岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

北原白秋が詠う「たんぽぽ」は…

2007-07-27 04:42:59 | Weblog
 昨日「エゾタンポポ」のことを書いている時に、北原白秋の詩に「たんぽぽ」というのがあることを思い出していた。そして、あの「たんぽぽ」は在来種の何なのだろうとか、それとも、西洋タンポポであろうかなどと考えていた。
 これは私自身の「変容と変質」振りを如実に示すものである。それに気づいて驚き、しかもまた、「実につまらないこと」に関心がいく自分にあきれ果ててしまった。
 今朝は「このこと」について書いてみたい。

『 「たんぽぽ」北原白秋
〈わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。〉

 あかき血しほはたんぽぽの/ゆめの逕(こみち)にしたたるや、君がかなしき釣臺はひとり入日にゆられゆく…
 あかき血しほはたんぽぽの/黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、君がかなしき傷口に春のにほひも沁み入らむ…
 あかき血しほはたんぽぽの/晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、ふはふはと飛ぶたんぽぽの圓い穗の毛に、そよかぜに…
 あかき血しほはたんぽぽに、/けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、絶えて聲なき釣臺のかげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。
 あかき血しほはたんぽぽの/野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。半ばくづれし、なほ小さき、おもひおもひのそのゆめに。
 あかき血しほはたんぽぽの/かげのしめりにちりてゆく、君がかなしき傷口に蟲の鳴く音(ね)も消え入らむ…
 あかき血しほはたんぽぽの/けふのなごりにしたたるや、君がかなしき釣臺はひとり入日にゆられゆく… 』

私が白秋のこの詩に最初に出会ったのは、確か大学の1年か2年生の頃だと思う。
まず、前書きの「わが友は自刄したり」を目にして「ぎょっと」した。
しかし、一連二連と読み進んでいくうちに涙がこみ上げてきた。先に進まず、もう一度最初に戻って声を出して読んだ。涙声が私の朗読をかき消した。
 「赤い血潮、黄色の花やつぼみ、それに赤い入り日」が鮮烈な印象の中で、心底から悲しかった。悲しみが色を帯びて鮮やかに私の心を突くのだった。
白秋の友、中島鎭夫は、割腹したか手首を切ったかどうかして、とにかく血まみれになって自刃した。
 当時の私にとって死は怖かった。恐怖以外の何者でもなかった。この年になってもやはり、「死」は恐怖である。だが、中島はその恐怖を敢然と打ち克ってそれに臨み、潔く果てた。それは昇華である。美しく果てた昇華である。赤い血潮、黄色のたんぽぽ咲く野辺の春、その中で悲しくも、力強くしかも、孤高にである。
 私には、中島は強いと思った。勇気があると思った。純粋で心美しい青年に思えた。
「赤と黄色という鮮やかで艶やかな色彩」に包まれて死んでいくことは、まさに極楽黄土のまっただ中にいるのではないかと思った。そして、野に咲く「たんぽぽ」のように強靱だとも思えた。

 だが、何だ、今の私は、実につまらない老人だ。このような「感動」がない。知識や種別などにだけ関心がある人間、心の襞(ひだ)や感性などには無頓着な人間なりさがってしまっているではないか。
 何のために齢(よわい)六十六になるまで生きてきたのか。
 感動もない、あのタンポポはセイヨウタンポポだろうか、在来集だろうか、そんなことどうでもいいだろう。

 それに比べると、この詩に込められた白秋の友情と優しさ、友のむごい最期から目を逸らさないで、じっとそれを冷静に見つめていることは、愛情と優しさ以外の何ものでもない。じっと悲しみに耐えている白秋の心情が、痛いほど分かる。死なせてなるものか、たんぽぽのような強い生命力を持って、この「春という命の季節」に生き返ってほしいという願いに、白秋のいじらしさに、また泣けてくる、もはや、号泣である。
 遺骸は戸板か何かに載せられて、たんぽぽの咲いている野道を家まで運ばれる。その途中、遺骸からは赤い血潮がしたたり落ちて、野辺に咲くたんぽぽを赤く染めていく。
 白秋はその亡骸と一緒に野道を「無念や悲しみ、寂寥感、悔恨の情」に耐えながら、じっと、目を据えて歩き続けるのである。その情景がまぶたの奥ではっきりと見える。
 いつの間にか私は白秋になっていた。白秋は堪えて泣かない。だが、どこかで泣いている白秋がいる。その泣いている白秋に代わって私は泣いた。

 白秋も強い。耐えることは美しい。その中で、友中島の結末を見届けている。この冷静さは、冷徹と言えるほどの観察は何なのだ。若い介添人、あるいは悲しみに耐える介錯人は、決して涙を見せない。涙を押し殺している冷徹さ、潔くもあり美しい。

 だが、それに引き替え、今の私は「現実妥協」の老獪さだけを身につけた老人に過ぎない。もし、この詩を読んでこの「たんぽぽ」は在来種か西洋タンポポだろうかというような関心や疑念だけが思考を占めていることが、植物学など、いわゆる「科学する」ことであるとすれば、それは何という人間の「感性」という領域の欠けた世界ではないか。実につまらないことであろう。

私は挑戦した。もう一度声を上げて読んでみた。泣けた。胸が詰まってきた。涙が頬を伝わった。ああ、まだ、私には「若い血」が少しではあるが息づいているようだ。