岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

千島桜と高嶺桜の違いは? / 高山帯の開花が3週間も遅れた理由を推測してみる…

2008-05-31 05:24:56 | Weblog
(今日の写真はチシマザクラである。樹高が1mから3m程度と低く、樹形は株立ちするため、花が咲いていなくてもある程度区別がつく。花の色は白色である。岩木山では中腹部に多い。赤倉登山道沿いでは今年は「今」が盛りで咲いている。これらの咲く上部の高山帯には、タカネザクラがあり、ピンク色の花をつけ始めている。チシマザクラは、タカネザクラ「ミネザクラ」の変種で、花柄や葉柄に毛がある。花の色は白く、比較的開花時期が長い。  
 昨日の写真は「高嶺桜(タカネザクラ)・別名峰桜(ミネザクラ)」である。
2mから5mくらいの樹高のものが多い。圧雪や強風に耐えて幹が斜め広がる樹形になる。ダケカンバなどと同じように多雪にも耐えることが出来るタカネザクラは、ダケカンバ帯を代表する樹種である。今年は早くも5月に一部咲き出したが、例年ならば雪解けに合わせて雪田や凹地、風背斜面で花をつける。岩木山では8月の初め頃にも見られることがある。タカネザクラは写真のように花柄や葉柄に毛がない。)

◆◆ところで、ミチノクコザクラの開花が3週間も遅れた理由は何なのだろう◆◆

 問題にしている「ミチノクコザクラ」に関しては既定の条件が3つある。
1つは「標高1400m付近」であること、2つめは「風衝地であり、積雪が殆どなく例年4月に入ると地肌が露出している場所」であること、3つめは「これまでの観察から例年5月上旬に開花」していたということである。

 この条件を踏まえながら、「開花が3週間も遅れた理由」を素人なりに考えてみると次の二項に行きつくのである。

 その第一は、「平地では異常な暖かさで春は早く来たが、その気候的な異常さとは反比例的に標高1400m付近の風衝地では4月から5月中旬までは冷涼な気候・気温で推移した」のではないか、ということである。
 残念ながら、その場所の継続的な「気温推移」の記録はない。ただ、気温は標高100m上がるにつれて1℃下がるといわれているので、山麓部の気温からその差分を引いた気温が「その場所」の気温ということになることはなるのだが、それを当てはめると「冷涼な気候・気温で推移した」という推理は成立しなくなってしまうのである。
 だからここでは「平地における異常な暖かさ」とは関係なく、その「風衝地」だけが「冷涼」であったとするしかないのである。ただ、「風衝地」は常時、風が強いということがその特徴的な「気象・気候」である。
 一般的に花の咲く時期は、天候や残雪の量により年によって異なったり、場所や標高によっても違うものだ。また、中には案外長期間咲いていて季節感を示さない花もある。
 ミチノクコザクラは岩木山の標高1000m付近大沢沿いという低地(私は確認していないが長平登山道沿いの鰺ヶ沢スキー場ゴンドラ終着駅付近のゲレンデにも咲いていたという報告もある)から山頂直下の標高1600m付近という高山帯まで広く分布している。
 これが岩木山全地域でミチノクコザクラの開花時期に「5月上旬から8月中旬」という幅を持たせているのである。
 さらに、積雪や雪田、窪地、風背斜面などという「環境」によって開花の時期が大きく違う場合もあるのだ。

 その第二は「温暖な気象に呼応・対応して開花することによって受けるダメージやリスクを回避した」ということである。 
 そもそも高山植物とは、北方寒地系植物のうち、「地球温暖化」に伴い、暖地の高山帯にわずかに生き残った遺存植物が中心である。ここでいう「地球温暖化」はここ数年問題になっている非常に「急激」に「拡大」し「進行」している化石燃料から排出されるCO2 増加による「温暖化」ではない。地球はこれまで極めて自然に、「人工」とは関係なく温暖化と寒冷化を繰り返してきた。
 その中で「高山」という環境に封じ込められ、そこ以外に「生育地」がないという、いわば「背水の陣」で対応しながら進化してきたものである。だから、環境の変化に微妙に対応する術を「形質的」に受け継いでいるのではなかろうか。
  低い標高に生えている植物は、より高い標高へ移動出来ると生存は可能だが、高山植物は「これ以上高い標高の場所」への移動は出来ないのである。地形・地質や環境の違いにより高山植物の種類も変化し、それぞれの場所の歴史を踏まえて、今の生活があるのだと私は理解している。
 温暖化の影響は、極地や寒帯、それに「高山帯」で最も顕著に現れると予測されている。「低い温度」が植物の成長などを制限しているので、温暖化により、この「制限」が弱まれば、影響は大きく現れるのだ。
赤倉尾根、風衝地に毎年5月上旬に咲き出していたミチノクコザクラは「温暖化」と「寒冷化」への対処の仕方を身につけていたのではないのか。移動することで対処することが出来ない植物の「経験知(このような言葉があるかどうかは知らないが)」と言ってもいいだろう。
 つまり、「温暖」に気を許し、浮かれて「開花」することのリスクを知っていた。花を咲かせるということは「種」をつけて、子孫を残すということである。これは植物にとってまさに命をかけた行為である。それゆえに「結実」ということに「確実性」を望めない時には「開花」を控える。そのことをミチノクコザクラたちは学んできたのだろう。人によって都合よく育てられている植物のように「ヤワ」ではないのである。
 温暖化の中で見られた今季の平地の遅霜被害は、人手によって人に都合よく「改良」された園地植物だけではなかった。何と、野草山菜である「蕨(わらび)」までもが、寒冷な「霜」によって枯れたものがあるのだ。蕨や薇(ぜんまい)などは本来寒冷には強い形質を持つ植物である。それが霜にあって「枯れた」のだ。
 高山の風衝地という特殊な場所で、長いこと巧みにその自然に適応し、生育してきたミチノクコザクラは「温暖ではあるが、もしも早く花を咲かせてから霜にあえば、子孫は残せない。今季の異常な気象に対してしばらく様子見をしよう」ということで「本物の暖かさを実感するまで待って」20日過ぎにようやく開花したのではないのだろうか。恐らく人間からすれば気が遠くなるような長い時間の中で、ミチノクコザクラたちはこのような歴史を繰り返してきたのではないだろうか。
 私はここに氷河時代の遺存植物である高山植物としての偉大さと生命に対するすばらしい執着心を見るのである。

「青森県自然観察指導員連絡会主催学習会」のこと 、あれこれ

2008-05-30 06:59:19 | Weblog
(今日の写真はバラ科サクラ属の落葉高木「何とか桜」である。早い春の訪れで里の桜「ソメイヨシノ」は早々と咲き、そして忙しく散っていった。ところが、岩木山では中腹部で今この桜が咲いている。これは23日に撮ったものである。これから、残雪の消え方にあわせて高山帯の「何とか桜」も順次咲き出す。
 実はこの「何とか桜」と「何とか桜」は非常に似ている。見た目では区別が出来ないほどである。その区別する点は、わずかに「花柄」に「毛」があるかないかだけである。果たして、この写真を拡大しても「花柄」に毛を確認できるかどうか?解答は明日しよう。)

◆◆一昨日開かれた「青森県自然観察指導員連絡会主催の学習会」での「あれこれ」◆◆

 主題は、小学生からの質問ということで「岩木山の主な高山植物、樹木、ほ乳類、野鳥」であった。以下の項目について1、~6、まではプロジェクターによる文書で、7、~12、までは画像によるスライドショウで学習した。
1、木の実はどれくらいあって食べられるのは何ですか。
2、食べられる山菜の種類を知りたいと思います。
3、苔の種類はどのくらいですか。また、なぜ生えているのですか。
4、だれかが植えたわけでもないのにどうして木が生えているのですか。
5、いつ森林が出来たのですか。木の種類はどのくらいで何がありますか。
6、九合目には木が生えていないのはなぜですか。
7、高山植物の種類と特徴について知りたいと思います。
八甲田山にあって岩木山にない花は
白神山地にあって岩木山にない花は
岩木山にあって他の二山のいずれかにない花は
標高1000m以上に咲く岩木山の高山植物で主なものは
8、高山植物はそれぞれどんな所で咲くのですか。
9、どのような大きなほ乳類がいますか。また、どんな生活をしているのですか。
10、小動物(ほ乳類)はどんなものがいますか。またどのような所に生息しているのですか。
11、代表的な昆虫、両生類、は虫類を教えてほしいと思います。
12、岩木山で見られる鳥にはどんなものがありますか。(岩木山で確認された野鳥は90種を越えている)

*あれこれ…その1
★☆野鳥に関心のある人が多かったように思える学習会であった。本会が作成してある岩木山の野鳥ファイルから飛鳥和宏さんや菊地弘保さんの「写真」をスライドショウで提示すると「きれいだ」という声が漏れるなど、反応がかなりあったように思える。

*あれこれ…その2 
★☆最後に「イチイとコメツガの違い」について詳しく知りたいという質問があった。しかし、時間がなくて極めて簡単な説明しかできなかった。そこで、この場を借りて今一度、重複していることはあるが説明したい。

