岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「ヒグラシ」の死骸の秘密/B議員から届いた驚きの事実/A議員のブログから

2007-12-31 06:15:15 | Weblog
(2007年も今日で終わりだ。今日の写真は昨日に引き続いて「雪上で発見されたセミ(ヒグラシ)の死骸」である。)

 ■■「ヒグラシ」の死骸の秘密 ■■

 昨日も書いたが「雪上にまとまってセミの死骸」を見たことは初めての体験だった。何かの異変異常か、今季の極端に雪の少ないことに関わりがあるのだろうか。
 私は推理する。結論は「地球温暖化」である。「ヒグラシ」の出現期は7月から10月と長いのである。詳しくは解らないが「セミ」類の羽化は「気温」と「日照時間」に深く関係するらしい。「日照時間」の長短は「温暖化」と直接は関係がないだろう。だから、この際、これを割愛する。
 温暖化は「気温」を上げるだけではない。モンスーン気候では「季節異常」をも引き起こす。季節の移ろいを早めたり、遅らせたりする。
 これは「季節の推移」に合わせた生活をしている昆虫や獣、両生類にとっては大変い厄介なことだ。人間は「文明」でその異常を乗り越える。だが、その文明が温暖化の元凶なのである。
 例年ならば「冬」にならなければいけない時期なのに、いつまでも「秋」である。「秋になる時期」なのに「気温」はいまだ「夏」なのである。これを「ヒグラシ」の羽化に当てはめてみようではないか。
 前述したが「ヒグラシ」は10月中も羽化をする。今年の10月は「温(ぬく)」かった。まだ、夏を引きずっていた。11月に入っても上旬ごろはまだ、「温(ぬく)」かった。「ヒグラシ」にしてみれば、通常の遅い出現期である「暖かい10月」が、11月に入っても続いたのである。そして、その11月の上旬に、地下での長い長い生活にピリオドを打って、土を穿って地上に出て、ミズナラの幹を伝い、枝葉につかまり、固い殻を破って成虫へと羽化をしたのだ。
 ところが、今季は11月の中旬から「早い降雪」を見せた。ところが、その後は殆ど降雪がない。羽化して子孫を残すために「命」の限りを尽くして行動していた「ヒグラシ」は冷たい雪を浴びて「凍死」した。
 昆虫類は変温動物なので「気温」から自分たちの体温を摂取している。大体、体温が18℃より下がると「動け」なくなる。「動けなくなり」幹に張り付いたまま、「凍死」したのである。例年ならば降雪のある前に、地上に落ちて寿命を閉じて、他の生きものの餌になってしまい、さらに雪に覆われて私たちの目には触れないのだ。
 この「ヒグラシ」たちは「地球温暖化」の被害者である。その被害者が私たちになることは遠い未来のことではない。

    ■■ B議員から届いた驚きの事実 ■■ 

 私のブログを読んだ弘前市議会B議員から届いた「メール」から解った事実を紹介しよう。その事実を報告する前に、B議員の真摯な人柄や姿勢に触れていただきたいので、「メール」のその部分をそのまま、引用したい。
『ブログ、拝読させていただきました。あまりに、身に余るもったいないお言葉に、ただただ恐縮するばかりです。
 自分は、むしろ、弱くてだらしのない人間だということをよく知ってますので、だからこそ、自分で約束したこと、「損得ではなく善悪で考え行動する」「市民の目線で考える」といったことを、必死になって守っていきたいと、肝に銘じている次第です。
 これからも、よろしくお願いします。もし、私が、当初の約束を違えそうになったら、あるいは横柄・傲慢なそぶりや礼を失するような振る舞いをしていたら、どうぞ遠慮なくご叱責ください。』
他の議員諸君にも一読して貰いたい気分である。

     ●● 驚きの事実 ●●

 その1: 「私の横と前にいた3人の傍(蝶)人」の1人は、元弘前市の何とか部長だそうだ。この人物は、あの前市長が推し進めた「弥生地区自然体験型拠点施設」建設を担当した実務責任者の一人なのだそうだ。

 傍聴席にいた「御仁」が元何とか部長とは、お里が知れるというものだ。「傍聴」の意味を「傍喋」と考えているのである。「何とか部長」にしてあの程度に「非礼」極まりない「傍蝶」をするのだから、理事者側やそれらに追随する輩の「公正」さや「知性・教養」「人格」はあの「レベル」なのだろうか。情けない話しだ。
 そんな中で、A議員やB議員たちは、非常に辛く苦しいだろうなあと、あらためて思った。特にB議員が選んだ道は「苦しい道」だろう。
 現在の社会に「公正と正義」の大道はない。一皮剥くとその下に見えることは「不公正、不正義」だけである。今年の漢字「偽」がその事実を如実に示している。その中で、「公正と正義」を掲げることはつらく苦しいことだ。
 今回の議会におけるA議員やB議員の発言や意見の論述などは、特に「弘前公園有料化見直し」に対する「論述」は私がブログで書いた視点に立つと、それは「弘前市議会史」に輝きを持って残るものだ断言出来る。

 
 その2: 「弘前公園有料化見直し」条例改正案に反対したのは7人である。この7人の中の4人は「赤丸4人組(付箋付の議員ということらしい。市議会で市長や理事者に市民の目線で、詰問的な態度で迫るので、特別視されているということだろう。)」と呼ばれ、揶揄されているという。

 反対した議員の名前が分かってほっとした。この7名は「想定内」だった。ほかにあと3名ほどが「個人的には反対」と言っていたものだ。残念である。
 だが、潜在的に「個人」としての反対は、他にもいるのだ。時間はかかるだろうが、「党派や会派」を越えて、「個人として意見が言えるような議会」にしていかねばならない。そうなれば、議会は「生き生き」してくるはずだ。傍聴していると、確かにその「生き生き」が、かすかではあるが感じられるのだ。7人が10人に、そして15人に、…18人になれば過半数を越える。
 未来は明るい。2007年の最終日に「未来の光明」を見ることが出来て私は嬉しい。
 そのために、私たち「市民」として、しなければいけないことは「特定の企業」「利益団体」「地域・地縁団体」などを「背負って」いる人たちを「議員」として選ばないということだろう。

 ■■ A議員のブログから ■■

 12月22日のブログ「弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…」を読んだA議員が、自分の「ブログ」(議会を変える、弘前が変わる)で、そのことについての感想やら何やらについて詳細に書いていた。
 少なくとも民主的とは言い難い「慣習」に縛られた、いや「縛られた」ことを利用して、または「慣習」にあぐらをかいて、自分たちの「保身」を図ろうとするA、B、C、~G議員以外の「議員」の姿が克明に報告されていた。一読する価値は十分あるので、私のブログを訪れる方々は、是非読んでいただきたい。
 旧態依然とした議員や議会運営、「なあなあ、まあまあ」主義で物事の本質を素通りしていくような、言い換えれば市側の提案をそのまま、咀嚼することもなく吟味もなく運ぼうとする者たちに向かって、敢然と戦いを臨んでいるのである。
 その姿は果敢であり、清々しいものだ。彼は議会に「真の議論」が出来る環境を創り出そうと必死なのである。
 市民のみなさん、「弘前市議会が開かれている時」は是非「傍聴」に出かけようではないか。A議員やB議員の発言や態度に接すると、私たちも「思考」の「リフレッシュ」が出来ること、間違いないと思う。

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(よいお年をお迎え下さい。)

雪に埋まった焼け止り小屋でのこと(2)

2007-12-30 08:05:27 | Weblog
(今日の写真は雪上にあった昆虫の半翅目セミ科「ヒグラシ」の死骸である。このセミは北海道から八重山地方に分布し、平地から低山帯の並木や樹林帯に生育している。「日暮れ時」に鳴くので「ヒグラシ」という名がある。しかし夕方だけでなく、早朝まだ薄暗い時もよく鳴く。非常に「明るさ」に敏感で、昼間でも雲がかげったりして、辺りが暗くなると鳴き出すこともある。
 俳句では秋の季語とされているが、7月が最盛期だ。ただし、10月まで出現することもある。「カナカナカナカナカナ」と鳴くので「カナカナ」と呼ばれることもある。
 何で、この冬に「セミ」の「写真」とそれに関わる話しなのだろうと、訝しがる人もいるだろう。
 実は、この23日に岩木山登山をTさんとした時に、途中のミズナラ林の、樹下の雪上で、しかも同じ場所に15cmから30cmの間隔で5匹の「セミ」の死骸を発見したのだ。
 このセミの種は一応「ヒグラシ」としたが「ヒグラシだろう」というのが正解である。実はこれと似ているものに「ツクツクボウシ」というのがある。体長もほぼ4cmで同じ、羽の色も透きとおっていて、同じだからどちらにするべきか迷ったが、その場所がミズナラ林、つまり雑木林であるから生息場所からすれば「ツクツボウシ」になる。
 一方「ヒグラシ」のほうは、生態的には針葉樹を主に生息場所とする。そうなれば、やはり、「ツクツクボウシ」だろう。
 しかし、夏から秋にかけて、この登山道の、この付近でいつも耳する鳴き声は圧倒的に「ヒグラシ」なのである。さらに、「ヒグラシ」の方が、その「出現期」が7月から10月と長いことなどから、「ヒグラシ」だろうということで、一応「ヒグラシ」としたわけだ。
 実は、これから話題にすることからすれば、どちらでも構わないのだ。数十年も12月の20日過ぎに岩木山に登っているが、「雪上にまとまってセミの死骸」を見たことは初めての体験だったのだ。これが問題なのである。これは何かの異変か、雪の少ないこととの関連性は果たしてあるのだろうか。(明日に続く。)

         ■■雪に埋まった焼け止り小屋でのこと(2)■■

 私は「屋根」の上で、八つの方角に向かって「Oさん」を、そして今度は逆回りで、Oさんの名前である「Kさん」を叫んだ。私は人に対しては、「Oさん」を使い、面と向かっては「Kさん」と呼んでいた。今はまさに、待ち人は私の「Kさん」だったのだ。
 とにかく、15回はOとKを確実に大声で叫んだ。しかし、吹雪はその絶叫を東の方向に流すだけであって、何の変化もない。「ごうごう」という音の中で、私の絶叫だけが無意味にし~んとしているだけで、「OK」という答はなかった。
 私は、対象が何であるかは判然とはしないが、腹立たしくなってきた。そして、16回目の大声を出したのだ。「Kの馬鹿野郎。どじ、間抜けの腑抜けやろう。」
 私は待ちくたびれていた。しびれを切らしていた。恋人と待ち合わせをして、約束の時間がどんどんと過ぎていく。それなのに、その人は来ない。イライラする、怒りたい。しかし、怒りの対象がこの世で一番愛している人なのである。この矛盾を考えると…ひたすら「待つことに耐える」しかないのだ。
 ふと、私の口から「雪は降る、あなたは来ない」…というメロディが衝いて出た。だが、Oさんは私の恋人ではない。「愛することは耐えることなのね。」…そんな気障なことを言っている場合か。そんな暇はないんだ。いや、いくら愛し合う恋人同志だって、会う時間と場所によっては、「バカヤロー」のひとつも言いたくなるだろう。
 何たって、もう夜中の11時に近い。真夜中に限りなく近づいている時なのだ。その上、吹雪の中だ。しかも、標高1060m以上の山の中だ。演出効果は抜群だろう。
 こんな時に、こんな所でデ-トをしたら、愛情は深まる一方だよ。だからこそ、「バカヤロー」の一発も出るというものだ。                       

 その後、「Kのバカヤロー」が棚の中から何度か聞かれた。初めは、音の輪郭がはっきりとしていたが、次第にうめき声に近いものになっていき、あとはただ静寂が過ぎ去った。
 そして翌朝、私は一升瓶を抱いたままの恰好で目を覚ました。しかも、靴を履き、スパッツを着け、下半身をシュラフの中に入れ、隣とのしきり板を背もたれにして座ったまま眠っていたのであった。すぐに周りを見たが、Oさんの姿はどこにもなかった。
 やはり来なかったのか。待てよ、約束を破る人ではないんだ。きっと来たのだ。しかし、事情があって小屋には来ることが出来なかったのだ。ツエルトを持っているからビバ-クをしているのだろう。何、あの猛吹雪の中でビバ-クか。大丈夫だろうか。不安になってシュラフから飛び出し、棚から飛び降りた。      

 朝の6時40分であった。走って外に出た。昨晩の吹雪が嘘のようだ。曇天だが、高い曇りで風もおさまり、雪も降っていない。小屋の上に上がる。視界は山麓までうす暗いがよく利いていた。きっと、ここまで来ることが出来ずに、下のどこかでビバ-クをしていて、今ごろ登っているのだろう。私はスキ-場尾根の方ばかりを注意して見た。ところが、人の動く気配はもちろん、何の動きも見えなかった。ますます、心配は募る一方である。

