岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

厳冬の造化・エビのしっぽと雲海 /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その6)

2008-02-29 06:02:54 | Weblog
( 今日の写真は山頂直下で見たエビのしっぽと雲海だ。針で突き刺すと蒼い液体が噴き出しそうだった「蒼い上空」に雲が増えてきた。
 すじ雲とも呼ばれる巻雲で極めて小さい氷の結晶から成る。これが上空に現れると悪天の兆しで、明日のお天気は下り坂となる。
 その下に見えるのは積雪だろうか、いや違う、雲海だ。真っ直ぐどこまでも歩いていけそうな気持ちになる。
 しかし、私には目前の閼伽棚(あかだな)に供えられた海老のしっぽを壊して前に出ることは自然の冒涜に思えた。
 閼伽棚には、自然の造作、すばらしい彫刻師が雪面を削り穿ち、水滴や雪片を貼りつけて創りあげた海老のしっぽが林立していたのだ。
 山頂部には中腹部から雲がわき上がってきていた。薄い層雲であり、これで天気が崩れることはない。
 写真中央下端の平らに見えるところは、風が這うように撫でるように吹き抜ける場所なので、雪が着かない。だから「平坦」に見える。だが騙されてはいけない。このような平坦な雪面の下には岩が乱立していて、その間隔が、氷河の「クレバス」のように待ちかまえている。
 この辺りの、その「溝」は深くはないので、落ちても這い上がることは可能だが、それは決して楽なことではない。悪くすると、岩に足などを打つ付けてしまうかも知れないのだ。
「海老のしっぽ」:霧や雪が氷化してエビのしっぽ状に風に向かってのびるものをいう。 1月 山頂直下)


 ■■ 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その6)■■

 子供が幼児から次第に成長していく過程で、盛んに周りの大人に疑問詞をぶっつける時期がある。この時期は子供の一生を左右するほどに重要な時期であるように思う。
 だが、近年、子供の周りには、それらに答えるべき大人が少なくなってしまった。核家族という言葉が聞かれないほど、家族の構成が固定化して、子供の周りには「親」しかいない。
 「これなあに?」「どうしてこうなるの?」「なぜなの?」などという「疑問」の矛先はすべて「親」に向かう。
「子供は親を選べない」という事実に私は小学2年生ごろに気づいた。それは非常にショックなことだった。そして、私も親になり、それから「子供は親を選べない」を胆に銘じながら自分の子供に接してきた。
 子供の疑問に答えてくれない親は多い。「答える」愛情にも欠け、「答える」ための力量もなく、自分を含めた人生すべてに余裕がないのである。子供たちの「疑問」というのは精神的な欲求なのだ。だが、世の親はそれらに対して「物」を買い与えて答えようとする。
 「物質」には「心」の鼓動がない。生身の暖かさがない。優しい言葉や語り口がない。肌と肌の触れあいがない。そろそろ子供たちの環境を家族構成から見直す時期にきているのではないだろうか。
 最近の中国を見ていると「一人っ子政策」は「物質文明」と「経済政策」には有利かも知れないが、「精神的な欲求」に飢えて、それを「物」で埋め合わせしようとしているように見えてしようがない。

 今日は「岩木山の植物」に関する質問の7番から8番までについて解答しよう。

7、高山植物の種類と特徴について知りたいと思います。

 岩木山は本州の北端に位置していますから「高山帯」が、かなり低くなります。
 岩木山の高山植物という時は、大体標高1000m以上に生えているものをさすと考えていいでしょう。
また、岩木山は同じ県内の高山である八甲田山や白神山地と比べると…
�独立峰に近い。�高層湿原がほとんどない。�生成(生まれ方)時期や条件、地質、構造などが違う一番「若い山」である。
 …などの多くの特徴を持っています。
 高山植物はこの特徴にそって生育しています。ですから次のような違いが出てきます。

★八甲田山にあって岩木山にない花★

ミネズオウ、ヨツバシオガマ、ミヤマオダマキ、タカネスミレ、ヒナザクラ、ホソバノイワベンケイ、イワブクロ、チングルマ、コバイケイソウ、イワギキョウなどです。

★白神山地にあって岩木山にない花★

イブキジャコウソウ、シコタンソウ、ツガルミセバヤ、アオモリマンテマ、エゾハナシノブなどです。

★岩木山にあって他の二山のいずれかにない花★

ミチノクコザクラ、エゾノツガザクラ、ナガバツガザクラ、ガクウラジロヨウラク、ウコンウツギなどです。

☆標高1000m以上に咲く岩木山の高山植物で主なもの☆

ミチノクコザクラ、ミヤマキンバイ、ヒメイチゲ、ショウジョウバカマ、ツバメオモト、ミヤマスミレ、タニギキョウ、ミネザクラ、ベニバナイチゴ、イワナシ、ハクサンチドリ、ノウゴウイチゴ、ミヤマカタバミ、イワツツジ、イワカカガミ、コヨウラクツツジ、サンカヨウ、ミツバオウレン、ミヤマガラシ、コメバツガザクラ、ガクウラジロヨウラク、イワウメ、イワヒゲ、ナガバツガザクラ、ガンコウラン、クロツリバナ、ゴゼンタチバナ、オオバスノキ、コケモモ、エゾノツガザクラ、ウコンウツギ、イワハゼ、ハクサンシャクナゲ、ツマトリソウ、ミヤマカラマツ、ベニバナイチヤクソウ、イワオトギリ、ミヤマアカバナ、ヒメアカバナ、クモマニガナ、エゾシオガマ、コバノギボウシ、シラネニンジン、ヤマハハコ、ウメバチソウ、ミヤマセンキュウ、エゾオヤマノリンドウ、アラゲヒョウタンボク、ツルツゲ、オオバタケシマラン、ウスバスミレ、マルバキンレイカ、マルバシモツケ、シラタマノキ、ヤマブキショウマなどです。

8、高山植物はそれぞれどんな所で咲くのですか。

 どんな植物でも、場所・地質・季節・時間・高さ・広がりなどを違えることで「棲み分け」をしてお互いが競合しないように工夫しています。だから、生えている場所も決まっています。これが子孫を残すための「自然の摂理(仕組み)」です。残念ながら、これに反して人間世界は競合と競争に明け暮れています。
たとえば、シラタマノキ…硫黄分の強い場所・ミチノクコザクラ…雪崩などで表土がはげた荒廃地・イワウメ…熔岩など垂直に近い岩肌などという具合です。
(明日、9番から12番までの解答を掲載する)

厳冬の造化、躍動する彫塑が集う二の御坂下部 /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その5)

2008-02-28 06:08:54 | Weblog
(今日の写真は厳冬の造化・躍動する彫塑だ。山頂に近づくに連れて、晴れの度合いは強さを増した。
 山麓部を含めて岩木山の周囲からはまったく雲影が消えていた。すばらしい天気である。昂揚感が湧いてくる。もう一つ登ると山頂だ。
 一の御坂を登り詰めた。そこを私はテラスと呼んでいて風が創った彫刻と塑像の展示場だ。
 快晴の今日は「照明効果」が最高で、しかも、山麓には岩木川の流れまで映し込んで広さと立体感をかもしだしていた。
 ここは噴火の後に中央火口丘から転げ落ちた大岩が累々と屹立している場所。それは造作の神に、硬質の雪をまとわされて彫塑とされていた。
 しかし、それらはみな柔軟に、太陽の光と連動しながら、キラキラと輝き、噴火のエネルギーを秘めながら躍動していた。
 わたしの昂揚感は躍動感に替わった。思わず上腕と下肢に力が入った。間もなく頂上である。今日はどのような顔貌を見せてくれるのだろう。2月 岩木山二の御坂下部)

 ■■ 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その5)■■

今日は「岩木山の植物と動物」に関する質問の1番から6番までについて解答しよう。

 人間の言語世界には「疑問詞」というものがある。「いつ」「どこで」「だれ」「なぜ」「なに」「どのように」である。英語では[When][Where][Who][Why][What][How]となる。
 中学生の頃、英語の学習中に、この6つもある「疑問詞」をもっと短くして1語にして、しかも3つくらいの意味を持たせたら何と便利だろうと考えたことがあった。
 それは、[Why][How][What]を一緒にしてしまうというものだった。つまり、[Howhaty]として「ホワティー」と発音してはどうだろうかと考えたのである。
 この1語にして「何がなぜどのように」という問いかけが出来るのだからとても便利だと思えたのである。
 それ以来、私はすべての「物事」に、この疑問詞「Howhaty」をあててみるようになったようだ。今、現在も変わっていない。
 世の子どもたちにも、是非、この「Howhaty」というフイルターを徹して社会なり自然をみてほしいと願っている。

■■岩木山の植物と動物についての解答■■

1、木の実はどれくらいあって食べられるのは何ですか。

木の実は次のように分けられます。
・固い実…堅果として・クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ハシバミ・カシワ・コナラ・
…球果として・ハイマツ 
・奨果(柔らかくつぶれやすい)
…液果として・ヤマブドウ・イチイ・ハイイヌガヤ
…集合果として・キイチゴ・ベニバナイチゴ・ヤマボウシ
・梨状果として・ズミ・アヅキナシ・ヤマナシ・ウワズミザクラ・グミ・イワナシ・ガマズミ・サルナシ
・いちじく果として・アケビ
高山帯のものとして・コケモモ・スノキ・クロマメノキ・クロウスゴ・ガンコウラン
などがあり、食べられます。

2、食べられる山菜の種類を知りたいと思います。

 代表的なものだけ挙げます。
フキ・アサヅキ・ウド・ミズ・ゼンマイ・ワラビ・シオデ(そでこ)・タケノコ(ちしまざざ)・ヨブスマソウ(ぼんな)・ユキザサ・タラノキ・ウコギ・カタクリなどです。

