岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「登山者が自然を改変していいのなら、写真家、生物調査研究員なども許されるだろう」ということ…

2007-10-31 04:48:01 | Weblog
(今日の写真は昨日に引き続き「岩木山を背景にした収穫の秋」だが、田んぼの風情から「リンゴ」の出来秋にしてみた。何と、リンゴは岩木山によく合うことだろう。太宰治が、富士山に月見草がよく似合うと言ったが、「岩木山にはリンゴがよく似合う」のである。
 まあ、岩木山には人工的な建造物でなく、自然の風物はすべて似合うのである。)

 ☆「登山者が勝手に登山道を改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう」という主張について… ☆

 『登山者が自由に「目印」を付ける、道を遮る「樹木」を切るとか、樹木に切れ目を付けるとすることは、「国立公園」や「国定公園」、さらに「指定された土地」を自分の「私有地」ととらえていることではないのか。「自分の庭」の木なら自由に付けてもいいだろう。
 ところが、私有地も含まれているのだが、多くの「国立公園」や「国定公園」は国有地であり、みんなの財産なのだ。もし、登山者が勝手に改変していいのなら、写真家なり、生物調査なり、散歩者なり、誰でもが改変していいことになるだろう。』という意見がある。このように主張するのは、いわゆる「自然保護」派と称される人たちである。

 私は、自分のことを、このいわゆる「自然保護」派と呼ばれる範疇には属さない普通の「登山者」であるととらえているが、この言い分の真意には共鳴している。
 登山者の中には国立や国定公園を自分の私有地と勘違いしている者が多いのも事実である。これは私も実感しているところだ。
 国立公園の多くは国有地で、みんなの財産だ。このみんなの財産を、私もその「みんな」の一人、だから「私の物」であるという論理でいる「登山客」や「登山者」は多い。
 「登山者」が勝手に改変していいということは決してない。「登山者だけの庭」ではない。「先住民族は保護生物を殺して生活しているのにどうして我々にはそれが許されないのだ。木を切るくらいは許されてしかるべきだ」とする主張は、自分の論理の貧しさをあえて「時代錯誤」的な言辞で肉付けしているだけであろう。全く次元や論点が違う。
 私も「登山者」である。その一人として彼らの浅薄さと身勝手さが情けなく、恥ずかしい思いでいっぱいである。

 あるほ乳類の研究者が次のように言う…。

 『ある洞窟の調査を数年前から依頼されてやっている。そこは断崖絶壁なので、いつも登山家が2名サポーターとしてついてくれる。鋲付き長靴をはいた私は、場所によってはハーネスでつり下げられながら現地に行っている。なるべく、下を見ないようにして、大変な世話になりながらの調査だが、そこまでの「途中の道を整備して欲しい」とは考えない。人が行きづらいこと、つまり誰もが行ける所でないので「洞窟生物が保護されている」のである。
 現地は渓流もきれいだし、あるがままの自然が十分残されている。誰もが気軽に行けるようになったら「自然は荒れ放題になる」のである。また、事故も起きるだろう。』

 みんな同じであること、みんなが「同一の価値」を持ち、それを享受できることが、果たして民主的なことなのだろうか。これまで、このブログで何回も言っているが「民主主義」とは「個々の人間がお互いの違いを認め合う」ことが基本であると私は考えている。
 真の民主制を標榜すれば、何も「同一的な価値」に固執して、みんながすることを「私」もしようなどとは考えなくてもいいのである。行くことが出来ない場所があってもいいではないか。
 「みんなと同じになろうとする人」は、自分の個性を知らず、自分の個性を磨くことも、自己認識の啓発に努めない人である。
普通では行けない場所だけど「あそこに行きたいから道を造る」ということが許されていけば、それは「…したい」ことの満足に応えるだけの世界になってしまうのである。言い方を換えれば「自分たちさえよければいい」のである。
 これは、冷静に見れば、いや普通に平常心で見ても、自然に対する「片手落ちで不平等、不公平」で、その人間の満足だけ、きわめて勝手な要求の実現ということになるのである。
 私には植物など、その領分を守るという点ではきわめて謙虚な生物に思える。それに比べると、人間は謙虚性に欠けている。
 自己の内面に目を向け、謙虚性を取り戻せば「大挙して押しかけるような観光的な物見遊山」は減るだろう。
 そうなれば「人の行くことが難しい」場所はそのまま確保されることになるだろう。 民主とは「一人一人が明確で独創的な自分の世界を持つこと」であり、民主社会とはそのような「一人一人を社会が保証すること」であろうと思う。

 私は、南八甲田地区の利用として次の案を推奨したいと考えている。

『猿倉岳斜面の登山道を軽微に整備して、駒ヶ峰までのピストン登山として規制する。
そこから眼下の旧道沿いの一帯や黄瀬沼、櫛ヶ峰山麓の谷地や池塘などは登山や散策ではなく、眺望の対象とする。
 櫛ヶ峰への登山道は地表剥離と洗掘が見られない下岳方向からのピストンとして、現在の道は閉鎖する。旧道と駒ヶ峰の道は元々根曲がり竹の密生地帯だから、刈り払いの結果は地表剥離と洗掘が激しくなり、道よりも水路の役割を果たして崩落が進むのである。現在その状態が顕著である。閉鎖することの検討時期だと思う。(ピストン登山とは道を一本にして通り抜けや縦走をせず、その道を往路・復路ともに使用すること)』

登山道の目印「赤いビニールテープ」と深く関わる登山道の整備とは…

2007-10-30 05:19:47 | Weblog
(今日の写真は昨日と同じく、「岩木山を背景にした収穫の秋」だ。今年は豊作である。
 農林水産省は29日、10月15日現在の2007年産米の作況指数(平年作=100)を発表した。全国平均は99で「平年並み」だった。
 地域別では、九州が95と最も低く、台風で早場米に被害が出たことに加え、9~10月の高温の影響を受けた。それに比べると東北地方は101と高かった。
 予想収穫量は主食用が854万トン。21万トンの過剰が発生するが、政府が決めた備蓄米の積み増しで需給はほぼ均衡する見込み。下落が続いていた価格も反転するとみられるが、どの程度のものかは分からない。政治的な「決着」は「構造的な米農家の救済」にはならない。すでに農水省は08年以降の生産調整が不十分な地域への助成を減らす措置などの検討を始めている。)

 ☆ 登山道の目印「赤いビニールテープ」と深く関わる登山道の整備とは… ☆

 自然の中で「歩きやすい道」ほど自然的な要素が欠落している所であろう。
 私たちが山に登るということは、「失われた原風景の回復」「閉塞的な都市生活からの解放」「同質の文明に完全に包囲されている日常から異質の価値」を求め、「ヴァーチャルリアリティでない個の確立」とより「生きた様相を体得するため」のものである。
 となれば、登山者の「本音」とは「足で、手で、五感すべてで自然を実感出来る登山道」を求めているはずなのである。
 だからこそ、そこには「登山者自身に危険克服の姿勢と努力」が必要なのである。山なのだから、枝が張り出したり、根株があったり、岩があったり、傾斜面や足場が悪く滑りやすいところがあるのは当然なのだ。
 滑らないようにするのは地形などを人工的に変えることではなく、登山者自身が身体的機能として訓練することで対処されるものだ。それが「自然の中に身を置く者の原則」である。歩行に易さだけを求め、自分で危険を避け得ないようでは山に登る資格はない。
 標識に地図の代わりをさせ、「人工的に整備された登山道」に「危険から自分を守ってもらうこと」を求めることは、他力本願の何ものでもない。「登山行為」の基本は「自力」であり、あくまでも「自助努力」と「自己責任」を果たすことで完遂する行為である。
 登山者が「自助努力」と「自己責任」を果たさず、「他力本願」に流されるとそれは、業者や行政の表向きなお題目である「安全登山」に応えるという形での事業発注という思惑と直ぐに合致してしまうのだ。
 そこから人工的な登山道の整備が行われ、山岳自然の破壊が始まる。
 もとより、「登山客」は「他力本願」中心の行為者であるから、他力に頼る「客」とそれを事業対象とする客に頼られ、金銭を得る「業者」とは、甘い関係が成立している。「客」に金を出させるために、業者は底なしに「客」に甘くなり、「客」は金を積むことで「より甘い」要求を突きつける。この両者の「甘い関係」が自然に対しては、厳しい「自然破壊」という現実を顕現させるのである。
 自立し「自助努力出来る登山者」が多ければ登山道の整備は不要となり、それは自然を守ることにもなるのだが、恐ろしいかな、文明の発展は便利さを生み出し、すべての便利さは、ますます「登山客」の増加を促している。
そして、「登山客」は「誰か」が行ったところには「自分」も行きたいと考え、「行けること」を業者や行政に要求する。これが、登山道を「誰でも登れる道」にしようとする動きに発展していく。

 私は登山道にすべて同一の価値を求めるべきではないと考えている。今、問題になっている南八甲田山域の「道」について少し述べてみよう。

 旧道を中心とする南八甲田山には、外来の植物が非常に少ない。これには驚き、岩木山などでは考えられないことに感激し、手つかずの自然が残っていることに感動する。外来種に浸食されている岩木山を見慣れている者にとってはうらやましい気持ちになったものだ。
 旧道については、出来るだけ「このままの状態を維持できるような保護策を講じるべき」である。
 南八甲田は大岳を中心とする北八甲田とは違う。北は既に「観光をメインとする」と位置づけられ、その方向で整備が進んでいる。
 日本人は、その特性として「同じであること」が好きなようだが、「一視同仁的」に同じ価値を求めることはないだろう。違うところに価値を見いだしていかなければ個性も育たないし、真のグローバリズムにはついて行けない。近未来はまさに独創と個性の時代だ。
 だからこそ、まったく質の違うすばらしい価値として南八甲田を管理し、未来に残していくべきである。
 古来から、手つかずの「悠久の自然や森が八甲田山域の南」に存在し、それが容易に人の入れる北八甲田と共存していくことは何も矛盾ではない。それは「異質な価値の共存ということ」で、すばらしいことだ。
 私は登山者として、「登山者もこの価値の保護と継承に与すべきである」と考えている。
 南八甲田は観光やレジャー的な側面を出来るだけ排除するような方向で管理するべきであって、観光的な登山を「旧道沿いでは規制する」ようにするべきだろう。
 ところで、話題の「旧道」といわれるものが、本来は「登山道」ではなかったということに、どのくらいの「登山者」や「登山客」が気づいているのか。この「旧道」は登山者が勝手に使用し、「登山道化」したものである。「登山道」と呼べるとすれば、それは、あるとすればだが「既得権」上のものに過ぎないのである。

登山道沿いの「赤いビニールテープ」1本や2本、いや200本ぐらいどうでもいいだろう。気にするな。…?

