岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

NHK弘前支局「ギャラリーNHK」企画展「岩木山の花々」

2007-07-22 07:38:51 | Weblog
 開催まであと1週間になった。前回の「厳冬の岩木山」、3月に本会が開催した「岩木山の野鳥たち」写真展の時から、ある試みをしている。
 それは、「写真」と「文章」のコラボレーションである。この方法・スタイルは「写真展」という範疇からははずれているだろう。そのような意味での「批判」を許容しながらも、このスタイルを今回はあえて、「拡大・強化」してある。
 展示「写真」の下に、以下に示すB5版の文章を貼付してある。
「写真」だけ見る人にとっては、煩わしく単なる「夾雑物」でしかないかも知れない。そのような人は写真だけ見ればいいのである。
 それでは、なぜこのような展示形態をとるのだろうか。その理由は次の文にある。これは、陸奥新報に「岩木山の花々」シリーズを掲載していた時に寄せられた読者からの手紙だ。(文末や表現の一部は変えてあるし、削除したところもある。)

『毎回楽しみに「岩木山の花々」を見て、味わっている。…私のように山登りの得意でない者にとって、このシリーズは花々と一緒に登っている気分にさせてくれるので、大変嬉しいものだ。スカイラインやリフトを利用して登る範囲は限られているし、しかもあの範囲は極端に花が少ない。四十回目ごろから山頂付近の花が多く紹介されているように思うが、これらのほとんどはリフト利用の範囲では見ることが出来ないものばかりだ。また、スカイライン利用だと麓から標高に沿って咲いている花を見ることが出来ない。それをこのシリーズは登りや下りるのにあわせて紹介してくれているから、とてもわかりやすく、実際に歩いている気分にさせられる。
 私はこれからも、実際には登れないし歩けないが、このシリーズの花と一緒に岩木山を歩きたいと考えている。』

『 私は仕事柄、歩き登ることには余り縁がない。だが、時々ふらりと一人で山に出かけてしまうことがある。そして、決まって、膝の痛みに悩まされるのである。そんなことの繰り返しから、山登りも遠のくし、花を愛でるという機会も少なくなっていた時「岩木山の花々」に出くわした。私の住まいからの岩木山は遠望でしかない。そこからは花は見えない。これまでに登った白神岳や八甲田山でちらちらと見た花が岩木山にも生えていることを知ったが、回を重ねるごとにそれはずいぶんとあるものだという驚きに変わっていった。ふもとから頂上へ、そして春、夏、秋と場所、高さ、季節の違いを考えるともっと沢山あるのかも知れない。なんだか最近はこのシリーズで山の花の勉強をしてみたい気分であり、それを実行している。このシリーズに伴われて山登りをしても、私の膝は絶対に痛まないから嬉しいのである。このシリーズに登場する花たちとこれからも楽しい登山を続けたい。』
 このような手紙を寄せてくれた人たちにとっては、単なる「写真」の展示だけでは、「歩きながら、登りながら花に出会う」という感慨を持つことが出来ないのである。そのような人たちを含めた来場者すべての方々に「山登りをしながら花を愛でる」ための機会にしてもらいたくて、この「コラボレーション」をあえて、実施するのである。

 展示写真の下に貼付されているものは、大体次のような形式と内容になっている。野紺菊を例にとれば…

花名:「ノコンギク(野紺菊)」科名属名:「キク科シオン属の多年草」

   キャプション:  孤高が生み出し、秋日に広がる高貴な野趣

本文:天高く、ひつじ雲を頭上に遊ばせている色あせた山頂を眺めながら、ゆっくりと登り始め、ようやく尾根道へ続く沢筋に入った。この辺りはまだ緑が多い。道はしの藪中で抜きん出て咲いている白い花が目についた。枝の先端に粟粒状の白い小さな花をつけているオトコエシである。傍に寄って高いその茎頂を追うと開けた上流に視界が広がり、遠くに先ほど見た色あせた山頂が見えた。ふと、「男郎花あの稜線が大菩薩」(古沢太穂)という一句を思い出した。
 私の歩みはノコンギクの前で直立不動で停止し、「御前」にひれ伏しながらじっと対峙していた。出会ったのは既に標高千メートルを越えている焼止り小屋の手前だった。これはノコンギクにまちがいないのだが、「深山」という冠を載せてあげたくなったのだ。それほどに高貴に見えたのである。素朴は時として俗衣を纏うこともあるが、この花にはそれを全く感じることが出来ない。これは「普通のノコンギク」ではない。里から遙かに遠い高山・深山で孤高を保ち、高貴な野趣を醸し出しているこの花を「ミヤマコンギク」と呼びたいと正直思った。高貴さには孤独とそれを進めた孤高が常につきまとうものではなかろうか。社会性や協調性、それに組織性を強調するあまり、現代人は孤独を恐怖し、孤高を知ろうとしない。彼女との語らいはいつまでも続き、私の足はなかなか前に進めないでいた。
野菊といわれるものの大部分がこの菊であると言われている。里で見られ、よく分岐した茎頂に咲く淡紫色の小花は、素朴で野趣に溢れていて可愛いものだ。」
 この文の中で、私が一番言いたい部分は「キャプション」である。