3、苔の種類はどのくらいですか。また、なぜ生えているのですか。

苔の仲間のことを「蘚苔(せんたい)類」と言います。岩木山で多く見られるシダ類のヒカゲノカズラもその仲間ということになります。藻類の一部が陸に上がり、現在の陸上植物になりました。陸上植物のもっとも初期の体制を残していると考えられるのがコケ植物、一般に小型のものが多く、受精に水を必要とします。この仲間は花をつけずに胞子で増えます。
 苔にはミズゴケ、ハイゴケ、タカネスギゴケ、ハイマツの幹に生えるハイマツゴケ、湯ノ沢など硫黄分の多い沢筋に生えるユオウゴケ(なぜか「ゆおう」と呼びます)、山頂部の大きな岩に張り付いているものをチズゴケ(地図苔)といいます。そう言われてみると地図に見えますね、

4、だれかが植えたわけでもないのにどうして木が生えているのですか。

 樹木を含めた植物は根を張っていますから移動することができません。しかし、長い年月をかけて根を伸ばして生育範囲を広げていきます。この代表は竹です。
 また、種(実)を自分の周囲に蒔き、落とすことで生育範囲を広げていきます。もちろん、これには人間の生活時間を遙かに超えた、いわば気が遠くなるような何十、何百、何千、何万年という長い時間が必要です。
 ブナの一生は約500年です。周りに実を落として自分の子孫を残すのですが、それは周囲5mだそうです。重なる部分もありますから実質的にはこの500年で2m程度しか移動出来ないといわれています。
 現在、麓から登山道に沿って鳳鳴小屋付近まで里の雑草オオバコを見かけますが、これは40数年前にはなかったものです。
 つまり、オオバコは40数年かけて「登ってきた」わけです。
 コナスビという黄色の小さな花をつける市街地に見られる雑草は去年で焼け止り小屋までたどり着いています。
 その他には種子が何かによって「運ばれる」ことで人が植えなくても森が出来ます。 まずは、風です。風が種や実を遠くに飛ばします。
 タンポポの種にはパラシュ-トが付いています。カエデの種にはヘリコプターのようなプロペラが付いています。風によって運ばれる工夫をしているわけです。
 コナラやミズナラの実(通称:ドングリ)などはリスが運びます。
 いわゆる奨果という木の実を食べた鳥も種を運びます。彼らの出す糞の中には紛れもない種がしっかり入っています。
 ヤドリギの赤い実はレンジャクという鳥の餌となります。実は粘っこい液体を伴い、糞は種を数珠状につなぎます。そして、排出されると他の木にしっかり粘り着き、そこで着床・発芽するわけです。

5、いつ森林が出来たのですか。木の種類はどのくらいで何がありますか。

森が出来たのは大氷河期の後、今から約7万年前です。
たくさんありますが、代表的なものを山麓から見ていきます。
 ミズナラ・アオダモ・コナラ・イタヤカエデ・ウダイカンバ・ヤマハンノキ・ヤマナシ・ズミ・ブナ・ミヤマハンノキ・ダケカンバ・コメツガ・ハイマツ・ツツジの仲間などです。
 花と同じように地質などの違いから、岩木山には針葉樹が少ないのです。八甲田山に多く見られるアオモリトドマツは生えていないことになっていますが、スカイラインターミナルの駐車場南端に1本だけあります。コメツガもありますが北面に偏って生育しているだけです。

6、九合目には木が生えていないのはなぜですか。

 この質問の答えは明日の解答の8、9番を参考にして下さい。(明日に続く)

蒼空に映える森林限界のブナ /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その4)

2008-02-27 05:02:51 | Weblog
(今日の写真は森林限界のブナである。標高は1200mほどであろうか。写真の左端から中央部までの4、5本がブナで、あとはミヤマハンノキやナナカマド、それにダケカンバである。
 左端のブナでも樹齢は70年以上だろう。積雪が4mほどあるから地上7m程度の樹高になる。
 このブナの姿、形から、その幼少時からの「圧雪」と「風衝」に苛まれてきた「人生(樹生)」が偲ばれる。その右にあるブナの若木(とは言っても樹齢40年以上だろうが)は枝を伸ばし、梢には霧氷の花を咲かせているが、この「老木」には、霧氷の花を咲かせる「細い」枝がない。
 静かに朽ち果てて、周囲の若木たちの「命」を支える役割を担おうとしているのだ。
 だが、何というりりしい姿ではないか。頭上の蒼空に紛れず、画然として「おのれの幹」を屹立(きつりつ)せている。まだまだ「私はここにある」と言わんばかりに自己主張をしているように思えてならない。

 自然は微妙な違いを見せるものだ。数m上部の樹木は、もはや「霧氷」を纏(まと)ってはいない。それらはアオモリトドマツなどが「鎧(よろい)」のように纏う「樹氷」に近いものになっている。
 標高にして数mの「高み」が「樹氷」を形作っているのだ。山の気象が織りなす「造化」は、微妙な不思議さに包まれている。
 ここから頂上までは、木々に会えない雪原と氷の岩稜が続く。頂上は直ぐそこに見えているのだが、なかなか、引き寄せることが出来ない。晴れていると、そのような「焦り」に悩まされることもあるものだ。1月 スカイラインターミナル直下)

   ■■ 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その4)■■

 私は、この小学校5年生の質問の中に、『「山」をどうして「やま」と言うのか』と「どうして岩木山は3つの山になっているのか」が、きっとあるだろうと「期待」していた。
 しかし、残念ながら、それらは入っていなかった。最初の『「山云々」』の方は「岩木山」という限定された対象からは発想的に無理があったのだろうか。
そして、ひとしきり「小学校5年生」ともなれば「大人」的な常識に染まり、左右されるようになっているのだろうかとも考えた。少し淋しい気持ちになった。

 今日は10番から12番の解答をまず掲示しよう。

10、岩が変な形をしていますが、岩や土の成分について知りたいと思います。

岩木山は生まれる第一ステージとしての「古岩木山」がまず海底火山から誕生しました。その古い熔岩はマグマが変質した石英、長石、輝岩、カンラン岩を含む安山岩です。そして、その後噴火をして成長した頂上、これを中央火口丘といいますが、ここの岩も安山岩です。ただし、これは粘度(ねばり)が高い石英安山岩なのです。景観の色彩上の違いはここにもあります。また岩木山の安山岩には「雲母」が入っていないことで珍しいものとされています。

11、岩木山の中は土ですか、マグマなのですか。

 1000℃以上のマグマがたまっています。それを示す証拠が山麓に湧きだしている温泉です。地下にしみ込んだ地下水がマグマの熱で温められて湧きだしているのです。岩木山の温泉地をたどるとマグマや地下水がかなり南西に偏っていることが解ります。

12、白神山地と岩木山ではどちらがどのくらい若い山なのですか。

質問Aの1、2、3にも関連することですが、岩木山の方がはるかに若い山です。
白神山地は今から1~2億年前に誕生しました。岩木山は2300万年~530万年前に誕生しました。


 それでは、引き続いてこのブログを読んで下さっているみなさんには、地元の母なる山「岩木山」の植物と動物について、少し頭をひねってもらおう。解答は明日以降順次掲載する予定だ。

    岩木山の植物と動物について

1、木の実はどれくらいあって食べられるのは何ですか。

2、食べられる山菜の種類を知りたいのですが。

3、苔の種類はどのくらいかです。また、なぜ生えているのですか。

4、だれかが植えたわけでもないのに、どうして木が生えているのですか。

5、いつ森林が出来たのですか。木の種類はどのくらいありますか、それらは何ですか。

6、九合目には木が生えていないのはなぜですか。

7、高山植物の種類と特徴について知りたいと思うのですが。

8、高山植物はそれぞれどんな所で咲くのですか。

9、どのような大きなほ乳類がいるのですか。また、どんな生活をしているのですか。

10、小動物(ほ乳類)はどんなものがいますか。またどのような所に生息しているのですか。

11、代表的な昆虫、両生類、は虫類を教えてほしいのですが。

12、岩木山で見られる鳥にはどんなものがありますか。

                         (解答は明日掲載する)

ブナ林の奥から昇る太陽 /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その3)

2008-02-26 05:51:04 | Weblog
(今日の写真はブナ林の奥から昇る太陽だ。冬の岩木山登山を1日で終えようと思えば、「早立ち」になる。少なくとも自宅を4時には出なければいけない。12月や1月、2月もそうだが、4時というとおもては「真っ暗闇」である。
 当然、登山口に着いても闇の中だ。登山の準備を整えて登り始めるのが5時頃であろう。だから、登り始めもやはり暗いのである。
 それでは、今日の写真のような、樹間に差し込む朝日を見ることが出来る時間はいつなのだろう。やはり、7時を過ぎなければ日は昇らない。太陽とブナ林内で、出会えるのは、もちろん、晴れていることが条件である。だが、そのような条件がそろう「時間」は滅多にない。
 このブナ林帯まで来るのに、積雪状態が浅く、埋まり方が少ない時や体調がよくてガンガン登ることが可能な時、気象条件がいい時、途中でルートを間違えることがないような場合は、時間がかからないので、「ブナ林帯の奥に太陽が昇る」時間よりも前に通過してしまい、出会えないのだ。
 途中でルートを外したり、負荷的な条件が重なって、登高スピードが遅くなると、時間的には「ブナ林帯の太陽」に出会えるけれども、晴れていないと「見えない」のだ。
 この写真はすべての「負荷的な条件」の満足と「晴れ」というプラス条件が融合した時に撮したものだ。
 「数学」であれば「負荷」と「プラス」では「マイナス」になるが、自然というものは、このように、滅多に会えない太陽に会わせてくれるという「プラス的なチャンス」を与えてくれるのである。面白いだろう。1月 岳登山道尾根ブナ林帯)

 ■■ 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その3)■■

 昨日の毎日新聞電子版「余録:調べる学習」に次のような話しが載っていた。
そこで、「私の感動や意見」を挿入しながら書いてみることにする。それはなぜか、「物事の真実や事実」は「素朴・素直・純粋」な疑問から出発することで見つかるというすばらしい事例であると思えるからである。
 「素朴・素直・純粋」な疑問は「純朴」な疑問としてもいいだろうし、「当然とされることへの不思議感」としてもいいだろう。

