岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

会報42号発送・月刊「弘前」表紙写真・カメラに頼るということ

2007-05-31 05:13:47 | Weblog
       ・会報42号発送

 今日で5月も終わりだ。会報の発行日付は20日である。その後の処理が遅れて29日に会計係のTさんに「封筒に入れた」ものを渡し、Tさんが別紙「会費納入状況」を封入してから発送する手はずになっている。今日あたり配達されるかも知れない。

       ・月刊「弘前」表紙写真のこと

 タウン誌月刊「弘前」6月号も間もなく発行されるだろう。今号の表紙写真は「オコジョ」である。岩木山に生息する一番小さな「肉食獣」ではないだろうか。
 1月号から6月号までの写真と文章原稿は昨年の11月末に編集長のAさんに渡して、その後は、毎月出来上がってくるものを恐る恐る「待っている」日々が続いていた。ところが、今月末は残り6ヶ月分の「写真」と「文章原稿」をAさんに渡す時なのだ。原稿はすでに書いてしまっていた。しかし、使おうと思っていた私の写した写真は「見れば見るほどよくない」のである。
「暗くて被写体の輪郭がはっきりしない。」「解るのだがひどい手ぶれである。」など、表紙を飾るには堪えられない代物なのだ。
 思い悩んで、私は本会の「写真ファイル」を覗いて見た。驚くことに、そのファイルには、私が写した構図や雰囲気そのままの写真が数枚あったのだ。しかも、どれも「輪郭明瞭」「手ぶれなし」というすばらしいものであった。
 多くの人に「岩木山に棲む動物」の写真を紹介するということが、この表紙写真掲載の目的である。となれば、「いい写真」で紹介することがベターではないだろうかと考えた。私は厚顔にも、会員である撮影者のBさんとCさんに「ことの経緯」を語り、使わせてほしいとお願いをした。ありがたいことに2人は快諾してくれたのである。
 この2人の写真と私の写真が残り6ヶ月の表紙を飾ることになる。ここでは名前を伏せるが、実際の月刊「弘前」には撮影者として名前が出るので、そのすばらしい撮し手が誰なのかは、それで確認してほしい。
       
       ・カメラに頼るということ

 登山客が多くなると侵入禁止のロ-プを越えて入り込み、写真を撮るものも増える。近頃は大型カメラを持つ人が増えている。その重さを支える大きな三脚を据えるわけだから、足による踏みつけのほかに三脚によるそれも大きい。図鑑用の写真を撮るわけではないのだから、マクロレンズではなく望遠レンズで撮り、少々のぶれや不鮮明は我慢してもらいたいものである。
 
 ところで、写真を撮るという点では私も同類なのだが、写真にだけ頼っているのでは、何か大きなこと見落としているような気がしてならない。
 評論家森本哲郎が、ある文章の中で画家のF氏に、「カメラという便利な機械があると、ついそれに頼って人間は対象を見つめなくなるんだな。」と言わせている。
 カメラを持ち歩く者として、私はこの言葉に触れて思わずギクリとし、本心を見透(す)かされて足の竦(すく)む思いがした。カメラに頼れば花や風景、つまり対象を真剣に見つめなくなるのは事実である。それは単に見る、または見ているに過ぎない。
 「見る」と「見つめる」、「登る」と「登りつめる」、「問う」と「問いつめる」ではその意味に大きな違いがある。「…つめる」には徹底してするという強い意志があり、物事を最後に至るまで続けるという意味がある。
 話題は逸れるが、最近の日本人には共通して、過去の経験や教訓に学ばず、現在を条件反射的に生きるものが多いような気がする。すなわち、「…つめる」ことをしないのである。
 ここで言う「過去の経験や教訓」とは「昔からこうなっているから」とか「それが決まりだから」に見られる、いわゆる前例主義や過去志向を指しているのではない。あくまでも過去・現在・未来を見据えての未来志向の礎(いしずえ)となるものだ。
 この現在を条件反射的に生きる人たちにとって、「…つめる」という行動は辛く避けたいものであるにちがいない。足の竦む思いがしたのは、自分の中にこの人たちの影を見たからにほかならない。
 便利なカメラに頼り、目の前の事実をしっかりと捉(とら)えないで、「記録」をしたことで、その写真が虚像であるにも拘わらず、満足してしまう。
 写真とは本来虚像である。特に我々が持ち歩くカメラがとらえる像は一面的であることが多い。

もう少し「クマ」のことに…草花に対しても

2007-05-30 05:25:39 | Weblog
     ・もう少し「クマ」のことに…草花に対しても
 
 ところで、ある年の11月1日から2日にかけてのことである。例年になく早い降雪があり、岩木山山麓の樹林帯にも10数センチほどの積雪を見た。
 その日、私は「ある登山道のぶな林の中で、積雪の上にクマの足跡」を見つけた。なんとなく空しく淋しかったそれまでのクマに対する思いが、充足されていくような気分になった。
 その年の春に、同じ岩木山で「駆除の名目」でクマが撃たれ、それを撃ったハンタ-が、逆にクマの本能的「最期の一撃」で殺されるという痛ましい事件が起きていた。これはハンタ-、熊どちらにしても悲しいことであった。
 射ち殺されたクマは大きかった。岩木山の主ではないだろうかとも思えた。これでひょっとすると、この岩木山にはクマはいなくなるかもしれないとも考えた。
 事実、それ以来この日まで、私はクマとその生存に関わる確実な情報に出会っていなかった。
 しかし、目の前にある足跡は、正真正銘、「クマ」のものだった。よかった。いたぞ、まだ岩木山にはクマがいるのだ。本当によかった。
 嬉しくなってきて、気持ちは大いに弾んだ。その日の行動は、いつにも増して軽快であった。
 私はこの事実を、写真には撮ったが一切公表しなかった。
前述した「その年の春の事件」があったので「岩木山で写したクマの足跡」写真にはそれなりにニュース性があり、新聞社に持っていけば「記事」として掲載されることは確実だと思ったが、止めた。
 なぜか、それを公表しようものなら、いくらぼかしても場所が特定されてしまうだろう。その後大雪で「足跡」が消されてしまえばいいのだが、そうでない場合は「クマ撃ち」ハンターたちが足跡を辿る。足跡は、雪が降り積もるか消えない限りは残るのである。
 たとえ、降雪直後に冬眠したとしても、その穴も発見がたやすく、クマは確実に捕らえられるであろう。
…などと考えたからである。春には「釣り人がクマを見た」という事実が「駆除行為」の原初的な契機であった。それが人を「クマ」の危険から守るため、安全のためという名目となり、クマは撃ち殺された。

 もし、私が「足跡」写真を公表したら「場所は多くの登山者が利用する登山道である。11月とはいえ、数は少ないが登山者が確実にいる。山頂まで行かず、途中まで登るという散策型の登山者も、この時季はまだいるのである。さらには、ナメコなどを採取する人もいる。」などと言い出して、「登山者やナメコ採りの安全確保のためにも、クマの駆除は必要である。」ということになりかねなかっただろう。
 実に何ということはない。自分たちに都合のいい「我田引水」的な、つまり津軽弁でいう「てめたさみず」である。そんなことを懸念して、私は後日、書いた文章でも場所を「ある登山道のぶな林」とだけして、はっきりさせなかったのである。
 雪降りの早い冬は、雪解けの早い春と同じように、まさにクマにとって受難の日々が続くのである。

 このような考え方や姿勢は、植物に対しても同じである。

「高山植物を盗掘や不法採取しないで欲しい。」と書くことに私は躇(とまど)いを持つ。なぜかというと、
 …盗掘や不法採取という事実を伝えるには具体性が必要である。それを欠くと説得力がなくなるから、出来るだけ厳密に日時や場所、それに花の種類などを詳細に書かねばならなくなる。
 そうすることは、盗掘や不法採取の予備軍に、まず「そこに行けばその花はあるのだ。」という「場所」と「花種」等の情報を与えることになる。そして、次に彼らの「すでに何者かが採取した、遅れてはならぬ。是非私も欲しい。」という欲望を煽(あお)ることにつながるのではないかという懸念を持つからだ。         

 ある年の5月5日に岩木山赤倉尾根の厳鬼稜線で、ミチノクコザクラの開花を確認した。その前年は6月半ばに同じ場所で確認していたから、例年より1ケ月半近く早いのである。
 それに「驚き、何かの異変、またはその予兆」ではないのかという戦(おのの)きから、河北新報に写真と一文を送ったが、場所はおおまかに「赤倉尾根」とだけにした。
 次の年は同じ月の22日に厳鬼山の肩付近で開花を確認し、さらに近くのダケカンバ林内でヒメイチゲの群落に出会った。その写真と一文は東奥日報社に送ったが、場所はただ単に「岩木山の風衝地(ふうしょうち)」(注)とした。
 詳しく書くと自己流「観賞家」のみならず「盗掘野郎」が我も我もとやって来るような気がしたからである。
 
 今年の早い春の訪れは確実に早い夏を連れて来る。大沢の残雪は7月を待たないで消えてしまうかも知れない。この早い季節は、花の開花を早めるだろう。
 このように早いペースで季節が推移する年には、驚くことに「ミヤマキンバイ」などは秋にも花をつけるのだ。
 素人の私が勝手に想像し、ミヤマキンバイを擬人化して言えば、「5月の上旬という余りの早春に花をつけたので、5ヶ月後の秋を次の年の春と勘違いしてしまったものらしい。」となる。
 今年は、その早さに比例して登山客も多くなり、その人数分ミチノクコザクラなどの不法採取による被害が増えるだろう。
注: 風衝地 高山の四季をとおして非常に風の強い場所