「イチイ」はイチイ科イチイ属の常緑針葉高木である。
葉は長さ2cm程度で、葉の先端は「尖る」が触っても痛くない。中脈は表面に突き出しており、裏面は淡緑色である。
 「雌雄異株」で春に花が咲き、種子の周りにある赤い果肉状の「仮種皮」という赤い実にくるまった種子をつける。「裸子植物」であるイチイは、正しくは果実をつけない樹木である。この仮種皮は甘くて食べられる。ただし、食べられるのは「仮種皮」部分だけである。中の種子をかじると苦く、「有毒」成分を含んでいる。
 果実にあたる仮種皮の部分は甘くて食欲をそそり、中心部の種子は苦くて有毒であるということは、種子の「鳥散布の方法」としては最適であると考えられる。
 裸子植物は鳥類の進化に先んじて存在していたので風散布であるものが多いそうだが、一部の仲間はイチイのように、明らかに動物散布のシステムを取り入れているものもある。
 岩木山に「追子森」という場所があるが、そこには「コメツガ」が生えている。この呼び名の由来は、イチイを「オンコ」ということに探ることが出来そうだ。「コメツガ」はその葉や形状が「イチイ」に似ているので「オンコ(イチイ)」の生えている「森」ということで「オンコモリ(追子森)」と呼んだと推測される。
「コメツガ」はマツ科ツガ属の常緑大高木である。
 樹皮は灰褐色で厚く、深く縦裂している。葉は線形で、先端は「凹む」。尖っていない。上面は濃緑色で光沢があり、下面には白色の気孔線がある。
 「雌雄同株」で、雄花は卵形、枝端に1個つく。雌花も小枝の先につき、長卵形で赤みがかった紫色である。「マツカサ」を形成して種子には翼があり淡褐色である。
 詳しくは28日掲載の写真を見て欲しい。

*あれこれ…その3
★☆私の(この)ブログの「お知らせ」を見て、学習会に参加した人がいたのである。
 予定の時間を15分もオーバーしてようやく学習会は終了した。その時、ある人が私のところにやって、「今日はどうも有り難うございました。私はX中学校でYを教えているZという者です。実は岩木山を考える会のホームページで先生のブログを見ている者です。たまたま、今日のブログのお知らせにこの学習会のことが書かれてあったので参加しました。忙しく少し遅れてきましたが、勉強になりました」という意味のことを言ってくれたのである。
 有り難いのは私のほうである。まずは、つたない「ブログ」に目をとおしてくれていることである。「毎日ではないが見ている、読んでいる」ともその先生は言っていたのだ。ついで、「岩木山や岩木山の自然」に関心を持ってくれていることである。特に、生徒に接している先生が、関心を持つことは「岩木山の自然」をこのまま残していくことに深くつながっていくのだろうと考えるからである。
 このような先生たちが一人でも多くなることを願っている。主催者の一人であるTさんも喜んでいたのである。
 私の「ブログ」もこのような形で活用されているとすごく嬉しい。
今回の学習会は私が用意した「レジメ」では足りなくなったようで、慌ててコピーをして対応していたようである。それほどに「参加者」が多かったということである。これも嬉しいことではある。

岩木山・赤倉登山道の石仏「観音像」のこと

2008-05-29 07:52:05 | Weblog
(今日の写真は赤倉登山道のブナ林の中に立つ第九番石仏である。5月23日に撮ったものだ。名前を不空羂索「ふくうけんじゃく(または、けんさく)」観音という。
 不空とは、願いが空しくないという意味であり、羂索とは戦いや狩猟に用いる環のついた投網のことだ。菩薩の網で、もれなく苦悩するすべての人々を救いとる観音様とされている。立っている場所が「狩猟」の対象である獣が棲んでいる森の中であることは、この観音の救いの意味を考えて建立されていることを私たちに教えてくれる。)
 赤倉登山道には標高560mの場所から標高1450mの間に33体の観音さまの石像がならび立っている。私は最初、この33体の石仏が世に言う「三十三観音」であり、名前の違う33体の石仏が一つずつ並んでいるのだろうと推測したが、全く違っていた。この33体の石仏は「六観音」を中心にしたものだった。
 六観音は、基本形である聖(しょう)観音をはじめ、十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手千眼観音の六つである。時に、これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音とする場合もある。
 だが、この三十三番までの石仏には、私が見たところでは「馬頭(ばとう)観音」が出てこないし、「三十三観音」の「岩戸観音」や「竜頭観音」が祀られていたりする。
 人々の願い事と救いを求める中身は多様である。それに応えるためには厳密的な「縛り」は不要であろう。ファジーであることが大切なのである。
 観音さまというのは日本では恐らく一番信仰を集めている仏であろう。この仏様は慈悲の心により、救いを求めている人があったらすぐにそこへ行って彼らを救済をすると言われており、如来様ほど恐れ多い存在でもないところから、庶民から人気を集めたのではないかと思われる。
 観音は衆生(人々)を救済に現れる時、色々な姿を示すと言われている。いわゆる六観音の他に、竜頭・滝見・威徳などを入れた三十三観音という数え方もあるが、その中にも「子安観音」等は入っていないから、観音の姿は全部で幾つくらいあるか見当がつかない。
 本当に千本の手が彫られている千手観音としては、奈良の唐招提寺のものなどが知られている。

 序でだから今日は岩木山の石仏を案内する。

 …神社を出てすぐ赤倉沢にかかる橋を渡り、ミズナラ林の道を行く。ブナが目立ちはじめると両側に社屋が数軒見えてくる。近くに湧き水もある。
 標高560mの稜線に出ると石仏の一番だ。「如意輪観音」である。全国の山でも滅多に味わえない宗教的色彩の強い石仏の道が始まる。
 しばらくは石仏の並ぶ稜線を登る。稜線を南に入っていくとブナ林帯となり斜度が増してくる。この林内の道に六、七、八番の石仏がある。登りきるあたりに不空羂索「ふくうけんじゃく」観音の石仏九番が出てきて、間もなく尾根の稜線に出る。
 そこから十数分で伯母石に着く。ここには石仏十番が立っている。岩稜左岸の道に入ると直ぐに十一番石仏がある。次いで十二番から十三番までが並んでいる。
 岩稜左岸の道を出ると、稜線の広くなった道に出る。石仏十四番、十五番を追いながら登って行く。
 コメツガが現れ、突然視界が開けるとそこが鬼ノ土俵である。そこには石仏十六番から十九番までがまとまって並んでいる。どのような造山運動でほぼ円形で平らな地形になったのか不思議なことだが、そこを「鬼の土俵」と呼んだ昔の人の発想の豊かさには驚くばかりだ。祠のひとつには鬼の像が祀ってある。
 標高は既に1000mを越えている。右手に赤倉沢を見ながら進むと植生が変わってきて、コメツガのトンネルが現れてくる。
 コメツガのトンネルは他では見ることのできない風景だ。天然記念物級のコメツガのトンネルを十分味わいながら、石仏二十番、二十一番を辿ることになる。
 間もなく、石仏二十二番、二十三番、二十四番が三つ並んでいるところに着く。そこを大開と呼ぶ。そこから赤倉沢を覗いてみよう。沢の深さと大きさが実感出来るはずだ。
 ますます、急な登りになる。石仏二十五番(倒れている)、石仏二十六番を辿りきると視界が開けてくる。あと一息で石仏二十七番だ。祠のある赤倉御殿に到着する。三百六十度の展望が開ける。
 ここから巌鬼山まではほぼ平坦な道だ。南に石仏二十八番を目ざす。二十九番、三十番、三十一番と続くが、この辺りは風衝地なので風が強く、石仏も風で削がれている。
 いよいよ最後の石仏、三十二番、三十三番だ。これは2体が並んで立っている。そこから少し進むと「聖観音」がある。

コメツガ(米栂)の花 / 東奥日報夕刊(27日付)にミチノクコザクラとコメバツガザクラの写真掲載

2008-05-28 06:47:48 | Weblog
 (今日の写真はマツ科ツガ属のコメツガ「米栂」の花だ。赤倉登山道の標高900mから1200m辺りまでの岩の多い尾根すじに生えている。1200m辺りのものはまだ花をつけていなかったが、これは23日に標高900m辺りで写したものだ。
 コメツガは本州の中部以北と、紀伊半島や四国、九州の山地に点々と生えている常緑針葉樹で、亜高山帯の針葉樹林の構成種の一つである。樹高は20mを越すといわれているが、岩木山のものは尾根すじの岩場などに生育する傾向が強く、樹高も低く、斜面に沿って横に這っている。これは強い風と圧雪によって撓められたものである。幹も分かれて多幹になっていることも多い。太いものでは幹周りが2mを越えるものもある。
 岩木山のコメツガは北側の稜線でしか見られない。つまり、岳、百沢、弥生登山道沿いではお目にかかれない樹木である。つまり、岩木山の古い地質帯の岩稜という「痩せ地」にだけ生えているということになる。
 ツガ(栂)は常緑高木である。ヒマラヤから東アジアにかけてと北米に分布する。日本には温暖帯に生えるツガと亜高山帯に生えるコメツガの2種が分布している。
 名前の由来は、栂なのだが葉が「米粒」のように小さい「ツガ」という意味による。このような葉を持つ植物には「ツガ」という名を持つものが多い。岩木山にはエゾノツガザクラ、ナガバツガザクラ、コメバツガザクラなどが自生している。)

 ◆◆ミチノクコザクラとコメバツガザクラの写真が東奥日報夕刊(27日付)に掲載された◆◆

 両方の写真が紹介されたことを喜んでいる。実は当初、東奥日報の記者は「ミチノクコザクラ」の写真だけを掲載して、記事の中で「コメバツガザクラ」について触れる予定でいたようであった。そこで、私は次のようにお願いした。
 「…写真は2枚掲載ですか。出来れば2枚載せて欲しいところです。ミチノクコザクラは、一般的に誰でも知っている花です。しかし、コメバツガザクラは花も小さいし、目立たずしかも岩場にへばりつくように生えています。ですから、一般の人には気づかなかったり、また、咲いている場所になかなか「行くことが出来ない」こともあり、見ることの難しい花です。しかも、この時季にしか咲きませんし、花期も短いので、その意味で珍しい花と言えると思います。そのような花ですから、紙上に掲載して多くの人に見てもらいたいと思っております。よろしくお願いします。」
 これに対して記者からは…
 「…できるだけ、ご要望にこたえられるよう、(上の者を)プッシュいたします。掲載は、明後日以降になるかもしれません。ご了承くさだい。」
…という回答を得ていたのである。だが、いずれにして「上の者」の判断次第なのである。 どこの「組織」も「下の者」の思いどおりにはいかないようだ。せめて、「新聞マスコミ」ぐらいは「最前線」の記者たちの目を「忠実」に紙上に反映させて掲載するぐらいの度量が欲しいものである。

