作業となるだろう。今のところ、斉藤幹事と竹谷幹事が手伝いに来てくれるという情報を得ている。非常に有り難くもあり、心強い。』

…『展示写真の会場への搬入は28日の10時です。枚数が多いので「展示準備」にはかなりの時間と手間がかかります。その日に「お手すき」でお手伝いの出来る会員の方がおられましたら、協力をお願いしたいとお思います。』  
ということを読んで、ちょうど「手もあいて」いたので来たと話してくれた。
 お手伝いに来てくれたことも嬉しいが「ブログ」に眼をとおしてくれていることも嬉しい。

 本会では毎年、「私の岩木山」写真展を、この会場で開催している。今年度は来年の1月になる。昨日お手伝いをしてくれた方々は、その「設営と会場」造りに毎年参加している人たちなので「手慣れて」いる。しかも、飛鳥さんは第1回の「私の岩木山」写真展からチーフを務めているベテランである。
 その、ベテランや「手慣れた人たち」、それに私を加えた5人がかりで、何と昼食を挟んでだが、10時から始めて、午後の2時まで4時間もかかったのだ。

 昨日は大変蒸し暑い日だった。ギャラリー内は写真に光を当てるようなライト構成になっていて大変に暑い。その暑さと蒸し暑さが加わって、汗だくの作業が続いた。
 数も多いのだが、額縁を吊すワイヤーの長さが一定でないことも、作業効率を低くした要因である。その他には、写真を2段構成で展示するために「台」を用いたが、その台の高さが一定でないこと、「アイウエオ」順による展示という規制なども挙げられるかも知れない。
 
 ところが、4時間という汗だくの作業というプロセスは「展示」には見えない。今日10時までには会場に行くが、きっとそこには何事もなかったように「展示された写真」と「会場」が「ひっそり」とあるだろう。
 「展示」されてあるものを見るということは、「結果」を見ているのである。だが、その「結果」だけを見ていては、その「結果」に至るプロセスを見ていないことになる。一般的に何事も「鑑賞」するということはそういうものだろう。写真展も同じだ。だが、それだけではもの足らなくないだろうか。
 せっかく、鑑賞のために「足を運んで下さる」のならば、目の前に並ぶ、「写真」と「展示会場」全体に至るまでの「プロセス」にも「眼」を向けて欲しいものである。
 「絵画の展覧会」に出品される作品一つ一つには画家たちの、その作品を完成させるまでの「苦悩」とか「歓喜」とか「懐疑」とかいう心的な微妙な動きが描き込まれているのではないのだろうか。
 ミレーが描く数々の農村風景や農民の姿には、それぞれ微妙な色彩の違いがある。これは、現実が示す「色彩」というよりも、ミレーのその時その時の心の「襞」から生じたものではなかろうか。「心の襞」もまた、絵画完成までのプロセスに違いない。

 …岩木山に出かける。花に出会う。その花を撮影する。その花に関する文章を書く。それを「写真」にする。その「写真」から、花名、科・属を特定する。その「写真」を「展示用」の大きさにプリントする。「(花名、科・属名)、キャプション、名前の由来」を書いた「解説票」を作る。「写真」を額縁に入れる。額縁を入れる箱に花名を記入する。展示会場に貼付するさまざまなポスター類の作成をする。「写真」以外の展示物の整理と準備をする。…
 ここまでが、私個人の「写真展示」までの「プロセス」である。だが、ここまででも、私の「心の襞」は出てこない。今回発行した「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に書き連ねてある文章の部分に、この「心の襞」が書かれてある。そう企図して私は書いたつもりだ。
 さらに、「写真展示」までは既に述べたような作業という物理的なプロセスを経ている。1枚の写真が人目に触れるまでには、多くの、しかも多様なプロセスがあるのだ。あなたが見るその写真は、きっと、その「プロセス」を語ってくれるだろう。
 私はそのことを期待する。来場される方々も、1枚1枚の写真が語ってくれる「プロセス」に期待して欲しいものである。

 私の「カラーガイド 岩木山・花の山旅」は写真集ではない。ある山の会報に「写真集」として紹介されていた。前書きや後書きで再三、「写真集」ではないと書いているのに、読んでくれなかったのだろうか。
 私は「写真集」を出すほどの「写真技術」を持っていないのだ。これは、自身を持って言えるのである。

NHK弘前ギャラリー企画写真展『岩木山の花』の詳細な案内

2008-08-28 05:45:04 | Weblog
(今日の写真は去年の7月から8月上旬にかけて開催したNHK弘前ギャラリー企画展「岩木山の花々」の文化センター入り口に掲げられた看板である。今回の写真展の特徴を去年のものと比べながら説明しよう。)

 昨年は写真の下にA5判の大きさの用紙に紀行随筆文章が書かれたものを貼り付けていたが、今回はそれがない。
 写真の説明はハガキ大の用紙に「花名」「その漢字名」「キャプション」「花名の由来」の項目だけとなっている。
 なぜ、「紀行随筆文」を省いたかというと、それは「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を見ると分かるからである。
 展示写真の大きさはワイド四つ切り、A4サイズ、六つ切りであり、枚数はワイド四つ切りが3枚で、A4サイズが80枚、六つ切りが37枚となっている。
 ワイド四つ切りは岩木山の特産種であるミチノクコザクラが、変異種のシロバナやシロバナでピンクの縁取りがあるものなどの展示に使用されている。
 今年の5月、それに7月に東奥日報で紹介されたミチノクコザクラの大きな写真もある。「新聞紙」上では味わえないその美しさを「アップ」で鑑賞することができるものと信じている。
 何もこのミチノクコザクラだけではない。「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に載っている写真のサイズは「横幅11cm、縦高12cm」という小ささである。それに、比べると会場で展示してある写真はすべて大きいのだ。見応えがあるものと考えている。
 また、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」が編集された後で、撮影された非常に珍しい「オチクラミズバショウ」と「スズムシソウ」の写真を岩木山を考える会幹事の竹谷清光さんが提供してくれたので、それも展示してある。その他にも、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に掲載されていないが、「手持ちの写真」から選んだものを数点展示してある。 
 展示の順序は、最初は「季節順」を考えていたのだが、これだと花の数に偏りが出てくるので「花名」の「アイウエオ」順としてある。これだと「花名」を理解するのに都合がいいのではないかと考えたからである。
 展示の形式は上下に2段構成である。上部のものは吊した状態であり、下部のものは壁に沿わせた台上に掲げてある。それぞれの下に「解説票」を貼付してある。 

 なお、開催期間中、三浦章男が常時、展示場に詰めていて、案内や解説、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の販売に当たることになっている。
 また、コンピュータを使い「岩木山を考える会」が確認している「岩木山の花」などの「映像」による解説もする予定である。

 今日の10時から、展示と設営作業が始まる。約120点と数が多いので手間がかかる作業となるだろう。今のところ、斉藤幹事と竹谷幹事が手伝いに来てくれるという情報を得ている。非常に有り難くもあり、心強い。

 再掲になるが、「オチクラミズバショウ」のことを紹介して今朝のブログを閉じることにする…。
 これは「カラーガイド 岩木山・花の山旅」で紹介出来(間に合わ)なかった「2枚の苞を持つミズバショウ」である。これは非常に珍しいものである。
 普通、一般的なミズバショウは苞は1枚である。苞とは花を包んでいる「白い花」のように見える部分である。だが、花は白くはない。黄色い小さな多数の雄しべと数少ない雌しべをつけた「塔柱・棒状」のような部分が花である。
 だから、厳密に言えば、「白いミズバショウの花」という表現は間違いなのである。
 名前の由来は、長野県白馬村落倉で最初に発見されたので、その地名を冠してのことらしい。ミズバショウの由来は水辺に咲く芭蕉のような葉を持つ植物ということによる。
 白馬村の岩岳から栂池に行く途中に落倉自然園があり、毎年4月~5月に園内で5~10株の苞が2枚のこのミズバショウが見られるそうだ。
 岩木山でも同様に普通種に混じって、場所によって数株の「オチクラミズバショウ」が見られるのである。

   (明日から始まります。どうぞご来場下さい。お待ちしております。)

