岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

昨日の写真を承けて…鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデ・自然改変工事は約束違反の自然破壊

2008-06-30 05:37:52 | Weblog
[承前]
(昨日の写真は2001年11月24日に撮影したものだ。岩石の破砕工事が施されていないままの「累々とした岩石」に注目してほしい。
 今日の写真は昨日と同じ場所を2004年5月23日に撮影したものである。岩石がすっかり破砕されて滑らかなゲレンデの様相を見せる。写真下部の大きな岩は上部が吹き飛ばされて、ほぼ平らになってしまった。
 これを「自然破壊」と言わないで何を「自然破壊」というのだ。
 昨日の写真には累々とした岩石がいたるところに見られたが、今日のものには見られないだろう。平らで凹凸のないゲレンデとなっている。油圧系ドリルで穴をあけて爆薬か膨張剤を詰めたかして、岩を破砕したのである。    

 2000年に鰺ヶ沢スキー場は本会及び林野庁、県と「伐採木の根と切り株、その他伐採前の状態をすべてそのままにして残し、人工的な手を加えない。」と約束したのである。昨日の写真が「そのまま」の状態のものである。岩石の破砕はどこにも見られない。
 今日の写真は一定の積雪高で雪面に突起する岩のすべてを爆破・粉砕している写真である。スキー場は「借地」しているのであって所有者ではない。このような「土地の改変」は出来ないはずだ。それに何よりもこのゲレンデを「そのままの状態」で保持すると本会と交わした約束違反であり、既存のゲレンデにも同様のものが見られる自然破壊である。)
 
 本会ではこの事実をふまえて、「青森県自然保護課、津軽森林管理署」に次の文書を送付し、合同調査を要請した。

『本会では「津軽森林計画区における鰺ヶ沢スキー場拡張計画に対しての異議意見書」の趣旨にのっとり、2000年冬から開業した「拡張部分」についての現地調査を定期的に実施してきた。これまでの調査で確認したことは以下のとおりである。

① 事業者の環境アセスメントでは「ザリガニのいるような沢は無い」と記載されていた。私たちは2000年8月に報道関係者とともにその生息を確認したが、事業者および行政担当者側では確認作業はしたものの生息していないとしていた。しかし、2004年6月にゲレンデを横切っている沢でニホンザリガニの生息を確認した。ただし、2008年8月にザリガニがいた沢の下流部は伐採され、堰堤が建設された場所から上流約200m間ではまったく確認出来なかった。

②東北森林管理局青森分局の公開質問状に対する回答に見られる緑化工の確認「工期中、節目節目で、その都度確認してきた。緑化工についてもきちんと確認した。」とあるが、その後の確認では緑化は遅々として進んでいなのが実情である。また、この部分にはアセスでも懸念されていた外来種植物や里植物が進出している。

③東北森林管理局青森分局の公開質問状に対する回答に見られる伐採木の搬出期限が「工事終了後3年以内(2003年7月まで)」としながらも2004年になってもそのまま残置されている状態である。 

④東北森林管理局青森分局の公開質問状に対する回答には「地形、地質の改変、抜根等は極力最小限にとどめた。コースについてはほとんど行われていない。」とあるが、「鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデ・約束違反の自然破壊(2004年4月23日撮影)」に示すとおり、ゲレンデ内の大きな岩石(直径2~5m)がことごとく破砕され、ゲレンデ滑走面となる地表部分は「見た目」には凹凸のないものとなっている。まさに「地形の改変、自然破壊」である。

 特に④は自然公園法・森林法に抵触する違反・違法の自然破壊行為と考えられ、大きな問題であろうと思われる。

 これまで、鯵ヶ沢スキー場の既存のコースについては「抜根はしない」と説明しておきながら、いつの間にかコース上のほとんどで抜根がされ、その上滑走の障害となる雪面に突出している岩石の破砕と除去が行われてきた事実がある。これらは工事中に「極力最小限にとどめること」と指導されていることである以上、それ以後もこの最小限の範囲を逸脱はしてはならないことであると解釈される。しかし、既存のゲレンデ同様に岩石の破砕工事は実施されていた。
 新聞報道では、貴課によると、コース上の岩石については2002年秋に鯵ケ沢スキー場から「山菜採りなどが入山して岩石の転落などの恐れがあり、安全の確保する」として破砕申請が行われており、「危険防止の観点から許可」したそうであるが、破砕申請の真の狙いは本当にこのことにあったのであろうか。
 山菜採りの安全確保まで親身になって考えるのであれば、最初から拡張ゲレンデ工事、つまりスキー場を拡張しなければよかったのだ。また、山菜を採る山が危険だからとしてその危険対象物を除去するということは常識的にはありえないことであろう。
 本会としては「ゲレンデに突き出している岩を除去すれば、積雪を圧雪すると直ぐに滑らかな雪面で恰好のゲレンデとなる。これで積雪の少ない初冬から残雪の少なくなる時期まで滑走が可能となり営業期間が長くなる。スケールメリットを考える事業者にとっては好都合である。」と考えた上での工事だと把握している。
 しかも、冬季アジア大会開催の年の秋である。許可を与えた貴課としての判断は具体的にどのようなものだったのか。
 また、この岩石の除去(破砕)の規模や方法についての確認はとったのであろうか。(明日に続く)

ブログ訪問者からのメール、鰺ヶ沢スキー場

2008-06-29 07:20:59 | Weblog
(今日の写真は私のブログを訪問してくれたある方から届いた2007年10月14日の「雪のない時のスキー場は樹木の墓場」に関するメールに答えるための「同じ現場、つまり、鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデ」の写真だ。)
 大体スキー場の写真というのは「雪のある時期」だけのものだ。鰺ヶ沢スキー場の宣伝写真もご多分に漏れず「積雪期」のものだ。しかも、「日本海を眺めながら滑走するのは最高にいい気分」などというキャッチフレーズまでついている。
 だが、ゲレンデの「積雪」の下には今日の写真や「2007年10月14日の鰺ヶ沢スキー場拡張部分ゲレンデ。積雪によって地肌が隠されたゲレンデには、伐採されたブナが倒木のまま残されている」のブログで紹介した「現実と事実」が存在している。今日の写真は2001年11月24日に写したものだ。今日の写真の「実景」は3年後にはさらに人工的な変貌を遂げる。このことについては明日のブログで紹介する。

 先ずは届いたメールを掲載する。

『岩木山を考える会のブログで発見したこの写真ですが、ここは、先日の登山でわたしが登って行ったゲレンデではないでしょうか?
 ほとんど、「死体」というイメージそのままに倒れ伏しているこの木々の惨状はどういう言葉で表現すればよいのでしょうか?これはひどい。本当にひどい。
 山を切り開いて「滑走路」を作るのですから、こういう状態になるのだということはわかっているのですが、頭でわかっているというのをこのインパクトは凌駕しております。非常なショックを受けております。』

 …私はこのメールに答えて次のように書いた。

 『この写真は鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデのものです。長平登山道尾根にあるゲレンデではありません。しかし、あそこも「敷設・開設」された当時は、この写真と同じ景観でした。現在は下草や低木が生えて、突き出していた岩も破砕されて「写真」のような面影はなくなっています。この前に登ったゲレンデも伐採後はこの写真と同じような「景観」でした。この現場は2000年に伐採して、その年に「片付け」もしないままで開設した場所です。これは2001年に写したものです。
 世の中、実にうまくできているんですね。冬場、スキーヤーにはこの「光景」は見えません。見えるならば、または見たならば、心ある人、少なくともあなたのように「感ずること」の出来る人なら、「滑る」気持ちにはならないはずです。
 受験の前に一度「雪のない鰺ヶ沢スキー場」を見学すると絶対入学試験には「滑らない」と思いますよ。(冗談です)。とにかく、見えないから、のんきに滑っていられるのだと思います。
 本会が毎年実施している写真展「私の岩木山」で、「特別展示」として、これら一連の写真を展示したことがあります。それを見たあるスキーヤーは「自分がこのような無惨な樹木の殺戮現場で滑っていたことを知って、ものすごくショックを受けた。もうスキーは止める」と言っておりました。
 「見えること」「見えていること」と「見ること」「自分の目で視認」することは違います。後者には意志があり、感動があり、意見が生じ、判断が存在します。見えないといくらでも「ごまかし」が出来ますし、「見えること」「見えていること」だけに安住していても、それは「ごまかし」をさせる機会を与えることになります。』(お断り:実際のメール文はもっと短いものである。主旨にそって長めに書き直してある。私のメールを受け取った方、どうか了承して下さい。)

 私は常々、岩木山の原風景と日本人の自然観を大事にしたいと考えている。
人々が「どこにも明かりのない山。吹雪に輪郭をぼかし月の夜は山容全体をキラキラと輝かす。これが私と一緒に育ってきた岩木山だ。」と語る原風景としての岩木山を大切にしたい。
 さらに、山や木すべてに神が宿っていて、殺傷・破壊した時に「タタラレル」という日本人の自然観を大切に育てたいとも考えている。
 「やま」という日本語には、神聖な所、仰ぐべき場所などという意味があり、「岩木山に向かって拝む人」の原風景にも同じ意味があるはずだ。 
 私は数十年間、年に数十日ほど岩木山に登り、景観の実体を至近で見てきた。長平登山道尾根にある大館鳳鳴高校山岳部員の慰霊碑は、樹齢数百年のぶな原生林に抱かれ、苔をまとい、暖かみと潤いにあふれていた。
 だが、現在はブナの森が伐り裂かれ、岩が破砕された鰺ケ沢スキー場ゲレンデの傍らで、干からびている。
 吹雪で逝った高校生を慰めるには「暖かさと潤い」が必要だ。その上、そばの登山道までが紛失状態である。
 ゲレンデの縁には掘り起こされ破砕された岩、伐り倒されたブナの残滓も転がっている。
 雪に覆われていては実相は見えない。見えないと「心ある人」の目も開かない。スキーヤーは雪のない時に実相を見てほしい。
 弘前公園の本丸からは、「百沢スキー場」の赤土色の変色が際立って見える。
しかし、本来ブナ林床に咲く花、「シラネアオイ」が伐り開かれた裸地のゲレンデに群生しているのは見えない。木々の皆伐は見えても、皆伐による異常な実相は見えないのだ。遠くの景観だけを大事にすることには、横着さが潜んでいる。