2007-10-29 05:51:47 | Weblog
(今日の写真は一昨日と同じく、「岩木山を背景にした収穫の秋」だ。これを眺めていると「岩木山の登山道に残されたビニールの赤テープ」のことなど、どうでもいいように思えてくる。
 しかし、岩木山と「岩木山」を取り巻く津軽地方の農家と「水田」などの「耕作地」とは切り離すことの出来ない関係にある。
 まず、「岩木山」は「農家と耕作地」にとっては「水がめ」なのである。岩木山が存在しているから、水田に水が引けるのだし、耕地には灌漑用水が流れ込むのである。
 また、岩木山は大きな屏風の役割をして、西海岸沖を通過する台風などの風よけとなって津軽の農家を守っているのである。さらに、冬には季節風の吹き出しによって運ばれる雪を遮って里には余り雪を降らせない。

 だからこそ、昔から津軽の人々は、「岩木山」に「水神」さまを戴き、三峰に薬師仏、阿弥陀仏、観音仏を祀り、主峰には大山祗神(オオヤマツミノカミ)や顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)を祀っているのである。さらに、「巌鬼」の峰には赤倉大権現さえ祀るのである。
 また、岩木山は、先祖の霊が暮らし(居て)、春になると田の神や水神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)という「お居往来山(おいゆきやま)」であるとされてきた。
 …となれば、私も「津軽人」の1人として、「岩木山」を汚れのない清浄な山として、「聖域」として、いつまでも残したいと思うのである。
 だから、たかだか幅1cm、長さ15cm程度のビニールテープ200本を残しておきたくないのである。「ゴミ」はどうしても岩木山に放置しておけないのである。)

☆ 昨日書いた「登山者でない自然保護を考える人」の「鉈目」と「赤布」に関する主張について、私はどうか ☆

 私は鉈を持っている。しかし、一般的な登山道を通行する登山では使わないので普通は持ち歩かない。
 岩木山の場合、松代登山道の追子森から長平登山道の分岐までは、廃道寸前で根曲がり竹が密生し、踏み跡すらわからない状態になっているので、2~3年の割合で20mから30m間隔で竹を数本伐って、さらに途中のダケカンバ等の枝に赤布を付けている。そのような作業の時しか「鉈」は使わない。
 竹を伐る目的は邪魔になるからではなく、「ルート方向の指導標」としてだ。一般道路に交通標識が林立したらどうなるか。それと同じで、藪の中でもルート方向の指導標は最小・最少であるべきである。
 「赤布」や「赤いビニールテープ」と同様に、「鉈目」も一般的な登山道には不要なものだ。白神山地の深いところでは目にすることはあるが、それに頼らずとも「地図と磁石」の活用に習熟すると歩けるようになるものである。
 私はテープの「目印」には賛成できない。とりわけ、ビニールテープの場合は絶対に反対だ。それは「腐食しないゴミ」「自然に帰らない異物」だからである。その意味から、登山道に付けられているものは「取り外しながら」いつも歩いている。

 ここでのテープは自分が、またはそのグループが迷わないための目印であろう。当然帰路もそこを通るのであろうから、付けた人は「取り外す義務」がある。
 冬山では「送り」といって「竹の先に赤布」を付けたものを雪面に差し立てながら行動するが、帰りにすべて撤去している。ところが、最近は撤去しない登山者やスキーヤーがずいぶんと増えている。
 夏場、どうしてこんなに高いところに、「送り」を付けたのだろうと思えるような地上4~5mの枝などに付いているのを発見することがある。
 あれは、みな冬場、積雪数mという場所で、「送り」を付けたのである。だから背伸びをすることなく付けることが出来るのだ。
 あれだと、いくら必死になって残置されている「送り」を取り外して「ゴミ」として処理しようと考えている私にも「取り外すこと」が出来ない。その都度、私は自分が「ゴミ」を置いてきたような「後ろめたさ」に襲われるのだ。

 悪天のために時には撤去できない場合もあるので、私は「腐らないテープ」は使わない。すべて、木綿の赤布(1cm x15cm)だ。
 白神山地の藪こぎの時もグループで行った場合はこの赤布を使う。縦走の時は、先頭が赤布を付けて行き、ラストの者がそれを外しながら進む。目印は基本的には「取り外す」が原則なのだ。
 「鉈目はマタギがやっていたことだからとの理由付けはそれこそ笑止千万、時代錯誤と言わざるを得ません。私が調査地点の目印になた目をつけてもいいのですか?登山者には超法規的特権でもあるのですか」と彼は言うが…まったくそのとおりである。

 私も登山者の一人だが、残念ながら登山者の中には思い上がった者もいるのは事実だ。というよりは「神の山」に登り、信仰心もなく「自然に対する共感能力」を持てず、自分だけの都合によるゴミを置いてくるということは、それだけ征服的な自己満足の人が多いのかも知れない。
 登山者には「超法規的特権」は何もないし、自然を汚し、ゴミを置いて来る権利なぞこれぽっちもない。

登山道沿いにつけられた赤いビニール製のテープのこと(登山用語では「送り」という)

2007-10-28 07:07:59 | Weblog
(今日の写真は晩秋の赤倉登山道である。登山道沿いの木々の枝に注目してほしい。どこにも「赤い布」や「赤いテープ」の「送り」はまったく見えない。これが正常な登山道である。
 この「送り」は道に迷わないための「めじるし」である。あくまでも「迷いそうな場所」に付けるものだ。しかも、その「数」は最少であり、形も最小でなければいけない。
 だが、「迷いそうな場所」かそうでないかは、その登山者の力量と経験に大きく左右される。つまり、「力量と経験」のない登山者ほど「どこに」でも「数限りなく」付けるのである。
 また、それを付けた登山者の「めじるし」としての役割を終えたら、取り外して持ち帰ることが原則なのである。
 つまりこうだ。パーティ行動で、ルート探しのトップがルートファインデイングをして「送り」を付ける。こういう場合はメンバーの間には距離が出来るものだ。この場合は最後尾の人がとりはずしていくことが原則だ。
 さらに、これが出来ない場合は、下山時に「すべて」取り外すことが、これまでの登山者にとっては「暗黙」の了解事項であった。)

☆ 登山道沿いにつけられた赤いビニール製のテープ(登山用語の「送り」)は責任を持って取り外すべきだ… ☆

 10月15日のブログで「朝6時に相棒のTさんと登り始めて、山頂には9時過ぎに着いた。」と書いた。実は「到着時間」はもっと早くなるなるはずだったが「あること」に阻まれて「遅く」なったのである。つまり、もっと早いペースで登ることが出来たはずであったのだ。
 私の登りを阻み、登りのペースをダウンさせたものが、赤い「ビニール製のテープ」の「送り」であった。私も「送り」を付けることはある。しかし、その材質は「木綿の赤布」であって「ビニール製のテープ」ではない。なぜ、「木綿」の赤布に拘るのかといえば、仮に「取り外し」を忘れたとしても経年のうちに「腐食」して「自然に帰り、自然の中の異物」にはならないことによる。
 ところが、「ビニール製のテープ」は「腐食」もせず、いつまでも「自然の中の異物」なのだ。言い方を換えると「ゴミ」なのだ。
 …という訳で、古くなった赤いバンダナを千切ったものをいつも50本程度はザックの中に入れて持っている。

 当日、私はその「ビニール製のテープ」を取り外しながら登ったのである。なぜ、「登りながら」なのかというと、下りの時よりも、登りの時がよく見えるという事情による。
 その「ビニール製のテープ」の「送り」は、間隔の狭いところでは5m足らずのところに次のものが付けられているという状態で、少し登っては立ち止まり、それを取り外すという行為が「石神さま」辺りから山頂近くまで続いたのである。
 しっかりと結びつけられて「ビニール製のテープ」を外すことは、結構疲れる作業である。また、登りという行動は「切れ間のない連続運動」の方が「疲労感」が少ないものだ。 しかし、しょっちゅう立ち止まり、「連続運動」が「停滞」させられるこの行為は、時間を食うだけでなく、何よりも「疲労」を大きくするものであった。

 私が取り外した「ビニール製のテープ」でベストの2つポケットは大きく膨らんだ。後ろを登っているTさんには、私が見落とした「ビニール製のテープ」の取り外しを依頼した。
 下山後、その数をかぞえると約160本もあった。Tさんが取り外したものを加えると、何と200本以上になる。これは、もはや「異常」である。腐らない「ビニール製の送り・テープ」は「ゴミ」でしかない。私とTさんは、その日しっかりと「登山道のゴミ拾い」をしたのである。

 ところで、登山者が言う「なた目(木々に鉈で切れ目を付けてめじるしにすること)とテープ目印は許される」ということについて「登山」とはほぼ縁のない自然生態系を保護したいと考え、活動している人は次のような意見を持っているのだが、どうだろう。

『なた目がマタギ文化?であったのは昔のことだ。今の日本にはマタギを純粋に生業としている人はいない。観光に使っている「マタギもどき的人物」はいるだろう。登山道伐採によるなた目は新しいものだ。登山者がつけたものである。
 テープ目印も含めて各自が勝手につけたのでは、テープだらけ、なた目だらけになってしまう。それとも、少なければいいのか。自分がつけたなら、他人がつけるのも否定できないはずだ。今もあると思うが、奥入瀬遊歩道にたくさんつけられているテープは私から見ると、景観破壊でしかない。
 テープであろうと勝手につけるのはルール違反だ。たとえば、私が写真撮影の目印を国立公園特別保護区内に付けておいても認めるのか。登山者の目印がいいのなら撮影なり、調査の目印もいいだろう。
 目印といえども野放しでなく、監督行政の許可を得てからやってほしい。なた目はマタギがやっていたことだからとの理由付けは、それこそ笑止千万、時代錯誤と言わざるを得ない。私が動物の調査地点の目印になた目をつけてもいいのか。登山者には超法規的特権でもあるというのか』

実りの秋、だが米農家は悲嘆にくれる!