・シャガは不思議な花だ

2007-05-29 09:56:43 | Weblog
・シャガは不思議な花だ

 今を盛りと咲き誇っている花の中で、特に「異彩」を放っているものといえばシャガ(著莪)かもしれない。私はこの時季にこのシャガを見るたびに「美しい」というイメージの前に、その「奇妙」な風姿と外花被の不思議な模様に「変な花」だなあという印象を持ってしまうのだ。
 これはアヤメ科アヤメ属の多年草で、シャガは漢字で「著莪」と書く。この漢名からして奇妙で不思議な印象を与える。シャガは漢字では「射干」とも書く。別名を「胡蝶花」「胡蝶蘭」ともいうが、私はシャガよりも別名の方が気に入っている。
 ところが、本来「射干」はヒオウギの漢名の「シャカン」のことで、扇形の葉のつきかたが似ているので、誰かがシャガをヒオウギと間違って「射干」の字を充ててこう呼ぶようになってしまったのだろう。
 間違って命名した上に、まともな「漢字」力では読めないような難読語を充てられた後の世の私たちにとっては「いい迷惑」な話しである。
 学名はIris japonica Thunbで「日本のアイリス」という意味である。アヤメ属をあらわす「Iris」はギリシャ語の「虹」の意味で、Iris属の植物は、花色の変化が多く美しいので、ギリシャ神話の虹の精「Iris」の名をもらったといわれている。しかし、学名の「日本のアイリス」とは真っ赤な「ウソ」である。もっと私がシャガに好感を持っていたら、きっと、この「ウソ」を暴かないだろう。

 奇妙な花の印象は、私にこの花の「秘密」を語らせるのである。シャガは中国の原産である。れっきとした「外来種」なのだ。ジャポニカではない。これは「種子や球根」ではなく、遠い昔に誰かが生きたままのものを中国から海を渡って持ち込んだものなのだ。
 当時は、生きては帰れない覚悟で、いわば「命がけの航海」であった。そのような時代に、一体誰がどんな目的で、生きたままのこの花を日本に持ってきたのだろう。こう思うと、ますますこの花が奇妙で神秘なものに見えてくるのである。
 人の手で日本に持ち込まれた花だからだろう、竹林や杉林、神社やお寺の境内など、人の手の入った場所によく生えるが、人の手の入らない「自然林」などではあまり見かけないことも頷けるのである。
 高さ30~60cmの茎の先に直径5~6cm程度の白地に「紫と黄橙の絵の具を垂らしたような」妙な紋様のある花を数個つける。
 花期は季節感的には春なのだが、俳句の季語では夏である。晩春も初夏も、移ろいにはっきりした「区切り」などないのだから、それでもいいだろう。
 花びらは六枚あるが、緑色の萼はない。外側の三枚が萼に相当する外花被(片)で、この三枚に「紫と黄橙の紋様」がある。紋様のない内側のものを内花被(片)と呼ぶ。この花びらの相当している花片の並び方も奇妙といえば奇妙である。

 奇妙なことはまだ続く。
日本のアヤメの仲間ではシャガだけが常緑である。葉は剣型で長さは30~60cm。肉質で光沢がある。しかも、この葉は裏表のないように見える。まるで、紙を折るように内側に折られて、表面同士がくっついてしまって一枚の葉になっているのだ。こういう造りの葉を「単面葉」という。「ネギ」も単面葉だが、葉は折りたたまれているのではなくこちらは「円筒形」になっている。
 だが、よく見ると表・裏の区別があり、表の方の方の「つや」が濃い。長い葉は一方に傾く。上を向く面は表皮細胞の「クチクラ」が厚くなり、肉質で光沢が出てくる。こちらが「生態上の表」で、もう一方の下面には「気孔」が多く見られることから「生態上の裏」であると言えそうである。
 新緑が夏緑に変わる頃、久渡寺の長い石段の脇や境内の「日陰」で沢山のシャガの花が見られるようになる。「日陰」で見られることも奇妙なことだろう。しかも、日陰の花というとイメージは、「日陰の女」など「薄幸の女性」というイメージと同化して、あまりよくない。…などと「歌謡曲・演歌」の世界がちらつくのだが、しばらく立ち止まって丹念に見てみると「ほの暗い木陰だから清楚感が目立つ」ことに気づくのである。明るい陽光に燦々と照らされては「存在感が薄く、短命」というイメージが強まるかも知れない。
 短命というと、シャガはそのとおりなのだ。朝から夕方までしか咲かない「一日花」なのだ。だが、眺める私たちは、あまりそれに気づかない。それは、繁殖力の強い花で群生し、日ごとに咲き変わり、まるで「常時」咲いているように、目を楽しませてくれるからである。
 一日花であることは、茎ごと数本切り取ってきて、「生け花」として飾ってみると、よく分かる。朝にしぼんだ数輪が沢山落ちていることに気づくだろう。

 奇妙なことはまだ続く。花は咲くのだが、受粉もしないし、実をつけない。それでは雌しべや雄しべはないのかというと、ちゃんと子房を持ったものが「ある」のである。
 子房の先にある花柱は上部で三本に分枝して花柱枝(花柱分枝)をなし、分枝は花弁状で裏側(外側)上部に柱頭があり、その先はさらに二分し、さらに細かく裂けた状態になっている。
 私は、再三言っているが「植物」の専門家ではない。素人である。だから詳しいことは分からない。詳しいことが分からない人は「幸せ」である。それは、自由な発想や想像が許されることだ。今の私がそうであり、勝手にあることないことを「想像」に任せて書いている。
シャガは「受粉」による生殖機能を早々と「放棄」した植物なのであろう。しかし、進化の過程で形成された「雌しべや雄しべ」の形質をまだ残しているのだ。
 シャガは種子ではなく、根茎から匍匐枝を伸ばして株分けし、増殖する。染色体が三倍体なので受粉せず、実をつけないのでコピーで増える、つまり、クローンなのだ。奇数の染色体だと、半分がキチンと分裂できず、種(実)にならないのである。
 桜のソメイヨシノと一緒で、種から子供をつくることは出来ない。ヒガンバナ(彼岸花・別名、曼珠沙華・マンジュシャゲ)も同じで、染色体が三倍体で実が出来ない。球根で増えてきたということは、ヒガンバナはみんなクローンで、有史以前に中国から持ち込まれた個体が延々と生き続けて、日本で咲いているヒガンバナは中国からきた「一株」から分かれたとされている。

 シャガには個性がない。みな「同顔貌」であり、兄弟も親もすべて、「自分」なのである。「自分」の周りで沢山咲いている花々がすべて自分なのである。私たちの周囲にいるものが、すべて「自分」と同じ「顔貌」をしているとしたら、それは恐怖だろう。
 だが、そのような「国民」を育てるもくろみが、この日本でも「密かに」行われている。「花」どころではない。
 自分ばかりのコピーが、いつも横にいるのは、淋しいを越えて「絶対」の孤独の中にいることだろう。シャガの花に漂う「わびしさ」はそこから生まれるものかも知れない。 

 花言葉は「友人が多い」と「反抗」の二種類あるようだが、これも奇妙なことではある。



会報、封筒詰め作業終了・明鏡欄に投稿掲載・クマの駆除について

2007-05-28 06:23:35 | Weblog
 ・会報の封筒詰め作業が終了した。昨日の午前9時から始めて、午後の3時にようやく終わった。硬質のB4版2枚を重ねて4枚としたものを三つに折る作業は、最初の内は大したことがないが、枚数が増えてくると、圧する親指に負担がかかり痛くなってくる。だから、時々休んでは痛い指をさすりながらの作業となる。もし、お手伝いが一人でもいたら、この痛みは体験しなくてもいいかもしれない。実は今朝もまだ、両手の親指が痛いのだ。

 ・明鏡欄に投稿した「弘前公園はオオタカの棲む森だった」が26日の夕刊に掲載された。これで、この弘前公園有料化に関わるテーマで5回目の掲載となった。東奥日報では「弘前公園有料化」を問題として、関心を持って見ているのではないだろうか。多くの市民がいろいろな視点から、この問題を考え、発信していけるようになればいいとの考えで、私は投稿を続けている。

(承前)
 ・クマの駆除について 

 ところで、私には情報提供者とハンターとの「奇妙な接点」と、かれらの背後にいる駆除(殺害)されたクマを買い取る業者、駆除を認可する行政との「目に見えないつながり」が気になってしようがないのだ。
 クマは一匹時価相場で60~80万円にもなるという。毛皮、クマの胆嚢、肉などが珍重されている。なお最近は「何とか鍋」と称して、クマの肉を食べさせるところまである。
 害獣「駆除」という名目で「クマを殺害」すると「商売」になるのである。つまり、「人々の安全のために」というだれもが反論出来ないような絶対的な「名目」のもとで堂々と「商売」が出来るのである。
 下衆の勘ぐりと言われるかも知れないが…
『クマに出会って、襲われそうになった」人は、ハンターや業者の回し者で、これ見よがしに騒ぎ立てる。それらとつるんだ者たちが「危険」だといって騒ぎ立てる。マスコミはそれを報道して「騒ぎ」を拡大する方向で協力する。行政は「住民の安全」のために「駆除」を許可する。
 ハンターたちは大手を振って、「クマ」を追い詰め、殺戮する。そして、その殺害されたクマを業者はひっそりと何事もなかったかのような顔をして買い取り、ハンターや情報提供者、それに許可を与えた行政の係などは何某かのお金を手に入れる。』 
…という構図が浮かんできても何ら不思議ではないような気がするのだ。