360度、姿を変える岩木山(21)04年6月6日、岳温泉から百沢へ…(最終回)

2008-06-28 05:45:58 | Weblog
 (今日の写真は岳温泉から百沢に向かうちょうど中間地点あたりから見た岩木山だ。ここまで来ると、弘前から見える三峰「左から鳥海山、岩木山、巌鬼山」がかろうじて見えるようになる。
 真っ正面に見える大きな沢が滝ノ沢だ。その右に見える大きな雪渓のあるところが大沢である。この沢は下流で蔵助沢と呼び名が変わる。岩木山で一番大きくて「長い」雪渓となり、消え方の遅い時には9月の上旬まであったりする。その最も厚いところでは15mを越える。
 この雪渓が残っている時期は、そこは登山者にとって「難場」となる。滑落を防ぐために、先ずはアイゼンの装着だ。何も本格的な出っ歯を持つ12本爪でなくてもいい。4本爪の軽アイゼンで十分だ。次はピッケル、自己を支えるため、滑落停止のために必要だ。ただし、アイゼンもピッケルも使えない人にとっては、ただ、邪魔なものになるだろうから、「持っているだけ」で使えない人はこの雪渓を登ったり、降りてはいけない。
 曇っていたり、濃霧に巻かれたりすると、登るべき方向を見失う人が毎年何人も出る。「白馬岳」などの雪渓では雪渓の表面に赤い染料で「ルート(通路)」をなぞっているようだが、登るべき方向を見失い「下山した人」から、「是非、白馬岳のようにしてほしい」という声もきかれるが、そこまで他力本願な登山をして何が楽しいのだろう。
 雪渓の上で、周囲が濃霧のために視界が極端に悪くなった時こそ、地図と磁石の出番だ。最近の登山者「いや、登山客」はこれを持っていない。持っていても使えない。長い雪渓だが幅はそれほどない。地図上の登山道が示す方向を磁石で確認して、その方位に従って進めばいい。ただし、地図と磁針が示す方位には7~8°の偏りがあるのでそこは注意しなければいけない。
 そのようなことをしないで、誰が登ったのかも知らないまま、「人の踏み跡」を辿っている人がものすごく多い。これも自助努力が基本の登山からはほど遠い行動だ。その踏み跡の先が断崖絶壁であっても行ってしまう。この時季に「このような事故」や「迷子」が多いのだ。
 もう少し言っておきたいことがある。一つは、晴れていようが濃霧だろうが雪渓には深い穴があるということだ。その穴は表面的には「閉じられている」ように見える。しかし、その下はすり鉢を逆さまにしたような形状をしていて、閉じられているように見える部分は薄い。その上に載ると簡単に落ちる。獣を捕るための罠のようなものだ。
 しかも落ちたら、逆さすり鉢なのだから這い出すことは難しい。流れている水は「雪解け水」、水温は零度に近い。全身を濡らしてでもしたら、体温低下で死を待つしかない。
 もう一つは、雪渓の登り降りには「キックステップ」という技術が必要だ。これは、登りにあっては「靴の先」を硬い雪面に蹴りこみ「ステップ(階段)」を造り、降りるにあたっては「靴の踵」を使って雪面に段を造るという技術である。これは大変疲れる作業である。なまじの体力では出来ないことである。つまり、言いたいことは「体力」に自信のない人は「登り降り」をしてはいけないということである。
 途中でどうすることも出来なくなり、「携帯電話」で「どうすればいいだろう」と救助要請をされたのでは、やっていられない。
 
…1999年4月に、この大沢上部で大きな全層雪崩が発生して、この大沢を雪と土石が駆け下った。その年の6月、この「岩木山一周歩こう会」に参加した者は、「大沢上部の大雪崩の跡が累々とその姿を現し始め、大沢の雪渓の上には岩がごろごろしていた」情景を見ている。
 その時、私は「今年の夏は百沢登山道を絶対通行禁止にしたほうがいい」と思ったものだ。そして私の不吉な予想は的中してしまった。
 その夏、危険極まりないこの道を登った一人が危険からのストレスも加わって死亡したのである。
 関係当局は通行禁止を打ち出した。しかし、その実、多くの登山者がそこを登っていた。登る者も指導を無視しているわけだから悪い。だが、「通行禁止にしただけ」で指導の徹底を欠いた結果であろうとするのは言い過ぎではない。

 寄生火山、森山が次第に近づいてきた。荒川の倉や滝ノ沢が眺められる。ここからの山容には少なくとも人工的な「傷」はない。だから眺めてほっとする。だが、大沢の下に広がる百沢スキー場も年を追って、上に横へと広がっている。
間もなく今日の終着、百沢だ。到着だ。四十二キロの長丁場、歩こう会の終着点百沢・岩木山神社大鳥居の前だ。

 岳と百沢の間で見える岩木山の山容は既に多くの人が見ているであろう。そういうことを考えて、その間の写真はかなり割愛させてもらった。
 「360度、姿を変える岩木山」は今月の5日に始まった。6月1日に行われた「岩木山一周歩こう会」に参加した仙台在住のフリーライターKさんは、そのこととその感想を書くつもりでいたというのだ。
 ところが、あいにくその日は雨や曇りで、周回する360度からの「岩木山」の姿は見ることが出来なかったという。
 また、見える範囲での山麓風景などについても「解説」を期待して参加したらしいのだが、その「解説」も、「らしきもの」を含めても何もなかったので、ますます「書くこと」がなくて困っていると、私を訪ねてきて語った。このシリーズはその「フリーライターKさん」が求める答えの一助になればと思って書き連ねたものである。今日で終わりになるが、Kさん、いかがでしたか。)
 

360度、姿を変える岩木山(20 )04年6月6日、岳温泉から百沢へ…

2008-06-27 05:47:20 | Weblog
(今日の写真は表題から外れている。まだ岳温泉に着いていない枯木平と岳温泉の中間地点あたりから見た岩木山である。
 左から追子森、西法寺森、西法寺平、スカイラインの走っている尾根、山頂、鳥海山南稜から鳥海山の全景が見える。鳥海山のほぼ真ん中山腹に走っている沢は柴柄沢だ。
 弘前の先駆的なクライマーたちが愛した沢だったが1975年の百沢の土石流の時にこの沢も「土石流」に遭って、そのアルパイン的な様相をすっかり変えてしまった。
 この先駆的なクライマーたちとは、手塚勝治、小野晃、桂尚文、今尚志、木村義昭などである。
 私は手塚勝治氏、今尚志氏とは面識はないが、小野晃さんと桂さんとは本会の会員でもあることから知っている。
 また木村さんは北方新社の社長でもあるので拙著の出版の関係で、これまた面識がある。
 だが、いずれの方々も「岩木山登山」の大先輩であり、年齢的にも一回り違うので同一行動を取ったことはないし、山で出会ったこともない。もちろん、私のスタンスは「単独行」なので人と行くことが少なかった。
 写真の前景は「畑」である。このようにきれいに「耕耘」されているところは、地下に「ゴミ」などは埋まっていない。よく見えないがおそらく「トウモロコシ」が植えられているはずである。まだ、芽を出したばかりなのでその存在が遠目では分からないのだ。この風景からも分かるであろうが、山麓では「草原」が消滅すると、そこには小灌木が入り込んできて、低木の林を形成するのである。
 畑地の手前に見える小木はオオヤマザクラである。左側の1本は一部が既に枯れている。右側のものは早くも、このような幼木にもかかわらず、隣のものと枝葉を接触させている。いずれ伐られるか引き抜かれることだろう。無駄なことだ。)

   ◇◇出会った花々のことなど◇◇

さて、この日一日、多くの花を見ることが出来た。まるで、歩きながらの花の旅であった。もちろん、先頭集団で「黙々と」歩いていた人たちには見えていないし、「歩くこと」が目的であろうから「見る目」を持ち合わせていなかっただろう。

 見えた花を「色ごと」にまとめてみた。歩いた人は色を思い浮かべて花のイメージを復元してみたらどうだろうか。
 先ずは黄色から…
 イヌガラシ・ミヤコグサ・エニシダ・キツネノボタン・キンポウゲ・ジシバリ・ニガナ・イヌナズナ・セイヨウアブラナ・セイヨウタンポポ・キジムシロ・オニタビラコ・クサノオウ・ノゲシ・ハハコグサ(オギョウ)・コケイラン・ミツバツチグリなど。
 次は白…
春から夏にかけての山野草には白色のものが非常に多いことが解る。
オオヤマフスマ・ナズナ・ハタザオ・カラマツソウ・ツメクサ・ハナウド・ミミナグサ・シャク・ノミノフスマ・オオバコ・ヘラオオバコ・ヤエムグラ・クルマバソウ・ヒメジオン・ノミノツヅリ
(以下五つは木の花)
 ヒョウタンボク・ウワミズザクラ・ウコギ・ゴヨウイチゴ・ハリエンジュ・カンボク・ケナシヤブデマリなど。
赤や紫色のもの…
 アザミ・ノスミレ・ナガハシスミレ・カラスノエンドウ・アカツメクサ・ハルジオン・クサフジ・ヒレハリソウ・タニウツギ・フジなど。
緑や茶色のもの…
オオアワガエリ・スズメノカタビラ・スズメノテッポウなど。

