岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

この巣材は何を語り、それに学ぶことは…/ この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その3)

2009-12-31 05:13:33 | Weblog
 (今日の写真も「野鳥の巣」である。昨日の写真の巣と比べてみてほしい。まず周囲からいこう。まだ「緑の葉」が周りにあるし、下部にも緑色の葉や草が見える。時季が違うのだ。これは9月の末に撮ったものだ。
 場所は我が家の庭である。その中の「カエデ」の一枝に「造られた」カワラヒワの巣である。だがどう見ても不自然だろう。なんか、巣が歪んでいるし、その場所に置かれた感じがしないだろうか。
 そうなのだ、これは、この「カエデ」に造られた巣なのだが、庭を手入れしてくれた「人」によって「巣を支えていた枝ごと」落とされてしまったものなのだ。
 私は…後述するが、この「巣」のことも、ここに巣造りをして「カワラヒワ」が雛を孵して「子育て」をして、巣立っていったことを知っていたのだ。子育て中も、巣立った後もこの「巣」のことをしっかりと視認していた。
 「庭の手入れ」は、私のいない時に行われた。帰宅したら、まだ作業中だったが、すでに「後の祭り」。枝や葉と一緒に巣は庭に転がっていた。
 作業が終わってから、私は「巣」を拾いあげた。そうしてから、脚立を持ち出して、切り落とされてしまった「巣のあったであろう」辺りの枝が3本出ているところに「挟み込む」ように、「挿入する」ように無理に置いたのである。
 この写真は、その後「脚立」の頂部に登って、そこから下を見る格好をして写したものだ。だから、不自然なのだ。「本物の場所」ならば、このような不安定なところには造らないし、このような不細工なものではない。野鳥たちは、もっと「建築工学」的に理に適った造り方と形に整えることが出来るのである。)

◇◇この巣の材料は何を語り、それに学ぶことは何か… ◇◇

 先ず、「巣材」に注目してほしい。昨日の写真の巣は、すべて「自然、天然の巣材」で賄われ、造られていた。
 しかし、この「巣」にも自然の巣材である枯れ葉や枯れ草、小枝はみられるものの、巣の外壁に当たる部分の大半は「ポリ塩化ビニル(PVC)」の摩耗片や切れ端、それに、「ポリエチレン」の切れ端である。
 野鳥は「自然にあるもの」を利用する。イネ科の枯れ草も、「ポリ塩化ビニル」の摩耗片や切れ端も、彼女たちにとっては自然の所産でしかないのだ。このような「自然」に誰がしたのだろう。果たして、彼女たちがこれを「巣材」とすること「進化」と呼べることなのだろうか。もともと、これらはこの「地球の自然界には存在しないもの」だった。
 私は悲しい。この事実をも「自然との共生共存」と呼ぶのだろうか。

「ポリ塩化ビニル(PVC)」は、英名のpolyvinyl chlorideの頭文字を取ってPVCと呼ばれていて、日用品や玩具、建設材料など多種多様な製品や工業材料として使用されてきた。
 だが、塩素を多く含んでいるため、焼却処理に伴う「ダイオキシン類」の主要な発生源とされている。
 また、製品化する際に、可塑剤として用いるフタル酸エステルは環境ホルモン物質であるとされ、以前の「厚生省」は2000年6月に、「食品製造時の塩ビ製手袋の使用を避ける」ように事業者に通知している。
「ポリエチレン」も立派な化学燃料を原資的な材料とする「本来の地球には存在」しない物質だ。これはスーパーのレジ袋、ゴミ袋、雑貨類の袋、さらにはラップなどで、プラスチックフィルムの素材がポリエチレンだ。だから、「ビニール」袋とは違う。

◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その3)◇◇

 私はこれから述べることを、今日までずっと「秘め」て「抑え」てきた。約半年の間に、何回も「書きたい、書いてしまえ」と思ったが、恐らく、今年で一番というよりは「最高に嬉しいこと」になるだろうから、それは、「12月31日のブログに書くのだ」と決めていたからであった。

 …6月の中旬のことだった。私の狭い庭のどこからか「虫」の鳴くような「音色」が聞こえるのだ。朝5時以前に起床して、庭に面している南向きの窓を開けているので、取り分けよく聞こえる。私の連れ合いも、その「虫の音」のような「声」に気づいていた。
 とにかく、その「虫の音」のような鳴き声は、夜明けに始まり、宵には「ぴたり」と止んで、日中は間遠だが、一定の間隔をおいて聞こえていたのである。
 季節はまさに夏緑の時季である。庭の「カエデ」は淡い緑から濃い葉色に変わり、そのカエデの密生した「葉越し」には、何も見えないほどになっていた。横からも、もちろん、真下からも「空」を見透かすことは出来ない。その「カエデ」の樹高は、ほぼ3mという低さである。
 何故、カエデなのか。秋ではない。夏緑の時季である。秋ならば「虫の音」が聞こえ、それは草むらからが「適当」であろう。だから、この「虫の音」のような声は、飽くまでも「虫の音のような声」であって「虫」ではないのだ。秋の虫の音色を色々と思い出しては、その虫の名を探った。
 とにかく「エンマコオロギ」ではない。「ツヅレサセコオロギ」でもない。少なくとも、「コロコロ」という玉を転がすような音色ではない。野鳥の「ヤブサメ」の声に似ている。だからといっても、キリギリスの仲間の「ササキリ」でもない。虫だとすれば鳴き出す時季が早いしおかしい。
 そうしているうちに、また鳴き出した。「チリチリチリ、チリチリチリ」。これは一斉だ。そして、最後は遅れて単音の「チリ」で終わる。コンダクターの棒の動きを無視した「下手な奏者」のそれだ。
 待てよ、「ケラ」も鳴くなあ、間断鳴く静かに鳴くところは似ているが、この鳴き声は「個」ではない。集団で鳴いている声だ。私は耳をそばだててあれこれと忖度と詮索を続ける。
 それから、1時間もたった頃だろうか。また「チリチリチリ、チリチリチリ」が始まった。それは、草むらから聞こえるものではない。明らかに、庭の片隅にある1本の「カエデ」の「葉の中」から聞こえていた。
 その時初めて、私はこのカエデの木のどこかに「鳥の巣」があることを知ったのである。道路から妬く2m、私の居宅から3mという距離だ。こんなに近くに「巣造り」をして、卵を孵して、雛を育てていたのである。
 「番(つがい)」は巣材を運ぶのに、かなり頻繁にこの「カエデ」に出入りしていただろう。卵を交代で「抱く」ためにも、よくこの巣にやって来ていただろう。だが、私はついに一度もその姿を見たことがなかったのである。
 「カワラヒワ」は、人には考えられないほど非常に用心深く、注意しながら「巣」を完成させ、周囲がすっかり葉で覆われ始める頃から卵を抱き始めていたのだ。まさに、「声はすれども姿は見えず」ではないか。
 このように、周囲に気を遣わせないで「子育て」をすることを見習わなければいけない「人」は、最近多いのではないか。
 雛たちの「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声は、親が餌を運んで来る都度、大きくなり、騒々しくなっていった。
 私には「お節介」虫が巣くったようだ。ある晩、登山用のLEDヘッドランプを着けて、その「カエデ」の下に立った。巣の確認である。かなり上部の「3本まっか」の箇所に、その巣はあった。巣の縁には親鳥が二羽、並んで座っていた。そして、私の方をちらりと見た。雛たちの動きは全くなかった。私の「探検」はそれで終わった。慎重に、驚かせないように、静かに、超短時間に済ませた。「親鳥」に、巣と雛を「放棄」させないための配慮である。
 その後、2日間だけは1日に数回、騒音に紛う「チリチリチリ、チリチリチリ」という鳴き声が聴こえていた。「親鳥」はしっかり、その責任を果たしていた。
 そして、3日目の早朝、4時である。窓を開けて「耳を澄ました」。5時になった。だが、何も聞こえない。6時になった。それでも何も聞こえない聴こえない。連れ合いが言った。「今朝は聞こえないわ、チリチリチリが」と。
 実にすばらしい「出発」である。奥ゆかしい旅立ちである。ひっそりと、静かに、覚られることもなく、巣立っていったのだ。「カワラヒワ」の巣立ちは、私たちに「引け際」のあり方を教えてくれている。
 「よかった」と呟いた時、胸に熱いものが込み上げてきて、涙が流れた。

 その後、我が家の周りで、「カワラヒワ」の「チュイ~ン、チュイ~ン」というさえずりが聞こえるたびに、家の庭のカエデの木で育った「子供たち」かも知れないと思うのである。
 そして、秋遅く、ある日「カワラヒワ」の一団が、玄関前のコスモスに飛び降りて来て、茎頂に着いた種を食べ始めたのを見た。この写真は、この「ブログ」でも紹介した。
その光景を見て、ますます、「きっと私の庭で育った子供たち」と「両親」だろうと思ったものだ。
 私の庭が「小さな命を育み」、その「元気な小さな命」と出会えたことが2009年の中で最高の喜びであったと思っている。私は、野鳥の中で「カラ」の仲間が大好きだ。そして、「カワラヒワ」は幼年時代から「カラ類」の次に好きな鳥である。だが、今年だけは「一番好きな鳥」は、この「カワラヒワ」になってしまった。

 2009年もこの「ブログ」にアクセス戴きまして有り難うございます。明日から当面は2月21日までは書き続けるつもりです。それで丸3年、一日も欠かさないで書き続けることになるからです。そこで、一応「区切り」をつけたいと思っています。
 それは、この「ブログ」を纏めたいと考えているからです。「纏め」が終わり、出版の予定が立った時点で再開するつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。
 今年、最後の「ブログ」、とうとう4000字(原稿用紙10枚)を越えてしまった。
「NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった」は年明けに続けることにします。
 
 それでは皆さん、いいお年をお迎え下さい。         三浦章男

野鳥たちは謙虚、無い物ねだりはしない… / この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その2)

2009-12-30 05:18:05 | Weblog
 (今日の写真は、今朝の記事とは直接は、あまり関係がない。実は、明日の記事に深く関わりがあるのだ。山歩きをして、林道だろうが、登山道だろうが、はたまた、道なき「踏み跡」だろうが、よく「野鳥の巣」を見かけることがある。
 「よく」とはいっても、季節はほぼ限定される。この写真からも、その「季節」は推量出来るだろう。この「巣」の周囲に気をつけて貰えば直ぐに分かるはずだ。緑は「根曲り竹」の葉しかない。落葉がすすみ、かなり「秋」が進んで、「冬」に近い時季となる。
 ところで、私には、この「巣」が何という野鳥のものかはまったく分からない。「名前」が分かるともっと愛しい感情が湧くに違いないのだ。
 これは、石切沢から毒蛇沢に続く古い林道脇で、今年の11月8日に「撮った」ものである。明日書く「嬉しかったこと」(3)は、この「野鳥の巣」に深く関わることだ。明日の写真も「野鳥の巣」だ。それと比べて貰いたいので、この写真を掲載したのである。)

◇◇ 野鳥たちは謙虚である。無い物ねだりはしない ◇◇

 …初夏から野鳥たちは「巣造り」を始める。その「巣」を造るところは、たとえ、それが「道」の直ぐ傍でも、私たちには見えない。この「巣」は道から50cmほどのところの、しかも、地上2mに満たない高さにあった。ちょうど、私の目線の高さなのだ。
 だが、木々が「葉」をつけている時季には、よほど「気をつけて歩いても」見えないし、見つけることは不可能に近い。そのような「ところ」に巣造りをするのである。
 巣が出来るとやがて、卵を産み、抱卵。そのうちに雛が孵(かえ)る。子育てが始まる。雛は餌をねだって「啼く」。しかし、どこで啼いているのかは、見当はつくものの「見えない」のだ。
 野鳥たちは、木々の葉や幹、枝につく「虫」を食べる。その野鳥の「巣」と「安全」を木々の葉が、夏緑が守ってくれているのである。
 前置きが長くなったが、注目して欲しいのは、この「巣」に使われている「材料」である。主材は「枯れ草」、しかも、イネ科のそれだ。枯れ葉もある。枯れた小枝も見える。すべて、この「巣のある周辺」から「調達」してきたもので、出来ているのだ。すべてが「自然、天然の素材」から成り立っている。これが、「自然の中で共存していく」ということだろう。「自然にあるものを使う。それ以上は求めない。無い物ねだりはしない。」ということである。何という謙虚さだろう。
 「エネルギー」を得るために、この地球上の自然にないものをどんどんと排出しても平気な顔をしている、どこかの「動物」とは違うのである。 

◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その2)◇◇

 それは、「弥生跡地」に関することだ。一つは「跡地の植生」が順調に「自然回復」しているということである。これは、これまで、この「ブログ」でも紹介したし、「陸奥新報」と「東奥日報」も大きく取り上げてくれたので、ここでは紹介しない。
 二つは、弘前市の対応である。特に、このことについて書き進める。

 11月26日、中央公民館岩木館大ホールで、「弥生跡地」問題を弘前市と共同研究を総括した弘前大学人文学部山下祐介准教授による研究成果(報告書)の説明と、その内容について市民との意見交換会が開かれた。私にも「跡地の自然」と「その利活用」についての報告要請があったので、報告した。

 報告書は…全5章から成り立っているが、「第3章」の殆どが本会の活動に関わることであり、「第4章」にも、本会の植生調査等と提言した利活用に関わることが掲載されている。
「第3章」には…一連の事業反対運動に係わった「岩木山を考える会」へのインタビューおよびその際に入手した資料をもとに、この運動が何を目指していたのか、さらには、当地域にどのような利活用を考えているのか、社会学の視角から分析しと整理が掲載されている。
 その中で、言う…。
 「岩木山を考える会」の活動は主に、岩木山の自然を観察する自然観察会、年に一度のペースで開催されるシンポジウム、岩木山に生育・生息する動植物の調査研究などがあげられ、ほかにも様々な活動を行っている。
 弥生スキー場等開発事業にかかるアセスが行われているが、会では、このアセスは十分に行われていないと考え、生物だけでなく地盤などもきちんと調査することが必要だと主張していた。
 弥生スキー場建設計画が中止となり、弘前市は跡地に大型児童館を建設する計画を提出した。それに対し、会では「ふるさとの森」として跡地の再生を要求している。そのなかには「自然教育園」が構想としてあった。会が考える自然教育園は箱物施設は極度に抑えること、お金をかけないこと、そして森の再生・回復を重視したものであり、市とは異なる立場ということだった。跡地をどうするか、それは「岩木山を考える」かたちにしたかったという。
 「岩木山を考える会」の自然保護に対する考えは、「自然の修復についてはまだよくわかっていない状態である。岩木山の多様性をどのようにして守るかを、いろいろと協議していくこと」であるようだ。
 また、今回のリゾート跡地利活用の前提条件調査について、「岩木山を考える会」では…、
・市民の声をできるだけ多く聞くこと
・拙速は避けること(生態系はそこに住む生物の付き合いで出来るものであるから時間がかかるのは当然)
・市民との話し合いの中から市民と共に大学も行政も学習する必要があること
・生態系を守りながら市民が利用し、活用するにはどうすればよいかを探る必要があること…を提起している。
 また、跡地利用に関する懇談会などで意見を述べることができるなら、それは望ましいことと考えている。そして、現状だけで判断せずに、しっかりとした現状分析を行ったうえで、将来を見据えた計画が作られるとよい、としている。

 「岩木山を考える会」が弥生リゾート・スキー場建設に反対していた理由は大きく分けて2点あったと考えられる。
 一つは環境保全・自然保護の論点であり、岩木山の景観、および周辺の豊かな自然をスキー場という人工的な空間に置き換えることへの反対論である。
 もう一つは市の財政を、この時期、こうした事業に投資することへの疑念であった。
 「岩木山を考える会」では早くから跡地を「自然教育園」として活用することを提案している。会の反対活動は、市が提案する「自然体験型拠点施設」や「大型児童館」の性格や、またそこに投資される公金の額とその計画がもたらす効果に対する疑念から、この事業に反対したのだと解釈される。
 さらに、「自然教育園」としての跡地の利活用に対して、同会では市民参加の形で協力したいとしており、メンバーには多くの自然・生物関係の専門家も含まれるので、今後とも跡地が「自然学習の場」として使われるようになるならば、学習活動を支援する重要な人的・社会的資源になると考えられる。…
 確認されたことは次の項目である。
(1)広く市民の意見を聴いて、今後の方向を定めていく
(2)自然に近い姿を念頭に置きながら検討を進める
(3)大型箱物施設を中心とした計画とはしない
(4)防災や利用上の安全面も考慮し整備の方向性を定めていく
(5)懇談会などの運営にあたっては、大学等、外部のノウハウ・手法を活用することを検討する
 運営にあたっては、外部の視点・手法を取り入れて、手法の透明性も確保することとしたい。

 以上のように、これまでの本会の主張と活動がほぼ取り入れられた形の報告書になっている。これは嬉しいことである。
 だが、このような「報告書の完成と市政の方向転換」を支えたのは「弥生ネット」に集結している市民団体の働きと多くの市民の力であったことは疑いのないことである。
…残念なことがあった。「弥生跡地問題」は本会活動の出発点であり原点である。一応、中間的な決着を確認出来るこの説明会には、もっと多くの会員が参加してもよかったのではないか。参加者は僅か3名であった。これは、「この1年で、一番寂しかったこと」である。

27日は「追子森」まで行った… / この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その1)

2009-12-29 05:03:19 | Weblog
 (今日の写真は、27日に撮った「追子森」山頂の大岩である。春から秋にかけて、この岩の頂部には「イヌワシ」の餌の残骸である「ウサギ」の骨などがあったりする。
 それよりも、この「ブログ」をめくって、26日の写真を見て欲しいのである。山頂のこの大岩は雪に覆われてまったく見えないだろう。見えないどころか屹立感や凹凸もない、平坦な狭いピークである。一部岩のように見えている部分はコメツガの頂部だ。
 …ところがどうだ。今日の写真では、岩がその3分の2ほどを出している。去年も雪が少なかった。そして、今季は、それにも増して「雪」が少ない。ブナ林帯の「チシマザサ(根曲り竹)」も、雪上に3分の1は出ている。ブナ林内の「チシマザサ」は丈が低い。それから推して考えると、積雪は1m程度かそれ以下ではないだろうか。
 私は30数年、年末年始登山を続けてきた。だが、これほど雪の少ない「年末」を経験したことはない。
 何だか、とても恐ろしい。一体地球はどうなってしまうのだろう。)

◇◇ 27日は「追子森」まで相棒と2人で行った…(2) ◇◇ 
(承前)

 昨日は…「この『棘状をした結晶』は…本当に不思議だ。この不思議を解き明かしたい気持ちに、今、駆られている」と書いたが、その不思議の一部が少しだけ解けた。「ハリブキ」の棘、または針のような棘に見える結晶体である霧氷。これは、余り寒くない(?)氷点下という気温で、空気中の「過冷却水滴や水蒸気」が、樹木やその他の地上の形物に衝突して、それが「凍結」することで出来るものである。「衝突」というエネルギーがさまざまな形を造り出し、それを低温がアレンジして、白色から無色透明の氷層を形成するのである。簡単に言うと「着氷現象」である。
 また、気温が-5℃以下になると、「粒状」構造となる。その場合は丸くぼってりとした花のような「霧氷」となる。また、風が吹く時は、風に向かって羽状に成長する。これが「海老の尻尾」である。「追子森」山頂の大岩には、小さいが、この「海老の尻尾」が出来ていた。

 その日の天気は曇りであった。見通しは余りよくないが、何回も来ている尾根であるし、次第にブナの樹高が低くなって来て、それに、「コメツガ」が疎らに出てきたので、山頂は近いと判断した。
 そのうちに、進もうとしている上部に、まるで壁のように「コメツガ」が現れた。これを抜けると山頂だということは分かるのだが、何しろ雪が少ない。
 これだと、「スキー」で抜けることは出来ない。私たちはその「コメツガ」帯を避けて、北側の「ダケカンバ」帯に入った。その結果、「追子森山頂」を北から南に大きく巻くような急な登りになってしまい、これには難儀し、直下の「白沢爆裂火口」の垂直な壁に滑落するのではないかと「冷や汗」もので、ようやく「山頂」に出たのである。

 登りの時にはなかった「スノーモービル」の走行跡が、最後のカラマツ植林地下部のブナ林にまで延びていた。またぞろ、彼らが現れているのだ。少雪の今季、低木樹林は彼らのキャタピラにますます蹂躙されるのだ。 

◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その1)◇◇

 今年も「嬉しくなかったこと」や「許せない」と思うことが多かった。だが、そのようなことにばかり、拘っていても埒があかないだろうから、嬉しかったことについて今日から31日まで書こうと思う。
 「嬉しいこと」はそれでも結構あった。一番嬉しかったとか二番目だったとかという「順位」はないが、31日に書こうとしていることが、敢えて挙げると「一番」ということになるのかも知れない。だから、今日と明日書くことには、順位はない。

 嬉しかったこと、それは、昨日まで書いていた「NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」の開講と継続である。だが、これは未だ終わっていないし、年明けにも「登場」する予定なので、この「嬉しかったこと」シリーズからは除外する。
 嬉しかったこと、それは「『相棒』とずいぶんと岩木山に登ったということ」である。
1月17~18日に一泊・雪洞泊まりで山頂に行った。今年はこれから始まった。
 2月8~9日にはテント泊で、ついで、28日、3月27日に烏帽子岳経由で赤倉1396mピーク、4月13日は扇ノ金目山経由で、赤倉御殿へ、5月1日に毒蛇沢左岸、5日に滝ノ沢右岸、10日に石切沢、毒蛇沢の左岸尾根から鳥海山頂へ、25日には毒蛇沢から滝ノ沢への「踏み跡」探し、6月にも「踏み跡」探し、7月にも滝ノ沢から平沢への「踏み跡」探し、他に、大沢の雪渓登りで「アイゼン」の訓練、この時は、ここ数年で一番の時間短縮で、山頂に行くことが出来た。
 8月に入ってからも「踏み跡」探しは続いた。毒蛇沢から湯ノ沢へ抜ける「踏み跡」探しは特に疲れた。自動車を毒蛇沢の林道に置いたものだから、岳からそこまで歩く羽目になった。環状線から「自動車」まで辿りつくことが容易でなかったのだ。
 9月と10月は「踏み跡」探しはお休みだ。「草木」に覆われて「踏み跡」発見が難し過ぎる状態になっているからである。2人で「踏み跡」を辿りながら語ったことは「何とかして、これらの踏み跡を『人一人が通れるようなもの』にして、後生に伝えていきたい」ということだった。2人で来年は、「踏み跡を歩く会」でも計画しようかという話しまで出たのである。「踏み跡」探しはなかったが、9月は赤倉登山道から登り、弥生に降りている。
 この間に、普通では見えない「岩木山中の自然破壊現場」を色々と見た。その最も大きなものは「堰堤敷設」という破壊である。
 11月には「石切沢」に堰堤を敷設するためという「工事用の道路」敷設の現場を見に行った。そして、今年最後の「相棒」との登山は12月27日の「追子森」登山だったのだ。詳しく記録を調べると一緒に出かけた合計日数は分かるのだが、生憎、手許にそれが見つからないのだ。恐らく、10数日であることは間違いないだろう。
 相棒はこの「石切沢堰堤敷設工事用の道路」」に関することの「開示請求」をした。次いで、私も同じ件で「開示請求」をした。現在はメールでも「開示請求」が出来るのだ。このことについては後々、報告することにしよう。
 相棒は、私宛のメールの中で次のように言っている。
…私は、「岩木山堰堤問題」をテーマに、時期を見て観察会を実施したいと思います。その目的は「岩木山の自然保護を考える」です。…
 相棒は私よりも10歳若いのである。その若くて行動力のある人が「岩木山の自然保護を考える」を主題にしてさまざまなことをやろうとしている。いや、現に行動している。
 このような人の「出現」は何を意味するのか。足腰が日を待たずに衰えている私には「ホイホイ」と岩木山の中を飛び回ることは既に出来ない。岩木山を、そして、その自然を護るには、暇なく「岩木山に入ること」が大事なのだ。
 本会の会員が、すべて「岩木山を眺めてよしという人たち」になったならば、それは、もはや、本会の存続意義が消滅することに等しい。
 「相棒」の出現は、暗に私に「ご苦労さんでした」を言っているに違いない。これは嬉しいことである。そろそろ、退(ひ)け時だろう。(明日に続く)