雲は既に秋、季節は一ヶ月速く進んでいる / NHK企画写真展『岩木山の花』の案内

2008-08-27 06:33:22 | Weblog
 今朝、起きたら外が明るい。起床時間が遅いわけではなく、久しぶりに青空が覗いていたからだ。外気温は17.5℃。
 外に出てみると、これも数日ぶりに「北風」が吹いていた。昨日までは、特に日中が強かったのだが、冷たい「南風」が、木々の枝や葉を揺らすほどに吹いていた。その風向きが反転している。
 冷たい微風「北風」は夏に吹くものだ。まだ、8月の下旬、季節は夏であっていい。ようやく、順当な季節の推移を辿ってくれるのかと思い、ほっとしながら上空を仰いだら、そこには写真のような雲があったのだ。だが、この雲は「秋」を知らせるものであった。もしも、この雲を「鰯雲」と呼ぶことが出来るならばの話しである。
 明るいといっても5時過ぎである。ホワイトバランスの操作をしないままに写したものだから「暗く」なってしまった。
 この雲は「鰯雲」と呼ばれるものかも知れない。巻積雲のことを漁師たちがこのように呼んでいたとされている。この雲が現れると鰯が多くとれるからだという。巻積雲は悪天の兆しで、低気圧が近づいていることを示すものだ。
 水原秋桜子の俳句に「鰯雲天にひろごり萩咲けり」というのがあるが、この句の季節は秋である。
 この雲に似ているものに「鯖雲」と「羊雲」がある。どちらも、「高積雲」の一種である。
 「鯖雲」という名前の由来は、この雲がよく現れるようになる時期が秋鯖の漁期であることと、この「雲」が鯖の背に見える模様と似ていることだとされている。
 「羊雲」の由来は、牧場に群れている羊に見えることによる。何と、牧歌的な風情の雲ではないか。この「羊雲」が太陽を横切る時に、それを反射して明るい光冠を見せることがある。太陽と雲が織りなす妖しげで美しい彩りの代表は「虹」であるが、光冠もその一つである。このほかに「彩雲」というものもある。
 今日の写真の雲が「鰯雲」なのか「鯖雲」なのか「羊雲」なのか、私には分からない。分かっていることは、いずれであっても「秋の雲」であることには違いがないであろうということである。
 今日これから、または明日にかけて「悪天や荒天」に見舞われると、それは巻積雲ということになり、「鰯雲」であろう。だが、曇りないし好天の場合は「鯖雲」や「羊雲」と考えてもいいだろう。
 確かに季節は一ヶ月速く進んでいる。この「季節は一ヶ月速く進んでいる」というフレーズは今年の4月や5月に書いたブログにも頻繁に登場したはずである。

 ●岩木山・花の山旅 出版記念
         NHKギャラリー企画写真展『岩木山の花』の案内●

 陸奥新報や東奥日報にも、拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅 」のことが掲載されて、多くの人たちが知ることになったようです。
 23日にある人の「偲ぶ会」があり、出席したところ、かなりの人から「声」をかけられました。新聞の威力とでもいうのでしょうか。そのうちに「書評」がこの二紙にも掲載されることになっています。
 実は、こちらの方が「心配」なのです。書評を書いて下さる方は、いずれも「専門家」です。植物に関して「ど素人」の私が著した内容をどのように批評してくださるのかとすごく心配です。
 その心配を抱えながらですが、次の日程で、表記の「写真展」を開催いたしますので、どうぞ、お越し下さい。

※展示会場:
 NHK弘前放送会館ギャラリー  弘前市下白銀町21-6 TEL:32-5411

※開催期日:
 2008年8月29日(金)~9月2日(火)

※展示時間: 
 10:00時から17:00時まで

※展示内容: 
 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に掲載してある花の写真、約120種とページ数の関係で掲載されなかったものとして、「スズムシソウ」「オチクラミズバショウ」「カワミドリ」などの展示もあります。

■■「カラーガイド 岩木山・花の山旅」は消費税なしで著者から購入出来ます。オールカラー写真で定価は2800円(消費税別)です。展示会場では消費税なしで購入出来ます。
 なお、消費税なしで「NHK弘前文化センター受付」と「岩木トレイルセンター(岳温泉入り口にある岩木さん歩館)」でも購入することが出来ます。

 展示写真の会場への搬入は28日の10時です。枚数が多いので「展示準備」にはかなりの時間と手間がかかります。
 その日に「お手すき」でお手伝いの出来る会員の方がおられましたら、協力をお願いしたいと思います。  

多くの木の実が色づいている / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「8」 (最終回)

2008-08-26 04:51:54 | Weblog
(今日の写真はミズキの実である。山に生える木々の実は日ごとに色づきを増して、あるものは赤熟し、あるものは黒熟している。それにしても、どうしてこうまで「似ている」のだろう。日曜日の野外観察会で出会ったこの種の実をつけているものには「カンボク」「タムシバ(オオカメノキ)」「ガマズミ」「ナナカマド」などがあった。中には「赤熟」しない、まだ緑の「ツノハシバミ」も見られたし、「赤熟」していてすでに食べ頃になっているキイチゴの仲間である「モミジイチゴ」や「クマイチゴ」もあった。これは美味しい。)

 これらは「多肉果」と呼ばれるものだ。すべて閉果で、種子は果肉が付着したままで分散する。これには液果(えきか)、ミカン状果、ウリ状果、ナシ状果、石果(せきか)などがある。

 液果とは、ブルーベリーやスグリなどにみられ、中果皮や内果皮の果肉に種子がうまっている。外果皮はうすい皮である。
 ミカン状果とはレモンやグレープフルーツなどの柑橘類の果実で、外果皮と中果皮がかたい皮となり、内果皮が果肉となっている。
 ナシ状果:リンゴ、ナシ、マルメロなどの果実。このタイプは、芯とその内側の部分だけが果皮で、果肉の部分は子房の壁以外の花の組織が熟したものである。たとえば、リンゴの果実は子房と花托が成熟したものである。
 石果とは核果(がいか)ともいわれている。アンズ、ウメ、クルミ、モモ、アーモンドなどの果実がそれだ。1つの種子が石のような内果皮につつまれ、果肉は中果皮である。「ツノハシバミ」もこの仲間である。
 これは樹木ではないが、ウリ状果とはキュウリ、カボチャ、メロン、ヒョウタンなどウリ科植物の果実だ。いちばん外側の層は、外果皮に花托(かたく)の組織がかぶさったもので、果肉の部分の大半は中果皮と内果皮からできている。(花托:花の各部を付着する部分)

「モミジイチゴ」や「クマイチゴ」は「集合果」と呼ばれている。
 1つの果実のように見えるが、多数の果実が集まったものである。イチゴ状果、キイチゴ状果、バラ状果、ハス状果などに分けられている。

 イチゴ状果とは花托が肥大して多肉質になり、表面に多数の痩果をつけるものだ。「イチゴ」の食べられる部分は果実ではなく、花托が熟して果肉になったものであり、果実といえるのは表面の「粒々」だ。
 また、「イチゴ」のことをストロベリー、「キイチゴ」のことをラズベリーと言っているが、「ベリー」という言葉は、本来「液果」を指すのだそうで、この名称は「分類学的」には正確ではないとされている。
 キイチゴ状果とはキイチゴやブラックベリーなどの果実だ。わずかに肥大した花托にたくさんの石果をつけるものだ。
 バラ状果とはハマナスなどに見られるもので、壷状の花托が肥大し、内側に多くの痩果が入っているのである。
 ハス状果とは「ハス」などに見られるもので、漏斗状の花托が成熟すると多くの小さな孔が開き、それぞれに堅果が入っているものである。

 ■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「8」(最終回)
(承前)
 
 山岳誌「山と渓谷」2001年6月号「Birds Eye」に山岳道路「岩木スカイライン」の全景写真が掲載されていた。それは2000年6月11日に撮影されたものだそうだ。
 そして、その見出しには『ブナの新緑萌える岩木山の西山腹。描かれた奇妙な螺旋模様は現代の鬼っ子か』とあった。