 その時である。背後に何か動く気配を感じた。思わず、ぞっくと首筋に寒さが走る。さては…遭難、雪崩の下敷きか。疲労凍死か。その霊が…う~ん。勇気を奮い起こして、いや、酒気を「祓って」後ろを見ると、そこには、Oさんの亡霊がいた。確かにいた。
 まだ完全に酔っている。一升以上も飲めば当然のことだろう。小屋から50mほど上の大沢寄りの疎らなブナの中を、こっちに向かって歩いて来る人影が見えるのだ。
 歩き方が妙に左右にフラフラと揺れていて、ずいぶんと遅いのである。少しずつ近づいて来る。
 おお、懐かしいOさんである。足もある。真っ赤なヤッケのOさん。本物の待ち人が来たのである。とうとうやって来た。朝になってやって来たのだ。
 やって来たというより、「やっと来た。」と言いたいくらいだ。人を一晩も待たせたのだから、少しぐらい急いで来て、「ごめんね」の一言があってもいいだろうにと思う。
 とても遅いのだ。しかも、片手に見覚えのあるポリタンクをぶら下げている。「類は友を呼ぶ」というではないか。ピンときた。ポリタンクの中身はウイスキ-である。
 Oさんはさっきまでポリタンクに口をつけて飲んでいたらしい。とうとう、彼は私の目の前にやって来た。輪かんは着けていない。そして、大声で「お早う」と言ってニタッと笑った。それは、彼の酔っ払っている時の顔だった。
 「どうしたんだ。」色々な意味を込めて私は訊いた。「うん、ず~と酒飲んでら。ところで、先生なんでこごさいるんだ。夕べから小屋に泊まっているんでねが」
「…」
 Oさんは私が小屋の屋根の上あたりにいることに気づいていない。これは酔眼の所為だけではない。山側から小屋を見つけることは、雪に埋没しているために難しいことなのである。
 「昨晩、ずいぶんと小屋捜したんだけど、見つからなかったんだ。小屋どこだ」と言いながら、Oさんはふらつく足で、谷側に歩きだした。
 「危ない」私が叫ぶのと同時だった。Oさんの姿は前から消えた。そして、ちょっと間を置いて、確信と安堵あふれた「先生、小屋があったぞ」という声が、下から湧き起こった。
 当たり前だろう。小屋の屋根から転げ落ちて、見上げればそこに小屋はあるものだ。なければ、それは異次元の世界だろうが…。私は自信を持って彼の傍に飛び降りた。(明日にも続けよう。)

雪に埋まった焼け止り小屋でのこと

2007-12-29 05:03:16 | Weblog
(今日の写真は23日にTさんが撮したほぼ「全体像」を見せる焼け止り小屋である。
26日の写真と比べてほしい。そしてから、本日の文章を読んでいただくとより話しが「見える」だろう。
 さて、今日の話しは、小屋全体がすっぽりと雪の下に埋まっている中で、その小屋の止まり、時々その「屋根」の上と「思しいところ」に「上がって」友の名前を呼んだということだ。
 その前に写真の説明をしておこう。この写真は小屋の南面から撮している。いつもなら、この時季は、小屋に入るための「通路確保用のスコップ」が下の入り口左側のブロックに打ち込まれた留め金にぶら下がっているのだが、この日は見あたらないのではたと困ったが、入り口庇の上に置かれていた。庇の黒い部分がスコップである。
 みんなが使用するものは「置き場所」を特定しておかねばならない。必ずいつものところに置くということが「山」における鉄則だ。勝手に移動されては、次に使うものが「探さねば」ならないので不都合である。
 その庇の上の「アルミ製のドア」が上の出入り口である。下の板製の引き戸が下の「出入り口」である。その手前の積雪が盛り上がって多くあるように見えるが、「引き戸」の前は数十㎝、20~30cmというところだろう。)

 真冬である。しかも標高1000mを越えている山岳地帯である。私はその晩、焼け止り小屋で「一人寂しく」Oさんがやって来るのを待っていた。そうだ、酔っぱらいながら待っていたのであった。
 酔った勢いで、「冬山」でこのような行動するのは「無謀を越えて、無知蒙昧でアホなこと」である。病的酩酊には何を言っても、なんとかに念仏である。恐ろしいことだ。
 上の入口から外に出る。そして、大沢の縁に向けて、ふらふらしながらも一歩一歩踏み跡をつけながら、気持ちの上では直進した。
 「スキ-場尾根のル-トが一番解りやすい。自信を持って登れるのはここだけだな。」とOさんは常々言っていた。そのとおりで、来るル-トはいつも決まっていたのである。
 雪の中にすぽっりと埋まっている状態だから、小屋の中では、屋根のトタンがバタつく音も、軒や庇をかすめ飛ぶ雪の音も、小屋全体が軋む音も、風の音も聞こえなかった。
 ところが、外は強い西風が吹いていた。吹雪である。その中で、大沢左岸の小屋ル-トとして使っている岳樺が見える辺りに立っていた。
 ヘッドランプを消して、斜め下方の対岸をじっと見詰める。Oさんのランプの明かりを確認しようとしたのだが、まったく見えない。
 大声で叫ぶ。「Oさ~ん。」10数回の絶叫も風に消された。もちろん応答はない。                                      
 9時前だろう。早いよ、この時間じゃ、ぶな林にはいったかどうかのところだろう。ひょっとすると、出発が遅れたのかも知れないし…。
 羽毛服を着込んではいるが、それでも寒い。それに、ちょっと前に小用をたしたので、その時の身震いがまだ続いていて、体の震えが止まらない。後ろを覗くと踏み跡が、大分埋まっていた。後藤伍長になる前に、埋まらない前に一旦戻ろう。

 雪を払って、再び棚の中である。今度は、靴を履き、スパッツを着け羽毛服を着たままだ。外の冷気によって酔いが醒めた感じがする。それが空腹感を誘った。
 Oさんが来れば、一緒に飲むのだ。その前に腹ごしらえをしておこう。待つ時間とは長いものだ。
 騒音発生器に紛う「オプチマス8R」に点火をする。十分に時間をかけてラ-メンを作り、ゆっくりと食べてス-プもすべて飲み干した。
 その後で、冷蔵庫からかすめ盗ってきた炭火焼きのチャ-シュがこたえられなく美味しかったので、ブツブツ切って頬張る。
 …これは下の娘が好きなんだ。それを知って、妻が土手町のマ-ケットから、焼き立てのものを買ってきておいたんだ。それをごっそりと持って来てしまった。残した分は少なかったよな。子供の食い物まで奪いとって食うなんて、私は…悪魔だ。

 またまた外である。場所も行動も先刻と同じである。時間は十時に近かった。本当にそろそろ来てもいい時間であったが、大沢の滝の上部で待つことは、空しさだけを残し、徒労に終わった。…また、小屋に逆戻りである。

 それにしても遅い。来ないのだろうか、急用が出来たのだろうか。いや、Oさんには急用などはない。Oさんにとって急用とは「酒を飲むこと。」なのである。それ以外には、急用などあり得ない。
 急な「病気」、冗談じゃない。Oさんに寄り添う奇特な病気などは存在しないのだ。取りとめのない御託を言いながら、私はさっきと同じいでたちのままで、再び酒を飲み始めたのである。
 私はいったい何をしているんだろう。語り合う相手がいないとなれば、ただ飲むためだけに来たようなものだ。いや、きっとOさんは来る。「来ることに誓って飲むぞ」。来ることに乾杯だ。
 もはや、論理も何もない「病的酩酊」そのものになっていた。
 そうだ、コップに注ぐ前にもう一度見てみよう。小屋を発見出来ないでいるのかも知れない。小屋の上に登って叫んでみよう。
 上の入口から山側へ少し登る。深いラッセルであった。そこを抜けて横へ数歩動いて、また逆の方に戻ると、そこが屋根の上と思しいところである。
 酔眼朦朧の状態で屋根に登るとは狂っていると言いたい人もいるだろう。そうだ、酩酊なのだから、まさに狂っているのは既定のことなのだが、積雪に埋もれているのだから、「登ると言っても上ることにはならず」、大したことはないのである。
                         (明日に続けていいだろうか)                       

23日に見た姥石「監視塔」/ 弘前市12月議会B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった(最終回)

2007-12-28 05:53:04 | Weblog
(今日の写真は23日に同行したTさんが撮したものだ。早速掲載するので、25日に掲載した写真と比較して、その積雪の少なさを実感していただきたいものだ。
 Tさんからは…「百沢登山の写真を送ります。ファイルが大きいので何回かに分けて送りますのでよろしく。フィルム写真は時間がかかりますね。フィルムスキャナを通すために画像の劣化は避けられません。姥石はもっときっちりと写っているかと思ったら、枝に遮られてよく見えないのが残念です。姥石の標識は小さく見えていますが。視覚で感じたことと実際の画像とはずいぶん違うものだと思います。」というコメントと一緒にメールで送られてきたものだ。積雪の少ないことを理解していただくために3年前の3月下旬のものを見ていただいたことに、何となく「後ろめたさ」を感じていたので、ほっとしている。あらためて、Tさんには感謝する。ありがとうございました。
 少し、写真の説明をしよう。右に見えるのが「監視塔」である。低樹木の枝にはばまれて明瞭さに欠けるが、その雪上の高さから、逆に積雪の少ないことは解るだろう。極端な言い方をすれば「土台が見えている」状態なのである。
 その左側には姥石の「ご神体」である頭に雪を載っけた大きな岩が見える。さらに左に視線を移すと、写真のほぼ中央に「姥石」の標識・標柱が見える。これも半分以上が陽光に曝されていた。さらに、その左側に見える「足跡」はトウホクノウサギのものだ。このウサギは本来「夜行性」なので「晴れて穏やかな晩」には活発に行動する。足跡がたくさん見られるということは「前の晩」のお天気がよかったことの証でもある。
 それにしても「登山中」に何匹かのウサギが、目の前を駆け抜けるのに出会った。きっと、前夜、「月夜」の中で「餅つき」に忙しくて「食事」を摂れなかったものたちが、寝ぼけ眼で食事をしていて、近づく私たちに驚いて、逃げ出したのだろう。ウサギさん、驚かしてごめんなさい。)

■■弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった。そして語る。「私は公園有料化を考えるにあたり、活動目的も、構成メンバーも違う4つの団体、グループの人たちと意見交換をしてきた。…財政難だからといって、すぐ市民に負担を求めるのではなく、いろいろなアイディアを出し合って、出来るだけ市民の希望をかなえるように知恵を絞り、汗をながしていただきたい。」と…。■■

 B議員が、意見のまとめに入る頃には、議場は「し~ん」として、ざわめきのない「静寂」に包まれていた。もちろん「ヤジ」る議員もいない。それはあたかも、冷静に、声音(こわね)静かに、優しく説得されて、議場の全員の心が和らいでいったかのようだった。議員にとっても、市長を始めとする理事者たちも大いに学ぶべきことであろう。
 居眠りをしているのかなあと思って、目を凝らして見たが、そうではない。議場の「人たち」が聞いているのである。「傾聴」しているといってもいいだろう。
 少なくとも、彼らは「心のイアフォーン」や「心のヘッドフォーン」で聞いているのだった。「異質」なものには敏感に反応して「耳を塞ぐ」。そして、頑なに「自説」やら「支持する者の言い分」を主張する。B議員が述べ始めたころの雰囲気はまさにそうだった。
 しかし、今は違うのである。彼ら特有の「異質」に反応する「センサー」が、自動的に切れたのではないのか。いやそうではなく、知らないうちに「自分」で切ったのであろう。「心ある言動」は他人の「心」を打つものなのだ。
 現に、私の「横と前にいる傍聴人」からも私語は一欠片(ひとかけら)も聞かれなかった。

 次に、B議員が最後に述べた部分を出来るだけ、再現して掲載したい。
…『私は、今回、公園有料化を考えるにあたり、活動目的も、構成メンバーも違う4つの団体、グループの人たちと意見交換をしてきた。様々な思い出や意見があった。公園の維持費についても、維持管理の方法の現状が果たして妥当であるのかといったことへの疑問の声もあった。財政状況を考えても、徴収方法の再考や入場料以外に増収を図る方法などで、市民は、少なくとも祭り期間以外は無料にすることが出来るのではないかといったアイディアを持った人もいた。
 財政難だからといって、すぐ「市民に負担を求める」のではなく、いろいろなアイディアを出し合って、財政が厳しい折ながらも、できるだけ「市民の希望をかなえるべく」知恵を絞り汗をながしていただきたい。
 財政難だということを、十分に考慮に入れた上で、なお、本改正案は、市民の公園に対する様々な思いが反映されていない、時期尚早なものである。抜本的な見直しということであれば、一旦白紙に戻した上で「全市民的な意見の集約を行った上」で、入場料以外の収益方法や経費の徹底的節減はもとより、弘前公園が市民にとってどんな存在なのかといったことも含めて、再度検討されることを要望して、反対討論とする。』

 次に、賛成の意見をある議員が述べた。私には言っていることの内容も意味もすべて分かった。しかし、その議員の「市民としての心」は理解出来なかった。それは、弘前市の主張する「有料化見直し」論にそったもので、話される言葉も、それから一歩も出るものではなく、「内容や意味」と同じであったからだ。