 27日、午前中に東奥日報本社の記者から次のような電話があった。
『ミチノクコザクラの開花時季ですが、本社の植物に詳しい者から「5月23日に開花を確認したのであれば、それは遅い開花ではなく、むしろ、早い開花とすべきではないか、普通ミチノクコザクラは6月中旬に咲き出すであろう」と言われた。そのことについて詳しく聞きたい』というのである。
 この「植物に詳しい記者」は極めて一般的な、「ガイドブックに記載されている」認識でしかないことを私は指摘した。
 私は植物の専門家ではない。ただし、「足」でミチノクコザクラやコメバツガザクラを岩木山のいろんな場所で、時季を違えながら30年以上も見てきた。
 その中で分かったことは…風衝地のものは5月上旬、百沢登山道大沢沿いでは雪渓の消えるのに従い6月から7月上旬、種蒔苗代周辺では早ければ6月上旬、長平登山道西法寺森下部では7月中旬、大鳴沢源頭部では8月上旬である。すべて、雪渓や雪田の消え方次第である。以上のことから「ミチノクコザクラの開花は6月中旬である」と決めつけることは出来ないのである。
それが、生かされた「記事」になっていたようである。

           ☆★☆★ お知らせ ★☆★☆

 本日、19時から参画センターで…
「青森県自然観察指導員連絡会主催の学習会」があります。主題は小学生からの質問・「岩木山の植物と動物について知りたい」です。
 私が講師を務めます。
 岩木山の主な高山植物、樹木。ほ乳類、野鳥について学びます。

「薄紫の花、林床樹間の恋人」ではない白い花弁のシラネアオイ(白根葵)

2008-05-27 05:08:45 | Weblog
(今日の写真は23日にブナ林内で出会ったキンポウゲ科(別にシラネアオイ科)シラネアオイ属の多年草の「シラネアオイ」である。私は、シラネアオイを「たおやかな肢体に薄紫の花、林床樹間の恋人」と呼んでいるがその日出会ったものは「白花」であった。
 花名の由来は白根山に多く、花がタチアオイ「立葵」に似ていることによるのである。これは本当にひっそりと一輪だけ咲いていた。)

 学術や植生学からはほど遠い素人(しろうと)的見地からだが、花というものは生えている場所の地質的な違いと浴びる陽光の多い場所、つまり太陽を思い切り浴びて咲くもの、少ない場所、地衣類は別として林中や林縁という比較的日の当たらない陰地に咲くものと大きく分けてもいいようだ。
 見た目には、日当たりで咲く花が圧倒的に多いのだが、まるで日当たりを盗むかのようにひっそりと陰地で咲くものも結構ある。今回登場するシラネアオイ(白根葵)、ヒメゴヨウイチゴ(姫五葉苺)、ヤマシャクヤク(山芍薬)、コケイラン(小蘭)は、いずれも本質的には日当たりの少ないところに生育しているものであるように思う。
 山を登っていて、そのような生育条件にマッチした場所で咲いている花に出会うとほっとする。

 ところが、どうしてこのような場所に育ち咲いているのだろうと首を傾げ、要因を推理し納得するに及んでは、そうでない場合もある。
 その時の心情は、その人為的な要因をもたらした加害者の一員としての自責と、それにもめげず必死に生きている植物の強さや健気(けなげ)さ、それに生命を伝えていくという植物の業(ごう)のようなものが見えて非常に複雑である。

山は好みから言うと、残雪期が楽しい。この花はこの時季に咲くのである。
 尾根道には高さを増すにつれて低い雑木(ぞうき)が現れる。東の斜面を登っているので日ざしに汗ばむ。ミズナラ、サワグルミなどが次々と出てくるとやがて林間の道となる。日射(ひざ)しが新緑に遮(さえぎ)られると急な登りになったとしてもほっとする。やがてブナが混在する林間になる。ちょうどそのような場所で…淡く透き通る木漏れ日の中、樹間の草々のうちに出会う花。シラネアオイは太陽の直射を避けながら薄紫の花をゆったりとたおやかな肢体に委ねて、ひっそりと林床に咲いているのだ。
 たおやかな肢体に薄紫の花、林床樹間の恋人、登山者のだれもが優しく迎えられていると思える風情がそれにはある。歩みを止め、愛(め)でて語らい、出会えたことの至福(しふく)にひたって休み、そして次の出会いを約束して別れを告げるのである。そのような花がシラネアオイであろう。白根葵はもともとブナ林縁に咲く陰性の花である。

 五月、凱風(がいふう)が心地よい残雪を辿っての下山。耳成岩の西側を捲いて、急斜面なのだが鍋底のようになっている後長根沢の倉窓上部に着く。さらに大沢から蔵助沢の左岸の細い稜線を通り、ブナ林を辿って雪の消えたスキー場尾根の上部に出る。
 間もなく広い尾根の両端に僅かながらブナを残す岩木山百沢スキー場のゲレンデに入る。地に立つ樹木はなく、ひこばえも伐られて根株だけを残している。そこは裸地同然のゲレンデだ。

 前方を見て驚いた。そこには陰性の花であるにもかかわらず、太陽を全身に浴び、花弁をどぎつい紫色に変色させて咲いているシラネアオイが群落をなしていたのだ。
 人が自然の総体的な生命のバランスを崩してしまった結果の変異であるに違いない。ブナ林中や林縁に移動できない彼女たちは、本来の自分を変質させながらもそこでしか生きられない。私はとても愛でることが出来ず、歩みを止めずにその場を離れた。
このような白根葵に会うのは何もここだけではない。
 鰺ヶ沢スキー場のゴンドラ終着駅のすぐ下からのゲレンデには、特に西側の林縁に多いのだが太陽を浴びてどぎつい紫色で咲いているものがある。
 ここのものには茎頂に二輪や三輪の花をつけたり、白花のものもある。珍しいものだから貴重だと考える前にどうしても本来のシラネアオイを思うのである。
 太陽の直射を避けながら薄紫の花をゆったりとたおやかな肢体(したい)に委ねて、ひっそりと林床に咲いているのがシラネアオイなのだ。とすれば明らかにこれらは伐採という人工的な行為による変異であろう。

 *お知らせ*

 24日と昨日に、このブログに掲載したミチノクコザクラとコメバツガザクラの写真が東奥日報に掲載される。今日の夕刊か明日以降の紙面になりそうである。乞うご期待というところである。
 今季は里のすべての花々が早く咲き出したにもかかわらず、標高の高い場所の花であるこの2種は、例年に比べると、逆に約3週間も遅い開花となっていることに私は驚きを持って注目した。そのようなことを紙面から多くの人々が認識して、気象に対する植物の「有り様」と「地球温暖化」との関連性などについて考えてもらえるといいなと思っている。

コメバツガザクラ・深緑の褥に眠る白き産着の赤ん坊 / 花を咲かせることは命がけなのだ

2008-05-26 06:31:18 | Weblog
 (今日の写真は5月23日に赤倉登山道沿いの岩稜で撮ったツツジ科コメバツガザクラ属の常緑性低木である「コメバツガザクラ(米葉栂桜)」である。私はこれを「深緑の褥に眠る白き産着の赤ん坊」と呼んで愛おしんでいる。
 花名の由来は葉の形が米粒のような米葉で栂(ツガ)のような針金状の葉ではないことによるものだ。)

五月中旬、山岳部にとってはその年に入ってから三度目の山行となった。三月の久渡寺山、四月の弥生尾根、そして、その日の赤倉尾根登りである。
 雪の多い年だった。祠屋群を抜けて取り付いた尾根の左側には雪庇状の積雪帯がどこまでも続く。石仏も二、三が頭を出している程度で大半は雪に埋もれている。部長を先頭に、最後尾が私という七人パーティはひたすらその積雪帯を辿った。群青色の空は春だったが、足許に限られる視界はまだ冬。
 ようやく風衝地、赤倉御殿に到着。この辺りは大鳴沢に向かって雪はまったくない。少し早いが昼食を兼ねた大休止だ。その間に、私は古い踏み跡を辿って赤倉のキレットまで岩を伝って降りて行った。
 辿る足許と手元に白い小粒が揺れる。それは深緑の褥(しとね)に白い産着をまとって眠る赤子たち。途中かすかに覗かせていた石仏の顔を彷彿させる優しく穏やかな風情が漂う。コメバツガザクラだ。
 大鳴沢上部から西に伸びながら急な斜面に貼り付いている雪渓をアンザイレンをしながら登る。太陽をあまり浴びない北や西の斜面の表層はざらついているが、その下層は厚い固氷となっていて下端部で装着したアイゼンに助けられる所もあった。