 撮影者は「岩木スカイライン」の上空を…岩木山周辺を飛ぶ。西面にドライブウエイがあった。これは現代の鬼っ子か。現代人は自分で自分を捕らえて、食われつつあるのかもしれない。…ととらえている。 
 鬼は一般的には人に対して悪さをするものとされているが、岩木山の鬼は古来農民の味方であった。味方を捕らえて食っていると言いたげだが…どうだろう。
 岩木スカイライン株式会社は自社のパンフレットにもスカイラインの航空写真を使用しているのだが、これには「現代の鬼っ子か」などという文化・文明批判も自然破壊の証拠写真という意識も感じられない。もちろん、そのようなコメントもない。
 これだけ自然の草木を含んだ表土を剥いでも、その面積は鰺ヶ沢スキー場の総ゲレンデ面積にははるかに及ばないが、相当な面積に渡っての自然改変であることには変わりはない。山岳道路やスキー場、それにダム(堰堤)は「鬼っ子」を越えて人を食らう「鬼」そのものかも知れない。
 山岳道路「津軽岩木スカイライン」は1965年8月25日開通した。当時の弘前大学学長が選考し、命名したという。正式名称は「岩木山登山自動車道」であり、起点の標高は445m、終点は1247mである。全長は9.8kmで69カーブ、路幅は二車線の7mである。
 その「岩木山登山自動車道・岩木スカイライン」ターミナル南東端に、ハンググライダー用の「滑走斜面」がある。そして、その直ぐ東側には「岳登山道」が通っている。登ってみるとよく分かるのだが、この「ターミナル」直下は非常に急峻であり、岩が突き出している難場でもある。当然、「滑走斜面」」のある場所も本来は「急峻な岩場」であった。
 だから、そのままでは、決して「滑走斜面」としては使えないのだ。どうしたか。そこに盛り土をして、草を張り「人工の滑走斜面」を造ってしまったのである。何をか況んやである。これはれっきとした「自然改変」であり「自然破壊」である。しかも、標高1247mという亜高山帯にである。
 既に述べたが「高山帯」や「亜高山帯」における自然の改変による本来の「自然」への攪乱は低地のそれに比べると、その度合いがとてつもなく大きい。「回復力」が少ないからだ。
 その年から、その造営地「滑走斜面」から赤土の流下が始まった。それは登山道に流れ込み、数年後には「根曲り竹」が猛烈に繁茂し始めて、登山道を覆った。
 張られた草の種に混じっていたであろう外来種の草が目立つようになった。岩木山では見かけない「タチフウロ」などが咲き出す始末である。

 一方、登山者からは「滑走斜面」のある場所と岳登山道との接触地点で、ハンググライダーの「翼」が登山道を「占拠(塞いで)」していて「登山道」が使えないという苦情が続出していたのである。最近はハンググライダーを殆ど見ることがなくなったが、このような事情を理解して自主的に「飛行」を止めているのだろうか。そうであるならば、岩木山の植物や動物、自然にとっては望ましいことである。(この稿は今日で終わります。)

昨日はNHK弘前文化センター講座の観察会だった / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「7」

2008-08-25 05:56:30 | Weblog
 (今日の写真は秋を代表する草のススキである。この背丈を越えるようなススキ原を、講座受講者は歩いて「古い踏み跡道」を目指した。)

 この辺りは杉を植林するために自然に生えていた樹木を伐採し、それを運び出したり、杉の苗木を植えるためのアクセス道路としての「林道」跡である。「古い踏み跡道」まで、300mほど続いている。だが、「植林後」は杉林の保守と点検は放棄されて、それに従って「林道」は使われず、「荒れ地」を証明するススキ原に変わってしまったのである。
 「放棄」された林道にはこのススキなどが激しく繁茂するが、地肌には「車」の轍(わだち)が残されているものだが、ここではそれすら見えない。完全なススキ原である。
 岩木山にはこのような放棄された林道が無数にある。その理由は「伐採」するだけのために「林道」を敷設することであり、「伐採」して、その跡に「植林」をするが、「植えた樹木を育てる」ことを放棄していることにある。
 前者は最近多く見かけるようになってきた。これは各地域のなどが「管理している」標高700m辺りまでのミズナラやブナ林帯に多いのだ。
 先ず、ブルトーザーで道をつける。路肩や法面などまったく注意を払わない工法で道路は造られる。それは、まるで促成の軍用道路であるかのようだ。
 しかも、斜面に対してジグザグに進むというものだ。直線であれば、その面積は狭いものだろうが「ジグザグ」であるのだから「面積」は広がる。伐採という自然破壊のほかに広い範囲にわたって「山肌・地肌」を剥ぎ取るという破壊までもしてしまうというのだから、大変だ。そして、この促成・粗製の「林道」は切り出した樹木の運搬と重機の移動に使われて「終わり」となる。そのまま放棄されるのである。残ったものは「切り株」とブルトーザーのキャタピラ跡を穿った道であり、赤土をむき出しにした禿げ山だけとなる。それは「死の山」でもある。
 後者は林野庁が主にブナを伐採して、その跡に「杉や落葉松(からまつ)」を植林した「林道」である。植えた樹木を育てることを放棄しているのだから、つまり、植え放しなのだから、「林道」は使われない。道はどんどん荒れて「消失」する。
 その一例を挙げよう。松代地区の石倉から黒坊沼に至る道のちょうど中間地点に当たる辺りから入る荒れ果ててやっと「林道」だろうと分かる道がある。数年前に、そこを登って行った。
 やがて、ブナ林が出てきて、その中の「道」ははっきりしてはいたものの、そのブナ林を抜けたら猛烈な藪となってしまった。
 そこには、背丈の低いやせこけた落葉松が生えていたのだ。そして、それらに混じって、それらより背丈のあるブナも生えているのであった。
 何と、そこはブナを伐採して、その跡に「落葉松」を植えた植林地だったのである。「林道」を敷設して、落葉松を植えたのだが、その後、まったく手入れをしていないのだ。「植林」とは「植え」て「林」に育てるという意味だろう。「林道」の消失は、その一番大事な「育てる」ことを放棄していることを如実に示すことなのである。
 ブナは残された切り株から出た曾孫生えか、かつて、落ちた実から生まれたものだろう。落葉松の生長は、その自然に生えて育ったブナに負けているのである。「手入れをして育てない」落葉松が、自然に生まれたブナに圧されているのである。そのうちに、そこはブナ林になるだろう。
 何のための「林道敷設」か、「植林」だったのだろう。ブナ伐採という自然破壊、ブナから「落葉松」へという攪乱、そして今まさに「ブナが落葉松を圧し殺し」過去へ戻ろうとしているのである。無駄である。「林道、伐採、植林」にかかった費用は、すべて国民が納めた税金で賄われた。
 自然を失い金を失ったというこの二重の無駄の責任は誰が負うのだ。何もしなければ「ブナ林」はそのまま残り、金も使わずに済んだのである。このような愚行を国が率先してやって来たのである。

 ところで、昨日は9時10分にNHK弘前文化センターを出発して、観察地に着いたのは10時少し前、観察を終えて帰着したのが14時20分だった。その間の天気だが、曇りで時々晴れ間がのぞくというものだった。ほんの数秒だけ、「パラパラ」と雨らしいものが降ったが、濡れることはなかったし、ススキの原っぱを歩いても露で濡れることもなかった。
 気象庁発表の「天気予報」は最初から当てにしないで、自分で「気象情報」を参考に出した「予報」どおりのお天気となった。NHK弘前文化センターからは前日から「明日どうしますか」との問い合わせがあった。だが、私には「中止」の意志はなかった。
 受講者は全員雨具を用意しての参加となったが、「今回も使わずじまいだ」という嬉しい「ぼやき」をしていた。この3年間、月一度ではあるが、講座の野外観察時にはまったく雨に降られていないのである。
 きっと、受講者の心がけがいいからだろう。)

 ■質問に答えます(ハンググライダーなど)「7」

(承前)