これは何だ?昨日は「追子森」まで行った… / NHK文化センター講座、1年が終わった(8)

2009-12-28 05:16:52 | Weblog
 (これは何だ?と訊かれても「即座に答えることの出来る」人はいないかも知れない。 とにかく、よく見ると枝だから「棘(とげ)」が出ているのだ。枝であるから「植物であり、樹木」である。となれば、「棘」のある植物なのだろうか。う~ん、困ってしまう。これは、ブナ林帯のかなり上部で見かけたものだ。
 岩木山で「棘」のある植物を探すと「ウコギ科」に行き当たる。「ウコギ科」でよく目につくのは何といってもハリブキ属の「ハリブキ(針蕗)」だろう。だが、ハリブキはブナ林では殆ど見られない。亜高山帯から高山帯にかけて生えているものだ。
 しかも、こんなに背丈が大きくはならない。いくら積雪が少ないといっても、この時季に「雪面上」に顔を出していることはない。
 それでは、背丈のある「ウコギ科」として…、タラノキ属の「タラノキ(タランボ)」だろうか。いやそうではない。タラノキはこれほど枝先に鋭い棘をつけることはないし、もっと疎らである。
 「う~ん」やはり分からない。これは一体何なのだろう。先ずこの枝だから説明しよう。この場所は尾根の左岸にある谷の縁である。ブナが少し途切れて日射しの射し込むところだ。だからそこにはブナ以外の低木(陽樹)が生えている。これは低木「カエデ」の枝だ。「カエデ」類には「棘」はない。だから、これは植物とはまったく別物の「棘」であり、「気象」によって引き起こされ、造られた「棘」なのである。

 それにしても不思議だ。これは、霧氷である。小さな水滴の集まりである雲や霧の、その水滴が「枝」に付着して、それが「氷結」したものを「霧氷」と呼ぶ。
 だが、その「氷結」した「結晶」の形というものは「千差万別」なのだ。それは水滴の大きさや量、それに気温の違いによって生じるのである。
 この「棘」状をした「結晶」はどのような条件の下で「造られた」ものなのか…自然の営為は本当に不思議だ。この不思議を解き明かしたい気持ちに、今、駆られているのである。)

◇◇ 昨日は「追子森」まで行った…(1) ◇◇ 

 昨日のブログに「…追子森には今年の2月にも行った。相棒の他にMさんが一緒だった。今日もまた同じメンバーである」と書いたが、これは、私の思い込みであった。Mさんは行かなかったのである。というよりは「行くことが不可能」だったのである。
 その「思い込み」事情について少し触れたい。Mさんはスキーを「今季」になって始めたそうだ。スキー板は「山スキー」で、「靴」は「登山用にもゲレンデ用」にもなる「兼用靴」だという。
 この装備で前日も含めて既に2回もトレーニングに出かけているというのだ。私はてっきり「私たちと同行するため」だろうと考えたのである。
 だが、それは私の早とちり、思い込みに過ぎなかった。Mさんが一緒に行かないということに気づいたのは、「岩木橋」を渡ってから直ぐのことだった。Mさんを迎えるためには「岩木橋」を渡ったら直ぐに右折しなければいけないのに「直進」だった。そこで、初めて「今日、Mさんは行かないの」と訊いたのだ。その理由は「未だスキー術、山登りに能わず」であったのだ。
 そのような訳で、相棒と私2人の「追子森」登山となったのだ。(明日に続く)

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(8) ◇◇
(承前)
 …室内での座講は1時間30分であるが、野外に出るとそうはいかない。この日は10時過ぎにNHK文化センターを出発し、堰堤建設道路終点着が11時 10分、そこから、徒歩で湯ノ沢の左岸沿いに進んで、観察と散策開始を開始したのだった。そして、15時近くにNHK文化センターに帰って来て解散している。実質5時間の講座となっている。
 だから、時間的な面では「座講」よりはうんと「負担」を感ずるはずなのに、まったくそれがないのだ。
 それだけではない。「座講」時には、天変地異以外では「危険」はない。安心の中でことが進む。しかし、野外に出ると、それこそ何が起きるか分からない。しかも「山」は自助努力と自己責任の世界である。登山の「パーティ」的に考えると私はリーダーになるだろう。リーダーの責任は「メンバー」を危険なめに遭わせないことだ。これが、野外に出た時には「重圧」となる。
 しかし、私はそのことを自覚し、重々承知しているが、あまり「負担」に感じないのだ。それは、受講者たちと行動をともにすることが、何よりも楽しいからである。つまり、受講者たちは、毎回私に「楽しさを与えてくれている」のである。

 藪を掻き分けて、道なき道を進んで谷に降りる。すると、突然そこには「爆裂火口の姿をとどめる荒涼とした風景」が開ける。受講者は驚きとも感動ともつかない声を上げた。
 沢の左岸は急峻で、黒い岩肌を見せる垂直の絶壁である。まさに「爆裂火口」の外輪なのである。そして、その外輪から崩落し、堆積した岩が累々と沢の上部に積み重ねられ、中央部は抉られたように広くカール状をなしているのであった。
 沢に降りる直ぐ手前には、雪崩とともに崩落してきた樹木と岩と土の大きな塊があり、その傍には「シラタマノキ」が白い実をつけていた。
 実よりも「花」を見て貰いたかったのが、私の本音なのだが、「花の咲く」6月にはどうしても、日程がとれなかったのだ。残念だどうしょうもないのだ。
 もともと、硫黄の採掘がなされていた場所だから花の数は少ない。遅咲きの「ウラジロヨウラクツツジ」は、その一部を未だ花として残していたが、「アカモノ(イワハゼ)」は、すでに真っ赤な果実になっていた。
 咲いている花は僅かに背丈の低い「ノリウツギ」だけだった。「ノリウツギ」は非常に生命力があり、適応力もあるから「場所」を選ばず、生えることが出来る植物である。
 どこからともなく、「硫黄」の臭いがする。「硫化水素ガス」が出ているのである。黒い肌を見せる岩は少ない。殆どが白く変色している。硫黄とこのガスの所為である。
 黒い岩の表面には、緑と橙色が鏤められるように張り付いている。これは「苔」である。
 そこから、眼を転じて上部の斜面を見ると、点々と直線状に何かが「穿たれて」いる。それは、崩落止めか何かに使われたであろう、「錆びた」古い鉄杭であり、それが列をなしているものであった。

今日は「追子森」まで行くつもりだ… / NHK文化センター講座、1年が終わった(7)

2009-12-27 04:57:42 | Weblog
 (今日の写真は、「追子森」山頂だ。標高は1139mだ。山頂方向には右に巻くように下降しながら、白沢源頭の吊り尾根状の稜線を行く。
 この稜線はしばしば、北からの風雪によって大きな雪庇になっている。雪庇の「踏み抜き」と「雪崩」を恐れる余りに、赤沢よりから白沢に「寄り過ぎる」と、絶壁状の「爆裂火口」外輪の頂部から真っ逆さまに落ちることになる。
 それを心配して「赤沢」側に入り過ぎると、今度は雪庇崩落と道連れだ。一気に赤沢まで流されて、気がつくと真上に「スカイラインターミナル」が見えたなんてことになる。いずれにしても、積雪期に、この吊り尾根を登ることは「嫌」である。
 だが、文明の利器、「機動力」に物言わせる連中は、この吊り尾根の真下、つまり「大きな雪庇」が突き出ている斜面を山頂方向にトラバースして行くのだ。
 文明の利器に「跨った」彼らは、鈍いエンジン音を「唸らせ」、いつ崩落するかも知れない「雪庇の真下」を堂々と行くのである。
 見上げた「度胸と勇気」を讃えようといきたいところだが、左右に気を配り、出来るだけ震動を与えないようにして、雪庇を愛しい人のように大事にしながら「吊り尾根」を進む小心者の私からすると、余りにも「畏れ多くて」、讃える気分にはなれないのである。
 彼らとは「スノーモービル」に跨って、自然公園法で、進入が「規制」されている「保護区」にやって来る者たちのことだ。

 ここは、夏場も難儀なところだ。赤沢に落ち込んでいくことはないが、白沢の爆裂火口には簡単に落ちてしまうところでもある。幅30cm足らずの極端に狭い「稜線」は生えている樹木によってようやく支えられている。
 しかし、その樹木は根を生やす場所が狭いものだから多くはない。木と木と間が広く、支えがないと足が抜けて、宙を舞う。片足だったら何とかなるが、両足が宙に舞ったら、そのままの格好で、「漫画」ならば「ザック」をパラシュートにして降りていく。
 だが、「漫画」ではない。現実は飛び降り自殺に等しいのだ。ああ、嫌な場所だ。)

◇◇ 今日は「追子森」まで行くつもりだ… ◇◇

 …追子森には今年の2月にも行った。相棒の他にMさんが一緒だった。今日もまた同じメンバーである。
 一昨年も、その前の年も11月にこの尾根を登っている。だが、去年は、11月に行けずじまいだった。そして、その年の内には結局行けないで終わったのだ。
昨年の11月24日に「相棒」は1人で…『トレーニングもかねて、去年「かんじき」で難儀した追子森のルートの勉強。スキーを用いて、追子森のピークに向かう尾根に取り付く手前まで(絶壁のところまで)、様子見に行く。途中の道筋が今ひとつピンと来ていないので、一度行って確認する』などを山行目的として、行っているのだ。
 私が一緒に行けなかった理由は…「帯状疱疹」で、数日間は激しい運動は避けなければいけないと医者に言われていたからである。「帯状疱疹(帯状ヘルペス)」を発症したのは、「岩木山・花の山旅」出版記念の集いが、成功裏に終わった翌日、15日の朝である。その日は5時に起床した。
 そしたら、突然「右目」に激しい痛みが走り、涙が出て止まらないのだ。痛くて目を開けていることが出来ない。無理に開けて見たが「霞んで」よく見えない。もとより「左目」の視力は弱いのだ。
 ブログを書き始めたが「右目」は針で突き刺されるような痛みが続き、目を開けても殆ど見えない状態だ。右目をつぶり、視力の低い「左目」だけでの「原稿書き」が続いた。発症した原因は「ストレス」であると眼科医も言った。
実は、「帯状疱疹」のウイルスは、身体の中の神経節に隠れていて、ストレスや疲れや風邪、加齢などで免疫力や抵抗力が落ちた時に、再度増殖(再活性化)を始め、神経を伝わって皮膚や各器官に現れるのだそうだ。
 そのような「アクシデント」のために、昨年は「年内の追子森登山」は出来なかったのだ。今年はようやく「年の瀬」になっての登山となった。
 スキー登山だ。未だ積雪は締まっていないし、雪面に出ている雑木などにスキーが「とられ」て、難儀しないことを願っている。「年の瀬」登山はその意味で、スキーにしろ「ワカン」にしろ、楽ではないのである。

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(7) ◇◇
(承前)

 …その次は「野外観察」は7月30日だった。「受講者全員参加」を原則にしているので、6月は受講者の都合で「全員」がそろう日がとれなかったから「中止」にしたのである。
 6月に実施出来ていれば、この「場所」で野外観察を行おうとしていたのだ。場所は一般的には殆ど知られていない「古い爆裂火口」の岩木山湯ノ沢の中腹部一帯だった。
「湯ノ沢」は「硫黄採掘の名残」を、そして、「岩木山では他に見られない特異な景観」を見せてくれる場所である。湯ノ沢一帯での「野外観察」に目的は4つある。
 1つは「今は採掘していない藩政時代から硫黄が掘られていた場所を訪ねて、その名残を発見・観察する」だ。
 2つは「そこから見える鋭峰岩木山と臭気とガス噴出という特異な景観を味わう」である。
 3つは「草木の殆ど生えていない場所に植物や動物が生息している痕跡を探す」である。
 4つは「崩落を繰り返している自然地形と地質について体感する」であった。