 採決に入った。簡単だ。議場が静まりかえったのに…議長の「起立多数で本改正案は認められました」という声が響いた。
 傍聴席からは「すべての議員」は見えない。約三分の一にあたる、少なくとも後ろの席にいる議員は見えない。見える範囲で確認したら、個人的には「有料化反対」だと言っていた「C議員」も「D議員」も「E議員」も採決の時には「起立」していた。
 正直、「ウソだろう?」と思った。そして、会派を越えて一個人の「市民」として本会議に臨んでほしいと強く念じた。
「会派」というものは「個人」の集合体である。市民は個人であり、それぞれ個性を持っている。その「個性」や「独創性」が「会派という組織や法人」に吸収されて「別な顔貌」を持つ時、そこでは「市民性や個性・独創性」が薄められてしまうのではないか。
 ある議員の言う『私個人としては「有料化反対」なのだが「私が所属する会派の意向が賛成」なので「起立」賛成したとか、または「賛成せざるを得ない」のだ』という論理は、単純に考えても「矛盾」ではないか。
「有料化反対」が否決されたことよりも、最後の最後に、私はこの疑問で重苦しい気持ちになった。
 だが、いいのだ。B議員のような議員がいるかぎり「弘前市議会」も捨てたものではないし、B議員のように「市民個人」をベースに活動出来る議員がもっと増えるように、これからも、私自身も努力しなければいけないと強く思ったのである。
                         (この稿は今日で終わり。)

弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その5)

2007-12-27 05:27:19 | Weblog
(今日の写真は23日に焼け止り小屋に近くなってから撮したものだ。…とはいっても当日撮したものではない。昨日の焼け止り小屋、一昨日の姥石・山火事監視塔の写真と撮影日は同じだ。
 この写真は大きな「滝の沢源頭崖」を東側から、ほぼ同じ標高で見ている。これも古い爆裂火口である。夏場はなかなか行けないが、積雪期には「雪崩」に気をつけて行けば、源頭崖の下部に立つことは出来る。
 麓からは夏冬問わず「黒々」とした「岩肌」を曝しているのが見えるので、垂直の荒々しい岩石のそそり立つ「源頭崖」を想像するだろう。しかし、現場にはそれほどの高さもなければ、屹立感はない。当然、威圧感もない。
 「垂直の岩壁、岩棚」などをいつも眺めているうちに、イメージして、ひょっとしたら、「イヌワシ」が営巣しているかも知れないとの思いに行き着いた。そこで、勇んで出かけたことがあったのだが、現場を「傍で見て、それはない」と「自覚」するほかなかった。
 もし、「イヌワシ」が岩木山で営巣し、子育てをしているのであれば、または、「クマゲラ」が営巣し、子育てをしているならば、「岩木山の人工的な破壊」は「法律によって」もっと厳密・厳格にくい止められていただろう。)

■■弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった。そして語る。…「弘前公園有料化見直し」は拙速に過ぎる・弘前公園はまさしく心の故郷といってもいい。その大切な大切な故郷のことだからこそ、もっともっと「市民参加型の市政運営」としての、全市民的な議論の上に決定すべきだろう。…■■

 B議員は、たんたんと話しを続ける…。
 『市民アンケートの結果、一番多かった「桜祭り期間だけを有料にする」、そして市民懇談会の中でも半数以上の方が述べていた「桜祭り期間だけを有料にする」という意見はどこに消えたのだろうか。
 「桜祭り期間だけ有料にする」という意見の中には、「本来は無料が望ましいが、市も財政難だろうし、公園の維持管理に莫大な経費がかかることを考えれば、観光客が大勢来る」桜祭り期間は仕方がない。その代わり桜祭りが終わったら、市民の公園として無料開放してほしい」という市民の願いが込められているのだ。
 こうした「市民の声」を封印して、「市の規定方針に沿って物事を決めていく」やり方は、市民参加型の市政運営とは言えない。
 私は、現市長が「公約」で言った市民参加型の市政運営という方向性がゆがんできているのではないかと、疑問と深い危惧を抱いたからこそ、今回敢えて反対の討論を、この場、つまり本会議で申し述べているのである。
 賛成意見は、「市の財政」を最大の理由に置くだろう。私も財政状況についての認識は、持ち合わせているので、「何が何でも無料でなければいけない」と言っているわけではない。』

 B議員が市長に抱く「拠り所」を、つまり「信頼を寄せる」根拠である「市民参加型の市政運営」を、市長が自ら放棄していくことへの無念さを述べているのである。そして、それは同時に「市民が抱く無念さ」に他ならないものだった。B議員は「市長、理事者、市議会議員」を前にして「市民の抱く無念さ」を代弁したのである。
 私は、公園の自然公園的な要素を大事にして、自然の自己治癒的な維持管理にすれば、「公園の維持管理に莫大な経費はかからない」と考えてはいるが、「観光客が大勢来る」桜祭り期間は仕方がない。その代わり桜祭りが終わったら、「市民の公園として無料開放してほしい」という気持ちは持っている。
 このような気持ちをはっきりと「口」にしないけれども「心に秘めている」市民は大勢いるのだ。

 次にB議員は「われわれ弘前の人間にとって、弘前公園は特別な場所。だからこそ、さらに慎重な議論が必要だと思うのだ。」と述べて、その例として、まず、太宰治の「津軽」の中からの、『本丸から岩木山を眺望したときのことを、「お城のすぐ下に、私の今まで見たこともない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。」と述べ、その時、弘前、津軽を理解したような気がした。』を引用としてあげた。
 他に、石坂洋次郎の「「公園の本丸あとの広場から眺めた、西のほうにひらけた津軽平野と岩木山の眺望は、壮大とは言いかねるが、まとまっていてなかなかいい」をあげ、最後に、現代日本を代表する、弘前市出身のジャーナリスト、鎌田慧が朝日新聞に寄せた原稿から「わたしは、弘前公園の本丸から眺める岩木山にもっとも馴染みがある。自宅が公園に近かったので、高校生のころなどは、毎日のようにここから山を眺めていた。」をあげて説明した。

 ところが、私の横と前にいた「傍聴人」たちは、口々に「そのこととどうして公園有料化と関係があるんだ。何もないではないか。」とかなりな声で「ののしる」のであった。
 「有料」という金銭的な対価としての「公園の価値」と、人々が「心の故郷として抱く価値」とは質的な違いから、「関係がない」と主張することが出来なくはない。この価値はまさに「異質」であって、同一視出来ないものであることはよく解る。
 しかし、言い換えると「お金では贖えない価値」を「弘前公園」は持っているということなのである。もう一歩踏み込んで、物質的、金銭的、経済的な価値観の奥に、永遠性ある「価値」を探してほしいと切実に思ったものだ。

 B議員はさらに続けて…『このように、弘前に生まれ育った人、または弘前で青春時代を過ごした多くの人にとって、「公園とお城を背にして本丸から眺めた岩木山の風景」は、一様に深く心に刻まれている。いずれの人にとっても、弘前公園は、「かけがえのない思い出の場所」まさしく「心の故郷」といってもいいのである。その大切な大切な故郷のことだからこそ、もっともっと「全市民的な議論の上に決定すべき」だろう。』…とたんたんと述べた。

 B議員の言う「お城を背にして本丸から眺めた岩木山の風景」は、いつまでも同じでなければいけない。故郷に帰ってきた人が見て眺めて足を踏み入れて、昔と同じだと安堵するものでなければいけない。
 父や母、そして祖父や祖母から伝え聞いた「公園」が「伝え聞いたまま」であるように、私たちはしておかねばならない。「公園有料化」はもっとも単純で安易に「いつまでも同じである」ことを壊す方法である。
 人々が、過去から現在まで、ずっと持ち続けてきた「風景」を、現今の行政が勝手に取り上げることは、その永遠性を壊すことだ。「有料化」は、その「お城を背にして本丸から眺めた岩木山の風景を、突き詰めると岩木山をも壊すことだから、本会は「有料化」に反対している。(明日に続く。)

温暖化の視覚的実感と事実/弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その4)

2007-12-26 06:30:07 | Weblog
(今日の写真は昨日の写真と同じ日に「焼け止り小屋」を撮ったものだ。小屋の後ろの庇は積雪に覆われて、前の庇が少しだけ出ている状態だ。小屋の高さは5~6mはある。
 となると、この写真の「積雪」状態、つまり厚みが分かろうというものだ。そのものずばり、5~6mということだ。ここ数年より以前は、大体こんなもので、時には、小屋全体が「埋もれてしまう」こともあった。
 さて、23日の観察ではどうだっただろう。小屋には小さな「上の入り口」と大きくて広い「下の入り口」がある。大体、年を越した辺りでは、「下の入り口」は雪の下になっているので、使えない。いや、使えるのだが深く掘り起こさねばならないから苦労だし、出入りも不便なので「上の入り口」を使用する。ところが、23日は殆ど掘り起こして、雪を掻き出さなくても、「下の入り口」からの出入りが可能だったのである。
 積雪は1m足らずのような気がした。少な過ぎる。だから、この写真とは違って「小屋」全体がよく見えるのだ。まるで、例年の11月中旬か、5月下旬の積雪だ。
 12月23日というと「冬至」の翌日だ。「冬至」を冬の始まりというそうである。それは、この日を境にして、気温がどんどんと下降していくことに因る。
 だが、岩木山は「暖かい」。標高1060mの小屋でも氷点下にならず、4℃を示していた。雪も少ない。温暖化をはっきりと実感した。
 この少雪と「暖かさ」は、下山時に大変な贈り物を恵んでくれた。それは「しょっぱい」贈り物だった。下山時、百沢登山道尾根を避けた。それは少雪によって「ブッシュ」や「低木」が雪上に出ていて非常にスキー操作が困難であると考えたからである。
 そこで、大沢の左岸にある本当に細い稜線を降りてスキー場尾根に出るというルートを採った。当然スキーは使えないので、「ワカン」に履き替えた。雪が普通に積もっていれば、その稜線からさらに左の小さな沢に降りて、スキー場尾根の上部にあるブナ林帯に入っていくのだがそれも出来ない。
 やむを得ず、ザックに着けたスキーをブッシュや小木の枝に引き戻されながらも、その稜線を四苦八苦しながら、降りて「滝」の手前の幾分低くなっている沢を跨いで、スキー場尾根の本体に取りついた。
 この滝は、いくらか滑滝(ナメ滝:緩やかな滝)だが、高さは40~50mはあるので、落ち込んだら大変だ。現に30年ほど前に滑落してなくなった人がいる。ほっとしたのもその場での一瞬だけ、あとは「ブッシュ」と「小木」との終わりなき戦いが待っていた。
 ようやく、スキー場ゲレンデに出たが、暖気のためスキーのシールが雪面の水分を吸って、「こぶ」になり、シールを外さなければスピードはでない。だが、湿った雪質は疲れている私の足と貧しいスキーテクニックでは心許ない。
 結局「シール」を貼り付けたままで、百沢スキー場を降りてきた。百沢スキー場はまだ、オープンしていなかったので「貸し切り」状態だったことが救いだった。いや、オープンして雪面が圧雪されていれば、爽快感も味わえたかも知れない。)

■■弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その4)■■
(承前)

 傍聴(ぼうちょう)とは、「傍らにいてじっと耳を澄まして聴き入ること」であって、傍喋(ぼうちょう)、つまり、「傍らにいて喋ること」ではない。
 市議会を傍聴するには「傍聴券」の発行を受けなければいけない。私の21日の傍聴券番号は305号だった。そして、その裏面には「傍聴人心得」なるものが印刷されている。次に示すものが、その「心得」である。この「心得をしっかり守れ」と私の横と前にいて、B議員の発言に対して、仲間内で「揚げ足」をとるような「お喋り」をして止まなかった「傍喋」人たちに強く言いたい。
「傍聴人心得」
1 この傍聴証は、他人に貸与し、又は譲渡してはなりません。
2 次の各号のいずれかに該当する人は、傍聴することができません。
 (1)銃器その他危険なものを持っている人
 (2)酒気を帯びていると認められる人
 (3)張り紙、ビラ、プラカード、のぼり等を持っている人
 (4)拡声器、笛、太鼓等を持っている人
 (5)その他議長が不適当と認めた人
3 傍聴人は、傍聴席にいるときには、次の事項を守らなければなりません。
 (1)議場における言論に対して拍于等により公然と可否を表明しないこと。
 (2)帽子、えり巻、外とう等を着用しないこと。
 (3)飲食又は喫煙をしないこと。
 (4)静粛を旨とし、議事の妨げになるような行為をしないこと。
 (5)他人に迷惑を掛け、又は不体裁な行為をしないこと。
4傍聴人は、すべて係員の指示に従わなければなりません。

 休憩に入ったので私は「傍聴人席」を出た。そして、入り口にいる「受付」の職員に言った。
…『「傍聴」という意味の分からない「傍聴人」がいます。仲間内のようで「3人」で、登壇して話す議員に対しての批判や非難を「べしゃべしゃ」と言い合っています。うるさくてしょうがありません。』
『注意して下さいましたか。』
『(むっ…、)注意って?それをしたら、私も傍聴席で「私語」を言うことになるでしょう。「静粛を旨とし…他人に迷惑を掛け、又は不体裁な行為をしないこと」という心得に抵触するでしょう。だから、注意はしませんでした。』
『ちゃんと心得にあるのに…どうして守ってもらえないのでしょう。』
『今度から、入場時に「心得」を読んで聞かせて確認したらどうですか。守れない人が現実いるのですから、良識と自覚にまつという手法は駄目ですよ。』
 個人の良識と自覚にまつという言い分・手法は、「何もしたくない」行政等の常套語でもあるように私には思える。