 花を咲かせることは草や樹木にとってはものすごいエネルギーを使うものらしい。それは精魂と生気を使い果たすほどのものであるようだ。
 「春のはかない命」といわれる福寿草や菊咲き一輪草などは、花を咲かせて種をつけると枯れてしまう。これは新しい生命の誕生に全身全霊を賭けるからだろう。まさに命がけなのである。
 花の美しさには「全身全霊を賭ける」ということが潜んでいるように思える。それゆえに花は美しいのである。子供を産む女性はたおやかであり、力強く、逞しく、そして、美しい。花はすべて、その生命を産み出す女性の優しさと暖かさ、それに強靱さに通じているように思える。

陸奥小桜(ミチノクコザクラ)に思う

2008-05-25 09:23:16 | Weblog
(今日の写真は5月23日に赤倉登山道風衝地で撮ったミチノクコザクラだ。ここのものは岩木山で一番茎丈が短いといってもいい。また一番早く咲き出すと言っていい。例年(普通の年)は5月上旬に咲き出すのだが今年は20日以上遅い開花となった。)

 ミチノクコザクラというと「岩木山の特産種」である。言い古された形容と喩えでは「安寿姫の簪(かんざし)」と呼ばれ、その微妙な情趣を余すところなく表現していて、名付けた先人の感性の素晴らしさには感服するばかりだ。
 だが、ミチノクコザクラの生活を直接数年間続けて観察していると「特産種」とか「安寿姫の簪」いう一括(ひとくく)りで片づけることが出来ないように思えてくるのである。 それはミチノクコザクラに対して、私が特別強い「思い入れ」をしている訳だからではない。
 ミチノクコザクラは「雪消え」にあわせて花を開く。だから、場所を違えて雪渓や雪田の雪消えを追いながら観察してみると、その年の五月上旬から八月の半ばまで、約三ヶ月半岩木山の何処かでミチノクコザクラは咲いているのだ。ガイドブックなどではミチノクコザクラの開花期を六月中旬としているが、厳密な意味では間違いだろう。
 標高千五百メートルの場所で五月上旬に咲くものでも、岩場に咲くもの、雪田脇の水場に咲くもの、コメバツガザクラの咲く下部に咲いているものでは、その背丈はみんな違う。 花が葉にくっつくように短いものは風衝地に多く見られるし、花の色、葉の付き方などもみな違っている。
 真夏の七月中旬、西法寺森下部の残雪の傍に咲くものは、稲科の草と競って伸び、茎丈を長くし、風に靡いて「花」の波を見せてくれる。そして、その中には数本のまるで「ツマトリソウ」のように白の花びらに淡い桃色の縁取りをしたものがあったりする。
 八月上旬、南の空には、むくむくと鉄床雲(かなとこぐも)が湧き上がり盛夏を装う。だが、山頂直下にある沢の源頭部では既に秋の気配だ。アキアカネが岩肌に止まり、体を温めて里に降りるためのエネルギーを蓄えている。
 その傍には秋の花、シラネニンジンが花を咲かせている。そして、雪渓の雪が溶けて間もない沢の傾斜には、ウコンウツギの黄色い花、ナガバツガザクラの白い花、エゾノツガザクラの淡いピンクの花に混じってミチノクコザクラが咲いている。
 この、標高千五百メートルの世界は、八月上旬から中旬という短期間に一気に「春、夏、秋」という季節に彩られる。だから、これらの花も一気に三つの季節を生きるのである。
 同じ場所、同じ短い時を共有しても、そこには「受粉」のためのムシの奪い合いはない。光合成に必要な「日射し」の奪い合いもない。彼女たちは必死になって生きるけれども、互いに、競ったり争ったりはしないのである。
 彼女たちは、「それぞれの自分」をとにかく、ひたすら生きる。そして、全体として共存している。これは、みんなお互いの違いを認めていることだ。違いが認められているからこそ、それぞれが「個性的」でいられるのである。
 私たち人間も学びたいものだ。ミチノクコザクラには百の顔、いや咲いている分だけの顔がある。
        (森山入山禁止に関することは明日以降に掲載する)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(6)

2008-05-24 07:10:36 | Weblog
(今日の写真は昨日写したミチノクコザクラだ。5月4日にはまだ花茎もなく赤い斑点のようなつぼみが根生葉の中心に小さくあっただけだったが、昨日は咲いていた。あれから21日経ったのだが、まだ満開ではないし、中には4日と同じ状態の株が多数あった。ミチノクコザクラの開花はいつもの年より20日以上は遅れている。)

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(6)◆

(承前)
 昼食予定地の林道終点到着は予定よりも20分ほど早かったので、「昼食」まで各人で散策や観察と山菜採りをしてもらった。
 その場所は直ぐ近くに滝ノ沢が流れ、広さはないが地形が結構入り組んでいるので「迷う」心配は少しあったが、姿が見える範囲、声が聞こえる範囲での山菜採りなどをしてもらったのである。
 そのうちにぽつりぽつりと参加者が、山菜の入ったビニール袋を提げて戻ってきたので、予定行動の昼食タイムにした。阿部会長や会員のAさん、Sさんが自分で採ってきたものをみんなの前の地面に並べる。Tさんは、この場所に着いて直ぐに「山菜採り」の服装に着替えて出かけていた。
 私たちは「山菜採りのプロまがい」Tさんを待ちながら昼食休憩に入った。碇ヶ関在住のKさんが「ポリ容器」にいっぱい「ミズ」の水物をつくって持ってきて振る舞ってくれた。「Kさん、これ碇ヶ関のミズですか」「そうです」「岩木山で碇ヶ関のミズを食べるなんておつですね」「おいしい」という声が和気藹々の中に交わされた。
 そうこうしているうちに、Tさんが戻ってきた。その戻ってきた方向にみんなは驚いた。Tさんは確かに北側の「岩木山」方向に向かって藪の中に入って行ったのである。その姿をみんなは見ている。だから当然、山側から戻ってくるものと考えていたのだろう。そう思うことは常識的には「おかしく」ない。
 だが、「山菜を探して採る」という行動には「登っていった場所をそのまま降りてくる」ということは合理的ではない。「採った跡」では山菜は採れない。ぐるりと回って往きと復路が重ならないようにすることが当然なのだ。
 参加者は北に向かったはずのTさんが南のしかも、みんなが通って来た林道に姿を現したことに驚いたのだが、当のTさんのとっては「いつもの行動パターン」だったので、その驚きの意味がよく分からないのだろう。怪訝そうな顔をしている。 
 Tさんの遅い昼食が終わるのを待って、「山菜」の採り方、その一として、「食べられる蕗の採り方」について阿部会長が話した。「蕗本体の脇に出ているもので、切ったときの空洞の形がコの字型になっいるもの」を採ることが大切だと言う。
 Aさんが大きくなった「独活(ウド)」のおいしい食べ方を、Tさんが「薊(アザミ)」についてなどを「専門的な見地(?)」で話しをした。
 みんなの前に並べられた山菜は「独活」「蕗」「蕨(ワラビ)」「薊」「ボンナ」などであった。ひととおり「講義」が終わったところで「欲しい」人に均等に分配して、「山菜」の講座は終わった。
 今度は「野鳥博士」の登場である。出発してここに来るまでに、鳴き声を聴いたり姿を確認した野鳥についての話しをBさんにお願いした。
 何と14種だそうである。すでに、南から「夏鳥」が渡ってきている。視認できた橙色と黄色、それに黒をまじえた美しいキビタキや瑠璃色のコルリなどであるそうだ。それに、ヤマガラ、ヒガラ、コガラなどの「カラ」類などである。これらの鳥の鳴き声に迎えられた観察会となったのである。
 だが、この野鳥と同じように自己主張して「鳴く」ものが他にもいたのである。結果的には「野鳥の声」に耳を傾ける私たちにとって、それは「妨害」となった。だからといって、彼らを責めることは筋違いというものだ。木で鼻をくくるに等しい暴論である。だから、私たちは「彼らエゾハルゼミの声の中で、野鳥の声を聴く」というふうにシフトして耳をセッテイングした。
 エゾハルゼミは小さな蝉である。だが、声は大きくて強く響く。数匹が鳴くと森全体に響き渡り、微かなコガラなどの鳴き声はかき消されてしまう。何故そのような「音響」で鳴くことが可能なのだろう。それは「小さな体全体が大きな音響装置」となっているからである。
 BOSEというアメリカの音響メーカーがある。私もその音質と音響効果が抜群にいいのでラジオを持っているが、開発したボーズ博士はこの「エゾハルゼミ」の体の造りにヒントを得たのではないかと「エゾハルゼミ」の身体構造を見た時に思ったくらいだ。
 簡単に言うと、体の生命維持装置を除いた部分はすべて「空洞」であるということだ。この空洞が音響発振器と羽の微動に、速やかに「共鳴」するのである。つまり、体全体が木管や金管楽器の役割をしている訳だから「大きな」音を出すことが可能なのだ。
 「エゾハルゼミ」も「キビタキ」も対等に存在して春を主張している生きものなのである。私たち人も対等に存在している自然の生きものの一つなのだ。
 野鳥の声に誘われて森を見ると、そこには、白い花のムシカリやウワミズザクラが咲いていた。足許にはチゴユリ、ノジスミレ、クルマバソウ、ノビネチドリ、アオイスミレ、ヒトリシズカがこれまた静かに歓迎してくれた。

 帰路、Bさんの解説を聞きながら、野鳥の声を楽しみながら「まとまって」移動しましょうと提案して出発した。しかし、グループが2つに分かれてしまい、Bさんの解説と野鳥の声を今一度楽しんだ人は少なかった。今度はちゃんとまとまって「歩く」ことに留意しなければいけない。