 弘前から自動車で移動し、さらに林道も車で移動し、工事用道路の終点に駐車した。堰堤の工事が終わったので、かなり悪路になっていたが、自動車は十分進入が可能だった。そこから、現場までは、事前調査の時に補修したし、登山道の刈り払いもしておいた。歩く距離は1Km程度だが、気になることは「観察地」での落石だった。(明日に続く)

この姿を毎日眺めている人たちにとっては… / この山容から思い出される山行などは…

2009-12-26 04:32:28 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山の北東面である。「貝沢」付近から見たものである。
…切れ込んだ深い谷、頂上に向けて複雑に、しかも起伏をなして駆け上がっている山稜、ここに見られるのは「なだらかで秀麗」な山容ではない。まさに「荒々しい」のである。 荒ぶる益荒男であろうか。「山全体」に内から湧き起こるエネルギーが満ちあふれている。これが「山」というものだろう。
 五所川原市が、近年力を入れている「立ち佞武多」は大きさを誇る。それに合わせて年々、私にはほぼ理解出来ないような不思議な「ネーミング」をしているが、今日の写真のようなイメージで「立ち佞武多」を造り、そのイメージで命名をしたらどうだろう。
 五所川原市から見える「岩木山」はもっと急峻で屹立しているからだ。それは、まるで「遠望のマッターホルン」なのだ。)

◇◇ この姿を毎日眺めている人たちにとっては… ◇◇ 

 旧弘前市からは絶対に眺めることの出来ない「この姿」を、毎日眺めている人たちにとって「岩木山」とは一体どのようなものなのだろうか。旧弘前市からの眺めを公園の本丸からのものと、とりあえずしよう。「とりあえず」ということは「公園入場有料化」が施行されて、「自由に本丸に立ち入ることが出来なくなった」ことからである。
 ここ数年、私は「本丸」から「岩木山」を眺めたことはない。「本丸から眺められる岩木山」は私にとっては、「過去の話し」で、遠い記憶の彼方にひっそりと存在している。
 その「記憶」を辿って思い返してみると、それは「たおやかに裾野を広げた優しい山」であり、「手弱女ぶりを十分に発揮している」ものであり、それでいて、「おおらかな母性に満ちあふれた」山容なのである。「弟、厨子王をいたわる安寿の装い」であり、総じて、それは「癒しの山」であるだろう。

 だが、それに引き替え、今日の写真の岩木山は何なのだろう。「癒し」は確かにある。だがそれは、突き放しながら「鼓舞」するという面を見せるのだ。そこには「叱咤激励」という響きがあるのだ。
 落ち込んだり、体の具合が悪い時とか、または悲しい時には「こうしてはいられない」という「奮い立つ勇気」を与えてくれるものだろう。「勇気」とは「愛の形を変えたもの」である。
 「勇気」を与えてくれるものは「大きく深い、しかも普遍的な愛の持ち主」である。この山容全体がまた「愛」に包まれたものなのだ。この姿もまた「癒しの山」なのである。それにしても、この「癒し方」の違いは何なのだろう。
 それにしても、何という荒々しさであり、益荒男ぶりであろうか。この山容を眺めて暮らしてきた人々は、ここに「鬼」が棲むとしてきた。そして、その鬼が「なぐさみごと」として「相撲」をとる「土俵」まで与えて「鬼の土俵」という地名を岩木山に定着させたのである。
 「殺人鬼」という言葉がある。「鬼のような人」という言い方もある。この場合、「鬼」は「魔物、恐ろしいもの」や「異界のもの」、そして「人でなし」を意味している。だが、この「岩木山の風姿」を見てきた人が「鬼」としたものは「人に恵みを与える」ものであった。この「鬼」は「用水堰」まで造ってくれる優しい鬼だったのだ。水を恵んでくれる「水神」の化身だったのだ。「水」は方円の器に従い、千変万化する。激流となれば、それは「鬼」だろう。

◇◇ この山容から思い出される山行などは… ◇◇

 私は、この写真に見えるすべての山稜と谷を、もちろん残雪期を含めてだが登っている。左から順に説明しよう。一番左の稜線は弥生登山道尾根である。その尾根に沿った沢が大黒沢だ。大黒沢左岸稜線は巌鬼山の北東にある1457mピークから駆け下りる細い稜線で、その右岸には大黒沢の広い「カール」状地形が広がっており、残雪期には多くのスキーヤーで賑わう場所だ。
 その右下に広がっている広くて急峻な斜面は「水無沢」の源頭である。ここは古い爆裂火口で、冬季、残雪期を含めて雪崩が多い。
 その左岸の「だだっ広い」尾根には古い登山道がある。弥生登山道が出来る前からのものだ。これはこの尾根の左岸枝尾根(六人沢や小杉沢を形成している尾根)からの道と合流して、赤倉登山道の「大開」付近で、赤倉登山道と合流していたのである。
 今でも、雪消え間もない頃には「踏み跡」を辿ることは出来るが「廃道」である。その尾根の左岸谷は「八ツ森沢」だ。ほぼ写真の中央に見える部分だ。そして、その左岸尾根が赤倉登山道尾根である。
 赤倉の沢も詰めたことがある。沢そのものの登りは大したことはないが、最後の部分、つまり源頭の「キレット」に辿り着くことは出来なかった。
 夏場は落石、冬は雪崩、残雪期は雪崩と落石で登ることは「不可能」であった。だが、残雪期の早朝、雪面が凍結した状態の中で、赤倉尾根の左岸の端を辿って「赤倉御殿」に出たことはあった。
 赤倉沢源頭付近の左岸は、ほぼ「垂直の壁」である。写真で示すと、中央より少し右に見える赤倉登山道尾根の対岸ということになる。ここは、夏冬問わず四六時中、「土石」の崩落があり、とても、登られるものではない。だが、尾根には「修験者の道」がある。今もある。
 だが、「あるだけ」であって、登りも降りるのも「至難」である。「藪こぎ」に耐える体力と「簡単な登攀技術」がなければ無理だろう。それに、ものすごく迷いやすい。登下行が簡単であるならば、それは「修行」にならない。何たって「山伏」たちの修験の道だからである。ここを辿るには「鉈目」や「鋸目」の意味に習熟しておく必要がある。それが、分かると「迷うこと」も少なくなるのであろう。

 残雪期や冬季には、赤倉沢の左岸尾根を辿って、1396mピークを目指すことが出来る。
 この「垂直な壁」を持つ稜線までは比較的坦々とした登りなのだが、この「」稜線の下部辺りから斜度が急激にきつくなる。その上、吹きさらしなので「雪面」が硬く、「ワカン」の爪が利かない。
 その日、私は「ピッケルとワカン」といういでたちだった。いくらか登り始めて、自分の「装備」の不備を思い知らされたのだ。雪面が硬いということは「風が強く雪が溜まらない」ということである。氷化しているのだ。
 「ワカン」は使えず、吹き付ける強風にあおれられ、身を支えるのは、ピッケルだけという状態が続いた。「風」に気圧(けお)されてひっくり返ると「垂直の壁」を真っ逆さまに落ちることになる。「アイゼン」を持ってこなかった身を嘆いてもおさまらない。下山するのは「後ろ向き」になることだからもっと危険だ。それも出来ない。逃げることが出来ないのだ。
 登り続けるしかない。それから、200mほどの距離を、1時間以上かけて、まさに這うようにして登るしかなかったのであったのだ。…

・NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(7)は明日掲載します。

起伏に富んだ山並みゆえの不幸か / NHK文化センター講座、1年が終わった(6)

2009-12-25 05:11:21 | Weblog
(今日の写真は、岩木山の北西面である。この写真は北西側から南東を見ていることになる。左には起伏に富んだ山並みが続いている。実は右もそうなのだが、このポイントからは見えないのだ。
 もし、見えたなら「西法寺森」や「追子森」、それに「白沢源頭の爆裂外輪」などが「そこにある」のである。起伏に富むということはそれなりに深い沢も存在するということである。)

◇◇ 起伏に富んだ山並みゆえの不幸か ◇◇ 

 見えている左の山並みについて書いてみよう。写真やや中央にどっしりと聳えているのが「中央火口丘」である山頂だ。標高1200mより上は高木の限界となるから、低木の樹林帯となる。だから、降雪が続き、積雪が多くなると「真っ白」になってしまう。その「白い」部分が「山の高さ」を教えてくれる。この写真を撮った場所は「ブナ」など高木が生えているのだから、せいぜい標高は5、600mというところだ。
 左に見える白い山並みの中心にあるのが「烏帽子岳」である。その後ろに連なっているのが「赤倉沢源頭キレット」に続く山稜だ。「烏帽子岳」のずっと下部に、冬季アジア大会で「モーグルスキー」の競技が開かれ、その後、寂れに寂れて、うち捨てられているかのような「拡張ゲレンデ」がある。
 多くの強い反対を圧して、木村守男元知事と手を組んで「拡張」した「コクド(西武)」は、その後間もなく「自然の復元」などに手をつけることもなく、まったく「無責任」に撤退した。このゲレンデはまさに、その象徴であるがごとくに「うち捨てられて」いる風情が漂っている。
 今年の3月に「相棒」とこのゲレンデから、「烏帽子岳」を通り、「赤倉沢源頭キレット」の手前の1396mピークまで行ったが、登りの時は「皆無」、下りには僅かに2、3名のスキーヤーに会っただけだった。 
 地元の人の視認によると、休日でも、このゲレンデを滑っている人は、終日「パラパラ」でしかなく、スキーヤーの影が、まったく見えない日もある、という。

 とにかく山あり、長くてアップダウンの続く山稜あり、深い谷ありで、「流れるような」尾根姿を見せる東面とは段違いである自然地形ゆえに、10本近い尾根に「スキーゲレンデ」が造られてしまったのだ。大きくて深い谷は「大鳴沢」だ。
写真には見えないが、それが「鰺ヶ沢スキー場」である。
 この写真は古いものだ。12年ほど前のものである。2月に「クマゲラ」の調査に入り、西岩木山林道の上部の尾根を横切り、沢を渡り二子沼周辺まで行った時のものである。
 当然、「鰺ヶ沢スキー場」のゲレンデも横切らなければいけなかった。スキーヤーで「ゲレンデ」を横切るものは先ずいないだろう。「スキー」はあくまでも「ゲレンデ」を上方から下方に向かって「縦」に移動するものだ。
 ゴンドラ乗り場から近い「ゲレンデ」では、スキーヤーに出会ったが、そこから次第に離れて二子沼方向(西方向)に近づくにつれて、出会うスキーヤーの数はめっきり少なくなる。まさに、「横歩き王道」である。スキーヤーからはもちろん「怪訝そう」な顔をされた。
 スキー人口に比べて「ゲレンデの本数」が多すぎるのだ。その時既に、本会は「鰺ヶ沢スキー場」の行く末を「スキー場としては経営は成り立たなくなる」と予見していたものだ。だから、「拡張スキー場」反対の理由には、このことを加えていたのである。
 岩木山の北面、その起伏に富んだ自然地形が「多くの尾根にバリカン跡を残す」という不幸を招いたのであろう。だが、これは「岩木山の所為」では絶対にないのである。

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(6) ◇◇
(承前)

 受講者の中には「短歌」をたしなむ人がいる。実は同じ文化センターの「短歌」の講座を受講していたのだそうだが、同じ受講者から「『花』に興味があるのなら『岩木山の花をたずねて』という講座ある。講師の先生が書いた本(拙著:岩木山・花の山旅)の中には花に関する俳句や短歌が多く出てくるから、そっちを受講したら」と勧められて、やってきた人だ。
 私にそのことを伝えた時、付け加えて「手紙に短歌の一首ぐらいは書き添えたいので」とも言ったのである。
 他の受講者は、そのことをしっかりと聞いていた。しかし、「短歌」に興味があるような雰囲気はなかった。
 だが、その後、その人が自作の短歌を「披露」する度に興味を示し始めて、次第に「共通題」である「同じ花」を見た時の、「自分の感動や感想」を発表するようになった。最近では「評価」の域に入っているのだ。
 これは、「五七五七七」という定型こそ保っていないが、「自由律の短歌」を作っていることでもあろう。私の講座は、その時、「短歌教室や俳句教室」へと変貌する。