 ※クマの駆除(射殺)に関して「許可」を与える行政に言いたい。
 
 ある動物園で係が檻の施錠を忘れ、その隙に外へ出た熊が、害獣と扱われ射殺(駆除)された。これは人間の扱いかた一つが害獣と良獣を決定するという象徴的な事件である。
 97年4月14日、岩木山大石神社から南に1キロの所で、Nさんが熊に襲われ死亡した。気の毒で心が痛む。新聞によると「岩木町役場から許可された熊の有害鳥獣駆除のため、仲間と熊の追い込みをしていた」とあった。
 となれば、「害獣駆除という公的な仕事の過程」でクマに襲われて死んだということになる。殉職か公務並の扱いで補償がなされて然るべきであると考えたい。新聞では、その熊が害獣駆除の対象となった事由については触れていなかった。そこで、私は駆除許可を与えた当時の「岩木町」に、次の二点について質問した。      
1、どのような情報で、このクマが有害鳥獣と認定され、駆除の対象になったのか。2、Nさんへの補償はどうなるのか。        
 なぜならば、仮にこのクマを害獣と認定しなければこの事故は起きなかったであろうし、またこのクマのどういう行動が害獣たる根拠なのかを明らかにすることが町のNさんと社会に、かつ野生の動物に対する責任だと思うからである。
 若し、クマの棲息域に人間が一方的に入り込み、クマに出会って、危険であるからそのクマを害獣と決定、駆除したのであれば、余りにも人間だけの論理に過ぎるのではないだろうか。
 ところが、クマ駆除に関する岩木町からの回答には失望した。私が質問で要求した駆除の「具体的に詳細に」を満足させることはないに等しく、しかも「仮定」したことを「既定」のこととして町が容認しているのだ。
 これだと「過剰防衛」だと批判されてもしかたがない。有害獣と認め、駆除するためには、歴然とした客観性と、しかも実証的、合理的、体系的な根拠が必要である。 私が質問で指摘したことは、「熊と人間社会との関係」と「自然生態系における種・生命体に関わる」具体性、詳細さである。
 これがないことは、明らかに「駆除」に関わる根拠の意味を失していることだし、Nさんや社会への責任を放棄していることでもある。根拠には有無を言わせない説得力と納得させる社会的共感が必要なはずだ。
 なお、町は「駆除理由」の詳細を公表していない。これは、町が社会の問題に対して世論を形成していくという役割を理解していないことであると同時に「駆除」に対する自治体の見解を公にして世に問うという謙虚な姿勢を持っていないものと考えたい。
 クマの「駆除」とは公的機関の正式な決定である。情報も主観的、抽象的、駆除の決定も客観的、説得力に欠け、駆除行動も業者的な利益や興味本位、趣味の満足に偏っていたとすれば自治体による「クマの殺戮」にほかならない。Nさんの補償も、町が率先してするという姿勢はない。許可と駆除との整合性があるとすれば、補償の責任はあるはずだ。          
                                      

会報42号「印刷完了」・クマの駆除について

2007-05-27 06:11:08 | Weblog
 会報42号が「県内出版」社から届いた。約400部である。B4版2枚を裏・表に印刷してB5版8ページ仕立ての会報になっている。紙質は裏・表印刷なので厚めであり、800枚となると、かなりの重量となる。
 これを2枚に折って、それをもう1枚に差し込んで、4枚重ねで8ページの会報1部が出来上がる。さらに、それを三つ折りにして、封筒に入れる。
 夕べも一人で、その作業をしたが、「目」のあまりよくない私にとっては、負担が大きく、早々とやめた。何とか今日中には終えて、明日にでも「会計」係に渡そうと考えている。
 封筒に入れると、かさばって「全体量」は大きくなる。自動車を持たない私はそれを50リットルのザックに入れて、背負って郵便局に持って行っていた。今回はこれをしなくても済みそうだから、単純に嬉しい。

(承前)

 ※クマの駆除に関する情報提供者(駆除依頼者)に言いたい。
 
 情報も依頼内容も厳密な客観性に基づいていなければいけないだろう。求める駆除の必然性を確実に満たしていることが大切である。
 昨日も触れた岩木山における97年の「駆除」事故に関して言えば、暖冬であったこと、例年より早い春の訪れなど、自然の諸相の理解を踏まえた上での情報提供であるべきであった。
 クマは暖かさに誘われて早々と冬眠穴を出た。しかし周囲は積雪である。餌はない。情報提供者である「釣り人」が、「自然の諸相」について理解をしていれば、クマが雪のない所に降りて、沢を下って来るのは当然であり、沢や川筋にいればクマと会うのも当然だと受とめたであろう。
 大体はクマの方が事前に人の気配をキャッチして人を避けるものだ。何事もなく、単純にクマを見たとか出会ったとかであれば、それは滅多にない幸運である。
 出来るものなら、その幸運な出会いをそっと胸に秘めておいて欲しいものである。本当に騒ぎ立てるほどのことがあったのだろうか。
 クマは本来の行動を、彼の棲息地でしていただけなのである。滅多にない出会いを勇に誇って、通報するようなことはあってはならない。
 情報をもたらす際は自己満足を伴う主観的な行動になってはいけない。情報は事実だけでいい。情緒的、心情的な思い込み・思惑や興味的要素を付加すべきではない。
 山や谷に入る人はもっとクマについて知るべきだ。最低でも、その棲息地、行動時間帯、餌の種類、採餌場所等は知っていなければいけない。                                  

 ※クマの駆除に関するハンタ-に言いたい。                 

 クマの「駆除」に関して、厳密な客観性と実証的、合理的、体系的な観点はハンタ-にも求められることであろう。ハンタ-とは、「またぎ」の流れに与する者であると考えたい。いわば、クマに関する専門家である。
 だから、その責任において、
1.「そのクマが棲息域を外れているのか」
2.「人間に危害を及ぼすものなのか」
3.「射殺という駆除をしなければいけないものか」
4.「このクマを殺すことでこの地域にいる他のクマはどうなるのか」
5.「種の保存はなされるのか」
6.「他の動物との関わりはどうなるのか」
 …等の判断を意見として述べて、決定までの過程で参与して欲しいのである。
 駆除依頼を待ってましたと、撃ち殺すことに、うずうずする腕だめしに、殺したことを誇りたいという気持ちに走ってはならない。
 専門家の誇りは無益な殺生をしないところにあるはずである。はやるハンテングスピリッツを抑制することにも意味があろう。

 ハンタ-にはいつも社会的責任として厳しい自主規制と抑止力が求められている。また、専門家としての強い自負心に期待される一方で、所持している銃がいつでも凶器になることを恐れるがゆえに、社会から謙虚で慎み深く、控え目であることを望まれているのである。
 その意味からも、自分たちから積極的に、駆除行為をしたいとか、駆除をさせて欲しいとは言うべきではないだろう。
 ましてや、駆除の実行も興味本位や趣味の満足に偏っていてはいけないはずだ。

幸運にも熊に逢える人のために (4)

2007-05-26 05:51:40 | Weblog
幸運にも熊に逢える人のために(4)

(承前)

 愛するものをとりわけ、よく知りたいと思うのは人情である。竹の子を愛するのなら、その竹の子を好んで食べるクマをも愛し、よく知ってほしいものだ。
 「情けは他人(ひと)のためならず」ということわざがある。他人に対する優しい愛情は、その人に対してだけでなく、結局は巡ってきて「自分のためになる。」ということだが、クマに対しても同じだ。
 クマに対する愛情は、クマの為ではなく結局は、人間自身をクマの危険から守るということになる。クマと共存・共生していくためには、まず、我々がクマのことをよく理解しなければいけない。

 数年前に東奥日報の夕刊、「明鏡」欄に「幸運にもクマと出会ったら…」という題で投稿した。掲載されたのだが、何と「題」が「不幸にもクマと出会ったら…」と「改変」されていたのである。
 本当にクマとの出会いは不幸なことなのであろうか。私は「滅多に会えない千載一遇のチャンス」を得るのだから、「幸運」の何ものでもないと考えて、「幸運」としたのだが、どうして、それが「不幸」なのであろうか。…などなどと考えて「明鏡」欄担当者に「題」の訂正を求めたが「すでに遅し」ということで、それはならなかった。
 「逢える」ことは稀である。稀少価値は「幸運」である。40数年岩木山に入っていて、これまでわずかに3回しか見ていないという事実はやはり、「幸運」である。
 「不幸」とするのは、それほどクマは凶悪で、危険な獣であり、恐怖の対象なのだと、捉えているからだろう。しかし、「危険な獣」とさせる要因を作りだしているのは、人間の方であり、人間の不注意と無知に他ならない。

 さて、クマの方も気づかず、人の方も、竹の子採りやきのこ採り、あるいは釣りに夢中になっていて「運よく」-なかなか出会えないのが普通なのだから、これはやはり運良くであろう-、出会った時には、次のことに気をつけたらいかがだろうか。