実際はもっと多くの花や草、それに樹木に出会っているのだろう。ただ、その名前が解らないので、出会いのない単なる通行人に、私たちがなるしかないわけである。
 人との出会いも名を知ることから始まる。名を知るとそこに親しみが生まれる。花々や草々、それに木々は自然そのものである。自然に親しみを持つための第一歩は「彼らの名前を知ること」かも知れない。

 「歩こう会」はブームである。しかし、まだ「岩木山一周歩こう会」に参加したことのない人は沢山いるだろう。登ることも降りることも走ることも「歩く」ことの一形態に過ぎない。歩けることが基本だろう。
 登山を志向する者にあっては、現在のコース、四十二キロメートルを歩けてこそ、真の登山行動が出来るものだと思う。
 
 「岩木山一周歩こう会」に参加して、登ることの出来る自分を、下ることが出来る自分を、たんたんと長距離を歩ける自分を、「道ばたの自然や岩木山を取り巻いている自然」を発見出来る自分を確認しながら、取り戻してはどうだろうか。

360度、姿を変える岩木山(19)04年6月6日、岳温泉から百沢へ…

2008-06-26 06:17:06 | Weblog
(今日の写真は枯木平から岳方向に向かって歩きながら撮ったものだ。真っ正面に岩木山が見える。何ともずんぐりむっくりした姿の岩木山である。
 左から西法寺平「通称テラス」、山頂、鳥海山南端の岩稜か鳥海山の全景が見える。その鳥海山南端の岩稜から続く、赤沢と湯段沢に挟まれた大きく「広い」尾根に注目してほしい。九十九折れに60以上のカーブを示す自動車道路「スカイライン」が見える。
 この「自動車道路」の敷設と建設が岩木山の「開発」に名を借りた「自然破壊」の第1号だ。岩木山の「開発」と「自然破壊」はここから始まったのである。
 私は創立してからそろそろ40年になるある山岳会に入っている。その山岳会の創設メンバーの1人でもある。現在は十数人いたそれらメンバーも、現在はわずか1~2人になってしまった。
 その創設した頃には、「運動(活動)方針」の中に、「スカイラインの自然破壊の現況を監視しながら、植物等への影響を調査する」という項目を掲げて、1年に数回は現況調査山行をしたものであり、活動方針からこの項目の消えることはなかった。
 ところが、その後、この項目は活動方針案から削除され、総会に提案されることもなく、「スカイライン」自動車道路が岩木山に与えるさまざまな「自然破壊」要因について議論されることもなくなってしまった。
 これは、山岳会が「スカイライン自動車道路」を認めたことであり、岩木山の「自然破壊」に対して関心を抱かなくなったことを示しているだろう。
 「スカイライン自動車道路」の存在を既存のものとして認めることと「自然破壊」に無関心であることとは本質的には同じではない。それを同じにしてしまうところに基本的な間違いがあるような気がする。一会員としては悲しい苛立ちを持って見ている。
 スカイラインターミナルから鳥海山南端の岩稜に向けて直線上で駆け上がっているものがリフトの「索道地域」である。これも結構広い。
 スキー場にもリフトがある。ゲレンデの他にこのリフト「索道」施設のある地域があり、大概は「ゲレンデ」以外の場所を占有している。鰺ヶ沢スキー場には「ゴンドラ」施設もあるから、これが占有する面積もすごく広いものになる。
 「急な尾根」に造られる道路の占有する面積は、一般道路のそれよりも何倍も広くなる。それは「直線」でなく、九十九折れという敷設形態を採るからである。
 「スカイライン自動車道路」の総面積は、これでも鰺ヶ沢スキー場の占有する総面積に比べると遙かに少ない。その点では「自然破壊」への影響は少ないだろう。しかし、鰺ヶ沢スキー場の最高標高は950m、スカイラインの方は1250mであることを考慮すると、標高の高い場所ほど自然は影響を受けやすいので、「自然破壊」という点ではスカイラインの方が、自動車のまき散らす「排気ガス」のことも考え合わせると大きな影響を与えている。
 ただ、面積的には鰺ヶ沢スキー場の比ではない。こちらがうんと狭いことになる。)

 …岳温泉から百沢へ 

 岳温泉に近づいた。県立自然公園に指定されている岩木高原に入ってきたのだ。少し南に入ると湯段温泉がある。
 その手前に、春先はミズバショウやザゼンソウが咲き、後景に岩木山を戴きながら、季節を問わず風光明媚(めいび)な、通称「水芭蕉沼」がある。
 かつて、県はここを農村振興策の一つとして、自然を変質させる「農村公園」にしようとした。沼の周りに赤土を数メートル盛って其処にラベンダーを植裁し、藤棚を造営、沼の縁にはアスファルトの舗道を造り、沼には八つ橋を建設。近くには駐車場とトイレを造るという計画を発表した。
 今までのままでは、何の不都合があるというのだろう。既に、そこは立派な県立自然公園なのだ。
 県が真っ先にしなければならないことは「沼・湿地」ということで、そこの水源の管理であるはずだ。(その後、本会からの要望や話し合いの結果、「景観・自然植生」を第一義とする計画に変更された。)

 この農村公園と基本的に同じ発想であるのが、見た目には楽しい遊歩道であろう。しかし、歩いている人を見かけることは非常に少ない。これも公共事業の一つだ。
 使ってもらえない道路とは一体何なのだろうか。桜の植樹はいいけれど、あるがままの自然を保護するという観点からは、厳密にはいいとは言えない。
 今でもそのためにお山の眺望が出来ない。もっと大きくなったらどうするのだろうか。岩木山を眺めることが出来ない岩木高原とは何なのだろう。

 昔、雪に覆われてしまう「百沢と岳の間の道しるべ」として植えられた松を、わざわざ遊歩道や道路のために移植して、「枯死」に追い込んでしまうとはどういうことなのだろう。(明日に続く)

★岩木山でクマが目撃されている・だが、ハンターのみなさん駆除(撃ち殺し)はしないで(その2)★

2008-06-25 05:50:27 | Weblog
(今日の写真は春5月に、焼止り小屋付近を後長根沢稜線方向に走っていくクマである。クマはこのようにいち早くこちらの存在に気がついて逃げていくものだ。この時は南東から風が吹いていたので、風下にいたクマは、登っていく私の臭いを鋭い嗅覚で感じ取り、すたこらさっさと逃げ出したのである。)

 ●クマと出会った時にどう対処すべきか●

 クマは小心でおとなしい動物であり、クマ熊のほうから気を使い人間を避けてくれる。 私はこの点ではクマを信頼しいる。大体の場合、クマが先きに人を発見して、姿を消してくれる。だから、多くの人がクマに出会うことがないことも当然なのだ。私は数回、熊を見ているがいずれも逃げていくものであった。
 不測の死傷事故を防ぐためには、いちはやくクマに「こちらの存在」を気づいてもらうことである。そのためには…、

第一に、風向を気にしながら、大きめの鈴など(ラジオ)を常に持ち歩くことである。私は、静かな自然の中で「鈴」や「ラジオ」を鳴らし続けることは「騒音」の垂れ流しだと考えているので「笛」を持ち歩き、見通しの効かない場所とか風向きが変わったりした場合に3回連続して吹くことにしている。

第二は、クマ熊が餌を採る場所を知り、会わないようにすることだ。クマは餌を食べることに夢中で鋭い聴覚・嗅覚もあてにならない。そんな時に、人と至近距離で会うのだ。

 さて、幸運にもクマに出会った時は、どうするか。                
1、すぐ、クマに背を向けて逃げ出してはいけない。クマは本能的に動くものを襲う。 

2、クマは人と視線を合わせないようにするが、こちらは視線を外さないで、少しずつ後ずさりをする。                              

3、死んだふりをすることは、クマが怒っていない段階(興奮していない時)では有効である。しかし、噛まれたりすることに人間が耐えられるかどうかが問題である。    

4、木に登ることは有効でない。クマは木登り上手であるし、薮や沢には木は少ない。

5、鳴り物をならし、大声をあげることは、クマの恐怖心を煽り、クマは強い反撃に出ることもある。至近距離の場合は逆効果である。             

6、クマは火を恐れない。また出会ってから「火を燃やす」余裕などはない。     

 出会わないことが最良である。人の方が「クマに発見される感覚と術」を磨けばいいのだ。本来おとなしいクマを、怒らせるのはほとんどが「人間の手落ち」である。    

 実は昨日、この「クマ出没情報」を岩木山日赤パトロール隊にも伝え、「ブログに掲載してあるから、あなたのホームページに掲載してもいいですよ。このような情報は広く多くの人に見てもらうことが大事だから」と連絡した。
 パトロール隊には、この種の情報を行政に伝える義務があるようで、電話を受けたSさんは「役場の担当にも連絡しておきます」と言う。
 そのような訳で、それが岩木総合支所の担当課に伝えられ、そこからさらに、弘前市農林部りんご農産課に伝えられたらしいのである。
 しばらくしてから、りんご農産課「有害鳥獣の捕獲等」を担当する職員から、電話が来た。その職員は、電話をしながら、本会のホームページで当該ブログ画面を見ている。
 だから、話しの疎通は速かった。「少ない生息数ですから、くれぐれも害獣駆除などしないように、またならないようにお願いしたいと思います」という私に対して、その意にそう「肯定的」な返答があったように思えた。

