(今日の写真も「野鳥の巣」である。昨日の写真の巣と比べてみてほしい。まず周囲からいこう。まだ「緑の葉」が周りにあるし、下部にも緑色の葉や草が見える。時季が違うのだ。これは9月の末に撮ったものだ。
場所は我が家の庭である。その中の「カエデ」の一枝に「造られた」カワラヒワの巣である。だがどう見ても不自然だろう。なんか、巣が歪んでいるし、その場所に置かれた感じがしないだろうか。
そうなのだ、これは、この「カエデ」に造られた巣なのだが、庭を手入れしてくれた「人」によって「巣を支えていた枝ごと」落とされてしまったものなのだ。
私は…後述するが、この「巣」のことも、ここに巣造りをして「カワラヒワ」が雛を孵して「子育て」をして、巣立っていったことを知っていたのだ。子育て中も、巣立った後もこの「巣」のことをしっかりと視認していた。
「庭の手入れ」は、私のいない時に行われた。帰宅したら、まだ作業中だったが、すでに「後の祭り」。枝や葉と一緒に巣は庭に転がっていた。
作業が終わってから、私は「巣」を拾いあげた。そうしてから、脚立を持ち出して、切り落とされてしまった「巣のあったであろう」辺りの枝が3本出ているところに「挟み込む」ように、「挿入する」ように無理に置いたのである。
この写真は、その後「脚立」の頂部に登って、そこから下を見る格好をして写したものだ。だから、不自然なのだ。「本物の場所」ならば、このような不安定なところには造らないし、このような不細工なものではない。野鳥たちは、もっと「建築工学」的に理に適った造り方と形に整えることが出来るのである。)
◇◇この巣の材料は何を語り、それに学ぶことは何か… ◇◇
先ず、「巣材」に注目してほしい。昨日の写真の巣は、すべて「自然、天然の巣材」で賄われ、造られていた。
しかし、この「巣」にも自然の巣材である枯れ葉や枯れ草、小枝はみられるものの、巣の外壁に当たる部分の大半は「ポリ塩化ビニル(PVC)」の摩耗片や切れ端、それに、「ポリエチレン」の切れ端である。
野鳥は「自然にあるもの」を利用する。イネ科の枯れ草も、「ポリ塩化ビニル」の摩耗片や切れ端も、彼女たちにとっては自然の所産でしかないのだ。このような「自然」に誰がしたのだろう。果たして、彼女たちがこれを「巣材」とすること「進化」と呼べることなのだろうか。もともと、これらはこの「地球の自然界には存在しないもの」だった。
私は悲しい。この事実をも「自然との共生共存」と呼ぶのだろうか。
「ポリ塩化ビニル(PVC)」は、英名のpolyvinyl chlorideの頭文字を取ってPVCと呼ばれていて、日用品や玩具、建設材料など多種多様な製品や工業材料として使用されてきた。
だが、塩素を多く含んでいるため、焼却処理に伴う「ダイオキシン類」の主要な発生源とされている。
また、製品化する際に、可塑剤として用いるフタル酸エステルは環境ホルモン物質であるとされ、以前の「厚生省」は2000年6月に、「食品製造時の塩ビ製手袋の使用を避ける」ように事業者に通知している。
「ポリエチレン」も立派な化学燃料を原資的な材料とする「本来の地球には存在」しない物質だ。これはスーパーのレジ袋、ゴミ袋、雑貨類の袋、さらにはラップなどで、プラスチックフィルムの素材がポリエチレンだ。だから、「ビニール」袋とは違う。
◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その3)◇◇
私はこれから述べることを、今日までずっと「秘め」て「抑え」てきた。約半年の間に、何回も「書きたい、書いてしまえ」と思ったが、恐らく、今年で一番というよりは「最高に嬉しいこと」になるだろうから、それは、「12月31日のブログに書くのだ」と決めていたからであった。
…6月の中旬のことだった。私の狭い庭のどこからか「虫」の鳴くような「音色」が聞こえるのだ。朝5時以前に起床して、庭に面している南向きの窓を開けているので、取り分けよく聞こえる。私の連れ合いも、その「虫の音」のような「声」に気づいていた。
とにかく、その「虫の音」のような鳴き声は、夜明けに始まり、宵には「ぴたり」と止んで、日中は間遠だが、一定の間隔をおいて聞こえていたのである。
季節はまさに夏緑の時季である。庭の「カエデ」は淡い緑から濃い葉色に変わり、そのカエデの密生した「葉越し」には、何も見えないほどになっていた。横からも、もちろん、真下からも「空」を見透かすことは出来ない。その「カエデ」の樹高は、ほぼ3mという低さである。
何故、カエデなのか。秋ではない。夏緑の時季である。秋ならば「虫の音」が聞こえ、それは草むらからが「適当」であろう。だから、この「虫の音」のような声は、飽くまでも「虫の音のような声」であって「虫」ではないのだ。秋の虫の音色を色々と思い出しては、その虫の名を探った。