 1、すぐ、クマに背を向けて逃げ出してはいけない。クマは本能的に動くものを、とっさに追いかける習性があるからである。
 2、クマは人と視線を合わせないようにするが、こちらは視線を外さないで、少しずつ後ずさりをする。クマはその間に威嚇(いかく)のための行動をすることはあるが、あくまでも慌てないでゆっくりと後ろに下がること。
 3、死んだふりをすることは、「クマを怒らせていない段階では有効」である。しかし、クマに噛まれたり、障られたり、踏まれたり、引っかかれたりすることに人間が耐えられるかが問題である。
 4、木に登ることも有効であるが、クマはブナの実を、木に登って食べるほどの木登りの名人であることを考えると、効力は少ないだろう。大体、薮や沢には登に足る樹木は少ないものだ。   
 5、鳴り物をならし、大声をあげることは、クマもこちらを相当に怖がっていることを勘案すると、逆効果である。クマは強い反撃に出るかも知れない。
 6、獣は火を恐れると言われているが、クマはそうではないと言われているので注意すべきだ。

 いずれにしても、お互いに出会わないことが最良なのである。その為には、人間がクマを知り、クマが人を発見する以上に、クマに発見される感覚を磨かなければいけない。
 97年春、大石神社付近で射殺されたクマも、第一発見者の釣り人が先にクマに発見されていたら、有害獣とされることなく、ハンターのNさんも「自分が撃った」その手負いのクマの「最期の反撃」に遭うことなく死なずに済んだのである。手負いのクマは、その致命傷を負わせた者に、命がけの「最期の反撃」を加える動物であることはよく知られた事実である。
 人間はクマを殺させないために、より早くクマに感づかれ、見つけられる術を必死で身につけなければいけない。
 野生の動物はみな、必死で生きている。人間だけが、安閑として、しかも「都市生活」の感覚で山に行くことが間違いなのである。「必死」の覚悟で行くべきだ。
 本来おとなしいクマを、怒らせ危険な状態にするのは、ほとんどが人間の手落ちであるということを肝に銘ずべきである。                    

 (この稿は今日で終わりにする予定で書き進めていたが、もっと書きたいことが出てきたので明日も書くことにする。)                                     

幸運にも熊に逢える人のために (3)・「会報」印刷へ

2007-05-25 05:52:46 | Weblog
   会報印刷へ
 作成の遅れていた会報42号がようやく出来て、印刷所(県内出版)に昨日、持ち込んだ。仕上がりは26日夕方とのことだ。すでに、会員、マスコミ、協力者あての封筒へは「宛名」は印刷済みである。
 この前、会計のKさんが「郵便振替用紙」を届けてくれたので、あとはその通信欄に「会費・寄付 ( )年分」などと印刷すればいいだけになった。会報(B5版8ページ)の印刷が出来てくれば、それを三つ折りにして封筒に入れる作業がある。今回の作業はそこまでである。これまでは、事務局(局長、お手伝いの幹事数名)で封筒に、「振替用紙と一緒に入れてのり付けして、市内特別郵便とそうでないものと区別をして、郵便局に持っていって、配達申請書を書いて、郵送代を支払って」いたが、今回はこの作業を「会計係」がしてくれるというのである。
 だから、早めの作成が望まれたのだが、他にもすることが多くて、遅くなってしまった。今月中には「発送」出来るだろう。

 幸運にも熊に逢える人のために(3)

(承前)
  夏場は草木の繁茂のためにクマの姿は見えない。せいぜい、足跡とか糞に出会うことしかない。だが、クマはこちらの存在をよく感知している。
 このことからも解るように、不測の死傷事故を防ぐためには、いちはやく、クマにこちらの存在に気づいてもらうことが大事である。また、こちらがクマに気づくことである。もう少し具体的に言えば…

 第一に、風向きに注意を払いながら、大きめの鈴など、音の出るものを持ち歩くことである。ただし、大騒ぎをしながら集団で登山するような場合にはその必要はない。「鈴の集団は騒音」に等しく、不快なものだ。

 第二は、クマの棲息域を把握して、それに近づかないことである。

 第三は、クマの行動時間帯を熟知して、それと重なる時間帯には人間が行動しないことである。 

 第四は、クマの餌付け効果にならないように餌となるようなごみの類は残さないことである。「人は、我々の餌となるものを提供してくれるものだ。」とクマが学習すると、クマは人に近づくのである。北海道では観光地にヒグマが現われ、観光客が飲み残したジュ-スの空き缶をなめているという報告もある。

 クマの行動時間は殆どが採餌に費やされ、残りが繁殖と子育て、そして、睡眠となる。一日の行動時間帯は、早朝から数時間と夕方から宵にかけてのパタ-ンが多いようだ。
 採餌の時は、クマも餌を食べることに夢中で、彼等の鋭い聴覚・嗅覚もあてにならない。そんな時に、人と至近距離で出会うことになるのである。
 冬眠から醒めたクマは穴を出て、穴のまわりのフキノトウなどの若い芽を食べる。次第に採食範囲を広げ、ブナなど木々の若芽や花、昨年落ちたどんぐりなどを食べるようになる。
 雪渓が消える頃になると、根曲がり竹の薮やその下の沢で、竹の子やエゾニュウなど太めで水気の多い植物を食べる。
 そして、夏から晩夏にかけては、木々や草が、甘くて果汁のあるキイチゴやガマズミなどの実をつけるとそれを食べる。さらに、昆虫、蟻と蜂やその巣、サワガニなどを食べながら過ごす。
 そして秋を迎えると、ブナ、栗、ドングリ、クルミなどの殻に入った木の実を、木の上や下でどん欲に食べるようになるのである。この時期が一番食欲が旺盛で、クマも人に気づかないでいることがあるようだ。

 このことのいい事例として、次のような報告がある。
秋の九月中旬、白神山地、赤石川の狭い沢筋にある大きなぶな、その「熊だな」で実を貪り食うクマを、人の方が先に発見した。
 沢は一本である。人に気づき、ブナの木からクマが降りて来れば、人の位置とは至近距離、どちらも逃げ場がない。その場で人が大きい声でも出そうものなら、突然の恐怖にクマは向かってくるに違いない。
 そこで、そっと後ずさりをして、10数mの距離をとってから、「普通の声」をおもむろに出したという。一瞬、採餌の気配がおさまり、数秒後にブナから降りる気配と音がした。
 そこで、また「普通の声」を出して、自分たちのいる場所と方角を示してやったところ、クマは反対側の山手へと、沢を駆け登って行ったというのである。
 実際、このように対応することは難しいことである。クマを理解していたから出来たと言える。何よりもクマが餌を採る場所を、よく承知して、クマに会わないようにすることが肝要なのである。
 クマは人間をよく観察して「熟知」している。それに比べると、「人間」はあまりにも「クマ」に関しての学習が不足していて、「無知」である。クマと「鉢合わせ」をしたり、クマに「追いかけらる」ような人は、自分の無知を露呈しているようなものである。恥ずかしいことだから、他人には吹聴しないほうが賢明というものだ。

(この稿、明日に続く。)

幸運にも熊に逢える人のために (2)

2007-05-24 05:13:10 | Weblog
幸運にも熊に逢える人のために(2)

(承前)
 残雪の脇にフキノトウが勢いよく伸びている。場所によってはフキノトウの先端だけがきれいに摘み取られていた。これはクマの喰い散らし、採餌痕だ。いたるところにそれが目立ってきた。
 冬眠から醒(さ)めたクマは、好んでフキノトウを食べると言う。採餌痕はきわめて新しい。昨日、今日のものというより、つい今し方といったほうがいい。近くにいるはずだ。クマに会わないために、いや、不用意な出会いを避けるために、クマ除けの笛を吹いた。
 笛といっても何も特別なものではない。運動会やバスケットの試合で使われるきわめて一般的なものだ。クマ除け鈴とか言ってザックにつけて、車内だろうが、公道の上だろうが、大勢で歩こうが、場所や時に配慮することもなく「チンジャラ」と鳴らし続けている人がけっこういるが、あれは「クマにこちらの存在を知ってもらい、立ち去ってもらう」という目的を認識していない行為である。いい大人であろうはずの高年者に多いというのは、年齢は「行動とその目的の整合性を判断する物差し」では決してないということだろう。恥ずかしい話しだ。

 これが人のクマに対する「配慮」だろう。共生共存の原則は干渉しないところで見守り、互いを認めあうことだろう。
 後長根沢は雪崩の巣である。積雪期、特に新雪の後には入るべきではない。
 目の前には氷河のように固く締まり波打つ雪崩の痕跡、土石、直径2~3mほどの岩が、ごろごろと転がり中には逆立ちしているものもある。
 折られた立木、むしり取られた抜根などが重なっている。蛇行する雪崩跡の内側にはモレーン状に土石が溜まっていた。固く締まった雪崩跡を大きく右に回り込んで進むと、右手に急斜面のブナ林が見えてきた。
 ブナの幹は白く眩(まぶ)しかった。その鮮やかな白い林立を楽しもうと姿勢を右に向けたところ、黒いものが林内の雪の上を横切って行く。ゆっくりとした歩みだ。雪渓から外れると、いくらか落ち葉の褐色に同化して輪郭はぼやけるが、クマである。
 時々、立ち止まってこちらを振り返って見ている。嬉しい。恐怖などまったくない。そばに行って話しかけたい気分になってくる。妙に懐かしく、古い友達に会ったような気持ちだ。
 40数年岩木山に通っているがこの距離で、しかも、顔をこちらに向けて歓迎してくれたクマに会ったのは初めてである。
 会うとはこうした状況・状態での「出会い」を言うのだろう。

 数年来、害獣駆除の名目でクマは、この岩木山で殺されていた。この狭い山である。もう根絶(ねだ)やしにされてしまったかも知れないとの不安がいつもあった。よかった、元気で生きていた。頑張れよと声を掛けたい気持ちをぐっと抑えて、クマの動きをじっと見つめていた。その距離は約30m。夢見心地の中にいた。