 私は、この短歌を愛する人に先を越されないように、みんなが特別興味を示した「ホタルカズラ」を主題に、次の二首を作って、講座の合間に披露した。

・緑葉の幹撃つ陽光その下にほたるかずらの青き群れ花 (三浦 奨)
 「時は5月の下旬だ。若葉から夏緑の世界に変わろうとしている時季である。日ごとに陽光はその眩しさに暑さを加えていく。しかも、射し込む斜度は直角に近づいていく。まさに、夏緑の色濃い葉をつけた幹を鋭く突き刺すように照らすのだ。その反射光や輻射熱を浴びた根元のホタルカズラたち、彼女たちは一層身を引き締めてライトブルーに輝くのである。中にはホタルのような赤い模様をつけながらだ」という解釈でどうだろう。

・コバルトに交じりて光る紅一点ほたるかずらの若花けなげ (三浦 奨)
 「早く咲き出したものから順次、コバルトブルーの花弁を纏っていく彼女たち、その中に未だ、花の基部に紅一点をつけているものもある。これは、若い花の印でもある。だが、よく見ると、早くみんなと同じ花になろうとして、精一杯に命のすべてをかけて、燃えているようだ。何という健気さではないか。」というふうに読み取って貰えばいいだろう。(明日に続く)

ここに見える岩木山は、漢字の「山」そのものだ / NHK文化センター講座、1年が終わった(5)

2009-12-24 05:25:44 | Weblog
(今日の写真は、昨日の「西麓の松代地区から望んだ岩木山」のちょうど反対側、つまり、岩木山の東麓をさらに東の弘前から見た岩木山だ。弘前からだと「西」に見える山体である。まともな円錐形の山ならば、これほどの違いはないだろう。まったく「別の山」を思わせるほどの「変容」であるのだ。)

◇◇ ここに見える岩木山は、漢字の「山」そのものだ ◇◇ 

 「秀麗で均整のとれた岩木山」と言われている姿は、岩木山の東面である。この「東面」の左右に長い「裾野」を含めた山体を望むことの出来る場所は、弘前市と藤崎町の境界線をなしている「平川」の架かっている橋か、あるいは少し北に移動して、つまり、「平川」沿いに下って南に逸れて岩木川に出て、そこにある橋の袂であろう。私はよく歩いてそこまで行って見ている。
 そのような場所から見える岩木山の形は、まさに「山」という漢字の「象形」を見せてくれる。子供たちに「山」という漢字を理解して貰うには、この「山容」を示すのがいいのではないだろうか。
 私が生まれて初めて「岩木山の山体」を見たのは5歳か6歳の時である。時は真冬の2月だった。満州から引き揚げてきて、弘前駅から歩いて、旧岩木町のKに向かった。今思えば、かなりの距離である。着の身着のまま、靴はぼろぼろ、足は冷たかった。その時に見たのが、この写真のような「端正で神々しい」岩木山だったのである。
 その頃、既に私は「山」という漢字を知っていた。そして、思った。「ああ、これが山なんだ。山という漢字そのものだ」と…。

 三つの頂は左から「薬師仏」、「阿弥陀仏」、「観音仏」を祀っている。まさに、三位一体の姿をくっきりと見せているではないか。撮影した場所は高杉地区である。
 だから、弘前城の本丸から望まれるよりはかなり、北に移動したところから撮ったことになるが、それでも、南の裾は長く、その斜度は緩やかで、太宰治ではないが「十二単(じゅうにひとえ)」の長い裾という形容を地でいく。
 北の裾野は、岩木山生成期の初めの頃の旧岩木山、海底火山だが、それが噴火した時に形成した巨大な外輪の一部に遮られて、この写真では見えない。
 下層に「田んぼ」を敷いた雪原の右に見えるのがその「外輪山」である。藩政時代から集落は、この外輪山の東側に発達してきた。この「外輪山」の麓に沿って村々が形成されていったのである。
 だが、現在は、この「外輪山」を越えた岩木山の山麓にも集落があり、その廻りは大半がリンゴ園になっているのだ。

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(5) ◇◇
(承前)
 
 …体験を共有し合うということで、「月1回」の野外観察が始まった。
 5月28日には、百沢の岩木山神社前から岳方向に毒蛇沢林道の入り口までの範囲で、道の左右に注目して観察を実施した。
 この場所は大体「歩く人」はいない。100%の人は自動車で通り過ぎてしまう。実にもったいない話しなのだ。僅か1kmほどの道路沿いには「春から秋の花」まで多く見られるのである。
 その日はいいお天気で、初夏の装いであった。そして、次の花々に出会った。
アケビ、ウワミズザクラ、ズミ、ホタルカズラ、シャク、ミツバウツギ、ミズキ、コンンロンンソウ、キリ、オオバキスミレ、ヤマオダマキ、クサノオウ、タニウツギ、タチツボスミレ、チゴユリ、ムラサキケマン、ツボスミレ、スイカズラ、ホオノキ、ツルウメモドキ、ホウチャクソウ、キジムシロなどであった。
 その中でも、みんなが特に興味を持ったのが「ホタルカズラ」であった。教室での座学では「カラープリント」とプロジェクターを使って、野外で出会えるであろう花々の学習はしていた。
 私は「ホタルカズラ」の花弁の色彩を「ルリシジミ」という蝶の色に喩えて、その「ルリシジミ」も画像で説明をしていた。また、「ホタルカズラ」という花名は花の中央の白い星形から蛍の光に喩えたことによるもので、「草の間に点々と咲いている様子がホタルの光…」に似ているということだろうということも話していた。
 しかし、どう見ても、私には「ホタルの光」には見えないのだ。蛍は「火垂る」ということであり、「尻に火を垂れ下げている」という意味だ。
 「花の中心が赤い」と一人が言う。確かにそうだ。よく見ると、花の付け根(基部)には「火のような赤み」が僅かにある。花の中心が燃える火のように赤いのだ。
もう一人が言う。「この赤い部分がホタルの頭と腹部の間にある赤い部分を指しているのではないだろうか」と…。
 そう言われると、そうなのだ。ゲンジボタルにしろヘイケボタルにしろ「胸部の上辺」は赤みがかっている。
 一人が言う。それをみんなが聞いて、目の前の対象に注目して、その事実を確認して、由来や「…だとされていること」を検証していく。野外観察ならではの活動であり行為なのである。
 この花の基部にある「赤み(臙脂色)」は時間が経つに従って消えていく。咲き誇っている盛時には「白」に変わってしまう。また、花弁そのものもピンク色からライトブルーに変化する。花々は一斉に咲き出さないから、プロセスの中で同じ「ホタルカズラ」なのにいろいろな色彩の花弁のものを見ることが出来る。受講者は「現場」でその「過程」を具に観察が出来るのであった。
 「ホタルカズラ」の青色は「周りの緑や枯葉や地表」に比べると「喩えようもない」というくらい印象的な「青」で、それが「ホタルカズラの魅力」であろう。
 木陰の草地の中で、青い花に木漏れ日が当たっているのを見ると「なるほど蛍だ」という思いを持たないわけではない。
 ここでいう「青い」とは「碧紫色」とか「瑠璃色」とか言われるものだろう。別名を「瑠璃草」ともいう。「ムラサキ」、「ハナイバナ」、「ワスレナグサ」、「キュウリグサ」などの仲間だ。(明日に続く)

会報「風力発電」の記事について / NHK文化センター講座、1年が終わった(4)

2009-12-23 05:36:04 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山の西麓の松代地区から望んだ岩木山だ。どうして、こうも姿、形が変わってしまうのか不思議なくらいだ。特に、弘前から岩木山の東面を見ている人にとっては、これが同じ「山」なのかと疑ってしまうはずだ。この写真を見せて、「昔から弘前に住んでいる人」に、「この山は何という山名か」と訊いても、正しく答えられる人は少ない。
 岩木山は一応「円錐形」の山だと言われてはいる。ところがどうして、北側の山麓にに向かって、このように山が連なっているのである。岩木山の北側は「連山」になっていて、敢えて、「円錐形」に拘ると、それは「北に向かって歪で長い円錐」ということになる。
 このような山型や地形が、登ってみると分かるのだが、登山道を「長く」しているのだ。しかも、複雑にしている。
 「ゴルフ場」と「スキー場」が出来てからは、登山口は標高「560m」まで押し上げられたので「登山道」も短くなってしまったが、その昔は現在の「長平」集落が「登山口」であり、そこには「古びた木の鳥居」があったものだ。私たちはその「鳥居」の手前で、岩木山に合掌してから「登り始めた」ものである。
 だから、「登山道」は長かった。「登山道」が長いだけではなかった。この登山道入り口に辿り着くまでの「アクセス」も長いものだった。言い換えると、「ものすごく不便」だったのである。
 もちろん、当時でも自動車のある人にとっては、「自動車」を使うと、「登山口」までは、容易に来ることが出来た。だが、「自動車持ち」は金持ちだ。今は違うらしいが、大体において「登山者」は貧乏であった。「自分の体と足」だけで楽しめる、しかも「山」があると出来るスポーツ故に、お金がかからない。そういう訳で、「金のない者」にとっては最適なスポーツだったのである。
 だが、長平登山道まで来ることは、実に不便で時間のかかるものだった。その度に「自動車があればなあ…」という思いに駆られたものである。
 弘前から五能線で鰺ヶ沢までは汽車だ。当時は蒸気機関車に牽引された「汽車」だった。鰺ヶ沢から長平までは、ちょうどよく「バス」があればそれに乗って長平まで来る。ある時には、鳴沢駅で下車をして長平まで歩いたことがあった。このようなことをしていては「その日のうちに登って百沢に下山する」ことなど出来ない。数回ビバークした経験がある。
 とにかく長くて不便な「登山道」であった。自動車を持たない私にとっては、現在でも、この登山道は長くて不便なものに変わりはない。
 だが、私は、この登山道が好きだ。ゴルフ場とスキー場がなければ、その不便を圧してでもこの登山道に来ているはずである。
 当時の登山道は現在の「ゴルフ場」の中を通っていた。もちろん、スキー場の中も通っていたのである。)

◇◇ 会報「風力発電」の記事について ◇◇

 21日に発送した「会報50号」は市内宛のものは、昨日配達されたようだ。
今回は12ページなので、その上、「写真展」の出展票を同封してあるので、重くなり、「市内特別配達」でも、1通当たり75円となった。
 発行のつど、会員の他に「協力者」、これは本会の活動に賛同して支援協力してくれている個人や団体、それに「マスコミ関係者」に送っている。
 昨日の午後、東奥日報の記者からアクセスがあった。既に、このブログにも書いたが、10月20日に、「風力発電」を計画している会社から「(仮称)岩木風力発電計画の概要に関するお知らせ」を受けた時に、同席していた記者である。
 本会では、この「お知らせ」を受けて、11月4日に幹事会を開き、このことを会としてどのように捉えればいいのかを議題にした。
 幹事会の結果、基本的には「風力発電計画」には、この時点では、賛成出来ないとなった。その主な理由は「歴史的、信仰的、かつ原風景的な景観を壊す」ものであり、「場所が『鳥の渡り』ルートになっているので『バードストライク』の懸念がある」ということであった。
 なお、この2つの理由に加えて、「風力発電」というものについての理解が、私たちを含めた県民に、未だないのではないか。「風力発電」に関するすべてについての「いい点」、「悪い点」を県民(当該地域の住民も含む)が理解するまで、時間をかけるべきではないか、その意味で、建設するには「時期尚早」であろうという結論に達した。
 「風力発電」会社からのお知らせ、それを受けての幹事会の結論を、全会員に報告することは、「会組織」としては当然のことだろう。だから、今回の会報で明らかにしたのである。むしろ、会の一部のものだけが、知っていて公表しないということの方が「開かれた」組織にとっておかしいことだ。
 「会報にこの件が掲載されています」と東奥日報の記者が「風力発電」計画の会社に問い合わせたら、「困った」というようなニュアンスがあったという。
  「風力発電」計画の会社にとっては「他社等との競合」や「地域住民」との関係から、計画そのものを「しばらく伏せて」置きたかったらしい。
 だが、現実問題として「観測設備」が完成して稼働している状況の中で、「隠しおおせる」ものではあるまい。
 本会が問題とするところと、それは次元が違う問題だ。そちらにはそちらの事情、こちらにはこちらの事情があり、そもそもお互いに「異質」なのだから、「同じ思考や立場」で進んでいくことは不可能なことであろう。
 その意味では、この件はこれだけでは終わらない。会報の中で予告したように「風力発電」のことについては次号でも、いわゆる「風力発電」のデメリットを中心に掲載する。会員に、真に「風力発電」について学習して貰いたいからである。