 <千葉県袖ケ浦市立奈良輪小1年、竪石鼓太郎くんはホームセンターで大根の種を見つけ、「はつか大根のはつかってなーに?」と思った。そして、母親に聞いた。「20日のことよ」…「だったら、夏休みにつくれるぞ」「赤くて甘そうだけど、普通の大根と同じ味だろうか」
 芽がでて、葉が開き、虫に葉を食べられる姿を一喜一憂しながら観察した。20日目、根の部分がちょっと赤くなっているだけだったが、とりあえず口にすると「とっても辛い」。(驚いただろうが、体験からの学習は全身的に理解が出来る。)収穫できたのは28日目だった。
 (この「辛い」という体験はさらに疑問を生む。そこで、また質問と学習だ。)
「暑い夏、虫から自分を守るために辛くなる。冬には甘くなる」と聞き、びっくり。9月に再度挑戦すると、今度は60日かかり「本当に甘いや」。(また発見だ。20日大根というけれど60日もかかってしまった。実態とそれを示すであろう名称が違うことも知った。言葉がすべてその指示する内容や実態を表現しないことも知っただろう。)
 葉を食べるアオムシがチョウになる不思議さ、殺虫剤のこと、季節による味の変化など次々と学んでいく。
 そして、そのリポート「ぼくのそだてたはつかだいこん どうなるぼくの20日かん!」が第11回図書館を使った「調べる」学習賞コンクール(図書館の学校など主催)の文部科学大臣奨励賞(小学校低学年の部)に選ばれた。
 先日公表された学習指導要領改定案では小中学校とも「総合的な学習の時間」が削減されている。総合学習は、教える側の力量が求められ、大変だ。
(知識偏重による選抜に耐えるだけの受験勉強を経て教員になるものが圧倒的に多いのが「教員」事情だろう。幼児の時から自ら「体験すること」から遠ざけられて育てられた世代が現在の教員の大勢を占めている。その自覚があれば、これからでも、つまり大人になってしまった今からでも遅くはない。総合学習の中で児童生徒と一緒に「教員」たちも体験しながら力量を高めていくしかない。だが、それももはや望めない。またまた、「易き」に流され、「総合学習」は流れてしまったのだ。)
 子供たちが自ら「学ぶ力」をつけるためにもっと充実させてほしい。子供たちの知的な好奇心を大切に育てたい。毎日新聞 2008年2月25日>  注:(  )部分が私の付記したところである。

 今日は、「岩木山の誕生(生成・地質・岩石・火山)について」の8番から9番までの解答を掲載する。

8、八合目と九合目では景色が違います。その理由はなんですか。

はじめに断っておきますが、「…合目」とは、麓から頂上にいたる登山の行程上の区切りです。しかし、実際の距離や標高とはあまり関係がないものなのです。
 実は登山者が登山をする場合、その困難の度合いを目安として全行程を十等分して、下から1合目、2合目などと称したものなのです。ですから、かなり主観的で勝手なものです。
恐らくスカイラインからリフトで登って行った時の景色だと思いますが、八合目はターミナル、九合目はリフト終点ですね。不思議なことに、この岳登山道には一合目から七合目まで、その「合目」という名称はありません。
 突然、天から降ってきたような「呼び名」なのです。最初誰かが、系統性のないままに「思いつき」か他の山の「真似」で使ったのでしょう。
ターミナルはまだ森林限界(低木がまだ生えているところ)内にあり、周囲は緑に覆(おお)われていますが、リフト終点付近はこの限界よりも高い場所で樹木もダケカンバ、ミヤマハンノキなどわずかです。しかも、鳥ノ海火口から噴出した熔岩に覆われていますから景色は極端に違ってしまいます。

9、噴火口の上部と下部では景観が違うのはなぜですか。

噴火口の周囲は熔岩で占められています。リフトから降りて直ぐ右側の岩山は熔岩です。歩き出すと岩がごろごろしていますが、これと同じ岩が噴火口下部に堆積しています。後から崩落したか噴出したものです。
 何回か噴火を繰り返し、新しい噴出物が堆積していったのです。リフトを降りてからの登山道を思い出して下さい。火口の縁から北に登りますが、あそこも熔岩地帯です。そして、火口の北縁を通って鳳鳴小屋に行きますが右側にある大岩・御倉石も熔岩です。
 ここから上部を見ると景観が一変します。熔岩がなくなり、岩がごろごろしている急な登りになります。この辺りからは鳥ノ海噴火口からの噴出物よりも、種蒔苗代火口やさらに上部の耳成岩火口からの噴出物によって形づくられているのです。
 火口と噴火の時間(高い頂上付近の方が新しい山なのです。)、成分の違いから景観が違ってしまいました。
 もちろん、岩質の違いは生える植物をも区別しますからその点からも景観は変わります。現在岩木山には爆裂火口が11あります。
                (この稿は明日に続く)

雪原の中、孤高を保つダケカンバ1本、空は灰色 /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その2)

2008-02-25 05:11:28 | Weblog
(今日の写真は「森林限界」を越えた高さの雪原に立ちつくすダケカンバの孤木である。
登りはじめから、ずっと曇りである。だが、それは「高曇り」というやつで「視界」は利く。
 風は弱く、西から吹きつけているが、大して気にならない。顔全体に吹きつけて痛みを伴うというようなものではない。ここまで来ると「雪の埋まり」もなく登高は楽だ。
 赤倉尾根のコメツガ帯の東縁を登り詰めた。一気に広い雪原となる。そして、最初に出会ったのが、このダケカンバの孤木である。枝や梢には「霧氷」をまといながら、ひっそりと健気に立ちつくしているのだ。思わず仲間に出会ったような気持ちになった。その日も、私は単独行をしていた。
 「森林限界」に出たのである。日本の山で亜高山帯を特徴づけるのは、針葉樹林だ。八甲田山ではアオモリトドマツが多く見られることはよく知られている。
 寒冷と、針葉樹の落ち葉は分解しにくいので、栄養分に乏しく、林床の植物は貧弱である。
 また、雪崩の起きやすい斜面などでは針葉樹は生育出来ないので、ダケカンバなどの低木林が見られる。その上、本州の亜高山帯の尾根などでは乾燥しやすく、また土壌が薄くなっている。
 こう場所ではナナカマド、ダケカンバなどの落葉低木も混じっている。さらに高くなると樹高が低くなり、生え方も疎らになり森林といえなくなってくる。この高さを「森林限界」と言うのだ。
 一般的には、本州中部では標高2400~2600m付近、東北地方では1900~2000m、北海道では1200~1500mくらいになると言われている。
 ただし、同じ山でも、北斜面の方が森林限界は低くなるし、「孤立した山」の方が森林限界は低くなる。岩木山はこれにあたるので大体標高1200mより高い場所を、この「森林限界」と呼ぶことが出来るだろう。
 この日は、山頂に行かず、巌鬼山の縁を回って弥生に降りた。終日「高曇りのいい天気」だった。3月 赤倉尾根上部)

 ■■ NHK文化センター講座:「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その2)■■

 小学生の質問は「素朴」で「素直」で「純粋」である。この「素朴・素直・純粋」な質問には「真実」を質(ただ)すという本質が内在している。
 先日の「イージス艦と漁船の衝突事故」でも「素朴・素直・純粋」をもって質すと「なぜ、衝突した時にイージス艦の乗組員は、漁船員の救助行動を即座にしなかったのか」「なぜ、イージス艦の最高責任者である艦長が、これまで一切顔を出さず、口をつぐんでいるのか」という疑問が出てくるだろう。

 今日は、昨日掲載した「岩木山てどんな山」の解答を載せる。ただし、分量を考慮して7番までである。

 岩木山の誕生(生成・地質・岩石・火山)について

1、岩木山が出来る前はどのような土地だったのですか。

 岩木山は中新世(今から2300万年~530万年前)の地層の上になりたっています。中新世の地層は海成層(海底で出来た地層)と火山灰が沈積して固まった凝灰岩から構成されています。
 このことから、岩木山と周辺は中新世の頃は海であり、海底火山が盛んに活動していたと思われます。

2、いつどのようにして出来たのですか。

 温泉やその他のことでボーリング調査をしますと、熔岩や火山噴出物が多数発見されます。中新世時代の海底火山(これを岩木山生成の第一ステージ…古岩木山と呼ぶ学者もいます。)に始まり、その後何回も繰り返された噴火によって噴出物が積み重なって、現在の岩木山になったと言われています。現在岩木山を取り巻くように山麓部に高舘山、高地山、愛宕様の山などが並んでいますがこれらを岩木山生成の第一ステージ…古岩木山のカルデラ壁・外輪山だとする学者もいます。気高く輝く山頂部よりも山麓がより古いというのは面白いことです。人間世界も実は同じかも知れません。トップに立ってもてはやされる人は案外山麓の多くの人に支えられているからではないでしょうか。

3、どのようにして現在の形になったのですか。

 弘前から見ますと岩木山は3つの頂を持っています。この頂の近く、上部や下部には爆裂火口があります。つまり、爆発噴火によって噴出した岩石や熔岩が積み重なって今の「形」をなしたということが出来ます。または、噴火によって崩落して今の「形」をなしたということもできます。
 今ある頂上、中央火口丘は岩木山で一番新しい頂です。種蒔苗代火口やさらに上部の耳成岩火口からの噴出物によって形づくられ、遅く見積もると洪積世の末期、縄文時代の早期(約5000年前)、早く見積もると平安時代の初期(約1200年前)ではないかといわれています。

4、噴火はしていたのですか、また何回ぐらいしたのですか。

 記録に残っているもので一番古いものは1571年の火山雷ですが、これは噴火とはいえません。天正7(1589)年のものは、鳴動、水蒸気爆発、地震を伴いました。慶長5(1600)年の噴火、地震、鳥ノ海爆発を経てからの津軽藩政時代には26回噴火を繰り返しています。
 そして、文久3(1863)年の爆発を最後に終息したのでした。
 この26回のうち14回が登山道沿いの鳥ノ海火口、湯ノ沢火口、湯ノ沢-鳥海山を結ぶラインで起きました。残りは赤沢火口、追子森・西法寺火口、赤倉火口などで、記録には「奥山で」という表記があります。
 火山活動の一番多い月は2月です。1月から6月までが85%です。これから推量すると岩木山の火山は冬場に活動しているということが解ります。雪崩発生の一因かも知れません。