 胸に提(さ)げていたカメラに気づいたのは、写真を撮るには離れすぎたところにクマが移動してからのことだった。
 我に返って、ようやくカメラを構えて残雪の上にクマが乗ったところを撮ろうとしたが、それは黒い岩にしか見えない。100mmのレンズに交換してやっと、その黒い「岩」撮ったのである。発見と同時に写しておけばもっと輪郭の鮮明なものが撮れたはずだ。
 私の写真術は、どんな被写体でもいつもこの体たらくだ。出会えた感動が先になり、それに耽溺(たんでき)し、じっと見つめていて、シャッターチャンスを失してしまう。私にはカメラマンとしての才能も技量もない。

 間もなく、クマは尾根を越えて視界から消えた。
 こちらの存在を知らせるために笛を吹いたのに、なぜクマはこんな近くにいたのだろう。クマは嗅覚と聴覚が鋭いと言われている。視覚はど近眼のためよくないのだそうだ。鋭い聴覚で笛の音をどうしてキャッチできなかったのかを考えてみた。
 その理由は風向きに尽きるだろう。風は沢に沿って源頭部に向かって吹いていた。私は風を背後から受けて歩いていた。クマが私の直線的な前方にいれば、風に乗った音を聴きつけることは容易だ。
 しかし、出会った時の位置からすれば、クマは私の右横のしかも相当離れた所にいたらしい。これでは音も臭いもクマのいるところまで風で運ばれることはない。
 何回かこちらを窺(うかが)うようにして、顔を向けたのは私の気配を視覚でぼんやりと確認していたためであろう。
 笛を吹く回数が足りなかった。もっとこまめに確実に、クマにこちらを知らせる努力をしないといけないと深く反省をした。

(この稿、明日に続く。)

幸運にも熊に逢える人のために (1)

2007-05-23 05:51:24 | Weblog
幸運にも熊に逢える人のために(1)
 20日はNHK弘前文化センターの講座「津軽富士・岩木山」で、野外観察として岩木山麓にある寄生火山・森山に「春の雑木林とその樹下に咲く花々の散策」に出かけた。
 その時、山菜の「ユキザサ、ウルイ(ギボウシの若芽)、ウド、タランボの芽、ソデコ(シオデ)、フキノトウ、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、ボンナ」などに出会った。時期的にすでに終わっているものもあるだろうが、今年の山は全体として少雪だったが、4月から5月の「低温」のため、残雪が多く、その消え方次第で、今のこの時季に、早い・遅いを取り混ぜて「多くの山菜」が一斉に「熟れ時」となったようである。
 その中で、まだ早いはずの「タケノコ」の繁茂には驚いた。山頂付近の「竹藪」は例年の6月、「タケノコ」シーズンを思わせるような成長ぶりで、参加者の大半が一食分ぐらいは採ったようである。

 「タケノコ」採りシーズンで思いつくことは「クマ」との遭遇である。クマも人も夢中になってタケノコを追い求めて「鉢合わせ」をしたという話しは毎年のように聞く。「鉢合わせ」だけならいいのだが、不幸にも「どちらかが負傷する」という事態になれば、「聞き置く」だけのことにはならない。
 人が傷つくと、その「クマ」は即、「害獣」とされ「駆除(殺されること)」の対象とされてしまうからだ。                   
 そこで、今や希少種と言われている「クマ」をこれ以上、有害獣にしないためのあれこれ、つまり「自然の諸相の一側面としての熊」に気を配った対応の仕方について述べてみることにする。
 私は熊の研究者でもない。特別に熊が好きで、ペットとして愛玩したいと考えている者ではもちろんない。私は熊に関しては、ずぶの素人であり門外漢である。このことを断わったうえで、熊と出会った時にどう対処すべきかについて述べることにする。

 熊は本来、小心でおとなしい動物である。熊のほうから気を使い、人間を避けてくれる。私は四十数年山歩きをしているが、この点では熊を深く信頼している。
 熊は視覚はあまりよくないが、聴覚と嗅覚は人間より数倍優れており、大体の場合、熊のほうが先に人を発見して、姿を消してくれる。
 だから、滅多に人が熊に出会わないことも当然だと思う。出会うのは、熊が食餌に夢中であり、人も熊の餌である竹の子採りなどに我を忘れている時に多いのだそうだ。
 私は、これまでに「残雪期の岩木山」で三回熊を見ている。対面したり鉢合わせをしたことはない。背を向けて逃げていくものと距離をとりながら同じ方向にゆっくりと一緒に歩いたということである。

 一回目は頂上付近である。頂上から赤倉尾根に降りようと下を見たところ、直下の鞍部に黒いものが二点見える。それは鞍部を横切り、斜めに大鳴沢に下って行った。親子連れの熊である。瞬く間にその二つの影は視界から消えた。周囲を見回したところ足跡があり南面から頂上を経て今、見た方向に続いている。
 私は鳳鳴小屋の方から登って来たのである。風は弱かったが、登って来た方向から吹いていた。熊は私の匂いを嗅ぎ付け、いち早く立ち去ったのだ。子連れの熊は怖い。赤倉尾根に降りるのは止めにして、百沢にすたこらと下山した。

 二回目は、大沢を横切って、後長根沢の源頭の方向に走って行ったものを見たのである。これは一頭だけであった。この時も、風は登って来た方向から吹いていたし、私は鈴もぶら下げていなかったし、ラジオをも鳴らしてはいなかった。
 しかし、熊は風に運ばれた私の気配を感知して、早々と移動して行ったのである。

 三回目は「桜まつり」の時で、春スキーシーズンの真っ最中だった。頂上付近はスキーヤーでにぎやかなはずである。その騒然さと煩わしさから逃れるためもあり、「人」には会えないはずの後長根沢を選んだ。
 予想どおり人にはまったく会わなかった静かな山歩きだったし、その所為(せい)なのか「すばらしいもの」に出会えて、ひとときの幸福感を満喫した。
 もちろん、源頭部の真ん中の沢を登り詰め、アルパイン的な登攀気分を満喫したいとの思いもあった。日差しは強く、晴れ渡ってはいるが東から沢源頭に吹き込む「やませ」は冷たかった。
 沢左岸沿いに走る古い林道入口付近にはカタクリ、キクザキイチリンソウ、エンレソウが、咲き乱れている。その傍らで、なにやらヴァイオレットの香りが漂っている。得も言われぬ芳香だ。やっと見つけることが出来た。背が低くて気をつけないと踏みつけてしまいそうな小さな花、アオイスミレの小群落が足元にあった。
 その芳香に送られて沢の奥へと入って行ったは10時近かったのである。
(この稿、明日に続く。)

湿地や湿原を守ろう!

2007-05-22 08:07:53 | Weblog
 湿地や湿原を守ろう!そのためにはどんな狭い範囲の「伐採」も許してはならない。自然の森を守らなければ、湿地や湿原は守れない。湿地や湿原が消滅したら、「あるがままの岩木山」も消滅するのである。

 沢の流れと伏流による湧水の潤沢さ、それが湿地や湿原には欠かせない。干潟が自然の指標であるように湿地や湿原もまた自然の指標である。
 湿地に毎年、「湧水温む水辺に簪(かんざし)かざす純白の少女たち」と称される「ミツガシワ (三槲)」などが咲くことは、湿地が正常であり自然のバランスが保たれているということなのだ。
 しかし、岩木山から湿地が、一つは乾燥化のため、二つには埋め立て等により「土地」が改変された結果、次第に見られなくなってきている。
 その原因は、堰堤の設置やそのための道路、それに林道、スキ-場の建設・設置とそのための道路の敷設、さらに加えて畑開墾、それらに伴う木々の伐採と水流の変更・断絶等であろうと考えられる。つまり人為的な乾燥化と人工的な土地の改変が進んでいることにある。
 鰺ケ 沢スキ-場を見ると、標高800mほどから下部の大鳴沢、徳明沢、大白沢に挟まれた数本の尾根はブナ林が伐採されて数条のゲレンデになっている。その伐採された総面積は目をみはるほどに広大である。沢すじの乾燥化はより進んでいる。
 それだけではない。ゴンドラ終着地点の上部には岩木山で「唯一」といわれる「高層湿原」がある。伐採と広大なゲレンデ開鑿は地表面から多量の水分蒸発を促す。その結果は目に見えている。上部にある貴重な「高層湿原」が乾燥してしまうということなのである。

 鰺ヶ沢スキー場の下部に位置する黒ん坊沼付近も、脇を舗装道路が通り、側に畑が出来てからは湿地が減少しつつある。この舗装道路は農道だという。ところが、この道路の両側には農地や耕地は見られないのだ。わずかに松代の石倉地区に入る辺りでようやく出てくるに過ぎない。
「何のための農道なのか。」という疑念で見ると、大白沢と小白沢を一挙に跨ぐあの橋も農道には不釣り合いに思える。
 「農村振興」に道路の整備は不必要とは言わないが、どうも「振興」という錦の御旗のもとでは、具体的かつ土木的な構築物の建設だけが先走り、それだけが目に入る。
 「農村振興」とは、そこ暮らして人情や自然の織りなす景観に愛着を持ち、農業に誇りを持てることを行政が保証することではないのか。
 真の振興とは「人々の心を振るい興す」ことである。農業だけではない。すべての産業や職業に就いている者に共通することである。それが先決だ。
 行政はそのことに腐心すべきである。何も経済の振興だけを指すものではないし、一部の人が潤うことだけを言うのではない。農村の人々が理想を持ち、自分を含めた人々の未来を信じて、安全で楽しく日々生きれるような政策を実行する。これが振興ということだろう。
 振興という時、前述した「橋」のように、そこにはかならず「具体的な土地の改造と建造物・構築物」が姿を見せる。どうして、物に依らない農村に暮らす人達の「内的な心の振興」が図れないのだろう。

