岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「西海岸のハタハタ(鰰)騒動」から登山を考える…

2007-07-12 05:51:33 | Weblog
 岩の壁があるからロッククライミングができるのだ。「魚釣り」はなぜ出来るのか、それは「魚」がいるからである。その魚の棲む「川、湖沼、海」があり、そこで、それを「釣る人」がいるからだ。
 ところが、人間は目先の「人間=自分」と「魚」ことしか考えず、この単純な道理の根本、釣るという行為を成立させる「自然」としての「川、湖沼、海」を忘れてしまうものらしい。
 ここ数年、毎年のように見られる「西海岸のハタハタ(鰰)騒動」…ハタハタの大群が海岸に押し寄せて、ある者は小型トラックで数台捕獲し、多くの人間がそれを獲るために、まるでハタハタの大群のように押し掛けている。
 それを目当てに、焼き烏賊(いか)屋などの食べ物屋までが立ち並ぶ…というあれだ。
 山の木を伐っても「ダム=堰堤」を造れば洪水の心配はない。それ以上に灌漑用水として使い勝手がよくなるなどと、人間の一方的なご都合的な解釈をして昭和40年代から、盛んに山の木を伐ってきた。
 杉などの「単一種」を植林したが「山」の森林が「一種だけの樹木」であることが、本来の「自然の様相」であるわけはない。しかも、林野庁や杉植林地を持っている山林主(個人や入会地として管理している地域自治体)は、管理に金がかかるというので「育てるための手入れ」を放棄してしまった。
 一方で、このように森林の育成を「放棄」しながら、原生林の伐採は、現在も大々的に続けられている。
 「山」は海を育てる。「山の木」は海の魚を育てる。だから、山の木々を伐ってしまい、海の魚が減ってしまった。
 その代表が鰰(はたはた)だろう。人々は、産卵のために海岸近くにやってくる「腹の大きい雌」を狙って捕獲した。さらに、産み付けた卵まで「ブリコ」と称して獲りまくり、食いまくった。
 せめて大きくなった「成魚」を獲ったら「卵」は残すべきだ。「これからのこと」、つまり未来世代への思い遣りがあるのならば、当然だろう。
 山でキノコを獲る。山菜を採る。来年に芽生える命を残さないで全部獲ってしまう。すべて、命あるものの未来を考えていない行為だ。
 今の自分さえよければいいのである。その「今の自分」が、誰に何に生かされて「今」を生きていることが出来るのか。今まで生きて来られたのは父や母、祖父、祖母など、多くの過去世代が現在世代であった時に、腹八分目で我慢をして、頑張って来たからだ。そして、その時の未来世代であった私たちに多くのものを残してくれたからだ。
 「自分さえよければいい」という考えと行動は「自分の子供」の未来をも保障しないということに気づくべきだろう。
 ハタハタとは「鰰」と書く。「さかなへん」に「神」である。音声言語や片仮名表記だけでは、その「ものや事物」が示す意味や実相が分からない。
 最近の「日本文化」の底の浅さを示すものが、この「カタカナ表記」の蔓延だろう。花の名前、虫の名前、鳥の名前などすべて「カタカナ」である。それに加えて、外来語はすべて「カタカナ」である。「カタカナ」には意味がない。単なる「音声」を表記してあるに過ぎないものなのだ。意味のない音声が飛び交い、意味のないカタカナ「表記」の羅列である。
 
 ハタハタ(鰰)を漢字の意味からとらえると「神の魚」となる。いつから人間が神を越えて、神を際限もなく食らうものになったのか。「字義」をしっかりと理解していれば、このような罪深く罰当たりな行為は「ほどほど」のところでやめていただろう。その罰は直接、今の私たちに来ないかも知れない。
 しかし、これまでの数十年にわたる鰰の不漁は「私たちの孫や子供たちがまた鰰を食べることが出来なくなる」ことを十分教えてくれているではないか。

 ほどほどにしよう。かつての日本人の美徳には「ほどほどに…」という「節度」があった。これも未来世代のことを考えた精神のありようだった。
 環境倫理学の一番の視点はここにある。生き物すべてのための環境は「人間が自己規制」を強めなければ守ることは出来ない。

最近の「山岳自然を取り巻く状況」は、この「鰰…ハタハタ」の騒動にすっぽりとあてはまる。「魚釣り」を「登山」に置き換えて考えるみるといい。そこには「登山はなぜ出来るのか」の答えが、明確に存在する。