 その電話の中でも、少し触れたのだが、目撃されたクマを「害獣」と「認定」して「駆除行動」をする行政・自治体に対して、次のように言いたいと思うのである。

 先ずは「しっかりとした被害調査がないまま駆除が許可されたり、本当に駆除しなければならない状況であったのか」などが指摘されることがないようにしなければいけない。これが許可権限を持つ自治体の責任であろう。また、指摘されたままにしないために情報開示するという責任も自治体にはあるし、青森県には市町村を指導する責任もある。
 岩手県では「ツキノワグマの出没情報並びに…被害に関する対応指針」によると「生息情報(目撃等)のみで被害は未だ発生していない場合」の対応は、「原則追い払い、特別捕獲は認めない」となる。
 クマが「山にある公共施設の近辺」に出たとしても、それは人に対する「注意の喚起、警戒及び残飯、ゴミの適正処理の指導」となる。殺しという駆除はされないのだ。        
 有害獣と認め駆除するためには、歴然とした客観性があり、しかも実証的、合理的、体系的な根拠が必要であろう。それは、「熊と人間社会との関係」と「自然生態系における種・生命体に関わる」具体性と詳細さである。
 これがないことは、明らかに「駆除」に関わる根拠の意味を失していることだし、社会への責任を放棄していることでもある。根拠には有無を言わせない説得力と納得させる社会的共感が必要なはずだ。
 情報も主観的、抽象的、駆除の決定も客観的、説得力に欠け、駆除行動も興味本位や趣味の満足に偏っているとすれば、「害獣駆除」は自治体による単なる「クマの殺戮」にほかならないものになるだろう。

(この稿は今日で終わり、明日からは「360度、姿を変える岩木山04年6月6日」を掲載する)

★岩木山でクマが目撃されている・だが、ハンターのみなさん駆除(撃ち殺し)はしないで下さい★

2008-06-24 06:09:24 | Weblog
(今日の写真はツキノワグマだ。クマという時にはこの熊を指す。この写真は借り物である。私はこれほどの至近距離でクマと出会った経験はない。)

★緊急!「クマ」情報とカモシカの情報について★

◆クマやカモシカが私たちの目に触れるということは、一面では岩木山がこれら動物たちが棲むことの出来る自然環境を整えているということ、言い換えると「豊かな自然」が回復してきているということになる。
 …だが反面、これは「生息環境」に変化があって、つまり「餌場」としている範囲に「餌」がなくなり、私たちといやおうなく「接触」するような「場所」に姿を見せているということであるかも知れない。

 クマが害獣として認定される条件は人に危害を加えた場合か「危害」を加えると予想される場合であり、「見た」ということが、直ちに「害獣」という条件とはなり得ないことを十分考えなければいけない。
 また、人が不用意にクマに対して接近したり、大声を出して威嚇したりするなどして「クマ」を驚かして、その結果「クマ」に襲われたりする場合も、即座にクマを「害獣」と認定して、その「クマ」を「駆除(撃ち殺し)」することはおかしいことだ。「害獣」と認定するための要件を最初に作りだした者は、その「人」だからである。

    ◆クマの目撃情報が3件事務局に寄せられている◆

 ここ1週間のことだ。私は目撃された場所を具体的に書くことをためらっている。それは、「クマ」見たさに好奇心あふれる人間が「その場所」に出かけて行くかも知れないということを危惧するからだ。
 また、その「好奇心」あふれる人がクマを怒らせ、クマによって危害が加えられると、行政やハンターたちは、直ぐに「害獣」を口実にクマの「(撃ち殺し)」に走る。このことも危惧している。
 今の時期はハンターたちに許された「狩猟期間」ではない。「害獣駆除」という行政のお墨付きがあると「狩猟期間」でなくても「熊撃ち」が出来るのである。
 数年前の「ハンターがクマに逆襲されて死んだ」事件の発端は「赤倉沢でクマを目撃した」ということであった。目撃情報はあくまでも「情報」であって「害獣駆除」の絶対的な要件ではない。

 クマ駆除に関しての情報提供者と駆除依頼者に言いたい。       
情報も依頼内容も厳密な客観性に基づいていなければいけない。求める駆除の必然性を確実に満たしていることが大切である。自然の諸相の理解を踏まえた上での情報提供であるべきである。
 このような場合は…「クマは暖かさに誘われて早々と冬眠穴を出た。しかし、周囲は積雪である。餌はない。従ってクマが雪のない所に降りて、沢を下って来るのは当然であり、沢や川筋にいる」と熊と会うのも当然だと受とめるべきなのである。
 大体はクマのほうが事前に人の気配をキャッチして人を避けるものだ。何事もなく、単純にクマを見たとか出会ったとかであれば、それは滅多にない幸運である。
 情報をもたらす際は自己満足を伴う主観的な行動になってはいけない。情報は事実だけでいい。情緒的、心情的な思い込み・思惑や興味的要素を付加すべきではない。
 山や谷に入る人はもっとクマについて知るべきだ。最低でも、その棲息地、行動時間帯、餌の種類、採餌場所等は知っていなければいけない。
 このようなことを踏まえ、「不用意にクマと遭遇しない」ことが人間とクマ双方にとっても、最も安全な方法であると考えて「目撃された場所」を明確にする。

 第一の場所は砥上沢の右岸尾根である。湯ノ沢の左岸尾根と言ってもいい。標高は600mから700mの範囲内で山菜(タケノコ)採りの人が目撃している。時間は午前9時過ぎである。

 第二の場所は後長根沢沿いの林道、沢左岸にブナ林が迫っている標高500mから600mにかけて、そのブナ林内を歩いているものが目撃されている。時間は午前10時頃だという。

 第三の場所は百沢スキー場の下部である。時間は午前中であり、目撃距離は20mから30m、クマは後ろ向きで時々、目撃者の方を振り返って見ながら歩いていたという。怖くなったので「大声を出した」ら、左の「蔵助沢と石切沢」方向に走り込んで行ったという。
 目撃者はワラビなどをスキー場ゲレンデで採っていた。クマが走り込んで行った方には「百沢登山道」がある。登山者も次に掲示する「クマと出会った時にどう対処すべきか」(明日掲載する)を十分守って行動して欲しいものだ。
(クマとの距離があったから「大声」は効果的だったが、至近距離での大声はクマを興奮させるので逆効果であり、襲われる可能性がある。人の方が静かに立ち去ることが望ましい。)

 本会では、会員の目撃情報やその他の情報から、岩木山のクマ生息数を5~6頭と推測している。僅かな頭数である。この少ない命を「害獣駆除」という「殺戮」から守りたいと強く思っているのである。

 カモシカも岩木山では、その生息数は少ない。15頭前後だと考えられる。
冬場の方が障害物が少なく足跡も明確なので確認することが容易である。しかし、夏場は藪に潜ったり、木陰に入ると目撃は困難だ。
 カモシカが目撃された場所は鳥海山山頂付近の砂礫地である。カモシカは人との距離をちゃんと取ってくれる動物だ。20mほどの距離だとそれを保ってくれるがそれ以上に近づくと、カモシカの方が移動して「距離」を保ってくれるのである。出会った時には、そのことを知って付き合おう。(明日に続く)

360度、姿を変える岩木山(18)04年6月6日、間もなく枯木平…

2008-06-23 06:11:06 | Weblog
(今日の写真は枯木平にそろそろ着くという場所の間道の入り口で出会った花、ラン科キンラン属の多年草「ササバギンラン(笹葉銀蘭)」である。まさにそれは「天を目指して直立する瑞々しい底力」であった。花名の由来は「ギンランに似ていることと葉が長い笹の葉に似ていること」だ。
 もう既に「岩木山一周歩こう会」はその全行程の3分の2を終えている。疲れが出始めている。歩きなれていない者は、まず「足」にいろいろな支障が出てくる。
 一番多いのは「マメ」をつくり、それが潰れて「痛み」が激しくなることだ。次いで、股関節の痛みを訴える者が多い。
 中には、出来ないことだと知っていながら「私の足(脚)をもらってくれませんか」「私の脚をただで上げます。ほしい方いませんか」などと言い出す人まで出てくる。これは、何とか「冗談」を言いながらも、残りの行程を「歩ききろう」という決意に他ならないのだ。涙ぐましい「努力」がなせることである。
 集団の先頭に陣取る人たちは歩き慣れた人になるのは自然である。歩きなれていない人たちは集団の後ろに散在して広がる。私は一番後ろの小さい集団の中にいた。
 そして、間道の入り口に「ササバギンラン」を見つけて、彼らを誘った。彼らは今、前の集団について行くことから「少しの間」でもいいから解き放されたい気持ちでいる。気分転換を望んでいる。
 『「天を目指して直立する瑞々しい底力」という風情でしょう。小さくても活力が漲っていますよね』と私が言う。
 「…ああ、元気をもらったみたい」「さあ、頑張って歩こうか」と数人が呟いたのである。
 ギンランとの出会いはさまざまである。こんなこともあった。

 …登山道沿いに見るギンランは背丈がまちまちである。ところが、岩木山神社境内の裏にある森に咲くものは丈が長く葉や茎、それに花までが何となく瑞々(みずみず)しい。
 そして、今、盛んに日を浴びて道端の叢中に咲いているものは、実に小振りであり、しかも葉や茎の緑も光沢を失って色あせていた。
ギンランの仲間に花の黄色いキンランというのがある。
…まだ若く、より重いものを背負い、どれだけ短い時間で登るかといった体力や技術に価値をおいた登山をしていた頃、キンランにはよく神社裏の林内で出会ったものだ。
 もちろん、金もなくカメラを持つ身分ではなかったので写す機会はなかった。残念ながら、最近会う機会はまったくないといっていい。
 汗を拭き、その色あせていたギンランに「元気を出せよ。」と声をかけながら、また登り続ける。亜高山帯で、中には遅咲きの燕万年青(つばめおもと)と一緒に咲いて個性を強くアピールしている場合もある。
 「個性とは意志であり人格だろう。植物に個性などあろうはずがないではないか。」などと言ってはいけない。
 植物ほど周囲の自然環境に身を任せながらも、独特な個性を持っていないものはない。だから、そこには背伸びや衒(てら)いはない。素直な個性を感じさせる花、これがギンランかも知れない。花の時期は結構長い。
 ブナの林縁から少し奥まって、あまり日の当たらないところでは6月の下旬過ぎた頃でも咲いていることがある。…