 今日はハンググライダーやパラグライダーの飛行による鳥類や動物への影響を考えてみたい。
 数年前のことだが、春スキーの時季に、スキーヤーをヘリコプターで山頂まで運んだことがあった。採算がとれなかったのだろう。直ぐ止めたらしいのだが、その時、私たちは「イヌワシが岩木山に生息している。ヘリコプターの飛行による懸念」を訴えたのだ。イヌワシは冬に抱卵して、春先に雛がかえりその時期が子育て真っ最中となる。騒音や機影からの恐怖は「子育て放棄」という最悪の状態に繋がるという情報があったからである。
 「幸いにして(イヌワシへの影響を考えてのことではなく、あくまでも採算的な問題から)」飛行は中止されたので、この問題はいつの間にか話題にならなくなったのだ。
 ハンググライダーやパラグライダーの姿「機影とはいえないだろう」が野鳥や動物の脅威にならないという保証はない。野生の動物からすれば「空」を飛ぶ「異物」でしかないからである。
 モーターパラグライダーの場合は「プロペラの回転音」と「エンジン音」が動物や鳥類に対して「脅威」となるはずだ。
 「騒音」は野鳥の産卵と抱卵に微妙な影響を与える。産卵出来なくなり、仮に産卵しても「抱卵」を放棄し、巣全体をも放棄する。イヌワシは全国で400羽に満たない生息数である。
 まさに、絶滅直前の希少生物なのである。その希少生物の生息を脅かすようなことは、知恵ある人間のすることではないだろう。(明日に続く。)

今日の写真は古い道の「道しるべ松」だ。

2008-08-24 06:35:40 | Weblog
  ■今日の写真は古い道の「道しるべ松」だ。

 この松の樹齢はどのくらいだろう。50年いやそれよりも多いと思う。登山道沿いにも松を植えて道しるべにしていたところが岩木山には「あった」。
 現在もその「松」だけは残っているが、その登山道は「スキー場ゲレンデ」となって「道」は消えた。「あった」という訳はそのことを指している。百沢スキー場の上部左岸にまだ「松」はある。 
 写真に見えるように、松の手前は草藪である。見た眼には道は見えない。道は消えている。しかし、この松を目当てに進むと、松の下には人が一人通れる暗いの踏み跡が現れる。この松から先は「樹林帯」を進むことになる。
 樹木が伐られて日当たりのいいところには、この写真が示すようにススキなどが蔓延(はびこ)る。そして、道を覆い尽くして「消して」しまう。ススキは伐採されたり、表土が剥がされたりした場所にいち早く侵入してくる植物である。その意味からススキは「荒れ地」であることを示す「指標」植物でもある。
 この松の右下から樹林帯に入ると様相は一変する。先ずは薄暗い。この日は曇天だったのでなおさらである。太陽の日射しが入ってこないから「植物」の生育は遅く、しかも生える草などの種類も少ない。
 というわけで「道」は草藪に覆われることは殆どない。このような低地でもそうだから、これよりも高度のある「ブナ林帯」ではなおさらである。ブナ林帯につけられた「踏み跡」は数十年経っても消えることはない。
 二子沼から「大ノ平」登山道に出る踏み跡がある。ブナ林の中の踏み跡は今でも辿ることが出来るが、ブナを伐採して「杉」を植えてあるところやその周辺では「道(踏み跡)」は完全に消えている。
 林野庁の「植林事業」は旧来の「道」を岩木山の山肌から剥ぎ取っていると言えるだろう。少なくとも、そのような踏み跡を示す何かを設置するような配慮が欲しかったと、つくづく思うのである。
 この樹林帯の中には人が一人歩けるような道が続いている。藪をかき分けなくてもはっきりと視認が出来る。現在は県道30号線(環状線)が枯木平と松代を繋いでいる。松代地区に人が入植した頃は、環状線は敷設されていなかった。その当時から枯木平の人と松代の人たちはこの道を使って行き来していたのである。
 この道を辿ると、松代登山道から二子沼、さらには長平に出ることが出来るのだ。昔の人たちは山奥の地から日本海の港町、鰺ヶ沢町に通ずる「道」を、しかも最短距離で、疲れの少ない「道」を持っていたのである。
 時間があると本当にそれを辿って鰺ヶ沢町まで歩いて行ってみたい気になった。
私は「とおして」ではないが小分けにして、この道を辿って「鰺ヶ沢町」まで歩いた経験はあるのだ。
 昔の人たちが辿った道を歩いていると「時代」がそこまでさかのぼって、歩く私自身も「昔の人」になってしまったような気分になるのである。これはとても贅沢なことのように思える。
 みなさんもこの「タイムマシン」に是非乗ってみてはいかがだろう。


今日の写真は初秋の二ツ森だ / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「6」

2008-08-23 05:59:22 | Weblog
 ■ 今日の写真は初秋の二ツ森だ。

(今日の写真は初秋の二ツ森だ。標高が612mもある山なのに、その高さをまったく感じさせない。弘前市の南に「聳える久渡寺山」も標高が600mほどだが、あれには見る者に対して「高さ」を意識させる何かがあるのに、これにはないのだ。
 その理由は、先ず見ている場所の標高も高いからである。写真を撮った場所の標高は550mである。これでは「高さ」を意識することは出来ない。また、周囲の杉などと同化して「山の形」が木々の様相と同じになっていることも、「高さ」よりも「山」そのものを意識させず、見せないからである。)

 前景のちょっとした「開放地」にはススキが花をつけていた。ここはもう秋なのである。だが、秋にしては何かが足りない。秋、そして、ススキとくれば、その穂先に「停まる」アキアカネの姿がなければいけないだろう。そのアキアカネなどがまったく見えないのだ。
 アキアカネは夏の間、高い山などで過ごして、秋には「里」に降りる。まだ、「夏」なのだろうか。もっと、高い山にまだいるのだろうか。それとも、秋を感じてこの場所よりも低い「里」に降りて行ってしまったのだろうか。
 あるいは、前日からの激しい雨から逃れて、どこかに隠れているのかも知れない。
 この時季には毎年、このような「場所」で、うるさいほどに飛び交うアキアカネを見ていたような気がする。それが、…何とも異様な、動き飛び交うものがいないという、ただ、緑だけの世界というのも、沈黙した不気味さが漂うものだ。

 かつて、積雪期に二ツ森から名無しの山、黒森山へと登ったことがある。はっきり言って「藪山」なので、スキーはその藪にとられて操作が困難である。だから、ワカンを使った。この二ツ森と隣の名無し山の登り降りには苦しい思いをした。今時期を違えて眺めてみて、その苦労の理由が分かったような気がした。それは、この山麓部の杉、山頂部のミズナラなどの樹木の繁茂にあったのだ。
 ただし、名無し山の麓から黒森山へと、高度を稼ぐに従って藪は疎らになり、樹木も山毛欅(ブナ)に変わってくると、快適な登りとなる。もちろん、ワカンでなくスキー登山も可能だ。
 高度の違いによる「植生」変化は「登山」にも色々な側面を見せてくれるものである。

 ■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「6」
(承前)

 滑走面に求められる地形は、円錐形であり、中央部が盛り上がり、三方に対して斜面を構成していることが望まれるだろう。それは、ハンググライダーもパラグライダーも「風に向かって揚力を得て」空中に浮かぶという構造と機能を持っているからである。だから、あらゆる風向きに対応する必要があるのだ。
 このように、滑走斜面には山風や谷風、海風などの吹き付ける場所が必要となる。山の場合は、少なくとも底部から吹き上げる風が常時ある場所、出来ればすべての方角から吹き上がるような場所が必要だ。
 ところが「三方」に開けて斜面をなす「円錐形」の斜面があちこちにあろうはずもない。
 「滑走斜面」が「森林限界地の亜高山帯や高山帯」に造営・設置されることは、低地に造営・設置されることよりも深刻な「自然破壊」に繋がる。斜面の改変「凹凸の除去、地ならし、刈り払い、地形の変造」などによる自然植生と鳥類や動物への影響は計り知れない。
 その理由は「亜高山帯や高山帯」という特殊性にある。この「特殊性」を端的に言うと「希少」、「固有」と「独自の進化」、「長い年月をかけて現在の植生に至ったこと」や「生長が非常に遅い」などが挙げられる。
 ミヤマハンノキの仲間に岩木山の特産種である「イワキハンノキ」があるが、これは岩木山の高山帯という特殊な環境のもとで、独自に進化したしてきたものだ。
 このようなものは「この場所」でなければ育つことが出来ないし、「この環境」でないと死滅する。このような場所を「滑走斜面」として改変してはイワキハンノキは絶滅する。
 高山帯のダケカンバは直径5cmの枝に生長するのに50~70年かかるといわれている。一旦刈り払われると「回復」はおぼつかない。ハイマツは2年に一回しか実をつけない。「滑走斜面」の凹凸の除去や刈り払い、滑走者の踏みつけなどで「自己防衛的」な結実の循環は絶たれてしまい、絶滅する。
 岩木山の「ハイマツ」は悲しい歴史を背負っている。お山参詣の時に、人々がハイマツの小枝を折り取って、それを手にして「いい山かけた」と唱えながら降りたのである。これで、岩木山のハイマツは激減した。現在、山頂から一、二の御坂沿いには殆どハイマツは見られない。それによってハイマツの実を餌にしている「ホシガラス」という鳥も少なくなってしまった。
 「固有」と「独自の進化」という特性は、「変化」には弱いものである。固有種たちは「彼らの流儀」で生きようとする。彼らの流儀でしか生きられないのだ。
 だから、「変化」を望まない。悠久に不変であることを、仮に変化があっても、それは彼らが能力として持っている「進化のスピード」を越えるものであってはいけないのでる。
 高山帯に「滑走斜面」を敷設するということはまさに、急激な「大変化」でしかない。(明日に続く。)