2007-10-27 04:47:28 | Weblog
(今日の写真は、岩木山を背景として広がる収穫直前の稲田である。今年はこれまで台風の襲来もなかった。米農家の人たちは収穫を前にして(すでに終わったところが多いだろうが)、黄金色に輝く稲田を前に「にっこり」しているのではないか。今後も来ないことを祈っている。例年ならば10月末以降は、青森県への台風の影響はないのだが、何しろ「温暖化」異常気象のさなかであるから、気を抜けない。しかし、「豊作でよかったね」 …などと考えるのは、「食べて消費することしか出来ない」消費者の戯言(ざれごと)だ。

          ☆ 実りの秋、だが米農家は悲嘆にくれる!☆

 世を挙げて「物の値段」が上がっている。特に食品と日用品が高くなっている。夏の食用油やマヨネーズ、ティッシュペーパー、コーヒー、魚の缶詰、秋になってパンやハムなど身近な物の値上げが続く。原油、穀物など原材料の国際価格が高くなったのが原因だという。
 食品はバイオ燃料需要の拡大でトウモロコシへの転作が進み、小麦や大豆の作付けは世界的に縮小しているので、国際価格の高騰はおさまりそうにないそうだ。
 まったくおかしな話しだ。作物から自動車の燃料を作り出すために、人さまが食べる食料が少なくなり、物価高なのだ。地球の経済は「人」よりも「自動車」が大事なのである。
 幕末も世界経済の荒波が、日本を襲い、国民生活を苦しめたそうだが、違うのは食料自給率が100%だったことだという。現在、日本における小麦の自給率は14%、大豆にあっては3%に過ぎない。
 「大豆」を材料にする「納豆」や「豆腐」などは日本の食文化の「華」である。それを、すべて「外国」に頼る日は近いのだろう。「食」を「外国」に頼るということは、日本人の「文化」と「命」を外国に売り渡すことである。田んぼの畦にまで「大豆」を植えた時もあるのだぞ。

 新聞「農民」の10月22日号を見た。真っ先に「米価暴落」「根本原因は政府の米流通責任放棄」という見出しが飛び込む。
 …その記事に言う。
 米価暴落の要因の一つは、政府備蓄米。政府が自ら決めた100万トン備蓄の計画も守らず、一方、16年産を10.600円という超安値で放出、市場をかく乱。備蓄米は現在、68万トン。政府があと32万トン買い上げれば、需給は締まり、価格はまちがいなく安定するのにだ。この備蓄米買い上げの要求に対して、若林正俊農水相は「備蓄米で買い支えはしない」と冷酷だ。
 一方で政府は、毎年77万トンものミニマムアクセス(MA)米を輸入。不人気で売れないために在庫は増え続け、189万トン(06年10月末現在)。保管料だけでも95年から05年までに936億円というばく大な費用がかかっているという。
 国産米が過剰といいながら、輸入米を主食に回していることも重大だ。どこを探しても外国産表示の米は見当たらないが「売られて」いる。農民連は「消費者は知らない間に輸入米を口にしていることになる。輸入米であることを表示すべきだ。それができないならせめてMA米名を公表せよ」と要求。
 しかし、農水省は「MA米の販売システムヘの信頼が失われる」などの理由にならない理由で公表を拒否。また輸入米の入札をめぐって、農水省職員の不正は後を絶たない。農水省は、40万トンの輸入米を「えさ米」として処理するために800億円費やしたといわれる。
 売れない輸入米の処理には巨費をつぎ込みながら、国産米の買い支えには1円も使わないのが政府の姿勢だ。これでは米価が下落するのは当然である。農民殺しの「農水省」。「農家を殺すに毒薬いらず、農水省さえあればいい」ということだ。
 さらに、10キロ2500円などで「くず米を混ぜた安売り」が量販店やドラッグストアで横行している。「農産物検査法では1.7mmのふるい目から落ちたものは米ではなく『異物』扱いである。検査法対象外の『異物』が混ぜられ、何の規制もなく売られているのだ。
 農水省は日本の農民の方を向いていない。生産者よりも「流通機構」と「アメリカ」をはじめとする外国だけを見ている。いつから、「外務省」になったのだ。

 食品や日用品の高騰が続いている中で、それに逆行するような「米価の下落」である。
 毎日新聞によると「10年前は60キロで平均20.000円弱だったが、今年は最も高いコシヒカリでも15.000円を切る。もはや、コメ作りの経費を賄えない水準だ。しかも、打撃は、大規模専業や集落単位でコメ作りに励む中核農家、つまり農業の担い手ほど厳しい。」という。
 数年前から、「休耕田」を含む「耕作放棄地」は増え続けている。その総面積は38万ha。東京都の面積の1.5 倍だ。「コスモス畑」も「草ぼうぼう」にしておくよりはましだろうという発想からのことだ。

 そして、今年からは「耕作放棄地」がさらに増えそうな事態が、起きている。「米価」の極端な、無策の上に「作られた」下落だ。
 「コメ作りはもうおしまいだ」という農家のため息が放棄地を増やしていく。
 …しかし、本当に「おしまい」になった時でも、土地という「生産手段」を持って、自らの食料を作るすべを知っている農家は生き残る。生き残ることが出来ないのは、どこの誰だろう。それは「外国から買えば…」と安易に言う人たちである。

岩木山を背景とする風景、一番似合うのは「稲田」であろう…

2007-10-26 08:58:39 | Weblog
(今朝の写真は「岩木山をバックにした菜の花畑」だ。この写真は今日書こうとしていることと関係がある。導入として必要なのだ。岩木山を背景にした「お花畑」はとりわけ美しい。この写真はある年の5月中旬に鰺ヶ沢町山田野地区で写したものだ。)

 ☆ 岩木山に菜の花はよく似合う。蕎麦の花もよく似合う ☆

 実はその2、3日前に岩木山の頂上から山麓の鰺ヶ沢方面を眺めている時に、そこだけ、真っ黄色な長方形の「区画」を発見したのだ。その時から「あれは何だろう」との思いに取り憑かれて、下山後もその思いは消えなかった。
 確かに、山頂からは小さく狭い「黄色の長方形」であった。あえて言えば、それは小指の先端に隠れるほどで、1cm掛ける2cm程度にしか見えない。見過ごしてしまいそうな黄色の「区画」ではあった。
 私にはKさんという友人がいる。岩木山が好きで、「よく登っている」と書きたいところだが、「腰痛」があって「登ること」はままならない。だから、「スカイライン・リフト」を利用した「登山」には、これまでも何回も同行している。
 Kさんは「写真」も趣味にしている。「登ることがままならない」ものだから、いきおい「遠景の岩木山」が撮影の主題になる。とにかく、遠景の岩木山をその360度の方角から、こつこつと写しているのである。本会の写真展「私の岩木山」にもここ5、6年連続して出展しているので、会員の中にも顔見知りが多くなっている。
 最近は「茅葺き屋根のある風景」を追い求めて、「茅葺き屋根の家屋」と岩木山を一緒に写すことに励んでいる。その写真の数枚を私はもらって持っているし、その中の1枚は、書斎の壁に飾って毎日眺めているのである。
 先日も「もう茅葺き、なくなってしまった。」と言っていた。
「灯台もと暗し」とはよく言ったものだ。私は真っ黄色な長方形の「区画」を発見し「あれは何だろう」との思いに取り憑かれながら、その答えを出すのに「Kさん」の助けを借りることに、やっと気がついたのである。
 そこで、山頂で写した「真っ黄色な長方形の区画」の写真を提示して、訊いた。答えはあっけなかった。「うん、それは菜種畑、菜の花だよ。」といとも簡単に言うのである。そして、「一緒に撮影に行こうか。」と誘ってくれたのだ。
 今日の写真は、その時に写したものだ。それから、数年Kさんと一緒に、この菜の花畑を、その時期になると訪れている。
 この菜の花畑の持ち主は鰺ヶ沢町のYさんで、Yさんとは数回会って話しを交わしている。Yさん「時季になると花見に来る人が増えました。秋には、蕎麦に代わります。蕎麦の花もきれいですよ。」と言ってくれた。もちろん、私たちは、その蕎麦の花が背景とする岩木山の写真も撮影に出かけている。