 さらに、B議員は「弘前公園有料化見直しに関する条例」に「反対」する意見や思いを述べた…。

『…市の財政が厳しいことも、自分なりに勉強をして、深刻に受け止めている。たとえ市民の9割までが反対しても、市の将来を見据えた場合、敢えて決断をし、遂行しなければならないことがあるのが政治だと思う。ただ、ここで大切なのは、「反対の声が9割ある」ということを正しく把握するということだろう。9割の反対を押し切って推進するにしても、「反対の声がどれくらいあって、その理由はどこにあるのか」を聞き、それらの声に対して、「説明責任を果たした」上で、その政策を推し進めるのと、そうでないのとでは、大きな違いが生じてくることは明白である。』

 首長の「政治決断」は必要なことだ。ただ、それは「将来を見据えた展望」という先見性と知性や「市民生活の公平さ」を堅持していくという市民に対する責任ある誠実さに立脚したものでなければいけないだろう。
 その「政治決断」が一部の政党や一部の有力者や「首長」の知人や友人のためだけに生かされるものであったり、または、単なる思いつきや「既存」の価値の継承や改革的な行政に背を向ける前市政の受け売りであってはならないのである。
 「薬害肝炎」患者の「救済」に関して、福田総理のとった「議員立法」という手法は、「政治決断」に違いはないが、自民党の「支持率低下」という「薬害肝炎」とはまったく次元の違う、本質的に関わらないことが、引き金になっている。
 そこには「自己目的化」だけがあり、「将来を見据えた展望」という先見性と知性や「市民生活の公平さ」を堅持していくという市民に対する責任ある誠実さは感じられない。

 B議員は市長や理事、他の議員にこのことを「諭し」たのである。(明日に続く。)

温暖化の視覚的実感と事実/弘前市12月議会…B議員は粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その3)

2007-12-25 05:12:20 | Weblog
(今日の写真は岩木山百沢登山道尾根の姥石の傍にある「山火事監視用の塔」である。「山火事監視塔」だと言っていることを林野庁のある人から聞いたことがあるのだが、その真偽は定かではない。私が岩木山に登り始めた頃から既に存在していた。夏場にはよく「スズメバチ」が巣を作り、登山者を冷や冷やさせる場所でもある。
 前置きが長くなったが、一昨日、23日にここを通り「焼け止り小屋」まで行ってきた。リュックを出来るだけ「軽く」したかったし、既に数百回、しかも、この時季にあっても200回くらいは、この場所やこの尾根を登っているので、「撮す」こともないだろうと考えたから1Kg近いカメラは持たなかったのだ。
 ところが、昨年も、この時季、驚くほど雪が少なかったのだが、昨年以上の「積雪の少なさ」という「異常」があちこちに散見されて、「カメラ」を持ってこなかったことがすごく悔やまれた。この悔いは下山するまで続いた。
 この写真は3年前の3月下旬のものである。この写真と比較しながら一昨日の積雪の状態を説明する。例年の状態だと、ここの積雪は3mほどである。雪の多い年はこの「屋根」が雪の下になる。
 ここは「姥石」なので、その「姥石」がこの「監視塔」の5mほど前にあり、その高さは約2mだ。またそこから山側に少し離れた場所に、「姥石」を示す標識があるのだが、この高さも2mを越えている。そのいずれも、この写真では見えない。積雪に埋もれているからである。
 だが、一昨日は、「姥石」の半分が顔を出していたし、「標識」は半分以上が顔を出していた。つまり、この時季になると3m前後の積雪が、この「姥石」辺りでは観測されるのに、今季は1m前後だということなのである。この傾向はここ数年顕著になり、特に今季は異常に少ない。
 降雪は大陸性高気圧が伴う「寒気」と日本海の「温暖な水蒸気」がもたらすものだ。その降雪が少ないということは「寒気」が緩んで「暖気」となり、「温暖な水蒸気」だけを、この日本列島の日本海側に運んでくるからである。
 「暖かくていい」「雪がなくて車の運転が楽だ」などと歓迎している場合ではない。人間の体も「未病」の段階で手当をしないと、「死」に直結する。地球の温暖化は「未病」という状況ではない。「病気」そのものなのである。その「原因や理由」が分かっているのに「処置」をしない。「仮想マネー」のような「実体」のない「数値」の取引で日本政府は臨もうとしているが、「仮想マネー」が本物でないように、その種の対応では「温暖化」の実質を減らすことにはならない。
 「温暖化」をこのまま放置すると、ある日突然、何の予兆もなく自然の破壊が起こり、私たちは死滅する。なぜならば、現在の「温暖化」がその予兆であるからだ。
 「温暖化」をくい止めるためには、まず、私たちの生命を維持する以外の、あらゆるエネルギー「消費」に手を貸さないことだ。室内温度は18℃、車に乗らず歩く、テレビを見る時間を減らすなど、電気と化石燃料の使用を減らすなど、やれば出来ることだ。
 今季の少雪、一昨日の登山は、まさに「温暖化の視覚的実感と事実」そのものであった。ほかにも、多くの少雪異常を見てきた。後々、報告していこう。)

■■弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その3)■■
(承前)
 さらに、B議員は「弘前公園有料化見直しに関する条例」に「反対」する意見や思いを述べ続けた…。

『今回の「弘前公園有料化見直しに関する条例」は現市長が掲げた公約のうちの「市民参加型の市政運営」ということにも、大きく関係している。
 市民参加とは、「市民の声をよく聞き広く政策に反映させること」に他ならいだろう。市民の声というのは、必ずしも、行政の目指す方向と同じであるとは限らない。行政の方針と正反対の意見も多々あるのが現実だ。反対意見にも耳を向け、賛成も反対も公正に判断し民意がどの辺にあるのかを把握することが、市民参加型の市政の第一歩ではないだろうか。
 市民アンケートの選択肢から無料という項目を排除してしまうようなやりかたは、「自分の方針に反対の声を最初からすいあげようとしないようなやり方」と同じであり、まったく公正ではなく、市民参加型の市政運営とは思えない。』

 まったくそのとおりである。選挙も議会運営も、行政も一応、表面的には「平等性」という体裁を保っているが、その施行や行使のあり方から見ると「公正」かどうかという視点が、暗に「外され」たり、物事の基準に「公正」という視点がなかったりする。どうも、日本人は、この「公正」という概念が嫌いらしい。つまり、「不公正」なことや不公正な人がこの世に多いということだろう。
 粉飾決済、偽装事件、商品サギなど会社の不祥事や防衛省事務次官の汚職、厚労省の「薬害肝炎」などの根底にはすべて「不公正」がある。
 この「公正」という視点を「市政」に持ちこもうと提案していることは、まさに、今日的な行動であり、高く評価されるべきことであろう。

 当日、私の隣りに1人、その前の席に2人の傍聴者がいた。21日の傍聴席には、私とその3人しかいなかった。あとは、すべてマスコミ関係者で、顔見知りの記者も数名いた。
 ところで、この3人の傍聴者は同一グループであるらしい。私の隣りの者は、前席の2人に話しかけ、前席の2人はそのもの同士で顔を見合わせながら話し、時には振り返って後席の者に話しかけるのである。
 まず、B議員が登壇し、「弘前公園有料化見直しに関する条例」に「反対」することで討論意見を述べると言ったら、隣の者が「もう決まってしまっているのに、何しゃべるのだ。」と前の席の者に語りかけるように言ったのである。
 B議員が、冒頭で「まず、議員の職分とはなにか、について、私なりの青臭い考えを申し述べさせていただきます。」と言ったら、それを受けて、「青臭いということを知っているのなら喋るな」「議員の職分とはなにかだって、偉そうな言い方をするな」「1年生議員なのに態度がでかいぞ」などと言うのである。(もちろん、津軽弁で言っている)
 また、上述の「まったく公正でなく、市民参加型の市政運営とは思えない」ということに対しても、「市長はトップで当選して、多数の市民の支持を得ているんだ。どうして公正でないことがあるのだ」とか「選挙そのものが市民参加型であるだろう」と言っているのである。
 時々、それら傍聴者の「雑音」に混じって、議場からは「議員」のヤジも聞こえたが、それはB議員の「真意」に対するものではなく、「誹謗」的な「音声」に過ぎなかった。
 私は思った。これら傍聴者は現市長の支持者なのだろうか。ヤジる議員もそうなのだろうか。この人たちに共通していることは、B議員の心からの「発露」である「真意」を聞かないことである。
 それは「音声として聴く」だけであり、自分たちのコンピュータにインプットされている思考上の「語句」と「異質であると指摘」されたものにだけ、センサー的に反応している「傍聴席」での「私語」や「議場」での「ヤジ」なのである。

 片っ方だけの「理解や承知」では全体の理解や承知にはならない。より多くの、総合的な、しかも「公正な判断や思想」というものは、「両方」を知ること、理解することで成り立つものだ。
 先の戦争で、日本はアメリカと戦い、完膚無きまでの負け方をした。「無条件降伏」とは「スコンク」のことである。一片の勝利的要素も語ることが出来ない負け戦だった。その最大の理由・原因は「物資や武器、兵員や起動力」の違いではない。
 日本は「おのれ」を知らず、かの仇敵「アメリカ」のことも知らな過ぎたことにある。ベネデクトの「菊と刀」は徹底した日本研究の本である。今読んでみても、その「日本」についての全体像が細部にわたって研究されていたことがよく分かる。
 その当時、我が国は何ほどの「アメリカ」研究をしたか。敵国語といって「英語」の使用を禁止するという体たらくでは、敵の情報は知るよしもない。
 しからば、当該「日本」国についてどれほどの理解があったか。「日出ずる神の国」「神風」などでは到底自国の理解はおぼつかない。
 徹底した「排外主義」つまり「同質」でなければ認めない、耳を貸さないという国のあり方が敗戦につながったのである。
 傍聴席で「自分」と異質な意見や考えを述べる議員に対して、口汚く「私語」でののしる人、議場で「自分」と異質な意見や考えを述べる議員に対して、怒声で「ヤジ」る議員は、その当時の「日本」さながらである。このままだと、あなたたちは、「狭量な価値観」でしか生きていけなくなるだろう。
 戦後60数年、日本は今や、「民主主義」の国であることに思いを致してほしいものだ。                            (明日に続く。)

弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その2)

2007-12-24 06:36:28 | Weblog
(今日の写真は赤倉登山道「赤倉御殿」付近の風衝地から「弥生」からの「廃道」が続いている尾根を写したものだ。写真中央下部に見える緑の群落が「コメツガ」である。その右側を「廃道」は通っている。そして、その上部で赤倉登山道と合流するのだ。写真下部の左側に大きく写っている緑も「コメツガ」であり、この稜線に沿って「赤倉登山道」がある。この写真を撮したのは秋10月だ。

 …承前…
 登山道を造る際に、一番大事なことはこの「分かりやすさ」である。先人はそれをしっかり守っていた。「岩場」を登り切ると赤倉尾根に出る。赤倉登山道は西暦700年代に、すでに造営されていた。
 登山道のある尾根に出たら、そこにある道を利用することは「理に適って」いる。しかも、苦しい「直登」でなく、斜めに横切る感じで登っていくと「赤倉登山道」に出るのだから、なおさらである。合理的ですらある。
 私は、数度しか、登高と下山をしたことはないが、この登山道とこの稜線登りが好きだった。だから、今でも「残雪期」には登り降りをしている。
 現在、誰でも登ることの出来る登山道は、岩木山に5本しかない。しかし、私の調査だと「廃道化」したものを入れると12本もある。
 この5本の中で一番新しいのが「弥生登山道」である。戦前に入植した人たちが、自分たちの「登山道」として開鑿したのだ。
 だからであろうか、津軽の登山道の「里程」としては使われない「合目」という概念が標識に使われている。この「何合目」という表記は「津軽岩木スカイライン」という「超新しい自動車道登山道」にも「岩木山の8合目まで上る有料自動車道で…」とか「駐車場から9合目の鳥の海(鳥海山)までリフトがあり」という形で使われている。だが不思議なことに1合目から7合目を示す標識や呼称される場所はない。一応つながっていると考えられる「岳登山道」にもない。どこからか借りてきたとしか思えない、この唐突感は何なのだろう。富士山などは「合目」という「里程」を使っているが、それを「真似」たのだろうか。何でも「真似」をすればいいというものではないだろう。津軽の「富士」なのだから主体性は、「津軽」にある。津軽地方で「登山里程」に「合目」を使っているところはないだろう。もちろん、それ以外の、岩木山の昔からの登山道では「…合目」という名称はない。すべて、「地名」表記である。私はだからとても「違和感」を持つのだが、関係者には違和感はないらしい。
 昭和40(1965)年8月25日に「津軽岩木スカイライン」が開通して以来、他の12の登山道はどんどん荒廃し、廃道となった。そして、今や5つの登山道だけが確保されている状態である。これは登山客の95%以上が「津軽岩木スカイライン」に集中するという「一極化」のなせることなのである。「津軽岩木スカイライン」が出来たことによって津軽の多くの人々は、守り育ててきた、自分たちの「登山道」を失ったのである。