 「二ッ森」の山麓下部を穿って造られたその法面に沿って、坂を下りると枯木平だ。行政的には鰺ヶ沢町から新弘前市に入っている。
 私たちは道路の右側を歩いている。左側は「二ッ森」なのでいきおい、視線が遮られて、視線の先は右側になる。左右に気を取られると注視する度合いが減ずるものだ。
 「視線の先」が右側に集中したことが幸いしたのだろう。植樹された「オオヤマザクラ」の枝先に停まって鳴いているエゾハルゼミを見つけた。ブナやミズナラの林では高い枝や幹で鳴くので「声はすれども姿は見えず」なのだが、直近で「姿」を見ることが出来たのは、黙々と歩き続ける先頭集団でないからであろう。
 さらに、その細い幹に「抜け殻」も発見したのだ。だが、この「抜け殻」は今、目の前で鳴いているものではないだろう。
 なかなか逃げないので何人かはじっくりとエゾハルゼミの鳴き声と姿を鑑賞し、観察出来たのだ。この辺りの「オオヤマザクラ」はかなり、成長している。植樹されてから5~6年は経っている。樹勢にも強さが感じられる。明らかに、石倉手前の「オオヤマザクラ」とは違っていた。
 坂を下る途中から、「二ッ森」の上空を、梢すれすれにトンビが優雅な舞いを見せてくれる。そして、その右手遠方には「リフト敷設のために直線的に刻まれた赤沢左岸尾根とその下に続くスカイライン」が見えている。
 岩木山にはトンビやイヌワシは似合うが…リフトとスカイラインでは、岩木山の景観は台なしだ。この「台なし」写真は明後日に掲載しよう。
 既に、枯木平のに入っていた。
(明日は緊急的な別な事柄について書く予定なのでこの稿は休載する)

360度、姿を変える岩木山(17)04年6月6日、若松を経て枯木平に向かう…

2008-06-22 06:52:39 | Weblog
(今日の写真は鰺ヶ沢町の若松地区と旧岩木町枯木平間で見られる岩木山だ。この辺りからは、連続的に「寄生火山」がよく見える。
 私たちは既に長平と松代の間で、長平登山道尾根沿いに「鍋森山」、黒ん坊沼の東側に「笹森山」という「寄生火山」を見てきた。
 写真右前面に見える山も「寄生火山」である。標高540mほどの「若木森」である。その奥に見えるのが「寄生火山」では一番標高のある黒森山だ。この「若木森」の標高が540mもあるとは見えないだろう。なぜならば、歩いている道路の標高が430m程度だからだ。当然、見える「若木森」は100mほどの小さい山となる。低くて小さい感じの山ではなく、その実態そのものが「低くて小さい」のである。
 この山麓に開けた「平地草原」は従来からの手つかずの「草原」だろうか。違う。「減反政策」で打ち棄てられた「田圃」である。
 若松地区や松代地区に入植した人たちが、不毛の土地であるこの場所に、木々や草の根、地中に埋まっている多くの石や岩と血を流す苦闘をしながら「開墾」した「田圃」や「畑地」なのだ。
 国が、農水省が進める「減反」は、その苦労に報いることもなく、癒すこともなく、逆に耕す土地を奪ったのである。
 どのような理由にせよ、土地を奪われる農民ほど空しいものはない。しかも「減反」には農民たちの「自己責任」領域はないのである。全く、一方的なアメリカ主導の農業政策を進める農水省や政府自民党の「党利党略」の犠牲者なのである。
 棄農、放棄耕地、限界集落などというネガテイブな事象を、すべて「農民」の所為にしてはいけない。国を挙げて農業や林業を「国を守る」産業と位置づけて、経済政策の中で「国策」としていかねばならない時である。
 私たち消費者も全面的にこれに参加していかねばならないのである。農業や林業が生き生きしてくるとそれは「地球温暖化」の抑制にもつながっていくのである。
 かすかに畦であろうという形跡を残すところには、ピンクのタニウツギや真っ白なケナシヤブデマリが「自然に帰ったこと」を誇るかのように咲いていた。何だか悲しくなってきた。

 黒森山が山頂を遮るように立ちはだかって見えてきた。カラマツ林の梢の上に山頂だけを覗かせる岩木山が見える。
 道路の直ぐ上部が標高612mの「二ッ森」である。それに遮られて岩木山は、しばらく間、私たちの目から姿を隠す。この山の稜線が弘前市と鰺ヶ沢町との「境界線」になっている。この境界線は「黒森山」山頂を経て、鰺ヶ沢スキー場上部へと続いている。地勢的には「追子森」や「西法寺森」ピークを経ていてもおかしくないのだが、この二山は従来から岩木町の管轄であり、弘前市は「吸収合併」で、この二山を含めた広大な岩木山を易々と手に入れたのである。これは「策略」としか言えない。
 この「二ッ森」の上部には地図では無名であるがもう一つの「寄生火山」があり、それはさらに「黒森山」に連なっている。地図では無名だが、私たちは地元の人に倣って「一ッ森」と呼んでいる。
 間もなく弘前市、04年はまだ岩木町だったが、である。鰺ヶ沢町から岩木町に入った。まだ、合併していない時である。
 「岩木山一周をうまく歩くと一市四町二村を巡ることが出来るんだよ」と私が言う。一市はもちろん弘前市だが、残りの四町二村とはどこだろうか。
 答えは鰺ヶ沢町、鶴田町、板柳町、岩木町、それから森田村、西目屋村である。現在はこの中から岩木町と森田村が消えた。

 写真の左端に一本の木が見えるだろう。支え木を杭止めをして倒れるのを防いでいる。ずいぶんと大事にされている樹木だ。もちろん植樹されたものである。
 何だろう、これは「オオヤマザクラ」だ。「大事にされている」と書いたが「倒れることを防ぐために一時的に、その時の見せかけ程度に大事にされている」だけなのである。
 この「オオヤマザクラ」の植樹が環状道路沿いに盛んに実施されていた頃の秋に、私は石倉手前から2、300mの間に植樹されたものを確認して写真に撮った。
 そして、残雪期の3月にそこをまた訪れた。そして、驚いた…。
道路脇に並べて植えられているものを仮に10本としよう。その10本の中で無傷で立っていたものは1本だけであった。支柱とした横木が圧雪のために折れて、それに引っ張られて、苗木の幹をこの支柱に縛り付けているために、苗木そのものが折れているのだ。横に張り出している細い枝もすべて圧雪のために折れている。これらには葉芽も花芽も見られなかった。春になる前に既に枯死していたのだ。
 そして、既に枯れた細い幹や枝には、この苗木を寄贈した人の銅製の銘板が空しく揺れていた。寄贈者は30年後50年後に立派に育ったオオヤマザクラをイメージし、立派に育って欲しいという思いを込めたに違いない。植えた後の育てるための管理は全くされていない。寄贈者に対する「裏切り行為」だろう。)(この稿は明日に続く)

360度、姿を変える岩木山(16)04年6月6日、若松を経て枯木平に向かう…

2008-06-21 05:19:14 | Weblog
(今日の写真は第二松代小学校跡地から若松に向かう旧道沿いに見たユキノシタ科イワガラミ属の落葉蔓性木本「イワガラミ(岩絡)」だ。
 花名の由来は岩や木に絡みついて登り上がって生育することによるとされている。この旧道沿いで出会ったイワガラミには「地の生気を込めて締め上げ絡みつく強靱」というキャプションは少し当たらない。
 「旧道」という表現はしているが、これはれっきとした「県道」であり、「生活道路」である。新参者の「農免道路」ではない。しかも、誰も通行することのない「廃れた」という意味合いなど、全く関係のない「現役ばりばり」の鰺ヶ沢、弘前間を岳経由で、古くに敷設された道路だ。
 環状道路と重複する区間だが、「環状道路」や「峠手前から若松地区に抜ける新道」という新参者ではない。道路が出来てから既に数十年が経ち、道は樹木のトンネルに覆われている。
 若松までは緩やかだが登りが続く。日射しが遮られて、葉を透かして入り込む明るさや、葉と葉の間から漏れて射し込む陽光は緑の陰影としての「シンフォニー」である。
 ここを自動車で一気に移動する手はない。光の「シンフォニー」に身を委ねて歩くことを勧める。
 夏場は陽光に炙られたアスファルト鋪道よりも、ここの「路面温度」は20℃以上低い。気温も5℃前後低くなるから「冷涼でさわやか」な気分を味わえるのである。
 この道はブナやミズナラが生育している森の中を走っているのだ。時は6月の上、中旬だ。道路の傍は「林縁」となる。「林縁」には花が多い。淡いピンクのタニウツギに混じって「アジサイ」を思わせる白い花が目立つ。
 その代表は「カンボク(肝木)」だ。似たような花が次々と登場する。次いで「ケナシヤブデマリ(毛無藪手鞠)」、何ともはや、似ている。この二つは葉の形の違いで見分ける。花の色も「装飾花(別に飾り花ともいう)」も非常に似ている。
 何やら、林縁の奥の方でも「白い」花が木漏れ日を浴びて輝いていた。大きなブナの幹に張り付くように、樹頂に向かって蔓を絡ませながら、高みを窺う風情である。
 木の幹や枝に絡みついて生育して「飾り花」をつけるものには「ツルアジサイ」と「イワガラミ」がある。そのいずれなのかは、この距離だと肉眼では判別出来ない。このような場合のことを考えて、私はいつも7倍程度の小型双眼鏡を携帯している。 
双眼鏡を取り出して覗く。注意することは「飾り花」の形と造りである。見たところ、それは白い「葉」のようなつくりであり、花としての「蘂(しべ)」を持っていなかった。
 これで決まりだ。「イワガラミ」であった。「車」に乗ったり、運転していたのでは、このようなことまで見えるわけがない。