☆「垂柳遺跡」の古代米稲田んぼアートに岩木山はよく似合うが、「コスモス」畑は似合わない☆
 
 私は自転車でよく出かける。その中でよく走るのが弘前と黒石を結ぶ「バイパス」道の「自転車道」である。黒石市に入る手前は田舎館村である。この村は、まさに純粋な農村であり、津軽地方の米作農業の中心といってもいい。その農村的な風情はすばらしいものだ。
 この村には「垂柳遺跡」がある。これは、約2000年前の弥生時代の「水田跡の遺跡」である。この水田跡が発見されるまでは「東北地方北部に弥生時代はなかった」と言われていたのだが、以前から出土していた弥生式土器と合わせて、昭和56年に水田跡が発見され、東北地方北部にも弥生時代が存在していたことを証明したのである。この発見は、考古学史や農業史を書き換えるほどの大発見であるとされているそうだ。  
 この「垂柳遺跡」の側を「自転車道」は走っている。そして、そこから少し離れた村役場庁舎東側には、弥生時代の古代米(紫稲、黄稲に赤米「紅染、紅都」)に「つがるロマン」を加えた四色の稲で育てながら作る「田んぼアート」水田がある。この「田んぼアート」水田にも岩木山はよく似合うのである。2000年前の「弥生人」もこうして岩木山を眺めたのだろうかと思うと思わず「わくわく」してくるのだ。
 ところが、最近は「うち捨てられている」ようだが、ある年の秋のことだった。「垂柳遺跡」のそばを例によって自転車で走っていた。「減反」政策による休耕田が年ごとに増えていた。
 道路脇の休耕田が一面の「コスモス」の花園になっていたのだ。それは美しい光景だった。柔らかい秋の涼風に揺れる多くの色彩は、乱反射してその光彩を地上に、空間に思い切り放っていた。
 私はコスモスという「花」は好きである。コスモスを否定する気持ちは微塵も持ち合わせてはいない。だが、「田んぼ」の中の広い「コスモス」園にはかなりの違和感を持った。
 それは、「コスモス」は田んぼに植えるものではないし、やはり、田んぼは休耕田といえども、「作物」を育てる場所であると思っているからである。その「コスモス」の園に咲く「コスモス」はやはり、岩木山には似合わないものだった。問題は「減反」政策なのである。

 先日の毎日新聞「発信箱:コスモス畑のため息=中村秀明」には…

 『風にそよぐコスモスの花畑を各地で見かける季節だ。だが、秋の田園を彩る光景が生まれた理由を知ると、素直に「きれいだ」とは言えない。夏に、あちこちから届く「数万本のヒマワリが咲き誇っている」というニュースも、たいてい同じ事情を抱える。
 いずれも休耕田の利用。かつては実りをもたらした土地の寂しい現状であり、雑草で荒れ放題になるのを懸命に食い止めている姿なのだ。』とあった。

ガマズミ(莢迷)の実と花への思い

2007-10-25 06:51:51 | Weblog
(今日の写真はスイカズラ科ガマズミ属の落葉低木。「ガマズミ:莢迷」の実だ。夏緑の頃には「林縁の清涼を醸す青葉の白磁器」のような小さくて美しい白い花を枝先に「霧散」するようにつけて咲くのである。
 名前の由来は、「神つ実(カミツミ)」の転訛であろうという説であるが、よくわからない。また、「ズミ」は染めものに使用するとの意味でもあるから、何らかの染色に利用したとの意味ではないかとの見方もある。
 別名はヨソゾメ、ヨツズミなどだ。何と、「花言葉」は「無視したら私は死にます」だというから、その意味づけには首を傾げると同時に「恐ろしい」思いになる。)

 21日のNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で実施した「野外観察」の時に、多くの草木の果実に出会った。その中で特に色鮮やかだったものは、紅色のカンボク、ガマズミ、ムシカリ、ノイバラ、ナナカマド、淡い赤紫のムラサキシキブ、黄色のヤマガキ、マルバマンサク、橙色のアズキナシ、葉が真っ赤で実が朱色というコマユミなどだ。
 他に、私には同定(名前を確認すること)出来なかったが、同行した本会会長阿部東が「ヤマウコギ」だと教えてくれたものにも出会えた。
 ところがである。時折「パラ」つく雨の所為もあったが、「ザック」の中の「カメラ」を最後まで、その日は「出さずじまい」だったのだ。
 その主な理由は、「野外観察」全体を運営しながら、予定コースを案内し、その上、出会う「植物」や「自然景観」の説明をするということから、私自身が「感動」しながらも、その感動を与えてくれた「諸物や風景」を撮影するという「余裕」がなかったことなのだ。
 そういう訳で、私としては「何となく」後ろ髪を引かれる思いが残った講座になっていた。 その「後ろ髪を引かれる」思いは、翌日の月曜日になっても残っていた。その日は朝から晴れだった。
 10時ちょうどに私は、町歩き用の小さなザックにカメラ、水筒、雨具、あんパンを入れて、「自転車」で昨日の「観察場所」に向かった。昨日見た「果実」の撮影のためである。それにもう1つ目的があった。
 昨日、受講者たちに、熟れて美味しい「ヤマブドウ」を食べさせたくて、それなりに目で探したのだが、それがまったく見えなかった。本当かどうかの確認のためである。
 そこまでの距離は約9Km。ずっと登りである。自転車は、かなり古いもので3x5=15段変速の「マウンテンバイク」だ。
 急な「造り坂」をもっとも「軽い」ギヤに切り替えて登り、「新法師」の手前で、いくらか斜度が緩やかになったので「ギヤ」を切り替えようとしたところ、「バン」という音がして、ギヤの切り替えが出来ない。停止し降りて調べると「変速ギヤ」用のワイヤーが断裂しているのである。
 最近は、いつも「ギヤ」は一定の箇所に入れ放しで、「変速ギヤ」を動かすこともない。だから、ワイヤーの腐食に気づかなかったのである。「マウンテンバイク」なのに「町中の平地」しか走っていない「シテイバイク」の「つけ」が出たと思った。
 幸い、そこからも「観察場所」までは「登り」だったので「切れたままの状態」での走行は可能だった。
 お天気に助けられて、先に述べた「実」の撮影は「ヤマガキ」を除いてはすべて出来た。また、「ヤマブドウ」も沢山実をつけていた。2房ほど採って食べたが、ちょうど熟れごろで、その「甘酸っぱさ」は格別だった。本番で見つけられなかったのはやはり、余裕がなかったのだ。

 自転車は、ほぼ「下り」の「帰路」は「快調」に走行出来たが「宮地」を過ぎてからは、全力で膝を回転させなければいけない「苦行」となった。
 それにしても驚いたことは百沢から私の家までの「道路」沿いには「自転車屋」は一軒もなかったことだ。時代の趨勢だと、割り切ってはいられないような寂しさに駆られた。

 かつて、ガマズミの花とは次のような出会いがあった。

…季節とは四季どおりに、あるいは二十四節気どおりにやって来るものではない。特に二十四節気はこの津軽の地には合うべくもない。いつの間にかやって来ていて、いつの間にか去り、別の季節と入れ替わっている。今日が立夏だといって、その日からころりと夏になるわけではない。ところが、草木は微妙な季節の移ろいを敏感に受け止めて夏が来ていることを示してくれる。
六月に入っていた。天候の不順が伝えられ、梅雨にはまだ早いのに雨がちの天気が続いてなかなか夏らしくならない。そんな日々が続いていた。
 ずいぶんと間遠になるが、登山日和(びより)がめぐってきた。久しぶりにまぶしい太陽を浴びながら、弥生のバス停から登り始めて、カラマツ林とミズナラ林の間の伐採地にさしかかっていた。30分は歩いたであろう。道は赤土に変わり、照り返しが強く、暑さに首筋は汗まみれである。カラマツの梢を風が渡り、雲が高く盛り上がり、入道雲をなし夏の風情だ。
 視線を落として、前方のミズナラ林の入口辺りに向けた。ミズナラは入口を涼しげな万緑で包み込んでいた。だが、万緑からはみ出した何かがある。それは「夏なのだ」をより実感させ意識させる花、少しどぎつい色彩だが頼もしい花、夏と暑さを演出する彩り花(いろどりばな)、タニウツギであった。
暑い。早々と辞して、涼しげな万緑の中に分け入った。そして直ぐに、私の歩みは瞬時動きを失ってしまった。「若やいだ青葉に載せられた白磁の器」ガマズミだ。
それにしても、このタニウツギとの色の対比は何なのだろう。造物主の不思議な采配は、ほっとする清涼感を森に残してくれる。…

緑白色漏斗形の横向き花、山麓の大怪物/オオウバユリ

2007-10-24 06:27:49 | Weblog
(今日の写真は、「緑白色漏斗形の横向き花、山麓の大怪物/オオウバユリ」の花である。RSS版でない人は、画像をクリックして大きくして、昨日の写真との違いを確認してほしい。この横向きに咲く花が、種子を持つようになると「縦向き」になるという不思議は何だろう。今日はそこから解き明かしてみたい。
 その前に、一言。花の「格好」は確かに「百合」の仲間であることを示している。しかし、ユリ科の植物の花が、すべて普通に見る「ユリ」の花の形状をしているとは言い難い。たとえば、「シオデ(牛尾菜)」はユリ科の植物であり、「シオデ」属として分類されるが、その花からは「百合」は想像できない。花は小さく白い線香花火の様相をしているのである。)

 「オオウバユリ」は何故、600個もの種を入れた「殻」が、秋になると「縦」になり、天を衝くのだろう。
 観察会で受講者たちと、中に入っているひらひらと風に舞う種子を見ながら、このことについて意見を述べあった。
 まずは観察だ。薄くて小判型の種子は、小判のように縦に積まれて、全部で3列ある。1列に200個ある計算になる。殻は3つに放射状に割れ裂けかかっている。

 次に「横向き」の場合を想定する。殻が3裂した時どうなるか。もし、その時風がなかったとしたら、種子は飛ばず、「重力」だけに支えられて茎が立つ根元という狭い範囲に「落下」する。
 風があるとどうだろう。種子は、飛ばされるが横向きに並んでいるので「舞い上がる」揚力の作用を受けにくい。だから、高く揚がることもなく、ただ、吹き飛ばされるだけで、その距離は短いものになる。遠くに種子を飛ばして、自分たちの子孫が育っていく範囲を広げていくには、「殻」が横向きであることは合理的でない。