5、6、どんな時にこれからも噴火するのですか。 7、どれくらいで噴火はおさまるのですか。 
5、6、7をまとめて答えましょう。

 噴火はあります。鳥海山、秋田駒や北海道の活火山との連動は十分考えられます。このことは古い記録からも想像が可能です。噴火地域の可能性は岩木山の西側です。
(この稿は明日に続く)

雪煙の中、孤高を保つミヤマハンノキの疎林 / 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その1)

2008-02-24 05:33:33 | Weblog
(今日の写真は水無沢左岸尾根を登り、ブナ林を抜け出た辺りの雪原である。
 ああ、3月末から4月にかけての「空」はどうして、こんなに青いのだろう。まさに「蒼空(そうくう)」である。
 この深く落ち着いた青い空とは裏腹に、この雪原斜面に入ったらとたんに、風が強くなった。
 時々、耐風姿勢を取らなければ、吹き飛ばされそうになる。一定方向から吹き付ける風ではないからである。煙のように舞っているのは「雪煙」と呼ばれるものだが、「煙」ではない。さりとて「雲」でもない。
 雪原表面の細かい雪の粒々を風が巻き上げているのだ。アメリカのトルネードほどに大きくはないが、原理的には同じ「竜巻」だ。
 写真中央の雪煙がそうなのだが、そのように見えない。写真上部の稜線にも雪煙が見えるが、これは赤倉沢から風が吹き付け、舞い上がってくることによって吹き上がる「氷化した雪の粒々」である。それが稜線から水無沢に向かって広い雪原を下る時に、「竜巻」となるのだ。
 法則的には、稜線上部から風が吹き付けるのだから、そちらに向かって「耐風姿勢」をとって、転倒を防御するのだが、この「竜巻」が通り過ぎる時は、風が巻く。上部に向かって全身に力を入れて、踏みとどまっていると、突然横からの風に煽られると、一瞬ふわりと浮いて、斜め上部に引き倒されてしまう。
 だが、空はあくまでも沈静したような青さを保っている。何とも不思議な世界だ。)

 ■■ NHK文化センター講座:「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その1)■■

 本日のNHK弘前文化センター講座:「津軽富士・岩木山」では数年前に弘前大学教育学部附属小学校5年生から寄せられた素朴な質問を中心に学習することにしている。
 このブログを読んで下さっているみなさんにも提示するので、地元の母なる山、「岩木山」について、少し頭をひねっていただけると幸いである。
 
 ところで、弘前市が主導して実施された「弘前検定」のテキストには「岩木山関係」の項目が5~6問しかない。これでは、「おらほの山、母なる山」という位置づけにはならない。
 また、これは、何よりも、このテキストの制作・編集者に「岩木山」をふるさとの山としてとらえるという認識が欠けているということだろう。合併前から弘前市は行政区画内に岩木山の一部を持っていた。まず、その場所は「弘前市ゴミ処分場」として使われた。少なくとも「ふるさとの山」として大事にしようという姿勢ではなかった。
 現在は岩木町と合併して「岩木山」のほぼ3分の2を手中にしたが、いまだに「おらほの山」という意識と大切にするという心は薄いのだろう。
 「その山とともに生きる」ことを長い年月してきた旧岩木町の人々に比べると、遠くから眺めるだけの存在として、日々安閑と過ごしてきた旧弘前市民の「岩木山」に対する想いは、すべてにおいて「希薄」なのだろう。つまり、現場感覚のない傍観者に過ぎないということである。
 「弘前検定」テキストに岩木山関係項目が非常に少ないのも、その現れであることは間違いない。
これではいけない。岩木山をこれからは、真実「弘前市民の山」としていかねばならいのである。
 市民感情として「希薄な山」岩木山である。どれだけ、岩木山についての理解があるのだろうか。附属小学校の児童が寄せてくれた「質問」には学ぶべきことが多い。また、このような児童が「弘前市民」の子弟であることに、どこかで「ほっと安堵」する気持ちにもなる。
 弘前市長を含めた弘前市民のみなさん、この附属小学校の児童が寄せてくれた「質問」を自分のものとするために、学んで欲しい。そうすることで「岩木山」はあなた方の山になり、ひいては「弘前市の山」、そして実質的で本当の「弘前市民の山」になるだろう。

 本日はまず、「岩木山の誕生(生成・地質・岩石・火山)」に関する質問だけを掲示しよう。 …答えは明日のブログでということになる。

1、岩木山が出来る前はどのような土地だったのですか。

2、いつどのようにして出来たのですか。

3、どのようにして現在の形になったのですか。

4、噴火はしていたのですか、また何回ぐらいしたのですか。

5、どんな時に噴火するのですか。

6、これからも噴火するのですか。

7、どれくらいで噴火はおさまるのですか。

8、八合目と九合目では景色が違うのですが、その理由はなんですか。

9、噴火口の上部と下部では景観が違うのはなぜですか。    

10、岩が変な形をしていることや岩や土の成分について知りたいのですが。

11、中は土なのですか、マグマなのですか。

12、白神山地と岩木山ではどちらがどのくらい若い山なのですか。
                 ( 明日この答えを掲示する )

激風を背に墨絵の世界を下る / ブログを書きはじめて昨日で満1年が過ぎた

2008-02-23 06:52:41 | Weblog
 (今日の写真は11月末の岩木山である。その日は、弥生から登り、山頂を経て百沢に降りるつもりでいた。
 初冬といえども甘くみてはいけない。頂上直下の雪は氷化し足場が悪く、激しい風にあおられ滑落しかかる。実はこの時季が「下降」するのには一番「危険」なのである。
 積雪が少なく、岩の表面に張り付いている雪は、少しの暖気で解けて、それが氷化するのである。そして、その箇所が「ツルツル」滑るのだ。
 「アイゼン」を装着するほどのこともないと思う時季なのでそれも持っていない。その上、持っている「ピッケル」もあてにならない。
 岩に張り付いている「氷」は薄いのでピッケルの「石突き」も「ピック」も岩そのものに弾き返されて役に立たないのである。「石突き」部分も名の通り「岩」に突き立つだけの部分で、決して「支点」にはならない。同様な事情から「ワカン」の爪も利かないのである。

 一旦、滑ったり転んだりしたら、長い距離の滑落はしないものの、「岩角」にぶつかり、骨折など、「歩行」や「下降」不能に陥るのである。
 さらに、視界は遮断状態で山頂部は濃霧の中だった。風向と時折見える標識を頼りに鳳鳴小屋まで、やっとの思いで「長い時間をかけて」降りた。
 大沢を下りはじめる。その時、一瞬開けた視界、背後に山頂外輪の岩山が累々と見える。風に背中を押され、急かせられながらの下山となった。
 この写真は「白黒」ではない。まともな「カラー写真」なのだ。だが、累々と横たわる岩の「黒」、雪の「白」は墨絵の世界だ。
 それ以外の色彩を探すことが難しい。ダケカンバとミヤマハンノキに僅かだが明るい茶色を見るだけだ。
 1週間前、まだ積雪に覆われていなかったこの辺りは、明るく輝く「草紅葉」がそよいでいた場所なのであった。11月 岩木山大沢源頭部・頂上外輪の南面)

     ■■ブログを書きはじめて昨日で満1年が過ぎた■■

  今朝のCategoryは377である。昨年は閏年でないので、毎日、一つのことをこのブログに書いていれば、今朝は366(回目)であるはずだ。だが、さししめすCategoryは377(回目)である。これは1日に数回、別な内容のことを書いたことを示すものだ。
 さあ、今日からまた、毎日、何かについて書いていくことにしよう。

 先日、毎日新聞電子版を見ていたら、「ジャパン ブログ アワード 2008 」というものの案内があった。
 何気なくエントリーしたら、2月17日に、次のようなメールが送られてきた。

 『【JapanBlogAward2008】 第一次選考の結果のお知らせ
 三浦章男様
 このたびは、JapanBlogAward2008にエントリー頂きまして、誠にありがとうございました。
 あなたのブログを楽しく拝見させて頂きました。本日は、第一次選考の結果、見事に通過致しましたのでご連絡差し上げました!!
このご連絡から順に、先日ブログに貼っていただきましたパーツ・画像も公開されていきますので、お楽しみ下さい。
 なお、第二次選考の結果のお知らせは2/19(火)以降とさせて頂きます。
こちらも順次メールにてご連絡いたします。第二次審査を通過された方にはエントリーシートにご記入いただく予定になっておりますので、その際はよろしくお願いいたします。』
 
 何と、第一次選考を通過したのである。思いがけないことだが、嬉しかった。密かに、このブログが「人並み」のレベルにあるということを知ったからである。

 ところが、人というものは欲張りなものである。「第一次選考通過」は「選ばれることもないだろう。だが、応じてみるか…」という最初の気持ちを大きく変化させた。
 そして、「せめて、第二次選考だけは通過したいものだ」と強く念ずるようになっていた。
 第二次選考の案内が2月21日に「選考スケジュールのお知らせ」ということで…
『2月19日以降、第2次選考の結果通知を随時メールにてご連絡差し上げております。
2月22日中には第2次選考を終了いたしますので、お待ち下さいませ。』…とあった。

 何と、第二次選考が22日中となっているではないか。その発表の日が、このブログを書きはじめて2年目に当たる日だったのだ。
 私は、強く念じた。何とか「第二次選考にも通過」して、2年目の「ブログ」書きの弾みにしたいと…。
 だが、残念ながら23日の今朝になっても「第2次選考の結果通知のメール」は届いていない。

ブナ冬木立・黒白光陰・青の洞門 / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(最終回)

2008-02-22 06:05:52 | Weblog
( 今日の写真には「ブナ冬木立・黒白光陰・青の洞門」と名付けた…。
 一見すると、冬山に「洞」もなければ「門」もないように思われる。しかし、「洞」も「門」も存在する。
 人為的に造られたものならば、その用途は明らかだろうが、冬山のそれらは、人や動物が、それを利用する時、その「存在」が明らかになる。
 雪洞は登山者のビバーク用の住居になるし、ウサギの寝床にもなる。ブナ林縁の太めの幹はまさに、ブナ林入り口に造られた門である。この門や低木ブナの風下には時々、カモシカが「吹雪止み」や「ゆき止み」待ちをしていることもある。