 ところで、湿地の減少はなにも岩木山に限ったことではない。津軽国定公園地内の増川岳山麓のミズバショウ自生地も道路がそこを囲むように敷設された結果、湿地が減り、昨年の4月に観察したところ、すでに立ち枯れをおこしていた。
                                     
 ヨ-ロッパ世界は、森を支配する一神教の下、森をはじめとする自然物は、すべて人間のために存在すると考えて、「森」を利用し収奪した。
 ギリシャ・ロ-マ時代からほんの近世までは、まさにその歴史にほかならなかったのだ。鉄の文化や砂糖の文化は「木」に支えられて発展してきた。そして、百数十年前にヨーロッパでは森の大半を失っていたのだ。
 しかし、ヨーロッパ人は人間の叡智を少なからず残していた。薄れ行く先人の原風景を大切に受け継ぎ辿り、育てて行くことに心を砕いたのである。
 原生のオ-クの森は失ってしまったが、人の手によるブナの森は立派に蘇ったのである。この思想は、第一次、二次大戦を経て廃墟と化した都市景観の復興にも生かされているのである。
 我々日本人はヨ-ロッパ人と違い、森を大事にしてきた。まさに「森の民」であったのである。その原点に立ち返ればいいだけなのである。         

遅ればせながら…自然観察会の報告(最終回)

2007-05-21 11:07:31 | Weblog
 (19日のブログを承けて)遅ればせながら…自然観察会の報告(最終回)

 さらに加えて、雨天の時は視界があまりよくない。その理由は、霧とか曇りとか暗いとかいう自然現象だけではない。傘をさしたり、雨具のフードで視界が遮られたり、左右、上下の視野が狭窄されることにもよる。
 だが、あまり見えない時ほど「聴く」という感覚での「観察」があるわけだ。
今回のそれは一つに、野鳥の鳴き声に耳を澄ますということであり、会員の「野鳥のプロ」が2人も参加していたので、その対応は十分であった。
 二つには、広い後長根沢の川原の林道は一応「沢」に沿って敷設されてはいるが、地形を改変しないで造られているので、ある場所では沢を離れ、別な場所では沢に接近していた。その距離が雪解けをたたえて流れる瀬音を、ある時は激しく、ある時は微かに響かせていた。それに耳を傾けることであった。
 広い川原に出る少し前に、杉の植林地がある。まったく手入れのされていない「放置林」である。間伐がまったくされていないので薄暗く、樹下には杉の葉が敷き詰められ、堆積しているだけである。緑なす草本の影はない。
 昭和40年代から、林野庁は山の雑多な樹木を伐採して、そこに「杉」を植えてきたし、林にもミズナラなどを伐って杉を植えるように指導してきた。
 樹木の寿命は人間よりも何倍も長い。ブナなどは400年から500年の寿命であると言われている。だから、林野行政は時間的に長いスパン、つまり数百年を見越した思想がその基本になければならい。しかし、日本政府や林野庁は「目先の価値」を行政の基幹にすえて突っ走ってきた。それが日本の天然林をことごとく消滅させることになったのである。「放置された杉植林地」は、それを証明する現実的な証拠の一面である。
 *間伐:(森林手入れ法の一。立木密度を疎にし、残った木の肥大成長を促し、森林全体を健康にするため、林木の一部を伐採すること。すかしぎり、疎伐ともいう)。

 杉の植林地を抜けたら、そこは明るく、ヤチハンノキなどが茂り、樹下には緑が一面に繁茂していた。地獄の出口を抜けて天国の門から広場に出たような気分になった。参加者は一様に、杉林と雑木林の「林床と林相」の違いを十分に学んだのである。
 
 明るい森、下草と竹藪に覆われている林床、ここは野鳥の楽園である。黄色と黒、オレンジ色の色彩で飛び交わし、枝上で鳴き交わすキビタキ。忙しそうに移り飛び交うヒガラやヤマガラたち。
 遠く瀬音に混じってひときわ高音でさえずる鳥がいる。野鳥の達人・飛鳥和弘さんが説明をしてくれる。「あれはミソサザイです。非常に小さい鳥で、地味な焦げ茶色をしている鳥です。目立ちませんが、鳴き声は澄んでいて、しかも高いトーンなのでよく聞こえます。あの小さい体で一体どこからあのような声を出すのか不思議なくらいです。」
 飛鳥(あすか)さんは野鳥の達人だが、「姓」との因果関係はないので断っておこう。実は密かに、私は『飛鳥さんは「野鳥の達人」となるべく「飛鳥家」に生まれた人ではないか。』と考えているのだ。
 
 時折、激しく雨を降らし、風を巻き上げるが、幸い落雷や雷鳴の一片にも遭遇しなかった。しかも、低空を覆っている雨雲が晴れ渡ることもあった。
 その時に、眺められる景色は…「墨絵の世界に淡いカラーが点在している一幅の屏風絵」であった。
 それは…眼前には、沢に落ち込んでいる急峻な谷頭が見える。雨天の霧に煙る谷の前景として、その左右に広がっているブナ林の尾根は淡い緑に白いタムシバの花、谷に接する低い部分はオオヤマザクラのピンクという美しい色彩なのであった。

 しかも、足許には白花のキクザキイチリンソウの群落があった。
ここでは会長の阿部東の出番である。参加者全員でキクザキイチリンソウを一輪ずつ採取した。そして「花びらの数」を数えたのである。正しくは「萼片の枚数数え」である。花びらと見えるものは萼片である。キンポウゲ科の植物にはこの手合いが多い。
 花びらの数は9~13枚であった。それを受けて阿部会長は「花びらの数は受け継ぐ遺伝子(染色体)によって決定される。あるものは、3の倍数という遺伝子で決定されて、それは3枚とか6枚の花びらになる。キクザキイチリンソウはここでは9~13枚である。だからすべてが3の倍数にはならない。ということはこの遺伝子は3の倍数ではなく、何枚でもいいという遺伝子なのである。」と説明した。
 全員、納得である。全員何だかとても「物知り」になったような、満足感と得意げな面持ちを見せていたのである。「よかった。」と心ひそかに思った。

 最後に参加者の感想として、Tさんのものを紹介しよう。
『雨の中であったが、それを生かしながらの観察会はすばらしいものだ。特に驚き感動したことは「スミレ」の香りである。スミレにあれほどの芳香性があることを初めて知った。植物や花を「香り」で探求し、愛でる経験は初めてである。これからもこの方法での観察を大切にしたい。また、別な意味での感動は「放置されたままの杉林」である。若い頃、勤務先でも杉の植林事業に協力して「学校林」に杉を植えた。今日見た放置林のようになっているのかと思うと、心が痛む。そして、国や自治体、民間で推し進めてきた事業の無策ぶりに寂しさと憤りを感じている。』
 
 今回の自然観察会は、このTさんの感想で締めくくりたい。雨天の自然観察会は十分に成功したと主催者の1人としては、考えている。

昨日の東奥日報夕刊・「明鏡」欄に「風水的見地と公園の有料化」が掲載

2007-05-20 20:05:54 | Weblog
 昨日の東奥日報夕刊・「明鏡」欄に「風水的見地と公園の有料化」が掲載

 今日は自然観察会の報告の続きを書く予定だったが、昨日の「明鏡」欄に「弘前公園の有料化」問題についての投稿が掲載されたので、そのことについて書いてみたい。
 一連のこの「問題」に関わる投稿掲載はこれで4回連続となった。次にこの4回分を掲載する。

        弘前市議選と公園有料化(1) 4月14日付

 市会議員選挙で、争点となるだろうと考えていた「政務調査費」が「支給しない」という議会決議で、あっさりと争点でなくなってしまった。選挙目当てのパフォーマンスでなければいいと考えている。現市長は「新しいまちに新しい風を」というスローガンを掲げた。市民の殆どは「何か金澤市政とは別な新しいこと」と考えて期待に胸をふくらませたはずだ。私もその一人である。風は目に見えない。市民は肌で感じ、耳で聞ける金澤市政では吹かなかった「風」を期待している。「政務調査費なし」は新しい風であった。
 ところで、「弘前公園入場料問題」は「無料」という方向でなければ新しい風にならない。入場有料化であれば、それは前市政の継承に過ぎないからだ。
 立候補予定者に言いたい。市民にとって「弘前公園」とはその歴史的、自然生態系的背景はどのようなものであったのかを「すべての市民からの付託に応える」という使命を持って勉強してほしい。
「弘前公園」が持つ歴史的遺産と里山としての自然的な遺産、および本丸で岩木山を拝むという市民感情が有料化とどう結びついているかを学習してほしい。そうしたら、きっと、選挙公約に「弘前公園有料化反対」という一項が登場するはずである。あなた方はそこで市長の言う「新しい風を吹かせる」ことになるのである。