 もう一度、「縦向き」に目をやってみよう。200枚の種子は、小判のように重なり積まれている。それを保護していた「殻」が割れると、3列のその垂直に立つ重なった種子は、風がない場合は、そのままの状態を保って「落下」しない。
 ところが、一旦風が吹くと、横向きに吹き付ける風が、水平に働き、微妙な揚力に支えられて、空中に高く「舞い上がる」のだ。高く揚がると、飛距離は延びて、種子は広範囲に蒔かれることになる。
 何と科学的であり、その合理性には目を見張らせるものがあるではないか。
 なお、秋から冬にかけての季節風は一定の方向を保つので、風によって運ばれる実生からの「オオウバユリ」が生えている場所は「登らず、下らず、沢を渡り、山麓地域」で一定の「ベルト」をなしていることが多い。

   ☆ 緑白色漏斗形の横向き花、山麓の大怪物、「オオウバユリ」との出会い ☆
 
 始発のバスに遅れてしまった。やむを得ず次のバスに乗ったが、終点は百沢の国民宿舎「岩木荘」である。私はそこからスキー場に向かってアスファルト道路を歩いていた。左側が高木の雑木で覆われ、道端は日陰になっている。
 遅れは心理的に急ぐことを迫っていたので一心に尾根道を目指していた。ところがそんな私を左から「ぐいと引き留める大きな風情」があった。
 「あっ!」という声を呑み込んで立ち止まる。そこには茎頂に緑白色の漏斗形の大きな花を横向きに咲かせた山麓の大怪物、「オオウバユリ」が生えていた。これが今日の写真の「オオウバユリ」だ。
 また、「オオウバユリ」はたまに、こんなこともして見せる。
…赤倉登山道の林床を縫って、朝霧の彼方へその山道は消えていた。その消えかかるあたりに「白衣を着けた修験者が佇んでいる」と見えたのだ。しかし、近づいてみると、それは数輪の花を咲かせた一本の大きな「オオウバユリ」であった。…
    
 木でもないのに「大木」然としていることも不思議だが、若葉は食用で、根からは良質のデンプンがとれるというからこれまた不思議だ。
 近年、「便利な車道」が深くまで入り込むようになった。百沢登山口は岩木山神社だが、最近は車で七曲りの近くまで行ってしまい、「オオウバユリ」には会うことの出来ない「登り嫌いな人」もいる。「便利さ」とは人が何かを失うということの「別語」である。
 百沢登山道ではスキー場の駐車場から登り始めてもこの花には会えないし、弥生や赤倉登山道、それに長平登山道も自動車で「登山口」まで行ってしまっては会うことが出来ない。
 会いたい人は、百沢登山道の場合、「岩木荘」から歩き始めるといい。スキー場の駐車場までの道路脇で必ず出会うことが出来る。「不便さと足腰の疲れ」を享受すれば、会えるのである。スカイライン、リフトで岩木山に登山しても「オオウバユリ」には絶対会えないのだ。

 「オオウバユリ」の別名としては、「山カブラ」「シカカクレユリ」「牛蒡(ごぼう)ユリ」などがあり、味は昔から「巻丹(かんたん・鬼百合)に似て甘い」と言われている。
 また、北海道で狩猟採集生活をしていた頃のアイヌの人々にとって、「オオウバユリ」は貴重な食料品であったようだ。それはアイヌの人たちの言葉からも類推される。たとえば、4月をキモウタチプ(少しウバユリを掘る月)、5月をシキウタチプ(どっさりウバユリを掘る月)と言うのだそうだ。
 なお、「ウバユリ」という語を持つ地名が今もかなり残っていると言われている。

毅然と立つ秋のオオウバユリ(NHK弘前文化センター講座「岩木山の自然観察会から)

2007-10-23 06:38:41 | Weblog
 (今日の写真は、ユリ科ウバユリ属の多年草、大姥百合(オオウバユリ)の種子である。
 21 日(日)にNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の自然観察を実施した。その時に、受講者たちが、特に関心を持ち、話題にしたものが、この「オオウバユリ」の「種子」だった。これは岩木山神社近くの遊歩道沿いで撮影したものである。90度カメラの向きを変えると、背景に屹然とした「岩木山」が入る。そして、この褐色の「オオウバユリ」の「種子」を入れた「殻」は岩木山を従えてより、屹然と立つのである。)

 ウバユリ属は東亜の北太平洋地域からヒマラヤにかけて分布するが、わずかに三種が知られるのみである。ユリ属にたいへん近いものだが、葉脈が網状であることが特徴だ。
 本州中部以北の落葉広葉樹林(夏緑林)の林床に生える。福島県以南に多いウバユリ(少し小型のウバユリ)とに区別される。
 背丈は2mぐらいになる。芽生えてから花が咲くようになるまで数年かかり7~8年に一度開花し、実を結ぶと枯れて一生を終える。1回咲くと花茎を育てあげている鱗茎は死に、まわりにつくった「娘鱗茎」と「種子」が次の世代を担う。
 この鱗茎(ゆりね)は良質のデンプンを含み、人々は「飢饉食物」として利用してきたし、クマなども好んで食べる。若葉は食用にもなると言われているが私はまだ食べたことはない。
    
 7~8 月に緑白色の茎の先に長さ10~15cmの緑白色の大きな筒状の花を10~20個つける。花はほのかに「林檎の香り」を放つが、この香りは夜に強くなる。香りはとても良い。花の寿命は3~4日、集団としては1週間くらいである。花粉媒介昆虫は、まだよくわかっていない。
 花は、やがてほろほろと散って細長い子房だけが残り、秋にはそれがふっくらとした緑色の実になる。
 この風情を、五味保義は…

「秋さぶるおどろが中に姥百合は青実むすべる茎を立てたり」…と詠んだ。

「秋も次第に深まって、葉が色づき落ち始めたやぶ(おどろ)の中で、姥百合だけは真っ直ぐに茎を立てて、青々とした果実をつけているではないか。何という雄姿、私はただただ心打たれた。」とでも解釈すべきだろうか。

 そして、緑の「果実」は横向きから、写真のように天に向かい「垂直」に立つ。
 やがて、霜が降りる頃になると、実は褐色の殻となる。その大きな殻の中には驚くほど多くの種子(600個以上あるという)が入っている。
 その殻が「パリッ」と割れて白銀色の平たい種子が風に乗って飛び散る。多くの林床植物がそうでないのに、この「オオウバユリ」は珍しくも、風に乗って散布されるのだ。600個以上が詰まっている、この種子を、東北地方では「狐の金庫」と呼ぶそうだ。
 直径1cmほどのぺらぺらの薄く軽い種子は、秋風や冬の季節風という激しい風に乗って、新しい「生命」を運ぶのである。この「直径1cmほどのぺらぺらの薄く軽い種子」を「狐の小判」と呼ぶところもあるそうだ。

 背丈の大きい植物で、その花も見事だが、その枯れた後の「姿」にもまた興味が惹かれる。
 花は、横向きの「水平」についているのに、果実(種の入った殻)はなぜか上を向いているし、10月に入って、殻が割れて種を飛ばす頃は何ともいえない威厳があるように私には見える。しかも、真冬の積雪期でも風雪に倒れずに耐えていたりする。思わず、「どっき」とさせられるのだ。

 詠み人知らずだが…

「姥百合の立ち枯れてなお輝けり」…という俳句がある。

 …私は次のように解釈した。どうだろう。
『花も終わり、葉も枯れ落ちてしまった姥百合が、その上背のある姿ですくっと立っている。また、果実が割れて種を飛ばした後も威厳を保っている。何という輝きであろうか。老いても、ウバユリのように毅然と自力でいきたいものだ。』

 最後に「名前の由来」について触れておこう。
 ウバユリは花の咲く時期には葉が枯れているのを「葉(歯)がもう無い」すなわち「娘が成人して、花の年頃になると、それを世話をする乳母はもう歯の抜けた姥(うば)になっている」ことを例えてこの名ができたという。早い話しが、百合に似た「歯無し」の「姥」と言うことだ。ところが、花は美しい。明日のブログで紹介しよう。
 岩木山付近では、実際に花期に葉の枯れないものの方が多いような気がする。 

岩木山は岩山、デフォルメ的に言わせてもらえば…?

2007-10-22 06:39:19 | Weblog
(今日の写真は大石神社のご神体である「大石(石も岩も同じ意味)」だ。地上に置かれたものというよりは、地中深くにその大半を隠して、地上に僅か「顔」を出しているのかも知れない。それでもこの大きさなのだから、本体の大きさは計り知れない。だが、実際に周りを掘り起こして実測した人はいないだろう。ご神体に対して畏れ多くて、それは「冒涜行為」、罰あたり的な所行であるからだ。) 

       ☆ 岩木山は岩山、デフォルメ的に言わせてもらえば…? ☆

 ところで、名前の由来から考えても「岩木山」は「岩」の山なのである。デフォルメ的に言うと「表皮(樹木の生えている土の部分)を剥ぐと全山岩山」となるのである。
 地質学者からお叱りを受けることを覚悟して、かなり、無理な説明であることを承知で「デフォルメ的」に表現すると、こうなる。
 岩木山は、大まかに「西北から東南」のラインで2つに分けることが出来る。つまり、鰺ヶ沢側が「旧(古)岩木山」であり、百沢側が「新岩木山」である。