 翌日の19日に「どうしました」という心配げな、岩木山神社禰宜・須藤廣志氏からの電話があった。
 そして、「噂ですが、あの人(入山禁止として綱を張り、施錠した人)は、あちこちにあのような山を持っていて、そのすべてに綱を張り、施錠して入山を禁止しているそうです」とも言う。
 「やはり問題ですね。近々開かれる岩木山環境保全協議会に報告しましょうか」「そうしましょう」ということで私との話しは終わった。
            (「入山禁止」に関わることの問題点は明日に続く)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(5)

2008-05-23 04:13:21 | Weblog
(今日の写真は18日の「滝ノ沢林道沿い自然観察会」時に出会ったラン科テガタチドリ属の多年草「ノビネチドリ(延根千鳥)」である。
 花名の「延根」は、根が横によくのびることからのものであり、「千鳥」は花の形が千鳥の飛ぶ姿に似ていることによるものだ。)

私はこの花との最初の出会いに「緑飛沫に舞う紫斑蝶の止まり木」というキャプションをあてて呼んだものだ。
 6月中旬。岩木山を考える会の観察会、目的地は二子沼だ。標高500メートル近くを東から西へと蛇行している西岩木山林道。重機があまり使われなかった数十年前に造られた道は今も健在だ。
 しかし、緑を剥いだスキー場ゲレンデがそれを横切る所にだけ土石の流出が見られるのである。
 この林道沿いには花が多い。若い頃に出会っているのに、最近まったく会っていない花も多い。そんな花々に出会えたらいいなあと思った。そして、一番後ろをゆっくりと道の左右に目をやりながら歩き始めた。
 最後のゲレンデを過ぎた辺りで、右前方の藪の奥に紫と白の斑(まだら)模様が見えた。カメラを抱えて走った。二十数年振りという懐かしい緑飛沫(みどりしぶき)に舞う紫斑蝶の止まり木、ノビネチドリとの再会だった。
二子沼。それは別々の個性を見せる二つの沼だ。静寂の中葦茅の緞帳を開いて、宇宙につながる上の大きい沼。そして、蒼緑に陥没し終始無言で周りの生命を受け入れている下の小さい沼だ。

 この写真は正真正銘、5月18日に写したものだ。だが、上述の文は6月中旬が季節的な背景である。やはり、今年は季節が1ヶ月早く進んでいる。きっと、秋や冬が1ヶ月早く来るだろう。

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(5)◆

(承前)
 いくらお願いしても埒があかないので、私は「森山で自然観察会」を開くことを断念した。当日の集合場所は「森山入り口の駐車スペース」とするが、その駐車スペースからそれほど離れていず、徒歩で行ける範囲内に、別の「自然観察会」の場所を探さなければいけない。頭の中には「何カ所」かの候補地が思い浮かんでいた。
 「埒があかない」K氏との電話を終えて直ぐに、岩木山を考える会幹事のTさん(このTさんは最近登山に同行している人とは別人)に、「駐車スペースは既定のとおり、歩いて行ける場所」という条件で、私が思いついた場所を提示しながら、「明日、事前調査をして欲しい」と依頼したのである。幸いTさんは快く引き受けてくれた。
 私には、翌日すでに、岩木山山麓の「不法廃棄ゴミの実態調査」という予定が入っていたのである。 
 そして、翌日、岩木山山麓の「不法廃棄ゴミの実態調査」を午前中で終えて帰宅したら間もなく、Tさんが事前調査の報告にやって来たのだ。有り難いことである。
 その報告を承けて、「森山」から開催場所を「岩木山滝ノ沢林道沿い」に変更し、メインテーマも「滝ノ沢林道を歩き春の雑木林とその樹下に咲く花々の散策と山菜採りをしよう」に変更したのである。
 滝ノ沢林道には、岩木山神社前を岳方向に1.5kmほど進み、ゴルフ場「津軽カントリークラブ」入り口付近で下車。岩木山無料休憩所の駐車スペースがある。そこから、岳方向に遊歩道を少し歩いてから右側(山側)の林道に入ることになる。歩く距離は往復で2.0km程度である。
 こういう訳で、第41回自然観察会とNHK弘前文化センター野外講座は「岩木山滝ノ沢林道」で開催されることになったのである。
 サブ主題は「(1)雑木林の仕組みを知る(2)樹木と林床(3)春の野鳥(4)山菜を採る」であった。
 当日すべて、日程どおり進んだ。9時50分に無料休憩所前で、パンフレットの配布をして、観察地と観察内容の説明、会長の挨拶、諸注意をTさんにしてもらい、その後、遊歩道を歩き、林道に入ってから、林道沿いに観察・散策開始した。
 いい天気である。風がないと暑いくらいである。もう真夏の暑さだし、林の緑も春の萌葱の緑でなく、夏緑の装いである。
 遊歩道沿いに珍しい花を発見した。アズマギクである。遊歩道脇には「芝」が貼られている箇所がある。アズマギクはこのような場所が好きなのだ。最近出てきたものだろう。山麓からは消えて久しいが「スカイライン」道路の側溝沿いの芝の中に結構生えているものだ。
 林道に入る。ミツバツチグリ、ツボスミレ、オオタチツボスミレが先ず迎えてくれる。
間もなくして、Tさんが「待望」の「エゾタンポポ(蝦夷蒲公英)」の場所に案内してくれた。そして、在来種のタンポポと西洋タンポポの見分け方について説明をする。
 ついで、私がキク科植物の花のつくりとタンポポという名前の由来やその他のエピソードを話す。その後は林道脇に生えているワラビやウドを思い思いに採りながら林道終点を目ざして進んで行ったのだ。(明日に続く)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(4)

2008-05-22 05:59:44 | Weblog
(今日の写真は18日の「滝ノ沢林道沿い自然観察会」時に出会ったキク科タンポポ属の多年草「蝦夷蒲公英(エゾタンポポ)」である。まさに、懐かしい古を伝える在来の孤高である。
 事前調査で「生育」を確認してはいたが、観察会参加者にとっては貴重な出会いとなったであろう。何故ならば、それほど、この「エゾタンポポ」は数が少ないのである。
 私たちが日常、見かけるタンポポは「セイヨウタンポポ」ばかりである。北海道や東北地方の公園や原っぱ、牧草地、それにリンゴ園樹下などは、セイヨウタンポポが絨毯を敷きつめたように咲いている。だが、エゾタンポポに出会うのは容易ではない。
 私は「岩木山」だけで数回会っているに過ぎない。しかも、岩木山も最近は極度に少なくなっている。
 タンポポは日本に二十種ほどが自生していると言われている。総苞片に角状の突起があり関東に多いカントウタンポポ、北海道や本州(中部地方以北)に分布し花が大きいエゾタンポポ、関西から西に分布して白花のカンサイタンポポなどがある。しかし、明治の初めに持ち込まれたヨーロッパ原産のセイヨウタンポポが勢力をどんどん拡大している。
 セイヨウタンポポは受粉しなくても「単為生殖(雌が単独で子を作ること・卵子が精子と受精することなく、新個体が発生することを単為発生(たんいはっせい)と呼ぶ。」によって結実することや1年中咲くため、エゾタンポポが追いやられ姿を消しつつあるのだ。
 ある図鑑では帰化植物のセイヨウタンポポの例として、岩木山山麓の林檎園に咲き誇る写真を掲示している。
 そこまで、セイヨウタンポポは岩木山山麓のみならず「タンポポ界」を席巻し、我が国を乗っ取る勢いである。

 初夏である。ある登山道でのことだ。顎に流れ落ちる汗を拭く間もなく、出発だ。また土の道に変わった。 尾根を横切る傾斜のない登山道の向こうに黄色い花が目にとまる。在来種のエゾタンポポがぽつりぽつりと丈を短くして咲いている。
まさに「たんぽぽと小声で言ひてみて一人:(星野立子)」という世界ではないか。…『道ばたにひっそりとタンポポが咲いていた。それを見つけて思わず「あっ、タンポポ」と声を出してしまった。それも一人なのに。』と解釈しておこう。
 タンポポを見つけた喜び、ウキウキする上気した風情が素直に表現されている秀句だろう。
 在来種はセイヨウタンポポに追い立てられ細々と命をつないでいる。孤高を保ち今、風に全身を震わせて咲くこの一輪も追い立てられて、山麓からこの高みまで逃避行さながらに登って来たのかと思うといじらしい。
「在来種古来に馳せる懐かしさ」であり、まるでアマゾンの密林で少数民族の原住民に出会ったような感慨を覚えるのだ。
 タンポポの花ことばは「別離」だという。人里から在来種が消え去るという人との別離…。花ことばの奇妙な符合を考えると在来種にとっては何と皮肉な運命であろう。
 それを地でいく在来種の減少は、日本文化が薄れていく風潮や岩木山への信仰心が育まれなくなってきている風潮に似ている。寂しいことだ。

 タンポポについて 

 花名の由来には…
1.・民俗学者、柳田国男の葉を含めた全体を上から見ると鼓面に似ているところから、鼓を打つ音「タン、ポンポン」からであるとする説。
2.・綿毛が「たんぽ(拓本などに使用する)」に似ているからとする説。
3.・稽古用のたんぽ槍に似ているからとする説。
…などがある。また、別名は「鼓草」、「ふじな」などがある。

 在来種のタンポポとセイヨウタンポポの見分け方

 頭花を支える緑の部分(総苞片)を見て、それがまくれていればセイヨウタンポポであり、まくれていなければ在来種である。現在は殆どがセイヨウタンポポである。
 在来種タンポポの特徴
1.丈が高く、葉も長い 2.総苞外片は下方に反り返らない 3.蕾みの総苞外片も下方に反り返らない 