 ハナバチ類やハナアブ類は花を探すのに発達した視覚を役立てている。これらを「花粉媒介昆虫」という。「装飾花(別に飾り花ともいう)」はこれらに対して、花序全体を視覚的にアピールしているのである。
 総じて「装飾花」が大きいのは昆虫の目を引くためであり、中央に位置している雄しべ、雌しべの両性花が小さいのは、限られた面積の中に出来るだけ多く詰め込んで、昆虫の訪れ一回当たりの「受粉効率」を高めるためであると考えられている。
 
  ◎◎ある日の「イワガラミ」との邂逅(かいこう)◎◎

二子沼への道すがら
 …沢を右へ大きく迂回してその林道は進んでいた。太陽は高い頭上にあった。東を遮る樹木が日陰を作って涼しい。右側に見える樹林帯は、真上近くに昇った太陽の光りに焼かれて、濃い緑をきらきらさせている。
 林道が終わっていた。その平坦なスペ-スは、石ころも、むき出しの赤土も、赤く錆び付いたワイヤ-も、ぽつりぽつりと咲いている黄色い花のニガナも、みんな乾いた白さに染め上げていた。東を遮る緑はまったくなかった。
 乾いた赤土に岩がごろごろしている古い登山道の取り付きは、かなり傾斜がきつい。その傾斜と鋭角的に交叉する法面から岩が崩落していて道を塞いでいる。今一瞬落ちてきたらとの思いに、背中がぞくぞくして身が竦んでしまった。
 その時だ。赤茶けた法面の上部に何やら白い生気が漂った。救われた、大丈夫だと思った。
 法面(のりめん:「切取り・盛り土などでできた人工的な斜面」)に嵌め込まれた大岩を抱きかかえ、地の生気を込めて締め上げ絡みつく強靱なものがそこにいたのである。それはイワガラミであり、その花だった。それにしてもこの清楚な白さは一体何なのだろう。
 木陰を探しながら、また登り始める。梢にはホオジロが止まり空に向かって鳴いている。命漲る鳥たちの声と草いきれの渦の中を行く。
 岩のくぼ地には、からからになった苔類があり、それを足元の覆いにして、イワカガミが白い空に向かって枯れた花を咲かせていた。
 顔の汗は顎に集まりそこから間断なく落ちる。赤土はそれを受け止めるのだが、湿らせてはおかない…。)(岩木山の写真は明日に続く)

360度、姿を変える岩木山(15)04年6月6日、石倉・松代部落は間もなく…

2008-06-20 06:16:59 | Weblog
(今日の写真はそろそろ第二松代の「石倉」地区と呼ばれる辺りに着くところから撮ったものだ。方角的には岩木山を西北西から見ていることになる。
 この辺りになると、ずいぶんと岩木山もその容姿を変える。弘前から見慣れた山容とはまったく趣を異にする。
 弘前から見える山容は言うまでもなく「単独峰(孤立峰)」である。しかし、この辺りから見える山容は複雑に峰や尾根、それに谷が絡まり、連なっている「連山」的なものに変わってしまうのである。
 その理由は岩木山の「造山」過程にある。この写真に見える山容は、「岩木山の造山」史からみると「旧岩木山」と呼ばれる範囲と地形を示している。
 簡単に言うと、岩木山はほぼ東から西に走る線で二分された範囲、つまり北(詳しくは北北東)側が古い山体で、爆発や噴火をしていた時の地形をいまだに残しているのである。だから複雑な山体を維持しているのだ。
 南(詳しくは南南西)側は数千年から千年程度前の爆発や噴火のさいに噴出したものが堆積したことによって出来た山容を見せているのである。こちら側は非常に単調で「スマート」な山容となっている。
 これら「山容」の違いを、一層際だたせているものに「寄生火山」がある。これは北から西側にかけて偏在し、弘前から見える範囲には、僅かに一山「森山」だけである。
 この違いは「植生」の面にも現れている。写真では小さくてはっきりしないが、左からの山稜に見られる「濃い」緑に注目してほしい。これらはすべて「コメツガ」である。弘前から見える範囲の弥生、百沢、岳登山道沿いの尾根には生えていない針葉樹である。中央火口丘(現在の山頂)を形成した噴火や「鳥の海」爆裂火口を形成した大爆発で、その噴出物によって、下部稜線上に生えていた「コメツガ」は「埋められて」消滅したのである。
 ここで、山稜の説明をしよう。左から右に見ていく。先ずは「烏帽子岳」、次が無名の「1396m峰」この二山に見られる濃緑は「コメツガ」だ。さらに赤倉風衝地のある巌鬼山を含む山稜だ。その手前が長平登山道のある尾根だ。中央部に白い建造物が見えるが、これは鰺ヶ沢スキー場ゴンドラターミナル駅である。
 この尾根の上部に見える山が「西法寺森」であり、その右に続いている「コメツガ」の生えているピークが「追子森」である。「西法寺森」と「追子森」の間は吊り尾根と呼ばれるほどに「細い」稜線で、真下には深い「爆裂火口」が広がっている。
 山頂から右には、二の御坂、一の御坂、鳥の海爆裂火口外輪山、鳥海山南陵と続いている。鳥海山南陵に斜めに走っている直線的な「切れ込み」はリフト索道である。
 いずれにしても、この「山容」を提示して「この山はどこでしょう」と訊いても、おそらく「100人中98人」は「岩木山」とは答えないはずである。
 自分たちの目で眺めたりマスコミ等が提示する「岩木山の容姿」は一に弘前からであり、次いで五所川原方面、さらに鰺ヶ沢方面からのものであるはずだからだ。
 
 石倉のが近づいてきた。「」と書いたが最近では、家は僅かに「一戸」になってしまった。これでは「」という表現はあたらない。
 その家の前には「アスパラガス畑」があった。さっきまで蕨狩りに興じていた人たちが、アスパラガス畑を眺めて、『頭を「の」の字にしていない変わった蕨があるよ。』と騒ぎ立てて、今にもそこに侵入して、「採取」するような気配を見せたのである。
 だが、幸いにも傍にアスパラガスの無人売店があったので「不埒な」侵入行為と無断採取しないですんだようだ。
 この畑には「独活(うど)」も生えていたが、だれも「天然のもの」だとは言わない。言うと白々しさがすぐばれるからであろう。みんなはニコニコしながら栽培されて、かなり伸びきった独活を横目で見ながら通り過ぎたのだった。
その先には「Y字路」がある。左に行くと「若松」に出る。右に行くと第二松代小学校のある第二松代に出て、白沢からの「本来」の道に出るのだ。
若松に出る道を辿ると「距離」は4kmから5kmほど短縮される。「短時間」という合理性を大事にするならば、第二松代地区へと迂回しないで真っ直ぐに「若松」地区に出ればいいと思うのだが、「岩木山一周歩こう会」を主催する弘前勤労者山岳会にはその考えはない。それは「歩行距離」にこだわっているからであるらしい。
 当初は峠、白沢、第二松代、若松を経由して総歩行距離は50kmを越えていた。現在は「新道」経由で距離は10km以上短くなっている。さらに、若松地区に直進すると5kmも短くなる。
 総歩行距離を40km台に維持し「マラソン」競技の走行距離との近似値でもって歩く人たちに、この催事に「親和感」を持たせようとしたものらしい。35kmでは「マラソン」との近似的なイメージとはほど遠い。
 第二松代小学校(現在は跡地となっている)からの道は、実にいい。(明日に続く)

360度、姿を変える岩木山(14)04年6月6日、長平から石倉・松代部落に向けて

2008-06-19 06:04:12 | Weblog
(今日の写真は鰺ヶ沢スキー場が左側に遠のいた岩木山の北西面だ。暗い上に「小さい」ので、よく見えないだろう。だが「見なれた」私の目には「鳥海の頂から南東に走る直線」が目立って見えるのだ。
 参加者から「あれは何ですか。」という質問がわき起こった。それは「スカイラインターミナル」から続くリフト用の鉄塔が設置されている赤沢左岸斜面の切れ込みだった。醜い傷跡だし、岩木山からすると「哀れな傷跡」である。
「新道」の農免道路を進む。昨日も書いたが、以前は峠に出て気が遠くなりそうに多いカーブを曲がりながら白沢に降りて行ったものだ。その頃は、この「新道」は砂利道で、しかも「黒ん坊沼」までしかついていなかった。
 ふと上空を見たら、笹森山の山頂付近の上空をハチクマが一羽飛んでいるのが目に入った。少し旋回したなと思ったら、突然、両翼をすぼめて立てたまま小刻みに羽ばたいて空中で一瞬停止した。この鳥独特な飛び方によるデスプレイ。きっと近くに雌鳥がいるのだろう。
道路の周囲は畑。年を追うごとに広くなっているように見えるが、事実だろう。
その廻りの草地には蕨(ワラビ)が顔を見せ始めた。特に焼いた草地には、背丈が短く太ったものが多い。トップを行く集団はさっさと歩いて行くが、中ほどからバラけた人たちは、蕨狩りを始めた。

 ガードレールが谷側に向かって折れたり、ひん曲がったりしている。雪崩の痕跡だ。
場所も考えないで土建業者が仕事をするし、国も県もそれに任せきりだからこうなる。これも公共事業の一つに違いない。となれば税金の無駄使いは明らかだろう。
 歩いている道路は農水省か県の農林部あたりが管轄する「農業用道路」だ。農家に農産物の栽培方法や生産技術、増収や増益のための手法、農家のあり方や農業人としての生き方、農業思想や家族観の形成、生産する喜びと農家の理想社会、真の農業や地域の振興などを指導する役所は、今や「道路敷設や土木工事を発注する役所」に変わってしまった。