 因みに、本日付「東奥日報」には、このことが記事となって掲載されている。青森県と弘前市には「景観条例」との関わりから、すでにこの会社から「計画」のあることが通知されている。
 だが、これまで「この件」については一言も公表がなかった。仮に建設が認められたとして、それらが建設される地区、地域の住民に「一言もそのことがない」ということは何故なのだろう。
 自治体にとっては、そこの住民よりも「企業」の方が大事だということなのだろうか。 

*参考*「Web東奥」から
2009年12月23日(水) 東奥日報

■ 岩木山に風力発電計画/風車25基

 風力発電事業を展開する新エネルギー技術研究所(本社東京)が、弘前市と鯵ケ沢鯵ヶ沢,鰺ヶ沢,鰺ケ沢町にまたがる岩木山北側に大規模な風力発電施設の建設を検討していることが22日、関係者への取材で分かった。出力2千キロワットの風車を25基建設し、早ければ2013年度に稼働を始める計画で、これまで同市の市民団体「岩木山を考える会」などに説明したほか、現地に機器を設置し風力調査を進めている。
(新聞紙上の本文はもっと長く、本会の意向などの記載もある)

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(4) ◇◇
(承前)
 …体験を話し合うということで、お互いの体験が深まるし、「知識」に肉付けがなされ、より具体化してくるものだ。その「体験」が共有出来るならば、同じ事実としての体験をするならば、「体験」は一層膨らむ。事物と事物との突き合わせが出来るし、現場での感動が交換されながら、自分の感動や知識が多くなり、広くなっていく。
 その意味から、5月以降に「月1回」の割合で「野外観察」に出かけるようにしたのだ。(明日に続く)

お知らせ2つ / NHK文化センター講座、1年が終わった(3)

2009-12-22 05:31:13 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山南麓の湯段地区から望んだ岩木山だ。朝からこれほどに晴れ上がる日は珍しい。
 恐らく今朝のようなお天気、降雪だが、だとまったく見えない。登るにしても、大げさに言うと「手探り状態」ということになる。
 この写真を撮った「時間」が朝方であるということはどうして分かるのだろう。それは、雪に覆われた部分がうっすらと赤みを帯びて輝いているからである。
 さらに、時間帯も分かる。夜明けが始まり、太陽が東の地上に顔を出し始める頃は、もっと「赤み」が強い。しかも、東の空(この写真だと右側)も真っ赤っかだ。そして、岩木山全体を染めていく。だが、それが時間とともに、どんどんとその色合いを失って、白い部分は本来の「白」に戻っていく。ちょうどその頃の写真だ。朝8時頃である。
このようなお天気の日の登山は楽しい。登る前は本当に楽しい。だが、登り始めると地獄のアルバイトが待ち受けている。スキーにしろ「わかん」にしろ、積雪の中を登るということは、「夏山登山」の比ではない。)

◇◇ お知らせ2つ ◇◇

 本会が1月と2月に主催する「行事」を2つ紹介しよう。是非、足を運んでもらいたい。
 写真展「私の岩木山」は17回目になる。この写真展の特徴は、「私の岩木山」という名称に込められている。簡単に言うと「私のお気に入りの岩木山」風景を撮った写真展ということだ。
 「私は岩木山のここが一番好きだ」「この風景が最も美しい」などという思いを込めて写した写真を展示して、それぞれの岩木山に対する思いを「共有」使用というのが写真展の目的であり、意義なのだ。だから、「写真のよさ」「撮影技術」などは問題にしない。
 もちろん「プロ級」の写真出展はあって一向に構わない。だが、自分の写真を誇ろうという考えの方は出展しても、余り意味はないだろう。
 「私の岩木山」を見て欲しい。「あなたの岩木山」も見たい、という人の出展を望んでいる。

     ※第17回写真展「私の岩木山」(1月15日~17日)※

場 所:NHK弘前ギャラリー
(毎日、10時から17時まで。ただし、最終日は16時で終了)

 出展希望者は郵送された会報に同封されている「出展票」に所定のことを記入し、写真と一緒に「14日の15時から16時の間」に「NHK弘前ギャラリー」に搬入してほしい。私がその場にいる。
 設営は16時から始める。搬入手段のない方は事務局に事前に連絡のこと。

     ※「フォーラム・多様な生態系・森の伐採と道路」の開催 ※

開催日時: 2月20日(土) 14時から17時まで

会  場: 津軽保険生協2階ホール(コープあおもり和徳店向かい2F)
                             無料駐車場あり

主  題: 森の多様な生態系と遊歩道のあり方を伐採から考える

 ブナ林等における伐採が『生物の多様性』という観点ではどのような問題を含んでいるのかについて、本会会長の阿部東が講演する。
 また、『歩道等の存在が伐採をさせている』という事実から「道路のあり方」についてを事務局長三浦章男が問題提起する。
 「ぶな巨木ふれあいの径」におけるブナの伐採を問題視して、これまで、深く関わってきた会員竹浪純が「コーデネーター」をしながら、実情報告する。

 何故、この主題で「今」開催するのか…

「生物多様性」とは、『地球上に多様な生物が存在し、それぞれがかかわりながらバランスを保っている状態』のことだ。つまり、「地球上には 3000万種の生物が存在する。『生物多様性』は、あらゆる生物と、それらによって成り立つ生態系、さらに遺伝子レベルでも多様で豊かな状態』を指すのである。
 ところが、「生物の多様性」について内閣府が世論調査をしたところ、6割(61.5%)の人が「聞いたこともない」と答えたそうだ。愛知県が昨年7月実施した意識調査では、86%が「あまり知らない」「ほとんど知らない」と答えたそうである。
 ある意味では「自然保護」とはこの「生物多様性」を保護し維持することであるとも言える。その意味では「生物多様性」という言葉になじみが薄く、関心がないということは大きな問題である。「ぶな巨木ふれあいの径」における「ブナ伐採」も、この「生物多様性」という視点で林野庁は捉えていないし、マスコミもまたこの「視点」での論調は見られない。
 本会としては社会に早くこの『生物多様性』の意味と意義を訴えていくことが急務だと考えたのである。
 今回の「フォーラムデスカッション」はその意味からも、参加者数云々よりも、「開催することに意義がある」と考えられる。

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(3) ◇◇

 「1時間30分の講座の準備に10時間以上を要する」と前に書いた。これは本当に辛いことだ。だが、私はこの「講座」が担当出来ていることに喜びを感じている。というよりも毎回が楽しくてしょうがないのだ。
 先ず、受講者がいい。受講者は途中で2名が辞めて1名が加わった。辞めた2名は3ヶ月間だけの受講であった。その1人は「冬季限定」ということで、春になると農作業が忙しくて続けられなくなるといって辞めていったのだ。ひょっとすると、1月からまた復活するかも分からない。私は密かに期待している。何と、その人は、私の30数年前の教え子なのである。
 3ヶ月前から「新人」が参加した。最初から参加している人とは、明らかに「植物」についての「知識」や「体験」が乏しい。しかし、仲良くやっている。
 それはこうだ。最初からの人たちは、別に知ったかぶりはしない。取り立てて教えるわけでもない。だが、訊かれると、それなりに答えている。
 私は「体験」から学ぶことを大事にしている。自分で、実際に体験出来るとそれに越したことはないのだが、それがない場合は、他の人の「体験談」から学ぶのである。
 私の話しが続いている中で、プロジェクター画像が映じられている中で、受講者の「体験談」が飛び出す。他のものはそれに耳を傾ける。それが、未体験者の知識と感動を育んでいくのである。(明日に続く)

とうとう、この寒空で咲いたバラ一輪…(3)/ NHK文化センター講座、1年が終わった(3)

2009-12-21 05:23:22 | Weblog
 (今日の写真は、また庭の「バラ」だ。このブログを訪れる人も喜んで欲しい。とうとう、この寒空の下で「バラ一輪」が「咲いた」のだ。
 その日の朝の気温は氷点下3℃、さっきまで雪かきをしていたが、今朝の外気温は氷点下3.7℃であった。もはや完全に「いつもの年の真冬」である。咲いたことを確認して、この写真を撮った時も、気温は氷点下1℃前後であった。雪は氷点下0℃で解ける。 この「完璧な真冬」に咲いたのだ。「咲く」ということは、「花弁を開く」という物理的で運動的なことだけを指すものではない。物理的に「開かせる」ことも可能だろう。 それは歪な開き方にはなるが、人が指先や器具を使って「無理にこじあけるようにして開かせる」ことも出来るだろう。
 だが、このバラは、外形的には、その物理的な「開き方」をしているが、その実は「生物的な、生命的な」成長の証なのである。
 詳しくは分からないし、氷点下という低温でも「生命活動」をする生物もいるとは聞いている。「動物的な細胞」は常識的に「氷点下」になると「活動」を停止するはずである。
 しかし、このバラは、この寒い気象条件の下で、「細胞分裂」を繰り返しながら、成長していたのだ。

 …このバラを蕾と見るだろうか。花弁が開いて、咲いたバラと見るだろうか。
 私には「咲いた」バラに見えるのだ。これは、昨日の写真を撮った日の午後に写したものだ。日射しがあって、少し気温も和らいだ。
 重い「雪」の帽子を載せて「茎」を湾曲させていたバラは、その帽子を徐々に「脱い」で、重力から解き放たれて斜め上方に、起き上がってきた。そして、雪の帽子から完全に脱皮した時には、花びらは以前にも増して、その空間を広げていた。
 下方の花弁はより下(外)側に開き、垂れ下がり気味になっているし、内側の花弁も、その重なりに、空間的な亀裂を空に向けて大きくしている。
 夏から秋遅くまで咲いていた時に見せた「風姿」そのままのバラである。とうとう、このバラは花を咲かせたのである。
 11月の中旬は緑色をした、ただ硬い紡錘形の「塊」に過ぎなかった。その蕾にはバラによくつくアブラムシさえ見ることが出来なかった。我が庭にたった1本だけ「残された蕾をつけたバラの木」だ。

 そこで、思いつくままに「拙い句」を一気に作ってみた。すべて「写生」の句である。
 俳句は写真を越えるか。「越える、越えない」と言うことは、あくまでも写す人と詠む人の魂にある。
 この「バラ」の内面に滾(たぎ)る命の蠢きを、そして、成長しようとする命の豊かさを見る魂を持たない人には、写してもそれはただの「像」であり、俳句を吟じて、それは単なる「五、七、五」という語や句を並べたものでしかないだろう。
偉そうなことを言ったが、ところで、私の句は「魂」で捉えているだろうか。
 いずれにしても、「写生」は大事である。写生とは「観察」である。観察から得られる色々な事象は「知識」によって繋ぎあわせられて、一つの論理としての「判断」が生まれる。それを書き留めると文章になる。
 その文章を辿っていくと、別なことへの「連想」が生まれる。もしここに「その人が持つ感性」が作用すると「連想」は、「空想」へと広がり、その空想が目に前の「事象」に作用して「事象の内面」や「別世界」を照らし出すことになるのである。

・今朝の雪寒空のもとバラ一枝
・ほの暗し雪かき軋むバラ一つ
・花開く命のあかし雪のバラ
・氷点下命止むなし赤きバラ
・日射し浴び茎頂のバラ一揺れす
・雪載せる蕾と見るや丸いバラ
・雪被る花弁開くやバラ一点
・茎頂に命を見せる冬のバラ
・和らいだ気温の中やバラ一輪
・和らいだ気温に起きる雪帽バラ
・ファインダー雪帽子被るバラ花弁
・雪帽子脱ぎたしバラの放物線
・重力を解き放ちたりバラの花
・降る雪に弧を描きたるバラの茎
・日に向かい直状になりたしバラ一枝
・花びらの端たる雪が風に揺れ
・外側の花弁は開き蕾咲く
・垂れ下がり隙間を開く花弁かな
・内側の花弁重なり上を向く
・花びらの隙間を広く空に向け
・夏秋と見せた風姿や冬のバラ
・秋遅く紡錘の蕾今や花
・花咲けど媒虫の影なし冬のバラ
・空しきや冬バラ虫なく雪載せる
・冬のバラ命猛がつながらず