 ひとときの晴れ間が見せる森の明暗。しきりに降っていた綿雪状の雪が止んだ。昨晩から断続的に繰り返していたのだろう。その名残が幹や枝に見てとれる。
 高みの奥に青い空、樹林の回廊は中空に開けているかのようだ。また、濃霧がわき出した。ここにも「洞」が存在した。視覚的な、しかも感性が生み出した洞である。私はその中を青い洞門に入るように登りはじめた。
 また雪が止む。太い幹に縦に張りついた雪層は豪雪と横殴りの風の強さを示している。その厳しさにじっと耐えて彼らは泣きごとは言わない。
 長い影を落とす陽光も弱く庇護してはくれない。しかし、ひとときの晴れ間が見せる森は、そして木々は柔らかく優しい。私は彼らに支えられて、行く手をさえぎる長い日影を絶ちきりながら山頂を目ざした。1月・岩木山岳登山道ブナ林内)
0072
 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(最終回)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・事故加害者である運転者の言い分は…」(9)

 二回目の事故は交差点でのことだった。私は左を直進して行った。信号はもちろん青である。
 交差点を三分の一ほど渡った時、左から軽自動車が出て来た。運転者は右折するために左から来る車にだけ注意を払っていた。私のほうには一度も視線を向けなかったのだ。
 その車は私の側面にまともに衝突して来た。衝突の瞬間、私はひき殺されることを避けようと、その車のボンネットに飛び乗った。自転車は曳きずられて大破した。私の身代りになって死んだのだ、と後で考えたらぞっ~とした。
 ボンネットに私を乗せた運転者は、目をつぶっていた。車は大きく右折しながら道路の右側にようやく止まった。私はボンネットから左に振り落されて、アスファルト面に叩き付けられた。
 しかし、運がよかった。若い頃やっていた柔道の受身技が効いてごろごろと二、三転した後で、くるりと立てたのである。しかも、他の自動車もやって来なかった。

 この運転者が言う。
「あなたが自転車で来ていたことは確認していた。だけど私が出るまでは来ないだろうと考えて出た。出たら目の前にあなたがいた。あなたの来るのが早すぎた。」

 三回目の事故は、また追い越してすぐの左折である。

 自転車の私を追い越したバンが、二、三秒後という本当に直前で、左折をしてガソリンスタンドに入ろうとした。ブレーキをかけたがあまりにも近いので衝突してしまう。
 そこで急激に、左に曲がりバンとの並進を試みた。しかし余裕がなく、バンの左後部に接触、転倒のはずみで顔面からコンクリ-ト面に激突、気を失い、救急車で病院に搬送された。
 全身打撲、なん針も縫う顔面の裂傷、上下の歯槽骨骨折および下の歯を三本を折ったのである。
 この運転者も言う。

 「自転車のあなたがわたしの自動車より速かった。自動車には決して追い付けないと思っていた。」

 これだけの「事故」に遭っていれば、次は確実に「死」だという思いが強くなり、自転車で走りたくても、道路に出ることは気持ちの上からも出来なくなる。
 くやしいが自動車の快適な通行に協力することになるし、知らず自転車そのものまで敬遠してしまう。そして結果的には、道路から追いやられてしまうのだ。

 それにしても、事故で私と関わりを持った三人の運転者が、口を揃えて「自転車のあなたが速すぎた。」と言ったことには飽きれている。そこには悪いことをしたとか、申し訳がないという態度はない。自転車風情がなにさと言わんばかりである。
 私も運転者も人である。命を持った人である。自動車に乗るのも自転車に乗るのも同じ人である。道は我々が共有するものだ。
 道路は自動車だけが、速いものだけが走るところではないはずだ。道路の主は私なのだという自動車を運転する側の論理だけが鼻につく。やはり、道路は征服と独占の象徴なのか。
 人に対してさえこうなのだから、人以外の生き物のことなんかまったくの意識の外であろう。これも人間の行動である以上、悲しいかな、文明と呼ばれることなのだ。
 科学や技術は、人間になんともはや、すばらしい機械を与えたことになったものだ。本当に、自動車は機械文明の象徴そのものである。
 だが、自分たちだけのために山を削り、原野を切り裂き、沢を埋めて道を造り、あるがままの自然を変形・変質させ、傍若無人に、時には人を追い出して、さらに常時、他の生命を殺戮しているのだ。それは、まさに身勝手な象徴とでも言えそうである。
 私には、山や野を追われる動物の身や気持ちがよく解る。    (この稿は本日で最終回)

ブナ冬木立・霧氷透明 / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(21)

2008-02-21 06:17:13 | Weblog
 ( 今日の写真には「ブナ冬木立・霧氷透明」というキャプションをつけた。霧氷というのは「霧や雲が樹木の梢や枝に付着して、それが低温で凍結して様々な結晶体をなし、それらが凝固しながら具体的な形をなす」ものである。
 だから、「透明」という表現は「霧氷」そのものには合わない。ここでは霧氷をまとったブナ冬木立全体が明るい透明感に包まれているというような意味である。

 ワカンを着けても50cmは埋まる雪のラッセルをはじめて、1時間くらいは経ったであろうか。ようやく、体温も上がり汗ばんできた。
 気温は低く、氷点下18℃。寒い。明るい森は樹氷の花を咲かせて凍っていた。青い空気も凍っていた。
 そしてす、べてを透徹する鋭さで私を責める。美は優しさよりも厳しさの方が強いもののようだ。
「蒼空に凛として映える透明な美」…自然の織りなす美に対して、畏れ多くて私にはこれ以上の表現は出来ない。早く立ち去るにこしたことはない。1月・岩木山岳登山道ブナ林内)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(21)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・それは私自身の3回もの事故である」(8)

 林道を造ることは、緑を奪うことになる。奪うのではない、一時中断するだけだ。数年経てば別な緑が育つではないかと言うだろう。
 しかし、その中断時の保障を誰がどうするのだ、葉には葉でなければ出来ないことがある。だから、人間の誰も何も出来ないのである。
 緑は、木々の葉の象徴である。葉には、人の生命維持に絶対に必要な酸素を、あらゆる燃料をエネルギ-に、自動車であればガソリンを燃やしてエネルギ-変えるための酸素を造り出すという、人様が決して足を向けては寝れないほどに、有り難い能力がある。
 そんなことは子供でも知っていると言うだろう。その通りだ。知っているだけならそれは子供だ。自覚をして、葉を今以上に育てることに腐心するのが大人というものだ。
 葉には、ほかに保水能力も、滅菌・抗菌作用のある物質を出す能力もある。さらに、よく知られていないことだが、葉についた埃を払い落とす能力もあるというのだ。
 世界の名だたる遺跡に目を移してみよう。遺跡のほとんどは「埋没」し地中にある。だから「発掘」されざるを得ない。なぜ埋まってしまったのか。もう少し厳密に見てみるとその埋まった遺跡の周囲には緑がとても少ないことに気づくだろう。
 マヤやミャンマ-の密林の中にある遺跡は崩れてはいるものの原形を保ちながら、立っている。これである、埃は我々を埋め尽くそうと毎日狙っている。それを葉が、緑がひたすら守り続けているのだ。
 それなのに、木を伐るなどとは、実に感謝を忘れた、恐れ多い行動なのである。

 死骸となったネズミにしても、オコジョにしても、なにもすき好んで道路に飛び出したわけではない。人の生活区域と彼らのそれが同じなのだ。道路は彼らの生活の場そのものなのだ。道路のどこに、「ネズミ進入禁止」、「オコジョ進入禁止」という標識があるか。
 若し、林道上に「人進入禁止」という他の動物が立てた看板があったとして、人がそれを守れるとは思えない。 
 道端の夥(おびただ)しい虫たちの死骸は、彼らが「命をかけて造った進入禁止の看板」なのだと私には思えるのだが、妄想に過ぎると言えるだろうか。

 これから私にとって、道端で小動物や虫の死骸を見ることが、ますます少なくなるだろう。冬になるからでもないし、自動車が少なくなり、林道等がなくなるからでもない。
 彼らと同じように殺されはしなかったが、私は道路から追いやられた経験を持つ。その経験からの恐怖が道を走り、路傍に目をやる機会を少なくするからだ。つまり、私は道路から追いやられるからである。

 私は自転車に乗っていて、これまでに三回も自動車に跳ねられている。
最初は、私を追い越した自動車が、すぐにウインカ-も点滅させないで左折をしたことによる。直進していた私は、車に衝突することを避けて、左折し並進し、たまらず接触して、右腕に裂け傷を負った。                      

 左折する時は後続するものが、たとえ自転車であっても、その通過を確認してから左折するのが本当だろう。

 そして、運転者は言った…。
 「私が左折するまでに、自転車は来ない。自動車は自転車より速いのだから大丈夫だと思った。あなたの来るのが早すぎた。」 (この稿は明日に続く。)

群青の空にひれ伏すダケカンバの疎林 / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(20)

2008-02-20 05:00:06 | Weblog
 ( 今日の写真は、ホワイトアウトの中を、山頂に手探り状態で登り、赤布を付けた「送り」を頼りに、やっとの思いで降りてきた時に、一瞬だが背後に明るく広がった「群青の空にひれ伏すダケカンバの疎林」だ。
 「抜き取った」送りを握りしめながら下山中、自分の踏み跡を、ふと振り返ると群青色の空が広がっていた。
 先刻までの濃霧はどこだ。吹雪はどこだ。視界数mという世界はどこに行ったのだ。白い闇、ホワイトアウトと猛吹雪が「ウソ」のように消えていた。
 まさに快晴であり、無風である。これを「冬山の疑似好天」という。だが、これは決して長続きはしない。すぐまた、白い闇の世界に突入するしかないのだが…ああ、なんであれほどに苦労して登ったのだ。登りの時に晴れてくれるとよかったものをと思う。
 「山の神」も「どこそこの神」も共通して、皮肉なものだ。冬山の天気は変わりやすい。しかし、標高が1200mを下回ると次第に明るくなり、視界も少しずつ開けてくる。それに期待しよう。1月・岩木山スカイラインターミナルの下。)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(20)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・岩木山一周環状道路を道端に注意しながら走ると…」(7)