      岩木山信仰と公園の有料化(2) 4月24日付

 弘前出身でジャーナリストの鎌田慧は、講演会「私の岩木山」で「囲いのない郷土精神を取り戻すためには、公園入場有料化は撤廃すべきだ。」と語った。同年、A紙に「故郷の風景カネにかえるな」という題で次のように書いている。 
『…これまで、市民がこころのふるさととしていた風景を、だれかが勝手に囲いをつくって出入りを禁じ、カネを要求するなどできないはずだ。それは故郷を売る行為でもある。カネ、カネ、カネ。郷土の精神を形成してきた風景までカネにかえようとする貧しさが悲しい。』(抜粋)
 金銭的束縛のない中、自由に「本丸に上がり、岩木山に向かい合掌する」という信仰的な行為を、きわめて当たり前にしてきた。これは弘前市民にとって廃藩置県以来の長い歴史的な慣習、無形の文化でもある。
「我が町の象徴である岩木山を弘前市は本丸から見せてお金を取っている。許されることではない。」という岩木町民の発言からも分かるように「入場有料化」に対する反対や批判は岩木町でも根強かった。これは「拝観料的入場料徴収に対する羨望」ではない。
 対価を超えた崇高な存在である岩木山を拝ませて金を取るということが許せないのだ。この発言には、岩木山を金銭の対象とした冒涜的な行為に対する憤りが籠もっている。岩木山を誰にも売り渡したくないという深い愛情の吐露だ。やはり、「本丸に上がり岩木山を拝む」という行為には、金銭という囲いは馴染まない。

       有料化の議論と弘前公園の自然を (3) 5月7日付

 弘前公園は自然的な遺産でもある。有料化の議論にはこの視点が必要だろう。
弘前市は都会よりも「緑」が多いといわれるが、周辺の緑は大半が生産量全国一を誇る「りんご園の緑」である。春にはクロモジの花が咲き、秋にはどんぐりをつけ、竹やぶが繁茂する「里山」は弘前には殆ど存在しない。「里山」となると首都圏近隣の自治体の方がはるかに多いのである。こうした中で、唯一、弘前旧市街地に残っていた貴重な「里山」が弘前公園であったが、そこの「緑」は首都圏の公園より少ない。首都圏のみならず、国内の大都市で、自然を護れという時、それはほぼ「里山を護れ」であり、行政が積極的に取り組んでいるという報告も多い。
 ところが、弘前市は金澤市政から都市公園的な方向に走り、里山的な自然史や植生を無視した過剰な整備を年々続けてきた。その結果、里山の風情が失われ、緑が減少したのである。弘前公園には、ラショウモンカズラなど五十種以上の植物が豊かな植生として自生していた。しかし、最近毎年咲いていたラショウモンカズラまでが竹藪ごと剥ぎ取られ消滅した。過剰な整備と入場有料化はセットである。皇居の森にならい、整備をやめながら自然の回復につとめ、入場無料で自然観察会の出来る「自然あふれる里山公園」として楽しんでもらってはどうだろう。

         風水的見地と公園の有料化 (4) 5月19日付

 有料化の議論には「都市公園」的な視点が中心にあって、「観光・集客」という面に傾斜し過ぎているように思える。公園の持つ「風水」に基づいた歴史的、文化的遺産という面なども議論には必要である。本丸のある公園は風水をうつしとっている。風水では東北が鬼門なので、その方角の天守閣周辺の堀は「角」になっている。ただ、その東だけは「角」があまり目立たない「鬼門くずし」となっているそうだ。
 「有料化による隔絶化」を考える時、「鬼門くずし」の東北に「茶畑町」のあることが非常に重要な意味を持つであろう。本州最北の地にどうして「茶畑」なのかと訝る人もいるだろうが、ここでは茶が栽培されていた。その昔「茶」を「邪」(じゃ)と読み、「茶を摘む」は「邪を摘む」に転訛し、「茶畑町」はお城に降りかかる「邪悪」を摘み取る役目の町並みであったわけである。このようにお城と町並みはしっかりとつながっていた。 この「風水説」からも「本丸」は町並みとしての旧市街から「隔絶」された場所でなく「公園」を含んだ連なりとしての「同一区画」であることは明らかである。
市民にとって風水的精神や都市的な構成性からも公園は「有料化」という隔絶的な「鬼門」で区切られるものではない。この「鬼門」を撤廃して出入りを自由にしておかないと「邪を摘み取る」ことが出来なくなるかも知れない。

 今日はNHK弘前文化センターの講座「津軽富士・岩木山」で、野外観察として岩木山麓にある寄生火山・森山に「春の雑木林とその樹下に咲く花々の散策」に出かけた。終日風は冷たかったが、日差しは強く晴れの天気だった。先週の日曜日もせめて、今日の半分でいいから日差しがあったならと恨めしい気持ちを起こさせるような「晴れ」だった。
 今日から新しく受講者が2名増えた。本会の「自然観察会」参加者は年々減少傾向にあるが、この文化センターの講座は健在である。定員を越える勢いである。受講生の居住地区も弘前市だけではなく、つがる市、藤崎町などと広がりを見せている。
 
               注:寄生火山…
 火山本体が成長するにつれてその山腹に噴出した火山のこと。この寄生火山の配置によって東から見る見事な円錐形の岩木山も、岩木山では西側に偏在しているので場所によっては歪んだ円錐形になってしまう。森山の北にある小森山も寄生火山といわれている。なお、岩木山の寄生火山は、なぜかしら「森」という一字を山名に持っているものが多い。「黒森」「一つ森」「若木森」「追子森」「笹森山」「鍋森山」「森山」「小森山」などである。

(自然観察会の報告の稿は、明日書くことにする。)

自然観察が始まった、エゾアオイスミレとの出会い!

2007-05-19 06:20:28 | Weblog
 自然観察が始まった、エゾアオイスミレとの出会い!

 林道の入り口付近に駐車をして、後長根沢の小さな支流沿いに進んだ。
まだ葉はまったく出ていない空疎で寂しいニシアカシヤの林である。その林下は緑なす原で、きめ細かくツクシが背丈をそろえて生え、オオウバユリの若葉がサイケデリックな模様と光沢ある色彩でその原っぱに点在していた。そして、降りしきる雨は、静かにその緑とツクシの淡い肌色に吸い込まれていた。

 「これは何々です。」という一方通行的な解説で終わる「観察会」(?)もあるようだが、それではおかしい。
自然観察会の目的の一つに「自然で観察されるものと人との関わり合いを知る、そしてそこから覗い知ることで自然を再確認する。」ということがあるように思えるのだ。
 その意味から、飢饉植物としての「オオウバユリ」について考えてもらった。名前からも解るように、これはユリ科の植物なので「根」が食べられる。つい最近まで食べていたものだが、それは飢饉の時の代用食としての名残であろう。
 同じユリ科のエンレイソウ(エンレイソウ属)が小群をなして、沢沿いに生え、その周りにはエゾエンゴサクが咲いている。この辺りは雪消え間もない場所なのである。
 エンレイソウはユリ科でなくエンレイソウ科とするべきだとする学者もいるようだ。いずれにしても、この草は薬草である。漢字では延齢草と書いて、いかにも効能が高そうである。

 林道はいきおい雑木林の縁ということになり、日当たりがいい場所である。小低木のクロモジ、アブラチャン、それに遅咲きのマルバマンサクなどが花をつけている。それらを眺めながら、私は鼻を利かせて、目で紫色の花を「地肌」に追っていた。
 その花は、暖かい陽気の時ほどその「芳香」を増す傾向にあるので、暖かくて晴れていれば「鼻を利かせる」必要はまったくないのだが、この天気なのでその植物たちが「香り」をどこまで発散させてくれるかは不安であった。
 私は、教えることなく参加者自身に、その「香り」に気づいてもらいたかった。そのためには、まずその花を視認する必要があったのである。
 薄紫の小花がチラホラする。だがそれは求める花ではない。ナガハシスミレ(テングスミレ)であった。これは里のスミレだ。種が人の衣服などに付着して里からここまで登ってきたのだろう。距(花にある管状の狭長な突出部。内部に蜜腺がある。スミレの花弁などにある。)が極端に長いので直ぐに見分けがつくスミレだ。
 だが、そろそろ、その求める花は「出てくる」だろう。
 そこで「今日のカタクリは、みんな下を向いて、私たちに顔を向けてはくれません。私たちの友だちではないからです。すべての感覚を使って、新しい今日の友を探しましょう。」と言った。

 それから、数分後である。香ってきた。何という芳香だろう。暖かく晴天の時よりは、少し弱めであるが、確実に私たちの「嗅覚」は、その「芳香」をとらえ始めたのである。参加者たちは「嗅覚」というレーダーで「香り」の発信源を探し始めたのだ。
 林道の縁をきれいな水が流れている。清流といえそうだ。その傍に「香り」の発信源が、咲いていたのである。一輪を採る。それを各自輪番で、鼻に近づけて香りを嗅ぐ。
 歩みは止まった。早春の香り、「ヴァイオレット」、アオイスミレであった。葵菫と書き、葉が徳川家の紋、葵の葉の形と似ていることからの命名である。

 私は花弁に注意をしていた。丸みがないのである。花弁の縁が浅く裂けてくびれている。しかも、咲いている場所が、雪解け間もない冷たい水の流れる近くである。となれば、これは「エゾアオイスミレ」だ。本当に珍しいことだ。
 この沢の上流のしかも、岩の裂け目で初めて「エゾアオイスミレ」と出会ったのは、確か4月の中旬であった。一ヶ月遅れのこの時季に出会えるとは、まさに「幸運」というほかはない。この出会いも、「雨天」の恵みに違いない。