とにかく「エンマコオロギ」ではない。「ツヅレサセコオロギ」でもない。少なくとも、「コロコロ」という玉を転がすような音色ではない。野鳥の「ヤブサメ」の声に似ている。だからといっても、キリギリスの仲間の「ササキリ」でもない。虫だとすれば鳴き出す時季が早いしおかしい。
そうしているうちに、また鳴き出した。「チリチリチリ、チリチリチリ」。これは一斉だ。そして、最後は遅れて単音の「チリ」で終わる。コンダクターの棒の動きを無視した「下手な奏者」のそれだ。
待てよ、「ケラ」も鳴くなあ、間断鳴く静かに鳴くところは似ているが、この鳴き声は「個」ではない。集団で鳴いている声だ。私は耳をそばだててあれこれと忖度と詮索を続ける。
それから、1時間もたった頃だろうか。また「チリチリチリ、チリチリチリ」が始まった。それは、草むらから聞こえるものではない。明らかに、庭の片隅にある1本の「カエデ」の「葉の中」から聞こえていた。
その時初めて、私はこのカエデの木のどこかに「鳥の巣」があることを知ったのである。道路から妬く2m、私の居宅から3mという距離だ。こんなに近くに「巣造り」をして、卵を孵して、雛を育てていたのである。
「番(つがい)」は巣材を運ぶのに、かなり頻繁にこの「カエデ」に出入りしていただろう。卵を交代で「抱く」ためにも、よくこの巣にやって来ていただろう。だが、私はついに一度もその姿を見たことがなかったのである。
「カワラヒワ」は、人には考えられないほど非常に用心深く、注意しながら「巣」を完成させ、周囲がすっかり葉で覆われ始める頃から卵を抱き始めていたのだ。まさに、「声はすれども姿は見えず」ではないか。
このように、周囲に気を遣わせないで「子育て」をすることを見習わなければいけない「人」は、最近多いのではないか。
雛たちの「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声は、親が餌を運んで来る都度、大きくなり、騒々しくなっていった。
私には「お節介」虫が巣くったようだ。ある晩、登山用のLEDヘッドランプを着けて、その「カエデ」の下に立った。巣の確認である。かなり上部の「3本まっか」の箇所に、その巣はあった。巣の縁には親鳥が二羽、並んで座っていた。そして、私の方をちらりと見た。雛たちの動きは全くなかった。私の「探検」はそれで終わった。慎重に、驚かせないように、静かに、超短時間に済ませた。「親鳥」に、巣と雛を「放棄」させないための配慮である。
その後、2日間だけは1日に数回、騒音に紛う「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声が聴こえていた。「親鳥」はしっかり、その責任を果たしていた。
そして、3日目の早朝、4時である。窓を開けて「耳を澄ました」。5時になった。だが、何も聞こえない。6時になった。それでも何も聞こえない聴こえない。連れ合いが言った。「今朝は聞こえないわ、チリチリチリが」と。
実にすばらしい「出発」である。奥ゆかしい旅立ちである。ひっそりと、静かに、覚られることもなく、巣立っていったのだ。「カワラヒワ」の巣立ちは、私たちに「引け際」のあり方を教えてくれている。
「よかった」と呟いた時、胸に熱いものが込み上げてきて、涙が流れた。
その後、我が家の周りで、「カワラヒワ」の「チュイ~ン、チュイ~ン」というさえずりが聞こえるたびに、家の庭のカエデの木で育った「子供たち」かも知れないと思うのである。
そして、秋遅く、ある日「カワラヒワ」の一団が、玄関前のコスモスに飛び降りて来て、茎頂に着いた種を食べ始めたのを見た。この写真は、この「ブログ」でも紹介した。
その光景を見て、ますます、「きっと私の庭で育った子供たち」と「両親」だろうと思ったものだ。
私の庭が「小さな命を育み」、その「元気な小さな命」と出会えたことが2009年の中で最高の喜びであったと思っている。私は、野鳥の中で「カラ」の仲間が大好きだ。そして、「カワラヒワ」は幼年時代から「カラ類」の次に好きな鳥である。だが、今年だけは「一番好きな鳥」は、この「カワラヒワ」になってしまった。
2009年もこの「ブログ」にアクセス戴きまして有り難うございます。明日から当面は2月21日までは書き続けるつもりです。それで丸3年、一日も欠かさないで書き続けることになるからです。そこで、一応「区切り」をつけたいと思っています。
それは、この「ブログ」を纏めたいと考えているからです。「纏め」が終わり、出版の予定が立った時点で再開するつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。
今年、最後の「ブログ」、とうとう4000字(原稿用紙10枚)を越えてしまった。
「NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった」は年明けに続けることにします。