 さて、自動車を運転しているあなたがたは、文明の象徴である、ー征服や支配の象徴とも言えるーその道路を、文明の利器のためにだけあると考えてはいないか。そう考えるならば、そこには「林道建設」を叫ぶ人と同じ論理の文明が見えてくる。
 また、道路は我々の納める自動車税で造られているのだなどと、そんなけちくさいことはゆめゆめ口にしないで欲しい。
 自動車は、道とか道路の持つ長い長い歴史からみると、まさに生まれたばかりのひよっこで青二才の新参者であると言える。だから、心あるならば少し傍に控えるという奥ゆかしさ、謙虚さを身につけていいだろう。
 林道が出来る。そのことで死滅に追い込まれる動植物の数と種類は、私が目撃する路傍での生物体とは比較にならないほど多いだろう。
 なぜならば、道なき山林というものは、人との共存を拒否しながら、森全体の生命の維持に努めてきたのであるからだ。
 山林の、動物のもの言わぬ拒否をいいことに踏みにじり、人間が一方的に共存する形をとる、これは文明とはまったく縁のない暴挙であると思える。「自然破壊」などというありきたりな言葉はなまぬるくて当てはまらない。
 森に、山林に住む生命体の悲痛な言葉を借りれば、それは「殺し」以外のなにものでもない。
 花の咲く五月、リンゴ畑の中を走る農業道路の傍らには、数多くの「マメコバチ」が車に跳ねられて死んでいる。受粉作業で、人のために大活躍をしてくれた蜂である。そのあとの非業の死なのに人は誰も目を向けない。

 岩木山一周環状道路を自転車でゆっくりと、道端に注意しながら走ったことがある。
 その時のことだ。まさに、その気になれば、一日で夏休みの宿題の昆虫採集が数箱も出来てしまうほどの、自動車に跳ね飛ばされて死んでいる虫たちに出会った。
 それらの中から私の知っているものだけを挙げてみよう。もちろん私が知らない虫は知っている虫の何倍も死んで(殺されて)いた。

 蝶の仲間はキアゲハ、アゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、モンキチョウ、キタテハ、アカタテハ、ジャノメチョウ、ルリシジミ、コツバメ、ミヤマセセリ。
 蛾の仲間はたくさんあって数え切れない程で、名前はまったく知らない。
 甲虫の仲間はカメムシの類、カブトムシ、クワガタ、コガネムシの類、カナブンの類、カミキリムシの類、テントウムシの類。
 とんぼの仲間はエゾイトトンボ、サナエトンボ、オニヤンマ、アカネトンボの類。
 蝉の仲間はヒグラシ、アブラゼミ、エゾハルゼミ。
 蜂の仲間はミツバチ、コマルハナバチ、クマバチ、スズメバチ、ジバチ、アシナガバチ、ジガバチ。
 その他はカマキリ、コオロギの類、キリギリスの類、バッタ、イナゴ、ハエの類、アブの類。
 古くは蛇の類もむしと呼んだので、アオダイショウ、ヤマカガシ、シマヘビなどだ。
                                   
 道端という限定された場所ですら、この多さである。跳ねられ、飛ばされ、踏みつぶされ、その場以外にあるもの、あるいは原形をとどめないものを含めるとその数はおびただしいだろう。
 道路の数、自動車の数、通行回数の何累乗という、まさに天文学的数字の生命がこの瞬時に奪われている。恐ろしいことだ。 (この稿は明日に続く。)

冬の木漏れ日・朝のブナ林 / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(19)

2008-02-19 05:52:23 | Weblog
( 今日の写真は冬の木漏れ日・朝のブナ林である。登りはじめたころはまだ暗闇だった。日帰り登頂を成功させるには暗いうちからの行動が必須である。
 朝4時にタクシーで家を出た。5時近くにスカイライン入り口のバス停前で降りて、身なりを整えて出発した。
 ところが、沢をまたぎ、本尾根に取りつくところでルート取りを間違い、遅れていた。間違った理由は「暗くてよく見えない」ということである。ザックの中には「いつでも」ヘッドランプは入っているが、「まあ、大丈夫だろう」という気持ちがそれを着けさせなかったのだ。「山」でこの「まあ、大丈夫だろう」ということぐらい当てにならないことはない。そのことをよく知っているはずなのに、これと同類の過ちを時々してしまう。
 だが不思議なことに、この「過ち」は「死に結びつく危険」な状態の時には、起こらないのである。きっと、どこかに「安心」という甘えがあるのだろう。

 8時をまわっているのに、冬の太陽は低い。樹木の影は長く西へとなびく。陽光も弱く木漏れ日に近い。遅れがなければこの辺りは「暗闇のブナ樹間」に見えていたはずだ。
 だいぶ高さも稼いだのであろう、ブナ全体が華奢なつくりに変わってきた。この分だと間もなく森林限界も近い。
 それまでにこの「遅れ」を取り戻そう。雪質は上々だ。軽い乾質の雪、気温が低いからシールの滑りも快調だ。12月末日 連続33年目、岩木山年末登山の日…岩木山湯の沢右岸尾根のブナ林)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(19)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・道は便利だが…」(6)

 道は便利である。道路こそ文明の象徴だと言える。
 林道のなかった頃、伐採した樹木の運搬に何が使われたか、おおざっぱに考えることにしよう。
 最初は人力で運び出せる程度のものを伐っていた。遠くに運ぶには谷川の水を利用した。人力で運べないものは馬などを使用した。こんな時代が何世紀か続いた。おそらく不便は感じていなかっただろう。道がないのだから当り前である。
 やがて、科学の時代が押し寄せる。軌道が造られる。運搬能力が増大すると、それは伐採能力の増大を要求する。そして、その増大は伐採量の増大、さらに伐採されたものの商品化へと進み、利益の増大へと帰結する。
 このように、一つの便利さは、それに付随する他のものをも便利にさせようとする力を持ってしまうのだ。
 軌道が発達していた頃は、まだその本数が少なく、山の木の本数も反比例的に多かったし、自動車の発達も大したことはなかった。
 ところが、戦後の日本経済は自動車産業の発展に併せて強くなっていくと、自動車はいろんな分野で使われ出した。
 そこで、運搬に便利な自動車を使って、山の木を運び出すのに便利な林道がどんどんと造られていく。手間を省くことは便利なことだ。便利さの追求、そして、そのことによって得られた、さらなる便利さこそ、文明という名に値するというのだ。
 しかし、どこかおかしい。文明とは、ある種の人にとってだけの便利さを追い求める中で獲得されるものではない。文明とは、もっと全世界的、全生命的であるはずだ。しかももっと広い範囲での豊かさを保障するものであるはずだ。
 一定の距離を行くのに、歩くよりは時間がかからなくなったのだから、時間的余裕という豊かさを我々は持ったはずなのに、むやみやたらに、忙しがって他の生き物の命を奪っている。
 科学や技術によってのみ時間の短縮が図られ、量産からくる経済的収入の増加と余りある暇を手にしても、余裕の持てる精神の文明がまったくお留守の状態になっているのだ。
 便利さの追求は、物質的な文明に偏在している。だからこそ、便利さは、簡単に合理化に結び付き、利益、利潤に直結する側の論理先行で林道は建設される。

 そして、彼らは言う。
「山に自動車の通行出来る道路を造ります。」
「この道は伐採した木々の運搬のために、伐採あとには杉の植林のために使われます。」「一石二鳥です。一本の道路を二つの目的に使用します。兼用出来ることは合理的です。科学的です。」
「すばらしいことです。」
 さあ、どうだろう。やっぱりおかしい。利益、利潤に直結する側の論理による便利さだけを唱えている。

 おかしいのだから、これに反論することは極めてたやすい。
「木を伐らないと道路を造らなくてもいい。植林をしなくてもいい。木を運ばなくてもいい。谷に堰堤を造らなくてもいい。動物や植物を殺さなくてもいい。空気(酸素)は奇麗で新鮮でいい。二酸化炭素が増えないのでオゾン層を破壊しなくていい。土石流や水害がなくていい。沢や川の魚がたくさん捕れていい。海の魚だってたくさん増えていい。クマだってかもしかだって食べ物がたくさん在って大変いい。金がかからなくてとてもいい。」
 まったくの、いいことづくめなのである。

 別の視点で考えてみる。「木を伐るには金がかかる。道路を造るには金がかかる。植林するには金がかかる。木を運ぶには金がかかる。堰堤を造るには金がかかる。」のだ。
 金がかかることは、裏を返せば、金を手にする人が、儲ける人がいるということだ。儲けの大半は地方の支配者に転がり込む。作業員に渡る賃金はほんのすずめの涙分である。さらに儲けの一部は中央の政治家に流れていく。このような図式はここ数十年変わってはいない。
 この金の出所は、言わずと知れた我々の税金、その税金が一握りの人に勝手に使われているのも、しゃくなことだ。あるがままにしておけば、何もかからない。明解そのもの、理解も早い。 (この稿は明日に続く。)

同じ季節を迎えられない「雪を戴く」ブナ / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(18)

2008-02-18 05:02:06 | Weblog
(今日の写真は「ブナ林雑景」だ。ブナ林の空間、何もない樹間と梢に光の大輪を咲かせながら太陽がかなり高く昇った。
 それを支える雪面の影たちだ。青空にブナの「白い花」は眩しいしよく映える。弱い風もが動きを止めた。一瞬の静寂、そして青空…。
 静寂はホップかステップか、ジャンプだろうか。たおやかな花々は青空に向かって解き放たれて飛翔する。自然は無常、ひとときも留まらない。今にも身震いをして付着し凍結した花々を散らしそうである。そして、また、濃霧と吹雪、降雪を待つのだ。
 この繰り返しをこのブナたちは毎年続けてきた。自然は同じ季節を同じように過ごそうとする。そして、それを、約1万年前に「最終氷河期」が終わるとすぐに、ブナ林が形成されて以来、営々と続けてきたのである。このブナの祖先たちも約8000年前には、既にブナ林を形成していたのであろう。熔岩の噴出とか降灰の試練に耐えながら「命」をつないできたのだ。
 そして、それから、違えることなく「同じ季節」を迎えてきたのだが…ここ十数年は「同じ季節」を迎えることが出来なくなっている。
 地球温暖化は確実に岩木山にも、「少ない降雪」と「暖気」という上着を着せているのだ。標高1000m付近のブナ。1月・岳登山道)