■■弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その2)■■
(承前)
 昨日『 』内で(…討論についても、敢えて本会議で行うものである。それは「市民の声」を、是非、市長はじめ理事者全員に届けたいと願ったからに他ならない。)という部分があったが、少し端折り過ぎたので、以下のように付け加える。
(この「弘前公園有料化反対」の討論についても、「私は所属する経済文教委員会において、若干したが」、敢えて本会議で行うものである。)
 ここにはB議員の「多くの市民」の声を出来るだけ多くの市長を始めとする理事者、それに市議会議員に伝えて、聞いて貰いたいという心情が溢れている。
 各種委員会で討論しても、そこはあくまでもその「委員」たちだけが集まっているところであり、参加者は少ない。「各種委員会」での決定は、それを担当する係や理事者にしか通知されない。つまり、すべてにおいて「狭い」範囲での討論であり、そのことに対する「市民の声」も少数の者にしか届かない。
 「国会が形骸化している。それは本会議が単なる採決の場であり、討論・議論の場となっていないからである。」と言われて久しい。「各種委員会」が数を頼みに結論を急ぎ、「本会議」がまた数に頼んで採決する。民主主義の根幹は「徹底した議論と討論」である。議論や討論のない国会、形骸化とはそれを言う。
 B議員はひょっとしたそのことを思ったのかも知れない。そして、市長、理事者、市議が一同に会する「本会議」で「反対討論」をしたのである。
 これは、1人でも多くの市民の声を、より多くの弘前市関係者に話したい、それが、一市議会議員としての「務め」であると考えたからに他ならないのだ。「市民に対する約束を守りたい」という、立候補の時の決意の現れでもあるだろう。まさに、「勇気」ある行動であったのだ。

 さらに、B議員は続けた…。
『市民の立場から、この弘前公園有料化見直しに関する条例を考えると、市長が市長選挙で掲げて戦った、2つの大きな「選挙公約」に目を向けないわけにはいかない。
 市長は、「弘前公園有料化の抜本的見直し」と「市民参加型の市政運営」という項目を、公約の中の柱の1つとしてあげていた。その時の選挙相手は「弘前公園の有料制の現在の形を作った前市長だったので、「抜本的見直し」という言葉を聞いて、「無料に戻すことも含めて、ゼロから見直すんだ」と思った市民は決して少なくない。
 特に、公園をこよなく愛し、そこを散策することを生活の一部として暮らしてきた人や有料化に疑問を抱いてきた人の中には、その公約で、現市長に投票した人も少なからずいただろう。
 ところが、今回実際に行われた見直し作業は、そうした人々の期待を裏切るものだった。私は、「今回示された見直し案」について言っているのではない。その過程の話をしている。
 今年はじめ行われた、有料化見直しついての市民アンケートでは、最初から、無料が望ましいという選択肢はなかった。有料を前提に、料金、期間、範囲等を尋ねる設問であった。
 先の経済文教委員会で質問したら、「無料という選択肢はなかったが、無料を望む人は、その他という選択肢を選んでそこに意見を書いてきた…」という返答が返ってきた。
 冗談ではない。あらかじめ印刷された選択肢の中から選んでただ〇をつけるのと、その他、という項目に〇をつけた上でさらに(   )の中に「文字を自分で書き込むこと」では、回答する側の心理としては極端な負担になる。これが分からないことはないだろう。 今回の見直しは、ゼロからの抜本的な見直しではなく、有料を崩さない範囲での小手先の見直しであることが明らかになったのだ。
 現市長の「選挙公約」に期待し、投票した人の中からも、「だまされた」とか「公約違反だ」という声も一人二人ではないということを、はっきりと申し述べておかなければならない。
 これは、今の、国政における「消えた年金」問題と同じで、誰も「無料にする」と言ったわけではないから公約違反ではないとか、選挙だから「抜本的」と多少誇張したんだとかといえなくもないが、そのような意見が市民の中にあることは、是非わかっていただきたい。』
(『 』内の表記は私が勝手に「である調」としたが、実際は「です・ます調」で丁寧な述べ方をしていた。)
ここにも、B議員の市民側に立った姿勢が如実に表れていると思うのだ。
因みに、「消えた年金」問題で、あのような無責任でいい加減な「弁解的」発言をした結果、自民党は大幅に支持率を下げて30%台に下落してしまった。政治家にとってB議員のような「真摯(しんし)」な態度は「必要絶対条件」だろう。
 市民の目はシビアだし、期待感が強いほど「反発」が多く、強くなることを「噛みしめる」べきだろう。(明日に続く。)

弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった

2007-12-23 05:05:34 | Weblog
(今日の写真は水無沢左岸尾根が昨日のものよりよく分かるものだ。「6月のある日、一周移ろいの岩木山」というコンピュータのファイルに入っていたものである。「岩木山一周歩こう会」というものを今から30数年間に、私の発案で始めて、現在も続いている。この写真は数年前に参加した時、百沢の岩木山神社前から写し始めたもので、弥生を少し過ぎた辺りからの撮ったものである。手前リンゴ園の奥に見えるこんもりとした緑の山の「稜線上」に「廃道化」した古い登山道がある。いや、あったのだ。
 …承前… 
 この登山道は、弥生登山道が「開鑿:かいさく」される以前から、山麓の船沢地区や高杉地区の人たちが利用していた。かなり、古いもので、恐らく藩政時代からのものではないかと思われる。少なくとも戦前までは、や地区ごとに「自分たちの岩木山登山道」を持っていて、営々と整備をしてきたのだろう。
 しかも、「登山道を造る場合のセオリー」に適っているのである。起点は現在の弥生登山道と同じである。弥生登山道は「大黒沢」を跨いで大黒沢右岸尾根に取りつくのだが、こちらは「大黒沢」沿いに進み、「水無沢」を跨いで「水無沢の左岸」に取りつくのである。
 そして、一気に左岸稜線に駆け上がって、あとはひたすら「稜線」沿いに登る。「水無沢爆裂火口」北側の岩場までは、稜線から外れない限りは決して「迷う」ことがない「分かりやすさ」なのである。「明日に続く。」

■■弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その1)■■

 B議員は、議案第116号 弘前市都市公園条例の一部を改正する条例案について、「反対」の立場で登壇し意見を述べた。
 まずその態度と印象を紹介しよう。
 …誠実である・自分が言っていることを聞き手に押しつけるのではないが、精一杯相手に理解して貰おうと努めている・主題を説明するのに使う例話が的確であり、わかりやすい言葉を用いる・論理が明確で、飛躍と短絡がない・聞き手が関心を持っていることで話題造りをして引き寄せる・ユーモアのあるエピソードを入れながら話しを進める・穏やかな語り口である・落ち着いており、沈着である・話題が実証的で、かつ良識を備え、知的な教養に支えられている・人間としての「哲学」や文化人的な「人間性」を備えているなどなどである。…
 余り書くと、三浦がまた、口から出任せを言っていると思われそうだから、このくらいで止めておこう。
 私は議員の質問や意見の陳述を今年の6月議会から毎回、見て聞いているが、この21日の「一般質問と意見」では、とりわけ、上述したようなことを感じたし、さらに「粗野な父を諭す息子のような優しさ」を感じたのである。
「議場」という場所は、本来無味乾燥で無機質な空間ではないはずだ。だが、これまで垣間見てきた弘前市議会の議場では、「質問」もそれに「答える事柄」も、すべて「事務的」で、書類を読むだけの音声発生器に過ぎず、「人が語っている」にもかかわらず、そこには生身の「人の顔貌」がなく、冷たい策略と多数による横暴しかなかった(これは未だにある。A議員は標的にされている)。
 その中で、昨日のA 議員や今日のB議員は、生身の人間の暖かい思いと優しい市民へのまなざしを持って、議場に立っているのである。まさにそれは、この議場に欠けている優しさと真摯という「異質」である。
 とかく、旧態依然の社会では「異質」を排除したがる。だが、「異質」は悪いことではない。違っていることは悪いことではない。私たちは、自分以外の人間に「異質」を見いだすことで、それと自照することで「自分」を見直すことが出来るのである。

「金子みすゞ」は「わたしと小鳥と鈴と」という詩で次のように詠った。

わたしが両手を広げても/お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように/地べたを早くは走れない
わたしが体をゆすっても/きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴はわたしのように/たくさんな歌は知らないよ
鈴と小鳥とそれからわたし/みんな違って/みんないい

 他人の個性を、その「異質」を認めることの出来ない人間がどうして、自分の個性に気づくだろう。自分の個性を他人に理解されることがあろうか。
 市民の付託に答えることが市会議員の仕事である。これを正面からまっとうに受けたならば、他人の個性を、その「異質」を認めることの出来ない人間は、市会議員をするべきではない。
 なぜならば、多数多様な「個性」を持つ市民の「付託」に答えることが出来ないからである。現職の市会議員が「みんな違って/みんないい」ということに気づかないとすれば、それは直ちに、自ら「職」を辞すべきだろう。「辞する」必要のない者は、34名いる現職市会議員の中で、このA、B議員以外に数名もいないだろう。

 B議員は12日の議会でも次の4点について質問をし、意見を述べている

1.「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」について
2.安全・安心のまちづくり-市の防災に対する取り組みについて
3.「市町村子ども読書活動推進計画」について
4.入札制度について

 以上の項目に関する「質問をし、意見を述べる」中にも、B議員の姿勢はよく出ていた。
1.2.については省略するが…
3.については、議員本人が調査をした「実証的な事項」を積み上げながら、「市が取り組んでいないこと」を何とか別な言い方で「誤魔化そうとする」ことを「問い詰め」て、最後は教育長から「取り組んでいない事実を認め、謝罪した上で、これから確実に実践する」という言質をとることをしたのである。
4.「一般競争入札」を否定はしないが、市内の企業で、従業員が弘前市民であり、これまで「弘前市」に対して「貢献してきた企業」に対する「発注」の余地を残すことを主張していた。これも、市内の零細企業、つまり市民に対する配慮、視点が常に「市民」にあることの現れだろう。

 ところで、B議員は21日の「一般質問と意見を述べる」冒頭で次のような意味のことを言ったのである。これは議員の仕事・任務・覚悟、それにとらえようによっては議員の資質についても触れているようで、極めて重要なことである。

 『…まず、議員の職分とはなにか、について、私なりの青臭い考えを申し述べさせていたく。それは、ごく当たり前のことだが、「市民の立場で市民の声を行政に訴えていく」ことだろう。行政の監視、政策の提案等、様々な仕事があるが、その基本は、市民の立場、市民の声だということである。だから、討論についても、敢えて本会議で行うものである。それは「市民の声」を、是非、市長はじめ理事者全員に届けたいと願ったからに他ならない。そこのところを是非お含みおき願いたいと思う。』
 (『 』内の表記は私が勝手に「である調」としたが、実際は「です・ます調」で丁寧な述べ方をしていた。)      (この稿は明日に続く)。

弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…

2007-12-22 06:37:19 | Weblog
(今日の写真は6月に写したマメ科ミヤコグサ属の多年草「ミヤコグサ」を前景とする岩木山だ。ミヤコグサは日本の各地に生育している。路傍や荒れ地に多く、花期は長く、春から秋まで咲き続ける。名前の由来は、「都にたくさん生育していた」ことによる。ムギ類の栽培とともに渡来した史前帰化植物であるとされている。
なぜ、この写真かというと「古い弥生から赤倉尾根に抜ける」登山道のある尾根を説明するためである。もっとその「尾根」がはっきり分かる写真があればよかったのだが、残念ながら、コンピュータにファイルされたものの中にはなかった。
 写したものがないわけではない。記憶を辿ると「あそこでも」「そこでも」「ここでも」写したという思いだけは直ぐに出てくるのだ。しかし、写真は春、夏、秋、冬を通して「花や樹木、登山道、雲、空、雪、動物、昆虫」などなど数千枚になる。その中から探すのも大変なので、探しやすい「コンピュターファイル」から引っ張ってくるということになってしまった。
 …承前…
 この写真には見えないが、水無沢の源頭部は古い爆裂火口である。その火口に落ち込んでいる斜面は、積雪期には雪崩が頻発している。
 巌鬼山と赤倉御殿を結ぶ稜線上は「風衝地」なので、雪は大半が吹き飛ばされて積もらない。その稜線上にある「石仏」は岩木山にある石仏の中でもっとも「摩耗」が激しい。それほど、その稜線は年中強い風が吹く場所なのである。風によって岩が「磨かれる」のだ。
 その「風衝地」を越えて吹き上げられた雪は、大半がこの爆裂火口上部の緩やかな斜面に溜まる。それが、「新雪」や「全層」を問わず、「雪崩」となっている。
 4月の上旬に「楽」をしようと稜線の「風衝地」を辿らないで、赤倉尾根から水無沢対岸尾根に「爆裂火口上部の緩やかな斜面」を辿って出たのだが、いつ「積雪」が動き出すかと冷や冷やした行動になってしまった。「楽」をした割りには「冷たい汗」にまみれ、唇を嘗めても嘗めても直ぐに乾ききるような緊張に苛まれたものである。やはり、急がば回れである。
 古い登山道も、赤倉登山道の分岐手前で、この「爆裂火口」の北側を登らなければいけない。かなりの急斜面で「悪場」である。昨日も書いたが最初はここを「降りた」ので、かなり難儀をした記憶がある。ここの岩場は「登り」の時が容易である。もちろん、残雪期でも岩は突き立ち、行く手を塞ぐような状態ではあるのだ。「明日に続く」)

