(今日の写真は昨日に引き続き「岩木山を背景にした収穫の秋」だが、田んぼの風情から「リンゴ」の出来秋にしてみた。何と、リンゴは岩木山によく合うことだろう。太宰治が、富士山に月見草がよく似合うと言ったが、「岩木山にはリンゴがよく似合う」のである。
まあ、岩木山には人工的な建造物でなく、自然の風物はすべて似合うのである。)
☆「登山者が勝手に登山道を改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう」という主張について… ☆
『登山者が自由に「目印」を付ける、道を遮る「樹木」を切るとか、樹木に切れ目を付けるとすることは、「国立公園」や「国定公園」、さらに「指定された土地」を自分の「私有地」ととらえていることではないのか。「自分の庭」の木なら自由に付けてもいいだろう。
ところが、私有地も含まれているのだが、多くの「国立公園」や「国定公園」は国有地であり、みんなの財産なのだ。もし、登山者が勝手に改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう。』という意見がある。このように主張するのは、いわゆる「自然保護」派と称される人たちである。
私は、自分のことを、このいわゆる「自然保護」派と呼ばれる範疇には属さない普通の「登山者」であるととらえているが、この言い分の真意には共鳴している。
登山者の中には国立や国定公園を自分の私有地と勘違いしている者が多いのも事実である。これは私も実感しているところだ。
国立公園の多くは国有地で、みんなの財産だ。このみんなの財産を、私もその「みんな」の一人、だから「私の物」であるという論理でいる「登山客」や「登山者」は多い。
「登山者」が勝手に改変していいということは決してない。「登山者だけの庭」ではない。「先住民族は保護生物を殺して生活しているのにどうして我々にはそれが許されないのだ。木を切るくらいは許されてしかるべきだ」とする主張は、自分の論理の貧しさをあえて「時代錯誤」的な言辞で肉付けしているだけであろう。全く次元や論点が違う。
私も「登山者」である。その一人として彼らの浅薄さと身勝手さが情けなく、恥ずかしい思いでいっぱいである。
あるほ乳類の研究者が次のように言う…。
『ある洞窟の調査を数年前から依頼されてやっている。そこは断崖絶壁なので、いつも登山家が2名サポーターとしてついてくれる。鋲付き長靴をはいた私は、場所によってはハーネスでつり下げられながら現地に行っている。なるべく、下を見ないようにして、大変な世話になりながらの調査だが、そこまでの「途中の道を整備して欲しい」とは考えない。人が行きづらいこと、つまり誰もが行ける所でないので「洞窟生物が保護されている」のである。
現地は渓流もきれいだし、あるがままの自然が十分残されている。誰もが気軽に行けるようになったら「自然は荒れ放題になる」のである。また、事故も起きるだろう。』
みんな同じであること、みんなが「同一の価値」を持ち、それを享受できることが、果たして民主的なことなのだろうか。これまで、このブログで何回も言っているが「民主主義」とは「個々の人間がお互いの違いを認め合う」ことが基本であると私は考えている。
真の民主制を標榜すれば、何も「同一的な価値」に固執して、みんながすることを「私」もしようなどとは考えなくてもいいのである。行くことが出来ない場所があってもいいではないか。
「みんなと同じになろうとする人」は、自分の個性を知らず、自分の個性を磨くことも、自己認識の啓発に努めない人である。
普通では行けない場所だけど「あそこに行きたいから道を造る」ということが許されていけば、それは「…したい」ことの満足に応えるだけの世界になってしまうのである。言い方を換えれば「自分たちさえよければいい」のである。
これは、冷静に見れば、いや普通に平常心で見ても、自然に対する「片手落ちで不平等、不公平」で、その人間の満足だけ、きわめて勝手な要求の実現ということになるのである。
私には植物など、その領分を守るという点ではきわめて謙虚な生物に思える。それに比べると、人間は謙虚性に欠けている。
自己の内面に目を向け、謙虚性を取り戻せば「大挙して押しかけるような観光的な物見遊山」は減るだろう。
そうなれば「人の行くことが難しい」場所はそのまま確保されることになるだろう。 民主とは「一人一人が明確で独創的な自分の世界を持つこと」であり、民主社会とはそのような「一人一人を社会が保証すること」であろうと思う。
私は、南八甲田地区の利用として次の案を推奨したいと考えている。
『猿倉岳斜面の登山道を軽微に整備して、駒ヶ峰までのピストン登山として規制する。
そこから眼下の旧道沿いの一帯や黄瀬沼、櫛ヶ峰山麓の谷地や池塘などは登山や散策ではなく、眺望の対象とする。
櫛ヶ峰への登山道は地表剥離と洗掘が見られない下岳方向からのピストンとして、現在の道は閉鎖する。旧道と駒ヶ峰の道は元々根曲がり竹の密生地帯だから、刈り払いの結果は地表剥離と洗掘が激しくなり、道よりも水路の役割を果たして崩落が進むのである。現在その状態が顕著である。閉鎖することの検討時期だと思う。(ピストン登山とは道を一本にして通り抜けや縦走をせず、その道を往路・復路ともに使用すること)』