 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(18)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・自動車は多くの生きものを「跳ね、圧し、轢き、潰し殺す」」(5)

 ある人が、「文明とは、手間を省く体系のことだ。」と言ったそうだ。人は、衣食住を含むすべての面に渡って、その生活を便利にすることを考えてきた。
 便利にすることとは、楽をするということである。また、一方で「自分でするべきことを他に委ねる」ことでもある。だから、「便利」には危険がいっぱい潜んでいる。ネット犯罪はその「便利」さを巧みに突いてくる。真の便利性というものは「性善説」の限りにおいてのみ「存在」するものだろう。
 楽をするということは、合理化という思想を生み出し、それは余剰を生み出すことに連なり、果ては利潤追求に結び付いていく。
 自動車で行けば、歩くより時間が大幅に短縮される。その上疲れない。余った時間は別なことに使えるし、また別なことに使わなくても、歩いて行くよりは、朝ゆっくり眠っていられる。何よりも楽だ。とにかく便利だ。歩くという手間を省くための自動車、これが文明なのだ。
 そして、この文明の具現者である「自動車のなせる業」が、人を含めた多くの生物を、「跳ね、圧し、轢き、潰し殺す」のである。
 一体いつから、人を殺すこと、他の生物を殺すことが文明と呼ばれるようになったのか。 このことを文明として容認したら、「戦争」も立派な文明である。歴史を見る限り、それを繰り返す人の愚かさを含めて考えると、やはり負の「文明」と呼べそうだ。

 道路があるから自動車が走る。道路とは、ある所から目的地までを、より短い時間で、しかもより安全に結ぶために発展してきたものだ。だから、道路の存在そのものの中に、「手間を省く」という思想が定着している。
 ところが、先人は、手間を省き、目的地に早く着くことを戒めてきた。先人の教えは尊い。「急がば回れ。」である。早く着くこと、時間をかけないことが、どれほど危険でリスクを伴うものかを、昔の人は知っていた。

 「手間を省く」という物質文明の行き過ぎを、諺や格言の精神文明が内側から、ぐっと抑止してきた。これが我々の調和の取れた文明だった。
 自然をあるがままに使う中で、一方自然をあるがままで育てようとする畏敬の念を伴った思想がそこにはあった。治水や治山能力をどれほど発揮出来るかによって、その国の統治者になれたり、なれなかった時代すらあったことを忘れてはならない。

 山道を歩く。自動車の通らない道を歩き、登る。獣道のような所を歩く。
 そんな時、そんな所では、生き物の死骸はまずもって見つからないし、見当たらない。時たま、クワガタムシやカブトムシの死骸を見ることがある。しかし、それは外側の、ほんものの死骸とはいえない甲殻部分だけであって、中身はきれいに掃除されている。
 他のものとはめったに出くわさない。なぜだろう。「自動車が走らないから、跳ね殺されたり、圧し殺されたりしないのだろう」と言う答えはあたらない。
 自然界は生命体の集合だ。生命あるものは必ず死滅する。だから、いたるところに、それらの死骸があっていい。それなのになぜ、私たちの目に触れないのか。
 それは別な生き物、つまりシデ虫の仲間、クロシデムシ、ヤマトモンシデムシ、エンマムシなどが、死骸を処理(掃除)してくれているからである。
 自然が生きていればいるほど、その連鎖的処理能力は大きくなる。かくして、我々の目には生き物の死骸が余り映らなくなるのである。まさに生々輪廻なのだ。

 この種の掃除屋は、自動車の走る道路にもいる。先に述べたカラスたちである。彼らにしても、「四つ足(四輪)怪獣」は怖いもの、次々と通り過ぎる「四つ足怪獣」のちょっとした切れ間に、さっと垂直線状に降りて来ては、ネコの死骸からはみ出ている「臓物」を啄み、直線上に飛ぶ。この飛び方だと「撥ねられる」確率は少ない。たくましい限りである。              (この稿は明日に続く。)

厳しい「西高東低」の気圧配置の中、弥生尾根を登る / 歩く、走る、自転車走行の話し、あれこれ(17)

2008-02-17 06:26:56 | Weblog
 ( 昨日、いつも同行してくれるTさんと岩木山弥生尾根を登った。前日に北海道の北東で960ヘクトパスカルまで発達した低気圧はさらに東に移動した。大陸性の高気圧も大陸の遙か彼方である。等圧線も青森県辺りで、多少右上がりだが「東西に開いた形」になっていた。これだと「西高東低」の気圧配置だが「冬型」は緩み、降雪は一時的なものになるだろうと予想した。
 ところがである。気象庁発表の「天気図:24時間予想図」を見たら、何と960HPの低気圧の南側にもう一つの低気圧が発生して、それが「南西」に向かって「移動」しているのだった。
えっ、うそ!の世界だった。これだと16日は「終日」降雪ありで、しかも寒い。「山」における「疑似好天」すら期待出来ないと思った。

 お天気はそのとおりになった。終日、暇なく雪は降り続いた。登りはじめから、北風が強く、特に右の耳は、その「寒風」に曝されて「キリキリ」と痛んだ。
 地形によって風は巻き風となり、時には南からも吹き込む。新雪は1時間ごとに、その堆積を増し、標高500m辺りで30cmは沈む。ブナ林の中部では70cmは沈んだ。これは決して「ワカン」ではない。スキーであるが苦しい登りに違いない。
 下山時は、後傾姿勢をとってもスキーが滑らないという状態が続いた。さらに、登高時の踏み跡が降雪によって「消され」ている。もしも、その「踏み跡」が分かれば、それを辿ると「スキー」はスムーズに滑ったはずなのである。
 珍しいことに「登高時」も「下降時」にも、「ウサギ」や「ヤマドリ」には出会わなかった。
 これは、「激しい」降雪のなせる業である。山の生きものは「無駄なエネルギー」を使わないように考えている。降雪が激しく、新雪の多い日は「巣穴」でじっとして動かないのだ。「労あって功なし」なことはしない。そんなバカなことをするのは人だけである。
 朝、8時25分に行動を開始して、登山行動を中止したのが14時30分である。弥生の自動車を置いてある場所に戻って来たのは16時である。休憩時間を除いて約7時間の行動だった。本当に疲れた。
 だが、総積雪は少ない。「3合目標識」は雪に埋没して見えなかったが、その下部の標識はちゃんと頭を出していた。
 今日の写真は9日に、岩木山赤沢左岸上部の深い雪の中を登るTさんである。昨日、私はカメラを持っていったのだが、「悪天」をいいことに「ザック」に入れ放しで出さなかった。Tさんは昨日もこの写真のように深雪のラッセルを続けた。私も続けたがその写真はない。)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(17)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと」(4)

 少し、わき道に逸れて、話題を転じる。
 …「山へ行こう」と人は言う。何のために、「竹の子を採りに、茸を採りに」と人が言う。このような人にとっては、山は何にか、人間に都合のいい採集の場所なのである。
 しかし、山は人間以外の動植物のためのものでもある。それなのに、人間以外の動物も植物もすべて「人間のために用意されている」と考えるのはおかしい。
 山に入ると、いろいろな動物等の食事や食事跡に出会う。「子ウサギ」が登山道沿いの竹の子を噛っている。リスがミズナラの実を頬張っている。「山カガシ」が「ネズミ」を飲込んで動けなくなっている。そのような光景に出会うと、思わず笑みがこぼれる。

 ところで、私は「動植物の研究者」ではないので、詳しいことは解らないが…、
人という動物がこの地球上に発生したのは「地質時代の第四紀」である。その時、すでにずっと前の「白亜紀」から被子植物時代が始まり、「第三紀」には被子植物の繁栄を迎え、「ブナ」や「カエデ」などの植物は現在と同じ形態で、その営為をしていたのである。人以外の動物もほ乳類の繁栄期にあって、ほぼ同じだった…のだそうである。
 だから、「出で来始め」の原人たちは、「人」になる前は樹上生活をし、なった後は地上を歩くわけだから自然、とりわけ地上の植物に合わせた形態で、進化してきたはずだ。
 つまり、「受身的行為」に始まり、それを「進化」するという「能動態」に変えてきたに過ぎない。だが、驚くかな、人は「生物的身体的進化」をとうの昔に「捨て去って」いる。

 ところが、適合して、「進化」してきたことを、「自然を利用して」と考えたがる人もいる。生態系と食物連鎖からみれば人間は徹底的に消費者(生産者、つまり光合成をする植物の作った有機物を消費する)である。時には同類の消費者である肉食や草食動物を食べる。
 人は決して生産者にはなれない。永遠に生産者を征服し、生産物の略奪を続けていく。だから「自然を利用する」と言えなくはない。さらには、「利用して」をとらえて、「自然を征服して」と考えたがる人も出てくる。
 そして、とうとう、「自然のすべては人のために存在する」と思う人まで出てくるし、そういう宗教まで出てくる始末だ。この宗教が西欧世界を席巻しているから恐ろしい。
 人を生物の、とりわけ「動物の長」などと思っている者は、よく「文明」という語を口に出す。「我々人類だけが文明を持っている」のだ。それゆえに、「人類は科学的な生物」なのだ。イヌが、ネズミが、科学を扱えるか、と言うのである。

 しかし、「文明」ということを離れてとらえると、イヌもネズミも非常に「自然科学的」なのである。そのことが、人の目に見えないし、見ないだけなのである。
 イヌの「聴覚や嗅覚」は「人間の科学」をはるかに越える。「コウモリ」のレーダーは人間のそれより優れている。科学の粋を集めた飛行機は「トンボ」のように優雅に、しかも複雑な飛び方は出来ない。
 