 花言葉は「別離」・「田舎の神託」である。ともに綿毛からの発想である。イギリスでは綿毛を使って吉凶を占ったことから「田舎の神託」という花言葉になった。花は日が照ると開き、日が沈むと閉じる。故に西洋では「牧童の時計」と愛称される。
 若い葉は水にさらして食用とすることが出来る。フランスではベーコンとそれから出た油で炒めて食べる。
 また、健胃・解熱、消炎作用があり、蒲公英湯は乳の出をよくする漢方薬にもなる。

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(4)◆

(承前)
 K氏に電話で「森山」入山の許可をお願いした時に、当然、その日に断りの手段がなかったので事後承諾を得る覚悟で「森山」に入山したことは報告したし、事後の了承は得たと思っている。
 入山許可が出来ない理由は、まず「私有地であること」、次いで「野草や山菜採りによって、山が荒らされること」や「勝手に入山されると安全管理が行き届かなくなること」「ゲートの施錠や開放に人手と手間がかかる」などであった。よって、「入山は禁止である」となるのである。
 私はそのような理由を認めながらも「山は荒らさない」し、「森山内のどこで事故が発生してもそれは観察会を実施する側の責任で処理するので、安全管理面での責任はあなた方にはない」ので、何とか18日に森山で「自然観察会の実施」を認めて欲しい。また、ゲートの錠は朝に開けておいてくれると、私たちが施錠して帰るので何とか認めて下さいとお願いした。
 だが、やはり答えは「ノー」であった。それに加えて「18日は日曜日だ。日曜日はお客さんが多くて店の方が忙しくて、それでなくても人手が足りないのに、あなた方のために錠を開けたり、施錠したり、また、あなた方の管理・監督のために行っていられないのだ。」とも言った。また、「あなた方に入山を認めると、それを見た他の人がどんどん入ってくる。収拾がつかなくなる。だから駄目なんだ。」とも言うのである。(明日に続く)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(3)

2008-05-21 05:42:13 | Weblog
(今日の写真は18日の「滝ノ沢林道沿い自然観察会」時に写したバラ科キジムシロ属の多年草「ミツバツチグリ(三つ葉土栗)」である。
 名前の由来は同科で草地に生育する多年草の「ツチグリ」に関係がある。「ツチグリ」は、地下に出来る根茎が太く、その一部に肥厚した塊状になる部分が出来る。この肥厚した塊状の根茎は皮をむいて生でも食べられる。そこで、和名はこれを「土の中の栗」としたのである。「ミツバツチグリ」はこの「ツチグリ」によく似ている、葉が3枚であることによって「ミツバツチグリ」と呼ばれるのだ。ただし、「ツチグリ」のような根茎は持っていない。いわば「見せかけ」の「ツチグリ」である。その生食出来るツチグリは愛知県以西の本州、四国、九州に分布し、明るい草地に生育している。残念ながら青森県にはない。
 なお、同科同属のキジムシロに非常に似ていて見分けるのが難しい。見分ける視点は葉である。「ミツバツチグリ」は3小葉が長い柄についているし、「キジムシロ」は葉が奇数羽状複葉で、小葉は5~9枚で、頂小葉が特に大きい点と花の茎が少し、直立する傾向もあることに気をつければいいだろう。)

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(3)◆

 (承前)
 そこで、このような事態になっていることをここに来て初めて知ったことであり、「あらかじめ」入山届けを出すという用意も手段もないことから、事後に「断る」ことにしてSさんと森山の山頂までは行ってみることにしたのだ。
 もちろん、「野草等の採取・山菜の採取」は絶対にしない。中腹までは広い道路が続くのだが、道路脇の低木は伐られていた。昨年までとその様相はずいぶんと違っていた。中腹部から道を逸れてミズナラ林の斜面を登ることになる。この辺りでは伐採はなく、昨年までのままである。だが、山頂に近づいて驚いた。かなり広い範囲で樹木が伐採されていたのである。山頂には「フデリンドウ」があり、この時季に咲き出すのだ。これは昨年も確認してある。
だが、伐採されて「開放地」化したその場所でフデリンドウの確認は出来なかった。また、伐られた樹木の中には「柏(カシワ)」もあった。森山の山頂には2本のカシワが生えていたのだが、これも伐られてしまっていたのである。「カシワ」は後述するような意味から「大切」な樹木なのである。
  もちろん、今年の早くやって来た「春」の所為で、スプリングエフェメラルズと呼ばれる「カタクリ」や「キクザキイチリンソウ」はすでに終わっていたが、樹花の「キブシ」や「オオバクロモジ」などは咲いていたし、地上には「タチツボスミレ」や「スミレサイシン」「ヒトリシズカ」が咲いていた。また、新緑、いやもう夏緑の森であるが、「キビタキ」や「オオルリ」「コルリ」など野鳥の声も小雨の降る中で聞こえていた。この時季に鳴き出す「エゾハルゼミ」の声は聴かなかったが、これは雨で気温が下がっていたからであろう。
 これだと、総合的に判断すると十分、「寄生火山として出来た山の実態・雑木林とその樹下に咲く花々の散策・森の仕組み・樹木と林床・春の野鳥」という主題で、自然観察会をここ「森山」で開くことは可能だと考えたのである。
 下山後、私とSさんは岩木山神社に禰宜・須藤廣志氏を訪ねた。それは以前、当時の「岩木町役場」に問い合わせた時に「…岩木山神社に断れば入山は出来る」と聞かされていたことを思い出したからである。
 だが、当日は「祈年祭」という祭事の日だった。須藤氏はその祭事の中心である。会って事情を伝え、聞くことが出来ず、「入山禁止」に関する事情をメモ書きにして「巫女」さんに渡し、須藤氏に伝えてくれるように依頼して帰ってきた。
 その日の午後4時頃、須藤氏から懇切丁寧な電話があった。その内容は次のようなものである。
「森山の道路沿いを含めた一帯は個人所有となり、現在の所有者は岩木山・山野草の里を経営しているK氏である。岩木山神社が所有している場所は南西側、ゴルフ場と隣接しているところです。K氏の電話番号は・・・・・です。」
 私は直ぐにK氏に電話をして「入山の許可」を得ようとした。しかし、その電話番号は自宅のものであったらしく、かなり長い呼び出し音を鳴らしても応答はなかった。
 そこで、インターネットで「岩木山・山野草の里」を検索したら、事業所の電話番号が分かったので、早速電話をした。
 私はこれまで数回、森山で自然観察会を開催してきた事情と「出入り自由であったこと」を話して、自然観察会開催日が18日で、参加者に対して「観察場所の変更」を伝える時間的な余裕がないことなどを訴えた。そして、何とか、入山を認めてほしいこと、野草や山菜の採取は絶対させないことなどを強く言いながら、実施できるように配慮してくれることを要請したのである。
 だが、回答は検討してみるということもない「入山は認められない」一点張りであった。(明日に続く)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(2)

2008-05-20 05:33:47 | Weblog
(今日の写真は急遽、観察地を変更して自然観察会を実施した名称に「滝ノ沢」を冠する林道のある尾根とその「滝ノ沢」の源頭部を写したものである。
 これは標高403mの森山中腹からある年の4月中旬に撮ったのだ。森山山頂は樹木が繁茂していて、そこからは岩木山の全容は見えない。このように見える場所は中腹部に一カ所しかない。ここから見える岩木山は大きくどっしりとした山容で目前に迫る。
 写真上下中央部左側に見える逆三角形の切れ込みが、滝ノ沢源頭部であり、大きな爆裂火口である。遠くから見ると「滝」のように見えるので「滝ノ沢」と呼ばれている。だが、実際、「水流」は雪解けの時季に、上部(鳥海山)の雪解け水が造り出すだけで、その他の時季に「滝」になることはない。「枯れ滝」なのだ。
 それに、爆裂火口の上部は遠目には切り立った「岩崖」に見えるが、これまたそばに行って直下で見てみると、案外なだらかな「岩壁」になっている。
 垂直な「岩崖」を期待して初めて登った時の「失望感」は今も忘れられない。さらに、「イヌワシ」の巣があるのではないかとの期待を持って調査した時の「失望感」も強かった。
 その頃、岩木山で「イヌワシ」の生息が「弘前野鳥の会」などによって確認されていた。私はその前の1989年の冬に既に、岳登山道上部で確認(拙著「おお悲し、泣くはみちのく岩木山178~180ページ参照」)していた。
 行政は「巣作りをして子育て」していることの確認をもって「生息」を事実とするという姿勢をとり続けていた。だから「生息」事実の物的且つ生活的な証拠として「営巣」場所とその事実を把握する必要があったのだ。
 イヌワシは高木の大きな枝や崖の二重ハング状の岩棚に巣を構える。そこで、比較的安定している「岩棚」のあると考えられた「滝ノ沢源頭部上部」の崖壁に狙いをつけて調査に入ったのである。もちろん、いつものとおり「単独」行であることに変わりはなかった。
だが、結論は「失望」だけであった。垂直に切り立つ岩場も、オーバーハングの岩棚もなかった。ゴツゴツしてはいるが総体を見ると案外なだらかな火山性の岩壁に過ぎなかったのだ。もちろん、イヌワシの巣はないし、他の野鳥や獣の生息も発見されなかったのである。わずかに、岩壁の下で「ノウサギ」に出会っただけだった。
 ついでだから、写真の説明をもう少しさせてもらおう。写真のほぼ真ん中の上部に長方形で「積雪のはげ落ちた場所」が見えるだろう。これは「全層雪崩(底雪崩)」の「痕跡」である。幅300m長さ500mにはなっているだろう。その末端は下部左側の「毒蛇沢」に流れ込んでいる。この写真は雪崩発生から2日後のものである。
 岩木山のこの尾根は表層雪崩、全層雪崩ともに頻発する場所である。今年も違法雪上車(自然保護課に確認したらそのような許可申請は出ていないし、課としては把握していないと言っていた)がスノーボーダーを岩木山スカイラインリフト付近まで運び上げていた。 そこで雪上車を降りたボーダーたちは自力で「鳥海山頂」まで登り、この「危険きわまりない場所を滑り降り」て、百沢スキー場につらなる尾根や百沢登山道尾根をとおり百沢に降りていたのである。)