今日の写真は初秋の落葉松林だ / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「5」

2008-08-22 06:42:46 | Weblog
(今日の写真は岩木山枯木平地区にある二ツ森山麓に広がる「落葉松」林である。一昨日この辺りを歩いてきた。NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の下見である。当日は9時に出発する予定だったが雨脚が強かったので、1時間遅らせての出発となったが、これが「功を奏して」現場で下見をしている間は雨に当たることもなく、雨に濡れた草や木の枝葉もかなり乾いた状態だったので「濡れる」ことはなかった。
 「2万5千分の1」地図には、枯木平から二ツ森の東麓を通り、次に続く名無しの山の東麓から北に抜けて、鰺ヶ沢町松代地区石倉に至る「歩道」が載っている。私はこの「歩道」をこれまで3回歩いている。
 最初は春4月の下旬であった。先ず、二ツ森に登った。そこから北東にある名無しの山の山頂を経て、その山の東麓に降りて、落葉松林の中の「歩道」を辿って、若松に出る道路に出てから、またそのルートを引き返してきた。
 2回目は青森県高等学校山岳部秋季登山大会でこのルートを使用し、松代登山道「大ノ平ルート」を登った時である。
 3回目は初冬岳から登り、山頂を経て大ノ平ルートに入り、追子森から松代地区の石倉付近にある登山口に出て、そこから、この歩道を通って枯木平バス停に着いたのである。
 その後、数年して4回目も追子森から降りて来て、枯木平からバスに乗るために、この「歩道」に入るつもりでいた。ところが、その入り口「取り付き地点」が分からない。何と、そこは「広い」とうもろこし畑になっていたのである。断念して、環状線の若松地区に出てた。「硬いアスファルト道路」を延々と「登山靴」で歩く羽目になってしまったことはいうまでもない。
 だから、4回目は実質、今回の下見で、この「歩道」を歩くことにしていたのである。
 …道はすっかり変貌していた。何も、この時季が「下草」の一番背丈が伸びているためだけではない。全く利用されていないというのが実情であった。「名無しの山」の東麓から北に進むと行政的には鰺ヶ沢町に入るが、その辺りで、「歩道」は草や雑木に覆われて「消えて」いたのである。踏み跡すら見えないのだ。)

■ 今日の写真は初秋の落葉松林だ。

 雨に濡れた落葉松は爽やかである。初夏の淡い緑の落葉松も美しい。針葉樹では、「落葉」しないものが多いが、これは葉を落とすことを名に負っている。冬の落葉松林ほど、灰色の幹を見せながら「空間が多く」空しい風情となる。
 多くの詩人が「落葉松」を主題に作詩をしているが代表的なものを二つ挙げてみよう。
 
 北原白秋: 落葉松

一 からまつの林を過ぎて/からまつをしみじみと見き/からまつはさびしかりけり/たびゆくはさびしかりけり。
二 からまつの林を出でて/からまつの林に入りぬ/からまつの林に入りて/また細く道はつづけり。
三 からまつの林の奥も/わが通る道はありけり/霧雨のかかる道なり/山風のかよふ道なり。…
四 からまつの林の道は/われのみか、ひともかよひぬ/ほそぼそと通ふ道なり/さびさびといそぐ道なり。
五 からまつの林を過ぎて/ゆゑしらず歩みひそめつ/からまつはさびしかりけり/からまつとささやきけり。
六 からまつの林を出でて/浅間嶺にけぶり立つ見つ/ 浅間嶺にけぶり立つ見つ/ からまつのまたそのうへに。
七 からまつの林の雨は/さびしけどいよよしづけし/かんこ鳥鳴けるのみなる/からまつの濡るるのみなる。
八 世の中よ、あはれなりけり/常なれどうれしかりけり/山川に山がはの音/からまつにからまつのかぜ。

 注:「ひともかよひぬ」=「いろんな人も通っていた」「さびしけどいよよしづけし」=「寂しいけれど、ますます静かだ」「常なけど」=「はかないものだけれど」

 この詩は大正10年、長野県の軽井沢へ講演に行ったとき作られたものであり、白秋はこの詩について「落葉松の幽玄さと風のこまやかな寂しさ、その幽かな自然と自分の心情を詠ったもの」と、自注している。

…参考:島崎藤村: 落葉松の樹

 落葉松の樹はありとても/石楠花(しゃくなげ)の花さくとても
 故郷遠き草枕/思はなにか慰まむ/旅寝は胸も病むばかり
 沈む憂は酔ふがごと/独りぬる夜の夢にのみ/ただ夢にのみ山路をくだる

■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「5」
(承前)
 「滑走斜面」の造営において、滑走しやすくするための「凹凸の除去、地ならし、刈り払い、地形の変造」などの斜面の改変は必ずおこなわれるだろう。そのことについて考えてみたい。
 滑空するのに「邪魔」になるだろうから「樹林帯の斜面」を「滑走斜面」とすることはないだろうが、あえてそのような場所に「滑走斜面」を求めようとすれば「滑走斜面」を出来るだけ広げることになるだろう。つまり、広範な樹木の伐採が行われることになる。樹木の伐採は一つに「自然破壊」の典型である。
「滑走」することから伐採した跡に残る「切り株」や「突出」している岩などは、当然邪魔なものになり、「抜根」や「岩石破砕」という自然破壊的な改変や変造が行われるのは必至である。これは鰺ヶ沢スキー場のゲレンデ改変や変造が如実に示している。
 いきおい、「滑走斜面」は樹林帯を避けるだろう。そして、「滑走斜面」の多くは「芝原のある低山斜面」と「森林限界地の亜高山帯か高山帯」に造営・設置されることになるはずである。

 「芝原のある低山斜面」とはいえ、そこに「地面の凹凸」がないわけではないだろう。すべて、草丈が同じ「芝」だけが生えているわけではないだろう。当然、芝ならぬ「柴」も生えている。「柴」は滑走する足に絡みつく。
 岩が突き出し、石ころが転がっているかも知れない。それらに足を取られて転倒するかも知れない。
 グライダー部分を背負い、パラシュートを引きずって転倒することは非常に危険だ。背骨や頸椎の損傷で「植物人間」になる恐れもある。
 そこで、「石の除去、平滑な滑走面するための地ならし、柴や草の刈り払い、凸凹を取り除くための土入れなどによる地形の変造」が行われる。これらはすべて「あるがままの自然」を壊してしまう行為なのである。(明日に続く。)

今日の写真について / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「4」

2008-08-21 05:44:13 | Weblog
 (今日の写真は八甲田山大岳と井戸岳の鞍部、毛無岱の上部からみた岩木山である。直線的にはどのくらいの距離になるのだろう。津軽平野の南端に孤塁して立つその姿は、前景の、つまり弘前市の東側に開ける低地とそれを阻むようにして並んでいる八甲田山域の山稜に取り込まれて、非常に「小さく、低く、哀れ」にしか見えない。)

 ■ 今日の写真と非常に似ているものを「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の中扉の写真として使用した。ところがそれは、今日の写真と違って「岩木山」の前に「低地とそれを阻むようにして並んでいる八甲田山域の山稜」が見えないものだ。それは、その「低地とそれを阻むようにして並んでいる八甲田山域の山稜」をすっかり、雲海で覆っている。雲海の上に、「三分の一」ほど出ている岩木山なのである。そうなると、「小さく、低く、哀れ」という印象が一変する。
 孤高を保ちながら「津軽平野」に屹立し、私たちに「恵み」を与える神格的な存在となるのである。「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の中扉を是非覗いてもらいたいものだ。 