「文明の中で生活する者」として、科学を扱えることは、「自然に添ったかたちで扱うという条件を遵守する限りにおいて」大事な資格であろう。(この稿は明日に続く。)

雪上車運行で、この尾根だけが「岩木山銀座」になる。雪崩の危険がいっぱいの鳥海山東面尾根の滑降

2008-02-16 06:23:53 | Weblog
( 今日の写真は、「雪上車」である。運行場所は「岩木山スカイライン」が15年間運行を続けてきたが経営が成り立たなくなったので、数年前に撤退した運行コースである。
 このコースの「雪上車運行」は一昨年、中央の企業が再開したが、これまた営業不振で昨年は撤退し、運行されなかった場所でもある。
 一昨年再開した「運行企業」は森林管理署の許認可を得ていたようだ。
岩木山を考える会は「雪上車運行」によって雪が「圧雪状態」になりその部分、つまり標高約450mから1100mまで、幅7mが「硬雪」となり、自然の循環的な「雪解け」にならず、残雪のため周辺気温が冷涼のため「ブナ林」の生態系に、たとえば、「ミドリシジミの発生が遅れて羽化や産卵に異常をきたしている」などの悪影響から、冬期間の「雪上車運行」を控えてくれるように要望してきた。自然保護課に同じような要望も出している。
 だから、昨年「雪上車運行」は中止して、撤退という知らせを受けた時は、ほっとしたものである。
 ところが、今季また「雪上車運行」が再開されていたのである。果たして、「森林管理署」や「自然保護課」、それに、「お客を乗せての運行」であるから、その筋の「行政機関」の許認可を受けているのだろうか。
 これまでの本会への「森林管理署」や「自然保護課」などの対応から考えると、到底許認可はされないと考えているが、どうなのだろう。「森林管理署」「自然保護課」に確認してみる必要がありそうである。
 この写真は2月9日に撮影したものだ。視認した限りではこれには3人のスノーボーダーが乗っていた。
 今季は、いつの年にないほど、岩木山の「岳登山道尾根」を登る人が多いと思っていたら、実はこの「雪上車」を利用していたのである。

 9日から10日にかけても、述べ15人前後のスノーボーダーやスキーを使った登山者が雪上車に「乗車」して、標高1100m辺りまで「運ばれて」きて、上部を目指していたのである。
その中の9日に確認した3人は、その登高跡から鳥海山頂に向かっていることが分かったし、10日下山の時、確認した数名もリフト終点から鳥海山に向かっていた。同じ日に出会った5人のスキー登山者は鰺ヶ沢スキー場に降りると言っていたのである。

 その1週間前の2月3日(日)に、私は百沢尾根の焼け止り小屋よりも少しだけ上部まで登ったが、その時も鳥海山から「雪崩発生の常習地帯」である、その東斜面を、焼け止り小屋の西を通り、下っている「スノーボード」の滑走跡を発見していた。
 さらに、その「滑走跡」は、大体スキー標識を辿りながら、姥石からは「登山道」の西に位置する林道沿いに「スキー標識」に従いながら、「七曲り」から百沢スキー場方向に滑り降りていた。

 これらのことは何を意味するのか。多数のスノーボーダーが「雪上車」に乗って、比較的、楽に、標高1502mの鳥海山に登って、そこから「雪崩常習地帯」の鳥海の東斜面を百沢登山道尾根に向かって滑降しているのである。麓の登山口から「自力」で登ってくる「スノーボーダー」は数少ない。
 3日は、午前中は晴れていたので視界が利いた。しかし、9日も10日も標高1200m以上の場所では視界は、5mから20mであった。その上、2日前から積もった新雪は場所によっては70cm以上に達していた。私も登りながら足下に、何回も「弱層」の存在を確認したものだ。

 まさに、「雪崩がいつ起きておかしくない」という積雪と雪質、しかも、「雪崩に遭う」かも知れないし、「雪崩を誘発」してしまうかも知れないような「場所」に、いくら「頼まれた」ことであるかも知れないが、「安易」に行けるような「雪上車乗車」という機会を与えることには、「危険回避」と「生命の安全確保」という点からは、問題があるのではないか。「乗せている間」だけが「責任」というのであれば、それは「道義的」に問題視されるだろう。
 しかも、仮に、「雪上車乗車」代金を徴収しての行為であるとすれば、「下車後」についても、なおさら「利用者の安全確保」には十分留意することは当然であろう。

私は10日の晩と11日の朝のテレビニュースを、丁寧に見ざるを得なかった。それは、10日に鳥海山から滑降したスノーボーダーたちと岩木山山頂を経て鰺ヶ沢スキー場に下山すると言っていたスキー登山者たちが「遭難事故」の主役になっていないことを「切望」したからである。)


 なお、連載中の「歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(17)」(承前)「自転車走行中に出会うこと」(4)は明日掲載する。

新雪と視界不良の中のスノーボーダーたち / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(16)

2008-02-15 06:27:02 | Weblog
( 今日の写真は2月9日岩木山を登っている途中で、一瞬だけ見えた山頂である。結局2日間に渡って安定した「晴れ間」には恵まれなかった。標高1200mより上部では視界は悪ければ数m、よくても10mから20mだった。
 しかも、新雪が深いところ(斜面がきついところ)では「腰」を越えるほどで「ラッセル」は困難を極めた。

 そのような状況の中で、9日に「4人」のスノーボーダーが「鳥海山山頂」方向に登っていくのを確認したし、下山してきた10日には「3人」のスノーボーダーがまた同じく「鳥海山山頂」方向にルートをとっていることを確認している。
 その他に、10日にはリフト終点付近で5人のスキーヤーに出会った。彼らはスキーヤーでもあるが、スキーにシールは着けているし、ピッケルなども持っていたから、「登山」も指向しているようだから、単なる「スキーヤー」ではなそうであった。

 彼らとは会話をする機会があった。次は彼らの言ったことである。
「岩木山は初めてです。」「ピッケルも今回が使い初めです。」「山頂を経て鰺ヶ沢スキー場に降ります。」「(私の折れたピッケルを見て)ピッケルが折れるほど硬いところがあるのですか。」などなどだ。
 私は「山頂から長平方向に降りると直ぐに斜面は氷化していて、しかもその斜面に縦にそって雪庇状の雪塁が出来ています。これは強い風によって造られるものです。視界が利かない中で斜降していくと、この雪塁に激突します。そうなると、それが崩れそこから雪崩が発生します。今日のような視界だったら非常に危険です。」というような意味のことを言った。そして、別れ、下山を続けた。
 ワカンを脱いで、スカイラインターミナル付近にデポしておいたスキーを着けて、これまたデポしておいた「テント一式」を同行のTさんが担いで、100mほど下降したところで、また別のスノーボーダーの5人パーティに出会った。
 リーダーと思しい人が話しかけてきたので、「鳳鳴小屋の引き戸が開かない事情」について話した。そうしたら、彼は以前にあの引き戸廻りにゴム板など貼ル作業をしたことがあるというようなことを言った。地元の人らしいが、私はまだ会ったことのない人であった。
 このパーティは、私たちを岳・羽黒の分岐点付近で追い越して下山していった。

 鳳鳴小屋に泊まった人は私たち2人だけだが、岩木山に入山した人の数は多い。まさに岩木山の銀座通りである。「この稿は明日に続く。」)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(16)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと」(3)
 
 跳ね殺され、押し殺された「スズメ」を見ることも多い。春から夏、そして、秋の初めころと期間は限られるが、その中でも多い「ピーク」は二回ほどある。
 跳ね殺され、轢き殺される「スズメ」のほとんどが、くちばしの黄色い幼鳥である。
巣立ちをしたばかりで、飛び方も下手で、特に道路の上を、自動車を避けて飛ぶ「高さ」の判断などの訓練がされていないものだ。いわば「弱者」としての幼鳥なのである。
 鳥の中で次に多いのは「ドバト」である。やはり、近年人間と同じ地域を生活の場としている鳥だ。
 ところが、同じ場に住んでいながら、意外に少ないのは「カラス」である。めったに彼らの死骸を見ることはない。今時の「カラス」ほど、その食糧事情の安定しているものはいないだろう。
 人間がせっせと「飽食からくる残飯」を供給し続けているからである。それをしていながら、「カラス」の「糞害」に「憤慨」していることなどは、何だか、「カラス」にすべてを見透かせられているようで、「フンガイ」などとユ-モア的駄洒落では片付けられない気分になる。
 「カラス」は利口だ。道路上の「猫」や「ドバト」の死骸を啄(ついば)む時も、自動車の流れ、つまり間合いをちゃんと計って降りてきたり飛び上がったりする。
 しかも、その降り方、上り方が水平方向でなく垂直方向である。自動車にぶつかる確率は時間的距離の長さに比例して高くなる。だから「時間的距離の短い垂直方向」に飛ぶ。 さらに観察をしたところ、道路の「中央方向に飛ぶことをできるだけ避けている」ことも解った。
 「カラス」ほどの強者にならなければ文明の利器、自動車には太刀打ち出来ないのだと考えたら、何だかお先が真っ暗になってしまった。
 そういう訳で、実際は文明の利器である「自動車」は「弱者である動物」を襲うのだ。このことは、速度をもって動く自動車と歩く人との関係に妙に似てくるがどうであろう。

 これまでに、2回跳ね殺された「オコジョ」に出会ったことがある。いずれも国道7号線上である。
 その2匹とも潰されてはいなかった。彼等が敏捷であるためだろう。鼻腔から血を流している。奇しくも両方とも、カッと目を見開いていた。
 それはあたかも、跳ね殺した者に対する「恨みに満ちた形相」であった。

 職場に着いて、同僚に「今朝、オコジョが殺されていた。」と言ったら「それで、どうしたの。拾ってきて剥製にして飾っておけばいいのに。」と言う。
 自分がハンテイングをして捕った獣を「剥製」にして飾ることだって酷いことだ。さらに、それは自己満足のなにものでもなく、見苦しいことでもある。
 しかも、車に跳ねられ、殺されたものを、そのようにするのはもっと酷いことであり、卑しいことのように思えた。
 私は話しを止めた。ところで、このような発想をする人は意外と多いものである。
  (この稿は明日に続く。)