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(2)◆

(承前)
 15日、幹事のSさんと森山の事前調査に行った。実は昨年もNHK弘前文化センター講座の「野外観察」をこの場所で実施していた。その数年前には本会主催の自然観察会も数回この場所で実施していた。
 私も個人的に何回もこの「森山」に足を運んでいた。この場所はだれもが「出入り自由」と信じていたし、それが当たり前の山だったのである。
このような経験を重ねていたので「事前調査」の必要はないのかなと思ったが、それこそ「胸騒ぎ」とでもいうのだろうか、小雨の降る中、実施日3日前に「下見」に来たのである。
 ところが、仰天である。入り口のゲートは「施錠」され、その上、次のような意味内容が書かれた「看板」が建てられていたのである。
 「…無断入山禁止・野草等の採取禁止・山菜の採取禁止・入山、採取した者には罰金を科す。(岩木山・山野草の里)」

私は本会が最初にこの「森山」で自然観察会を開催した時、「森山」の管理がどのようになっているのかを当時の「岩木町役場」に問い合わせたことがある。
 その回答は「所有者は東西を二分する形で2人いる。東側は弘前市の砕石業者であり、西側が岩木山神社である」というものであった。ついでに、「観察会をする場所はおそらく西側からの登山道と山頂付近になるだろうから岩木山神社に断れば入山は出来る」また、「誰も断って許可を得て入っている人はいませんよ。自由ですよ。」とも言われたのである。
 まず、口頭で岩木山神社に話したところ、怪訝そうな言い分ながらも「どうぞどうぞ」と快く了解してもらったものだ。おそらく許可を求められたことなぞ、それまでなかったのだろう。
 その後数回開いた観察会でもだから、どこにも「届けを出して許可を得る」というようなことはしないできたのだ。「自由入山」が規定の事実として定着していることが世間の一般常識であったのである。
 ところがである。今年になってまさに、「突然」に、「無断入山禁止」ときたから、目を疑ったし驚いてしまうのも無理はなかった。
 私は「無断入山禁止」という項目に注目した。これは「あらかじめ、入山することを届ける(断る)と入山可能(入山が許可される)なのではないか」ということだろうと考えたのである。(明日に続く)

岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(1)

2008-05-19 05:58:54 | Weblog
(今日の写真は自然観察会を予定していた森山中腹にある祠(ほこら)である。この祠の真後ろには「守山大神」と穿たれた「石碑」が建ってあり、それには「創建は寛治5年(1091)で、大山�大神を祀っている」という意味のことが刻印されている。
 この小さな祠(神社)は今から1000年も前から祀られているのだ。そして、百沢地区の山田家が代々守ってきたと言われている。
 また、この森山は「模擬岩木山」としての歴史を持っている。本家「岩木山」はご神体の山である。神域なのだから「誰でも勝手に登ることは出来な」かった。藩政時代も津軽藩は厳しく岩木山登山を規制した。「登ることが出来る日」「登ることが出来る人」「登ることが出来る身分や職業」などを決めていたのである。御山参詣が地域の「一大イベント」となったのは明治以降のことである。登山道沿いに「姥石」などと命名してそこから上部への登山を女性に認めなかったのもその現れである。
 ところが、ご神体「岩木山」の見えるところに暮らす住民は、信仰心から「神の山」に登りたい。農業という生業に「命の水」を与えてくれ、しかも「ご先祖」さまが「死後」行き来するという「お往来山(おいゆきやま)」に感謝の気持ちを込めて「登拝」したいという畏敬的な思いを強く持っていたのである。
 そこで考え出されたのが「模擬岩木山」ということなのである。有り体(ありてい)に言えば「規制されて」なかなか登拝が許されない「岩木山」の代わりに、別の山を「擬えて」そこに登って、「岩木山登拝」と同じ信仰心の確立を図ったのである。
 明治の「廃仏毀釈」という国家による無謀な政策のもと、百沢寺などが排寺とされ新生「岩木山神社」が出来た後の1873年に、ここに祀られていた「大山�大神」も今の岩木山神社に合祀されたのである。
 その後もつい最近まで、百沢地区や西目屋の人たちという、いわゆる「地元の人たち」が登っていたという歴史があるのである。)   

◆岩木山の南麓に立つ「森山」入山禁止・自然観察会の場所、やむを得ず変更(1)◆

 昨日、岩木山を考える会主催の第41回自然観察会とNHK弘前文化センター講座(津軽富士・岩木山)野外講座を合同で実施した。参加者は合計で20数名であった。
 合同で実施した理由は「開催する側のスタッフ不足」である。別々に実施すればそれだけ、人的な負担と時間的な負担が増えてしまい、それに対応するだけの力量が今の本会には「ない」と判断したからである。
どちらも当初(計画段階では)、メインテーマに「山麓の寄生火山・森山で春の雑木林とその樹下に咲く花々の散策をしよう」を掲げ、サブテーマとして、(1)スプリングエフェメラルズを見て森の仕組みを知る(2)樹木と林床(3)春の野鳥などを設けていた。
 そして、その場所が岩木山の森山だったのである。森山というのは、岩木山神社前を岳方向に600mほど進むと左側に見えてくる三角形の山である。その山麓には弘前学院大学の施設がある。
 また、「森山」は地質学や火山学から見た場合、寄生火山と呼ばれるものだ。寄生火山とは「火山本体が成長するにつれて、その山腹に噴出した火山」のことである。岩木山には寄生火山で出来た山が多い。それだけ、火山活動が活発だったのだろう。
 岩木山の複雑な山容の美しさに寄与しているのが、この寄生火山によって出来た山たちなのである。この寄生火山の配置によって東から見る見事な円錐形の岩木山も、岩木山では西側に偏在しているので場所によっては歪んだ(複雑な)円錐形になってしまうのだ。 森山の北にある小森山も寄生火山である。何故か知らないが、岩木山の山麓にある山で「森」という名を持つ山は殆どが「寄生火山」なのである。

…ところが、先日事前調査のために「森山」に出かけた結果…、
 開催場所を「岩木山滝ノ沢林道沿い」に変更し、メインテーマも「滝ノ沢林道を歩き春の雑木林とその樹下に咲く花々の散策と山菜採りをしよう」に変更せざるを得なくなってしまったのであった。(明日に続く)

・標高1396mのピークを目ざして・岩木山鳴動、赤倉沢源頭部右岸側岩壁崩落!(最終回)

2008-05-18 06:58:13 | Weblog
(今日の写真は標高1396mのピークから写した西法寺森と追子森である。赤倉登山道から西法寺森はよく見えるが、追子森はそのかげになって見えない。しかし、ここまで移動すると、西法寺森の後ろによく見えるのだ。)

◆標高1396mのピークを目ざして・岩木山鳴動、赤倉沢源頭部右岸側岩壁崩落!(最終回)◆
(承前)
 赤倉御殿に戻って来て一息入れて、大鳴沢源頭部上部の大きな雪渓を見ながら、「興奮」を鎮めていた。
 そうしたら、その上部にさっき登って行った10人ほどの集団が現れた。弥生に降りると言っていたから間違いがないだろう。「弥生に降りるには、一般的には耳成岩の西側を巻くのだが、あなた方にとっては、あなた方の踏み跡を辿って弥生方向に降りた方が安全だろう」という「アドバイス」を、さきほど、彼らのリーダーと思しい人にしておいたのである。
 それを忠実に守って降りてきたのだろうと考えたら、何となくほのぼのした気分になった。そんな気分で「安心」しながら眺めていたのであった。
 ところが、彼らは、雪渓の頂部で「雪渓」に尻をついて座ったのだ。何を始めるのかは直ぐに想像がついた。彼らはこの時季の雪渓下降では「絶対にしてはならないこと」をしようとしていたのである。
 これは踏み跡を辿るどころか、思い思いに「尻」を雪面につけて「滑り降りる」ことを意味していた。
 登山の一テクニックに「グリセード」というものがある。これは雪渓の急斜面を下降する時に「靴のかかど」と「ピッケル」を使って、腰を引きながら、膝を曲げてピッケルでバランスを取りながら滑降する技術である。転倒しても「ピッケル」を使い自力で「滑落停止」が出来ることを前提として使われる技術であり、方法なのだ。
 彼らは誰一人「ピッケル」は持っていなかった。だから、どのような方法であっても「滑って降りる」ということはしてはならないことだったのだ。
 この雪渓の下部は「雪の崖」である。さらに末端には「岩」が出ている。滑落して、その「崖」下に落ちたり、岩に激突したら「打撲」程度ではすまない。
 幸い、「雪が腐っていた:(暖気によって溶けて軟弱な雪層になっていること。ただし、早朝に凍結するほどの寒気になると「溶けて軟弱な雪層」は氷化して固くなる。その日はそうではなかった)」ので「尻」をつけて滑っても「スピード」は出なかったのだ。
 私たちはこの「尻」をつけて雪面を滑降することを揶揄的に「グリセード」をもじって「シリセード」と呼んでいる。これには、登山をする者として「してはならない行為」という「自戒的」な意味もある。
 もう一度いう。雪渓の登りも降りも「キックステップ」で、後続の者は、その造られた足場を丹念に注意深く辿ることが「基本中の基本」である。
 彼らは、結局の所、この「基本的なこと」を知らなかったのだ。あわせて「山の危険」についての認識もなかった。素人集団が誰かのすることに、直ぐに追従するという危うさを見せてくれた好例であろう。何事もなく「弥生」に下山できたのだろうか。まさに、兼好法師が言う「先達はあらまほし」である。
 