 ■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「4」
(承前)

 つまり、人がそこに侵入することで、「人」が気がつかないまま、そこにそれまで「生えていなかった」種子などを持ち込むということなのだ。3年ほど前に、八甲田山の田茂萢岳で「ヒメアカバナ」が発見された。
 青森県レッドデータブックによると、ヒメアカバナは岩木山一帯の砂礫地に生える多年草とある。県内では岩木山にしか生育していないということであるらしい。
 岩木山一帯の砂礫地とあるが、私の調査によるとヒメアカバナは非常に限られた場所で、しかも高度のある狭い範囲にしか生育していないのである。しかも、その数も決して多いもの(少ないと言うべきだろう。)ではない。
 このような事情から、いまここで生育場所を含めた具体的な現況を述べることは差し控える。
 岩木山のヒメアカバナは特定の限られた場所で数も少ないのである。このことから、私は「デーリー東北」紙の『「東北大学付属植物園八甲田山分園の米倉浩司助手は「…八甲田での発見例としては非常に珍しい。数年前に種子が入り込んだと思われるが、どのようにして入ってきたのか関心がある」と話している。』という記事に興味を持ったのである。
 私は、米倉浩司助手と同じように「どのようにして入ってきたのか」に強い関心を抱いた。

 そこで「どこから、誰によってもちこまれたのか」について仮説を立てた。
①それは岩木山から持ち込まれたのであろう。
②それを持ち込んだのは登山客であろう。

 1、発見者に確認したところ、北八甲田山でヒメアカバナが発見された場所は、「登山道沿い」であること、しかも、田茂萢岳ロープウェー山頂駅を出たすぐのところであるそうだ。もっとも登山客が集まる場所である。
 岩木山のヒメアカバナ生育地も年間5万人を越える「登山客が訪れる狭い場所」である。どちらも、多数の登山客が集中的に訪れる場所としての共通性をもっているし、事象の整合性は否めない。

 2、ここ数年の狂気じみた「日本百名山ブーム」の中にあって、東京方面から夜行日帰りという短い日程で「岩木山に登ってから北八甲田山に登る」ことが流行っている。というよりも定番となっている。
 一日で百名山の「2つの山」に登ることが出来るのだから「登山ラリー参加者」にとってはこたえられないだろう。
 そために、貸し切りバス等で連続登山する者が非常に多くなっている。つまり、東京から前日出発し、朝早く岩木山スカイライン入口に着く。ゲートが開くまで仮眠をとり、それからターミナルへ、リフトを乗り継いで彼らは山頂へ行く。
 山頂からリフト乗り場までは徒歩で、そして、リフト、バスに乗車してまっすぐ八甲田山の田茂萢岳ロープウェー山麓駅まで運ばれる。まさに密室から密室への移動である。
 靴や衣類に付着したヒメアカバナの種子は、「バス内の移動のない運び屋に付着したまま」ふるい落とされることもなく、ロープウェー「ゴンドラ」内に持ち込まれ、動かない運び屋にしっかりとくっついて、ロープウェー山頂駅を出たところでやっと自由を手に入れて、「ふるい落とされる」という仕組みである。このようにして岩木山から運ばれたのである。

 3、ヒメアカバナは名前が示すように(小さくて愛らしいものには「姫」という名を冠することが多い。)、その草丈も花も非常に小さいものである。
 特別に高山帯の植物等に関心を持っている人の目には見えるが、一般的な登山客の目に留まることは少ない。このために岩木山のヒメアカバナは、多くの登山客に踏みつけられながらも、気づかれず生育している。
 この事実から、ヒメアカバナは容易に種子を靴や衣類に付着させる機会を得ていることになる。

 あるがままの自然を、そのままにしておきたいと願っているが、このように登山客が規制もなく、大挙移動出来るようになっていてはどだい無理なのかも知れない。
 このような現実を前に「あるがままの自然」は幻想の世界でしかないと思うと空しくなってしまい、自然保護活動の限界を意識せざるを得ないのである。
 登山客によって「ヒメアカバナ」が踏みつけられている事例を目にする。しかし、「踏みつけてはいけないことの理由」を説明することが、逆に「その植物が岩木山ではこの場所にしか生育していない希少な植物であることを多くの人に知らせること」になり、盗掘等の行為を増大させ、果ては「この場所からの絶滅」を招くことになるという危惧から憚られる場合が多いのだ。

 これら4つの「攪乱」は「滑走斜面」の造営においても当然起こりえることである。滑走しやすくするための「凹凸の除去、地ならし、刈り払い、地形の変造」などの斜面の改変がなされるからである。明日はこれらのことについて言及したい。

地域のつながりには自然的な要素が重要 / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「3」

2008-08-20 05:19:02 | Weblog
(今日の写真は近景に月見草、遠景に岩木山である。夏から初秋の風情だ。岩木山の山麓部に注目して欲しい。小高い山々が続いているだろう。
これは「岩木山生成の第1ステージ」といわれる「古岩木山(中新世時代の海底火山)の名残だ。
 現在、岩木山を取り巻くように山麓部に高舘山、高地山、愛宕様の山などが並んでいるが、これらを「古岩木山のカルデラ壁・外輪山」だとする説もある。このカルデラ壁の外側に岩木川が流れ、その流域に古来から人が住み着いて「村落」を形成してきたのである。それらが目屋地区であり、相馬地区であり、旧岩木町の如来瀬、兼平、賀田などである。)

  ■地域のつながりには自然的な要素が重要…

 数年前に、市町村の合併の時に、西目屋村、相馬村、岩木町が「1つ」にまとまろうとしたのは、このような「地形や地質、岩木山の成り立ち」という「歴史性」を踏まえた側面もあったのである。
 「地域」のつながりや「交流」は「地形」などの自然的な要素を抜きにしては考えられないことである。ところが、「政治的」な合併は弘前市が岩木町や相馬村を「吸収」するという形をとった。つまりは「大きなものにまかれろ」であったのである。
 村民や町民の大半は「合併」したくなかったし、「対等合併」というスローガンは「お題目」であり、絵に描いた餅であることを知っていた。「地域や地区」にはそれなりの生活パターンや文化があった。
 弘前市との合併で、それらが「旧弘前化」していくことを恐れたのである。
 ところが、町や村の理事者側、つまり、町長や村長、それに町議会議員、村議会議員たちは、「村民や町民」の声に耳を貸さずに、弘前市に吸収「合併」されることに賛成をしたのである。「合併」後は「町長、村長」は失職するが、「議員」たちは全員「市会議員」になれるからである。自動的に「市会議員」になると「報酬」が「かなり」上がるのだ。
 だが、その中でたった1人だけ、骨のある奴がいた。それは相馬村の議会議員、Aさんであった。
 Aさんの主張は『西目屋村、岩木町、相馬村」で対等合併する』というものだった。それが無様で、主体性のない「吸収合併」である。Aさんは自分の「スジ」をとおすために棚ぼた式に「市会議員」になれる「村会議員」の身分を辞したのである。旧町村議会の議員たちが自分たちの「町や村」を高額な議員報酬と引き替えに「売り渡した」のである。
 現在、その中の「生き残り議員」たちは当時の報酬の2倍や3分の2倍に近い「報酬」を得ているのだ。
 件のAさんは、その後「市会議員選挙」に出て、当選し現在は「率直な意見」を持って議会活動をしている。) 

 ■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「3」

 「道路」を敷設するということ自体がまず、「自然への攪乱」である。岩山でもない限り、目に見える第一の「攪乱」は樹木の伐採である。
 低山や里山の場合は短くて済むだろうから、その面積は「少ない」と考えられるが、亜高山帯や高山帯の場合は遠距離になり、しかも「蛇行」的なカーブが多くなるので、その面積は莫大な広さになる。

 第二の「攪乱」は、進入・進行に対して「地形を含めた」邪魔になるものの「除去」である。つまり、伐採後の「地面・地表」の改変である。地表を剥ぎ起こし、ブルトーザーで急な斜面を掘り起こし崩して、自動車の通れる「斜度」の確保をする。これは地形の変造にもなる。