   ■■ 弘前市12月議会の最終日・傍聴席で… ■■

 昨日、12月期の弘前市議会最終日ということで、議会を傍聴にいってきた。今年度はこれで4回目の「傍聴」となる。
 大まかな感想を最初に一つ、相変わらず「本質論議」に欠けるものであり、議員の大半には「Why」や「How」という姿勢や「…詰める」という姿勢は感じられなかった。まさにそれは「ナマズとは食べるとどんな味がする魚ですか」との問いに「ナマズ味がする」と答えることに似ていた。すべてが、この連続である。
 A議員が訊いた。
「T副市長が辞任したが、その理由はなんですか。」
「一身上の都合です。」
「後任として、Kさんの採用を提案していますが、Kさんは土木の専門家だそうですね。確かに、T副市長が就任する時は、弘前市の農業政策には欠くことが出来ない、農業の専門家として弘前市の農業の発展には必要である。そのような人事採用の理由を述べていました。それが、今度は、どうして土木の専門家であるKさんを副市長として採用されるのか、農業の専門家から土木の専門家に変わった、その理由をお訊きしたい。」
「もやもや…ぶつぶつ…」
(傍聴席まで聞こえてこない。他の議員のヤジもある。傍聴席の数人も「A議員は何を言っているのだ」「そんなことどうでもいいだろう」という意味のことを言い合っている。きっと、この人たちは「ヤジ」る議員を選んだ人たちだろう。ますます聞こえない。)

 A議員の論旨は明快である。
『何々だから、なになになので採用した。採用の目的と理由が明確だった。だからこそ、辞任の理由を明確な形で聞きたい。明確な形で説明するべきだ。
 その理由説明の中には、(在任中の目的行使の実績や結果)の説明もなければいけない。それがないと、別の人、しかも専門がまったく違う人と「首をすげ替える理由」が分からない。
 つまり、次のような回答が必要なのである。「…Tさんは農業の専門家でした。在任中はその専門性を生かして本市の農業政策に力を注いで貰いました。農業面での政策は、ほぼ計画通り出来ましたので、取り残されている土木部門事業の完遂を目指して、今度は土木専門のKさんを採用することにしました。」とか、「…Tさんは農業の専門家でした。在任中はその専門性を生かして本市の農業政策に力を注いで貰いました。しかし、力量不足で農業政策面では大した事業も出来なかったので、その責任をとって辞任して貰いました。後任にはやはり、事業継続の観点から農業の専門家を副市長に充てたいと考えます。」とか、「…Tさんは農業の専門家でした。在任中はその専門性を生かして本市の農業政策に力を注いで貰いました。しかし、(一身上:NHKのニュースでは体調不良と伝えていた)の理由で辞任したいと言っていますので、辞任を認め、後任にはやはり、農業の専門家を充てたいと考えます。」
 もし、農業政策がうまくいっていないのならば「土木」の後任者となるには、以上のように論理的に整合性がないわけである。
 今や、大都市部以外の「地方のどこの自治体」でも、農業は沈滞している。農村は棄農者が続出し、農地は放棄され、米農家の実質的な「自給」は驚くことに265円だという。 弘前市だってご多分に漏れまい。このような実情の中ではますます、農業から土木への変更理由が分からない。だから、その整合性を知りたくて「問い詰めている」のである。これはA議員の真摯な論理からの質疑であり、このような質疑や疑義を抱く「市民」の代弁でもある。市民から付託された仕事を真面目に熱心に遂行しようとしているのだ。
 「完全なる質疑応答」とは民主主義の基本である。これは訊く者と答える者の誠実さの上に成り立つ。答える者は質問者の心情に命がけで答えなければいけない。その誠実さを感じることは「答弁者」の振る舞いや言語、言い回し、声音など、どのようなジェスチャーにも感じられなかった。この答弁者は市民の方を向いていない。
 A議員は若い。若者の真っ直ぐで優しい「真摯」な心情を理解し、もし若さ故の「言い過ぎ」があったとしても年配の議員は「人間」の先輩として許容するくらいの度量を持つべきだろう。「くどい」とか「わかりきっていることをこの若造は何を言っているのだ」とか、または「小馬鹿にしたようなヤジ」を飛ばしたりすることは許されないことだ。
 「問い詰める」ような議論もせず、その手法をうるさがったり、論理の矛盾に気もつかないような、しかも「プロセス」を抜きにした「結果や結論」が目的化しているような議会では議員活動は出来ない。私にはA議員に対する「議会と議員」の行動は多勢をして無勢をいじめているようにしか見えなかった。
 一部の議員からA議員の「言動」は議会制民主主義の根幹を壊すものだと、さもさも「したり顔」の発言があったが、彼らの方こそ、あるべき民主主義の根幹を無視した、つまり、「プロセス」を無視して、短絡的に「結果」に走るやからであるように思えた。
 「議論」はテーゼとアンチテーゼの位置関係にあってこそ、深まっていくものである。私は、A 議員のこの「問い詰めていく姿勢」を高く評価したい。彼は「理屈」をもてあそんでいるのではない。屁理屈をこねているのでもない。
 「市民」の前に真実を語りたい、市民に対する「抑制できないほどの優しさ」を持っているが故の「詰問」なのだ。他の多くの議員は、まずは「自分に対する詰問」をすべきだ。詰問して論理的にものごとを把握できるようにならなければ他人の話は聞けない。また、「妥協」と「自己目的化」でしか生きることの出来ない人間には、厳しく「自己を詰問」することも、他人に対する「詰問」も出来ないだろう。
 今年に入って4回目の傍聴、数年前とは確かに議会の雰囲気は変わった。そして、6月議会より、9月議会が、さらに12月議会が、「プロセス」重視の議論が、思想性ある、誠実さのある、哲学のある議論が増えている。それ故に、旧態依然の手法や雰囲気がよく目立つのである。
 若手議員、バンザイである。私は「頑張れ」という言葉は「自分に言うものだ」と思ってきたが、今回だけは「若手議員頑張れ」と言いたい。特に、A議員とB議員の2人に対しては強く言いたい。君たちの頑張りで弘前市は少しずつではあるが、確かにいい方向に変わっていく。明日はB議員のことについて書く。

会報44号は出来たのだが…

2007-12-21 07:09:39 | Weblog
(今日の写真は岩木山水無沢の左岸尾根をかなり登って来たところから、対岸の尾根上部とその稜線を写したものだ。水無沢は読んで字の如しで「湧水」がない。雪解け水や雨水は流れ込むが、夏場は枯れることがある。しかし、下流では少ないが湧き出している場所もある。伏流水なのだ。岩木山の弥生側山麓には、そのような場所が結構見られる。あの計画されて、「凍結」された「岩木山弥生地区自然体験型拠点施設」建設現場もそのような地下を水が流れるところであり、しかも土石流地帯であった。
 この尾根には古い登山道がある。あるといっても、現在は、「雪解け直後の草がまだ芽生えていない時期」にだけ「あること」が認められるということであって、もはや、歩くためや登り降りをするための「道」ではない。かつては「登山道」があったことを「偲ばせる」だけの残骸である。完全に廃道となっていて、利用することは不可能だ。
 今から30年ほど前の5万分の1地図にはちゃんと出ていたし、私も何回か登り降りをしている。
 最初に利用したのは、赤倉登山道を降りてきて、大開の手前にはっきりと、地図が示すとおりの「分岐点」があり、そこから下山した時である。上部はまだ「踏み跡」が判然としていたが、弥生に近づくにつれ、次第に「踏み跡」は低木や下草に覆われていった。
 だが、枝を掻き上げ、下草を寄せると、長い年月、多くの人に、踏み固められた「踏み跡」が私を案内してくれた。
赤倉登山道の、この道への「分岐点」は本道が「廃道」化してもかなり長いこと残っていた。つい最近まで、というよりは赤倉講の一信者が不法に登山道を整備するまでは、はっきりと、ここから「別な道」という具体性を保って残っていたものである。
 しかし、「整備」に名を借りた周囲の木々の伐採が「根曲がり竹」の生長を促して、その「分岐点」を塞いでしまったのだ。勝手な行動が先人たちの「歴史」をも壊してしまったのだ。古い地図と磁石を使えば探せないことはないとは思うが、今はまったく分からない。「明日に続く」)

          ■■会報44号は出来たのだが…■■

 色々な事情が重なって発行が遅れた…・
「第28回東北自然保護の集い(岩手県・花巻市大沢温泉で開催)」への参加のため、その事前準備として、「大会事務局」との色々な折衝や連絡があった。昨年本会が大会主管をやったのでその「煩雑」さは体験済み。出来るだけ岩手県の事務局の手を煩わせないために、参加申し込みも「岩木山を考える会」という組織名にして「一括申し込み」にした。 本会からの参加者は10名だったので、「大会事務局」は10名にそれぞれ対応しなければいけない。「大会事務局」対10名の「事務連絡」や参加費授受などの事務処理が出てくるのである。そのような「煩雑な事務処理」を出来るだけ軽減した方がいいと考えたから「一括申し込み」にしたのである。
 ところが、そうすることは「私」が「大会事務局」の仕事を肩代わりするということでもあった。参加者数の確定・報告を承けて、「大会事務局」から事前に送られてくる要項や大会開催場所の案内図などをその都度、本会参加者に配らねばならない。手渡し・郵送と様々である。
 さらに、参加費等の納入。配車と運転のお願い。経路や集合場所や時間の確認。本会参加者への準備と連絡。文書やハガキにして送ることなどが私に課せられた仕事であった。 加えて「岩木山を考える会」のこととして、報告や発表のための「レジメや文書作り」、それの80部以上の印刷。「お土産」の「地酒」の手配などなどと、まあ色々あるもんだ。 帰ってきてからは「大会参加のまとめを書い」て「ブログ」で発表。「大会事務局」からは、まだ「集い」のまとめは送られて来ていない。昨年は3日後にまとめあげて、4日目には発送が完了していた。今年は遅い。

 それが終わって一段落することもなく、弥生ネット主催の「弘前公園有料化を考える市民集会」に参加した。ただ、参加するのは「楽」である。私は「市民集会」に使うための文書とA4の写真を作り、集会当日には発表した。
 それを受けて、東奥日報が「公園の自然」に関する資料がほしいというので30ページ近い文書に仕上げて持参した。どのように使われるのか、まだ記事にはなっていないようだ。
 そうしている内に、NHK文化センター講座「津軽富士・岩木山」の準備が始まった。テーマは「花と実(果実)」である。ゲーム性を持たせる講座にしようと腐心した。具体的には「果実」の種類から、この果実は花の時は「どんな花」なのかを探るというものになった。「花と果実の当てっこ」を画像を見ながらするというものだった。

 「岩木山ものしりマップ」の編集締め切りが近づいていた。あるジャンル(部門)からの文書が来ないのだ。忘れているわけではないだろう。だが、それを待っていると時間切れになってしまう。約束は11月末日なのだ。他の部門はすでに出来上がっていた。
 そのジャンルだけが「未校了」の状態で、とうとう12月に入ってしまった。もう待てない。きっと、忘れているか、私に言えない組織的な「事情」でも発生したのだろう。今更、「急いで提出して下さい」と言って、それに応えて「提出」されても、遅れたことには変わりはないし、さらに「遅れる」ことになる。これ以上の「遅れ」は許されない。
 そうなると、自分が知り得る範囲で書くしかない。「門外漢」という無謀性を恐れながらも何とか書き上げたのである。そして、担当のSさんに、12月上旬に手渡すことが出来た。

 そのような訳で「会報」の編集と発行が遅れていた。予定だと11月末には郵送出来るはずだったが、何と20日も遅れてしまった。一昨日、印刷に回した。今日の夕方には、B5版8ページのものが出来上がって来る予定である。
 明日の朝、9時30分から会報の「郵送事務」を事務局で行うので、お手伝い出来る会員はお出で下さい。
 ところで、昨日、「封筒」の「差出人」欄(ミチノクコザクラが印刷されているもの)と宛名印刷をそれぞれ350枚、合計「700回」の印刷をした。朝の6時から12時半までかかってしまった。
 プリンターの調子が悪い。封筒印刷の場合、1枚の「厚さ」が普通紙の場合と違うので、その運びと送りが微妙にずれるらしい。時々、「バリッ」という音を出して「停止」する。以前からそうなのだが、最近は特にそうだ。昨年も故障して、メーカーに送っている。いよいよ寿命なのだろうか。だが、まだ、6年ほどしか使用していないのだ。
 因みにプリンターは「Epson PM-4000 PX 」である。

岩木山を遙拝し、合掌し、祈り、頭を下げよう…

2007-12-20 05:04:17 | Weblog
(本当は、今日の写真は18日に掲示すればよかったのである。八甲田山が「山背」を遮って津軽地方を「庇護している」様子が、この風景からお解りだろう。八甲田大岳から東側は冷たい雲に覆われた世界だ。
 しかし、八甲田稜線で判然と区切られる津軽地方はこのように晴れ渡り、穏やかに「植物」が茂り、夏緑を育てて、秋の「収穫」を保証してくれる。しかし、南部の人たちは、冷たく鈍重な雲の下で「凶作」や「飢饉」に怯えてきたのである。今一度、八甲田山に向かって遙拝し、合掌しなければいけない。私はこの写真を撮った場所で大岳に向かって手をあわせた。)