 「旧岩木山」は岩山の上に長い年月をかけて樹木の葉が積もって「表土」を形成して、それが現在、標高1100m辺りまで「ブナ林」となっている。だから、ブナ林の中には突出した岩が至る所に見られる。大白沢や小白沢、大鳴沢沿いの尾根を歩いてみると、まさに至る所に「累々とした岩が創り出す神々の庭」が出現する。
 鰺ヶ沢スキー場が「上級者のニーズ」に応えるとして「拡張」したゲレンデも、まさにこのような「神々の庭」であった。
 このゲレンデ「拡張」の理由を「上級者のニーズに応える」としていたが、これは方便の、真っ赤な「ウソ」だった。事実は「冬季アジア競技大会」で「モーグルスキー」会場にするためだった。なぜ「ウソ」をつく必要があったのか。恐らくそこには「冬季アジア競技大会」とそれに関する何かを「ウソ」をついてまで「隠さなければいけない」理由があったのである。
 知事、企業、監督官庁がつるんでしまうと「マスコミ」など、弱いものだ。悔しいながら本会も暴けなかったが、その「ウソ」を暴いたマスコミは1つとしてなかった。

 「新岩木山」は5000年ほど前に噴火して、現在弘前方向から見える姿を形成した。現在の山頂が、その時の「中央火口丘」である。そして、噴出した「火山灰や火山弾」が鳥海の尾根や大長峰の弥生方向に堆積した。その上に「ブナ」や「ミズナラ」が生えて現在の林相を形成している。
 だから、こちら側はが堆積した地層であるが故に「土石流」が発生しやすいのである。1975年8月の、21名という尊い人命の犠牲を出した「百沢土石流」がそれを教えてくれるのだ。当然、いまだに問題になっている「弥生跡地」を含む尾根や山麓も「土石流地帯」なのである。
 この堆積した地層の下部には「古岩木山」と同じような「岩」が累々と埋まっている。「弥生地区」に入植した人たちが「リンゴ」栽培の「園地」を開墾した時は、この「岩」との辛くて苦しい戦いだったと伝えられている。

 岩木山の名前の由来は、アイヌ語のイワーケ(岩・所)とカムイーイワケ(神の住むところ)である。さらに鎌倉時代になると「イワキ」の音に「岩城(天然の石のとりで)」とか、「盤椅(寄りかかる大岩)」の漢字を当てたものである。
 「イワキ」は古代より、「神性の岩城」であったことが、地名に表われている。まさに霊山信仰であり、全山が「岩の集合体」であるといってもいい。

 その「全山」岩である「岩」の性質は、「安山岩溶岩」で形成されて、粘りが強く、あまり流れ出すような性質のものではない。この「熔岩」は百沢登山道の大沢口から上部100mにかけて見ることが出来るのである。この岩の「マグマ」は、鳥海・那須両火山帯の中間に発生したマグマ帯ではないかといわれている。

 昨日も書いたが、「石神大神(石神さま)」は、「神社」としての形を取ったのは比較的近年であるが、岩木山北東麓にある大石神社は、歴史が古い。
 その名が示すように「ご神体」が大きな岩である(今日の写真を参照)。巨石が本殿と一緒に柵に囲まれている。神社名も、当然大きな石から名付けられている訳で、神が宿る巨石崇拝であることは疑いがない。
 大石神社側山麓の、またはそこを起点に広がる北西津軽の人々は「岩木山の霊界をこの神社の大石で封じている」とこれまで信じてきた。「岩木山の霊界」は時には「人々」に悪さをする存在でもあったのだ。
 また、「安産やお乳の出がよくなるようにと巨石に祈願する」ことが大石神社にはいまだに残っているのである。
 一方、この大石神社は、江戸時代から農家にとってこの上なく大事である「農耕馬」の冬場の餌である「干し草」の刈り場の中心であった。
 「草刈り場」はいきおい、若い男女の出会いの場所となった。「出会い」「結婚」となれば「安産」を願うのは常だろう。今もって大石神社は「安産」を司る神なのである。
 また、「馬」の餌調達の草刈り場、「馬」に対する感謝も人々は忘れなかった。大石神社には何十体という「馬」の石像や木像が近郷近在の村々から奉納されている。
 ただ、その「奉納された」日付を検証してみると、農耕が馬から機械力の「耕耘」やコンバインなどに変わってからは、「奉納」は非常に少なくなっている。
 「機械文明」は、「人々と命あるものとのつながり」と「自然に対する感謝や信仰」を、容赦なく剥奪し、無味乾燥な世代だけを育んでいく。本当にさびしい限りだ。

「天の磐船」岩木山の石神さまと自然観察指導員の研修会

2007-10-21 05:37:55 | Weblog
(今日の写真は岩木山「石神さま」のご神体の一部となっている巨岩だ。この左側にもっと大きい巨石があり、祠が祀られている。さらにその左横には、もっと大きな岩があり、その裂け目には小さな祠「お堂」が安置されている。このような巨石は「磐座(いわくら)」と呼ばれ、裂け目は天から神が降臨される時の通路と考えられて大事にされたのである。
「永遠なるものが光り裂け、天に連なっている」ところが「裂け目」なのである。

 ところで、今日の写真をよく見てほしい。岩の左上部は、ブナ樹木が少なく明るい。ここは本来、鬱蒼としたブナ林であった。
 しかし、現在は「すけすけ」状態である。この上のブナはすべて伐られてしまった。何ということはない。鰺ヶ沢スキー場のゲレンデとされ、伐採されてしまったのである。
そして、石神さまのご神体の上を、つまり、少し「デフォルメ」して言えば、ご神体の「頭」を踏みつけながら、冬になると「スキーヤー」たちは滑っているのである。
 「知らぬが仏」とはよく言ったものである。その「事実」について知らないから滑っていられるのである。「ご神体の頭を踏みつける」ことは尋常な精神の持ち主なら出来ることではないだろう。だから、そのことを知らない「スキーヤーたち」には罪はない。
 しかし、あの場所を「ゲレンデ」にすると「石神さま」とそのような「対置」関係になることは、スキー場の開設計画を造り、図面を書いた者や施工者、発注者たちは事前に知っていた。知っていた上で開設したのである。「石神さま」の「ご神体を冒涜すること」を承知の上で開設したのである。そうでなければ、あと数10m上部を「ゲレンデ」にしたはずなのだ。そして、冒涜行為を犯かさせないように配慮したはずである。)

 「自然観察指導員の会」という組織がある。昨日は、その会員たちと一緒に、「巨石(大岩)信仰について」というテーマで、現地での「研修会」を開いた。要請を受けて私が講師をつとめた。観察研修地は岩木山の長平登山道沿いにある「石神さま(石神大神)」と、それと「神的」に併行して「信仰」されている八十八石神のある、さらに上部の「奥院」である。ここは、まさに「自然が創り出した神々の庭」と呼んでもいいような風情を持つ場所である。

 そもそも、「巨石信仰」とは世界の「岩」がある何処でも見られるものである。日本では現代でも巨石に注連縄がまわされ礼拝されている。
 巨石構築物は単に自然石を並べただけのものであっても磐座(いわくら)と呼ばれ信仰の対象であり、日本の庭園には「石組み」の伝統があり、これも磐座を転移工夫した表現である。「樹木、池、流れ、草花、岩」が日本の庭を形作る「要素」であるが、とりわけ重要なのが「岩」だ。樹木や草花、池や流れがなくても「岩と砂」だけで成立する庭すらある。龍安寺の石庭である。
 巨石信仰のなごりとして安産やお乳の出がよくなるようにと巨石に祈願する風習は、「乳岩」、「石体様」などの名称地名として全国に広く分布している。岩木山の「大石神社」がこの類例である。
 また一方で、古代からの日本人の巨石信仰を考えると、「天の磐船」は古代の人々にとって天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域であったのである。

 ところで、この「研修会」に参加したTさんから「まとめ」がメールで送られてきたので紹介したい。ただし、一部は「文意」を損ねない範囲で表現を変えてある。

■『 「岩木山の巨石信仰について」をテーマに、三浦章男さんによる講師で、本日、会員研修を行いました。参加者は少なくちょっと寂しかったのですが、内容はとても充実したものとなりました。
 鰺ヶ沢スキー場駐車場に9時半集合で、あいにくの雨のため、車内で三浦さんの用意したレジメを使っての事前学習を20分ほど実施。岩木山は全体として岩山であるが、その構造は、北側と南側とでは違っていること、そのため、おのずから植生も異なっていること。鰺ヶ沢方面はそのため巨石があちらこちらにあり、これが信仰の対象となっていることなどを学びました。
 事前学習終了後、車で約600m登山道に沿って移動し、車を駐車。駐車したすぐそばには「羽黒清水」の名称がついた湧水を賞味。その冷たさに感動を覚えながら、そこから徒歩で200m程上の石神様が祀られている場所に向かいました。石神大神の石塔が建っている場所に到着後、更にその上方200mほどに建立されている石神様奥院に向かいました。 そこには、すばらしい「自然の石庭」が広がっていました。巨大な岩をその根で抱いていたナラの木が倒れていましたが、それもまた自然のなせるわざ。長平に住む人たちは、これらの巨大な石にしめ縄を飾り、ご神体として祀っているのです。
 奥院からさらに上方、登山道を登ります。コケで覆われた岩で作られた道に落ち葉が降り積もり、素晴らしい歩道となって目を楽しませます。
 しかし、100mほど登るとそこは、切り開かれたスキー場ゲレンデ。岩と木がなぎ倒されススキ原となっていました。せめて登山道を少し避けて造れなかったものか。無謀な開発は、自然を傷つけるだけでなく、人の心も傷つけてしまいます。
 こうした思いを胸に抱きながら、もと来た道を戻り「石神様」のある場所へ。「石神様」は石塔のある場所から北側30mほど上方、急斜面の林の中にありました。10mや20m四方もある、巨大な「石神」が4箇所に鎮座しています。その巨大さに圧倒され、そこはまさに神々が宿る場所でした。
 小雨のため車中での昼食後、大石神社に立ち寄り、ご神体の「大石」に参拝。大石神社の成り立ちをさらに学習。ここで研修を終了しました。