今、庭はただひっそりと静かである。積雪は30cmに近い。この雪の下では「多くの命」が静かに眠るように息づいている。だが、死んでいるのではない。
 微かに漏れ出てくる庭のすべての草や樹木の生気が、この「バラの花一輪」に凝縮されているのだろう。この「健気な美しさ」に私はそれを見るのである。
 だが、惜しむべくは、この花は種子を残すことは出来ないのだ。他の花がないのだし、花粉を運ぶ蜂も蝶もいないのである。哀れなるかな受粉が出来ない。
 ところで、バラ科の植物には「自家受粉出来る」ものとそうでないものがある。我が庭のバラはどうなのだろう。)

「 NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(3)」は、明日掲載する。

 これから、「会報50号」の発送作業(封筒の宛名書きは終わった)をしなければいけない。B4版3枚裏表、つまり、B5版12ページを重ねて、それに「写真展用」のコメント用紙1枚を加えて3つ折りして封筒に入れる。糊付けをして「乾く」のを待って、350部をザックに容れて背負って郵便局に持って行く。
 果たして午前中に終わるかどうか。午前中に終われると、市内と県内は明日配達ということになろう。それ以外は24日の配達になってしまうのだ。かなり、焦っている。

間もなく開きそうだったのに…(2)/ NHK弘前文化センター講座17日で1年が終わった(2)

2009-12-20 05:37:19 | Weblog
 (今日の写真は、また庭の「バラ」だ。降り続く雪を被って、茎頂の「花」はどんどんと重くなる。それに折れそうになりながらも撓(しな)って耐えている。ちょうどこの写真を撮った時は「雪」も降り止み、少しだけだが明るい日射しも見えた。気温も上がってくるかも知れない。
 そうなると、この「花」を圧して覆ている雪も、落ちるか解けるかだろう。早くそうなって欲しい。私は昨日も書いたが「手はかけない」と決めている。自然は自然に任せるべきなのだ。
 昨日までは、私は「蕾」と表現していた。だが、そう表現することが当たらないのではないかと、これを見て考え出したのだ。
 これは既に「開いて」いる。花弁は重なりながらも、確実に開いている。氷点下という大気、雪の冷たさなどの中で、本当に少しずつではあるが「花弁」を開いているのだ。生き抜く力がこの細い茎をとおして、根から幹から「押し上がって」きて、茎頂の蕾を花に昇華させたのだ。
 この狭くて小さな庭の中における森羅万象、雪に降り込められてすべてが「静寂」の中で、春を待つ。あの夏の輝きはもはやない。だが、それは見えないだけで、実は「多くの生命」が躍動しているのである。
 もし聴くことが出来るのならば、このバラだって、幹をとおして湧き登ってくる花の命とそのエネルギーがごうごうと音を立てているに違いないのだ。明日に続く)

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(2) ◇◇

 毎回、3種類以上の花が登場する。今年は40回開講したから120種以上の花との出会いが受講者は持ったことになる。岩木山に生えている花は450種を越えているから、このペースでいくと、あと2年ほどは続けることが可能だろう。
 NHK弘前文化センターも、そう考えているようで、すでに案内をしている。だから、来年も続くのである。だが、前提は「受講者」がいるかどうかである。
 NHK弘前文化センターが開講したくても、また、私にその意志があったとしても、「受講者」がいなければ「講座」自体が成立しないのだから、当然と言えば当然のことだ。
 現在受講している人は、「来年」も続けると言っているから、「続く」ことは確実で、1月6日が2010年の最初の講座になる。

  ところで、「1時間30分の講座」の準備に、毎回10時間以上もかかるのである。
資料集め、原稿書いて、テキストをプリントする。それが終わってから「パワーポイント」の編集だ。馴れていない所為もあるのだろうが、これには欠講時間がかかるし、非常に気を使う。
 もう少し、「映像を映し出す」時のような軽快さが「ファイル」作りの段階にあったら何と助かることだろうか。
 実際にこれら画像や映像を見ている人には、この「苦労」は分からないはずだ。以前は「資料用のプリント(原稿)」を直接「スライド」にして使っていたから「」が出来た時には「映像や画像ファイル」は必然的に出来上がっていたのである。だから、余り苦にならなかったのが、「パワーポイント」も使うようになってからは「数倍」以上の時間がかかるようになってしまったのだ。
 「パワーポイント」は本当に「パワー」と時間がかかるものだということが「ポイント」である。「パワーポイント」はあれば使うし、受講者も「パワーポイント」に馴れてしまっている。今更、以前のやり方に戻るわけにはいかない。悔しいけど使い続けるしかあるまい。
 毎週、この講座のために「10時間以上」を費やしている。正味1時間30分をこなすのに10時間以上の助走というのはきつい話しだ。…はっきり言って苦痛だ。
 それでも、私にとっては、この「講座」が楽しいのである…。 

 今日は、10時30分から、もう1つのNHK講座、「津軽富士・岩木山」がある。12月から2月までが「屋内」での講座だが、それ以外は「野外講座」となって、岩木山に出かけている。
 今日は3月から11月までに実施した「野外講座(観察)」のまとめを、カラー資料2ページとオーバーヒッドプロジェクターによる映像約200枚を使ってするつもりである。(明日に続く)

間もなく開きそうだったのに…/ NHK弘前文化センター講座17日で1年が終わった

2009-12-19 05:33:09 | Weblog
 (今日の写真は、昨日の午後に撮った庭のバラである。一月ほど前に庭にあるバラの手入れをした。
 手入れと書いたが、来春のために「バラ」の生態に則した「枝切り」をしたわけではない。そのようなことは、何一つ知らない。だから、手当たり次第に「切った」だけである。
 その時、ある1本の枝に「小さな」蕾のついているものを見つけた。その「蕾」は縦が2cmほど、横が1cmほどという「小ささ」であった。
 11月の中旬である。もう冬だ。残しておいても「咲くこと」はないだろうと思った。
 恐らく、蕾は開かないで「寒さにまけて、この緑色をしたままの蕾」で死んでしまうだろう。そうであれば、ここで切ってしまうことが、この「蕾」にとっては「幸せ」なことではないだろうかと思ったのである。
 だが、私は物好きにも、その「蕾」のついた「枝」を切らないで残したのだ。そして、その後も、この「バラ」にとっては余計なことをしたのではないか、お節介にもほどがある、などなど後悔する日々が続いたのだ。
 そして、それから、間もなくの11月20日頃に「雪」が降った。恐れが的中した。このバラの傍にある「枇杷」はその大きな葉に少しだけ雪を戴いただけだった。
 小さな「バラの蕾」は雪を戴くほどの面積も体積もないので、雪を載せてはいなかった。ほっと一安心である。それから一日もしないで、積雪も消えてしまった。

 私は毎朝起きて自室に来ると西の窓から岩木山を見る。だが、その日からもう一つ、「見るもの」が加わった。南の窓からこの「バラの蕾」を見ることだ。
 11月20日前後の降雪以降、暖かく「冬らしくない」日が続いた。天気のよい朝は放射冷却で氷点下まで気温は下がった。それでも、氷点下1~2℃であり、すぐに陽光がこの小さな庭を「暖めて」くれた。
 そのような日以外はすべて、10℃前後の気温が続いたし、「暖かい日」には10数度まで上昇することもあった。
 毎朝、眺めながら、私は「蕾のある変化」に気づいていた。その一つは仄かに「赤みがさして」きたことであり、もう一つは形に丸みが出てきていることであった。加えて言うと、少しずつではあるが、日ごとに大きくなっているのである。
 「ああ、このバラは咲こうとしている、この蕾は開こうとしている」と思った時、私は棒か何かで頭をガツンと叩かれたような気がした。そして、全身に、頭のてっぺんから足先にかけて、強い電流が流れたのだ。
 私は余計なことはしなかった。このバラは必死になって生きている。よかった。頑張れよ。それにしても、植物は強い。それは生命への賛歌であり、感動であった。
 日増しに大きくなる「蕾」。それは2、3日前には「ピンポン球」ほどの大きさになっていた。11月の中旬から12月の中旬までかかって、こんなに大きくなったのだ。
 しかも、蕾の萼の直ぐ上にある「花弁」は下に向いて半ば反り返っている。これは咲きかかっている証拠である。明日か明後日にはすべての花弁が開くかも知れない。そんな期待でわくわくする朝が続いた。
 だが、一昨日の晩から、お天気は「正常な気圧配置」で「冬型」になっていた。長いこと人が馴染んできた四季、その、規則通りの冬が、暖冬でない、まともな冬がやって来たのである。そして、昨日は終日、降雪が続いた。
 この写真を撮った時も、雪が降り続いていた。気温も最高気温でも氷点下1℃だった。昨日の朝の気温は、私の庭では氷点下3.7℃だったのだ。「暖冬」でないまともな「冬の到来」である。
 私の心のどこかでは「まともな冬の到来」を喜んでいた。そして、ほっとした。だが、目の前の「雪を戴いたバラの蕾」を見るにつけて、反省と後悔ばかりが胸を突くのだった。
 だが、それらの心情とは別なところで、この雪が降り続いている中で、雪を戴くバラの美しさに強く惹かれていた。
 また、天から落ちてくる雪がこんなに美しいものであるということにも気づいたのである。今日の写真は「写真としてはいいもの」だと思っている。

 今朝、起きてまた見た。雪を戴いた、まさに「開きそうな」バラは、重そうに花の直下の茎を、放物線を描いて曲げていた。まさに、折れそうである。
 だが、私は、その重い「雪下し」をしてやるつもりはない。これ以上のお節介は止めようと思うからだ。
 私は十分にお節介を焼いた。「切ってしまって」来春に備えさせるべきなのに、「一輪」だけを残したのだ。このようになることは明らかに予見出来たのに、「咲くだろうか、咲かせてみたい」という自分勝手な思いに負けてしまったのである。何という人間の思い上がりであろう。
 このような「思い上がり」してはいけない、自然は自然に任せようと自分にも戒めてきたはずなのに…である。情けなくて、涙が出そうだ。

 だが、観察することは止めないつもりだ。やがて、この雪も消えるだろう。重い雪をかなぐり捨てた時、この「バラの花」はどうなるのか。気温が上がったら「どうなるのか」など、決して手を触れずに「眺める」つもりでいる。)

◇◇ NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった ◇◇

 始まったのは今年の1月15日の木曜日からである。毎週木曜日の13時30分から15時までである。これが、今週17日で1年目が終了した。開講回数は40回である。資料としてのカラープリントの枚数はA4版で、一講座ごと3~4枚として、150ページほどだろうか。受講者のIさんは「ファイル」が4冊になったと言っていた。

 講座最初の資料プリント(カラー印刷)には次のように書かれてある。 
 …1月という「花の咲いていない時季」からの開講ということで、直裁的に「花を訪ねる」のでは違和感を免れないだろう。
 そこで、この1月と2月は、冬の岩木山の山麓や山腹の林内に見られる「木の実」や「草の実」を訪ねる形で、この「木の実」や「草の実」はどのような花を咲かせるのだろうという視点で、講座内容を構築したい。または枯れた花がそのまま残っているものも寒空の中では映えるものだ。そのようなことにも触れながら進めたい。
 たとえば、前者は「ヤドリギ」や「ツルウメモドキ」、それに「ヒメアオキ」「ヒメモチ」や「マイヅルソウ」などであり、後者は「ノリウツギ」や「ヌルデ」などである。
 また、「ハンノキ」や「カンバ類」の雄花は冬のうちから花を垂れ下げている。そのようなものにも目を向けていきたい。…(明日に続く)