 香りを出すスミレには「スミレサイシン」がある。これはアオイスミレほどではないが、花など全体が大きいので「体積的」に「香り」が強くなる。下見の時に、これも確認していた。花がよく目立って、参加者はすぐに気づいたが、何しろ「香り」は「アオイスミレ」の二番煎じ、何となく浮かない雰囲気なのであった。
「嗅ぐ」という感覚を使い、山道で香りから早春(エゾアオイスミレは本当に早春の花なのである)を堪能してもらえたはずだ。まさに、「雨天」というマイナスがプラスに変化したとも言えるだろう。
 (この稿は明日に続く。)

雨の日には雨の日の発見があるものだ…

2007-05-18 05:44:41 | Weblog
 雨の日には雨の日の発見があるものだ…(自然観察会の報告)

 とにかく集合時間から解散時間まで土砂降りではないが「雨」に歓迎された催しごとになってしまった。
 自然を相手の行事や催事は「晴天」が何よりの贈り物であって、少々計画にずさんさがあっても、案内や主題に不備があっても「終わってみれ」ば「よかった」ということになるものだ。
 ところが、「雨天」だとそうはいかない。最初から「雨天」ということで参加者には不満と残念さがある。主催する側は否応なく参加者のこの天気に対する「不満と残念さ」を取り除くことに気を配らなければいけなくなる。つまり、余計な仕事が増えてしまうというわけである。

 こういうことがあった。PTAの登山教室で八甲田山に登った時である。登りはじめから雨であった。最初は参加者同士のおしゃべりが続いていたが、しばらくして、登山道の勾配がきつくなり、かなり「高い場所までやって来ている」のだろうと感じはじめ出すと、その「おしゃべり」はとぎれとぎれになり、次第に無言になっていった。
 そして、時折、「何にも見えない」(雨天で濃霧、そのため周囲がまったく見えないということ)といううめきにも似た声が参加者から聞こえ出した。

 高いところに登って、そこから「360度の眺望を楽しむ」ということも「登山の目的」であるに違いない。その日はその目的を放棄しなければならない状況にあった。しかし、「登山の目的」はそれだけではないだろう。目的はそれほど一元的なものではない。一つの目的にだけこだわると心が「全盲」状態になってしまうのだ。
 このような時は、見るという「心の窓」を広げるのである。周りが見えなければ足元を見ればいい。時は6月の中旬だった。八甲田山では高山植物が咲き出す時季である。
 私は「足場が悪くて滑りますから、気をつけて下さい。」と言いながら「足元や手元に注意しましょう。その時見える花に注目しましょう。」とさりげなく言って、参加者の関心を「花や植物」に向けるようにした。
 すると、誰からともなく「この黄色の花はなんですか。」とか「まあ、何ときれいな花だこと。」とか「これは家の庭に咲いている花に似ている。」と言うセリフが聞こえ出したのである。参加者の「心の窓」は広がり、関心は手元・足元に移動したのである。
 参加者たちは、その開かれた目で「観察」を始めたのだ。登山の目的が高みを目ざし、眺望を楽しむということから、足元、手元に咲いている花を楽しみながら登るということに変わったのである。何も見えないのではなく「見よう」としていなかっただけなのである。

 ところで、嬉しいかな、さすがに「自然観察会」に参加する人たちは、登山者とは違う。何よりも「単眼」ではない。いろいろな角度から自然を「複眼」的に眺める。
 トンボ類の複眼では360度が見えていると言われるが、そのような目で自然を見ようとしているのだろう。だから、雨の日でなければ「見えないこと」もしっかり見ようとするのである。

 今年は特に早くて里山では、すでにスプリングエフェメラルズと呼ばれるキクザキイチリンソウもカタクリもその開花期を終えていた。しかし、今回の観察地域の林道脇にはまだ咲いているのだった。しかも、カタクリは道路の両側に延々と群生しているのである。標高があり、雪解けが遅い場所だからである。
「時季外れのスプリングエフェメラルズの鑑賞と観察」をもって「雨天」というマイナス要因をプラスに変えて、差し引きゼロ程度にしたいと考えていた。
 もう一つ、「嗅ぐ」という感覚を使い、山道で香りから早春を発見してもらい、「雨天」というマイナスをプラスにしてもらうということだった。ただ、暖かい陽気の時ほどその「芳香」は強さを増す傾向にあるので、この天気でその植物たちが「香り」をどこまで発散させてくれるかは不安であった。
 さらに加えて、雨天で視界があまりよくないが、見えない時は「聴く」という感覚での「観察」があるわけだ。それは野鳥の鳴き声に耳を澄ますということだった。会員の「野鳥のプロ」が2人参加していたので対応は十分であった。

 ところが、その日、「カタクリやキクザキイチリンソウは人の友だち」ではなかった。群生するそれらすべてが、堅く花弁や萼片を閉じて、俯(うつむ)き、頭を深く垂れ、雨のしずくを涙として、埋葬に集う参列者のように立ちつくし、歩いて行く我々をまるで葬送の列であるかのように見送るのであった。
 「カタクリやクザキイチリンソウは曇天や雨天の時は、花弁や萼片を開かない」ということは誰もが知っていることであろう。だれもが「知識としていること」を目の前で、現実として確認できたこと、これを私は、「本物の観察」だと考えている。
 そして、目の前の、これらの花が「心を許し、心を開く友だち」は「太陽であり虫たち」であることを事実として受け入れざるを得なかったのだ。
 寂しいことだが…、それは言い換えると「カタクリやキクザキイチリンソウ」が心を開く友だちは、決して私たち「人」ではないということであった。

(この稿、明日に続く。)

第40回「岩木山自然観察会」の報告の前に…パソコン不調!

2007-05-17 20:22:35 | Weblog
「…パソコン不調!」
 起動用のファイルが破損したらしいのである。それは、チェックデスクのオプションでファイルシステムエラーの修復や不良セクタの回復を試みて、一応回復したようにみえるが、電源オフでもう一度起動すると「ブルー画面」になってしまうというものであった。
 1台のコンピュータが不調でも、そのような時のために「予備」として数台持っている。ところが、「不調」が顕在化してくると、予備を使用するよりも「不調」なものの原因を探りたくなり、かつ「修復」を試みてしまう。
 そのため、今朝早くに書こうとしていた「ブログ」が後ろ後ろと流されて、とうとう今の時間になってしまった。
 しかも、今日は大学病院眼科の検診日で、瞳を開く薬を点眼されたものだから、その効き目がさっきまで続いて、「視界」が「もやもや」状態だったので書く気になれずこの時間になってしまった。
 私は数年前に「黄斑部出血」で左目の視力が正常値の半分以下になっている。そのような状態だから文章を書くという作業は堪えるものだった。
 しかし、「コンピュータの不調」への挑戦は止めどもなく、さっきまで続いていた。今、現在その回復したコンピュータでブログ書きをしている。
 結論から言うと、OS「Windows XP Pro」をインストールし直して、アプリケーションも新たにインストールしたということである。

 症状は「Windows」が起動しなくなったということだ。起動には4種類の方法があるが、いずれも駄目。そこで「コマンドプロンプト」(回復コンソール)を使っての方法を選択した。
 「コマンド」を使うことは「Linux」でかなり経験した(とは言っても囓った程度)が、正直なところ、私は「コマンドプロンプト」の扱い方が苦手である。
 あれこれとやってみたが、結局は投げ出して、インストールする中で「修復」を図る方法をとってみた。
 ところが、これが難題であった。途中で「Windows」がダウンしてしまうのである。よく言われる「ブルー画面」というやつが次々に現れるのだ。なんと、OSのインストール途中にである。
 しようがないので電源オフである。何回かその繰り返しをした挙げ句、「クリーンインストール」ということになってしまった。
 これには時間がかかるし、厄介なのがマイクロソフトとの「認証」というプロセスだ。今回はOSとWord2003の両方の「認証」を受けねばならなくなってしまった。
 ちなみに、このような症状は今回が初めてではない。Aメーカーのある「マザーボード」を使い始めてからのことである。
 ということで、観察会の報告は、以下に掲載するが、続きは明日ということにしたい。

 第40回「岩木山自然観察会」の報告

第40回「岩木山自然観察会」はこれまでの最少参加者数で実施された。
 かつて、西岩木山林道から二子沼を巡るコースで実施した時には、5班編制(班構成人数は20~22名)で、100名を越える人たちが参加をしてくれた。
 ただし、それが人数的にはピークで、その後、年を追うごとに80名、70名、60名と減ってきて、最近では30名前後で「定着」していた。
 ところが、今回は14名とここ数年の30名前後を大幅に半数までに減らしてしまった。
会員外の参加者がわずかに3名である。「少ない」ということでは記録づくめである。
 その方々に「どうして参加者が少ないのでしょう。」と訊いたところ「自然観察会やそれに似た催事が他でもあり、日程的に重なっている。」「知り合いも最初はこの観察会に来るような話しをしていたが、もっと近くて楽そうなところがあると言ってそちらに行った。」という答えが返ってきた。
 本当に最近、「自然観察会」はひとつの「ブームやラッシュ」状態であるかのようだ。ただし、その内容はひたすら「人集め」に中心を置いたコマーシャリズムからの、参加料や案内料がかなりいい「値段」である「イベント」的なものから、「あるがままの自然を観察して自然を保護する思想を啓蒙していこう」とするものまであるようだ。当然、前者が多く「参加者」もこちらが多くなる。本会が目指している観察会は当然、後者の方である。
  (明日に続く。)