それでは皆さん、いいお年をお迎え下さい。 三浦章男
場所は我が家の庭である。その中の「カエデ」の一枝に「造られた」カワラヒワの巣である。だがどう見ても不自然だろう。なんか、巣が歪んでいるし、その場所に置かれた感じがしないだろうか。
そうなのだ、これは、この「カエデ」に造られた巣なのだが、庭を手入れしてくれた「人」によって「巣を支えていた枝ごと」落とされてしまったものなのだ。
私は…後述するが、この「巣」のことも、ここに巣造りをして「カワラヒワ」が雛を孵して「子育て」をして、巣立っていったことを知っていたのだ。子育て中も、巣立った後もこの「巣」のことをしっかりと視認していた。
「庭の手入れ」は、私のいない時に行われた。帰宅したら、まだ作業中だったが、すでに「後の祭り」。枝や葉と一緒に巣は庭に転がっていた。
作業が終わってから、私は「巣」を拾いあげた。そうしてから、脚立を持ち出して、切り落とされてしまった「巣のあったであろう」辺りの枝が3本出ているところに「挟み込む」ように、「挿入する」ように無理に置いたのである。
この写真は、その後「脚立」の頂部に登って、そこから下を見る格好をして写したものだ。だから、不自然なのだ。「本物の場所」ならば、このような不安定なところには造らないし、このような不細工なものではない。野鳥たちは、もっと「建築工学」的に理に適った造り方と形に整えることが出来るのである。)
◇◇この巣の材料は何を語り、それに学ぶことは何か… ◇◇
先ず、「巣材」に注目してほしい。昨日の写真の巣は、すべて「自然、天然の巣材」で賄われ、造られていた。
しかし、この「巣」にも自然の巣材である枯れ葉や枯れ草、小枝はみられるものの、巣の外壁に当たる部分の大半は「ポリ塩化ビニル(PVC)」の摩耗片や切れ端、それに、「ポリエチレン」の切れ端である。
野鳥は「自然にあるもの」を利用する。イネ科の枯れ草も、「ポリ塩化ビニル」の摩耗片や切れ端も、彼女たちにとっては自然の所産でしかないのだ。このような「自然」に誰がしたのだろう。果たして、彼女たちがこれを「巣材」とすること「進化」と呼べることなのだろうか。もともと、これらはこの「地球の自然界には存在しないもの」だった。
私は悲しい。この事実をも「自然との共生共存」と呼ぶのだろうか。
「ポリ塩化ビニル(PVC)」は、英名のpolyvinyl chlorideの頭文字を取ってPVCと呼ばれていて、日用品や玩具、建設材料など多種多様な製品や工業材料として使用されてきた。
だが、塩素を多く含んでいるため、焼却処理に伴う「ダイオキシン類」の主要な発生源とされている。
また、製品化する際に、可塑剤として用いるフタル酸エステルは環境ホルモン物質であるとされ、以前の「厚生省」は2000年6月に、「食品製造時の塩ビ製手袋の使用を避ける」ように事業者に通知している。
「ポリエチレン」も立派な化学燃料を原資的な材料とする「本来の地球には存在」しない物質だ。これはスーパーのレジ袋、ゴミ袋、雑貨類の袋、さらにはラップなどで、プラスチックフィルムの素材がポリエチレンだ。だから、「ビニール」袋とは違う。
◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その3)◇◇
私はこれから述べることを、今日までずっと「秘め」て「抑え」てきた。約半年の間に、何回も「書きたい、書いてしまえ」と思ったが、恐らく、今年で一番というよりは「最高に嬉しいこと」になるだろうから、それは、「12月31日のブログに書くのだ」と決めていたからであった。
…6月の中旬のことだった。私の狭い庭のどこからか「虫」の鳴くような「音色」が聞こえるのだ。朝5時以前に起床して、庭に面している南向きの窓を開けているので、取り分けよく聞こえる。私の連れ合いも、その「虫の音」のような「声」に気づいていた。
とにかく、その「虫の音」のような鳴き声は、夜明けに始まり、宵には「ぴたり」と止んで、日中は間遠だが、一定の間隔をおいて聞こえていたのである。
季節はまさに夏緑の時季である。庭の「カエデ」は淡い緑から濃い葉色に変わり、そのカエデの密生した「葉越し」には、何も見えないほどになっていた。横からも、もちろん、真下からも「空」を見透かすことは出来ない。その「カエデ」の樹高は、ほぼ3mという低さである。
何故、カエデなのか。秋ではない。夏緑の時季である。秋ならば「虫の音」が聞こえ、それは草むらからが「適当」であろう。だから、この「虫の音」のような声は、飽くまでも「虫の音のような声」であって「虫」ではないのだ。秋の虫の音色を色々と思い出しては、その虫の名を探った。