昔はこの辺りからよく見えた「黒ん坊沼」が見えなくなってしまった。周囲が畑地となってしまい、乾燥が進んだことにより「湿地」が少なくなり、「湿地・湿原」性の草本が減少したところに「樹木」が入り込んだ結果だ。「沼」の周りはうっそうとした「雑木」で囲まれている。これでは見えるわけがない。
 大白沢の橋を渡る。立派な橋だ。冬の間封鎖されて通行出来ない道路なのにどうしてこれほど頑健で立派な橋が必要なのだろう。冬季以外だってどれだけの人や車が通るというのだろう。この辺りは国有林地帯だから管轄は林野庁かも知れない。
 林野庁は「森を育てること」や「樹木を育て国土を保全」するという目的を棄てしまったようだ。農水省と同様に、堰堤や橋梁、それに道路を造り、自然を壊す役所に堕落してしまったのだ。
 岩木山赤倉沢の堰堤は、現在は上部の規模の小さいものを含めると十五基もある。なぜあれほどの数の堰堤が必要なのかさっぱり解らない。
 「事故や被害が起きてからでないと工事など滅多にしない」官庁行政の一つである農水省林野庁が「土石流発生やその被害」がまだない赤倉沢に巨費を投じて巨大な堰堤を十数年もかけて、なぜ建設したのか、その理由がよく解らない。
 解ることはただ一つ、「公共事業を作り出すための工事」であろうということだ。これらに国土交通省を加えると、公共事業請負三省庁揃い踏みというところだろうか。
 橋を渡ったところで、左に尾根への取り付きが見える。かなり幅が広くしっかりとした踏み跡があるので直ぐに解る。
「あれはどこへ続いているのだろうか。」と何人からか訊かれた。「西岩木山林道や二子沼への道につながっていると考えられる」という答えにとどめた。
 ここから入ると二子沼の脇を通り、追子森登山道を経由して石倉・若松のに出ることが出来るし、もちろん山頂に行くことも可能となる。
 ここの橋を渡りきったところから逸れて、「岩木山一周歩こう会」のコースに自然いっぱいの「山道」コースを設定したらどうだろうか、という提案である。
 時間は少しかかり、健脚向きになるだろうが、ブナ林とその中にたたずむ神秘の沼二つ…すばらしい自然散策が楽しめることは百パーセント可能なはずだ。
 だが、主催者側には、そのような「構想」はないようだし「工夫」もない。ただ、前年のものを「引き継ぐ」ことにだけ汲々として、その上「合理性」だけを図っているようにしか見えない。残念なことである。

メモ:
「ハチクマ」鷲鷹(ワシタカ)の仲間で低山の林に棲み、ハチの幼虫やさなぎを餌とする。羽毛は灰褐色。
「堰堤」(えんてい)洪水や土石流をくい止めるための堤防・ダムのこと。床固(とこがため)とも言う。現在では無駄なものの象徴として、ダムはムダと呼ばれている。

360度、姿を変える岩木山(13)04年6月6日、鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデについて

2008-06-18 06:38:26 | Weblog
(今日の写真は敷設された当時の岩木山一周環状道路から南東に逸れて、笹森山の西麓から「黒ん坊沼」の上部を通り、松代地区石倉へ抜ける「新道」に入ってから間もなくのところから写したものである。
 右側の樹木はスギである。その陰になっている山が笹森山だ。これは岩木山の「寄生火山」なのである。
 前景に見えるピンクの花はスイカズラ科タニウツギ属の「タニウツギ」だ。これは夏を私たちに教えてくれる花である。昔からタケノコ採りの人たちは「がじゃばな(タニウツギの別名)咲けばタケノコ採りに行くあ」と言って「タケノコ採り」の時期を判断する「指標」花としてきたのである。
 弘前では「ガジェ」、周囲の農村では「ガジャ」または「ガジャシバ」と呼ぶが「ガジェ・ガジャ」の原意は不詳と「弘前語彙(松木明著)」にはある。
 日本海側の多雪地帯に多い落葉低木で、葉は対生し、裏側は全体に白い毛が密生している。新潟、富山、長野、石川、鳥取県などでは「タウエバナ(田植え花)」と呼ぶそうだ。「田植えのころ」に花を咲かせるからだ。同じ理由で島根県では「サオトメウツギ(早乙女空木)」と呼んでいるそうである。
 そういう意味では「大事」にされてきた花なのだが、津軽の人たちが、この花を手折って持ち帰り「花瓶」などに挿して「眺め楽しむ」という慣習はない。それよりも忌み嫌う傾向があるのだ。
  その忌み嫌う理由ははっきりしないが、色々と人が言うことをまとめてみると…
「枝や幹が空洞であることで芯がない」ことや「火葬後の遺骨拾いにこの枝を箸にして使った」こと、また「枝が中空で軽いので、死出の旅立ちにこの枝を杖として持たせた」こと…などからということになるようである。
 だが、花を忌み嫌ったが実用としていた事例がないわけではない。弘前市の目屋地区や西目屋村では、この枝を、腐敗が少ないという理由から「干し柿」の軸木として利用していたというのだ。

 前にも書いたが、この「逸れて入る」道は「新道」である。名目は「農免道路」となっている。「生活道路ではないよ」ということらしい。それを根拠づけるかのように道路両側には畑が広がっている。
 これら畑についても「疑問」がある。この場所はスキー場と同じく「津軽国定公園」地内である。スキー場は林野庁に借地料を微々たるものだが、支払っている。それでは、畑の耕作者はどうなのだろうか。国定公園を管理する「環境省」などとはどのような法的関係があるのだろうか。それともまったくなく「自由」なのだろうか。
 この「新道」を使うと松代地区までの距離が10km縮まる。そして、それは標高450mほどの「峠」からジグザグを繰り返しながら標高150mほどの白沢に下るという行程を省くことにもなるのだ。
 数年前から「岩木山一周歩こう会」は、この「新道」を通ることにしている。「距離を10km」縮め、所要時間を2時間以上短縮はしたが、この措置は単なる「合理化」と主催者による「ご都合主義」以外の何者でもないと私は思っている。
 歩くが故に「よく目につく」ことは多い。距離が長ければその確率は高くなる。「距離と時間の短縮」は、「自動車的な文明的発想」であって「歩くスピード」からのものではない。
 それ故に「失った」ことも多いはずだ。先ずは、「山麓の一周を歩く」という主旨から、ルート的には外れたということである。一周には違いないが「円周率」からの円ではなく、それは「歪(いびつ)」な、単なる周囲の道でしかなくなったことである。
 また、そのことは白沢と「峠」までの道路敷設が、いかに「無理」をしての「難工事」であったのかという痕跡と、その「無理」のかげでどれほど無謀な「自然破壊」をしたのかという痕跡を私たちの目に触れさせないという結果をもたらしたのだ。
 もっとも、残念なことは、鰺ヶ沢町の「既存」のである「白沢地区」を通らないということである。峠を降りてから辿る道はまさに「生活道路」である。これには歴史がある。居住区域として何世代にも渡ってそこで暮らしてきたという歴史がある道沿いなのである。そのような風情や歴史に触れながら歩くということを、言ってみれば私たちが日常の中で失いつつあるものに触れるという機会を自ら放棄したのである。
 「岩木山一周歩こう会」の発案者としては、このような価値が「議論もされないまま」うち捨てられていくことには限りない寂寥感を持つのである。)

       ◆◆鰺ヶ沢拡張スキー場のこと◆◆
(承前:全回に続く)

 1989年、「白神山地・青秋林道反対」は全国的な動きとなり、全国から多くの支援があった。その動きが結果的に、日本の「世界遺産・白神ブナの原生林」を生み出し、今に残したのである。
東北の、青森という田舎の、岩木山という山の一部にスキー場を拡張する事は「地理的」には地域の問題かも知れない。しかし、それが「株式会社コクド」という全国規模で展開する大企業がすることであり、それに対する許認可が住民不在のまま、行政がこぞって隠密裏な行動の中でなされていくという実態や自然が破壊され、日本人共通の「富士山憧憬」につらなる「津軽富士・岩木山」の景観が毀損される等を知ることは、全国民にとっても大切なことではないだろうか。
21世紀は「自然との共存と共生」の世紀である。開発によって自然を破壊してきた人間の行為に対して、実際的な反省をしなければならない時に至っているのである。
また、一方では「地方の時代」の始まりでもある。住民1人1人が「正義と権利意識」を持たなければ、民度の高い地方自治体にはならない。
 そして、この権利の中に「環境権」というものを育てていくためにも私たちの運動は重要であろうと考えたのである。
このことは都市、農村を問わず、日本国民共通の課題であろう。この「スキー場拡張問題」も、日本国民全体が考えなければいけないことだと思うのだ。
 1989年の白神問題のように、本州の最北の地から市民権と地方の時代をひっさげて全国に訴えなければいけないと、その時には真剣に考えたのである。
そして、「地方の時代をより自主的に、倫理的な権利意識を発揮することで自分を本物の市民にしていくために、「拡張工事差し止め訴訟の原告団」はその数を増やしていったのである。