久し振りに、花の話しで…秋まで咲いている花 キツリフネ

2009-12-18 05:37:19 | Weblog
 (今日の写真は、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の一年草「黄釣船(キツリフネ)」だ。
 北半球に広く分布し、日本では北海道から九州に見られる。ツリフネソウより山地の湿地や林縁に多く自生し、低地から山地の谷あいの林内や林縁など、湿った半日陰地に生育する。
 高さは50cmほどで、茎は直立して枝を分け、全体に軟弱なイメージがある。葉は互生し、葉身は楕円形で、質はやわらかい。
 夏から秋にかけて、葉腋から細い花茎を出し、黄色の花を2~3個咲かせる。
 花の数はツリフネソウより少ない。株がたくさんある割には咲いている花がまばらだ。そこには、子孫を残すための数々の工夫が凝らされているのだ。
 花はつぼみの時期は葉の上にあるが、膨らんで大きくなるにつれて下垂し、開花するころには葉の下(裏)にある。
 花は7月から9月に咲く。わずかに紅色を帯びた薄い橙色。紅色の点が全体にあり、この色は薄いものから目立つものまである。

 花の構造は実にわかりにくい。萼片は3枚で、花柄が付いている所に左右に2枚ある小さなものと、後方に長く嚢状になり、末端部が「距」になっているものが萼である。
 花弁は上側に反り返っているものが1枚、下側に2枚づつが合着したものが2枚、本質的には5枚である。
 ツリフネソウは 花が天辺に咲いているが、キツリフネは葉の下に隠れるように咲いている。

 「キツリフネ」の英語名は「タッチ・ミイ・ノット」といわれるそうだ。つまり「私に触れないで」という意味だが、「果実に触れる」や果実は弾けて種子を飛ばす。「触れば爆発、ご用心」というわけである。
 この「キツリフネ」を眺めながらこのようなことを思い出すのは楽しいものである。名前の由来は単純明快だ。「黄色のツリフネソウ」という意味による。

 ある日のことであった。その日も長平口に下山しがてら、「ヤマジノホトトギス(山路の杜鵑草)」との出会いを望んだが無理だった。これは秋に、「杜鵑」の鳴く林の縁に咲く花であるが、残念ながらここ数年会うことがないのだ。
 …「杜鵑」や「山路の杜鵑草」が岩木山から影を潜めたとすれば、冥途へのガイドを誰に頼めばいいのだろう。昔から「杜鵑」が死者の霊を天国にまで案内するとされているからだ。
 「浄土に往けない魂」が山麓でうろうろしているかも知れない。岩木山は鬼門に近づいているのだろうか。
 そんな思いに駆られながら左右の籔を見る。秋、山麓の遅い午後だ。吹き抜ける風は冷たい。緑の中に暖かい紅と黄の織り布が揺れた。「ツリフネソウ」と「キツリフネ」だ。
 この二つの色彩は、阿弥陀仏がいる西方浄土(さいほうじょうど)に似つかわしいものだろう。紅紫に真の黄色、艶やかな死出の旅路の乗り物。魂が乗り込む舟はツリフネソウかも知れない。
 ゆらゆらと揺れながら、紅い方には女性の、黄色いツリフネには男性の魂が乗って「お居往来山」(注)に登って行く。天に召された魂の揺りかごだ。岩木山を鬼門にしてはいけない。…

「お居往来山(いゆきやま)」…津軽の人は岩木山を祖霊が暮らし(居て)、春になると田や水の神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)山だとしてきた。

 ところで、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の「釣舟草」と「黄釣舟」の生態は、同種同科同属とは思えないほどに違うのである。
 実質的には、芽を出して花を咲かせて、種をつけるのに「1年」の半分ほどという限られた時間の中で、両種ともに、とにかく種子を作らねば、子孫を残せない「1年草」である。
 だが、同じ「種(しゅ)」でありながら種子の作り方や方法が全く違うのがこの両種なのである。
 まずは、繁殖形式の違いである。
 キツリフネは、閉鎖花(自家受粉)を沢山つけ、資力に余裕があれば花を咲かせ優良な子孫を残そうとしている。そのため7月下旬から10月中旬と花期が長い。
 ツリフネソウは短期間に沢山の花を咲かせ(他家受粉)をするために花バチ類を集める。だから、8月中旬から9月下旬までと、花期が短くてもすむのだ。
 次は受粉の方法の違いだ。
 キツリフネは開放花(咲いている花)は、雄性先熟・雌性後熟で「自家不和合性」、つまり、自家受粉を避けているのである。
 一方、ツリフネソウの開放花は、雌雄同熟で、「自家和合性」、つまり、自家受粉を行うのである。

「ツリフネソウ」を話題にすると、どうしても、触れなければいけない「花」がある。 それは、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の一年草「ホウセンカ(鳳仙花)」である。
 これは東南アジア原産で、日本には17世紀頃に渡来したとされている。
私が子供の頃には、よく栽培され、学校教育などでも利用されていたものだ。
 学校教育では、茎の柔らかさを利用し、茎の断面の観察や、赤インクを吸い上げさせて導管の観察などに利用した。
 よく成熟した果実を軽く押さえると、果実は急激に割れて種子を弾き飛ばす。だから、種子の自動散布として教材によく利用されたし、子供たちの遊び相手でもあった。
 花は夏から秋にかけて咲き、「色」も多種多様で赤から白色まである。
  ホウセンカの花をよく見てみると、赤色の花弁が3枚(このうち左右にあるものは途中で2つに別れ、4枚の花弁のように見える)、そして、その外側に3枚のやや色の薄い花弁状のものがある。
 これは顎であり、その顎の一部は花の後ろ側に管状に突き出している。この管状のものを距(キョ)という。
 ホウセンカでは距は3本あるが、ツリフネソウでは顎の1つが大きく、距は1本しかない。雄しべは5本であり、合生して雌しべを覆っている。果実が割れて自動散布する点もツリフネソウと同様である。茎が多汁質で柔らかい点もよく似ている。
 名前の由来であるが、鳳仙花「ホウセンカ」は花を鳳凰(ほうおう)に見立てた中国名だ。

久し振りに、花の話しで…秋まで咲いている花 ツリフネソウ / 会報50号印刷へ

2009-12-17 05:18:09 | Weblog
 (今日の写真は、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の1年草「釣船草(ツリフネソウ)」だ。これは、北海道から九州に分布し、谷川沿いなどの湿ったところの陽の当たる場所に群生する。
一方、よく似ている「黄釣舟(キツリフネ)」は、山の沢すじや木陰などに咲く陰地性の植物だ。だから、台風などで大雨が降ると、増水・洪水で流され、数が激減することがあると言われている。これよりも、「 釣舟草」の方が少し花期が遅い。
 茎は高さが40~80cm。葉は柄があり互生、卵状で先端は尖る。8~9月ころ、茎の葉柄から柄を出して、美しい特徴のある花をつける。花は径は3cmくらいの紅紫色で7~8個を釣鐘のように提げる。がく片が3、下部が1で袋状になっている。
 ところで、果実が熟すとホウセンカのように、少し触れるだけで勢いよく種子を弾き飛ばす。学名の「Impatiens textori」の「Impatiens」は(我慢できない、耐えられないの意)で成熟した果実に触れると、すぐ裂けて爆ぜ飛び、勢いよく小粒の「エメラルド」のような種子をまき散らす性質からつけられた。
 この「Impatiens」という学名を戴いている「インパチエンス」という園芸植物があるのだ。学名が「Impatiens New Guinea Hybrid」で、「ニュギニア鳳仙花」と呼ばれて、5月から10月というの長い間、咲き続ける。「ニューギニアインパチエンス」と呼ばれ、ニューギニア地方が原産だという。「インパチェンス」は「インペイシェンス」とも読まれる。別名の「アフリカ鳳仙花(ほうせんか)」は「アフリカのザンジバル島原産」だ。

 これらの仲間である「ツリフネソウ」は日本の在来種でごく普通に見ることができる。だが、その存在がわが国の学者に認識されたのは幕末になってからである。
 1862年刊の飯沼慾斉の『草木図説』の草部一七巻に初出する。しかし、芸術家はさすがに目ざとく、橘保国は1755年刊の『絵本野山草』にツリフネソウを描いている。

花の名前は、花の形とつき方が帆掛け舟を吊り下げたように見えることに由来する。また、「生け花で使う花器の釣舟(舟の形をしたつり花瓶)にたとえた」ものだとする説もある。
 別名はムラサキツリフネ(紫釣船)である。他に、「金魚草」、「山鳳仙花(ヤマホウセンカ)」、「ゆびはめぐさ」などがあり、「里呼び名」といわれる。
 「ゆびはめぐさ」など各地に残る「里呼び名」が語るように、山里の子供たちは昔からこの花を遊び道具にして親しんでいたようだ。
 長野県の戸隠ではこの花をユビハメとかユビサシバナと呼ぶ。これは「距」のついた袋の部分を右手の三本の指にはめ、お琴を弾くお嬢さんを気取ってみたり、または両手の十指にはめて大きな鈎爪の妖怪に変身してみたりして遊ぶからだという。
 またごく近年まで、木曽の子供たちはこの実を集めておやつ代わりにしていたともいわれているが、本当に「食べられるかどうか」まだ、実証してはいない。う。
 アイヌの人は、これを「オキマ・キナ(小便する草)」と呼ぶそうだが、これは利尿剤にしたからであるらしい。

 短歌と俳句も探してみた。俳句は結構あるのだが「ツリフネソウ」を主題にした短歌は少ない。

・吹き上ぐる風にゆらぎてとどまらぬ草の中なる釣舟の花(木村流二郎)

「谷沿いを這い上がって来るように吹き込む風によって留まることなく揺れ続けている草々の中で、いっそう引き立って見える釣船草の花たちよ」というのが歌意だろう。
 釣船草は、微風をあびてもよく揺れるのである。

・つり舟草ひと夜を露に浮かびたる(八木荘一)

「つり舟草の花は、一晩中まるで夜露の海に浮かんでいる帆掛け船のようである。何という幻想的な船影だろう」が句意か。淡い紫色と透明な夜露という光沢が融合した妖しくも美しい情景である。

・つり舟草揺れてやすらぐ峠かな(久保田月鈴子)

「ようやく峠に辿りついた。峠を吹き抜けていく風は心地いいのだ。その風に、辺り一面に咲いているつり舟草の花がゆらゆらと揺れている。それを見ていたら何となく心安らかな気持ちになっていったのだ」と解釈することが出来そうだ。
 「つり舟草の花」には人々に、安堵感を与える風情があるようだ。それを巧みに詠み込んでいる秀句と思う。

◎◎ 会報50号印刷へ ◎◎

 昨日、会報の「印刷」原稿を印刷店に持って行った。書き上げるのに数日を要したがようやく出来た。12月の上旬には発送するつもりでいたが、とうとう「印刷用の原稿」完成が昨日になってしまった。出来上がりは19日ということだから「発送」は20日となってしまう。
 印刷店までは徒歩で往復2時間かかる。小雪の降る中、数ヶ月ぶりに「いつもの道」を歩いた。
 印刷店のご主人、Hさん曰く「会報はカラー仕立てにして、別の会社に依頼しているのだろう」と思っていたと言うのだ。どこに「貧乏な本会」にカラー印刷するほどの財力があるものだ。
 今回は12ページ立てだ。B4版裏表3枚ということで、350部×3=1.050枚を3枚重ねにし、3つ折りにして封筒に入れて糊付けをする。この作業が大変なのだ。その前に封筒の宛名印刷がある。
 日曜日(20日)はこの仕事(発送を含む)で、後は何も出来ずに終わりそうだ。郵便局には350部ザックに入れて背負って行く。帰宅したのは2時近くであった。
 会報50号の「目次}は*ここに風力発電所が?*トカゲ太郎のワンダーワールド*岩木風力発電の概要*巨木ふれあいの径伐採*弥生跡地の現況*弘前市・弘前大学共同研究*東北自然保護の集い*事務局からのお知らせ「写真展とフォーラムデスカッション」*庶務報告(活動日誌)*編集後記である。

 会の方針で会報の発行は出来るだけ控えることになった。今年度初めての発行である。発行が間遠になったが、会員の誰からも「会報が届かない」という苦言や連絡はなかった。編集子としては、そのような苦言をどこかで期待していた。それは、「読まれている」という証拠でもあるからだ。
 間遠になると記事が多くなる。今号に載せられなかったことは「岩木山環境保全協議会報告」「クマの話し」「岩木地区市民文化祭」「樹木伐採」「砂防ダムは必要か」などである。とにかく問題はある。岩木山に出かけると話題にぶつかる。記事は沢山あるのだ。年4回の発行は必要のようだ。