とにかく「エンマコオロギ」ではない。「ツヅレサセコオロギ」でもない。少なくとも、「コロコロ」という玉を転がすような音色ではない。野鳥の「ヤブサメ」の声に似ている。だからといっても、キリギリスの仲間の「ササキリ」でもない。虫だとすれば鳴き出す時季が早いしおかしい。
そうしているうちに、また鳴き出した。「チリチリチリ、チリチリチリ」。これは一斉だ。そして、最後は遅れて単音の「チリ」で終わる。コンダクターの棒の動きを無視した「下手な奏者」のそれだ。
待てよ、「ケラ」も鳴くなあ、間断鳴く静かに鳴くところは似ているが、この鳴き声は「個」ではない。集団で鳴いている声だ。私は耳をそばだててあれこれと忖度と詮索を続ける。
それから、1時間もたった頃だろうか。また「チリチリチリ、チリチリチリ」が始まった。それは、草むらから聞こえるものではない。明らかに、庭の片隅にある1本の「カエデ」の「葉の中」から聞こえていた。
その時初めて、私はこのカエデの木のどこかに「鳥の巣」があることを知ったのである。道路から妬く2m、私の居宅から3mという距離だ。こんなに近くに「巣造り」をして、卵を孵して、雛を育てていたのである。
「番(つがい)」は巣材を運ぶのに、かなり頻繁にこの「カエデ」に出入りしていただろう。卵を交代で「抱く」ためにも、よくこの巣にやって来ていただろう。だが、私はついに一度もその姿を見たことがなかったのである。
「カワラヒワ」は、人には考えられないほど非常に用心深く、注意しながら「巣」を完成させ、周囲がすっかり葉で覆われ始める頃から卵を抱き始めていたのだ。まさに、「声はすれども姿は見えず」ではないか。
このように、周囲に気を遣わせないで「子育て」をすることを見習わなければいけない「人」は、最近多いのではないか。
雛たちの「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声は、親が餌を運んで来る都度、大きくなり、騒々しくなっていった。
私には「お節介」虫が巣くったようだ。ある晩、登山用のLEDヘッドランプを着けて、その「カエデ」の下に立った。巣の確認である。かなり上部の「3本まっか」の箇所に、その巣はあった。巣の縁には親鳥が二羽、並んで座っていた。そして、私の方をちらりと見た。雛たちの動きは全くなかった。私の「探検」はそれで終わった。慎重に、驚かせないように、静かに、超短時間に済ませた。「親鳥」に、巣と雛を「放棄」させないための配慮である。
その後、2日間だけは1日に数回、騒音に紛う「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声が聴こえていた。「親鳥」はしっかり、その責任を果たしていた。
そして、3日目の早朝、4時である。窓を開けて「耳を澄ました」。5時になった。だが、何も聞こえない。6時になった。それでも何も聞こえない聴こえない。連れ合いが言った。「今朝は聞こえないわ、チリチリチリが」と。
実にすばらしい「出発」である。奥ゆかしい旅立ちである。ひっそりと、静かに、覚られることもなく、巣立っていったのだ。「カワラヒワ」の巣立ちは、私たちに「引け際」のあり方を教えてくれている。
「よかった」と呟いた時、胸に熱いものが込み上げてきて、涙が流れた。
その後、我が家の周りで、「カワラヒワ」の「チュイ~ン、チュイ~ン」というさえずりが聞こえるたびに、家の庭のカエデの木で育った「子供たち」かも知れないと思うのである。
そして、秋遅く、ある日「カワラヒワ」の一団が、玄関前のコスモスに飛び降りて来て、茎頂に着いた種を食べ始めたのを見た。この写真は、この「ブログ」でも紹介した。
その光景を見て、ますます、「きっと私の庭で育った子供たち」と「両親」だろうと思ったものだ。
私の庭が「小さな命を育み」、その「元気な小さな命」と出会えたことが2009年の中で最高の喜びであったと思っている。私は、野鳥の中で「カラ」の仲間が大好きだ。そして、「カワラヒワ」は幼年時代から「カラ類」の次に好きな鳥である。だが、今年だけは「一番好きな鳥」は、この「カワラヒワ」になってしまった。
2009年もこの「ブログ」にアクセス戴きまして有り難うございます。明日から当面は2月21日までは書き続けるつもりです。それで丸3年、一日も欠かさないで書き続けることになるからです。そこで、一応「区切り」をつけたいと思っています。
それは、この「ブログ」を纏めたいと考えているからです。「纏め」が終わり、出版の予定が立った時点で再開するつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。
今年、最後の「ブログ」、とうとう4000字(原稿用紙10枚)を越えてしまった。
「NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった」は年明けに続けることにします。
それでは皆さん、いいお年をお迎え下さい。 三浦章男