360度、姿を変える岩木山(12)04年6月6日、鰺ヶ沢スキー場と畑について

2008-06-17 05:56:05 | Weblog
(今日の写真は環状道路の長平旅行村入口付近を通過して「黒ん坊沼」方向に左折する辺りから写したものである。このように開墾され切り開かれているとよく岩木山が見える。そして「よく岩木山が見える」と必然的に「森林を虎刈り頭にしてしまった鰺ヶ沢スキー場の全容」がよく見えるのである。
 写真の説明をしよう。左側の2本のバリカン跡が「多数の上級者のニーズに応える」といって開設して、実際は「アジア大会モーグルスキー競技会場」として使われたゲレンデだ。「多数の上級者のニーズに応える」というので、それではそのことを要求している「上級者の実数はどのくらいなのか」また「もし、よければその上級者たちの氏名の公開」を要求したが「株式会社コクド」からは何の回答もなかったものだ。
 その2本のゲレンデから右に辿ると無数のバリカン跡が見えるだろう。ゲレンデは蛇行していて真っ直ぐではないので、それぞれが「陰」をつくり全容は見えない。見えている「バリカン跡」の上部にも下部にもゲレンデが続いている。拡張ゲレンデを含めると12本のゲレンデがあり、それにそって「リフト」や「ゴンドラ」のための「索道鉄塔敷設」の「バリカン跡」がある。このために伐採された樹木の総数は恐らく数え切れないほどに莫大であったろう。
 左側の「拡張」部分ですら、ブナは3000本、ヒバも1500本、ミズナラ等の雑木の類を入れると10.000本近い樹木が伐られたと推定される。
 写真では見えないゲレンデの最上端が「ゴンドラ」終着駅のある場所で標高は1000m近い。本数、ゲレンデの横幅と上下の距離から算出されるスキー場の総面積はまさに岩木山の北面を埋めつくさんばかりなのである。
 「拡張」部分の横幅は特に広い。これは「観客用のスペース」を設営したからである。
「拡張スキー場」のことについてもう少し触れてみたい。

拡張部分の伐採が始まる前の3月から4月にかけて、「本州産クマゲラ研究会」と「本会」は合同で拡張部分のクマゲラ調査をした。そして、クマゲラの採餌木を発見し、この場所がクマゲラの生息地であることを確認したのである。しかし、森林管理局の姿勢は「解らない」、県自然保護課は「営巣木がないから、伐採しても影響はない」との見解であった。
また、森林伐採による拡張であるから、伐採工事部分の下流にある大鳴沢川流域農民が「鳴沢川を守る会」を結成した。そして「拡張反対」と「水源の管理・涵養保安林の指定」等の申請及び要望書を提出したが、県からも森林管理局からも何の回答もなかったのである。
 私たちは「コクド」と行政のこの「無視」に徹する態度を許すことが出来なかった。権力に座して一般民衆の願いを無視することは、まさに民主主義の蹂躙ではないか。
私たちは基本的に民主主義的な反対運動を望んでいた。だからこのような「無視する行為」に対して、遵法的な運動には何があるのかと考えた時、「工事差し止め請求訴訟」に行き着いたのであった。そこで、原告を募り、提訴したのだ。
 ところが、コクド側は「拡張工事の計画がないから、訴えを取り下げろ。」と裁判所を通して言ってきたのだ。これは一体どういうことだろうか。
ところが軽微な工事は既に5月に始まり、大工事のための前工事が7月に入って始まっていた。
 本会の幹事会では「工事を実力で阻止する運動などは避けるべきである」との決議をしていた。一方で、「森林は伐採されたら終わりである」との思いもあった。私個人としては「工事を実力で阻止する」こともすべきだと幹事会で主張した。いずれにしても本会は、この二つの思いの狭間で、正直なところもがいていたのである。
「鳴沢川を守る会」と「本会」では第二回公判を前に原告団(井上祐一代表)の結成をし、「拡張工事で森林を伐採すれば、山が育む水資源に依存している農民の生活権を、また市民の景観を含めた環境権を侵害することになる。一企業による無謀な拡張工事を社会正義から許すことは出来ない。工事着工阻止のため公正な判決が下されるまで戦う。」ことを決議した。
 加えて、100年以上前に書かれた「用水田山絵図面」を熟読しながら、先人が残した「田山を守ること」と裁判のあり方について学習会を開き、実力行動の重要性を確認したのである。そこで、公判の前にデモ行動をし工事中止を求める要求書提出を決めたのであった。
 公判の日の午前中、約1時間のデモ行進をし、要求書をスキー場副支配人に提出し、午後からの公判には農民・市民の関心も高く傍聴席は満員となった。なお、100人を越えた「原告団」は「工事差し止めの仮処分の申請」をする意向を明らかにしたのであった。原告はその後、倍々に増える傾向をたどった。
 ところが、「鰺ヶ沢スキー場」に提出した要求書の回答もないまま、工事が行われていたことから急遽、車30台、60人が参加して2度目の抗議デモ行進を、スキー場付近で実施し、その後集会を開きスキー場藤田支配人に要求書を再度手渡したのである。
 その日は隣接する同社ゴルフ場でアイフルカップの決勝があり、関係者と見られる男性3人がデモコースの町道に座り込みをして、私たちデモ隊を約20分にわたって阻止したのである。ところが、デモの指導にあたっていた警察は、それを黙認していたのであった。私たちは「アイフル」と県警察に強く抗議をしたのである。
 その後、「木で鼻をくくるような内容の回答」が郵送されてきた。しかも「コクド」社長宛の要求書であったのに回答者がコクド社長でなく、現地スキー場支配人であったのだ。そこで、私たちは、その受け取りを拒否した。
「長野オリンピック」の時、コース設定に関しては「樹木伐採をしない」が原則で、これは厳守されたのである。冬季アジア大会の元締めは同じオリンピック委員会だ。どうして「アジア大会」では、この原則から逸脱していいのか。
 まったくもって青森県民をバカにした話しなのである。これを木村前知事が主導していたのだから「知事が県民をバカにしている」ということになるだろう。
 そして「このような人物を知事に選ぶ」のだから、私たちも結局のところ「バカな県民」ということになるのであろうか。(明日に続く)

360度、姿を変える岩木山(11)04年6月6日、鰺ヶ沢スキー場と畑について

2008-06-16 04:42:52 | Weblog
(今日の写真は環状道路の長平旅行村入口付近を白沢に向かった辺りから撮ったものだ。前景は「畑地」である。中景は山腹下部から続く雑木林であり、後景が山腹・山頂を含んだ岩木山の山容である。
 後景の下部左側には「拡張の計画はない」→「上級者がより難度の高いコースが欲しいと言っている、その要望に応えるために拡張する」→「アジア冬季大会の競技会場と関連性はない」と言いながら、結局は「アジア冬季大会でモーグルスキー競技会場にした」拡張スキー場が見える。
「拡張スキー場の計画」があるという情報を得たのは1997年であった。本会は「計画があるのか、ないのか」を株式会社コクドと当時の営林署に質問状という形で訊いたが、「ない」の一点張り、行政当局も「知らない」の一点張りであった。
東奥日報や陸奥新報の投書欄には1997~2000年に月平均3以上の「拡張反対」の意見が掲載されていた。私も10回投稿し、そのすべてが掲載された。
 その頃、「岩木山を考える会」で毎年実施している「岩木山写真展」で、「岩木山にスキー場は必要か」というアンケートをとった。その実績は、「来観者約1000名中回答者が約700名、その中のわずかに2人が必要と答えたにとどまっていた。大多数の地域の人が、「今ある以上のスキー場もその拡張をも」望んでいないのであった。
ところが、株式会社コクドも町、県、林野庁も知らないという態度を頑なにとり続けた。その間、林野庁には事業内容の縦覧があった際に反対意見を100名単位で提出したが、事業計画にないことなのでという理由で無視された。
  拡張計画が明確にされたのは1999年2月だった。ただし、これは私たちに文書で回答されたものでなく、当該「鰺ヶ沢町の広報誌」によるものであった。
 それは「計画はない」「計画は知らない」と言っていた割にはずいぶんと整ったものであった。
私たちはその後、アセスメントの不備、間違い等を指摘したがこれらについても誠意ある回答は得られなかった。とにかく、「株式会社コクド」も行政も私たちの要望、地域住民の生の声には全く耳を貸さず、「ノーコメント」と「徹底した無視」を決め込んだのである。「無視」が「いじめの一種である」ことは小学生でも知っている。いじめをいいことだと言う人はいないが、行政は率先して無視を続けた。
 そして、2000年の6月26日に森林管理局は拡張工事へのゴーサインを出したのであった。
 「株式会社コクド」が「上級者がより難度の高いコースが欲しいと言っている、その要望に応えるために拡張する」という「拡張理由」が、一番経営的には「先見性」のないもので、しかも矛盾することであった。
 どだい、「スキー上級者」というのはスキー人口の中で一番数の上では「少ない」ものだ。経営的に「儲け」を考えると多数の利用者ということが絶対の条件になる。多数の利用者を望めないことなのに、どうして「株式会社コクド」たるものが「スキー場」を拡張するのかは、私たちにとっては「常識的」に疑問だった。これは最初から木村前知事と組んで「アジア冬季大会でモーグルスキー競技」の会場とするという密約があったからである。
 雑誌「週間金曜日」の記事によると、知事は事前にコクドの堤会長と当地ホテルで会っていたそうだ。県民をつんぼさじきに置いて「トップ同士が密約をしている」といえる構図である。
「アジア冬季大会」がやれさえすればそれでよかったのだ。資金援助から、さらにそれを含めた「後始末」には県や町から相当の金が流れたのだろう。「株式会社コクド」はまず自分の懐を痛めてはいない。「開催費が8億円から56億円にふくれ上がった」理由もこの辺にあるのだろう。そして、鰺ヶ沢町がスキー場のためにつぎ込んだ分、鰺ヶ沢町の財政は逼迫した。そして現在、北海道夕張市なみの「赤字再建自治体」に堕しかかっている。
 さて、写真の右に視点を順次移動して欲しい。
 中腹部下部に見える「樹林帯の伐採地」はすべて、既存のスキー場である。これは「白神山地・青秋林道建設反対運動」のさなかに、その間隙を巧みに利用して白神山地の東回廊に位置する岩木山にスキー場を開設、営業を開始したものである。
 その後、年次進行で、ゲレンデを拡張してきた。しかもそのやり方は「狡猾」過ぎるものだった。それは、法的にはアセスメントが要求されない限度ぎりぎりの面積を拡張して、総合的に広げていくという、実にずる「賢い」ものであった。現在は大小12本のゲレンデを擁する大スキー場になっている。まさに岩木山の北面とその山腹を蹂躙するかのようである。)