 第三の「攪乱」は、第一や第二の「攪乱」に伴う「動物や植物」への影響である。樹木の林は、長い年月をかけて「今」ある「林相」を形成している。有名な白神山地の「ブナ林」には10.000年という歴史がある。岩木山の「ブナ林」も、数千年という歴史である。
 数年前まで、岳地区から「雪上車」でスキーヤーを運び上げて、岳スキー場(自然地形そのままのスキー場)のAコース、Bコースの「滑降」を楽しめるということを「商売」としてやっていたことがある。ただし、採算がとれずに15年間でその企業は撤退をした。しかし、最近「営業許可」を受けない不法な「雪上車」が客を運んでいる。
 この「雪上車」通行ルートの変貌は著しい。この「変貌」こそ、「自然の破壊」の結果である。沢山あるのだが、その主なものだけを挙げてみる。
 動物としては蝶類の激減だ。一例として「ミドリシジミ」がまったく見られなくなったことである。さらに、他の蝶類の発生時期に「変化」が生じていることである。
 植物では千島笹「根曲り竹」の猛烈な繁茂であり、樹木の「タムシバ」が林を形成するほどに生育するようになったことである。
 また、そのルート沿いのスカイラインターミナルに近い亜高山帯では、千島笹「根曲り竹」だけが異常に生育して、併行している登山道を覆い尽くす状態になっている。

 高山帯では、植物の生育が遅いので、一旦、道路がつけられてしまうと、植生の「回復」は難しい。

 「滑走斜面」へのアクセス道路として既存の道路を利用したとしても、「滑走斜面」への通路などは当然「新規」に開鑿しなければいけないだろう。そこにも、「自然破壊」は生ずるのである。

 第四の「攪乱」は、そこに人が侵入することでの影響である。
(明日に続く。) 

カラーガイド「岩木山・花の山旅」陸奥新報紹介 / 質問に答えます(ハンググライダーなど)「2」

2008-08-19 05:57:41 | Weblog
(今日の写真は岩木川河口から眺めた岩木山である。)

 ■カラーガイド「岩木山・花の山旅」陸奥新報で紹介

 昨日の陸奥新報で「カラーガイド岩木山・花の山旅」が紹介された。
午後に出版社から「宣伝用」の長さ44cm幅23cmのカラーで印刷されたポスターが届いた。
 大きすぎて「スキャン」出来ないので紹介は不能だが、それには「自然をあるがままに守りたいという思いが凝縮された、美しい一冊。」と縦書きで書かれ、さらに「豊饒と安らぎをもたらす花々への讃歌」と横書きされている。メインデザインは「表紙写真」である。
 早速、「カラーガイド岩木山・花の山旅」を置かせてもらっているNHK弘前文化センターに持って行ったのである。
 7月から新しくNHK弘前文化センター支社長になった山本さんが目敏く私を見つけて、「今朝の新聞に出てましたよ。写真を見て何か見覚えのある人だなあと思い、よく読んだら三浦さんのことでした。かなり大きく、広いスペースで掲載されていました」と言うのである。
 取材を受けたのは15日であったから、そろそろ掲載されるだろうとは思っていたが、「まさか今日とは」と少し驚き、少し唖然としていた。
「まだ読んでいませんか」と山本支社長。残念ながら、私は当該紙を購読していない。「はい、まだです」。
 「ちょっと待ってて下さい。コピーしてきましょう」と支社長は言って、数ヶ月前までNHK弘前支局長として務めていた2階の「弘前支局」に上がって行った。
 数分後、山本支社長から渡されたカラーコピーはA3版という大きいものであった。その記事の扱い方の大きさに驚いて支社長に「お礼」を述べることをしばし、忘れかけたぐらいである。山本さん、本当に有り難うございます。
 その後で、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を数冊追加して置かせてもらい、ポスターを貼らせてもらって帰ってきた。帰途に「新聞販売店」に寄って、購入したことは言うまでもない。

「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の紹介記事は19ページに「本を持った私の写真」入りで、「9段抜き」というスペースで掲載されている。
 昨晩、陸奥新報の「Web」にアクセスしたら、何と、トップ扱いであった。これには驚いた。
 そもそも、この「「カラーガイド 岩木山・花の山旅」」の出発点は1999年から陸奥新報紙に「癒しの山に安らぎを求めて 岩木山の花々」を掲載し始めたことにあるのだから、その意味からすると「大きく」扱うことも当然なのかも知れない。
 陸奥新報の「Web」版にはhttp://www.mutusinpou.co.jp/news/2008/08/3179.htmlでアクセスが可能だから、読みたい人はアクセスしてみたらいかがだろう。
 注:takenamiさんが書いてくれた「コメント」に記載されているアドレスをクリックすると陸奥新報のWebにジャンプするので、利用して下さい。ただし、8月18日付のページを開かないといけません。takenamiさん、有り難うございました。

※(「カラーガイド岩木山・花の山旅」はNHK弘前文化センターでも、消費税なしで購入することが出来る。)※

 ■ 質問に答えます(ハンググライダーなど)「2」

 飛行機には「離陸と着陸」するために長い滑走路が必要である。ハンググライダーもパラグライダーも「飛行物体」であり、「離陸と着陸」する以上、原理的には飛行機と同じである。
 「成田空港」を造る時には「成田闘争」という「国家と土地を守る農民たちとの歴史的な戦い」があった。「滑走路」を造るために国は農民の土地を奪ったのである。「生活の場所、生産の場所、生きていく糧を与えてくれる場所、先祖から受け継いできた大切な場所」を死守するという思いを国は無視して「アスファルト」が敷かれる無機質な場所に変えてしまったのだ。「自然」を中心に考えると、この「無機質な場所に変えてしまった」ということが重要な視点となる。

 ハンググライダーもパラグライダーも離陸のための「滑走する場所」を必要とする。原理的には飛行機と同じでも「離陸のための滑走する場所」には大きな違いがある。
 簡単に言うと「短く狭い場所」でいいということだし、「アスファルトを敷き詰めて無機質化」する必要もない。
 「着陸」の時は、両者ともに着陸場所近くで高度処理をし、速度をぎりぎりまで落として着陸点へ、向かい風の下、フレアー操作とともに足から降りて着陸する。グライダーもパラシュートも搭乗者が自力で保持する。だから、「飛行機の着陸用の滑走路」のような場所は必要とはしない。
 だが、何よりも特徴的な違いは「飛行機の滑走路」は平坦地であるのに対して、ハンググライダーやパラグライダーの方は滑空するための助走に、駆け下る「斜面」を必要とすることだろう。つまり、絶対条件として「山の斜面」が必要なのである。
 Aさんがお訊ねの「自然」の「破壊」につながるか、どうかという視点の第一はここにあるだろう。

 次の2つに分けて考えることにしよう。
1.低山や里山に「滑走斜面」を求める場合。
2.高山帯から亜高山帯に「滑走斜面」を求める場合。
いずれにしても「そこ」までのアクセス道路、仮に既存のものを使うにせよ、が必要となるだろう。そして、その道路に付随するさまざまな「自然への攪乱」がおこなわれるはずである。(明日に続く。)
  

湯段地区農村公園と刈り払い / 質問に答えます(ハンググライダーなど)

2008-08-18 06:26:13 | Weblog
(今日の写真は湯段地区にあるミズバショウ沼である。なぜミズバショウ沼と呼ばれているかというと、春になると多くのミズバショウが咲くからである。ここは「行政的」には農村公園となっている。
 おそらく、農水省の役人が「暇」でしょうがないので「片手間」に「机上の思いつき」から、始めた「補助金付」の事業だろう。それに、青森県と当時の岩木町がのったかのせられたのだろう。
 農村公園の目的は「農村に住む人たちの農業に対する誇りとその心を育む」ことだとされている。だが、そこをシーズン中に訪れても、やって来ている人の殆どは「都市部」からの人である。設立と存続の意義が「生きて」いるとは到底思えない。また、その後のメンテナンスも、地元の人たちに任せきりで、清掃や刈り払いなどはボランテアに頼っているというのが実情だ。本会もこれまで何回も「整備」や「刈り払い」に出かけている。)

 今年は6月13日に実施した。会報では「ミズバショウ沼南東面のススキ等の刈り払いについて」と題して報告してあるが、「まとめ」として本会会長阿部東の報告文を次に掲載する。             

 ■ミズバショウ沼南東面のススキ等の刈り払い(湯段地区農村公園と刈り払い)