まあ、岩木山には人工的な建造物でなく、自然の風物はすべて似合うのである。)
☆「登山者が勝手に登山道を改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう」という主張について… ☆
『登山者が自由に「目印」を付ける、道を遮る「樹木」を切るとか、樹木に切れ目を付けるとすることは、「国立公園」や「国定公園」、さらに「指定された土地」を自分の「私有地」ととらえていることではないのか。「自分の庭」の木なら自由に付けてもいいだろう。
ところが、私有地も含まれているのだが、多くの「国立公園」や「国定公園」は国有地であり、みんなの財産なのだ。もし、登山者が勝手に改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう。』という意見がある。このように主張するのは、いわゆる「自然保護」派と称される人たちである。
私は、自分のことを、このいわゆる「自然保護」派と呼ばれる範疇には属さない普通の「登山者」であるととらえているが、この言い分の真意には共鳴している。
登山者の中には国立や国定公園を自分の私有地と勘違いしている者が多いのも事実である。これは私も実感しているところだ。
国立公園の多くは国有地で、みんなの財産だ。このみんなの財産を、私もその「みんな」の一人、だから「私の物」であるという論理でいる「登山客」や「登山者」は多い。
「登山者」が勝手に改変していいということは決してない。「登山者だけの庭」ではない。「先住民族は保護生物を殺して生活しているのにどうして我々にはそれが許されないのだ。木を切るくらいは許されてしかるべきだ」とする主張は、自分の論理の貧しさをあえて「時代錯誤」的な言辞で肉付けしているだけであろう。全く次元や論点が違う。
私も「登山者」である。その一人として彼らの浅薄さと身勝手さが情けなく、恥ずかしい思いでいっぱいである。
あるほ乳類の研究者が次のように言う…。
『ある洞窟の調査を数年前から依頼されてやっている。そこは断崖絶壁なので、いつも登山家が2名サポーターとしてついてくれる。鋲付き長靴をはいた私は、場所によってはハーネスでつり下げられながら現地に行っている。なるべく、下を見ないようにして、大変な世話になりながらの調査だが、そこまでの「途中の道を整備して欲しい」とは考えない。人が行きづらいこと、つまり誰もが行ける所でないので「洞窟生物が保護されている」のである。
現地は渓流もきれいだし、あるがままの自然が十分残されている。誰もが気軽に行けるようになったら「自然は荒れ放題になる」のである。また、事故も起きるだろう。』
みんな同じであること、みんなが「同一の価値」を持ち、それを享受できることが、果たして民主的なことなのだろうか。これまで、このブログで何回も言っているが「民主主義」とは「個々の人間がお互いの違いを認め合う」ことが基本であると私は考えている。
真の民主制を標榜すれば、何も「同一的な価値」に固執して、みんながすることを「私」もしようなどとは考えなくてもいいのである。行くことが出来ない場所があってもいいではないか。
「みんなと同じになろうとする人」は、自分の個性を知らず、自分の個性を磨くことも、自己認識の啓発に努めない人である。
普通では行けない場所だけど「あそこに行きたいから道を造る」ということが許されていけば、それは「…したい」ことの満足に応えるだけの世界になってしまうのである。言い方を換えれば「自分たちさえよければいい」のである。
これは、冷静に見れば、いや普通に平常心で見ても、自然に対する「片手落ちで不平等、不公平」で、その人間の満足だけ、きわめて勝手な要求の実現ということになるのである。
私には植物など、その領分を守るという点ではきわめて謙虚な生物に思える。それに比べると、人間は謙虚性に欠けている。
自己の内面に目を向け、謙虚性を取り戻せば「大挙して押しかけるような観光的な物見遊山」は減るだろう。
そうなれば「人の行くことが難しい」場所はそのまま確保されることになるだろう。 民主とは「一人一人が明確で独創的な自分の世界を持つこと」であり、民主社会とはそのような「一人一人を社会が保証すること」であろうと思う。
私は、南八甲田地区の利用として次の案を推奨したいと考えている。
『猿倉岳斜面の登山道を軽微に整備して、駒ヶ峰までのピストン登山として規制する。
そこから眼下の旧道沿いの一帯や黄瀬沼、櫛ヶ峰山麓の谷地や池塘などは登山や散策ではなく、眺望の対象とする。
櫛ヶ峰への登山道は地表剥離と洗掘が見られない下岳方向からのピストンとして、現在の道は閉鎖する。旧道と駒ヶ峰の道は元々根曲がり竹の密生地帯だから、刈り払いの結果は地表剥離と洗掘が激しくなり、道よりも水路の役割を果たして崩落が進むのである。現在その状態が顕著である。閉鎖することの検討時期だと思う。(ピストン登山とは道を一本にして通り抜けや縦走をせず、その道を往路・復路ともに使用すること)』