 そんな思いを残しながら、私たちは、雪が所々に残っていたり、その雪のために圧し倒れた木々のある、歩きにくい登山道を避けて、「とことん」雪渓を辿って降りるべく、下山を開始したのだ。
 赤倉登山道尾根は北東に走り降りている。冬季、北西から吹き付ける季節風はこの尾根の南東側に雪の吹き溜まりと雪庇を形成するのだ。つまり、赤倉沢とは反対側の水無沢上部や八ッ森沢左岸寄りが雪の積もり方が多いのである。
 赤倉御殿の風衝地稜線からカール状に広く開いた斜面は、普通の年だとすばらしい、自然の「ゲレンデ」となる。殆ど来る人もいない静かなゲレンデでもある。私はこれまで「一人」密かにこの斜面を「自分だけのゲレンデ」として愛し楽しんできた。何という「贅沢三昧」であろう。
 今年は少雪で「広さ」には欠けるが、雪渓の途切れ目を躱しながら降りたところ、何と「鬼の土俵」まで「雪渓」の上を下降できたのである。もちろん時間もかからなかった。
鬼の土俵からは登山道を辿ることにしたが、また直ぐに雪渓が出てきたのでそれを辿った。
 伯母石岩稜帯の上端に出た。岩稜帯の下降は避けて、岩稜帯の左岸を巻いて「伯母石」に出ようとして「夏道」沿いに降りる。
 まだ、残雪があった。踏み跡がある。一人ではない。あの「弥生に下山、バスの有無を訊いてきた外人男女」の二人のものだろうか。
 その踏み跡は、伯母石から離れて、どんどんと赤倉沢に降りているのである。私はその「踏み跡」の方向を確認しようと「それ」を追って行った。
 Tさんは岩稜帯の左岸直下を辿って既に伯母石に到着していた。なかなか追いついてこない私を呼んでいる。
 この「踏み跡」はあの二人のものに間違いがない。だが、Tさんをあまり待たせることもよくない。私は、その「踏み跡」が迂回しながら稜線上にある登山道に戻るか「斜登」して、九番石仏のあるブナ林に辿り着いたであろうと、きわめて便宜的に考えながら、Tさんの待つ伯母石に向かった。
 だが、その日下山してから、翌日の朝まで「岩木山で登山者帰らず」というテレビのローカルニュースが流されるのではないかと気になった。
伯母石に着いたら、Tさんが「大森から歩いて来た」という単独行の男性と話しをしていた。この人は地元の人ではなかった。
 ガイドブックに従って「弘前駅から、弘前・鰺ヶ沢路線バスに乗車して、裾野地区の大森で下車、そこから大石神社、赤倉神社をとおり」やって来たのである。大森から赤倉神社までは大体7kmある。それを歩いて、そして、伯母石まで登ってきたのだ。大したものだ。嬉しくなった。そこまでして「岩木山」に来てくれたことが嬉しかったのだ。
 山頂の小屋にその晩は泊まると言う。ザックにはそれなりの装備や食料が入っているだろうから「重い」はずだ。これまた大したものだ。
 私はこの30代と見受けられるこの男性登山者に「若い時の自分」を見ていた。私もかつては、赤倉登山道を登る時はバスを利用した。弥生バス停で下車して歩いてとか、彼と同じように大森で下車して歩いて来たものである。
 歩く分だけ時間がかかるから、山頂小屋に泊まる場合もあった。だから、ザックにはいつも一泊分の「もの」は入っていた。
 私は「時計」を見た。3時半である。私とTさんの踏み跡を辿ると迷う心配もない。ルートファインデングに時間がとられないから6時には山頂に着くだろう。日も長くなっている。明るいうちに山頂に着くのは間違いがない。
 そのようなことをその男性に言いながら、私たちは下山をまた続けて、赤倉神社の駐車場にようやく着いたのであった。
 帰宅してからも、この男性のことは思い出したが、「男性の安否」に関わることについては、何一つ気にならなかったのである。
 単独登山のほうが、集団や複数でする登山よりも「遭難」は少ないものだ。(この稿は今日で終わる)

・標高1396mのピーク(無名峰)を目ざして・岩木山鳴動、赤倉沢源頭部右岸側岩壁崩落!9

2008-05-17 06:55:21 | Weblog
(今日の写真は5月4日に、赤倉キレットから撮った「岩木山鳴動、赤倉沢源頭部右岸側岩壁が崩落した後」の現場である。70mmレンズなので引き寄せて写すことがこれ以上無理だった。せめて、200mmぐらいの望遠だともっと「臨場感」のあるものになったのだろうが、それは「無い物ねだり」だろう。
 中央部分の斜め上部に横縞の岩石層が、数段重なって列をなしているのが見えるだろう。その直下にゴツゴツとしたほぼ垂直の岩壁が見えるはずである。崩落したのはこの部位である。直下の斜面に、その岩とその破砕痕がデブリ状になって広く堆積している。詳しくは今日の本文を参照して欲しい。)

◆標高1396mのピーク(無名峰)を目ざして・岩木山鳴動、赤倉沢源頭部右岸側岩壁崩落!9◆
(承前)

 私たちは1396mのピークをあとにした。崩落しやすい岩と土石の急斜面をキレットに向けて一歩一歩気をつけながら下降する。この急斜面の南内壁が崩落して抉られている。いつ、私たちが下降を続けているこの急斜面自体が崩れて落ちていくか分からない。そのようなことを直近の危惧としながら、早くこの場所から抜け出たいという焦る気持ちを抑えて「より慎重に」降りていく。
 …ようやく二つ目の「鞍部」の最も低い部分までやって来たのである。その時だった。遠雷の轟くような「音」を聴いた。「ごーっ」という音に混じって、「ごろごろ」という音も聴こえる。それは、赤倉沢源頭部外輪山の内部から湧き上がって私たちの耳を穿った。高さ100mを越え、幅600mという馬蹄形の「赤倉沢源頭部直下」全体を包み込むように鳴動していたのだ。
 音のする方に視線を向ける。白煙をあげながら、「ごーっ」という音と「ごろごろ」という音を「ゆっくり」とたてながら、岩壁が崩れ落ちている。その音に合わせて、遠目だからだろう、妙にその動きがスローモーションである。
もし、直近にいたならば、こんなものではないだろう。崩落する岩と岩がぶつかって砕け、飛散して白煙をあげているのだ。そのスピードとエネルギーは計り知れない。
 それを外輪の縁から二、三歩退いたところで眺めながら、ふと、「岩木山が全身を震い出す前兆」ではないかと思った。そうしたら、岩木山全体の唸り声が、そして、岩木山の内部からも「ごーっ」という地鳴りが聴こえたように思えた。
 まだ、崩落は続いている。私の両手はカメラを握っていた。だが、「崩落している」現場を、崩落中の様子を写していなかった。手に汗して「カメラ」を握りしめているだけだった。「撮る」ということよりも、この自然の「営為」を自分の目で確かめたかったのだ。
 「カメラ」で写すことは、あくまでも「ファインダー」越しの狭い視角でしかない。自然の営為を前にして、その総合的で関連性ある事象をすべて捉えようとすれば、それは視覚だけでは無理だ。そんな時こそ、私たちは本来持っているすべての感覚を総動員しなければいけない。文明に頼る姿勢に欠けるものは、この人間という動物が持っている先天的な「感覚」を駆使するということではなかろうか。
 だから、「崩落真っ最中」という「動画的な写真」はない。そのようなものを写さなかったから、今、この文章が書けているのだ。
 これまで、この尾根筋で岩が崩落する音を聴いたことは何回かあった。また、登山道から見える赤倉沢左岸の小規模な崩落は何回か目撃していた。
 しかし、普通は目撃することが出来ない登山道尾根側の崩落を目撃したことは初めての体験だった。
 若い頃、何回か4月上旬の残雪期にこの馬蹄形の源頭部底部からの「登攀」を試みたことがある。なぜ、4月上旬の残雪期かというと、早朝の寒気によって積雪が凍結して、その下にある崩落しやすい「岩石」を固く押さえ付けて、雪と岩石の崩落を「止めてくれる」からである。「止めてくれる」が全く崩落や落石がないというわけではない。
 この馬蹄形の底からキレットへの登攀は「夏」には誰もやらない。夏は小規模な落石が頻発する場所だからである。私は、4月上旬に登攀した時も、上から落ちてくる「落石」に悩まされ、「崩落」の恐怖を体験していた。
 別に、このような崩落を「岩雪崩」ともいう。おかしな日本語だが、解説するまでもないだろう。字義通りだ。「岩が雪崩のように滑落する」ということだが、今回目撃したものは「滑落」よりは、やはり、「崩落」であり、「落下」であった。
 ひとしきり眺めてから、私はTさんに「急ぎ赤倉御殿まで戻る」ように促した。Tさんは明らかに興奮気味であるように見えた。Tさんは「ついている」人だ。
 初体験が、「日常では目にすることが出来ないような、聴くことが出来ないようなこと」に出会うのだからである。
 どこかで、ほっとしていた。「期待していたミチノクコザクラとコメバツガザクラがまだ咲いていなかったことへの失望と無念さ」もこの体験で「帳消し」になったのではないかと思ったからである。
 やはり、岩木山は優しい。いろんな形で人の心を満たしてくれる。有り難い山である。(明日に続く)