 『 ゴマシジミ(シジミチョウ科)は湿原の蝶として有名である。青森県には広く分布し、岩木山のふもとは多産地として全国に知られていた。
 近年開発や湿原の乾燥化によりゴマシジミの姿が各地で見られなくなり、日本一の分布地である青森県でさえ、生息地が限られ数も激減した。
 岩木山周辺でも弥生地区、鬼沢から貝沢地区、長平、百沢ー岳温泉間などでは、おそらく絶滅したと思われ、現在、岳温泉、自衛隊演習地、ミズバショウ沼などにかろうじて生存しているだけとなった。
 湿原の乾燥化は、ススキ、ヨシの侵入によって急速に進むことがわかっている。
 そこでススキ、ヨシの生息を抑えることの1つとしてススキ、ヨシ(アシガヤ)の刈り払いが有効といわれている。
 その効果を確かめる為、岩木山を考える会では、今年で4年目の刈り払いを行った。会員7名でおよそ0.5ヘクタール位を試験的に刈っている。
 昨年、刈らなかった場所を対象区として、刈った場所と比較して成果を見たいということである。
秋のミズバショウ沼 
 コケヤチ、ベンセ湿原、田代湿原、小川原湖周辺など貴重な生態系を有する県内の湿原は全て乾燥化の危機にさらされている。いづれも、アシガヤの利用や一部水田に利用されたりすることで、維持された湿原も少なくない。
 この刈り払いはそれらの対策の1つとして何か方法はないかという課題への挑戦である。
 この4年間の結果について、明らかな効果が見られ始めている。
1.ナガホノシロワレモコウの群落が復活し始め、実生も増加している。
2.ノハナショウブがおそらく10倍以上にも増加した。
3.ヨシの群落は大きくダメージを受けているが、ススキでは効果が少ない。
 反面、木性の灌木帯(おそらく放置しても同じだったのではないか)が広がりを見せ、特にノイバラ、ヒメノコリンゴ(エゾリンゴ)ノリウツギ、カラマツなどで実生の発生も見られた。
 刈り払いの時期は、ススキ、ヨシが前年貯えた養分を使い切った7月上旬頃(昨年の刈り払い)の刈り払いが一番効果的であった。
 今年は色々な事情から6月13日にしたが、少し早かったように思われる。
 昨年の状況からゴマシジミの発生は少しづつ増加し始めている。』

 ■質問に答えます(ハンググライダーなど)

 先日16日に八戸市のAさんから「パラグライダー、ハング、モーターパラなどの飛行物は、岩木山の自然破壊に繋がりますか?」というメールを戴いた。
 28日までに『「カラーガイド岩木山・花の山旅」出版記念写真展』の準備を終えていなければいけないので、そのために「終日」がそれに充てられるという日々が続いていて、ゆっくり「落ち着いて」回答する時間がとれずに今朝を迎えた。
 というわけで、メールで返信する前に、このブログに書いてみたいと思う。

 質問の主旨は、「この種の飛行物体が岩木山の自然破壊に繋がりますか」である。
 Aさんは「パラグライダー」「ハンググライダー」「モーターパラグライダー(パワードパラグライダーともいう)」の違いを理解していると思うが、「ブログ」を読む人の中には、その「違い」の分からない人もいるだろうから、そのことについて簡単にな説明をしよう。
「パラグライダー」とは「パラシュート」のような「飛行体」につり下がり滑空する。斜面を滑走して離陸する。
「ハンググライダー」とは、翼状の「飛行体」に体を水平に固定して滑空する。斜面を滑走して離陸する。
「モーターパラグライダー(パワードパラグライダーともいう)」とは従来のパラグライダーに 動力(エンジン)をつけたものであり、平地から、殆ど滑走なしで離陸することが出来る。

 前二者に共通することは「高い山の斜面を走り下って離陸すること」であり、「モーターパラグライダー」は「平地」からの離陸が可能なことだ。この違いが「自然」の「破壊」につながるか、どうかという大きな視点になるだろう。(この稿は明日に続く。)


8月15日を忘れない・東条英機の手記

2008-08-17 05:58:19 | Weblog
(夏の岩木山の写真を探していた。チョット、古いものだがちょうどいいものが見つかった。1997年5月、初夏の頃に撮した「ヘール・ポップス彗星」と宵の岩木山である。
 快晴の初夏の空、太陽が岩木山の影に沈んでも、その余光が赤く輝き、岩木山を背後から包み込んでいる。その岩木山はまだ残雪を戴いている。
 南西の空に大きな尾を引いて輝く星が「ヘール・ポップス彗星」である。それよりも左斜め下の南の空でひときわ赤く輝いているのが「アンタレス」であろうか。「アンタレス」の「アン」は「アンチ」であり、「タレス」とは「火星」のことだ。つまり、火星と対向して輝く星という意味である。火星もこの星の周囲で輝く。
 岩木山はおおむね西の空の「端」に位置している。山頂のずっと上、ほぼ真上で赤と緑に点滅しているように輝いている星は「ボルックス」だろう。)

 ■8月15日を忘れない・東条英機の手記

 毎日新聞電子版「余録」では「終戦記念日」と題して一昨日、「東条英機の手記」に関することを載せた。そのことから、このシリーズで取り上げている「国のリーダー」の資質と責任について少し考えてみたい。

 先ごろ見つかった東条英機元首相の終戦間際の手記の一節の…
「もろくも敵の脅威に脅(おび)え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりし」とあるそうだ。
 「余録」子は、これに続く「これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」に対して、首をかしげたくなると言い、
…では何に対し「責任」を感じたというのだろうと続ける。
 天皇に「責任」を感じてというなら、非難している戦争終結の決断をしたのは天皇であったから、これはすじが通らない。
 国民を総じて「無気魂」と決めつけていることが、私には許されない。「一寸の虫にも五分の魂」ということすら、この「東条英機」には分かっていない。
 国民は虫けら以下であったのだ。だから、開戦当時には、何ら、「国民」に責任は感じていなかった。感じていないから「死にゆく道具」として「国民」を使った。そして、「完膚無きまでの敗戦」を知った時には、その責任を「無気魂」と決めつけていた国民に押しつけるのである。これが、当時の「首相」なのである。

「余録」子は続ける。…「文脈を見れば戦没者に対してとも思えない。何か観念的な国家を思い浮かべたにせよ、国民がダメなのを知らずに開戦した責任をわびねばならぬ国家とは何なのか」

 戦記作家の伊藤桂一さんは、「東条英機」が陸相当時に示達した「戦陣訓」を陸軍の一兵卒として一読し、「辛酸と出血を重ねる戦場の兵に何の同情も理解もなく、高みから督戦するだけ」の文章に感じたのは羞恥(しゅうち)であり、すぐ破り捨てたそうだ。
 「戦陣訓」は生身の兵士が守れもしない空文を羅列するだけで、人間的なものを欠いている。それを得々と配る指導者の愚かさと、その下でも力戦する兵の衷情を思い、激しい嫌悪にとらわれたのである。
 「空文を羅列するだけ」の「国政」の指導者が続いている。その空文にパフォーマンスが加わって、それを視覚マスコミが演出して国民の目を欺く。そんな日々がここ何年も続いている。
 国民の暮らしは一向によくならない。「美しい国」「安心の国」日本と口にはするが、はっきり言って「国政」の指導者には国民に対する責任という自覚はない。「国民に対する責任・責務」などを考えたこともない人たちが、「国政」の指導者然として座しているに過ぎない。あるのは自分の頭の蝿を追い払うことだけである。
 「余録」子は「…では人の運命をのみ込む巨大機構のとんでもない無責任や非人間性は、今日の私たちに無縁か。戦争で落命した300万以上の同胞と、それを大きく上回る他国民の魂の平安を祈る日に、改めて胸に手をあて考えたい。」で、結んでいる。

 「国政」指導者の無責任や非人間性は、今日の私たちに無縁ではないのだ。
今年も「国政」指導者たちが「靖国神社」に参拝した。「靖国神社」に祀られている人はかつての「国政指導者」であり、戦争で落命した「軍人」やその関係者である。「英霊」と称される人たちだけである。
 表面的、図式的には、「靖国神社」に参拝した「国政」指導者たちの胸中には「戦争で落命した英霊と称されない数百万以上の同胞と、それを大きく上回る他国民の魂の平安を祈るということ」はないのである。