         ◆ 岩木山と白神山地と県境の山塊◆

 ■■ これらはすべて“水がめ”積雪(湧水・雨水)による水源効果 ■■
 

岩木川は母なる川である。岩木山の南面、東面、それに北東面から雪解け水(または湧水、雨水)は、すべて「岩木川」に流れ込む。
 白神山地の東西に走る沢の雪解け水、湧水、雨水も岩木川に流れ込んでいる。また、県境の山から流れ出る「平川」も岩木川に流れ込んでいる。
 南八甲田山系の東西に走る沢はすべて、浅瀬石川に流れ込み、これを集めて岩木川に注いでいる。北八甲田山系の一部は「十川」として浪岡地区を通り、岩木川に注いでいる。
 つまり、「南北八甲田山から流れ出した水」を板柳や五所川原以北の水田でも、「岩木川の水を取り込むこと」で利用している訳だ。言い換えると「八甲田山」の恵みも受けているのである。

    ■■ 岩木山の日本海側を進む台風の「衝立」効果 ■■

 津軽地方にとって、台風被害が甚大となるのは、台風が、「日本列島に上陸しないで対馬海峡を通過し、日本海南部に入った場合」と台風が「九州や四国に一端上陸し、勢力が衰えた後に、日本海南部に出た場合」である。
 これは、暖流である対馬海流(海水温が26度以上)の暖気が台風へエネルギーを供給し、加えて高緯度から上空に流れる寒気の影響を受けるために、勢力が衰えるどころか再発達するからである。
 また、日本海北部はリマン海流(寒流)の影響で、海水からのエネルギーが供給できないため、台風自体は衰えるのだが、寒気の影響を受けて、台風から温帯低気圧に変わった後に再発達する場合があるからである。
 いずれも、この「再発達」は北海道に近づいた時点でのことが多いので、これまで日本海を北上し、しかも深浦沖辺りを通過した台風も弘前市周辺には、それほどの被害を及ぼさなかったのである。それにはもう一つの理由がある。

 日本海の秋田沖や深浦沖を台風が進んでいる時、弘前市周辺は台風の「進行方向に向かって右の半円」に位置している。その位置は、「台風自身の風」と「台風を移動させる周りの風」が同じ方向に吹くために、風が強くなるのである。しかし、事実はこれまでも違っていた。風は強くないのだ。

 風向を考えよう。この場合、弘前市の「西側」または「北側」を「台風の中心」が通過することになるから、風向は「東→南→西」と時計回りに変化する。
 東から吹き込む風は、弘前市の「西側」に屹立している岩木山によって風流が堰き止められる。南からの風は県境の山々によって阻まれるが、高さがないのでブロックされず、かなり強い。
 西からの風は東に、「衝立」として構えている「岩木山連山」によって遮られて、弘前市に吹き込む風は弱いものである。さらに東に位置する「八甲田連山」も風力を弱める手助けをしてくれている。「八甲田山」もそうなのだが、「南北に走る稜線構造」なので岩木山も北からの風の場合は余り、「衝立」の効果は期待出来ない。

 ところが、例外もあったのだ。それは古いところでは1954年の台風15号(洞爺丸台風)であり、新しいところでは1991年の台風19号(りんご台風)である。
 そこで、1991年の台風19号(りんご台風)について書いてみよう。この19号の進路は、日本海を進み、秋田と青森県の県境付近に上陸して、大鰐、弘前、青森を通過してほぼ、青森県を横断したものであった。
 すでに、お解りのことだろうが、この進路位置では、弘前も大鰐も「岩木山」や「八甲田山」に庇護されることはなかったのである。しかも、この19号台風は、北上して、寒気の影響を受けて「温帯低気圧」に変わった後に、再発達し、吹き返しの風が強く、通過後も強風が続いたのである。
 弘前では風速54mを記録したくらいであり、弘前周辺の「リンゴ園」は壊滅的な被害に遭った。「落ちないリンゴ」は希少価値であった。
 商魂たくましく「藤崎町民」は「その貴重な」リンゴを「受験用」に「落ちないリンゴ」として売り出して話題になった。
 だが、岩木山は津軽の人たちを庇護していた。それは五所川原、木造、車力などの地域であった。「弘前が大変な被害だ」ということで、教え子のI君から電話があった。
 我が家も屋根のトタン板が全部剥がれてしまった。そのため「ブルーシート」が必要だったが、量販店も個人商店からも「ブルーシート」は売り切れていた。そのことを話したら「こっちはそのような被害はない。ブルーシートを買って届けます。」と言うのだ。助かった。
 岩木山は南や東風の「衝立」となって、「西北五」地方の風を弱めたのである。

■■岩木山の南東面から東面にかけての弘前市はどうして降雪量が少ないのか■■

 岩木山を西から見ると決して「単独峰」は見えない。北から大鳴沢右岸稜線の烏帽子岳、赤倉御殿ピーク、巌鬼山、岩木山中央火口丘(山頂)、鳥海山南稜と南南西の方角に緩やかな弧を描いて峰や稜線が続いている。
 その上、西側山麓中部には笹森山、黒森山、若木森、二ツ森などの寄生火山が北から南へと連なっている。これはまさに、山による壁であり、二重になって立ちはだかる衝立であり、屏風である。
 この構造は、昨日話題にした北から南に縦断している山脈である「八甲田連山」と同じなのである。岩木山の南東面から東面にかけての弘前市地区の降雪量が多くはないという気候・気象的事実は、岩木山が「北から南に縦断している」ことに関係があるのである。
 岩木山の冬は11月の中旬から始まる。「寒気を伴った北西の季節風」が、日本海の水蒸気で湿った暖気を上昇気流に乗せて、たくさん集めて日本列島にやって来る。テレビの気象情報画面では、日本海上に見られる何層もの横筋である。
 「寒気を伴い、日本海の水蒸気で湿った暖気をたくさん集めている北西の季節風」は「北から南に縦断している」寄生火山の連山や岩木山に、つまり、「衝立」にぶつかる。そこでまず、重い湿った「雪」を降らせる。稜線を越えた雪は「稜線の東面や南面、それに南東面」に吹き溜まる。岩木山から7~8km離れた弘前の西側や北東寄りの地区では、「季節風の吹き出し」による「降雪」は少なくなるのである。
 岩木山自体の積雪は、北西の季節風の吹き出しから、西面に多く、次いで稜線越えの吹き溜まりによる積雪は南東から南面、北東面に多いのである。山麓部で積雪が最も多いのは「弥生地区」である。4m以上の積雪を見ることがある。  
 吹き溜まりによる積雪は、多いところで15mに達する。大鳴沢の源頭部や大沢中部では、遅い時は9月の上旬まで「残雪」を見ることがあるのだ。
 前述したが、西側の積雪はその大半が中村川に流れ込み、日本海に出て、大鳴沢は湯舟川と名前を変えて、日本海に出て行く。それ以外の沢の雪解け水や湧水・雨水は、すべて岩木川に注いで、津軽平野を潤しながら十三湖から日本海に流れ込んでいる。この多量の積雪が、「水甕」の役割をして、津軽地方の田畑を潤しているのである。

八甲田山にも手をあわせ、合掌しよう(2)

2007-12-19 04:22:46 | Weblog
(今日の写真は、厳冬の岩木山の頂上近く、ある岩稜の間から垣間見えた八甲田連山だ。ほぼ東に見える。本文を参考にしながら、この写真を見て貰えると、南北に走る脊梁山脈「衝立」という意味がよく解るかも知れない。
 まさに神聖なる神々しい輝きではないか。それにしてもこの写真を撮った時は寒かった。私は時計型の気温形を、いつもヤッケの上腕に巻き付けているのだが、そのデジタル表示が氷点下34℃を指していた。鼻孔内にも「粘々(ネバネバ)」感があり、気温の低下は実感していたが、実際数値を見て、少なからず驚いたものだ。)

 津軽の人たちは「岩木山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはあっても「八甲田山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはまずない。
 これは大きな間違いであり、過ちである。八甲田山地が津軽地方に与えてくれる「恵み」とその仕組みを理解したならば、津軽の人たちは、自然に「岩木山に手をあわせてから、八甲田山に向かっても手を合わせる」ようになるだろう。特に、農業に勤しむ者たちにとっては、心情的なものとしての行為となるはずである。
   
          ■八甲田山にも手をあわせ、合掌しよう(2)■
(承前)

◆ 八甲田山地とは… ◆
           ■■ 太平洋側を進む台風の衝立効果 ■■

 「衝立」「防風」効果を考える前に、「台風」についての概要を理解しておこう。今ここでは、凝結に伴って発生する熱を原動力する台風(注)の発生のメカニズムについては触れない。三陸沖などの太平洋岸沿いに進んでくる台風にだけ注目する。
 一般に、台風は日本の南海上で発達し日本列島に接近・上陸すると衰える傾向にある。これは、南海上では海水温が高いが、日本列島に近づくと海水温が26度未満となり、台風の発達は収束傾向となるからである。
 さらに、高緯度帯の寒気の影響を受けて台風の雲形も「渦巻き型」が崩れ、温帯低気圧の雲形へと変化するからである。さらに上陸すると山脈や地上の建物などによる摩擦によって台風はエネルギーを消費し、急速に勢力が衰えるようになる。ただし、「温帯低気圧」に変わってから、それ以上に発達するという例外もある。
 台風は、8月が発生数では年間で一番多い月である。9月以降になると、南海上から放物線を描くように日本付近を通過するようになり、三陸沖などの太平洋岸沿いに進むものが多くなる。しかし、温帯低気圧に変わった後も、「位置エネルギー」等の原因によって再発達する場合もある。青森県が大きな打撃を受けた1991年9月の19号台風(別名:りんご台風)はこれである。
 台風は巨大な空気の渦巻きで、地上付近では上から見て「反時計回り」に強い風が吹き込んでいる。そのため、「進行方向に向かって右の半円」では、「台風自身の風」と「台風を移動させる周りの風」が同じ方向に吹くために、風が強くなる。
 逆に「左の半円」では「台風自身の風が逆になる」ので、右の半円に比べると風速が小さくなる。
 また、台風接近の進路によって風向きの変化が異なる。ある地点の「西側」または「北側」を「台風の中心」が通過する場合、「東→南→西」と時計回りに変化する。ある地点の「東側」や「南側」を「台風の中心」が通過する場合は「東→北→西」と反時計回りに変化する。ただし、周りに山などがあると、必ずしも風向きがこのようにはっきりと変化するとは限らない。

 「台風の中心」が八戸沖を進んでいる場合は、八戸側、つまり八甲田山の東側は、「進行方向に向かって左の半円」に位置するので、「進行方向に向かって右の半円」に位置する場所よりも風速は衰えている。
 さらに、「台風の中心」が東側にあるのだから風向は、「東→北→西」と反時計回りに変化する。「東→北→西」という風向の変化を「八甲田山」を基準にしてとらえると、東からの風は「八甲田山」にぶつかり、風速全体を収斂させ、さらに、津軽地方に流れ込む「風量」を少なくする。西からの風に対しては、その逆の効果が考えられる。北からの風の場合は余り、この効果は期待出来ない。
 これが、「八甲田山」の太平洋側を進む台風の衝立効果である。

(注):「凝結に伴って発生する熱を原動力」:
 上昇流に伴って空気中の水蒸気は凝結し、熱(潜熱)を放出する。軽くなった空気は上昇して、併せて地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。
   「温帯低気圧」:
 温暖な空気と寒冷な空気の接触等による有効位置エネルギーが変換されて、運動エネルギーとなり、それが「発達」するエネルギー源になっている。

       ■■青森市(浪岡地区を含む)ではなぜ降雪量が多いのか■■

 「八甲田山」は夏泊半島の基部から、その山なみを起点としている。青森市の東には「東岳:684m」もある。私はこの山から「八甲田連山」が始まっているのだろうと考えている。
 北から南に縦断している山脈が「八甲田連山」である。気候・気象的に大事なことは、この「北から南に縦断している」ことなのである。青森市は「八甲田山」の山麓に位置している。
 青森市が周辺の藤崎町、板柳町、五所川原市、弘前市に比べると遙かに降雪量が多いことも、これに起因しているのだ。
 冬、寒気を伴った北西の季節風が、日本海の湿った空気をたくさん集めて日本列島を「横断」して行く。そして、太平洋に出る頃には、すっかり「スリム」になり、寒気は同じだが季節風はカラカラに乾燥している。
 それでは、「たくさん集めてきた日本海の湿った空気」はどこに置き忘れたのだろう。この「置き忘れたもの」が「雪・降雪」なのである。そのメカニズムはこうである。
 「寒気を伴い、日本海の湿った空気をたくさん集めている北西の季節風」は「北から南に縦断している」八甲田山、つまり、「衝立」にぶつかる。そこでまず、重い湿った「雪」を青森や浪岡に降らせる。稜線を越えた雪は「稜線の東面」に吹き溜まる。残りは寒気と風だけである。
 「南部地方」はゆえに、降雪は少なく、空風が強く冷たいのである。

 『何だ、「八甲田山」はいい面だけかと思ったら「大雪の元凶」だったのか』など言ってはいけない。この積雪が「八甲田山」を昔から大切な「水甕」にしてきたのである。

八甲田山にも手をあわせ、合掌しよう

2007-12-18 06:49:34 | Weblog
(今日の写真は2月に水無沢の左岸尾根から山頂を撮ったものである。
風が強く雪煙が上がって山頂は見えない。このくらいの雪煙だと、恐らく風速40m以上の風が山頂部では吹いているだろう。
 山頂のように見える部分は耳成岩である。本来ならば、その上に丸みを帯びた山頂が見えるのだ。
 山頂から下部のやや丸みを帯びたすり鉢状の地形が「大黒沢」の上部で、春スキーの天然の「ゲレンデ」である。そこを滑り降りてから大黒沢に入り、あとは弥生まで滑降することになる。
 または沢に入らないで、写真では見えないが左側の尾根を下って弥生に降りることも可能だ。ただし、尾根には殆ど標識も設置されていないので、スピードに乗せられて降りると、麓でブッシュにスキーを捕られて、大変な目に遭うので注意が必要だ。 右側に見える巌鬼稜線の左岸は「雪崩」の巣である。冬期間は入り込まないことが肝要であろう。稜線上部から右に滑降を続けると、弥生登山道尾根の一つ左の尾根に出る。だが、ここも気をつけないとブッシュにスキーを捕られることになる。)