 今回の研修では、自然保護を進めるに当たり、改めて、「自然と人との関わり」を考える上で「歴史的な考察力」も必要だと言うことを実感しました。
 また、開発と自然保護の接点をここでも目の当たりにし、こうした問題に関心を持つ人を増やしていくためにも、観察会の場所選びも大事だなあと思いました。』■

 この最後部分での、Tさんの指摘は今後の「自然保護」運動では重要なことになるだろう。
 ◎今日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察「晩秋の森や草原/落ち葉の下は小宇宙」の日だ。天気が心配だ。◎

草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その4)

2007-10-20 06:06:48 | Weblog
(今日の写真はある年の11月8日に岩木山で発見した「クマ」の足跡である。)

 足跡は本当に「今しがた」歩いたものだった。型くずれはないし、雪も積もっていない。この足跡を辿ると、きっと「クマ」に出会えると思った。そう思って「はっと」した。もし、「熊撃ち(ハンター)」)がこの「足跡」を見つけたら、おそらく「撃ち殺して、捕獲」するだろう。捕獲した後で「害獣駆除」と理由付けを行政から事後承諾を受けると、法律的には何ら「問題」にならない。
私は、そんなことを考えたのである。そして、写真に収めた後で、この「足跡」を、かなり長い距離に渡って、私の「靴」で踏み消したのである。
 下山の時もそこを通ったが、幸い午後から「暖気」となり、雪が溶けて「足跡」はほぼなくなっていた。「ゆっくり冬眠しろよ」と願いながら、どこかでほっとしていた。

   ☆ 草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その4)☆
(承前)

 10月10日も14日も、山頂に設置された「鐘」を多くの登山客たちが、歓声を上げながら鳴らしていた。山頂までの登山道沿いには、まったく時季外れで遅咲きの「ミヤマキンバイ」が「寒そうに」は黄色の花びらを震わせていた。
 この人たちは、登ってくる途中、「ミヤマキンバイ」に気づかなかったのだろうか。確かに10日は霧雨で視界は余りよくなかったし、14日は強い北西からの風が吹き荒れ、しかも時折、雲に覆われて周囲がよく見えないという事情もあった。ヤッケのフードで顔をすっぽり覆っているので視野狭窄で見えない場合もあるだろう。
 しかし、「山になれている者」は、どんな時でも、特に「異種」や「異物」を目敏く見つけるものだ。

 山頂に設置されている「鐘」の意味も知らずにただ、連打する前に、この時期に「咲いているミヤマキンバイ」が発する「警鐘」に思い及んでほしいものだと、密かに思った。
ところで、「山頂に設置されている鐘」にはどのような意味と意義があるのだろう。私は、次のように考えている。
 その1つは、「岩木山でこれまでに雪崩や落石で亡くなった人たちの鎮魂のため」であり、もう1つは「救難信号:10秒間隔で6回鳴らすことで(救助を待つ)という意味になる」ということである。
 連打している人の何割が、この意味を知っているのだろうか。

 「遅い」のは草木だけに見られるものではないようだ。明らかに動物の世界にも見られている。そう言えば、昨年「冬眠」出来ないクマのことが話題になっていた。
 数年前に、5cmほど積もった雪の上に「クマの足跡」を発見したのは11月8日の午前8時頃であった。当時でもその時季には「冬眠」前のクマが「冬眠前の餌」探しのために歩いているのであった。今年はもっと遅い時季、12月に入っても「彷徨」しているクマに会えるかも知れない。

 ところで、毎日新聞の「余録」(紅葉前線)(10月18日付)には…
 『(前略)…実際に気象庁の生物季節観測の対象になっている秋の鳥は、キーッと甲高い声を青空に響かせるモズである。その初鳴きが全国の気象台などの共通の観測項目になっていて、たとえば今年の仙台のそれは10月2日だ。なぜか平年よりも38日遅かった。
 ▲すでに北日本の高地から南下を始めた紅葉前線だが、生物季節観測でいう紅(黄)葉日と落葉日は気象台などで定めたイチョウとイロハカエデの標本木が基準となっている。ついでながら先月末の気象庁の予想では、関東の今年の紅葉の見ごろは平年より5日以上は遅い見通しという。
 ▲1953年に始まった生物季節観測でこの50年の長期的な変化を見ると、カエデの紅葉は2週間以上も遅くなっている。(中略)身近な生き物たちは地球温暖化の確かな証言者である。』…とあった。
 
 昨日までは、朝の外気温が10℃以下で続いていた。その中で、一番低かったのが、3.7℃だった。「やはり秋なんだなあ」と、すべてが「遅い」と言われる中で、ひょっとしてこれからは「正常な季節」の推移を示してくれるのかなあと思っていたが、何と今朝は「12℃」である。
 大陸から「冷たい」前線が近づいて、今日は列島を通過するという予報だった。気温も下がると予想したのだが、今朝は思いがけず「温い」朝となった。(この稿はこれで終わり。)

草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その3)

2007-10-19 06:00:28 | Weblog
(今日の写真は「雪のない時に見るスキー場ゲレンデ」だ。
 これは、「拡張部分」を上部から見た写真だ。周りと両サイドに見える緑の樹木はブナである。このブナ林内には「ヒバ」も生えている。その「ヒバ」も伐られてしまった。太いものの「年論」を数えたら270~280あった。…ということは280年間もこの地に生きづいていた「ヒバ」ということなのである。
 このゲレンデ下部には大きな岩を抱くように13本のブナが生えていた。私たちは、それを「岩抱き13本ブナ」と愛称して、慈しんだ。それは「鰺ヶ沢スキー場拡張反対運動」の「象徴・シンボル」であった。しかし、それゆえに、「鰺ヶ沢スキー場」は真っ先にそれを「伐採」してしまった。…もし、この「岩抱き13本ブナ」が残されていたら、「すばらしい観光スポット」になっていただろう。
 …ブナの原生林内に造られた遊歩道を、森林浴をしながらたどる。きらきらとブナの葉が緑に輝き迎えてくれる。アカハラやヒガラ、ヤマガラが合唱つきで歓迎してくれる。そんな場所に「岩抱き13本ブナ」が生えていた。あの巨大なホテルから小一時間の距離のところにこの「岩抱き13本ブナ」は生えていた。)


   ☆ 草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その3)☆
(承前)

 昨日と今日の写真で見るような「自然の破壊」が、岩木山のみならず、世界中で起こっている。まずは、赤道直下の熱帯雨林が、先進国や発展途上国の「材木資源」として伐採されることを挙げることが出来る。日本もこれには大いに荷担している。
 または、多国籍企業による単一植物栽培のための「園地・農地」として伐採される。これにも日本は手を貸している。
 「棄農」と「耕地の荒廃」、「後継者を育てない」などを進め、食糧の自給率を30%台にしていこうとしている日本の農政は、日本の国民に「地産地消」という選択肢を与えない。
 国民は「有無を言えない」まま、外国の「食糧・食料」に依存することになっている。この事実が「望む・望まない」に関わらず、外国の「農地拡大」という政策を後押しして「森林の伐採」に拍車をかけているのだ。
 生産者の顔が見えない「食料・食糧」を「安全・安心」という「ベール」で包み、それを鵜呑みにして食べるほどに「素直」なことが、日本人の本性や「美徳」なのか。これは、全くの「能天気(脳天気・能転気)」なことだろう。
 この国民の「能天気」ぶりを知っていて、政府・農水省は、「自給出来ない」農業を推進して、日本の農業を「潰そう」としている。
 一方で、「ミートホープ」や「白い恋人」という名前の菓子を売っていた会社、「赤福」という名前の餅を売っていた会社なども、この「能天気」に乗っかって「不正とウソ」を繰り返していた。
 「食べる」ことや「食べる」ものが「命」に直結していることを、もっと「びしっ」と自覚する国民にならなければならい時期に来ていることは否めない。

 熱帯雨林や原生林から追われた原住民たちが「焼き畑農業」のために、火をつけて森林消失を助長する。これにも間接的だが先進国である日本などが荷担していることである。
 熱帯雨林は世界の気候を左右する。それは海流の異変を生み出して、巨大台風の発生や熱波気象や局地的な大雨・豪雨、それによる土石流の発生を引き起こしている。加えて、北極海の温暖化、氷の融解や海面の上昇という自然の変異を生み出している。
 工場や自動車がはき出す種々の煙や「排気ガス」は空気中のCO2を増加させ、オゾン層を破壊している。これがまた「温室効果」を際だたせて、地球規模の「温暖化」に拍車をかけているのだ。あの中国でさえ党大会で「発展のひずみ」としての「自然破壊」に歯止めをかけるという政策が採られたという。

 話しが「遅咲き」の「原因・理由」の方にいき過ぎて、さらに「農業政策」や「食料問題」にまで行ってしまった。「遅咲き」という本題に戻そう。

 さて…16日付け朝日新聞「天声人語」には…
 『兵庫県の但馬地方で農業を営む奥義雄さん(72)から、今年はキンモクセイの花が遅かったと便りをもらった。…いつもなら9月19日ごろから甘い香りが漂うのに、今年は気配がなかった。あきらめかけた10月3日にやっと匂(にお)ってきた。ここ35年で、これほど遅いのは初めてという。「酷暑の影響でしょうか。自然の歯車がおかしい」と案じておられた。
 (中略)9月の残暑も記録的だった。暑さだけではない。雨無しの日が長く続き、降れば滝のように叩(たた)きつける。そんな、「渇水か豪雨か」の二極化も著しい。自然の歯車の、もろもろの変調の背後に、地球温暖化の不気味な進行が見え隠れしている。
 その温暖化が、米国の前副大統領アル・ゴア氏へのノーベル平和賞で、くっきり輪郭を現してきた。…世界に「今すぐの行動」を求めた鐘の音でもあろう。
 (中略)温暖化に対し、私たちに「上農」の聡明(そうめい)さはなかったようだ。せめては「中農」の愚直さで向き合わないと、地球は危うい。下農にはなるな――キンモクセイの遅咲きは、自然の鳴らす、ひそやかな鐘とも聞こえる。』とあった。(この稿は明日に続く。)