   ■■NHK文化センター講座「津軽富士・岩木山」岩木山の気象から■■

 津軽の人たちは「岩木山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはあっても「八甲田山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはまずない。
 これは大きな間違いであり、過ちである。八甲田山地が津軽地方に与えてくれる「恵み」とその仕組みを理解したならば、津軽の人たちは、自然に「岩木山に手をあわせてから、八甲田山に向かっても手を合わせる」ようになるだろう。特に、農業に勤しむ者たちにとっては、心情的なものとしての行為となるはずである。
   
          ■八甲田山にも手をあわせ、合掌しよう■
(承前)

◆ 八甲田山地 ◆
※八甲田山地、それは津軽の人たちにとって、「山背(やませ)を遮る」ものである。つまり、「山背」から津軽地方の農作物を守り、津軽地方の人々の命を守る山々である。※
     「八甲田山地は津軽地方を「凶作と餓死」から救ってきた」

 「山背(やませ)」とは、夏(7~8月)に東北の太平洋側に吹き付ける冷たく湿った東風のことを言う。東北地方は、「山背の影響で江戸時代から、たびたび冷害にみまわれ、その都度「飢饉」が起きていた。2003年の大冷害も記憶に新しいところである。
 「山背」の原因はオホーツク海高気圧にある。オホーツク海は冬は流氷で覆われる。夏でも10℃以下ととても冷たい海域だ。オホーツク海高気圧は、その海の上で育つ高気圧なのでとても冷たい空気を持っている。その高気圧から吹き出す風が東北地方に「山背」をもたらすのだ。だから、「山背」が吹くと気温が低くなるのである。この寒冷な高気圧から吹き出す風は、三陸沖の太平洋上をわたって吹き込むので、「湿り」を補給して、どんよりとした曇り空になる。
 2003年には、この「山背」が1ヶ月以上続いて冷夏となった。仙台の東北管区気象台の発表によると「平年の7月下旬は梅雨明けの頃で最高気温も30℃近くまで上がるのだが、この年は最高気温が20℃に届かない日が続いた」そうである。
 「山背」の時の雲の高さは、1500mくらいなので、それ以上の標高を持つ「山や山脈」を越えることが出来ない。東北地方のほぼ中央を縦断している脊梁山脈である「奥羽山脈」を越すことが出来ない。そのため、山形県や秋田県では「山背」の影響を受けにくく「晴れている」ことが多い。
 気温も太平洋側に比べると、「日照」時間が長く、高いのである。津軽地方もこれに当たり、八戸や三沢、十和田市などとは比較にならないほどの「好天」となる。  「山背」は毎年発生している。ただ、それが長期間にわたるか、オホーツク海高気圧が持つ「寒気」の度合い強弱、雲の発生頻度とその厚さ、日照時間の長短、日照の強弱などによって、「農作物の生育への影響」には違いが出てくる。
 長期にわたって山背が続いた場合、最悪の状態だと、その地域の農作物がまったく「稔らない」という壊滅的な結果になる。それは歴史が「飢饉」という形で、如実に証左してくれていることである。
 「山背」は一度、発生すると、短いものでも1週間程度は続くことがある。なお、広辞苑によると「山背」のことを「凶作風、餓死風」としてある。

 因みに「山背」が越すこと出来ない標高1500mを越えている山は、まず、八甲田山地の主峰、「大岳」であり、高さは1585mである。
 その他に1500mを越える山は「赤倉岳1548m」「井戸岳1550m」「高田大岳1552m」がある。これらが、屏風や衝立となって津軽地方に「山背」が流下することを食い止めているのである。
 
 ある年の7月下旬である。八甲田大岳からの眺望を見て私は「視覚」として初めて、「山背」とそれを食い止めている八甲田山の山稜を見た。
 大まかに説明すると、大岳の東側と西側が判然と、「暗」と「明」、「曇り」と「快晴」に区画されているということであった。
 東側はどんよりとした灰色の重い雲に覆われていた。少し、東には高田大岳の丸みを帯びた山頂部だけが見える。あとは、何も見えず、灰色の雲海が茫漠と広がっている。
 その暗い雲が、山稜とぶつかるところだけは、雲が走るような動きを見せるものの、その敷き詰められた雲は、一寸たりとも稜線を越えて、西に移動することはなかった。
 しかし、冷たい風は何ら抵抗もなく稜線を越えて、岩木山の見える方角へと吹き込んでいた。冷たい風である。防風のための「ヤッケ」を着なければいけなかった。
 7月の下旬である。夏である。弘前では連日30℃を越える日が続いていた。1585mの山頂であるから、平地よりは9℃ほど低くなり、風があるので体感温度は、普通であれば15℃ぐらいだろうか。だが、その日はもっと下がっていた。5℃前後だろう。

 西に目をやる。そこは、晴れ渡った明るい世界だった。西の遠望の中には「岩木山」があった。岩木山が見えて、白神山地も霞んではいるが見えていた。弘前を中心にした市街地や町や村の集落も見える。
 雲はあるが白雲で、雲底は高く、殆ど動かず、湧き出てはいつの間にか消えている。晴れである。日照の世界、燦々と陽光が輝き、地表では緑なす草や木々が夏緑の中で「命」を謳歌している。そのような世界が広がっていた。北には中山山脈、陸奥湾も晴れて明るい空の下に綺麗に見える。
 八甲田山の稜線を境界として「山背」の世界と「山背」の影響を受けない「命あふれた」世界が、「暗」と「明」の世界が、そして「鈍重」で「冷たい世界」と「軽快」で「暖かい世界」が区画されていたのである。

 これが、視覚と体感でとらえた「山背」の実態・実相である。

「月刊弘前」の表紙写真12月号まで掲載/NHK講座「津軽富士・岩木山」岩木山の気象

2007-12-17 06:52:14 | Weblog
(今日の写真もアカミノヤドリギだ。これは赤倉登山道標高600mほどにあるナナカマドの低木に寄生しているものだ。4月の初旬、明るい早春の日射しの中で、黄色の小花を枝先につけている。ちょうど、目の先で「花」を見せてくれる。積雪が3mほどあるので「目の先」で眺められるのだ。
 昨日の写真は450mmの望遠レンズで写したものだ。f値が4.5という代物だから暗い。だが、これは43mmの標準レンズでf値は1.9という明るさだ。晴れていて明るい上に、レンズも明るい。しかも、自動で写したものだから「明るく」なり過ぎてしまった。写真としては失敗である。
 毎年、この時季になると欠かさず「会いに」出かけている。よくもまあ、「固いナナカマド」に付着して、根をはり生きずいているものだ。また、宿を提供しているこの背丈の低い「ナナカマド」も文句も言わずに、健気に毎年同じ「優しく強靱」な表情を見せてくれる。4月の初旬、ワカンなど着けなくても、登山靴、長靴でもいいだろう。赤倉登山道をトコトコ登っていけば、必ず会えるので、滅多に見ることが出来ない「アカミノヤドリギ」の花を訪ねてみて、「触って」みては如何だろう。双眼鏡などでは高木に根を張っているものも見ることは可能だ。)

   ▼※※お知らせ:タウン誌「月刊弘前」の表紙写真12月号まで掲載※※▼

 本会ホームページ「とびら」の赤書き部分「タウン誌弘前の写真を2007年12月号まで掲載しました」を今すぐに「クリック」しましょう。タウン誌月刊「弘前」の表紙写真とその説明が見られます。
 6月号までは順調に掲載されていました長いこと中断してしまいました。ようやく、7月号から12月号までの6枚の写真と「解説文」が掲載されました。
 なお、写真は月順に「ニホンザル」「ニホンイタチ」「ニホンテン」「キアゲハ」「ヒョウモンチョウ」「アサギマダラ」となっています。
 2006年も、本会が担当して「岩木山の野鳥」が表紙を飾りました。今年は「岩木山の生きもの」をテーマに続けてきましたが、今月号で終わりました。速いものです。2年間は瞬く間に終わりました。

   ■■NHK文化センター講座「津軽富士・岩木山」岩木山の気象の報告■■  

 昨日開講した表記の講座は、次の各テーマで行われた。
1.八甲田山地の津軽地方への「恵み」と岩木山と白神山地(県境の山塊を含む)の恵み
2.岩木山の気象(その概要)
3.岩木山の雪崩について
4.雪形について   
 雪形とは-区分・使われ方
そこで、今日は「1.八甲田山地の津軽地方への「恵み」と岩木山と白神山地(県境の山塊を含む)の恵み」について報告したい。           

 津軽の人たちは「岩木山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはあっても「八甲田山に向かって手をあわせて祈る(拝む)」ことはまずない。
 これは大きな間違いであり、過ちである。八甲田山地が津軽地方に与えてくれる「恵み」とその仕組みを理解したならば、津軽の人たちは、自然に「岩木山に手をあわせてから、八甲田山に向かっても手を合わせる」ようになるだろう。特に、農業に勤しむ者たちにとっては、心情的なものとしての行為となるはずである。

◆ 八甲田山地 ◆
※ 積雪(湧水・雨水)による水源効果“水がめ”。 

 南八甲田山系の東西に走る沢はすべて、浅瀬石川に流れ込み、これを集めて岩木川に注いでいる。北八甲田山系の一部は浪岡地区を通り、岩木川に注いでいる。
 つまり、南北八甲田山から流れ出した水を板柳や五所川原以北の水田でも、岩木川の水を取り込むことで利用している訳だ。言い換えると「八甲田山」の恵みを受けているのである。

 次に「水の恵み」ということで十和田(とわだ)信仰=水神(龍神)信仰について触れてみたい。 
「十和田」「戸和田」という名称の由来:

 昔、東北の地に住んでいたアイヌ民族が、この十和田の地を「トーワタラ」と呼んでいた。トーは、「湖」の意味、「ワタラ」は、岩という意味であり、「岩の多い湖」となる。この「トーワタラ」が転訛して「トワダ」になったという。これが通説であるらしい。
 だが、これだと、「十和田湖」というのは『「岩の多い湖」の湖』となる。よって、アイヌ語に忠実になれば「ワタラコ=わたら湖」とすべきところだ。しかも、「十和田信仰」でいうところの「十和田」との関連は「十和田湖」そのものやそれだけではない。県内のあちこちの「十和田」を冠した神社や社が存在する。
 湖岸に「十和田神社」がある。祭神が日本武尊であり、創建が大洞2年(807)、坂上田村麻呂であるとされている。江戸時代には南部藩の霊場として人々の信仰を集め、古くは修験道場としても知られていた。また、ここは北東北地域に広く分布する「水神信仰である」十和田信仰の象徴でもあるらしい。
 「十和田神社」という名称で祀るところや「十和田様」として祀るところは大鰐町や五所川原市にも見られる。これらはすべて、「水神・竜神」信仰であり、「水」つまり「海」につながることから「海」の神としても称えられ、信仰的形体などは「貴船」神社などと同じ系列のものである。
 「十和田」信仰と「十和田湖」とは関係あるのか。それは秋田や青森に見られる水神信仰の象徴としては関係があるだろう。だが、農民たちが実質的に「何を願い何を祈ったか」を考えると、水を湛えた「十和田湖」を脳裏に描いて祈ったかも知れないが、決して「十和田湖」そのものを祈ったわけではないだろう。

 私は今、その道の専門家から「激怒」されることを覚悟しながら、もの凄い仮説を立てている。
それは「十和田」を「十和」と「田」に分離して考えてみるということである。つまり、「とわ」「だ」-「とは」「だ」とする。「田」は一字として「田」そのもの意味を採る。すると、「とは」なる「田」という意味での解釈が生まれないだろうか。もちろん、「田」は水田のことだ。となれば「水」との関わりがこれで判然とする。
 さて、「とは」とはどのような意味に採るべきか。「とは」なる「水田」を願い水神様に祈るところが「十和田」様なのである。
 湖岸にある「十和田神社」の祭神が日本武尊であり、坂上田村麻呂が大洞2年(807)に創建したとされている。もともと、「十和田神社」は「水神」を祀ってはいなかったのだ。「十和田」イコール「水神」との関連づけはもっと後の時代である。
 「とは」という語が使われだしたのは「平安時代」である。広辞苑には「とわ【常・永久】トハ」(平安時代まではトバ)長く変らないこと。とこしえ。永久(えいきゆう)。古今和歌集(恋)「―にあひ見む事をのみこそ」。「―の別れ」…とある。
 これに従って「とは」なる水田という意味を解くと「永久に続く水の恵みによって支えられる、不滅不朽の水田」ということになりはしないだろうか。
 このように考えたら、田畑の存在するところに、水神さまを信仰する社がたくさんあって、それらが「十和田」という漢字名で表記されても一向におかしくないのではと思えるのである。