草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その2)

2007-10-18 04:33:52 | Weblog
(今日の写真は「雪のない時に見るスキー場ゲレンデ」だ。地球の温暖化に拍車をかけている熱帯雨林の皆抜は、規模的には比較にならないほど広大で多量だが「目に見える形状」はこれと同じである。その範囲が広いから悪くて、狭いからよくて「許される」というものではない。スケールメリットの追求から生じる「自然破壊」という根は同じである。)

   ☆ 草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その2)☆
(承前)

 今年の異変は何も「藤」や「テッセン」だけではない。岩木山では「ミヤマキンバイ」が今月の10日にも14日にも咲いていた。
 「ミヤマキンバイ」は例年、5月に雪解けとともに咲き出す。いわゆる岩木山の春告げ花の1つでもある。そして、5月中に一度咲き終わったものが9月の中旬ごろにまた咲き出すことはある。
 大体、「ミヤマキンバイ」の咲く場所近くの積雪は6月中に消えてしまうから、9月に咲き出すものは「遅い雪解け」による「遅咲き」のものではない。専門家でないのでその理由は分からないが、漠然と「温暖化による異常」だろうとは思っている。
 特に注目したいのは、今年の場合は「咲く時季」が10月中旬であり、おそらく、下旬に及ぶであろうと考えられることである。これら「遅咲き」のものは、いずれも「花」としての役目、つまり、「受粉して子孫を残す」という重大事をしないで、「寒冷と凍結」のために死滅するのだ。
 何という「無駄花」ではないか。自然の異変は、地上の生物に、このような無駄で無情で「惨い」仕打ちを与えるのである。もちろん、「自然の異変」とは「地球の自然発生的な異変」ではなく、人間の手による「人工的な異変」なのである。
 この「遅咲き」を風変わりな奴がいて、「秋を春と勘違いした」と考えれば楽しくはなるが、気持ちは複雑であるし、よくは解らない。
 ただ、春も秋もいずれも必死に咲いていたことは否めない。しかし、秋のものはちょっとだけ哀れさと恥じらいを纏っていたように見えた。

 8月19日には、ミチノクコザクラやエゾノツガザクラ、それにナガバツガザクラなどが、岩木山のある場所で、まだ咲いていた。
 ミチノクコザクラは一般的には、6月中旬が盛りとされている。案内パンフレットでも、開花時期は6月中旬と紹介されている。
 ただし、ミチノクコザクラも雪解けを待って、それに従い順次開花していくので、風衝地など雪の少ない場所では、5月上旬に咲き出すし、遅く雪渓や雪田が消える場所では7月の下旬頃に開花するのである。エゾノツガザクラやナガバツガザクラも大体同じ開花時期である。
 ところが、今年は「8月19日」にまだ咲いていたのである。あの咲き方だから、おそらく、19日以降も5日間ほどは開花していたであろう。何と、例年よりも20日以上遅い時期まで花をつけていたことになるのだ。これは、もうはっきりと「異常」なことである。 温暖化のなせる業であることは、もう間違いがない。

 最後に「ツルツゲ」だが、これは開花時期が6~7月である。それが10月14日に、まだ咲いていたのである。健気な所業に頭の下がる思いだが、この花も、自分の使命を果たせないで一生を終えてしまう。
 16日の朝、外気温は4℃であった。標高100m上昇するにつれて気温は0.6℃下がる。花をつけた「ツルツゲ」のあった場所は標高1200mを越えている。計算すると4℃-7.2℃で、氷点下3.2℃となる。あの白い小さな花は凍結し、生命を絶ったはずである。
 生まれて、そして、正常な形と歴史で死というゴールに至ることが出来なかった無念さが哀れでならない。
 「遅咲き」や「遅れて開花」しているのは、何も花だけではない。今年は「キノコ」も「遅い」そうである。知人で茸採りの名人であるKさんが3日ほど前に、ビニール袋いっぱいの「サモダシ(ならたけ)」を持ってきてくれた。そして、「今年はキノコの出が遅いのか、すごく少ない。これで今年は終わりかも知れないよ。」と言ったのである。
 また、昨日、本会の阿部会長が打ち合わせにやって来て、それが終わった後で「今年はキノコが遅い。サモダシもまだのところがあるようだ。近々一緒に採りに行かないか。」と言う。
 私は「キノコ」のみならず、その他の「山菜」といわれるものの「採取」は不得手である上に、あまり好まないので、「やんわり」と、その誘いを断った。
 そういえば、去年も、一昨年も「キノコの出が遅い」「キノコが少ない」「見られない」などという台詞をこのお2人から聞いたような気がする。
 やはり、これも「温暖化」のシグナルなのだろう。(この稿は明日に続く。)

雪のない時の鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ/草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(1)

2007-10-17 07:21:47 | Weblog
(今日の写真は、また「雪のない時の鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ」である。
 ブルトーザーで除去出来ない岩「ゲレンデに突出する岩」は、音の出ない「破砕方法:ドリルで岩に穴を開けて、それに化学的な膨張剤を流し込み、膨張剤の圧力で岩を砕くというやり方」で、写真のように、一面に砕かれているのである。
 まったく緑のない「死の世界」といっていいだろう。スキーヤーはこの上に積もった雪の表面で楽しく滑っている。聞くところによると、ここ「上級者用」として拡張されたゲレンデの利用者は年々、落ち込んでいるそうだ。ひょっとすると、その場所が「死の世界の表面」であることに、スキーヤーたちが気づいて寄りつかなくなっているのかも知れない。)

 鰺ヶ沢スキー場ゲレンデの殆どは岩山の表面に堆積した表土に根づいたブナ林やその他の樹木を伐採して造営されている。
 このゲレンデは鰺ヶ沢スキー場が林野庁から借りて使用している「借地」なのである。そして、「スキー場ゲレンデの敷設時の条件」は「樹木の伐採は許可」であり、「伐採後の樹木の根は残す」であり「土地その他の人工的な改変は許可しない」である。
 このゲレンデも表土の下は、岩石累々とした「岩山」である。そこを「伐採」しても「表土」から「頭」を出したり「表土」の上に寝そべったり、横たわっていたり、または膝立ちしたり、伸び上がったり、立ち上がったり、中には仁王立ちしている岩が多数あるのである。
 スキーヤーにとって「理想的」なゲレンデとは、ゲレンデ表面に「凹凸:デコボコ」がなく、緩急入り交じった「斜面」を持つ場所だろう。だから、スキー場経営者は、出来るだけ「凹凸:デコボコ」を「ブルトーザー」などで剥ぎ取って、「凹凸:デコボコ」のない「ゲレンデ」でスキー客に応えようとする。つまり、「ゲレンデ」用に整地をするわけだ。
 しかし、この行為は「土地その他の人工的な改変は許可しない」という約束に違反していることなのである。
 その結果、「ブルトーザー」でも剥ぎ取れないものが残り、それらが「逆」に目立つようになる。だから、さらに、出来るだけそのブナ等の「伐採」の根株、突出したり横臥している「岩石」を除去して整地しようとするわけである。
 この「ニーズ」に応えるということは、暗黙の「約束」違反を実行させる。その結果が、この写真に見られる「岩石破砕」である。行政には、すべて「事後」に報告され、「事後」に承認されているというのが実態である。企業と行政がつるんでしまうと「自然」は弱く、「破壊」はますます進むのである。

 ちなみに、この「岩石破壊」の理由は、この地域に入る「山菜採り」にとって、放置されてある岩石は危険だから、「破砕」したであった。これを県も林野庁も認めたのである。
 スキー場が「山菜採り」の安全を確保するように人的な努力をしてさえいれば「約束違反」もしなくてもよかったのだし、岩も人工的に「破砕」されなくてもよかったのである。
 スキー場は永遠ではない。いつ撤退するか分からない。撤退した時に「以前の自然」に速やかに「回復」がなされるように配慮することがスキー場開設者の務めではないのか。未来世代に「回復」した自然を残していくことが21世紀の現代人、私たちの使命であろう。「自分たちが楽しんで、それで終わり」では、余りにも無責任というものだろう。

  ☆ 草花や樹木の花の遅咲きは自然が鳴らすひそやかな警鐘か(その1)☆

 私の庭の藤が9月下旬に花をつけた。テッセンも9月末に一輪だけ咲いた。岩木山のミヤマキンバイが今月の10日にも14日にも咲いていた。それに、6~7月が開花期である「ツルツゲ」の花が、14日には咲いていた。
 季節外れの花の咲くことはよくあることではある。だが、今年は少しおかしい。それは、数が多いことでもあり、種類数も多いということだ。

 私の庭の藤は、灌漑用水堰を隔てて隣接する「弘前熊野宮(田町の熊のんさま)」から種が弾け飛んできたものである。私は、それを「神さま」からの贈り物と思い、「普通」に育ててきた。かれこれ、20数年になるのだろうか。毎年5月になると花をいっぱい咲かせる。近くの人たちが「観」に来たり、通りがかりの人が立ち止まっては「眺め」ていく。私は「熊野宮」の神さまの藤が「人々」から愛でられ、喜ばれていることが、とても嬉しい。
 しかし、もっと嬉しいのは、その時季になるとたくさんの「ミツバチ」が「藤の花」にやって来ることである。そばに寄ってみると「藤の花園」全体が、ミツバチの羽音で「ウオーン」と振るえるように、唸っているのである。
 まるで、そこだけが「花とハチの生命あふれる小宇宙」なのである。命の息吹を感じて私の心は、底知れずに弾むのだ。
 その「藤」だが、これまで8月とか9月の初めに淡い色遣いで花をつけたことがあったが、今年は9月末に咲いたのだ。…これは、正常なことではない。(この稿は続く。)